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第三の席

作者: 江藤ぴりか
掲載日:2025/12/13

 異変に気づいたのはいつだっただろうか。夫は気づいているんだろうか。


 かえでは最近、気にかかることが増えた。

 食卓にいつのまにか増えている箸の数。

 刻んだ覚えのないまな板の切り傷。

 乾かした覚えのない皿が食洗機から出てくる。


 夫・倫也りんやは「気のせいだよ」と笑う。

 たしかに、言われてみれば、そうかもしれない――そう思おうとする。

 しかし、この家にいるのが、本当に二人だけかという疑念は消えない。


 ピーピー。

 ……まただ。十三時半、食洗機からアラームが鳴り響いた。

「今日はまだお昼なんて食べてないのに」

 楓は首を傾げる。キッチンに向かい、食洗機のドアを開けると平皿がひとつ、スプーンもひとつ。どれも使ったあとすぐに戻されたように、きれいに揃っていた。

 冷蔵庫を開けると、今日食べようと思っていた冷凍チャーハンがなくなっている。

「倫也さんが夜中に食べたのかしら……。それならなにか言ってくれてもいいのに」



「ただいまー」

 二十時すぎ。倫也が帰宅してきた。猫背気味のスーツはネクタイを緩め、玄関にカバンを放り投げた。

「おかえり。昨日の夜、私の冷凍チャーハン、食べたでしょ? そのせいでお昼食べれなかったんだからね」

 倫也が目をこする。指の間からはクマが覗いていた。

「いいや? おれは知らないぞ。楓が寝ぼけて夜食に食べちゃったんじゃないの?」

 そんなはずはない。主婦業とリモートワークのストレスで、睡眠薬をもらっており、毎晩ぐっすり眠れているはずだ。

「……まぁ、いいわ。今日は簡単なものでいいよね?」

 この聞き方はずるかったかも。今の彼に選択肢なんてないのに。

「おれはなんでもいいよ。楓も仕事と家事の両立で疲れているだろうし、作ってくれるだけ、ありがたいさ」

 その言葉で、楓は胸を撫で下ろしたのだった。


『僕はこの世界で、やるべきことがある!』

『わたくしも勇者様についていきますわ!』

 晩御飯のお供に、二人はアメプラでアニメを観ていた。テレビの大画面で見るアニメは、スマホやPCで観るのとは違う面白さがある。

「……なぁ、いつからドラマでもなく、映画でもなく、アニメを観るようになったんだっけ?」

 倫也がご飯を口に運びつつ、テレビを見ながら呟く。

 ……そういえばいつからだっけ? ウォッチリストには異世界アニメや日常アニメが並んでいた。いつから? 楓たちの趣味からは離れているのに。てっきり倫也が追加したものだと思い、再生している。

「いつからかしらね。観たかったんじゃないの、アニメ」

「いいや?」

 アニメのコメディちっくな場面で誰かが笑った気がした。



 ――カシャン。

 二十一時十二分。玄関からチェーンをかける音がした。

 二人は食卓でアニメを視聴している。

「いつも思うんだけど、この時間になると施錠される気がするね」

 楓が頬杖をつきながら、問う。

「そうだな。鍵だけでも十分だけど、チェーンもしたほうが安心だしな」

 倫也も疲れた声色で答える。

 そっか、そうだよねと頷き、楓は考えるのをやめた。


 彼女がアメプラを終了させ、食器を片しているとふと、気づいた。

 ……まただ。箸の数がひとつ多い。彼はこのことに気づいているのか? でも、仕事で疲れているのにこんな話をしても、疲れが増えるだけだろう。

「病院に相談しようかしら……」

 子どもができたらこの疲労も倍以上になるのかしら。そう思いつつ、コーヒーの用意をするのだった。

 背後で食器が小さく鳴った気がした。



 翌朝。

 洗面器のコップは等間隔に三つ並んでいる。ひとつは使ったばかりなのか、水滴が表面を伝っていた。

 寝ぼけ眼の倫也は楓のものだと認識した。

「あ、シェービングクリーム……買い足さないとな……」

「ふあぁ……。おはよ……」

 楓が洗面台にやってきた。彼女は寝グセで跳ねた髪を梳かしながら、倫也に声をかける。

「ヒゲと歯みがき終わったら、ちょっと退いてね……」

 使っていたのは誰なんだろう。


 朝食を終え、楓が洗濯物をハンガーにかける。

 そのあいだに、倫也はビジネスシューズを磨いていた。ついでに楓の靴も磨いてやろうかと、ラックを見ると一足の見慣れぬ靴が。

「新しい靴でも買ったのか?」

 そう思い、取り出すと二十二センチの小さなスニーカーだった。

 楓は二十四センチだったはず。カジュアルな靴というのもおかしい。彼女は最低五センチのヒールを好むのに。

 これは誰のものだ?

「あれ? また余っちゃった」

 楓はないはずの洗濯物をハンガーを片手に探している。

「いっつも、もうひとつあるはずって思っちゃうんだよね……」


 倫也が休日なので、重いものをまとめ買いしに外出した時だった。

「おー、佐伯さえきさんとこの」

 近所に住む田中のおばあちゃんだ。挨拶しようと口を開くが、おばあちゃんはそれを待たない。

「この前、三人で歩いていたねぇ。仲良さそうにさ。親戚かなにかかい?」

「えっ、ぼくたち二人のはず――」

 倫也の声もさえぎる。

「小柄な人でねぇ。すぐうしろを歩いていて、あららーと、思っていたんだけどね。じーっとお二人を見ていたよ。なんだか顔が思い出せんのよ」

 二人は顔を見合わせ、おばあさんに作り笑いを返した。

「ともかくねぇ、あんたらも早く子ども作んなさいよー。それじゃあね」

 田中さんはいそいそと去ってしまった。


「三人、だって」

 買い物中、楓が呟く。

「ああ」

 倫也の頭の中には『浮気』の文字がちらついていた。しかし、考えれば考えるたび、否定されてしまう。

 小柄な人物なのは二十二センチのスニーカーで証明済みだ。田中さんとの証言と合致する。そして、三人で『仲良く』歩いていたということは、おれもそこにいるはず。

 噂好きのおせっかいばあさんが、顔が思い出せないということは、平凡な顔立ちだろう。おれたち夫婦は派手な方ではないが、地味でもないはずだ。なのに、仲が良さそうと判断した?

 楓の様子を見ると、顔が青いように思う。頬は昔よりほっそりして、すっかり大人の雰囲気だ。

「なぁ」

「んー?」

 サラダ油を吟味する彼女に問いかける。

「シューズラックにスニーカーがあったけど、買った?」

 彼女の顔がこわばる。

「知らないけど……倫也のじゃないの?」

 買い物かごが油の重さで沈む。

「二十二センチなんて、入るはずないだろ?」

 彼女の足が止まる。

「私も入らないよ。二十四センチだもの」

 雑踏の音はおれたちには届かない。

「ずいぶん使い込まれていたんだけどな」

 帰宅するまで記憶が飛んでいた。


 帰ってからも二人は黙々と自分の用事を済ませていた。

 楓はワイシャツにアイロンがけ、倫也はカバンの整理といった具合に。それはなにかから逃げているような行動だった。

 しかし、二人の思考はいるはずのない三人目の存在に馳せている。

「きゃっ」

 楓の悲鳴にダイニングに駆けつけると、倫也が置きっぱなしにしていたメモ帳が目に入った。

「ゴキブリか?」

「ち、ちがっ……! メモ、ちょ……見て……」

 楓は青ざめ、体を震わせている。


『きょうも ふたりは やさしい』

『あしたも いられると いいな』


 おれの字じゃない、楓の字じゃない。つたない字で書かれた『それ』は押し出されたままのボールペンの筆跡だった。


 部屋が急に冷えた気がする。

『誰か』が近くにいる。見えないのに、ここにずっといる。そんな空気を二人は感じていた。

「もうやだぁ、倫也ぁ! ここに住みたくない!」

 泣きじゃくる彼女を抱き寄せ、やさしく頭を撫でる。

「……落ち着けって。今日は晩御飯は置いといて寝よう。寝れば怖い思いなんて忘れるさ」

 倫也の腕の中で震える楓を誘導して、寝室に移動した。



 彼女が泣きつかれて眠るまで、倫也は背中を叩いたり、腕枕をする。疲れて眠った楓のクマを撫でると、時間を確認した。

 午前一時半。もうこんな時間かと、あくびをすると扉から三回ノックされた。

 ドアの隙間から、ゆっくりと影が伸びてくる。地を這うそれは倫也の危機感をあおった。


(……楓を起こしてはいけない。声を出すな、息を殺せ! 早くどこかに行ってくれ!)

 両手で自分の口をふさぎ、浅く呼吸する。彼女の寝息は安定している。おれがここで騒いでは、いけない。


 やがて影は小さくなり、ミチミチと家鳴やなりが響いた。

 倫也は胸を撫で下ろし、指についた涙に気づいた。

「……泣いたのは子どものころ以来だな」

 ぽつりと誰に言うでもなく、家に話しかけたのだった。



「……三人で暮らしていた気がする」

 翌朝、二人が同時に言葉を放つ。

「コップが多いのも、お箸が増えているのも、ハンガーが余るのも」

 楓がせきを切ったように漏らす。

「使い込まれた靴も、メモも」

 倫也も言葉を続ける。

「なんで気づいてあげられなかったんだろう……」

 夫婦の気づきは、もう遅かったのだろうか。


 食卓には三人分の朝食。

 ひとつの皿は湯気を残して空になっていた。

 玄関の靴はモンクシューズに、ハイヒール、スニーカー。


 その日以来、夫婦は食事のときは、第三の席を空けるようになった。

 深夜の三回ノックはずっと続いている。


 そのうち扉を開けてしまう日が来るのだろうか。

 開けてはいけないと、わかっているのに。

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