第三の席
異変に気づいたのはいつだっただろうか。夫は気づいているんだろうか。
楓は最近、気にかかることが増えた。
食卓にいつのまにか増えている箸の数。
刻んだ覚えのないまな板の切り傷。
乾かした覚えのない皿が食洗機から出てくる。
夫・倫也は「気のせいだよ」と笑う。
たしかに、言われてみれば、そうかもしれない――そう思おうとする。
しかし、この家にいるのが、本当に二人だけかという疑念は消えない。
ピーピー。
……まただ。十三時半、食洗機からアラームが鳴り響いた。
「今日はまだお昼なんて食べてないのに」
楓は首を傾げる。キッチンに向かい、食洗機のドアを開けると平皿がひとつ、スプーンもひとつ。どれも使ったあとすぐに戻されたように、きれいに揃っていた。
冷蔵庫を開けると、今日食べようと思っていた冷凍チャーハンがなくなっている。
「倫也さんが夜中に食べたのかしら……。それならなにか言ってくれてもいいのに」
「ただいまー」
二十時すぎ。倫也が帰宅してきた。猫背気味のスーツはネクタイを緩め、玄関にカバンを放り投げた。
「おかえり。昨日の夜、私の冷凍チャーハン、食べたでしょ? そのせいでお昼食べれなかったんだからね」
倫也が目をこする。指の間からはクマが覗いていた。
「いいや? おれは知らないぞ。楓が寝ぼけて夜食に食べちゃったんじゃないの?」
そんなはずはない。主婦業とリモートワークのストレスで、睡眠薬をもらっており、毎晩ぐっすり眠れているはずだ。
「……まぁ、いいわ。今日は簡単なものでいいよね?」
この聞き方はずるかったかも。今の彼に選択肢なんてないのに。
「おれはなんでもいいよ。楓も仕事と家事の両立で疲れているだろうし、作ってくれるだけ、ありがたいさ」
その言葉で、楓は胸を撫で下ろしたのだった。
『僕はこの世界で、やるべきことがある!』
『わたくしも勇者様についていきますわ!』
晩御飯のお供に、二人はアメプラでアニメを観ていた。テレビの大画面で見るアニメは、スマホやPCで観るのとは違う面白さがある。
「……なぁ、いつからドラマでもなく、映画でもなく、アニメを観るようになったんだっけ?」
倫也がご飯を口に運びつつ、テレビを見ながら呟く。
……そういえばいつからだっけ? ウォッチリストには異世界アニメや日常アニメが並んでいた。いつから? 楓たちの趣味からは離れているのに。てっきり倫也が追加したものだと思い、再生している。
「いつからかしらね。観たかったんじゃないの、アニメ」
「いいや?」
アニメのコメディちっくな場面で誰かが笑った気がした。
――カシャン。
二十一時十二分。玄関からチェーンをかける音がした。
二人は食卓でアニメを視聴している。
「いつも思うんだけど、この時間になると施錠される気がするね」
楓が頬杖をつきながら、問う。
「そうだな。鍵だけでも十分だけど、チェーンもしたほうが安心だしな」
倫也も疲れた声色で答える。
そっか、そうだよねと頷き、楓は考えるのをやめた。
彼女がアメプラを終了させ、食器を片しているとふと、気づいた。
……まただ。箸の数がひとつ多い。彼はこのことに気づいているのか? でも、仕事で疲れているのにこんな話をしても、疲れが増えるだけだろう。
「病院に相談しようかしら……」
子どもができたらこの疲労も倍以上になるのかしら。そう思いつつ、コーヒーの用意をするのだった。
背後で食器が小さく鳴った気がした。
翌朝。
洗面器のコップは等間隔に三つ並んでいる。ひとつは使ったばかりなのか、水滴が表面を伝っていた。
寝ぼけ眼の倫也は楓のものだと認識した。
「あ、シェービングクリーム……買い足さないとな……」
「ふあぁ……。おはよ……」
楓が洗面台にやってきた。彼女は寝グセで跳ねた髪を梳かしながら、倫也に声をかける。
「ヒゲと歯みがき終わったら、ちょっと退いてね……」
使っていたのは誰なんだろう。
朝食を終え、楓が洗濯物をハンガーにかける。
そのあいだに、倫也はビジネスシューズを磨いていた。ついでに楓の靴も磨いてやろうかと、ラックを見ると一足の見慣れぬ靴が。
「新しい靴でも買ったのか?」
そう思い、取り出すと二十二センチの小さなスニーカーだった。
楓は二十四センチだったはず。カジュアルな靴というのもおかしい。彼女は最低五センチのヒールを好むのに。
これは誰のものだ?
「あれ? また余っちゃった」
楓はないはずの洗濯物をハンガーを片手に探している。
「いっつも、もうひとつあるはずって思っちゃうんだよね……」
倫也が休日なので、重いものをまとめ買いしに外出した時だった。
「おー、佐伯さんとこの」
近所に住む田中のおばあちゃんだ。挨拶しようと口を開くが、おばあちゃんはそれを待たない。
「この前、三人で歩いていたねぇ。仲良さそうにさ。親戚かなにかかい?」
「えっ、ぼくたち二人のはず――」
倫也の声もさえぎる。
「小柄な人でねぇ。すぐうしろを歩いていて、あららーと、思っていたんだけどね。じーっとお二人を見ていたよ。なんだか顔が思い出せんのよ」
二人は顔を見合わせ、おばあさんに作り笑いを返した。
「ともかくねぇ、あんたらも早く子ども作んなさいよー。それじゃあね」
田中さんはいそいそと去ってしまった。
「三人、だって」
買い物中、楓が呟く。
「ああ」
倫也の頭の中には『浮気』の文字がちらついていた。しかし、考えれば考えるたび、否定されてしまう。
小柄な人物なのは二十二センチのスニーカーで証明済みだ。田中さんとの証言と合致する。そして、三人で『仲良く』歩いていたということは、おれもそこにいるはず。
噂好きのおせっかいばあさんが、顔が思い出せないということは、平凡な顔立ちだろう。おれたち夫婦は派手な方ではないが、地味でもないはずだ。なのに、仲が良さそうと判断した?
楓の様子を見ると、顔が青いように思う。頬は昔よりほっそりして、すっかり大人の雰囲気だ。
「なぁ」
「んー?」
サラダ油を吟味する彼女に問いかける。
「シューズラックにスニーカーがあったけど、買った?」
彼女の顔がこわばる。
「知らないけど……倫也のじゃないの?」
買い物かごが油の重さで沈む。
「二十二センチなんて、入るはずないだろ?」
彼女の足が止まる。
「私も入らないよ。二十四センチだもの」
雑踏の音はおれたちには届かない。
「ずいぶん使い込まれていたんだけどな」
帰宅するまで記憶が飛んでいた。
帰ってからも二人は黙々と自分の用事を済ませていた。
楓はワイシャツにアイロンがけ、倫也はカバンの整理といった具合に。それはなにかから逃げているような行動だった。
しかし、二人の思考はいるはずのない三人目の存在に馳せている。
「きゃっ」
楓の悲鳴にダイニングに駆けつけると、倫也が置きっぱなしにしていたメモ帳が目に入った。
「ゴキブリか?」
「ち、ちがっ……! メモ、ちょ……見て……」
楓は青ざめ、体を震わせている。
『きょうも ふたりは やさしい』
『あしたも いられると いいな』
おれの字じゃない、楓の字じゃない。つたない字で書かれた『それ』は押し出されたままのボールペンの筆跡だった。
部屋が急に冷えた気がする。
『誰か』が近くにいる。見えないのに、ここにずっといる。そんな空気を二人は感じていた。
「もうやだぁ、倫也ぁ! ここに住みたくない!」
泣きじゃくる彼女を抱き寄せ、やさしく頭を撫でる。
「……落ち着けって。今日は晩御飯は置いといて寝よう。寝れば怖い思いなんて忘れるさ」
倫也の腕の中で震える楓を誘導して、寝室に移動した。
彼女が泣きつかれて眠るまで、倫也は背中を叩いたり、腕枕をする。疲れて眠った楓のクマを撫でると、時間を確認した。
午前一時半。もうこんな時間かと、あくびをすると扉から三回ノックされた。
ドアの隙間から、ゆっくりと影が伸びてくる。地を這うそれは倫也の危機感をあおった。
(……楓を起こしてはいけない。声を出すな、息を殺せ! 早くどこかに行ってくれ!)
両手で自分の口をふさぎ、浅く呼吸する。彼女の寝息は安定している。おれがここで騒いでは、いけない。
やがて影は小さくなり、ミチミチと家鳴りが響いた。
倫也は胸を撫で下ろし、指についた涙に気づいた。
「……泣いたのは子どものころ以来だな」
ぽつりと誰に言うでもなく、家に話しかけたのだった。
「……三人で暮らしていた気がする」
翌朝、二人が同時に言葉を放つ。
「コップが多いのも、お箸が増えているのも、ハンガーが余るのも」
楓が堰を切ったように漏らす。
「使い込まれた靴も、メモも」
倫也も言葉を続ける。
「なんで気づいてあげられなかったんだろう……」
夫婦の気づきは、もう遅かったのだろうか。
食卓には三人分の朝食。
ひとつの皿は湯気を残して空になっていた。
玄関の靴はモンクシューズに、ハイヒール、スニーカー。
その日以来、夫婦は食事のときは、第三の席を空けるようになった。
深夜の三回ノックはずっと続いている。
そのうち扉を開けてしまう日が来るのだろうか。
開けてはいけないと、わかっているのに。




