知識の応用と経済の壁
商業都市アヴァロンでの試練が始まって三日が経過した。アステルは、市場の喧騒の中に身を置きながら、ひたすら「解析」を続けていた。
彼の前には、地面に直接指で書いた複雑な数式と、商人たちの動線を記した地図が広がっている。周囲には、焼きたてのパンの香ばしい匂いや、香辛料の鼻を突く刺激的な香りが漂っているが、アステルにはそれらがすべて「数値」に見えていた。
(価格変動は一定のアルゴリズムに従っている。供給量の減少、天候による輸送の遅延、そして市民の購買欲求の相関関係……これらを【暗号解析】のロジックで解けば、次に何が高騰するかは明白だ!)
アステルは、震える指先を必死に動かし、地面の砂に計算結果を刻み込んだ。彼は、なけなしの数銅貨(荷運びの報酬で得たもの)を、特定の「腐りかけの果物」の買い占めに投じた。理論上、裏通りのジャム加工場が明日の朝までに材料を求めて高値で買い取るはずだった。
しかし、翌朝。アステルを待っていたのは、無情な現実だった。
ジャム加工場の主人は、アステルの持ち込んだ果物を一瞥し、「ペッ」と地面に唾を吐き捨てた。
「こんな傷んだもん、一銅貨にもならねえよ。隣の街から新鮮なのが安く入ったんだ」
「えっ? ですが、あちらの街道は土砂崩れで封鎖されているはずです! 理論上、供給は断たれているはず……!」
アステルが食い下がると、店主は濁った、それでいて狡猾な目で彼を睨みつけた。
「おめでてえな、小僧。封鎖されてるって『噂』を流したのは、あっちの商人だよ。自分たちが安く買い占めるために決まってるだろ」
理論にはない「デマ」と「悪意」。アステルは、自分が導き出した完璧な数式が、人間の醜い欲望という不確定要素の前で、脆くも崩れ去るのを目の当たりにした。手元に残ったのは、酸っぱい臭いを放つ、茶色く変色した果物の山だけだった。
その日の夜。アステルは冷たい雨が降り始めた路地裏で、壁に背中を預けて座り込んでいた。
胃がキリキリと焼け付くような痛みを訴えている。無一文に戻り、数日間まともな食事も摂っていない。雨に濡れた石畳は、氷のように冷たく、アステルの体温を容赦なく奪っていく。
(僕は……また間違えた。知識さえあれば何でもできると思っていた。でも、バルト師匠の時と同じだ。僕は『数字』を見ていただけで、『人間』を見ていなかった……)
自分の武器である知性が「他者を出し抜く」ためにしか使えなかったことへの自己嫌悪と、計算が通用しない社会の複雑さに対する、深い無力感に苛まれていた。
リアの言葉と「信頼」薄れゆく意識の中で、アステルは村での記憶を思い出した。
子供の頃、アステルが拾った「ただの綺麗な石」をリアに見せた時。リアはそれを「アステルが見つけた宝物なら、きっと魔法の力が宿っているね」と言って、大事そうに笑ってくれた。
(リアは、石の価値を『鑑定』したんじゃない。僕のことを『信じて』くれたんだ……)
アヴァロンの市場で飛び交う「ヒューヒュー」という風の音と雨音の中で、アステルは気づいた。
商売の根底にあるのは、数式ではない。「この人の言うことなら信じられる」という、無形のつながり、すなわち「信頼」なのだと。
「……まだ、終わらせない」
アステルは、震える膝を叩いて立ち上がった。
彼は、腐りかけた果物を捨てるのをやめた。知識を使って、この「価値のないもの」をどうにかして「誰かの助けになるもの」へ変える。出し抜くための知識ではなく、救うための知恵。
アステルの瞳に、冷たい雨の中でも消えない、小さな「商人」としての火が灯った。




