商業都市への潜入と師匠
アステルがたどり着いた商業都市アヴァロンは、これまでのどの街とも違っていた。門をくぐった瞬間に押し寄せるのは、むせ返るようなスパイスの香りと、運河から漂う潮の匂いだ。
通りは、豪華な絹を纏った貴族から、薄汚れた荷運び人までがひしめき合い、「安くするよ!」「そっちは高すぎる!」という怒号に近い値切り交渉の声が絶え間なく響いている。
(ここがアヴァロン……。剣の鋭さではなく、言葉の鋭さが武器になる場所だ)
アステルは、グラード先生に渡されたメモを頼りに、裏路地へと足を踏み入れた。表通りの喧騒が嘘のように消え、湿った石畳には冷たい影が落ちている。
たどり着いたのは、看板すら出ていない地下の酒場だった。扉を開けると、熟成されたワインの甘酸っぱい香りと、誰かが吸っている煙草の紫煙が鼻を突いた。
酒場の最奥、ランプの火が弱く揺れるテーブルに、その男はいた。
元・大商人フィリウス。白髪混じりの髪を綺麗に整え、一見すると穏やかな老紳士だが、その瞳は獲物を値踏みする鷹のように鋭く、アステルの全身を瞬時に走査した。
アステルが挨拶をする前に、フィリウスは手元のグラスを軽く揺らし、氷がカチリと鳴る音を響かせた。
「グラードの秘蔵っ子か。体つきは【戦士】、気配の消し方は【盗賊】……だが、その目はまだ、何も持たない【村人】のままだな」
フィリウスは、アステルの目の前に一枚の真鍮のコインを置いた。
「この街では、知識も筋肉も、それ自体に価値はない。価値とは、『他人にどう思わせるか』で決まる。グラードは貴様に、知識を資産に変える術を教えろと言ったが……さて、貴様にその覚悟があるかな?」
(グラードが目をかけるだけはある。多職の気配を混在させながら、核にあるのは純粋な知性だ。だが、商売は綺麗事じゃない。まずはこいつの『プライド』をへし折ってやる必要があるな。)
フィリウスは、アステルに冷酷な条件を突きつけた。
「ミッションをやる。条件は三つ。一つ、武器も防具も、今持っている金も全て預けること。二つ、ギルドの支援は一切受けないこと。三つ、一週間以内に、無一文から金貨十枚を稼ぎ出せ」
金貨十枚。それは普通の村人が一年かけて稼ぐかどうかの大金だ。
「……武器も、金もなしで、ですか?」アステルは思わず自分の空になった懐を強く握りしめた。
村を出る時、リアが「何かあったらこれを使って」と持たせてくれた銀貨があった。あの時、自分は「持っていること」に安心していた。今の自分は、その安心感さえも捨てなければならない。
今までのレベルアップは「自分の力」を増やすことだった。しかし、今回は「環境を利用する力」が試されている。アステルは、自分の知識が、道具や武器がない極限状態でどこまで通用するのか、恐怖と同時に「証明したい」という強い欲求を感じていた。
アステルは、愛用の木剣とわずかな所持金をフィリウスに預けた。身に纏うのは、ありふれた村人の服一枚。
「一週間後、ここで待っているよ。もし一銅貨でも足りなければ、貴様を奴隷商に売り飛ばして、授業料の足しにさせてもらう」
フィリウスの言葉に、アステルは乾いた喉を飲み込んだ。
酒場を出たアステルの目の前には、相変わらず活気に満ちた、しかし今は巨大な怪物の胃袋のようにも見えるアヴァロンの街が広がっていた。
(STRもAGIも、この試練では直接の解決策にならない。僕にあるのは、グラード先生に叩き込まれた膨大な知識と、暗号解析の思考回路だけだ……!)
アステルは、足元に落ちていた汚れた羊皮紙の切れ端を拾い上げた。そのザラついた感触が、彼にとっての唯一の武器になった。
「やってやる。知識が金を生むことを、僕が証明してみせる!」
泣き虫だった少年は、今、剣を捨て、知恵という名の目に見えない刃を研ぎ始めた。




