知識を捨てる 風の丘とレベルアップの壁
アステルがたどり着いた「風の丘」は、街から少し離れた場所に位置していた。丘の上は常に強い風が吹き抜けており、その「ヒューッ」という連続的な風切り音が、まるで天候がアステルを試しているかのようだった。
丘の頂には、一本の巨大な古木がそびえ立っていた。その幹は年輪を深く刻み、冷たい石のようにゴツゴツとした感触を持ち、アステルが目標とする薬草は、風を避けるように最も高い枝の先端にのみ生えていた。
アステルは、リュックを地面に置いた。リュックの中には、知識の古書は入っていない。入っているのは、リアが持たせてくれた干し肉と、簡単なロープだけだ。
(知識は捨てる。頭で考えるな。ただ、体を動かせ)
彼は手のひらに唾を吐きつけ、古木の幹に触れた。
アステルは登り始めた。しかし、彼の身体能力(AGI、STR、VITの全てが【村人】の頃から大して上がっていない)は、彼の熱意に全く応えなかった。
彼は理論で「古木の節を利用し、重心を常に幹に近づける」と知っていた。しかし、体を動かすとすぐに指が滑り、筋力が悲鳴を上げる。
一度滑り落ち、二度滑り落ち、三度目には地面に尻もちをついた。
「くそっ!」アステルは悔しさに、地面の砂を強く握りしめた。手袋をしていない彼の掌は、古木の樹皮で擦れてヒリヒリと熱い。
村で畑仕事をしていた時、鍬を振るうたびに「力がない」と笑われた。あの時の無力感と、今の体が動かない苛立ちは、全く同じだ。
(このままでは、またリアに置いて行かれる!リアなら、こんな古木、一瞬で登り切るだろう!)
自分の身体能力の低さへの絶望感と、リアへの強い追いつきたいという願望が、彼の闘志を再燃させた。
アステルは、呼吸を整え、再び古木を見上げた。彼の目には、もはや理論やジョブ理論の矛盾は見えていない。ただ、登るべき樹皮の微細な凹凸だけが見えていた。
彼は、意識的に思考を停止した。
登る。滑る。手をかける。踏ん張る。
何度も何度も、体が限界を超えて痙攣し、筋肉は悲鳴を上げるが、アステルはただ繰り返した。強い風が彼の耳元をゴウゴウと吹き抜けるが、彼の意識は、自分の体と古木の幹との間にだけに集中していた。
太陽が空の中心を越え、丘の上に熱い陽光を注ぎ続けている。そして、数百回目の挑戦の末、アステルの体は、意識とは無関係に、微細な体重移動と指先の力加減を調整し始めた。突然、彼の体の奥底で、何かが弾けるような、鋭い感覚が走った。それは、村で魔法を発現させた時とも違う、純粋な肉体の覚醒だった。
【見習い盗賊】のレベルが、3に上昇した。
そして、【身体能力(AGI)】のステータスが、初めて「1」を突破し、「3」に上昇した。同時に、【隠密】スキルもレベル3に上がった。
レベルが上がった瞬間、彼の全身を襲っていた疲労と筋肉の痛みは、一瞬で霧散した。まるで、新しいオイルが注がれた機械のように、彼の体は軽くなっていた。
アステルは、滑らかに古木を登り始めた。さっきまで手が届かなかった枝にも、容易に手が届く。
(体が軽い!これが、レベルアップ……!)
彼は一気に頂上まで登り切り、目的の薬草を採取した。その葉は、強いミントのような、清涼感のある香りを放っていた。
古木の上から、アステルは遠くの街を見た。訓練場は遠すぎて見えないが、リアが懸命に訓練している姿を想像できた。
彼は、薬草を大事そうにローブの内ポケットにしまい、丘を降りた。
降りる途中で、地面に倒れていた古びた木剣を見つけた。それは、以前の彼が【村人】として使おうとして、重すぎて持てなかったものだ。
アステルは、その木剣を拾い上げ、軽く振ってみた。
木剣は、先ほどまで感じていた重みが嘘のように消え、彼の手に馴染んでいた。
(僕は、知識を捨てて、身体能力という名の「器」をレベルアップさせた。これで、僕の知識は、この体に最高の形で活かされる!)
アステルは、もう二度と、自分の身体的な無力さに泣くことはないだろう。彼は、知識と身体能力、二つの武器を手に、次のステップへと進む準備ができていた。




