リアの負傷と【村人】の救命術
その日の午後、アステルは図書館で古代の符文構造の解析に没頭していた。彼の周囲には、分厚い羊皮紙の巻物が山積みになっており、静寂の中にペン先が紙を擦る音だけが響いていた。
突然、遠くの訓練場の方から、女性の悲鳴と、教官の荒々しい怒鳴り声が響き渡った。
アステルは、ペンを投げ出し、心臓が激しく脈打つのを感じながら、飛び出した。彼の頭の中では、村でのあの夜の光景が蘇っていた。
(あの時も、リアは魔物に襲われて怪我をした……今度こそ、僕が間に合わなければ!)
過去のトラウマと、リアを失うことへの極度の恐怖が、彼の普段の臆病さを吹き飛ばし、行動へと駆り立てた。訓練場へ駆け込むと、鉄と泥の匂いが混ざった生臭い空気が鼻をついた。訓練場の真ん中、赤土が露出した地面の上に、リアがうずくまっていた。
彼女の脚、特に膝から下が、激しく打ち付けられたように歪んで腫れ上がり、そこからは血がにじんでいる。彼女の顔は蒼白で、苦痛に耐えるように唇を噛み締めていた。周囲には、【騎士見習い】のクラスメイトや教官が集まっているが、誰もが混乱していた。
「おい、誰か【回復見習い】を呼べ!早く!」教官が叫ぶ。
すぐに一人の少女、【回復見習い】のミリアが駆け寄ってきた。彼女は手のひらに光を集めようとするが、魔力は不安定で、細い光の筋がチカチカと揺れるだけで、傷を治すに至らない。
「だ、だめです……!私の治癒魔法では、この重い打撲と出血は……」ミリアは顔を真っ青にして涙ぐんだ。【回復見習い】の初期の魔法は、小さな切り傷程度しか治せない。まして、重い打撲と内出血を伴う怪我には、上級職の【僧侶】の力が必要だった。
「クソッ、上級教官を呼んでくる!」教官は歯を食いしばり、訓練場を後にした。誰もが、リアの怪我が悪化していくのを、ただ見ていることしかできなかった。その静寂を破ったのは、アステルだった。
彼は群衆をかき分け、リアのそばにしゃがみ込むと、静かにリアの腫れた脚を見つめた。
「アステル……どうしてここに……」リアは、苦しそうな声で言った。
「黙って、リア」アステルは、初めて泣き虫ではない、理路整然とした声で応えた。
彼はリュックから、昨日図書館で読み終えたばかりの『薬草学と応急処置概論』の知識を呼び起こした。
(骨は折れていない。だが、内出血と炎症がひどい。このままでは腫れがひどくなり、後遺症が残る。まずは、患部を冷やして、清潔に保つことが最優先だ!)
アステルは、服の裾を破って布を作り、それを近くにあった水たまりにつけようとした。
「何をする!その汚い水で余計に菌が入る!」一人の騎士見習いが止めようとした。
アステルは、その騎士見習いを一瞥すると、無言で水たまりに手をかざした。
「【生活魔法:浄水(初級)】」
彼の弱い魔力が発動し、茶色く濁った水たまりは、一瞬で透き通った泉のような水へと変わった。
「な……!?」周囲から驚きの声が上がる。
アステルは浄化された水に布を浸すと、それをリアの腫れた患部に当てた。布から伝わる冷たい感触が、リアの熱をわずかに奪っていく。
次に、彼はグラード先生から「これは【薬師】の基礎だ」と教わった知識を思い出し、訓練場の隅に生えている地味な雑草を素早く摘み取った。
「これは『冷却草』!内出血の悪化を防ぐ作用がある!」彼はそれを噛み砕き、得られた汁を布に染み込ませて、患部を覆い、丁寧に布で固定した。その手つきは、畑仕事でいつも怒られていたアステルのそれとは思えないほど、正確で迅速だった。
アステルが一連の処置を終える頃には、リアの顔の苦痛はわずかに和らいでいた。患部のひどい腫れは残っているが、出血は止まり、炎症の進行は食い止められている。
「……アステル。すごい」リアは、弱々しい声で呟いた。
「大丈夫だよ、リア。あとは上級の治癒魔法を待つだけだ」アステルは、リアの汗で濡れた髪を、優しく指で払った。その時、教官と共に上級の【僧侶】が駆けつけた。僧侶はアステルの処置を見ると、驚きの表情で尋ねた。
「この応急処置をしたのは誰だ!?これほど適切に患部を安定させているとは……専門の【薬師】か?」
アステルは、また周囲の視線に晒され、反射的にリアの陰に隠れようとした。
「い、いえ……【村人】です……」
僧侶は信じられないといった顔をしたが、すぐにリアの本格的な治癒魔法に取り掛かった。
訓練場の空気は、アステルの知識と勇気によって、一変した。彼が最も無力だとされていた場所で、彼の「知識の力」が、優等生の命を繋いだのだ。
リアを助けるという目的を達成したことで、以前のような泣き虫ではなく、内に秘めた確かな自信が芽生えていた。




