1話
午前8時45分。
音楽棟地下のリハーサル室——通称「戦闘指令室」。
空気はすでに火薬のように張り詰めていた。
指揮者・陣内奏一は、譜面台の海を見渡しながら、深く息を吸った。
その眼差しは、戦場を前にした将軍のそれ。
彼の手には、指揮棒——いや、戦術指示棒。
今日の作戦目標は、ベートーヴェン第7交響曲・第1楽章。
通称「疾走の交響爆撃」。
「全員、配置につけッ!!」
怒号が響く。
譜面台がガタつき、椅子が軋み、楽器が構えられる。
——だが、誰も動かない。
「え、今日って10時からじゃなかったっけ?」
「昨日のLINE、見てないんですか?」
「てか、私、今日バイトあるんで途中抜けます」
敵は、すでに内部にいた。
遅刻兵、離脱兵、情報錯乱兵。
指揮者は、眉間に皺を寄せる。
「この部隊に、時間という概念はないのか…?」
彼は、譜面を開く。
そこには、音符という名の兵士たちが整列していた。
だが、演奏者たちはまだ戦闘態勢に入っていない。
「テンポ=120。アレグロ・アサルト・モード。第一小節から、突撃開始だッ!」
指揮棒が空を裂く。
——開始。
ティンパニが炸裂。
まるで榴弾砲。
トランペットが進軍ラッパを高らかに吹き鳴らす。
ヴァイオリン隊が疾走する。
弓が空を切り、弦が悲鳴を上げる。
クラリネットが撹乱工作を仕掛け、ホルンが空を制圧する。
だが——
「え、今って何小節目?」
「私、譜面落としました」
「テンポ早すぎて指が死にます」
爆弾発言、着弾。
内部分裂、勃発。
指揮者・陣内、孤軍奮闘。
「撃て!撃て!撃ち続けろ!そこはppじゃない、ffだッ!!」
「ヴィオラ隊、沈黙するな!貴様らは中音域の要だッ!」
「フルート隊、空挺部隊だろ!もっと高音で空を制圧しろ!」
彼の指揮棒は、まるで戦術マップの指示棒のように空を切る。
その動きは、軍事衛星の軌道計算のように緻密で、時に狂気じみていた。
そして、突如——
「指揮者って、必要ですか?」
その一言は、核弾頭だった。
発言者は、ティンパニの男・神崎雷人。
自称・天才打楽器奏者。
髪は赤、服は黒、性格は爆発。
彼は、指揮者の存在意義に疑問を呈するという、音楽界最大の禁忌を口にした。
「俺のリズムは、俺の魂が決めるんで」
——反乱軍、出現。
陣内は、静かに指揮棒を下ろした。
そして、言った。
「ならば、お前の魂に、俺のテンポを叩き込んでやる」
その瞬間、空気が変わった。
戦場の音が、静寂に包まれた。
全員が、指揮者の目を見た。
その目は、戦場を制する者の目だった。
「俺は、コンダクター。だが、同時にコマンダーだ。
この戦場をまとめるのは、俺しかいない。
音楽は、祈りじゃない。命令だ。
テンポは命。遅れは死。
さあ、戦闘を続けるぞ。次は第32小節。
全員、撃てッ!!」
そして、再び音が爆ぜた。
ベートーヴェンが、戦場に降臨した。
音楽は、戦争になった。
そして、指揮者は、コマンダーになった。




