第75話 力士な嫁
息を潜めて、じわじわと距離を詰める。
背中に汗がにじむ。
目の前にいるのは、特大バンサイズの巨大鹿。
毛並みはツヤツヤ、角は堂々たる大枝。
まさに――このダンジョンの主。
…と、ソイツがこちらを向いた。
目が合う。深くて重たい視線。
――一瞬で理解した。
(ヤバっ、見つかった)
殺気が走る。
ドドドドッ!!
「え……ヤバい」
ひかれる、これはマジで――!
「大丈夫ですっ!」
エクシーが、おれの前にスッと立つ。
甘い香水の匂いが、鼻先をかすめた。
……って、香りかいでる場合じゃねぇ!!
巨大鹿が、頭を下げて突進してくる。
角が――エクシーに!
ガン!!
鈍い音。
鹿の角を、両手で掴んで受け止めている。
エクシーの両足が、ズブズブと地面にめり込んでいく。
「ドスこい!!」
野太い掛け声とともに、
そのまま角を――ねじる!!
ギギギギ……!
鹿の頭が、つられるように横倒しに。
そして。
ドシンッ!!
口が、開きっぱなしだった。
いや、むしろ脳が止まっていた。
だれか、うちの嫁が力士な件、
説明してくれ。
⸻
森の広場。
静寂。鳥のさえずり。
その真ん中に、転がる巨大鹿。
「ユウトさん、これ……仕留めたのはいいですけど……」
エクシーの言いたいことは、すぐにわかった。
「ああ、血抜き……」
吊るせない!!
あらためて見ると、でかすぎる。
駐車場2台ぶんはある。
スッ。
鹿が一瞬で消えた。
エクシーの収納魔法だ。
「まずは、傷まないように保存ですね」
「でも寝かせてさばくか? どうする?」
「滑りづらい一枚板……いえ、岩板の方がいいかもしれません」
「ミノック師匠に頼んで作ってもらうか」
「妥当ですね。石なら、滑らないでしょうし」
「それにしても……エクシーの魔法、やっぱすごいな」
「すごいじゃなくて、女の子の前に立って守ってください」
……と言いながら、後ろからギュッとバックハグされる。
おれの方が背が低いので、肩の上から腕が回された。
「どうやって止めたの?」
「魔法の名前は『ドスコイ魔法』です」
……嬉しそうだ。
「ぶっちゃけ、名前でぶりっ子してるだろ?」
「そんなふうに言われると、恥ずかしいのですが……ユウトさん、性格悪いですよ?」
顔を赤くして、ニコッと笑う。
⸻
ドスコイ魔法――
それは、重力魔法で自分の体重を鉄筋コンクリート並にし、
さらに身体強化魔法で突っ込んできた相手をガチ受け止めするという、
超・力技の複合魔法だった。
……さすが、エクシー。
度胸も、魔法も、「ドスコイ」級。
⸻
ダンジョンを出る頃には、日が傾きかけていた。
拠点近くの崖に、土魔法で大穴を空ける。
即席の貯蔵庫だ。
階段を降りる。
「ライト」
子どもでも使える生活魔法で、照明を灯す。
コンクリートの床に、真っ白な漆喰の壁。
「ヒンヤリしてて、いいな」
「湿度調整もバッチリです」
エクシーがにっこりと笑う。
ただよう秘密基地かん。
ふたりきりの貯蔵室。
「空気穴の位置もいいな」
弱い風が触れる。
あの巨大鹿が――ここを埋め尽くす。
思い浮かべる、肉の山。
「エクシー、あのサイズ、捌いた事ある?」
「……さすがに、初めてですね」
未知のサイズ、未知の肉量。
だが――
「まぁ、やってみるか」
ここを、肉でいっぱいにして。
みんなの腹を、パンパンにして。
焼肉パーティーも、ステーキ祭りも楽しみだ。