第64話 黒幕は……
陽はまだ登る前、うっすらクリーム色の空気が街を包む。
マルスの一番下の奥さん、セレナは「6番目のマルス」の扉にそっと鍵を差し込んだ。
ガチャ。
開けた瞬間、茶葉や生地、糸、革の香りがふわっと混ざり合う。
優しい「6番目のマルスのにおい」が鼻をくすぐる。
「ほら、あまり遅くまでコン詰めてやると、目に悪いよ……」
ベルナ姉さんの昨日の言葉が蘇る。胸がふっと暖かくなり、同時に小さな寂しさが差し込む。
ベルナ姉さんも、ローズ姉さんも老眼が進み、針仕事はそろそろ限界だ。
小さくため息を吐く。
自分が一番年下……でも、やっぱり「6番目のマルス」は5人が揃ってこそ――。
ぼんやりと愛用の断ちバサミを眺める。
ガチャ。
「あ、ローズ姉さん、おは――」
「大変だよ!! やりやがった、間違いない!!」
【虐殺皇 ネロ討たれる
討ったのは前皇妃と、大臣の“隠し子”】
セレナの身体に電流が走る。
「本当に……?!」
ローズが深くうなずく。
「……良かった……」
思わずこぼれる安堵の吐息。
次は誰が殺されるかと怯えていた、あの息苦しさがほどけていく。
けれど――。
この前訪ねてきたユウ坊の奥さん、絶世の美女、エクシー。
結果は確かに彼女の宣言通りだったが……彼女ははっきりと「殺す」と言っていた。
物語の幕は、本当に下りたのか?
セレナの胸に、名状しがたい不安がひやりと広がった。
ーー夜
廊下を、大臣が足早に駆ける。
虐殺皇が討たれた、その報の後始末は膨大だ。
トンッ。
音。
瞬間、身体が鉛のように重くなる。
「こんばんは……大臣さん」
そこに絶世の美女が立っていた。
笑顔は妖しく、悪魔のように艶やか。
「今、あなたの身体の重さを十倍にしてるから。騒いだら、死ぬよ?」
微かに動く目だけで頷く。
「じゃあ……叫ばない、騒がない。わかる?」
再び、目だけで頷く。
頭だけ鉛の重さが外れた。
「……あなた様は……真の勇者の奥様ですか……?」
「ふふふ、さすが大臣。前第一皇妃から聞いているのね」
大臣の胸がドクン、と悲鳴を上げる。
自分は虫けらだ……いや、それ以下。
「……私たちに、後始末を依頼したのはあなた様だと……」
皇帝殺しの栄誉は欲しくないと、確かに聞いていた。
「ええ……前第一皇妃に、皇帝殺しの後始末をお願いしました……」
「報酬は……いらないと?」
「……ええ、“好意で”お断りしました……」
身体は動かない。
内側では心臓がちぎれそうに震える。
「じゃあ……どのような要件で……?」
息が詰まり、喉がきしむ。
「ネロを“虐殺皇”にしたのは……あなたよね?」
――死刑宣告。
そう聞こえた。
ーー皇帝ネロの首が落ちた後
エクシーは待ち合わせの部屋の前に立っていた。
フッ、と笑う。今更、行儀良くノックなんて……。
トントン。
「どうぞ……」
少し固い声が返ってくる。
「失礼します」
声をかけ、中に入る。
前第一皇妃、その人が目の前に立っていた。
「それで……?」
期待を込めた声でエクシーに問いかける。
「殺しました。ここで、真っ二つに」
操り人形の糸がプツっと切れたように、その場に崩れる前皇妃。
「あぁゝゝ……」
噛み締めるように泣き出す。
「……良かった」
魔力灯が揺らめいているのに、彼女の世界が暖かくなったのがわかる。
この国の空気が変わる、そんな気配がした。
改めて思う。私が殺したのは“皇帝”。
「ねぇ……ひとつだけ教えて……」
エクシーの声に、わずかに棘が混じる。
「えっ……?」
突然の変化に戸惑う前皇妃。
「皇帝を“虐殺皇”にしたのは、誰?」
「えっ……?」
「おかしいじゃない。
小さな子供が、自分の身分を隠して暗殺訓練なんて……ありえない」
前皇妃の顔から血の気が引く。
「それは……」
「ねぇ……前第二皇妃を薬漬けにして、慰み物にした指示を出したのも、その人?」
「いやっ! 違うわ……!」
エクシーの眉間にシワが寄る。
やっぱり……お前が黒幕か?
息子の仇を、国のためだと信じて抱えてきた想いが……薬漬けの慰み物にされるなんて、あまりに救いがない。
胸が締めつけられた。
「誰……?」
エクシーの声に、怒気がはらむ。
「ヒッ……!」
前皇妃が震える。
風が窓を揺らした。
……。
「ねぇ……教えて?
誰が本当の黒幕?」