「菩薩」
では――最終段階、「菩薩」。
ここは、愛のゴールであり、試練でもある。
自分の幸福や欲を超えて、ただ“相手のために在る”という、最も困難で静かな境地。
矢智代は、迷っていた。
会社の海外転勤の話がきた。2年間、ヨーロッパ。
断ることもできる。でも、挑戦してみたい気持ちもある。
それを、隆史にはまだ言えていない。
ある夜、彼女はいつものように夕飯の準備をしながら、言葉を探していた。
(言えば……きっと、寂しがる。いや、止めるかもしれない)
だが、その時だった。隆史が唐突に口を開いた。
「……行っていいよ。海外。挑戦、してみたいんだろ?」
矢智代は、驚きで手を止めた。
「なんで……言ってないのに……?」
「君の目が“行きたい”って言ってた。だけど、俺の反応を気にして、言えないまま黙ってるのも分かってた」
矢智代の目に、うっすら涙が浮かぶ。
「……でも、あなたと離れるのは……怖いよ」
「俺も怖い。でも、君が君の人生を歩いてるってことのほうが、ずっと大事だ」
隆史は、まっすぐに言った。
「俺の“愛してる”って言葉が、君を縛るなら、それはもう愛じゃない。
君が幸せになるために、俺が消えることもあるかもしれない。それでも、君が笑っていられるなら、俺はそれでいい」
矢智代は、黙って泣いた。悲しくて、嬉しくて、苦しくて。
ナビの声が、低く、静かに響いた。
「“菩薩”フェーズ、完了。
あなたは、自己を越え、他者の幸福そのものを願うことに成功しました。
愛は“所有”ではなく、“祈り”となりました」
隆史は、もうかつての岸高隆史ではなかった。
ぽやんぽやんで、いい加減で、間違いだらけだった男が、
今は静かに、“誰かの幸せを祈れる人”になっていた。
そして、矢智代は思った。
(ようやく、あなたと本当に“恋”ができる気がする)
隆史が変わったのは仕事に対しても「苦しい時ほど楽しんで」を使いだしたからである




