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岸高隆史の恋愛物語  作者: 斉藤
本編
12/22

「菩薩」

では――最終段階、「菩薩」。


ここは、愛のゴールであり、試練でもある。

自分の幸福や欲を超えて、ただ“相手のために在る”という、最も困難で静かな境地。

矢智代は、迷っていた。


会社の海外転勤の話がきた。2年間、ヨーロッパ。

断ることもできる。でも、挑戦してみたい気持ちもある。


それを、隆史にはまだ言えていない。


ある夜、彼女はいつものように夕飯の準備をしながら、言葉を探していた。


(言えば……きっと、寂しがる。いや、止めるかもしれない)


だが、その時だった。隆史が唐突に口を開いた。


「……行っていいよ。海外。挑戦、してみたいんだろ?」


矢智代は、驚きで手を止めた。


「なんで……言ってないのに……?」


「君の目が“行きたい”って言ってた。だけど、俺の反応を気にして、言えないまま黙ってるのも分かってた」


矢智代の目に、うっすら涙が浮かぶ。


「……でも、あなたと離れるのは……怖いよ」


「俺も怖い。でも、君が君の人生を歩いてるってことのほうが、ずっと大事だ」


隆史は、まっすぐに言った。


「俺の“愛してる”って言葉が、君を縛るなら、それはもう愛じゃない。

君が幸せになるために、俺が消えることもあるかもしれない。それでも、君が笑っていられるなら、俺はそれでいい」


矢智代は、黙って泣いた。悲しくて、嬉しくて、苦しくて。


ナビの声が、低く、静かに響いた。


「“菩薩”フェーズ、完了。

あなたは、自己を越え、他者の幸福そのものを願うことに成功しました。

愛は“所有”ではなく、“祈り”となりました」


隆史は、もうかつての岸高隆史ではなかった。

ぽやんぽやんで、いい加減で、間違いだらけだった男が、

今は静かに、“誰かの幸せを祈れる人”になっていた。


そして、矢智代は思った。


(ようやく、あなたと本当に“恋”ができる気がする)

隆史が変わったのは仕事に対しても「苦しい時ほど楽しんで」を使いだしたからである

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