「縁覚」
存在の共鳴がテーマです
矢智代は、いつものように食卓につき、いつものようにパンとコーヒーを口にした。
だが、その表情がどこか曇っていることに、隆史はすぐ気づいた。
何も言わない。ため息も吐かない。ただ、少しだけ手の動きが鈍い。
パンをちぎる指が、わずかに力を失っている。
「……仕事、行きたくない?」
隆史の問いに、矢智代は驚いて彼を見た。
「なんで分かったの?」
「君がパンをちぎるとき、いつもはふわっとしてるのに、今日はぐにゃって潰れてた。多分、気が張ってないから」
彼女は一瞬黙ってから、小さく笑った。
「……あんた、ほんとに変わったね」
隆史は頷く。
「言葉より前の“気配”って、案外うるさいんだなって思った。昔は全然聞こえてなかった。君の空気も、顔の色も、沈黙の重さも」
ナビの声が、やさしく響く。
「“縁覚”ステージ、進行中。
この段階では、“他者の存在”そのものを感じ、言葉の有無に関係なく“共に在ること”の意味を理解し始めます」
その日、矢智代は会社を休んだ。
理由は言わなかったし、隆史も聞かなかった。
彼は、朝から湯を沸かし、ホットミルクをつくり、ブランケットをリビングに持ってきた。
何も言わず、ただ隣に座って、同じ空間を共有した。
音も、会話もなかった。ただ、そこに在ったのは安心だった。
(ああ、これが“愛する”ってことなのかもしれない)
ナビが静かに告げる。
「“縁覚”フェーズ、完了。
さあ――最終段階、“菩薩”へ。
あなたは今、自分と他者の境を越え、“与える愛”の最終形に挑みます」
隆史は、何も言わず、ただ深く息を吸った。
次は“菩薩”。
それは、愛する人の幸福を“自分の幸福より先に願えるか”という試練だった。
隆史が変わったのは仕事に対しても「苦しい時ほど楽しんで」を使いだしたからである




