第八話:母親のこと
朝から雨が降っている。
今日は狩猟の方は中止だなとアビーは思った。エイダが塗ってくれた薬のおかげで足の傷はほぼ治っている。朝食にハーマン家のレイチェルからもらったピクルスを出してみた。祖父のエイベルは美味しそうに食べている。野菜が嫌いというわけではないようだ。アビーはエイダからセントジョーンズワートの薬でケガが治ったことで、その時疑問に思ったことをエイベルに聞いた。
「お爺さん、私、森の中で木に足を当ててしまってちょっとしたケガをしたの。それをハーマンさんの家で、娘さんのエイダが雑草のセントジョーンズワートから作った薬を塗ってくれたんだ。おかげですっかりきれいに治りそうなの。この雑草に出血を止める効果があるなんて全然知らなかった。お爺さんは、代々木こりの家系で森の中で生活をしたのに草花とかには詳しくないの」
すると、普段はあまりアビーと視線を合わせないエイベルがぎょっとした顔をして彼女の顔を見た。しばらくして、またアビーとは目を合わせないで言った。
「いや、わしは銃とか撃っている方が好きでなあ。森の中を下を見ながら這いずりまわって役に立つ植物とかを探すのは苦手だったんだよ。そんなわけで山菜やら薬草についてお前には教えてやれなかった。ハーマンさんの一家が詳しいんなら、そっちから教えてもらえればいいと思うよ」
そう言って、エイベルはそそくさと自分の部屋に戻っていった。アビーはエイベルがなんで驚いた顔をしたのか不思議だった。まあ、単に動物を追い回している方が好きだったのかもしれない。
お皿を片付けた後、丸太椅子に座ってアビーはぼんやりとする。雨がウィリアムズ家の掘っ立て小屋の屋根を叩く音がうるさくて耳障りだ。ハーマンさんのとこへ行って、エイダを誘って森の中で山菜取りでも教えてもらいたかったが雨が降っていては無理だろう。
アビーはこういう雨の日は猫のマックスと遊んでいたものだった。そのマックスも母のアイリーンが蹴り殺してしまった。あの時は、母に対して一瞬殺意まで浮かんでしまった。さっさと死んでしまえとも思った。しかし、その母も頭のおかしい男に殺されて、もうこの世にはいない。いなくなると急に寂しくなった。アビーはなんとか母とのいい思い出がないか記憶をたどった。
しかし、いくら思い出そうとしても、母との間には一度も明るい情景を思い出せない。母の笑った顔など一度も見たことがなかった。楽しい思い出など一切なかった。エイベルは、母が小さい頃は周囲をよく笑わせていたとか言っていたが本当なんだろうか。いろいろとつらいことがあって精神を病んだということだが、最初からそういう性格だったんじゃないか。あんなかわいい猫を蹴り殺すなんて信じられないことをした母だ。
この家で全く何もせずにただ椅子に座っていただけの母。動くときは食事とアビーに嫌がらせをする時、そして外出するのは家の外に設置されている便所に行く時だけ。この家に移る前は農場で働いていたそうだが、この十五年ほどは全く何もしなかった。母の人生とは何だったのだろうか。
アビーは母の使っていた部屋に入った。今は自分の寝室だ。何か自分に関するものなどないか探したが、タンスには服しか入っていない。手紙とか日記なども探したが一切なかった。服以外個人的なものが全くない。化粧品や装飾品もない。
フランスで戦死したビル兄さんは、学校での成績表やら子供の頃描いたと思われる落書きのような絵、読んでいた本や雑誌などいろんな私物が残っている。しかし、母には何もない。父アルバートとは十八才の頃に結婚したと、以前エイベルから聞いたことがあるが、父に関係するものも一切ない。父は人を殺して牢屋で死んだから記憶から消したいと思って捨てたのかもしれない。
しかし、ビル兄さんやエイベル、他の親族に関するものもない。全部捨ててしまったのだろうか。自分の人生の全てを一切捨てたかったのだろうか。精神病と言われればそれまでだが。アビーにはよくわからなかった。暗い気分になったアビーはそのまま部屋のベッドに寝転んだ。
薄汚れた天井を見ながら、母から受けた嫌がらせの数々を思い出し、アビーは不快な気分になった。しかし、母はアビーに嫌がらせをして楽しかったのだろうか。全然、楽しそうではなかった。猫を蹴り殺して、いったい何が楽しいのか。父と結婚したころは笑ったりしていたのだろうか。父と母が仲良くデートなどをしている姿が想像できない。なぜ、母は人生を楽しもうとしなかったのか。そんな余裕もなかったのだろうか。母にとって人生とは苦痛でしかなかったのだろうか。そもそも生きるということは苦痛でしかないのだろうか。
アビーはベッドから起き上がり、母が使っていた部屋を出た。すっかり憂鬱になったアビーは母のことを考えずに何かすることはないかと考えて、今まで使っていたウィンチェスターライフル銃の清掃を始めた。新品のエンフィールド銃はまだ清掃の必要はないが、この銃は当分使わない可能性があるので、きれいにして倉庫にしまっておく必要がある。
銃の清掃に没頭していて、気がつくと雨がやんでいた。すっかり晴れている。アビーは銃の清掃を終えて、家にいると気分がもやもやするのでエイベルに断って森の中を散歩に行くことにした。今日は狩りもする気にはならない。
この森の中をアビーはよく知っている。狩場であり、自分にとってはいわば仕事場みたいなものだ。しかし、森を歩くときはいつも銃を持っていた。今は持っていない。普段となんとなく気分が違う。雨上がりでいろんな草や花、木についた水滴がきらきらと輝いてきれいだ。森の奥まで歩きつつ、大木や草、土の匂いを感じる。風の音や小川のせせらぎが聞こえてきた。狩猟で森の中を歩き回っているときと違って、アビーはすがすがしい気分になった。
そして、もう考えまいとしても、やはり母のことを思い出してしまう。十五年も家に中に閉じこもってばかりだったから病気がひどくなってしまったのではないだろうか。せめて、週に何回でもいいから森の中を歩いたりしたら少しは精神状態もよくなったのではとアビーは考えた。自分のことを嫌っていた母もビル兄さんか祖父のエイベルの言うことなら聞いた可能性もある。母が生きている間に兄か祖父に提案すればよかったかなとアビーは後悔した。
今まで、動物を狩ることに一生懸命であまり草や花などの植物には気にとめなかった。いろんな種類の植物がある。雑草だがきれいな花をつけているものもある。今度、エイダを誘っていろいろと教えてもらおう。
少し樹木が少ない開けた場所にやってきた。空が見える。虹がかかっていた。きれいだなあとしばし眺める。この森の中を自分と母が一緒に仲良く歩いて、虹を見る姿を想像した。母が微笑んでいる。母が笑った顔なんて見たことはないはずだ。自分の頭の中で想像する母親の笑顔。現実には全くありえなかった姿のはずだ。一度くらいそんな風に母と過ごしたかった。しかし、もう亡くなってしまったし、今さらどうしようもない。
すがすがしい気分も母のことを考えていたらすっかり消えてしまった。アビーはまた憂鬱な気分になり家に戻ることにした。家の近くの大木の枝に古いロープが二本ぶら下がっている。一方のロープには木の板がぶら下がっていた。たしか、このロープはビル兄さんが作ってくれたブランコの残骸だとアビーは思い出した。ロープが切れて壊れたあとは、アビーも大きくなったのでそのままになってしまった。アビーは再びロープを結び直してみた。恐る恐る乗ってみたが、長い間放っておかれたわりにはけっこう頑丈なロープなのか切れたりはしない。しかし、もうこの年齢でブランコ遊びでもあるまいとただアビーは木の板に座って昔を思い出した。
彼女が小さい頃、ブランコに乗ってビルに後ろから押してもらった記憶がある。ビル兄さんはやさしかったなあと思い出していると、アビーの脳裏に母のアイリーンが微笑んでブランコに乗っている自分の背中を押してくれた情景が急に浮かんできた。そう言えばビル兄さんが言っていたなあ。
『アビーは覚えていないだろうけど、ブランコにアビーを乗せて押してやったりしていたのを思い出すよ。アビーもお母さんも笑っていたよ』
しかし、ビル兄さんがこの大木にブランコを作ってくれた頃、すでに母はおかしかったんじゃないだろうか。さっき家の中でさかのぼって自分の記憶の中から母の笑顔を探そうとしたが思い出せなかった。ビルはアビーに気を使って噓をついたのではないか。そういう情景が頭に浮かんできたのは、母と仲が良かったとの偽りの記憶を自分が作ったのではないか。
アビーは立ち上がり家に戻ろうとした。ブランコが少し揺れた。振り返って揺れているブランコを見る。小さい頃の自分が乗っている。押しているのは母のアイリーン。母は微笑んでいる。自分も楽しそうだ。しかし、やはり偽りの記憶だろうと思い、アビーは寂しい気分になりながら家に帰った。