第五話:クライド・アンダーソン元下院議員の講演会
アビーとエイベルが、フィラデルフィア市からハドソン村近くにある森の中の自分たちの小屋に通じる村道まで戻るころには、夕方になっていた。荷馬車でハドソン村の近くを通ると、村の集会所に人々が集まっているのがアビーには見えた。
「お爺さん、なにか村の人たちが集会みたいなことやってるけど、そんなことがおこなわれるって聞いてたかしら」
「さあ、知らんなあ。まあ、わしらの一家は嫌われもんだから教えてくれなかったのかもな」
好奇心に誘われて、エイベルには歩いて帰ると言ってアビーは荷馬車を降り、村の中央辺りに建てられた集会所の中に入った。なかには椅子が並べられ、村人たちが座っている。この集会場はけっこう大きく百五十人くらい入れるが、誰もマスクをしていない。不用心だなとアビーは思った。
アビーはスペイン風邪になるのが嫌なので、顔にハンカチを巻き、なるべく後ろの隅っこのほうで立っていることにした。それに村人たちはアビーの一家を見ると嫌な顔をするのでなるべく目立たないほうがいいと思ったからだ。
前方の壇上にマーシャル牧師が立った。なんだ、説教でもするのかと、この牧師のことが嫌いなアビーはさっさと退散しようとしたが、なんでこんな時間に説教を行うのか、しかも教会じゃなくこんな場所で行うのはおかしいなと思い直し、集会所にしばらくとどまることにした。
マーシャル牧師が話始めた。
「皆さん、夕方に集まっていただいてありがとうございます。現在、我がアメリカ合衆国はドイツ帝国と戦争中ですが、この戦争の意義について説明していただくために国際情勢に詳しい有名な方をお招きいたしました。現在、アメリカ国防連盟の顧問であるクライド・アンダーソン元下院議員です」
マーシャル牧師に紹介され、頭が完全に禿げている中年の男が前方に置いてあった椅子から立ち上がった。黒いスーツ姿に黒いネクタイ。痩せてはいるが身長が二メートル以上もある。いやな目つきをした男だなとアビーは思った。そして、そのアンダーソンを見るマーシャル牧師に妙な感じを覚えた。神様を眺めているようにも見えたからだ。その男は直立不動で話し始めた。
「ハドソン村の皆さん、クライド・アンダーソンと申します。よろしくお願いします。さて、現在、私たちは世界史上、もっとも重要な時代を生きている。今、行われている戦争の結果が今後数世紀にわたる諸国民の運命を決することになるだろう。この戦争のあと、古い秩序に戻ることはできない。この時代を頂点として、政治及び経済、社会状況が新たに秩序付けられることになるだろう。新しい世界が生まれるのだ。私たちの未来もまた、この戦いの結果にかかっている。戦いは旧世界の全体を巻き込み、それどころか、地球全体、旧大陸から新大陸へ、大西洋から太平洋に広がっている。このような状況の中で、我がアメリカ合衆国は巨大で狂暴な敵と戦っている。それはドイツ帝国だ。ドイツ人は世界の非ドイツ人を完全に、そして永久に隷属化させようとしている。奴らは全世界を支配するためにはどんな卑怯で狡猾な手段を取ることも辞さないつもりだ。我がアメリカ軍は連合国と協力して、諸民族の解放のためこの凶悪な帝国との戦争で多くの犠牲を出している。民主主義を守るために我々アメリカ国民は全ての能力を捧げなくてはいけない。それは国民の義務だ!」
直立不動だったクライド・アンダーソンはしだいに興奮したように喋り続けた。
右腕だけ上下に振って声も大きくなる。
「三年前のルシタニア号事件は皆さんの記憶に残っているはずだ。民間の客船を卑劣なドイツの潜水艦が攻撃したのだ。約千人が死亡したが、その中には百二十八名のアメリカ人も含まれていたのだ。信じられない暴挙だ! しかし、腰抜け大統領のウィルソンは非難声明を発表するだけで何もしなかった。本来なら直ちに軍隊を欧州に送りドイツ帝国を叩き潰すべきだったのだ。ようやく一年前に軍隊を派遣したがその間にドイツ野郎が欧州でいかに大勢の人たちを残酷に殺害したことか。ドイツ人はみんな殺人鬼だ! 戦争にすぐに参加しなかったこと、これはウィルソンの大罪である。現在、ドイツ側から大統領あてに戦争の終結と和平交渉の要請があったとの報道があったが、絶対に騙されてはいけない。ドイツ人が真実を言うわけがない。目的は我々を油断させるためと戦時国債の売れ行きを悪くさせ、我が国の戦争遂行を阻害しようしているためだ。我々は戦争を続けなければいけない。ドイツを叩き潰すために戦いを継続するべきなんだ! 我がアメリカ合衆国民は、武器を取ることができるなら一切躊躇する必要はない。ドイツ人たちを一切容赦なく無慈悲に殺せ! 戦場に出撃したら、突撃! 突撃! 突撃あるのみだ! あなたがたの義務とは、今日の偉大なる世界的戦いのなかで、戦争に参加することに躊躇する者たちへ、かれらの行くべき場所を示すことだ。臆病者とは、祖国の運命が決せられるときに、びくびくと傍観し、空虚な言い訳を探している者のことだと言わざるをえない。重要な時代には、すべての人たちが必要とされている。聖なる戦いに跳躍し、連合国の隊列に加わって、偉大な戦いに力を合わせよう。我々アメリカ合衆国の自由の旗を高く掲げ、ドイツの凶悪な殺人者たちを怖れさせなくてはいけない。我々の銃剣で、我々が自由と独立の聖なる権利を自覚し、自由を望み、自由を獲得することを世界に示そうではないか」
戦争で人を殺しているのはドイツ人だけじゃなく他の国の連中も同じじゃないかとアンダーソンの演説をアビーはしらけて聞いていた。お偉い人たちが集まってさっさと終わらせればいいのに。もう約四年間も殺し合いを続けている。この世界大戦とは全くもって愚かなことを人類全体で行っているとアビーは考えていた。
アンダーソンの話はさらに続く。
「今、アメリカではスペイン風邪という新型インフルエンザが大流行しているが、これは全て敵国ドイツの陰謀だ。わざとスペインからの患者を我が国に送り込んだのだ。ドイツ人は信じられないほど悪質だ。連中は悪魔だ。老若男女問わず全員が品性下劣で、生まれつきの卑劣さのせいで精神も品性もただれきっており、倫理性の欠片もない。戦争に勝つためにはどんな手段も選ばない。そのため新型インフルエンザのウィルスをまき散らしたのだ。もし、ドイツがアメリカ本土に攻め込んできたら、女だろうが子供だろうが平然と喜んで殺すだろう。そんなことは絶対阻止しなければいけないのだ!」
村の聴衆は熱心に聞いているが、アビーはあきれた。何を言ってんだろう、この人は。確か、スペイン風邪はアメリカが発生地かもしれないって聞いた。名称もスペインの報道が自由だったからって銃砲店の店主から聞いたアビーは、この元下院議員を名乗る男は嘘つきじゃないかと思った。元と名乗っているのは選挙に落ちたからだろう。こんなこと言ってるから選挙に落ちたんじゃないのだろうか。もう四年も戦い続けてドイツも国内が悲惨な状況で戦争も終わりになるだろうってのに、なんでそのドイツがアメリカ本土に攻め込んでくるんだ。
アンダーソン元下院議員はますます興奮してきて、右腕をさらに振り上げる。アビーからするとわけのわからないことを言い出した。
「アメリカにいるドイツ人、連中は全員スパイだ。スパイは無慈悲に皆殺しにすべきなんだ! 同情は一切いらない。道徳は弱者の言い訳だ。弱い心が人をダメにするんだ! 私は人間が弱肉強食の自然界の中で進化してきたのだと確信を込めて言える。人間が進化して、全ての人々が仲良く平和に暮らせるようになるという考えは危険だ。平和こそが危険思想だ! そんな考えを持つ者は自由の精神を平然とゴミ箱に捨ててしまえる連中だ。そんなことをする人間は自ら奴隷になることを望んでいるのだ。自らの精神をうつろなものにしてしまい、強者のいいなりになってしまうだろう。我々は強くならなければいけない。平然と人を殺せなきゃだめなんだ。あらためて言わせてもらう。この世は弱肉強食だ。強いものが弱いものを支配するのだ。森林に立つ巨木も厳しい生存競争に勝ったから生き残れたんだ。森の中では植物でさえも殺しあっているんだ。我がアメリカ合衆国も強くなって勝ち残らないと、他の国に滅ぼされるだけだ。この世界では強者にはつねに強くなることが求められ、弱者は情け容赦なく社会の隅に追いやられるのが宿命なんだ。弱い者は死ぬべきだ! 我がアメリカ合衆国は敵国ドイツ人を皆殺しにするべきだ! これは崇高な使命なんだ!」
民主主義を守る話から、得体のしれない話になってきた。こいつは頭がおかしいんじゃないのか。アビーは馬鹿馬鹿しくなってそっと集会所から出た。ああいう狂った奴が戦争を起こすんじゃないのかとも思った。
それにしても、あのクライド・アンダーソンって奴の言っているようなことを最近聞いたような気がする。そう、確かシュミット先生が教えてくれた母を殺した犯人の言葉だったな。『道徳は弱者の言い訳だ。弱い心が人をダメにする』だったかな。確かドイツの哲学者に影響されたって話だった。その学者がなんて名前だったか忘れてしまった。それにしても、あのアンダーソンって元下院議員は戦争している敵のドイツの哲学者に影響された奴と同じようなことを言っているじゃないか。案外、その学者の本を読んでたんじゃないのか、この元下院議員も。それとも頭のおかしい奴は同じように物事を考えるのだろうか。
『弱い者は死ぬべきだ』
確かあの学者は体が弱かったはずだ。自分の体が弱いから自暴自棄でそんなことを言ったんじゃないのだろうか。それとも強がっていただけじゃないのか。くだらないし、馬鹿馬鹿しい。哲学だがなんだか知らないが、学者もわけのわからない考えは自分の頭の中に押しとどめてほしかったね。頭のおかしな連中を刺激して周りに迷惑をかけるからだ。世の中が混乱するばかりだ。一般人を厄介事に巻き込むのはやめてほしい。
そんなことを考えながらアビーは村から離れて、薄暗い村道を自分の家に向かって歩いていると、向こうから携帯ランプを持って立派な口ひげをたくわえた老人が歩いてきた。よく見るとスチュワート村長だった。
「こんばんは、スチュワートさん」
「やあ、アビー、元気かい」
この村長は、他の村の連中と違ってアビーの一家を差別したりはしなかった。
「アイリーンさんの件は大変だったね。もう葬儀は終わったのか」
「ええ、もう埋葬しました」
「診療所での事件の後始末で忙しくて葬儀に立ち会えなくてすまないね」
「いえ、別にかまいません」
「君もクライド・アンダーソンの講演会に参加したのか」
「そうですが、つまらないから途中で出ました。けど、なんでそういう催し物があることを教えてくれなかったんですか」
「私もくだらないと考えたからさ。わざわざ伝えに行く必要もないと思ったからだ。マーシャル牧師があの男を勝手に呼んできたんだよ」
「あの人はいったいどういう人物なんですか」
「ドイツに対して啓蒙活動を行うと本人は言っていたが、実際はドイツ人に対する差別を増長させる活動をしているらしい。私にドイツ人は世界の非ドイツ人を完全に、そして永久に隷属させようとしているとかなんとか言ったんだが、どっかでその言説を聞いたことあるなあと思ったら、アメリカ在住のチェコスロヴァキア人に戦争への参加と協力を呼びかける宣伝紙に書いてあるものとそっくりだったんだ。愛国者を名乗っているが、選挙に落ちた腹いせか、それとも元々いかれているのかどっちかだな」
やっぱり頭のおかしい奴だったのかとアビーは思った。おまけに演説の内容もどっかから適当に持ってきたものか。そんな詐欺師みたいな奴を不用意に村にいれて大丈夫なのかと少し心配になった。さっきのマーシャル牧師の態度はアンダーソンに対して心酔している様子があったからだ。
それにしても、こんな夕方にスチュワート村長がどこへ行ってたんだろうと思いアビーは聞いてみた。
「村長さんはどちらへ行ってたんですか」
「ハーマンさんのとこだよ」
例の村から追放された一家のことかとアビーは思い出した。
「ハーマンさんの一家は村から追放したって聞いてましたけど」
「そんな、今時、村から追放なんて本来やってはいけないことなんだよ。しかし、例のマーシャル牧師が強硬なんでなあ。しかたなく、時たまこっそり食料を届けてやったりしてるんだ。あんな荒れ地じゃあ作物の育ちもよくないしな。子供たちもだいぶ痩せているしね。ただハーマンさんの家は肉とか食わないようなんで野菜とか果物を持って行ってやってるんだがね」
「ハーマンさんの一家はお肉は食べないんですか」
「そうみたいだな。わしは野菜なんかより肉の方が好きなんだがな」
「それはともかく、ハーマンさんを説得して、そのなにかわけのわからない教えとやらを捨ててもらえれば村に戻れるんじゃないですか」
「そうなんだよ。最初はけっこう頑固な態度だったんだがね。物腰は軟らかいんだけどな。ただ、最近はちょっと考えが変わったようだ。他人に対して自分の考えを押し付けるのはよくないと思い始めてるようなんで、いずれ戻れるんじゃないかな。親として子供たちの健康も心配になったようだね」
ハーマン家を見かねて助けるスチュワート村長はまともだなとアビーは思った。
頭のおかしな奴を村に連れて来たマーシャル牧師とはえらい違いだ。
「それじゃあ、私は家に帰りますので」
「ああ、気をつけてな、アビー」
家に戻ったアビーは祖父のエイベルに集会でのクライド・アンダーソンの演説について話した。
「そんなくだらないことをやってたのか」
エイベルは不快そうだ。
「そのアンダーソンとかいう奴に村のお金も出したのか」
「まあ、講演料とかは出したんじゃないの」
「全く、あのマーシャルって牧師はなにを考えてんだ」
「ドイツが欧州を支配したいように、ハドソン村でも支配したいんじゃないの」
冗談を言ったアビーだったが、こんな人口九百人もいないちっぽけな村を支配してどうするんだと思わないでもなかった。
アビーと話しているとき、またエイベルが咳き込んだ。ちょっと胸をおさえている。
「大丈夫、お爺さん。熱とかないの」
「ああ、熱はないよ。スペイン風邪で死ぬことはなさそうだな。昨日はアイリーンの件があったし、今日はフィラデルフィアまで遠出したんで疲れたよ。もう、わしも七十才の老人だしな」
エイベルは早々に自分の部屋に入ってベッドに寝転んだ。
アビーも別室の母が使っていたベッドで横になった。再び、母との生活を思い出す。いさかいの連続だった。アビーは小さい頃からエイベルに習って家族に料理を作ってやった。主に肉料理だったが、せっかく作った料理を母親から一度も褒められたことはなかった。食えたもんじゃないと皿をひっくり返されたこともある。掃除や洗濯をしても文句を言われ、一切の感謝の言葉なかった。母は家に居ながら、家事も何もしなかったというのに。
アビーにとって、狩猟に行くときが一番心がやすらぐ時間だった。飼い猫のマックスを蹴り殺されてからは母とは一切、口を利かないことにしたのだが、向こうから無理矢理話しかけられ口論となるのがいつものことだった。どうして、母はあんな風になってしまったのか。自分にはさっぱりわからなかった。母ともっと仲良く暮らしたかったなあと思いながら、アビーは眠りについた。