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第四話:フィラデルフィア市の惨状

 ペンシルベニア州の南東にあるフィラデルフィア市。

 人口は二〇〇万。


 一九一八年九月二八日。

 フィラデルフィア市で戦時国債購買キャンペーンパレードが強行された。市の歴史はじまって依頼の最大のパレードだった。何百万ドルという資金を集めなければいけないという割り当てが市にはあった。ごく一部の医者たちが第一波のインフルエンザの状況を重く見て中止を勧告したが、市の責任者もフィラデルフィアの報道関係者も全く無視した。


 パレードは三キロまで続く大行列で、何十万人もの見物人が集まった。宣伝をふれ回る者たちが愛国的唱歌を歌うように群衆に仕向け、人々が戦時国債を購入するよう煽り立てていた。上空では飛行機が旋回し、地上からは飛行機に当たらないようはるか下で炸裂するよう調整された対空砲が火を吹いて見物人を喜ばせた。


 その後、三日も経たないうちに市内の三十ある病院のベッドが全てふさがった。病院側は新たな患者の受け入れを拒んだが、それでも大勢の市民が病院の前に列をつくった。しかし、並んだところで診察も受けられず、薬の処方もされずに追い返されるだけだった。実際のところ、診察したところで何の役にも立たなかった。ある病院では午前中に勤務についた看護師が、翌日には死亡した。


 病院の外にもテントが並べられ、収容できない患者はそこの簡易ベッドに横になり、いつ来るかわからない治療を待つ状態となった。ついには簡易ベッドさえ足りなくなり、床に寝そべったまま死んでいった者もいた。市のスラム街では一家が全滅している光景を見た訪問看護師も少なくなかった。


 世界大戦の影響ですでに七割以上の医療関係者が欧州に送られており、そのうえ治療施設のやみくもな拡大により医療スタッフの不足が深刻化していった。いくつかの医学校では学生たちが駆り出され、病室でいきなり一人前の医者や看護師としての責任を負わされたりした。


 死者が大勢出始めた。


 症状が出てからわずか十二時間後に死ぬ者も現れた。通常のインフルエンザのように高熱が出るのに加えて、中には鼻や耳、眼窩から血を吹き出しながら、苦しんで悶えながら死ぬ者もいた。うわ言を言いながら七転八倒し、猛烈な頭痛と激烈な体全体の痛みを訴える者もいた。患者の多くが皮膚や粘膜が暗い紫色になって死んでいった。


 フィラデルフィア市はパレードから五日後、あらゆる集会を禁止し、教会、学校、映画館、劇場、ダンスホールなどを全てを閉鎖した。十日後には毎日、患者は数十万人発生、死者は数百人になった。その後も毎日約三百人が死んでいった。


 葬儀会館の経営者は料金を六倍にもつりあげる者もいたが本人が数日後スペイン風邪の犠牲になった。遺体を置く場所さえなくなった。葬儀屋も墓掘り人も病気になった。墓地の管理者は遺族に墓を掘らせるしかなかった。棺桶まで足りなくなった。棺桶を盗むものまで現れたので葬儀屋は見張りをつけることにしたが、まもなく盗む棺桶もなくなった。仕方なく、死人が出た場合はシーツにくるんで巡回車に乗せるのが普通になった。


 アビーの母親を棺桶に入れなかったのは、棺桶を注文しても当分届かないのがわかっていたからだ。


 市の死体安置所には約四十人分のスペースがあったが、そこに無理矢理二百体詰め込んだりした。死体は汚れた血に染まったシーツに覆われて何段にも積みあげられた。室内に並べられ、廊下にも放置されるようになった。


 死者は瞬く間に増え、死体処理が追い付かず、大きい穴を掘って集団墓地にして遺体を放り込んだ。ついには人力では追い付かず、工業用の蒸気掘削機まで使用して穴を掘り大量処理用の墓にした。


 フィラデルフィア市では家で死人が出た場合、絹の織物を家の扉につるす習慣があったが、そこら中の家々にその織物がつられる結果になった。家庭ではカーテンを引いたままの家が多くなった。ひっきりなしに通る葬列を見なくてすむからだ。


 ポスターやビラで警告が出された。


「痰が死を増やす」


 しかし、そのポスターはかえって人々の恐怖を煽る結果になった。

 警察官たちは「道路に痰を吐く人間を警戒せよ」と指示された。

 歩道にもほとんど人がいなくなった。いても、皆、マスクを被っている。これが新型インフルエンザの第二波だった。

 似たような状況が全世界で見られるようになった。


 それでも「戦時国債を買おう」というポスターは貼り続けられた。政府は国民の戦意が落ちるのを恐れ、スペイン風邪の報道をおさえ、逆にドイツ人への敵対心を煽り続けた。戦時国債の広告には「敵は信じられないほど悪質で冷酷である。われわれはこの戦争に勝たねばならない。ドイツ野郎をアメリカに侵入させて国民が犠牲になるのを許してはならない」との文字が躍った。


 政治家たちは遊説してまわり、対立候補がドイツから金を受け取っているなどと罵倒した。ドイツ系の名のついたビール醸造所や製薬会社は「わが社の役員、取締役は全員がアメリカ人です」との広告を出す必要にせまられた。ドイツのスパイがUボートでやってきて映画館や劇場に新型インフルエンザのウィルスをまいたなどという噂まで流れるようになった。

 

 アビーとエイベルが朝早く起きて、荷馬車で出発してフィラデルフィア市に到着したのはもう昼過ぎであった。ほとんどの店が閉まっているか、開いていても店員が厳重にマスクをしている。アビーたちもハンカチを顔にまいてマスク代わりにした。


 人通りがほとんどない道路を荷馬車で走らせていると異臭が漂ってきた。遺体安置所らしき建物から臭ってくる。建物の扉や窓は開けっ放しで死体が大量に積まれており、防腐処置や死化粧などはいっさい行われていないようだ。氷を添えることさえしていない。アビーは嫌なものを見たと思った。


 エイベルが取引業者に狩猟で得た動物の毛皮を売る仕事を済ませた後、アビーは例の金持ちのところにライフル銃を届けることにした。


 今のフィラデルフィア市はまるでゴーストタウンのようだとアビーは思った。以前来たときは所せましと渋滞になるほどたくさん走っていた真っ黒のフォード社製の自動車も全く走っていない。路上にちらほらと停められているだけだ。


 警官などを除いて一般人がほとんど出歩いていない。『君が必要だ』と星条旗を模したシルクハットをかぶった男性が見る人を指さしているデザインがされた募兵用のポスターがはがれて風に舞っていた。


 アビーはフィラデルフィア市の時間が止まったような気がしてきた。


 大きいマスクをした警官にライフル銃を忘れていった金持ちの家の場所を教えてもらった。そこに行くと立派な豪邸があり、門の前にやはりマスクをした警備員が立っていた。アビーが荷馬車から降りて、その警備員にライフル銃の件について話した。


「あの、この家の方だと思うんですけど、昨日、狩猟の帰りにハドソン村近くの私の家に寄った際にライフル銃を忘れていったんです。それをお持ちしたんですがどうしましょうか」

「少々お待ちください。ご家族の方々に聞いてきます」


 警備員が屋敷の中に入って行った。 


 エイベルがゴホゴホと咳をした。

 ハンカチをはずして痰を路上に吐いた。


「お爺さん、痰を吐くと警官に逮捕されるわよ」

「痰ぐらいでおおげさだな」

「最近、やたら痰を吐いているけど家に戻ったら、一度、シュミット先生の診療所へ体の調子を見てもらったらどうなの」

「いや、大丈夫だよ。たいしたことはない。熱は無いしスペイン風邪に罹ったわけではないようだな」


 エイベルはなぜかよっぽどのことがない限り、村にはほとんど近寄らなかった。なにか必要なことがあるとアビーや兄のビルを行かせたりしていた。アビーは、自分の父親であるアルバートが事件を起こしたせいと思っていた。事件を起こしたのは娘婿のアルバートで、自分の息子ではないのだからそんなに気にしなくてもいいんじゃないかしらとも思っていた。


 しばらくして、警備員が戻って来た。


「お待たせしました。大変申し訳ありませんが、そのライフル銃はもう必要ないのであなた方で処分してくれませんでしょうか」

「え、なぜですか。この銃は新品みたいですけど」

「その銃の持ち主であるこの家のご主人は今朝亡くなりました」

「もしかして、スペイン風邪でお亡くなりになったのですか」


 警備員はアビーの問いに、ただうなずくだけだった。


 アビーが荷馬車に戻るとエイベルが不快な顔をした。


「おい、そのライフル銃、大丈夫なのか。あの警備員が言ってるのが聞こえたんだが、持ち主はスペイン風邪で死んだんだろ」

「風邪は人からうつるんでしょ。銃からはうつらないわよ」


 内心、アビーはただで新品のライフル銃が手に入ったので嬉しくなっていた。しかし、銃だけでは役に立たない。弾丸が必要だ。さっさとフィラデルフィア市から離れたいエイベルを説得して銃砲店に行くことにした。幸いなことに開いていた。


 エイベルを路上で待たせて、アビーは荷馬車を降りて店の中に入る。初老の店主がいた。やはりマスクをしている。その店主に金持ちから手に入れたライフル銃を見せる。


「この銃に合った弾が欲しいんですが、ありますでしょうか」


 店主がライフル銃をしばし見て言った。


「これはM1917エンフィールド銃だな。合うのは三〇-〇六スプリングフィールド弾。ボルトアクション式で弾の装填は五連発クリップを挿入する方式だ。このライフル銃を軍は民間に払下げしているみたいだな」

「あれ、戦争中なのにそんなことしていいんですか」

「もうドイツ側が負けるだろうね。軍関係者の知り合いが教えてくれたよ」

「そうなんですか。ドイツ軍はだいぶフランスの領土に攻め込んでいるみたいですけど」

「占領地を広げすぎだよ。兵士の数が足りないし、いずれ反撃されるだろう。ドイツ陸軍もかなり疲弊しているようだし、そろそろドイツも和平交渉につく機会をはかっているんじゃないかな。例のスペイン風邪で死ぬ兵士が続出しているし、ドイツ陸軍総指揮官のルーデンドルフも、我々が七月の攻勢に失敗したのは新型インフルエンザの感染による戦力低下によるものだとか言ってるようだ。もう、一般市民にも厭戦気分が蔓延しているみたいだな」


「けど、ドイツって国も潜水艦を使って戦艦だろうが民間の客船だろうが片っ端から攻撃するなんて無茶なことしますね」

「そりゃ、イギリスの海上封鎖のせいで食料が入ってこないから国内で餓死者続出なんて目に遭わされたらドイツも怒るだろ。何十万人も飢え死にしてるみたいだよ」


 ああ、そういう理由だったのか。

 どっちもどっちだなとアビーは冷めた感想を持った。


「まあ、もうすぐ戦争は終わるよ。その軍関係者の予想では来月には終わるんじゃないかなってことだったよ。同盟国側のブルガリアが戦線離脱して、トルコもそれにならおうとしているみたいだ」


 銃砲店の主人の話を聞いて、もう戦争は終わりなのかとアビーは少し拍子抜けした。


「結局、スペインからの風邪が戦争を終わらせたってことですか」

「いや、スペイン風邪って呼ばれているが、スペインが発生地じゃないみたいだよ」

「じゃあ、どこから発生したんですか」

「どうやらアメリカらしいって聞いたなあ。なんせ、アメリカからの軍隊がヨーロッパに到着して以降、インフルエンザが広まったって話だからな。本当かどうか知らないが」


「そうすると、なんでスペイン風邪ってみんな呼んでいるんですか」

「スペインは中立国なんだよ。世界大戦には参加していないんだ。だからこの新型インフルエンザについても、大っぴらに報道したんだよ。そのせいでスペイン風邪って名称をつけられたみたいだ。まあ、スペインは濡れ衣を着せられたもんだなあ。戦争に参加している他の国は報道管制していたからね」


「そうだったんですか。もう戦争も終わりなんですね。けど、戦時国債を買おうって、つい先日フィラデルフィア市で大パレードを行ったんですよね。そのせいで、この街ではスペイン風邪が大流行しちゃったみたいですけど。他の市でも大々的にそういう催しを行っているのはなぜですか」

「そりゃ、政府は金がほしいからさ。戦争はまだまだ続くって思わせたいのさ」


 なんとなく釈然としない気持ちのまま、アビーはこのライフル銃用の五連発クリップ十個入りを二箱購入した。


 アビーが店を出ようとしたとき、店主から注意された。


「それから、普通、風邪とかインフルエンザってのは体力の無い老人が死んでいくものだが、今回は罹ってもほとんどが生き残っているようだ。この新型インフルエンザはなぜか若者が中心に罹っているみたいだぞ。どうも年寄りたちは、若い頃にこのスペイン風邪と似たようなインフルエンザに罹ったから免疫があるって噂を聞いたことがある。ただ、三十才未満などの若い人はその免疫が無いみたいだ。君も気を付けたほうがいいぞ」

「ご心配ありがとうございます。ところで銃砲店の方に聞くのもなんですけど、この風邪って、いつ治まると思いますか」

「わからない。ただ、いずれは治まるだろう。結局のところ、単なるインフルエンザだからな。発症しても助かった人は大勢いるよ」


 アビーが店から出ると、新聞が路上に捨てられていたのを見つけた。一面には戦争の記事ばかりだ。他の記事と言えばウィルソン大統領が上院で女性に選挙権を与えることについて好意的な発言をしたことぐらい。スペイン風邪については、何枚かめくってやっと小さい記事が載っているだけだった。

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