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第一話:母親の遺体を運ぶ

 強風で砂ぼこりが舞いあがる中、老朽化した四輪荷馬車がギシギシと音を立てて、細い村道をゆっくりと進む。御者台に座っている長いあごひげを生やした老人が、時たま馬に弱々しくむちをあてる。ひげはすでに真っ白で、頭の髪の毛もかなり薄くなっており、本来は金髪だったものがほとんど白髪になっている。


 老人は砂ぼこりが目に入ったのか、まぶたをさかんにしばたたく。涙が流れ落ちそうなのを我慢しているようにも見える。砂ぼこりだけが涙の原因ではない。その顔には深いしわが刻まれていて青い瞳には生気がない。自分の人生が終盤にさしかかろうとしているときに、突然降ってわいたように起きた悲劇に呆然としているようだ。


 老人はため息をついた。

 全くいいことがなかった娘の人生を振り返って深い悲しみに沈んでいるようにも見えた。


 荷馬車を引っ張っている馬もかなりの年寄りで自分にむちをあてている老人同様に、もうすぐ寿命がつきそうなのがわかっているかのように元気がない。のろのろとほとんど歩いているだけなのに走っている時のように鼻息が荒く、むちをあてられるたびになんとなく億劫そうにしている。たてがみにもつやがない。この馬はジョンと名付けられているが、知り合いから譲ってもらったときからそういう名前を付けられており、その由来は老人も知らない。


 風がおさまった。


 真昼だが、空はどんよりと曇っていて今にも雨が降りそうだ。老人の今の気分に合わせたかのような天候だ。もう季節は秋で日の光があまり出てないわりに今日は普段より少し気温が高く、やや蒸し暑い。老人の額も少し汗ばんでいる。

  

 アメリカ合衆国ペンシルベニア州の片田舎。


 祖父のエイベルが手綱を取る荷馬車の上で揺られながら、アビー・ウィリアムズは幌が付いていない荷台の後方の端っこに座り、足をぶらぶらさせている。アビーの髪の毛は濃い茶色、一本結びにして背中に垂らしている。瞳の色も茶色で顔にはソバカスがいっぱいあるが、本人はたいして気にしていない。母親の顔はきれいな肌をしていたので、自分も成長すればこのソバカスも消えるだろうと思っている。


 服装は灰色のワンピースの上に白いエプロンを着ている。どちらもあちこちがほころびているありさまだ。貧乏なので、持っている服も全部古着で数も少なく、いつもこんな冴えない格好で過ごしている。


 アビーがふと見ると、革靴とスカートの間の肌が露出している足首の部分に蚊がとりついていた。彼女は、動くなよ、動くなよと念じながらそっと手を近づける。


 一瞬で蚊を叩き潰した。


 手のひらには潰れた蚊とそいつが吸っていたであろうアビーの赤い血が少しついた。


 アメリカが欧州を中心とした世界大戦に参戦して以来、男たちが徴兵されて働き手が少なくなってしまった。そのため、今まで主に男性の職場だった場所に女性が進出することになり、働きやすくするため、地面すれすれの長さが伝統だったスカートが多少短めになって動きやすくなった。その点についてはアビーも気に入っている。母親が着ていた古着は、その母より少し背の高いアビーが着ると足の肌が見えてしまう。昔ならはしたない女性と思われてしまうところだ。


 アビーが生まれた頃、女性はみなコルセットで腰を絞っていて、貧しい農家でもわざわざ木材などで自分たちで作って着ていたようだ。貴族でもない農民の女がなんでそんなものを着て腰を細く見せなきゃならなかったのか、そして、よくそんな窮屈な格好で農作業ができたものだと、今年十七才になったアビーにとって不思議でならなかった。もちろん、アビーはコルセットなんてものはつけたことはない。


 気がつくと荷馬車の後方から自動車がやって来た。パッカード社製の銀色に塗装した高級車だ。最近見かけるのは安いフォード社製の真っ黒いボディのモデルT型ばかりなので、珍しいなとアビーは思った。


 フォード社の社長ヘンリー・フォードが流れ作業方式を採用して大量生産を始めた結果、格安の値段になったフォード社製自動車は市場を席巻し、労働者階級でも多少無理をすれば自動車を持てる時代にはなった。アビーが住む森の中の掘っ立て小屋の近くにあるハドソン村でも購入した人がいた。


 ただ、安くなったとは言え、さすがにウィリアムズ家のようなかなり貧しい家が買うには少々高すぎる。アビーは颯爽と自動車を操る人々をうらやましそうに眺めるだけだ。


 アビーは荷馬車の御者台で年を取った馬のジョンを操っているエイベルに言った。


「お爺さん、自動車がやって来たよ。邪魔になるから横に寄せたら」

「なんでいちいち道を譲らなきゃいけないんだ。この道はみんなのものだぞ」


 エイベルは機嫌悪そうに答えた。


 年寄りってのはわからず屋が多いなあ、妙ないざこざに巻き込まれたら困るじゃないか、今、私たちは母の亡骸を運んでいるんだからとアビーは思い、再度エイベルに言った。


「もし、事故に遭ったらまずいじゃない」

「しょうがないな。わかったよ」


 ため息をつきながらエイベルは手綱を操り、荷馬車を道路脇に進める。

 少し咳き込むエイベル。

 痰を地面に吐いた。


 アビーが少し心配そうに言った。


「お爺さん、大丈夫。最近、よく咳をしているけど。食事のときもたまにむせたりとか、あと声もかすれてるし」

「ああ、たいしたことないよ。ちょっと口の中に砂ぼこりが入っただけだ」


 エイベルは荷馬車を田舎道の端っこに寄せると、一旦停めて手で合図して自動車に道を譲った。荷馬車の側を通り過ぎていくとき、自動車の後部座席に乗っている鳥打帽をかぶった中年の男性がアビーたちに片手を上げて会釈した。速度を上げてあっという間に荷馬車から離れていく銀色の自動車を見て、アビーはもう馬がいろんなものを引っ張っていく時代は終わりなのかなあと感慨深い気分になった。


「金持ちのようだが、こんな田舎に何の用があるんだ」


 自動車が通り過ぎた後、少し文句を言いつつ、エイベルが馬にむちをあてて再び荷馬車をゆっくりと道に戻して動かし始めた。馬の方は相変わらず億劫そうな感じで荷馬車を引っ張っていく。


「目的はスポーツ・ハンティングじゃないかしら。ケースらしき物が車内に置いてあって、ライフルのような銃口がはみ出てたのが見えたよ。鹿でも狩るつもりなんじゃない」

「遊びで鹿狩りか。鹿も迷惑じゃないのか。困ったもんだよ、鹿は激減しているってのに。こっちは生きていくために必死になって狩っているんだけどな」


 アビーの一家は主に狩猟でなんとか生計を立てている。祖父の愚痴を聞いて、金持ちの遊びだろうが、貧乏人が生きていくために必死になろうが、狩猟される動物たちにとっては知ったことではないんじゃないかとアビーは思った。


 それに鹿などの野生動物が減っているのは、農業や林業、工業などの発達で森林を人間たちがどんどん削っていったのが主な原因と聞いたこともあった。スポーツ・ハンティングで狩られた鹿なんてほんのごく一部だろう。このまま動物たちが減っていくと、自分たちの生活にも影響を与えるんじゃないかとアビーは心配になった。


 荷馬車の荷台にはライフル銃が備え付けてある。

 銃弾を保管する箱も付いている。

 アビーは何気なくライフル銃を留め金から外して手に取ってみた。

 ぼんやりと周囲を見回す。


 途中に小さい畑があり、カボチャの皮をうまく組み合わせて作った案山子を見つけた。アビーは持っていたライフル銃を畑に立っている案山子に向けた。

 あの案山子を例の犯人に見立てて照準を合わせる。

 アビーは犯人の顔を見たことはないが。


 距離は約五十メートル。


 この距離なら、この荷馬車の荷台で揺れていてもあの案山子の頭をふっ飛ばす自信がアビーにはあった。しかし、弾がもったいないので撃つつもりはない。それに、今所持している古いウィンチェスターライフル銃のレバーの稼働部分が少しガタがきたような感じがして、新しい銃が必要だとアビーは考えている。いずれ、エイベルに新品のライフル銃を買うよう勧めてみるつもりだ。


 案山子じゃなく、動物でもなく、人間を撃ち殺したらどんな気分になるのだろうか。


 そんな考えが不意にアビーの頭に浮かんだ。さほど信仰心は深くはないが、素朴なキリスト教の教えを一応信じているつもりのアビーは人を殺せば地獄へ落ちるだろうと何となく考えている。


 自分の父親はつまらぬ喧嘩で人を殺した。地獄へ落ちてしまったのだろうか。兄のビルはフランスで戦死したが、その前に何人の敵を殺したのだろう。上からの命令でも人を殺したら地獄へ落ちるのだろうか。敵国の人間を殺した時、兄はどう思ったのだろうか。気分が悪くなったのか、それとも敵を倒したという高揚感を覚えたのか。または何も感じなかったかもしれない。そして、母親を殺してあの文章を壁に書いた犯人は地獄に落ちるのは怖くなかったのであろうか。


 そもそも天国とか地獄なんて本当にあるのだろうか。人間が頭の中で作った幻想のような気がしないでもない。アビーは地獄の絵を見たことがある。ハドソン村に狩猟で取った毛皮を持って行ったときにボブ・ケントが丸めた紙をアビーの頭に投げつけてきたのだ。「この殺人者一家、全員地獄に落ちろ!」とひどい言葉を浴びせながらだ。


 ボブ・ケントとは村にいる若造でアビーとは昔から仲が悪い。ボブ以外からも多くの村人からアビーの一家は嫌われているが「殺人者一家」などと悪口を公然と言い放つのはこのろくでなしのボブ・ケントの野郎だけだ。


 アビーが頭に当たった紙を広げてみると本か雑誌かわからないが、そこから引きちぎった大昔の画家が描いたと思われる地獄の有様が描かれていた。普通の人間が想像しそうな地獄の絵だった。日の光が全くとどかないような場所でいかにも人間がやりそうな中世時代の頃の拷問などを地獄に落ちた人々に悪魔たちがやっている。


 平凡な絵だなとアビーは思った。この絵に描かれている悪魔とは人間のことじゃないのだろうか。本物の地獄とはどんなものだろう。アビーには見当がつかなかった。

  


『弱い者は死ぬべきだ』



 部屋の壁に外国語で真っ赤な文字で書かれた文章がアビーの目に焼きついていた。

 その文字は母親の血で書かれたものだ。


 荷台にはアビーの母、アイリーンの遺体が置いてある。遺体はシーツで巻いただけなので、母の長い髪の毛が外にはみ出てしまっていた。それを見たアビーは、一旦、遺体からシーツを取った。そして、母の髪の毛を丁寧にまとめると再び体全体をゆっくりとシーツでくるんだ。


 母はまだ四十代でもとはきれいな金髪だったが、遺体の髪の毛を見るとすでに白髪がかなり目立っていた。首には包帯が巻いてある。若い頃は美人であったであろうその顔には苦悶の表情が浮かんでいた。八十代の老婆のようにも見えた。しかし、それは今回の事件のせいではなく、まるで自分の母親は死ぬまで苦痛しかなかった人生の結果のようにも見えた。


 アビーは母が楽しそうにしている時を一度も見た記憶がなかった。母は何のために生きていたのだろう。子供の頃は楽しいこともあったのだろうか。生まれたときは神様の祝福を受けていたはずなのだが。そして、その結末がこんな悲惨なことになろうとは。アビーは白髪まじりのアイリーンの髪の毛を見たことでさらに悲しくなった。母が生きていたころ、こんなに白髪が増えていたことに自分は全然気づかなかったからだ。アビーは少し涙ぐんでしまった。


 アビーは馬のジョンを操っているエイベルに聞いた。


「お爺さん、お母さんは生きてるときに笑ったことってあったの」


 彼女の問いにエイベルが一瞬、黙る。

 馬にむちをあてる。


 再び風が吹いてきた。


 そして、エイベルが口を開いた。


「そりゃ、あるに決まっているじゃないか」

「けど、私は一度も見たことないけどなあ」


 アビーの返事にエイベルはまた黙ってしまった。荷馬車が立てるギシギシという音だけがアビーの耳に響く。アビーは、黙っている祖父の背中から、母の人生をさかのぼってなにかいいことがなかったか必死に探しているようにも感じられた。


 しばらくして、エイベルがアビーに語りかけた。


「アイリーンはいろいろとつらいことがあってなあ。それでおかしくなってしまったんだよ。まだ小さいころは明るくて周囲をよく笑わせていたもんだけどなあ。結局、こんなことで命を落としてしまったが、まあ、先のことなど誰にもわからないからさ。人生とは、生きていくこととは厳しいものなんだよ」


 自分の母親が周囲の人たちを笑わせている姿をアビーは想像できなかった。アビーが思い出せる母親と言えば、彼女を殴ったり叩いたりする恐ろしい顔、罵声をあびせる歪んだ顔、そして、部屋に一人でポツンと椅子に座りぼんやりと憂鬱そうにしている顔など、およそ人生に楽しいことなんて全く無いような姿だった。


 馬車が揺れるのでシーツでくるんでいるだけの母の遺体が時折動く。もう亡くなったというのに、いまだに人生の苦痛にもがき苦しんでいるようにも見えた。もし天国があるならば母の魂がそこへ行くようアビーは願ったが、その魂はいまだこの現世で迷っていて、いずれ天国へも地獄へも行かずにそのまま朽ち果てるのではないかと思わせた。アビーは再び、母の遺体をしっかりとシーツで包みなおした。


 ウィリアムズ家はアイリーンの遺体をシーツに巻いただけで、棺桶におさめることはしなかった。しかし、貧乏だから棺桶が買えないのではない。今、世間は棺桶そのものがない状況なのだ。


 一九一八年一〇月。

 スペイン風邪という新型インフルエンザが大流行している。

 突然、大勢の人が死んでいった。


 アビーは医学に全く詳しくないので、インフルエンザとは重い風邪というくらいの認識しかない。しかし、そのアビーでも人からうつるくらいの知識は持っていた。スペイン風邪に罹らないためには人混みを避けること。それが一番の方法だ。


 しかし、政府はこの新型インフルエンザの大流行をあまり報道したがらないのをアビーはよく知らない。ヨーロッパでドイツを中心とした同盟国と戦争をしているので、その最中に死亡率の高いインフルエンザが大流行していることが国民に知れ渡ると戦意が落ちるかもしれないので、それを防ぐためだ。


 アビーは国際情勢なんかには全然興味がない。そんな彼女でも、約四年前にヨーロッパでオーストリア帝国の皇太子夫妻がセルビア人に暗殺された事件が世界大戦勃発のきっかけとは知っていた。ただ、オーストリアとセルビアの問題なのに、なんでドイツとフランスが戦争を始めるのか、それに続いてイギリスとかロシア、トルコなどの国が参戦して、他にもブルガリアとかルーマニアなどなんとなく名前を聞いたことがあるがどこにあるのか漠然としている国々同士が、いったいなんのために連合国と同盟国に別れて何年も殺し合いをしているのか理解できなかった。セルビアなんて国は暗殺事件が起きて初めて知った。

 

 オーストリア皇太子夫妻を殺した犯人はその場で捕まったんだから裁判にかけて終わりじゃないのか。アビーが生まれる数年前にオーストリアの皇后がイタリア人の政治活動家に暗殺された事件があったとエイベルから聞いたことがある。しかし、別にオーストリアとイタリアはそれが原因で戦争になってはいない。領土問題とかいろいろと問題はありそうだが、お偉い人たちが話し合いで解決すればいいのに。


 フランスのソンムって場所での戦いではわずか四か月余りで両軍合わせて百万人以上の兵士が死んだと聞いた。それだけ多大な被害を出しても戦線がほとんど動かず膠着状態が続いているって情報を知ったとき、人間とは愚かな生き物だなという感想をアビーは持った。


 そんな世界大戦に自分が住んでいるアメリカまで参戦してしまった。ドイツが潜水艦で戦艦だろうが民間の旅客船だろうが戦闘海域に入ったら無制限に攻撃を始めたからだ。アメリカ人が乗っていた旅客船もその被害を受け沈没し大勢の被害者を出した。


 おまけにそのドイツの外務大臣がメキシコに対して、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナをメキシコ領に回復することを支援するかわりにアメリカを攻撃するようけしかけていた件が暴露されると、アメリカ世論は激昂し、戦争に参加するのに否定的な人たちは反社会的分子同然の扱いを受けるようになった。


 今、アメリカ人の多くが気にしているのはオーストリア人でもセルビア人でもなく、ドイツ人のことだ。多くのアメリカ人は、ドイツ帝国の目的はアメリカをはじめとした自由世界を脅かす専制政治的な大帝国を築くことだと信じたからだ。右翼的な政治団体はアメリカが強力な国民国家になるよう求めるようになり、アメリカ政府も兵士の忠誠心確保、士気向上のため文化政策としてのアメリカ化を重視した。


 国内各地ではドイツ系アメリカ人がリンチで殺された。

 政治家やマスコミが「ドイツ語を教えるものは男も女も反逆者だ」、「米国在住のドイツ人は全員スパイだ」、「ドイツ人に近づいてよく見てみろ、ケダモノだとわかるだろう」などと扇動したのも原因だ。


 しかし、アビーの母親はスペイン風邪で死んだわけではない。

 リンチで殺されたわけでもない。

 アビーの一家はドイツ系ではない。


 アビーの母は村の診療所で殺された。

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