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ヴァニタス

文学賞供養


 部屋に響く蝉の声に、少年は眠りから起こされた。

 気だるげに目をこすって、正面のドアの真上にかかっている時計を見た。短針は1、長針は12をさしていた。


 季節に合わない厚い布団を足の方へどかして、呆然と空を見上げる。

 その左足はギプスで覆われており、色のない白い壁には、松葉杖が二本立てかけられている。

 ベッドの目の前にある机に、充電器の挿されたタブレットが置いてあり、横には三本のタッチペンと、数冊の画集が置かれてある。画集は、すべて「彩葉」という名前の作家のものであった。


 画集を取ろうと彼は手を伸ばしたが、自分の足にはめられたギプスを見て、深いため息をついた。

 そして、またベッドに寝ころんだ。


 その時、ドアの開く音がして一人の少女が部屋に入ってきた。


「やぁ蒼、元気にしてた?」


 少女は学校の帰り道に寄ったようで、黒い制服を身につけていた。


「こんちゃー。足が動かないのと暇すぎるの以外は異常なしだよ」


 蒼は体を起こしながら答えた。


「じゃあ元気だね。それにしても本当におかしいよ。神社にお参りした帰りに階段から転げ落ちて左足骨折なんて。どんな不敬をはたらいたのさ」


 少女はそういって彼をからかった。


「いやいや、僕はただお願いしただけだよ、自分の夢を見つけられますようにってね」

「その結果こうなるなんて、よっぽど神様ってやつに君は嫌われてるらしいね」

「そうらしいや。神様に好かれるにはどうしたらいいのかねぇ」

「さぁね、私にもわからないよ」

「まぁ、確かにわかるわけがないね」


 伸びた前髪を人差し指でいじりながら蒼は苦笑した。

「まぁ元気そうでよかった、私、暇だと思ってお土産を持ってきてあげたんだけど、いる?」


 そう言って少女は、左肩にかけていたバッグを持ち上げて見せた。


「何が入ってるの?」

「蒼が大好きな彩葉さんの画集。新作だよ」

「いいの?ありがとう優香理!」

「どういたしまして。代金は出世払いでいいよ」


 優香理は蒼に袋を手渡した。

 袋を受け取るとすぐさま蒼は中から一冊の画集を取り出し、眺め始めた。


 すると、ページの隙間から一枚の紙が落ちてきた。


「出世払いって、学校の図書室のやつでしょこれ。貸出カード挟まってるんだけど」

「あーバレちゃったか。ま、人件費ってことで」

「人件費って……しょうがない。ジュース一本ね」

「やったー。ちょうど飲みたかった新発売のエナジードリンクがあるんだよね〜」

「奢りだからって露骨に高いのを買わせるなよなぁ」

 蒼は笑いながら画集のページをめくっていたが、画集の中のある絵で蒼はページをめくる手を止めた。

「……雨?」

 ポツンと遠い場所に立っている……女だろうか。足が鎖で繋がれていて、ボロボロの白い服を着ているように見える。そんな女が、ただ何もない真っ白な空間で、雨を一身に浴びている絵だった。


 筆のタッチは力強く塗り重ねられているのに、絵の主人公であるはずの女は、何処までも遠くて、人の女であるというのを認識できる以上の情報は何一つなかった。口も目も、鼻も、髪も、どこにも特徴的なものはなく、どこまでも平凡な顔をしていた。目を閉じてしまうと、1秒と経たず忘れてしまいそうだった


 そして背景についても、ただ筆を押し付けて下に引っ張っただけの、およそ画法と呼べるものではなく、まだ物心つかぬ子供が大雨を描こうとしたような、粗雑な雨の描写である。


 繊細な絵を描くことで知られる彩葉がこのような絵を描くことは、蒼が知る限り初めてだった。

「叫び......?」


 その作品の名前は、「叫び」であった。


「……?」

 蒼は、その作品を少しも理解できずに首をひねった。


「どう?いい絵は見つかった?」

 優香里はベッドに片腕をついて、蒼の横から覗きこんだ。

「これが好き……かな」

 蒼は本を閉じて、続ける

「僕もこんな作品が描けるようになれたらいいなぁ……」

「……蒼なら描けるよ」

「そっか」

「きっと、そうだよ」


 そう言って優香里はベッドから手を離した。

「目指さないことには描けるかどうかすら分からないし、描くかぁ」

 蒼は寝転んだ。


 コンコンと小気味のいい音でドアがノックされた。

「検診でーす」

「はーい」

 時計の短針は、もう3の字をさしていた。

「じゃあ私はもう帰るね、また明日」

 優香里は医師と入れ替えに帰っていった。去り際に優香里は「頑張れ」とエールを残していった。


 翌日、朝の六時ちょうどに起きた蒼は、すぐさまテーブルに置かれてあるタブレットへ手を伸ばした。そのまま電源を入れ、アプリを起動する。


 起動後に画面に表示されたのは、どこかの庭園を映した一つの絵だった。

 中央には澄んだ川が流れており、その左右には庭木が植えられ、敷き詰められた砂利は、太陽の光を反射していた。

 しかし空だけは、何も色がついていない未完成の状態だった。

「はぁ……」


 それを見て、蒼はため息をついて、その絵を削除しようとタブレットを手に取った。

 しかし思いとどまって手を離し、枕元に置いてあった、昨日優香里が持ってきた彩葉の画集を開き、パラパラとめくり始めた。

 そしてまた体をベッドに沈ませて、呆然と空を見上げはじめた。


 そしてしばらくして、思い立ったようにまたタブレットを手にとり、さっきの庭園の絵の空に、線を引き始めた。

 それが一つの雲の形を取るまでに、三時間かかった。描いては消し、描いては消しを繰り返したのである


 しかしそれでも、彼はその絵を消すか消さないか迷っていた。自分の頭の中にある景色と、自分が実際に描いた景色とでは、雲泥の差があった。

 曇り空を見上げながら、彼はまた、ため息をついた。


 午後になって、そろそろ五時になる頃に、また優香里が訪ねてきた。

「やっほ〜。寂しくなかった〜?」

「別に寂しくないよ、子供じゃあるまいし」

「かと言って私たち未成年だから大人でもないんだけどね〜」


 優香里は苦笑する。


「あっそういえば、来週にはリハビリが終わりそうなんだよね」

「本当?それじゃあもうすぐ退院?」

「そうだね、日曜日には退院できるかな」

「そっか、治ってよかったね」


 優香里は表情を緩めて、不意に蒼の手元のタブレットを取り上げた。

 そして、うーん、と小さく唸り声をあげながら、蒼のタブレットを眺めた。


 数分経って、優香里は口を開いた。

「これ、雲いらなくない?」

「必要ない?なんで?」

「なんか、この雲があると窮屈に感じるっていうか、この庭園は雲ひとつない空の方が似合うっていうか」

「そうかな……じゃあ消してみるよ」

「まぁ素人意見だから、参考になるかは分からないけど」

 そう言って、優香里はタブレットを返した。


「いや、そんなことはないよ自分じゃわからないことだってあるからね、他人の視点は大事だし」


「そうだね、自分じゃ気づかないこともあるもんね」

 優香里は手に持っていた缶コーヒーを開けて、机の上にノートを置いた。


「勉強?」

「ううん、お絵描き」

 シャーペンを回しながら優香里はこたえた。


「へぇ、優香里にそんな趣味あったんだ」

「あった、というより『できた』だけどね。最近模写を始めたんだけど楽しくて」

 優香里はコーヒーを一回啜ってから、

「まだ人様に見せられるものじゃないけどね」

 と付け加えて、ノートにシャーペンを走らせた。それを見て、蒼も自分のタブレットに向きなおった。


 その後優香里が帰るまで、二人は一言も発せずに絵を描き続けた。


 2日後、退院した蒼は、自宅の私室のベッドで寝転んでいた。優香里から渡された彩葉の画集を持っているが、持っているだけで、ページを開いてはいなかった。


 彼は偏頭痛もちで、気圧の変化にことさら弱かった。あいにく今日は記録的な大雨だった。


 雨が少し弱まったころに、彼は持っていた画集を机の上に置いて、松葉杖を突いてリビングへ薬を取りに向かった。


 リビングにつくと蒼はタンスへ手を突っ込んで薬の箱を取り出した。

 薬箱には頭痛薬、風邪薬、吐き気どめなど様々だった。

 彼はそこから頭痛薬を二錠とりだして、コップに水を入れてひといきにのみほした。

 そしてシンクにコップを置くと、そのまま頭を押さえて自室へと戻った。途中、廊下の壁にぶつかった。

 自室の扉を開けると、彼はすぐさま松葉杖をベッドの近くの壁に立てかけると、すぐさまベッドに倒れ込んだ。

 その後、彼が眠りにつくのに3分もかからなかった。


 気がつくと、蒼は両足で立っていた。見渡す限りの真っ暗闇だった。彼は少しばかり恐怖を覚えた。

 しばらく立ち尽くしていると、ひとりでに蝋燭がついた。


 そこは螺旋階段の途中だった。下には真っ暗闇が、上には蝋燭に照らされた透明なガラスの階段が続いている。彼は上に向かって登り始めた。

 登っていくたびに、彼の足元は暗闇に変わっていく。彼はそれを知らないで、光が続く道へと進み続ける。


 頂上が見えた瞬間、突如としてガラスの階段は崩れ、彼は暗闇へと真っ逆さまに落ちた。


 落ちたそこは、水の底のようだった。息をしようともがくが、沈むばかりで、上へと上がることはなく、光すら見えないなか、ただ下へ下へと沈んでいくばかりであった。


 けれど彼はもがいた。力の限り精一杯、どこが上なのかすら分からずに、溺れたくない一心でもがいた。

 結果沈む速度が増すばかりで、彼の体は、だんだん鉛のように重くなっていった。


 諦めた彼は、いつかは沈むのが終わるだろうと開き直って、一切の抵抗をやめた。

 そして抵抗をやめてるとすぐに、彼の体は沈むのをやめた。

 ふと、明るい光を感じて、上へ視線をやると、一条の光が彼を照らしていた。

 しかし彼は、その光へ手を伸ばすことはしなかった。いや、伸ばせなかった、と言う方が正しいだろう。何故伸ばせないのか考えるうちに、彼の意識は消えていった。


 蒼が目覚めると、そこは自分のベッドの上であった。

 シャツにはじっとりと汗が滲んでいて、青い生地に大きなシミを作っていた。

 彼は悪夢を見たと頭を抱えたが、酷かった頭痛は和らいでいたので、寝る前よりは気分が楽だった。


「そうだ……描いてみよう」

 彼は、あの夢で見た光景を絵にすることを考えた。さっそくあの光景をメモに事細かに描き、その時見たすべてを一枚に収めようと、タブレットを起動した。


「よし……」

 しばらくして、蒼は絵の下書きを完成させた。それは蒼がガラスの階段から落ちる瞬間の絵を描いたものだった。

 描き終わる頃には頭痛なんかすっかり消えていた。

 しかし出来上がったものは、何故か彼を不愉快な気持ちにさせたので、彼はその絵を削除して、ベッドに寝転び、窓から外を覗き込んだ。雨は降っていなかったが、曇天が空を覆っていた。


 彼はため息を吐いて、ベッドに置かれていた画集を手にとり、「叫び」のページを開いた。

 遠い、と彼は感じた。自分の技量と、彩葉の技量はもちろんのこと、自分には足りない『なにか』が、この作品にはあると思った。見る人間の心をこうも揺さぶる『なにか』が、見た人間の心に沈み続ける、錘のような『なにか』が、この「叫び」にはあった。

 その『なにか』を知らない限り、蒼はこの作品には一生かかっても追い付けないのだと悟った。

 けれど、彼にはこの差を埋めるためにどうすれば良いのかを知らなかった。


 不意に、携帯のアラームが鳴った。それは優香里からの連絡で、「明日学校に持ってくるもの」というメッセージとともに、学校の準備物が書かれたプリントの写真が送られてきた。


「そっかぁ……明日から学校かぁ……」

 蒼は折れた足を見て、松葉杖を手にとった。木製の簡素な松葉杖は、蒼の手によく馴染んで、まるで歩けなくなることを予期されていたとさえ思えた。


 翌朝になると、曇天は快晴の空に変わっていて、太陽がアスファルトに反射して、目に見えるほどの熱気を放っていた。蒼は松葉杖をつきながら、その上を歩いていて、ほおを伝う汗を時々足を止めて拭った。


 家を出て10分が経過した頃、一人の少年が蒼の肩を叩いた。少年は自転車に乗っていて、銀のメッキが太陽の光を反射して輝いていた。

 少年は夏服のボタンを上まで止め、黒縁の細い眼鏡をつけていて、蒼はつけていないネクタイもきっちりと上まで締めていた。


「久しぶり、蒼」

「修二、久しぶりだね」

「大変そうだな、持つよ」

 そう言って修二は蒼が背負っていたバッグをとって、自転車のカゴに入れた。


「で?足はどうなの?もう治った?」

 修二は聞きながら、自転車から降りた。

「まぁこうやって歩けるくらいには。走ったり、泳いだりなんかの激しい運動はまだダメだし、杖がないと転びそうになるけど」

「へー。まぁ、元気そうでなにより」


 その後、二人は学校に着くまで、蒼が入院していた時のことを話し合った。途中何人かが自転車で彼らを追い越していって、その度に蒼は「自転車って便利だねぇ」と呟いた。


 校門へ着くと、生徒会の役員と、生徒指導の先生が挨拶をしていた。二人は小さく会釈をして、そこを通り過ぎた。

 教室の席はもうほとんど埋まっていて、時計を見ると、ホームルームが始まる時間の二、三分前だった。

 蒼は自分の席に着こうとしたが、そこにはもう人が座っていた。


「蒼〜、こっちだよ〜」

 呼ぶ声の方向を向くと、優香里の席の横に、誰も座っていない席があった。

「席替え、してたんだ」

「蒼が入院してすぐに一回ね、来月また席替えするらしいよ。それまで私の隣だね」

「そうなんだ、まぁ優香里が隣でよかった」


 ガラリ、と音を立てて初老の男性が教室へと入って来ると、教室はささやき声の一つも聞こえなくなって、やがて出席簿をめくる音が響いた。

「じゃあホームルーム始めるよ。号令かけて」


「起立!」

 修二の号令がかかり、蒼は急いで席をたった。

「礼」

「着席」


「えー本日は……」

 教師が予定を話し始めたが、誰も教師の方を見ようとはしなかった。そしてまた礼をしてホームルームが終わった。


 椅子を引くガタンという音が教室に響くなか、教師は蒼に近づいてきた。

「蒼、今日の放課後、時間あるか」

「はい、ありますけど……」

「じゃあ今日面談やっていいか?」

「はい、大丈夫です」

「分かった。じゃあ放課後ここ……は確か吹部が使うから、美術準備室でいいか?」

「わかりました。放課後に美術準備室ですね」

 教師が去ると、蒼は筆箱から付箋を取り出して『放課後 美術準備室』と書き込んで、自分の机の隅に貼った。顔を上げると、各々がグループをつくって、雑談をしていた。優香里も、修二も、それぞれの友人たちと話しこんでいた。

 蒼は諦めて、次の授業の準備物を確認し、机に両腕をついて、呆然と黒板の上にある時計のあたりを眺めた。時折り、伸びた長い爪を開いた手で触っていた。


 チャイムがなって、授業を担当する教師が教室へと入ってくる。授業の内容は蒼にはもう全然わからなくなっていて、彼は気がついたら机に突っ伏していて、授業の終わりを知らせるチャイムがなっていた。

 蒼は先生が帰った後、こっそりと、カバンに入れていたスマホで黒板の写真を撮って、電源を切ってカバンに戻した。

 そんな風なことを放課後までに三回は繰り返して、隣の席でそれを見ていた優香里に『寝坊助さん』という称号を与えられた。


 放課後、蒼が指定の場所へ行くと、教師はもう椅子に座っていた。教師は蒼が入ったのを確認すると、机を挟んだ対面にある椅子に座るよう促した。

「蒼、お前、大学どうするか決めたか?」

 蒼がすわるなり、教師は蒼に問いかけた。

「美術系の学校に行きたいとは……」

「やっぱり美術系か……」

 メモを取りながら、教師は続けた。

「具体的な学校は決めてあるか?」

「どうでしょう……東京の公立が良いとは思いますが……それくらいですね……」

 蒼の紡ぐ言葉は、弱々しく、もごもごとしていて、聞き取るのが難しいくらいだった。

「そうか……東京の公立ってことは東京藝大か?」

「そうですね……そうかも知れません……」

 その言葉を最後に、しばしの沈黙が訪れる。いつの間にやら降っていた雨だけが音を発している。

 教師は額に持っていたボールペンを当てながら話した。

「まぁ、蒼の学力なら問題はないと思うが……問題は絵だな」


 再び、沈黙が訪れた。蒼は俯いて、小さく息を吐いて、教師の言葉を反芻する。

「絵、ですか……」

「お前の画力じゃ、藝大に受かるには厳しいと思う」

 蒼は机の下で拳を握りしめて、奥歯を強く噛んだ。

「そうですか……」

 蒼は努めて抑揚のない声音で返す。そうでもしないと、棘すような口調で話してしまうと悟ったからだ。

「私立じゃダメなのか?」

「親がなるべく公立にと……」

「レベルを落とせば、合格できるところはあると思うんだけどなぁ……そう言えば、優香里も藝大に行くとか言ってたけど、それの影響?」

「優香里が……!?」

 蒼は俯いてから初めて、顔を上げて教師の顔を見た。蒼の顔には驚愕の二文字がありありと前面に出ていた。


「あぁ、今までは進学とだけ言ってたんだが、ようやく行きたいところを見つけたらしくてな。まぁ、受かるかどうかはまだ判断しかねるが」

「そうなんですか……意外ですね。今までそんな素振りを見せたこと無かったんですけど」

「まぁ、何かしらで突然人生の舵はさられるもんだ。お前だって、彩葉の『ニゲラ』を見てから、画家を目指し始めたんだし」


「それは……そうですね」


「だろ?そんなもんだよ。俺の恩師だって、超がつくほどのヤンキーから更生して高校の先生になったわけだしな」

「はぁ……そうなんですか……」

「そうなんだよ。まぁ話を戻すけど、公立だけでなく私立も検討してみてくれ、視野を広く持つのは大切だからな」

「わかりました……」

「まぁとりあえず話すことは話したし、あと何もなければ終わろうと思うんだけど大丈夫?骨折明けの久々の学校だけど、不自由なことがあるか?」

「ないですね。特に不自由なく今日を過ごせました」

「そうか、じゃあお疲れ様」

 教師が椅子から立ち上がってから少し遅れて、蒼も立ち上がった。

「では、私立とかも調べてみます……」

 そう言い残して、蒼は部屋をでた。カバンを背負って、松葉杖を持って、玄関で靴を履き替えて、雨が降っていることを思い出した。蒼は傘なんて持っていなかったので、親に電話をして、学校まで迎えにくるよう頼んだが、迎えに来れるのは今から二時間後と言われた。

 蒼は時間を潰すために自分が所属している美術部の活動場所へと向かった。


 美術部の活動場所には二、三人しか人がいなくて、筆を洗う音と、雨が地面にうちつける二重の水音だけがしていた。

 蒼はカバンを入り口に並べると、松葉杖を鳴らしながら隅の席に座って、タブレットを机の上に置いた。物音に反応して一人がこちらを見たが、たいして気にしている様子もなかった。


 蒼はずっと、優香里に見せた、あの庭園の絵を描いていた。色彩豊かな庭園を目指して、時々参考書を見ながら色を試し試し塗り重ねていた。

 スマホのバイブ音がしてようやく、蒼は持っていたペンを止めた。親から不在着信が来ていて、その時二時間がもう経過していたことを知った。急いで荷物をまとめて、美術室を後にする。外に出ると玄関の前まで父親が来ていた。車に乗って帰る途中、蒼は口を開こうとしたが、ただ唇を小さく震わせるだけで、開くことはできなかった。


 家に帰ると蒼はすぐさま自室に入った。制服から着替えると、スマホで大学を調べ始めた。

「東京藝術大学……あった」

 ふと、蒼は学校で教師に言われたことを思い出した。『蒼の画力では東京藝術大学に受かるのは厳しい』そのことが、鉛のように、彼の心に沈み込んでいた。

 唇を噛みながら、蒼は東京藝術大学の情報を調べる。

「現役合格率三割……」


 蒼のか細い声は、雨の後にかき消されて、部屋に響くことはなかった。縋るように、蒼は大学の情報を調べ続ける。

「予備校……」

 そう呟くと同時に、蒼の体から熱が抜けていった。

 しかし、スマホを動かす手は止まらない。

「……才能」

 蒼の脳裏に自分の描いた絵を思い出していた。いつまでたっても満足できない

 スマホの電源を切って彼は布団をかぶった。その後は夕飯も食べず、風呂にも入らず、彼は朝日が訪れるまで眠りこけた。


 朝が訪れても、蒼は布団から出ようとしなかった。やがて親が彼を起こしにきても、頭痛がするわけでもないのに『頭が痛いから休みたい』と言って、今日の学校を休んだ。親は彼の言葉を一つも疑わず、学校に連絡を入れ、その旨を彼に報告した。少しだけ彼の胸が痛んだ。


 未だ雨は轟音と共に降り続けて、彼の部屋のエアコンの音はおろか、彼の家の前を通る車の音ですら、かき消してしまうほどだった。

 彼はそれでも眠りこけて、昼になるまで起き上がりはしなかった。

 親は、彼の部屋に昼食と頭痛薬と半分まで水が注がれたコップを置いていった。彼がそれを見つけたのは、ようやく午後三時を回ってからだった。

 昼食を咀嚼して飲み込むごとに、彼は心臓が締め付けられるような思いをした。温かいご飯を飲み込むと胃が痛くなって、頭痛薬を飲むと心臓が痛くなった。


 彼はもぞもぞと、布団から腕だけを伸ばしてカバンを手繰り寄せると、そこからタブレットを取り出して、電源を入れ、庭園の絵の続きを描き始めた。そうすることで彼は少しだけ、胸の痛みを忘れることができた。

 それでも、完全にはそれを消し去ることはできなかった。

彼はもっとはやく描いていればこんな思いは消えていたのかと考えたが、すぐにそんなことはないと自嘲した。

 不意に、優香里から『頭痛、大丈夫?お大事にね』と連絡が来た。彼はそれに『へーき』と打って返した。既読をつけてからその文字を打つまでに、彼は5分もかけた。

 しかし彼は、全然『へーき』とは程遠い体調をしていた。視界は明滅して、胃の酸は喉元まで逆流し、手足は動かされることを拒んでいた。

 外で降る雨と共に彼の中から絵を描く気力が流れ出してそれと共に言葉が漏れた。しかしその言葉は何なのか彼自身にも分かっておらず、彼の体は下に引っ張られ続けていた。もう自分の体ですら重いと感じてしまうほどだった。

 部屋内はエアコンが効きすぎていて、真冬のように寒かった。蒼はそれを止めようとせず、ただ布団に蹲って自分の体を温めようとするばかりだった。 

 雨の音のなか、カチカチと時間が進んで、その度に蒼は自分の体が冷たくなっていくように思えた。

それでも、蒼は己に絵を描くことを強要した。

 そしてついに、庭園は完成した。完成しても、彼は陰鬱なままだった。これを美術顧問に見せることが何よりも恐ろしかった。描かれた雲一つない晴天は、嫌味なほど澄み切っていて、こんな気持ちで生きれたらと、蒼はつい考えてしまうのだった。

 翌日放課後になってすぐ、蒼は美術顧問に絵を見せにいった。

「まあ、前よりは上手くなってると思います」

 眼鏡をかけながら、顧問はそう答えた。

「本当ですか!?ありがとうございます!」

「特に空がいいですね。いつもの蒼なら鳥とか雲とかいっぱいに描くんだけど、今回は何もないからスッキリしてて、主役の木々とか、川が映えてると思います」

「なるほど……なんか空きがあると落ち着かない性分でつい描いてしまうんですよね。今回も雲を描いてたんですけど、優香里が消したほうがいいっていうからそうしてみたんですけど」

「あぁ優香里さんが、そういえば美術部に転部希望を出してましたね。もしかして蒼より才能があったりしてね」

「あはは……そうかもしれないですね」

 蒼は苦笑しながら答えたが、内心ではそんなはずがないと、どこか焦燥をもってその言葉をかみしめていた。

「そういえば、蒼は今後どうするんですか?何か出たいコンクールとか決めました?」

 蒼は唾を飲んで、少し考えるような仕草をしてから答えた。

「いえ……決めてませんね……」

「じゃあ去年やったコンクールと同じコンクールに出す?風景画のやつ。そういうの描くの好きでしょ?」

「あ、はい。それでお願いします」

「締切いつだっけ?」

「確か今日からちょうど3ヶ月後ですね」

「時間も十分あるね。」

「そうですね......頑張ります......」

 蒼は小さくうなずいた。

「じゃあ私は会議があるから、今日はこれで解散します」

「分かりました。お疲れ様でした」

「お疲れ様~」

 ひらひらと手を振って、大股で美工室を出て行った。残った蒼は、荷物をまとめたあと、自分が今までに書いた油絵を、棚から引っ張り出した。ほこりがかぶっていて、それを吸った蒼はむせた。

 どの絵も、彩葉が描いたものを参考にして描いたものだが彩葉が描いた絵には遠く及ばず、顧問には何が描きたいのかよくわからないとさえ言われた。

「はあ......」

 蒼は心の底が冷え切るような気がした。過去を振り返るたびに、自分が残してきた微かにも進まぬ足跡が目の前に現れて、自分を嘲笑っているような気がした。

 蒼は首を振って、それを否定した。そして自分の軌跡を棚へと押し込んで、逃げるように美工室から飛び出た。

「あ、蒼」

 学校の外に出ると、修二が自転車のロックを外しているところだった。

「今帰るところ?」

 蒼は松葉杖を両手で突きながら聞いた。

「もう図書室がしまるからね。家に帰って勉強する予定」

「あれ、テストってあったけ」

「いや、ないね。普通に受験勉強」

「受験?まだ二年の一学期だよ?」

「まあ受験はまだだけどさ、行くとこが公立だからはやめにはじめないとさ」

 苦笑しながら修二は答えた。

「じゃあ電車の時間近いからもう行くわ。また明日」

「あっ、じゃあね」

 蒼は片手をあげて振った。やがて修二が見えなくなると、蒼は空を仰いだ。修二が消えた方向には雲一つもない晴天が広がっていたが、蒼の真上には雲が渦巻いて、陽光がさすことはなかった。

 蒼が家に着くころには、見渡す限り灰がかった雲が空を覆い隠していて、この下に優香理や修二はいるのかと考えながら蒼はカーテンをしめて座布団の上に座って、ペンを回しながら、蒼は次に描く絵のことについて考えていた。

「どうしようかな……やっぱり彩葉さんの真似はやめるか……」

 彼は次に何を描くべきか思いつかなかった。彩葉の真似をしても、結局はオリジナリティも何もないものにしかならないと考えたが、しかし自分の頭で描きたいと思えるようなものを持っていなかった。結局その日は何も思いつくことができず、時計の針が12を過ぎても、蒼は一本も線を引くことができなかった。

 ついに折れていた右足が完治して、松葉杖が要らなくなっても、蒼は描きたいものを見つけることができなかった。

 一週間しても何も進捗が無く、部活へ顔を出そうとは思えず、ずっと部活に行かない日々が続いた。

 そしてまた何も描かずに一週間が経過した休日、蒼は朝から外を歩いて、どこかに描きたいものは無いか探していた。しかし何も見つけることはできなくて、落胆を抱えて家に帰ろうとして、偶然優香里に出会った。

「あ、蒼だ。こんにちは」

「こんにちは」

 優香里は制服を着ていて、学校から帰っている途中のようだった。

「部活?」

 蒼は恐る恐る聞いた。

「そうだよ。美術部のね」

「あ、そう……」

「蒼、最近来てないよね。先生がボヤいてたよ」

「いやぁ、描くものが何も思いつかなくて……」

「ふーん。でも、ちゃんと部活には来た方がいいと思うんだけどな」

「まぁね……あ、そういえば美術部入ったらしいね」

 蒼はうわずった声で話を切り替えた。優香理はそれに気づかずに答えた。

「やっぱり東京藝大行くなら入った方がいいかなって」

「本気で目指す気なの……?」

「うん、私だけにしか作れない作品を作りたいなって思って、そのために」

 遠くの空を見据えながら優香里は宣言した。

「蒼だって、そうなんじゃないの?」

「そう……だね……」

 蚊の鳴くような声で、蒼は呟いた。それはもう小さすぎて、優香里には蒼が何か言ったとしか認識できないくらいだった。

「まぁ僕も藝大目指すからさ、一緒に頑張ろうよ」

「蒼も目指すの?一緒に頑張ろうね」

「うん。頑張ろうね」

「あ、そういえばさ、私今度コンクールに出す絵が出来たんだけど、よかったら見てくれない?私の家に今置いてあるんだけど」

「いいよ」

 蒼は優香里に連れられて、優香里は優香里の家に来た。そこは白いタイルが貼られた一軒家で、玄関を通ってすぐ左手の部屋に、優香里の絵はあった。それは何かの石膏のデッサンのようだった。

「これ、優香里が描いたの?」

 信じられない、というような顔で蒼は優香里に聞いた。照明に照らされて、病的なまでに蒼の顔は白く見えた。

「そうだよ。自分では上手くできたと思うんだけど……蒼から見てどうかな?」

 蒼は言葉を失った。彼では、これ以上何処をどうしたら良いのか分からなかった。

「まぁ、いいんじゃないかな。あとは先生に見せて、何か言ってもらった方がいいと思うよ」

 結局、蒼は曖昧な言葉しか返すことはできなかった。

 不意に、蒼の携帯のアラームが鳴った。見てみると、ただのグループのメッセージの通知が来ているだけだった。

「ごめん、父さんに早く帰ってこいって言われたから帰る。じゃあね」

「わかった。見てくれてありがとうね」

 嘘を言って、蒼は優香里の家から離れた。沼にハマったように上げることができなくて、澄み切った空が心に染み込んで、泣き叫んでしまいたくなった。家に着くと、蒼はすぐさま布団に潜って、泣いた。喉が掠れていて、声を上げることもできなかった。嗚咽が溢れないように手で口を塞いでいたら、ふとした拍子に手を噛んでしまった。しかし、蒼は痛いとは少しも思わず、ただ一晩中、涙が枯れても泣き続けた。

 それから蒼は、学校へ行かなくなった。進級がどうなったって、彼はもうどうでもよかった。

 蒼が学校を休みはじめて半年が経った。蒼はそれまで眠るだけで、絵を描くことも、彩葉の絵を見ることもしなかった。ずっと動かなかったから、筋肉は衰えて、歩くことすら困難に感じるようになった。

 その頃に、優香里から一通の手紙が来た。蒼に見せたあの石膏のデッサンが二次試験まで残った、とのことであった。以前蒼も受けたことがあったが、一次試験に名前が残ることさえなかった。

 気づけば蒼は、家の外へと飛び出していた。

 ふらふらとした足取りで、蒼は雨が降る街を歩いていく。彼が街を通る途中、誰ともすれ違うことはなかった。そのことに彼が気づいていたかどうかは、定かではない。

 そしてついには、増水した川の真上にかかる橋の上に辿り着いた。川は激しい流れを作っており、いつも近所の子供が遊びに来る川とはとても思えなかった。ふと、彼の頭の中にここから飛び降りるという考えがよぎった。

 そして、彼は両手を橋の手すりに置いた。あとは足をかけて体を乗り出せば、その時点で彼は全てから解放されるだろう。

 しかし彼は踏み出すことができなかった。もう治ったはずの足が、折れているように動かなかった。

 轟音が彼の鼓膜を打った。顔を上げると、空の前方の遠くの空が光って、また轟音が響いた。

 彼は何故か、この空を背景にして自分を映した絵を描きたいと思った。実に、半年ぶりのことだった。そして、彼は彩葉の『叫び』を思い出した。

ボロボロの服を着て、手足に枷をはめられて、大雨に身を委ねているあの絵を。真っ白な空間を思い浮かべると、世界の全部が白く見えた。平凡な顔は、彼自身そのものであった。

蒼は、彩葉と自分が、本質的には何も変わらないことを知った。すると途端に、何もかもがどうでも良くなった。死ぬことだって、どうでも良くなった。

 彼はそのままうちに帰ると、親にこっぴどく怒られながら、濡れた体を拭いてもらった。けれど、彼は何も感じることができなかった。

 翌日彼は風邪をひいて39℃を超える熱を出した。意識を飛び飛びに感じながら、彼は己が死に底なったのだとようやく理解したが、やはり彼はそれに何も感じなかった。もはや彼は、世界の全部をモノクロに感じていた。

 やがて熱が引いてきて、頭が正常に回るようになると、彼は両親に言った。

「僕、進学したくないです」


 四年後、彼の元に一通の手紙が届いた。それは優香里が東京藝術大学に入ったとの報せで、手紙の背面には蒼をデフォルメしたと思われる二頭身のキャラクターの絵があった。彼はそれをシュレッダーにかけてゴミ箱に捨てると、小さく嗤った。空を見上げると、曇天に覆われていて、数十の鴉が群れをなして、くるくると渦を為していた。それを見ながら、彼は鞄を持って、学校へと行った。

「お兄さんおはよー!」

「おはよう」

 向かう途中に会った小学一、二年生の児童たちに、貼り付けたような笑顔で蒼は挨拶を返した。

 学校へつくと、蒼は薄い水色の制服を着て、モップを握って、廊下の掃除を始めた。やがて鐘がなると、蒼の胸よりも小さい女子達が集まってきた。手には自由帳と、黒いクレヨンが握られていた。

「掃除のお兄さんあたし描いてー!」

「その次は私もー!」

「いいよ。じゃあそこに並んで、一人ずつね」

 蒼は微笑を張り付けながらクレヨンと自由帳を受け取った。そして五分もしないうちに、一人の女児の顔を自由帳に描いた。

「すごーい!上手ー!」

 顔を描かれた女児はきゃっきゃと声を上げながらそれを他の子供に見せびらかした。

「お兄さんどうしてそんなに絵が上手なの?私もお兄さんみたいに上手になりたーい!」

「その気持ちを持ち続けられればきっと、上手になれるさ」

「本当?私上手になれるの?」

「うん、絵が上手くなりたいと思い続けられたらね」

 机の下で硬く拳を握りながら、蒼はそう答えた。

「きっと、上手くなれたはずだったんだよ」

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