「そんなことないよ」にも命を削ります
3時間に渡る藤ゆうこの預かりレッスンは、本当に疲れ切る。
「ひぃあ…。今日もゆうこ先生絶好調すぎ…。」
ぐったりした顔をするあかりの隣で、細身のサラサラ髪の青年が同じようにぐったりして呟いた。
新田修二は今年もみの木事務所に合格した新人である。
さっき休憩時間にあかりにもそう名乗った。みんなからは新田くんとか呼ばれてた気がする。
「俺今日、「そんなことないよ」ってセリフで42回やり直し食らったじゃん?いや自分で数えてたんだ…。もう最後の方は訳がわからなくなって、「そんなことないよ」がゲシュタルト崩壊起こしてた。」
それで新田くんは、マイクの前一人で20分近く「そんなことないよ」を言い続けることになったのだった。
「そんなことないよ」
「違う!もう一回!」
「そんなことないよ」
「一緒!変わってない!」
「そんなことないよ」
「違う!このキャラはそんな言い方しない!」
「そんなことないよ!」
「諦めて投げやりになるな!なんだ最後のビックリマークは!」
「そんなことないよ」
「もう台本読んでるだけになってるでしょ!あいうえおの羅列にしてどうする!」
ゆうこ先生と新田くんの掛け合いは字面で起こすとこうなのだが、いやあ、伝わるだろうか?
20分間「そんなことないよ」を大人数に囲まれながら一人で立ち言い続けダメだと言われるこの辛さ。
こんなことをみんなが見てる前でやるのが普通の業界である。
レッスン生はそれをまあ、複雑な気持ちで見守っていることが多い。
明日は我が身だ。
もちろん、みっちり指導してくれるのはありがたいことではあるが、それでも心がしんどい。
上手くなるから指導はしてほしいけど指導はして欲しくない。
あれ、矛盾?
勉強はしたくないけどテストはいい点取りたい、とかそんな感じである。
新田くんはため息をつくと台本を引き寄せた。
「そんなことないよ」にあれほど深い意味があったとは…。最後「そう!それだよそれ!」ってゆうこ先生に言われたけど、もう意味がわからないまま「そんなことないよ」って言ってたから「いやどれだよ!」ってなりながら椅子座ったわ…。」
「あっはは。新田くん、めっちゃ絞られてたもんね。大変そう〜って見てた。」
歯切れのいい声で新田に答えたのは咲山香里奈である。細いスキニーとぴったりしたブラウスがよく似合っている。ショートカットにした髪の毛の横にある耳には、小さなピアスがちょんと付いていた。
何年目かは忘れたが、かなり前からプロダクションもみの木にいる古参である。
「逆に考えればさ、人生で「そんなことないよ」について考える瞬間って多分さっきがピークだったんじゃない?例えばさ、ほら彼女に「私なんてどうせブスだし…」とか超めんどくさいこと言われたりした時に将来役立つっしょ。渾身の「そんなことないいよ」がぶつけられるのでは?逆に惚れられちゃったりして〜」
咲山さんの言葉に、新田くんは目をちょっと見開いた。
「いや咲山さん!やめて、超やめて!知らないのにタイムリーなのめちゃめちゃ怖いですけど、俺三日前に別れたばっかなんですよ!」
「えっ。ごめ、、、、」
ごめんと言いながらも咲山はちょっと笑っていた。
あかりは、少し遠慮しながら新田くんに言った。会話のチャンス、と思ったのだ。
「三日前に渾身の「そんなことないよ」が言えなかったからでは?」
あかりの言葉に咲山さんがぶっはと吹き出した。その横で新田くんがものすごい勢いであかりを見る。
「いや、えっ?!佐藤さん最初の会話がそれ?!三日前に彼女に振られた男に対するファーストコンタクトそれ?!待って佐藤さん見た目的にほんわりしてそうだと思ってたのに!」
「すごいね佐藤さん、若干微笑みながら「そんなことないよ」のダメ出し〜。初対面でのそのパンチあたし大好きだわ〜。」
「いや私は、今なら渾身の「そんなことないよ」が言えるので、復縁できるのではないかという意味で!!」
慌ててあかりが手をぱたぱたさせるも、咲山さんの大爆笑でそれはあまり意味がない。
「ひははは!じゃあ新田くん、今から渾身の「そんなことないよ」を言いに、彼女の家に行こう!!あたしも付き合うよ!ぷは、あはは!」
「やめてください咲山さん!しかも別れた理由が「私ブスだしぃ…」とかいう議論に俺が正しい答えを返せなかったからじゃないんです!てか渾身の「そんなことないよ」って何?!?!?!」
えー、じゃあ別れた理由何よぉ、とひーひー言いながら咲山は近くにあったペットボトルのお茶を飲んでいた。
「いやそれは勘弁ですよ…。」
「えー?何言ってくれないのー?じゃあ新田くんの好きなエロゲー、どんどん佐藤ちゃんに教えてくよー?」
「さ、咲山さん!?俺今日、佐藤さんに初めましてなんですけど!?」
「だって別れた理由言ってくれないんだもーん、言ってくれないと言っちゃう☆」
「いや、それは勘弁してくださ」
「佐藤ちゃん〜、あのね、新田くんはこう見えておねショタが好きでね〜?」
「待って咲山さん!!違う違う、そういう誤解を招くようなことは言わないで!ただ俺は癒しが欲しいだけで!
…って待って、なんの画像を佐藤さんに見せてるの!?」
「これは…おしゃぶり、ですか?」
「そう、おしゃぶりー。新田くんおしゃぶりに魅力を感じるらしいよ!」
「咲山さんんんんんんんんん?」
「それで、好きなエロゲーのタイトルは「おしゃぶり有頂天の愉快な牧場」」
「咲山さんもうやめてっっっ!俺佐藤さんと初対面だからああああああ!てかなんでそんなこと知ってるの!?」
「いや新田くんが昔飲み会で自分で喋ったんじゃん〜。」
「昔の俺、まじうんち!!!!!!!」
ぶっ倒れそうな勢いで発言しているが、しかし新田くんはその日別れた理由を頑なに口にしなかった。
どう脅しても、どうからかっても口を割らなかった。
口を割らない代わりに、だからあかりは新田くんの好きなエロゲーを大量に知ることになってしまった。
咲山さんが新田くんをからかう材料、なんでみんなエロゲーなんだろう…。
「おしゃぶり有頂天と愉快な牧場」はちょっとネットで確認してみようとあかりはそっと自分の台本にメモした。
しかしどんなに愛用のエロゲー暴露されても、別れた理由については
「えー?勘弁してくださいよ!」
で済まされた。咲山もその日はそのうちめんどくさくなって諦めたようである。
のちにお酒を飲みすぎた新田くんは
「あの日彼女と別れた理由は彼女が俺より食品サンプルの方が好きだって悟ってしまったからですーーー! んもーーー!」
と泣きながらあっさり喋ったらしい。新田くん、泣上戸である。
いや、喋ったけどこれだけでは全く意味がわからないだろうから、
いつかこの話はしよう。