夏の野郎が来る前に
一学期の後半。
期末試験が終わった翌週。
彼女はそんな変な時期に転校してきた。
痩せている子だな、というのが、僕が抱いた第一印象だった。腕も足も、か細い。
『スリム』というよりは、『痩せている』と形容した方がしっくりくる__同じ意味のはずだが、そんなことを思った。
転校生は、やっぱりそれなりに話題になる。
彼女の机を囲む人たちもいる。
隣の席に座っている僕は、そんな人ごみの迷惑にならないよう体を端に寄せながら、机の上に突っ伏して、落ち着くのをじっと待つしかない。
集団に混じって質問を繰り出す勇気もない__そもそも僕は悲しいことに、ぼっちであった。それに男の友達さえいないのに、女の子に話しかけるなんて、非日常もいいところだ。
周りに対する彼女の対応は、淡白なものだった。
会話を繋げる気が全くない__隣の席で横目に見ている限りでも、それがモロに伝わってくる。
一人、二人と、机を囲む人数が減ってゆく。
彼女が一人になるのに、そう時間はかからなかった。
でも__その日。
彼女が転校して来て一週間が経ったある日、状況は変わった。
いや何も、無愛想な彼女に向け、周囲からの露骨ないじめが始まったわけではない。状況が変わったのは、彼女の方だ。
先にも述べた通り、僕は彼女が隣の席だからって、友達ヅラして馴れ馴れしく話しかけることが出来るタイプではない。
だが、今日は違う。
そんなことを言っている場合ではない。
気になってしまっていた。
彼女のことを、とても。
その日、彼女が登校してから、一時間目の授業が終わるまで、僕の目は釘付けだった。
いや、そう言ってしまうと、僕がずっと彼女の方を、まるで惚れ込んでいるかのように見つめ続けているように聞こえてくるけれど、そうではない。
実際に見たのは、最初それに気付いた時と、授業中に数度。
だから、そう、心が釘付けだったのだ。
ある想いを、伝えられずにはいられない。
それを伝えるのに、今が絶好のチャンスだった。
移動教室の前の休み時間。
ぼっちの僕は、移動教室に早く行ったところで、話す相手などいない。だからいつも、もたもたと用具を準備して、時間ギリギリに教室に向かう。
その習性が、彼女にもあった。
緩慢な動作で、教科書をなんとなく触っていた。
だから、今、この教室にはぼっちが二人。
僕と彼女。
気にするものは、何もない。
僕は意を決して、彼女に話しかける。
「……ねえ、君」
初めて話しかける僕の方を見て、一瞬驚いたような表情を浮かべた彼女は、しかしすぐに真顔になった。
「何か?」
「いや、その……」
あからさまに迷惑そうな目。
話しかけないでください、と言外に訴えているのは、その態度からも、今までの対応からも容易に見て取れる。
でも僕は、残念ながら。
自分の心のもやを看過出来るほどには__大人じゃなかった。
「……頭にポテチが乗ってるんだけど、ツッコミ待ち?」
「……えっ!?」
ポテチ。
お芋のお菓子。
僕が彼女に釘付けになっていた理由…… それは、頭にお菓子が乗っていたからだ。
そう言って彼女は頭をかきむしる。それによって必然的に、彼女の頭上のポテチは床に落ちる。欠片なんてレベルからは外れた、それなりに大きいサイズのポテチだった。
「え、え?ってことは、通学中も、登校してからも、授業中もこのままだったってこと?」
「僕の認識が正しければ、多分、そうなるかな」
床に落ちたポテチと、指摘した僕の顔を見比べながら、彼女は目線を泳がせる。
「これはその、朝に、盛大に袋をぶちまけて飛び散ったものがたまたま頭に乗っただけで、決してファッションなんかではないし、ましてやウケ狙いなんてあるわけもなくて」
「ファッションやウケ狙いの目論見があったかどうかは、疑ってないとして」
そんなことをしてクラスに溶け込もう、などとは考えないはずである。あんなにも頑なに、周囲を拒絶していたわけだし。
それに、彼女の対応が対応なので、他人に指摘されなかったというのもあるだろう__露骨ないじめはないにしても、周囲を拒絶する彼女に対して、周囲の人たちは無関心になっていたから。
無視、とも言えるかもしれない。
「……君、朝からポテチなんか食べるの?ジャンキーだね」
「た、たまたま朝ごはんがなくて、貰い物のポテチの小袋があったから、久しぶりで」
彼女は顔を真っ赤にして、慌てふためく姿を晒した。
こうなってしまうと、彼女が今まで貫いてきた素っ気ない態度が、前振りのようにも思えてきてしまう。
率直に言って、面白かった。
「……ふふ」
「あ、笑った!笑われた!」
「君、意外と、ドタドタしてるんだね」
「けなされた!?」
聞くところによると、今まで彼女は転校が多かったらしい。でも転校によって友達と別れるとなったら、仲良くなればなるほど寂しくなってしまうから、どうせすぐ転校するのならと、つんけんした態度を取っていたようだ。
それから僕たちは、時々話すようになった。
とは言っても別に、それが友達付き合いかと呼べる代物なのか、そんなレベルに達しているのか、僕には分からない。おそらく違うと思う。
日陰者の男女が絡んでいると奇異な目で見られると、彼女も察しているのだろう。人がいなくなったタイミングで話し始めるのが日課になった。
移動教室前、とか。
「君、相変わらず、クラスに馴染もうとしないよね」
「それって、あなたもそうよね?」
「図星過ぎて星が図れそう」
「その意味はよく分からないけど」
未だに周囲の人たちには壁を作っている彼女だったが、醜態を晒した僕に対しては、素直に接してくれるようになった。化けの皮が剥がれた、とも言う。
「ふふん。でも、私を見くびってもらっちゃ困るよ。確かに、この学校で喋るのは君ぐらいだけど……一歩外に出たら、一緒に遊ぶ友達がいるんだから!」
「そうかいそうかい」
「何その適当な反応!?信じてないね!?友達たくさんいるんだから!」
「そうかいそうかい」
「50万人はいるんだから!」
「……そうかいそうかい」
多過ぎだろ。
政令指定都市かよ。
「そんな堂々とした見え透いた嘘、逆に爽快って感じだな…… そういえば、お昼休みも弁当箱持って一人でどこか行ってるな。もしかして、別クラスの友達とでも食べてるの?」
「そ、そう!たまたまこのクラスに友達がいないだけで、お昼休みは別クラスの老若男女と連日連夜お弁当パーティーを」
「……嘘くせー」
「……ごめんなさい、一人ですぅ」
クラスでさえ友達を作ろうとしなかったのに、この不器用な彼女に別クラスの友達など作れるはずもない。部活にも入っていないはずだし。
それに別クラスには少なくとも『老若男女』の『老男』と『老女』はいないだろう。用務員さん、とかならまだ分からないでもないけど。そもそも、連日連夜お弁当パーティーという文言も最高に嘘くさい。夜に昼食を取れるなんて器用過ぎる。ようし、全部突っ込んでやったぞ。
……まあ、どうでもいいけど。
「……そういう君は、夏休みに遊ぶ友達はいるのかな?私が見たところ、君もぼっちだけど」
「そうかいそうかい」
「文脈おかしくない!?」
「奇遇だね。僕が見たところでも、僕はぼっちだ」
「清々しい!爽快だね!」
彼女はそんな風に、大げさなリアクションを取った。
彼女と話すようになって知った顔だった。
「それなら」
すると彼女は、急に神妙な面持ちになった。
そして。
「私が、遊んであげなくもないけど」
そう、僕に告げた。
まさかのお誘いだった。
「……遊んであげられなくもない可能性も否定するわけではない」
「それどっち!?」
遊んであげなくもないと、思いのほか高飛車な発言に対する意趣返しとして、僕もさらに高飛車な態度を取ってみた。舌がもつれそう。
ちなみにさっきのは、オーケーという返事だ。断る理由は特に無い。
「んじゃ、まあ、テキトーな時にでも声かけてよ」
「やった!じゃあ……」
彼女は、次の授業で使うノートから一枚、切れ端を破いた。そこにボールペンで、何かを書き記す。その作業が終わるのを見つつ、やけに年季の入ったボールペンだなあ、なんてことを思いながら待った。
「はい、これ!」
彼女が差し出した切れ端を、僕は受け取る。連絡先だった。僕たちが通う学校はケータイが禁止されているので、家に帰ってから連絡しろということだろう。
「やった!夏の野郎に青春を強要される前に、遊ぶ約束ができちゃった!毎年毎年太陽を燦々と照りつかせながら、『夏なんだから友達と夏らしいことしろよ』と脅しやがって!でも見たか夏め!バーカバーカ!この勢いのまま、リア充になってやるんだから!遊び尽くしてやるんだから!夏の野郎が来る前に、迎撃態勢に入ってやるんだから!」
「君の夏への私怨も、炎天下並みだな」
「まあそりゃ、うん。ここ最近の夏は全然充実していなかったからね…… 夏休みが楽しかった思い出って、小学生の前半ぐらいまでだった気がするよ…… だから、久しぶりなんだよね」
そう言って、彼女は穏やかに微笑む。
僕に醜態を晒して以降の、慌ただしくドタドタとした笑い顔ではなく__とても、穏やかな顔で。
「えへへ。友達って、久しぶり」
あの時僕は、嬉しかったんだと思う。
彼女のことを友達とさえ断言出来ない僕なんかと違い、彼女が僕を友達と呼んでくれたことを。
単純に__嬉しかったんだと思う。
友達なんて、いなかったから。
さして、大きなトラウマになるようなエピソードが、僕に起きたわけではない。
でも昔から、人と歩調を合わせることが苦手だった。
お友達と仲良くしましょう、と強要されることが苦痛だった。
煩わしい気持ちになるぐらいなら、一人でいた方がいいと思っていた。
それが積み重なって__今があった。
友達の作り方も知らなかったし、知ろうともしなかった。
でも、きっかけは何であれ、彼女は僕と話すようになった。
彼女は意外に気さくで、話すことが苦痛じゃなかった。
僕も素直に、話すことが出来た。
楽しかった。
だから僕は、彼女に遊びに誘ってもらった時、嬉しかったのだ。
嬉しかった__はずだった。
でも僕は、自分からメールを送らなかった。
送れなかった。
友達にメールなんてしたことがないから、何をどうやって誘うべきか、全く分からなかった。
彼女に任せてしまっていた。
向こうが誘ったのだから、向こうが適当に連絡してくれるだろう、と。
そうしている内に、1日が過ぎ、1週間が過ぎ、気付けば8月が過ぎていた。登校日に会った時にでも、と思ったけれど、彼女は登校日に姿を見せなかった。
今となっては、どうにも出来ないが__あの時僕からメールを送っていれば、具体的な約束をしていたら、少しはあんな未来を変えられたのかもしれなかった。
◯
夏休み明けの初日。
気だるい空気感を纏う教室。
隣の席に、か細い彼女の姿はなかった。
翌日も、翌々日も。
彼女は学校に来なかった。
家の方にも連絡がつかないと、先生は言っていた。
か細い彼女が座る席__座っていた席を眺めながら、僕は彼女のことを思い出していた。
そして一つ、疑問が浮上した。
頭にポテチを載せていた、あの日。
『た、たまたま朝ごはんがなくて、貰い物のポテチの小袋があったから、久しぶりで』
僕はその言葉の意味を、好きだけど普段あまり食べられないから久しぶりでテンションが上がった、という意味で取っていた。
でも。
『久しぶり』
その言葉が。
そのキーワードが。
『朝ごはん』__の方に掛かっていたとしたら。
久しぶりの朝ごはん、という意味だったら。
たまたま、という言葉も、彼女の見栄という見方が出来なくもない。
そして、昼食。
お弁当。
お昼になると必ず教室を出る彼女。
僕は別に彼女を追ったりなどしないわけだから、彼女がどんなお弁当を食べているのか知らない。
どころか、彼女が何かを食べている場面すら、見たことがない。
だから彼女の弁当箱の中身が、どんなものだったのか__どれほど質素なものだったのか、知る由もない。
……これは、そう考えられる可能性があるというだけで、憶測の域を出ないけれど。
彼女のやけに細い手足と、痩せた体躯との関連性を、勘繰らずにはいられない。
それほどまでに深刻な経済状況だったのでは__と。
……そんなこと、今考えても真相など分からないし、僕にはどうしようもない。
でも彼女は、待っていたのではないだろうか。
僕から連絡が来ることを。
言っていた__転校が多く、友達も少なかったと。
人付き合いが苦手であるならば。
僕のように、後手に回る性格だったならば。
僕が面倒臭がらずに、メールを送っていたならば。
マメにやりとりをしていれば。
返信が来ないことに、疑問を抱いていれば。
そんな悶々とした気持ちが、頭の中を、胸の内を駆け巡る。
僕はなんとなく、もう二度と彼女とは会えない予感がしていた。
そんなことを考えていても、当然問題が解決するはずもなく、日付は過ぎてゆく。
二学期のイベントに向けて、先生が話を始めた。
周囲の人たちも、どこか色めき立っていた。
体育祭。
文化祭。
学校の一大イベントになんて今まで縁がないと思っていたし、そのままでいいと思っていた。
でも僕は、その時、想像してしまったのだ。
そこに彼女がいたなら、きっと楽しかっただろうなと。
嬉しかっただろうな、と。
そして、思い至った。
思い至ってしまった。
それが、恋心だったと。
そんなの、あまりに。
あまりに__遅過ぎた。
◯
他人の家庭の事情など、僕にどうにも出来るわけがない。
だから僕は、僕に出来ることをするしかなかった。
下校して、まだ夏の香りが残る町を歩く。
君が嫌っていた夏。
君が憧れていた夏。
僕が__君と過ごしたかった夏。
季節は移り変わってゆく。
次第に夏の気配も消えてゆく。
そうなる前に、僕は君と、色んな場所で過ごしたかった夏を想像する。
そのために、歩こう。
9月とは言え、まだその名残はある。
歩こう。
汗ばんだシャツは、気にならなかった。
そんな物より、大切なものがあった。
歩こう。
君が思い描いていた夏を、少しでも感じることが出来るように。
時間が許す限り、この町を歩こう。
この想いが__風化してしまう前に。