第1話:都桜
そして少しばかりの時が過ぎ。
樽に突っ込んだ腕を引き上げると、手元の瓢箪に透明の液体がたっぷりと入っている。
鼻を近づけると、ほんのりと甘い匂いが漂う。
それはリョウヤの知る世界で言うところの「酒」に相当するものだが、原料も違えば作り方も違う。
樽いっぱいに詰め込んだ桜の花びらを、水の桜魔を使って液体化・アルコール化し、良い塩梅に味付けする――いたってシンプルな行程で、けれども、それなりの技術は必要だ。少なくともリョウヤにその技量はまだ無い。
床に並べた8個の瓢箪すべてに酒を入れ終えると、リョウヤは両手の指と指の間に瓢箪の口を挟んでひょいと持ち上げる。
向かうは客で賑わう座敷の中央。
長机を挟んでたむろう客たちの間を、つま先立ちで器用に歩く。
「お待たせしました! 注文のお酒です!」
リョウヤが運んで来た瓢箪を見て、屈強な男たちが歓声を上げる。
机の上には空になった10個の盃。
運んで来た瓢箪を男たちに渡し、同じく空になって畳の上に放り出されている瓢箪を回収しながら、リョウヤは男たちの顔を盗み見る。
10人の内8人はキツネ族、残りの2人はテング族の桜民。キツネ族の生息地であるこの場所でテング族の顔を見るのは3週間ぶりだ。
リョウヤが立ち去ろうと背を向けようとすると、一番近くで胡座をかいていたチャラついたキツネ族の若い男が振り返り、
「おいガキ、てめぇも働いてばっかいねぇで、ちったぁ酒に付き合え」
そう言いながら馴れ馴れしくリョウヤの頭の上に手を置こうとする。
リョウヤはひょいと一歩下がって避け、同時に、彼の頭に付いた三角のフサフサした耳が小さく揺れる。
「すみません、主人に怒られるんで」
「そうだよ!」
いつの間にかリョウヤの隣にいた、背の小さいキツネ族の少女が両手を腰に当てて頬を膨らませる。
「リョウヤはマジメに仕事してるんだから!」
「おっと、ガキがもう1匹増えやがった」
「誰がガキですって!」
少女は拳を振り上げるが、リョウヤが彼女の頭を撫でると、途端にふにゃりと脱力してだらしのない顔つきに変わり、着物の裾からほんの少しはみ出した尻尾がフリフリと揺れる。
キツネ族は、基本的に頭を撫でられるのが好きらしい。
「ミツホ、お客様に暴力はいけないよ」
「リョウヤぁ~、だってぇ~」
そう言いつつも素直に腕を下ろす少女を見て、リョウヤは思わず頰を綻ばせる。
まるで仲の良い兄妹のようで、けれどもリョウヤがミツホと出会い、この宿で居候しながら働くようになってからまだ6ヶ月しか経っていない。
◆◆◆◆◆◆
ミツホは、リョウヤがこの世界に生まれて2番目に出会った桜民だ。
リョウヤが目覚めたあの桜の木が立つ丘から降りて来たところを、丘の麓にある町から散歩に来たミツホが見つけたのだ。
「――――?」
その時点では、リョウヤにはミツホが何を言っているのか分からなかった。
ミツホの言葉は、地球上のどの言語にも当てはまらなかった。
「――――、――――――?」
その上、ミツホの頭には大きくてフサフサした耳が2本立っていた。
地球には、そんな獣めいた人間は、小説や漫画など創作の世界を除けば、存在しなかった。
「――――――? ――――!」
ミツホは丘の花びらを束ねて作ったのであろう綺麗な花飾りをリョウヤの頭に乗せるとにっこり笑い、彼の手を引き、自分の家へ連れ帰った。
ミツホの家は、旅人たちが食事をし、疲れを癒す旅籠でもあった。
自然な流れで、リョウヤは、ミツホの家に居候しながら旅籠の使用人として働くことになった。
「――――――、――――――った?」
リョウヤはこの世界の言語を習得しながら、少しずつこの世界のことを知っていた。
今、自分が暮らしている、桜の木の近くにある町は桜下町と呼ばれていること。
桜花町は、他の桜の木がある場所にもあるということ。
この世界の住人は桜民と呼ばれているということ。
桜民たちは、この世界のことを都桜と呼んでいるということ。
「りょうや、――――――て!」
桜民にはキツネ族、テング族、カッパ族、オニ族の4種族がいるということ。
キツネ族は平野や草原に、テング族は山や森に、カッパ族は川や海の近くに、オニ族は荒野や岩石地帯に分かれて住んでいるということ。
いずれも耳など細かい部分を除けばヒトにそっくりで、生活や身なりもヒトのように振る舞っているということ。
ヒトという種族は桜民には含まれていないということ。
ヒトは伝承などで語られるような稀有な存在で、一度も見たことがない者がほとんどであるということ。
だから、都桜で普通に暮らしたければ、ヒト以外の種族として振る舞った方が良いということ。
「あれは――――っていうのよ」
桜民は桜魔と呼ばれる、花びらを媒体とする魔術めいたものを使うことができるということ。
桜魔を使えば、エネルギーや食料を生み出すこともできるということ。
つまり、大量の登山用のグッズや食料を用意しなくても、桜の木の頂上を目指すことができるということ。
「ねえ聞いた? 近いうちにこの町に――っていうのが来るんだって!」
そして6ヶ月ばかりが経過した今、リョウヤは、地球の常識を照らし合わせるとまだいくつか疑問は残っているものの、自分が一人前の桜民として生活できるようになったという実感を得るまでに至っている。
準備は整った。
あとは――
◆◆◆◆◆◆
「あんたが今飲んでるそれだって、リョウヤのアイデアで作られたものなんだからね! リョウヤがうちに来てからお客さんの数も倍以上増えたんだから!」
「はいはい、それはもう何十回も聞いたよ。すごいでちゅねー」
「だーかーら! あたしを子ども扱いしないでってば!」
「どうだか。おねしょとかまだしてんじゃないのー?」
「おねっ、そ、そんなのとっくに卒業したに決まってるじゃない!」
リョウヤが思考に耽っている間も、ミツホとチャラついた男の口論は続いていた。
「こらミツホ、お客さんに向かって汚い言葉を使わないの!」
と、リョウヤの頭上から大人びた女性の声が響く。
「お客さんも、あまりうちの妹とリョウヤ君をいじめないでください」
「お、イチホちゃ~ん、今日も綺麗だね~。俺たちと一緒に飲もうぜぇ!」
イチホと呼ばれた、割烹着姿のキツネ族の女性は腰に手を当ててため息をつく。
耳にかかっていた柔らかな金色の髪が、胸元へと滑り落ちていく。
ミツホの姉である彼女は、身寄りのないリョウヤにとっても姉のような存在であり、いつも優しく、時に厳しく叱ることもあった。
姉妹の母親は数年前に死去していて、だから責任感も強いのだろう。宿を営む父親の手助けをしながら、看板娘(ミツホは自分も含めて看板姉妹と言っているが)として毎日笑顔を振りまいて仕事をしている。
「もう。毎日飲んだくれてる怠け者さんには付き合う気はありません」
「そんなこと言わないでさあ~。俺だって好きで飲んだくれてるわけじゃないし。予定した日よりもちょと早く着き過ぎちゃっただけだし」
「だったら丘に行って運動でもしてくればいいじゃないですか」
「え~、そんなのつまんないじゃん。俺はイチホちゃんとお喋りできれば十分だって」
しつこく絡み続ける男にリョウヤは口を挟もうとしたが、イチホがそっとリョウヤの肩に手を置いて制止する。
「リョウヤくん。お酒切れそうだから新しい樽、取って来てもらえる?」
リョウヤはこくりと頷き、その場を姉妹に任せて足早に店を出ていく。
宿は桜下町の大通りに沿って建てられていて、道端に立ち並ぶ屋台や背の低い木造の建物の屋根の向こう側に、赤みがかった空が見える。
初めてリョウヤがその光景を見た時は、まるで空が燃えているようだと思った。
宿の裏側に建てられた物置小屋はほとんど酒蔵として使われていて、木戸を開けて中に入ると、敷き詰めるように置かれた酒の入った樽の内の1つを抱きかかえるように持ち上げる。
地球であれば、成人男性がなんとか持ち上げられるほどの重量。
けれどもこの世界は違う。
地球よりも幾分か重力が軽いのだ。
だから重たいものも比較的簡単に持ち上げることができるし、素早く走ることもできるし、高くジャンプすることもできる。
とはいえ、まだ小さな少年であるリョウヤが樽を抱えれば、当然前方は見えづらくなる。
宿に裏口はなく、一旦表通りに出なければ宿には戻れない。周囲の声や足音を聞きながらリョウヤは慎重に宿へ向かう。
――しかし。
リョウヤは視界の端に見える屋台を眺めながら考え込む。
何故、この世界の住人は働くのだろう。
あるいは、何故、この世界はここまで文明が発展することができたのだろう。
リョウヤはまだ満足に使いこなすことができていないが、桜民の誰もが使える桜魔は本当に万能だ。
桜の花びらさえあれば食料を生み出すことができる。
花びらは絶え間なく空から降り注ぐから尽きることはない。
食料があれば、飢え死ぬことはなくなる。
飢え死ぬことがないのであれば働く必要はない。
一日中だらだら過ごしていても問題ない。
誰も彼も働かなければ文明は発展しない。
――停滞した楽園の完成だ。
だが実際はそうではない。
桜民たちは働く必要もないのに働いている。
文明レベルは17世紀前後の地球にやや劣るくらいで、逆に言えばそれくらいには文明が発展しているということだ。
いったい何故――――、
どん。
樽から鈍い音と、続いて前方向から衝撃を受ける。
リョウヤの身体は大きく仰け反り、そして、樽を両腕でかばいながら尻餅をつく。
重力が軽いおかげで特に痛みはない。
むしろ樽の方が心配だ。
中身が溢れていないことを確認してホッと息をついていると、樽の反対側に、自分を見つめる者がいることに気付く。
――たぶん、女の子。
――――気の強そうな顔だち。
――――――自分と同じくらいの歳。
――――――――自分よりも少し身長が高い。
――――――――――フードが邪魔で種族はよく分からない。
――――――――――――――そうか、この娘にぶつかったのか。
まじまじと観察するリョウヤとは反対に、少女は無言でリョウヤを直視する。
そのまま十数秒が経過して、沈黙に耐えられずリョウヤは話しかける。
「あの、ぶつかってしまってすみません」
「……」
「えっと、もしかしてこの宿に用があったりします?」
「…………あなた……何?」
「え?」
それ以上何も言わず、少女は顔を伏せてしまう。
リョウヤが樽を抱えて座り込んだまま困り果てていると、背後から、今度は大人の女性の声が響く。
「おーいハツカ、何やってるんだ!」
リョウヤは振り返り、目を丸くする。
宿に近づいてくるのは声をかけた女性だけではなかった。
旅籠の座敷の中央で酒を飲んでいた男たちと同等、何体かはそれ以上の体格の男たちが30、40人ほどこちらへ近づいてくる。
ハツカと呼ばれた少女は居心地悪そうに、女性からもリョウヤからも距離を置く。
リョウヤはゆっくり立ち上がり、突然現れた屈強な集団に堂々と対面する。
先頭に立つ大柄なキツネ族の女性は、リョウヤの行動を見て一瞬意外そうな顔をし、それからリョウヤの視線に合わせるように少ししゃがんで尋ねる。
「坊や、旅籠を探してるんだが知らないかな。今、この町で一番繁盛している旅籠だと聞いたんだが」
「それならここがそうです」
リョウヤは自分の真横を指差す。
女性は首を傾げ、
「もしかして君はここの使用人かい?」
リョウヤが首肯すると、女性は満足げに頷き、後ろの男たちに「着いたぞ!」と声をかける。
一方、リョウヤは思い返す。
数週間前、ミツホが言っていたことを。
この6ヶ月間、リョウヤがずっと待ち望んでいた存在を。
――ねえ聞いた? 近いうちにこの町に登木家っていうのが来るんだって!
女性はリョウヤに向き直り、ニッと笑う。
「なら話は早い。数週間前に桜便で宿泊の予約をしたはずだ。私たちは登木家。この町から見える桜の木のてっぺんを見にやって来た」