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金はいくらでもある

作者: 里雨 草

金はいくらでもある。

突然、男はそう言い放った。


私はホテルのバーのカウンターでひとり飲んでいた。

そのとき、隣に座っていた男が私に話しかけてきたのだ。


男はかなり酔っ払っているような口調だった。


酔っぱらいの世迷い言に付き合うのは疲れるが、

こちらもひとりの時間を持て余していた。


面白半分で話に乗ってみた。


そうなんですか。

私は男の方に少しだけ顔を向けて言った。


まあ、それは自分のものではないがな。

男は少しおどけた様子でそう言うと苦笑いをした。


でもな、この世界には金が有り余っている。

それで、その金は人々の財布をあちこちさまよっているのさ。

亡霊みたいになっ。


男は私が聞いているのを確かめると話を続けた。


本当はみんな金なんか欲しくないのさ。

家や食事や服なんかが欲しいだけで、金が欲しいわけじゃない。

金があるとそういったものが手に入るから、

仕方なく金を手に入れようとしている。


だがな、金で家や食事や服なんかを十分に手に入れても、

もっと金が欲しくなる奴がいるんだ。

何の不自由もないのに、金だけを欲しがるんだな。

それをたくさん溜め込んで喜んでいる。


この小さな体で、たかだか80年程度生きるのに、

どれだけの金が必要だと思う。


それでも溜め込んでいるヤツがいるから、まあ喧嘩になる。

たかだか金のために憎しみとか嫉妬で苦しむんだ。

そもそも、金は世界のものであって、個人のものじゃあない。


だいたい、人は金のために生きているわけじゃないしな。

どれだけ稼げるかで人生を終わらせるほど虚しいものはない。

死んだらあの世に金を持っていくことなんてできないんだ。


ほんとは、どれだけ金があっても、その金をどう使おうとも、

そんなことはオレたちにとってあまり重要じゃない。


それより、なんでオレたちがここで生きているのか、

それを知らないことの方が大問題なのさ。ほんとは。


オレたちは、わけも分からず、この地球に放り込まれたんだぞ。

何していいかもわからないし、どこに行けばいいかもわからない。


金があるかどうかより、それを知ることのほうが大事だろう。


まあ、それが分からないから、

気を紛らわすために楽しいことに金を使って、

人生の時間をすり減らしているんだけどな。


男はそこまで話すと、グラスの酒に口をつけた。


そうですね、金は便利だけど、面倒を起こしますよね。

私は当たり障りのないことを言って、男の話に合わせた。


男はギョロッとした目つきで私を見ると、

ところで、あんたは何のために生きている、と聞いてきた。


今日は大きな商談をまとめてきたところだ。

これで会社は仕事が増えて金が入る。

私もいくらかのボーナスを手に入れるだろう。

それで、ささやかながら前祝いで一杯やっていたところだ。


何のために生きているって、それは生活のためだ。

人間として、まともな生活をしたいだけだ。

だが、そう言ってこの男は納得するだろうか。

私は男の論点が見えてこなくて、言葉に詰まった。


私が答えを言い淀んでいると、

ほらな、何のために生きているかなんてあまり考えてないのさ、

男はそう言って、手にしていたグラスの酒をごくりと飲んだ。


そうですね。

毎日、生きることで精一杯で、

なんで生きているのかなんてあまり考えませんね。


適当に金があって、時々ちょっとした楽しみがあれば、

それで人生に納得してしまうかもしれません。


私は男にそう言うと、

目線を外してグラスに手を伸ばした。


そうか、そうなのか。

男はそう言ってうつむいた。


そして、間違えはここか、やはり思っていた状況と違うな、

などと小さく呟いた。


ところで、あなたは何のために生きているのですか。


多分、この男もそんなこと分からないで生きているに違いない。

ちょっと困らせようとして、悪戯心で聞いてみた。


男は私を横目で見てから、大きな声で笑った。

あんたにそんなことを聞かれるとは思わなかったよ。

そう言ってから、ゲホゲホと咳き込んだ。


まあ、これは酔っぱらいの戯言だと思って聞いてくれ。

私は神なのだ。


私はやばい人間と関わったかもしれないとちょっと焦った。

面倒なことになる前に、早くここから立ち去ったほうがいいか。

自分が神だという人間にロクなやつはいない。

私は顔をこわばらせて、男から目をそらした。


まあ、そう構えないでくれ。

酔っぱらいの戯言なんだから。

そう男は言うと、まあ聞いてくれと話し始めた。


オレは人間をそりゃ完璧に創った。


ただ生きるための生物ではなく、

そこに、なぜ生きているのか考えられる回路を組み込んだのさ。


このアイディアは素晴らしかった。

男は軽くパンと両手を打った。


その回路はとても精巧にできていて、

実際に人間はなぜ生きているかの答えを得ることができる。


これで人間は他の生物とは違った存在になるとワクワクしたんだ。


何度もテストして、それは間違いなかった。

それで、その人間をこの地球に放ってみたのさ。


だがな、その回路は一部の人間しか作動しなかった。


数千年ほど眺めていたが、その傾向はどんどん強くなって、

ついに、それはほとんど作動しない回路になっちまった。


オレはそれを上から眺めていたが、

そうなったわけが今ひとつつかめない。


そこで、原因を確かめるために、

こうして地球に降りてきたというわけだ。


わかったことは、

どうも金という要素が回路の作動を邪魔しているようだということ。

その他にも、いろいろと原因がありそうだが。


で、その忌々しい金のことでクサクサしていたというわけさ。


男はグラスの酒をぐっと飲み干し、

バーテンダーにもう一杯と言った。


この男が神だとは思わないが、

酔っぱらいにしてはなかなか良くできた面白い話だ。


では、この世から金がなくなれば、

その回路は正常に動くようになるのですかね。

私は酔っ払いの話が破綻するかどうか興味が出てきて、

その話に突っ込んでみた。


それがそう簡単な話ではない。


バーテンダーが男のグラスに酒を注ぐ。

それを待って、男は話を続けた。


金という要素から新しい回路ができてしまって、

それがオレがつくった回路を上書きしているようなのさ。

まったくオレとしたことが。

そこまで考えなかった。


男はグラスに少しだけ口をつけた。


それでだ、元々の回路を修正する方法を幾つか試しているが、

そうだ、あんたにもこの修正を加えさせてくれないか。

どうなるかちょっと試させてくれ。


そんなこと、できるわけがないだろう。

私はそう思ったが、それはちょっとと言って平静を装った。


男はグラスの酒を一気に飲み干すと席から立ち上がった。

まあ、信じなくてもいい。

新しい回路が勝手に動き出すだけだからな。

そう言って、私の肩を軽くぽんと叩いた。


私は苦笑いをするしかなかった。


お客様、お支払はどうします?

バーテンダーが男に言った。


彼が払うよ。

男は私の方を見て言った。


バーテンダーは私にいいんですかという目配せをした。

いいよ、私が払うから。

私は男の注文書にホテルのルームナンバーをサインした。


どうせ、最初からそのつもりだったんだろう。

まあ、軽い話し相手にはなったし、

ここで面倒なことになるのも気が重くなるだけだ。


神に酒をおごるのも悪くないだろうということで、

納得することにした。


金ならいくらでもある。

自分の財布にはないけどな。

誰かの財布にはあるのさ。

そんで金はその財布にいつまでもいたくないものなのさ。


男はそう軽口をたたいて笑うと、

また私の肩をポンポンと叩いて、バーの出口に向かった。


私はその男の後ろ姿を見送った。


すると黒いスーツを着た若い女が男を見つけて近寄り、

こんなところで何しているんですか社長、と男に怒鳴った。


あの男は会社の社長で、女は秘書か何かなんだろう。


クライアントがずっと待っていて、もう怒りながら帰りましたよ。

キツイ口調がこちらにまで突き刺さる。


男は女の前でシュンとして小声でブツブツ言っている。

これから、こってり秘書に絞られるのか。

私はちょっとこの先を想像して、男を哀れんだ。


私は女に促されて男がバーから出ていく姿を横目で見送ると、

残っていたグラスの酒を一気に飲み干した。


自分の分の注文書にサインをしてバーテンダーに渡すと、

ホテルの部屋に戻った。


私は会社から携帯にメールが入っているのに気がついた。


何でクライアントに会わなかった。

いったいオマエはどこにいるんだ。

商談は断られたぞ。

もう、会社には来なくていい。

あとで解雇通知を送っておく。


えっと、これはな何なんだ。

どういうことか分からない。

嫌な汗が出てきて、目の前がクラクラした。


そんなわけはない。

商談はとっくに終わってまとまったはず。


だが、思い出そうとしても、

私の頭から商談の記憶がすっぽりとなくなっている。


頭の中でカチカチと何かが音を立てている。


私は携帯を握ったまま、

ベッドの縁にヘナヘナと力なく腰を下ろした。


いままでの平穏な世界が、

ガラガラと崩れ落ちる音が心の中で響いている。


いったいこれから私はどうなるんだ。


私の心の中は、今まで築き上げてきた自分が崩壊して、

それが無残な瓦礫の山になっているようだった。


真っ白な煙が立ち込め、

何がなんだか分からない。


絶望とはこういうことなのか。

私の顔は血の気を失い、身体が震えて止まらない。


どのくらいそうしていただろうか。


真っ白になった頭の中に、私は何かを感じた。


それは絶望して無力になった私の中から、

立ち上ってくる何かだ。


私に何かが新しく起こり始めている。


それが何かは分からないが、

心の中に清々しい風が吹いているような、そんな感じだ。


そして、いままで私は何をしていたんだと思うと、

目が覚めたような晴れやかな気持ちになった。


まだ生きているじゃないか。


こんな絶望の淵にいるというのに、

笑いさえこみ上げてくる。


真っ白だった頭の中は、いつのまにか青空が広がって、

そこで私はしっかりと大地に立っていた。


これから本当の自分の人生が始まっていく、

そのとき私は確かにそう感じた。


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