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夢現(ムゲン) 三部作  作者: 橘悠馬
9/14

第二部 冥界の扉 ③

十四、



水虎の藍染は鴨川のほとりに立っていた。

傍には、まるで従者のように天狗の相木と白絹が控える。彼らはまるで自分たちの主君に対するように、水虎の藍染に片方の膝をついて待機していた。それほどまでに、『天竺』の一角である藍染を尊重しているということだ。

不意に、水虎の藍染は淡々と語った。

「準備はほとんど整った」

「……お待ち下さい。藍染殿、何をしたのですか?」

白絹が理解できずに怪訝そうにそう尋ねた。

「簡単なことだ。妖気の波長を飛ばし、水中に潜んでいる仲間と音なき言葉を交わした。すでに招集の号令は発していた。思いのほか集まりはいい……そして、すでに何をすればいいのか、彼らは理解しているようでな。もう、何も言うことはなかった」

「彼らには、『日陰の一日』のことを話されたのですか?」

相木が訝しげに藍染に視線を向けて、そう尋ねる。

「否。伝えてはいない。だが、彼らは何が起こるのかを、きちんと理解している。何しろ、こんなにも空が暗いのだからな」

藍染は空を見上げる。

いまの時刻は、だいたい『夕焼けの刻』だ。いつもなら、京は鮮やかな茜色に染まっている時刻である。

だが、いまは空が激変していた。

暗雲が渦巻き、時折、不吉さを帯びた雷鳴が走る。

空が暗すぎるため、地上には闇夜が訪れる直前の薄暗さが降り立っていた。しかも、嫌になるくらいに、風が冷たすぎた。

何から何まで不吉すぎる。変わりすぎている。

こんな景色を見て、誰もが疑念に思うはずだ。これは不吉な前兆。何かが起こる直前の世界だと。そして……近いうちに、とんでもないことが起きてしまうと。

「さて……戻ろうか。内裏へと」

「否、それはできません、藍染殿」

鞍馬と愛宕の天狗は、声を揃えて首を振った。

藍染は怪訝そうに顔をしかめた。

「――どういう意味だ?」

「これは天狗の千木殿からの指示です」と、愛宕の白絹が言った。「千木殿の言伝には続きがあります。一旦宮中から去れ。藍染はそこにいてはならないとのことです。千木殿は、藍染殿にこちら側で待機してもらうとのお考えのこと」

「――その理由を、彼は語ったのか?」

仲間に対して一抹の不安と不信感を抱き、軽く混乱した藍染は額に手をやる。

おかしい。千木殿がそのような指示を出した、だと?

考える必要もあるまい。現在、智徳法師は間違いなく内裏に潜入している。そして、何かをやろうとしている。そんなことは明白。現に、陰陽師の長と宮中で衝突もしている模様だった。

……何故、そんな指示を出す?

「藍染殿……はっきりと申し上げます。あそこに留まっては……ただ死ぬだけです」

鞍馬の相木は静かにそう断言した。

「千木殿……彼が、そう言ったのか?」眉根を寄せて、藍染は尋ねた。

「然りです。相手は仮にも妖怪退治を生業にする呪術師。一筋縄ではいかぬ。下手をすれば退治されるだけだ、とのこと。現に、蘆屋道満と死闘したおまえならば理解できることだと、千木殿は申されましたぞ」

「うむ、そのことに、間違いはない……が」

そう、間違いはないが、やはり天狗の千木の行動に、藍染は不信感を拭えない。

何を、考えているのだ?

日頃から抱いている、同志に対する不信感が、いま、嫌に膨らんできた。全ては一条守殿、あの少年を中心として渦巻いているではないか。一条殿が世界に現れたことを予期し、それを遠く離れた場所で察知し、確認する。それだけではない。一条殿の能力についてもやけに詳しい。今後、事がどのように起きるのか。まるで予言者のように知り尽くしている。

膨らむばかりの不信感に、追い討ちをかけるのは……蘆屋道満の、あの言葉だ。

“何しろ、貴様はとある少年ひとりの命で、この世界を救うというのだから……”

そう、あの言葉だ。

……何を隠しているのですか、千木殿?

心の中で、密かに藍染は同志に問いかける。そして、溜息を吐く。

――何度もそう胸に抱き続けてきた疑問に、軽く頭痛を覚えたかのように……

「……ム?」

不意に、違和感を覚えて藍染は首を傾げる。

――何度、も?

なんだ? この違和感は……?

見慣れているような、そんな光景を見渡して、藍染は目元に手をやる。

何だ? 何度も繰り返しているように、何故か感じてしまう。なんだ、この違和感は? 初めて見る光景を、何故か懐かしいような、そんな感じに囚われてしまう。いま初めて思った疑問と、仲間に対する不信感。いま初めて抱いたはずなのに、何度もそう考えてきたように、考え続けていたように感じてしまう。

何だ……この違和感は?

「なあ、相木殿。それと、白絹殿……」

景色を見渡した藍染は、不意に、背後で控えているふたりの天狗に視線を戻し、問いかけた。

「この場所、以前も訪れたことはないか?」

その問いかけに、ふたりの天狗は多少の驚きを含んだ顔を上げる。

「藍染殿、それはもしや……私と同じことを?」

「右に同じく」

相木が怪訝そうに呟き、白絹が戸惑いを隠せぬ様子で頷く。

この天狗たちも、そう、感じていた……奇妙な、違和感を。

「この場に、いつか訪れたような、そんな気がするのだ……」

「私もです。何度か、繰り返しているような……」

「……まるで、前世の記憶を、見続けているような、そんな感じですね」

藍染と相木と白絹は、交互にそう語りながら、戸惑いながらも顔を見合わせる。

そう、確かに、そんな感じなのだ……

何度も見ていた光景を、もう一度見ている。こみ上げてくるのは、奇妙な懐かしさだけ。

まただ、という謎めいた感覚。

何かが、重なるような気がした。何かが、浮かび上がるような気がした。

彼らは疑問を抱き、疑念を思い出す。彼らはこう考えていた――“この世界で、いったい何が起こるのか。そして……この世界で、かつて何が起きたのか”と。



遠く離れて内裏。

ここには智徳法師が潜み、良からぬ謀を進めようとしていた。藍染が内裏から離れた以上、智徳法師は思うままに自分の謀を進めることができた。

内裏から邪魔者は、すべて排除した。

陰陽寮の陰陽頭、賀茂保憲はすでに疑心暗鬼に陥らせた。

天皇が絡んでいるかもしれない一大事。どう動けばいいのか分からず、今も奴は、執務室でうろたえているであろう……

『天竺』の藍染は、内裏から離れた。

……何ゆえ、この内裏から離れたのかその理由が分からぬが……ともかく、あれが離れた以上、自分の邪魔者は、この内裏には誰一人もいないことになる。

何から何まで好都合。

もちろん、敵の思惑はわずかに感じ取れる。だが、そんな些細なことは気にするまい。

こちらはすべての準備を整えた。たとえ、『日陰の一日』を阻む者が現れても、何の問題はない。慌てる必要はない。なんら心配することなどない。

この、『大妖』がいる限り――。

智徳法師は、薄暗い一室にいた。

だが、そこにいるのは法師ひとりではなかった。

そこには、ふたりいた。

ひとりは、生気がない顔で智徳法師の横に侍っている、藤原顕光。

そして、もうひとりは……

隅に礼儀正しく佇んでいるのは、この世の者とは思えぬ、美貌の女だった――。



――陰陽寮。

智徳法師の知略によって、賀茂保憲は疑心暗鬼に陥って、まったく動けずにいた。すでに智徳法師によって天皇が傀儡となっている可能性は大。ならば、早急に動くべき。だが、動けばすぐに検非違使が動員されて、自分たちの首ははねられてしまうだろう。反逆罪によって。

もはや、この内裏に味方はいないのかもしれない。

ぞっとするほどの恐怖を覚えて、賀茂保憲は身震いした。もしかしたら、この陰陽寮にも敵は息を潜めて隠れているのかもしれない。

すでに……敵の掌の上なのか。いま、自分がいる場所は。

「おのれ……どう動けばいい」

真剣に困惑して、賀茂保憲は呟く。

事実、彼は気づいていなかった。智徳法師が、すでに悪事の準備を整えたということを。

そして、もうひとつ。

安倍家の陰陽師たちを安置した書庫に、侵入者がいるということを。



そして、いま――。

書庫に侵入した『白拍子』は、安倍家の陰陽師たちの意識を回復させようとしていた。

六三除けと呼ばれるまじないが存在する。これは原因不明の病気を知るための方法であり、陰陽道で確立されたと言われている。だが、大昔から日ノ本では民間信仰系で行われている。だいたいこの呪術を知るのは陰陽師だけではなく、修験者や密教の僧侶もいるが……

『白拍子』は、まずこの呪術を用いて、病気の原因となる場所を探ろうかと考えた。

だが、すぐに止めた。

その必要はない。原因は分かっているし、場所は関係ない。

六三除けの呪法で彼らを起こせばいい。

早々に、穢れを祓うとするか……

『白拍子』は立ち上がって辺りを見渡した。ここは書庫ではあるが、立派に設えられた棚には筆や硯、紙など陰陽寮における業務に関係した物品が多数保管されている。数こそ少ないが、お神酒なども上質なものが保管されているらしい。

よし、必要なものはすべてここにある。

『白拍子』はすぐさま準備に取り掛かった。

書物を置いている机を借りて、簡単な神具として整える。そこに神酒などを置く。

さらに『白拍子』は人形を三つ用意した。古い時代から今において、人形とは他人に呪詛を仕掛けるための道具として、また呪詛の身代わりの対象物として用いられてきている。上質な和紙を短刀ですばやく人形に整えた『白拍子』は、それを安倍家の陰陽師の、それぞれの額に置く。

急ごしらえの祭壇に、『白拍子』は火を点した小さな燭台を置く。

これで、準備は整った。仮初で急ごしらえではあるが、あとは呪術師の力量を用いれば、問題はない。

さあ、始めるとしよう……

拍手を打ち、『白拍子』は息を吸い込む。

ゆらりと小さな火が揺れる。『白拍子』の顔に、妖しげな陰影を躍らせる。



「五王ある中なる王にはびこられ、病はとくに逃げ去りにけり」



『白拍子』は歌うようにまじないを唱える。

それを、十回ほど、繰り返す。

さらに『白拍子』は安倍家の陰陽師たちの額においた人形を、そっと擦り付けるように動かす。そして、刀印を構えてさらに真言を唱える。

「オン・コロコロ・センダリマトウギ・ソワカ

 オン・オロキヤ・ソワカ

 オン・アボキヤ・ベイロシャナウ・マカホダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハリハリタヤ・ウン」

これは密教系の六三除け呪法である。それを唱えると、安倍家の陰陽師たちの額においてあった人形が、音もなく揺れて黒く染まる。明らかに、人形が――穢れたのだ。

安倍家の陰陽師たちを昏睡させてきた原因――天狗の千木の妖気が、人形に移されたのだ。

それを確認すると、『白拍子』は黒く染まったすべての人形を回収して、それを、火を点した燭台の上にかざす。

ジュ、と小さな音を立てて人形が燃え尽きる。

黒い燃え滓が、そして妖気の残滓が空気に溶け込むように舞い、消えていく。

「さて、これで彼らは目覚めますね」

満足げに振り返って、『白拍子』は呟く。

彼女が見守る中、妖気の束縛から解かれた安倍家の陰陽師たちが、僅かに身動きした。

まず真っ先に目が覚めたのは、安倍晴明だった。

「……『白拍子』殿? 何故、あなたがここに居るのですか?」

安倍晴明が愕然とした様子で、『白拍子』を凝視して尋ねる。どうやら、自分が何故ここにいるのかはきちんと理解しているようだった。

「そう身構えないで下さい。安倍殿。事情はどこから説明すればよろしいのですか?」

「あなたがここに立ち寄った訳を教えて頂きたいですね。私たちは、眠っていたのではありません。体の自由を奪われていただけで、意識はしっかりと持っておりましたぞ」

その言葉に、『白拍子』は首を傾げる。

「……つまり、何が起きているのかは、すべて聞いていたと?」

「聞くだけですな。何が起きているのか、やはり理解し辛いところもありますが」

苦々しげに安倍晴明はそう語る。おそらく、すでに智徳法師絡みの騒ぎを、聞いて、だいたいの事情を理解しているのだろう。

「智徳法師、蘆屋道満。あなたはどちらと闘いますか?」

不意に問う『白拍子』を、安倍晴明は怪訝そうに見つめた。

「唐突に何を申されるのですか、『白拍子』殿?」

「智徳法師は内裏ですでに活動を開始しています。おそらく、『日陰の一日』において、智徳法師は役目を全うするための準備を、すでに整えたでしょう。蘆屋道満もまた然り。あなたとの『因縁の場所』で、彼はおそらく待ち続けています」

白き賢者が口にする、『因縁の場所』――それが意味する場所を、すぐさま稀代の陰陽師は理解した。

“おまえの心臓はあやつのものだ。いずれ取り返しに来るだろうよ”

かつて、山姫殿が申された発言が脳裏に蘇る。

そうか、奴は待ち続けているのか……あの場所で、私を待ち続けているのか……

「さて……どうするべきでしょうな。私としては、体を二つに割ってでも両者の許に向かいたいところですが……」

安倍晴明は困ったようにそう呟いて、『白拍子』を用心深く見つめる。

「京一の賢者と謳われし『白拍子』殿。あなたは如何様に物事を運ぶべきとお考えか?」

「私を信頼してそのお言葉ですか?」

「疑っているからこそ口から出る言葉ですぞ、『白拍子』殿」

安倍晴明は冷ややかに言い放った。

「あなたがいったい何をお考えか、何を企んでおられるのか。もはや私には理解が及びませぬ。故に、私から見ればあなたは不気味でしかない。信頼できないのは当然」

「そんな私に、何故助言を仰ぐような真似事を?」

「答えは単純ですぞ。あなたは天狗の千木殿と同じ面持ちをしておられる」

陰陽師の返答に、『白拍子』は顔を強張らせた。

――千木殿と、同じ顔。それを私はしているというのか?

「老人といえどもこの目はいまだ衰えませぬぞ、『白拍子』殿。あなたは疲れている。何かを抱えていらっしゃる。隠し続けている。本心を隠し通し、己の望みを果たそうとしているのでしょう。首を振っても無駄ですぞ」

安倍晴明の言葉に、『白拍子』はわずかに頬をゆるませた。

静かに漏れる、微苦笑。

「……なるほど、そういえば、千木殿も目的があって行動しているのですもの。私と同様……似た者同士。確かに、その通りですね」

「重ねて問いますぞ、『白拍子』殿、あなたは何を目的に動いておられる?」

安倍晴明の、陰陽師としての重々しい問いかけに、『白拍子』は静かに答えた。

「私が動く目的は、ただひとつ。我が想い人、西方守護者『白虎』の称号を担う者――白夜を救うためです」

初めて聞く者の名に、安倍晴明が怪訝そうに顔をしかめた時だった。

静けさのなかで語り合う安倍晴明と『白拍子』の耳に、辛うじて聞き取れるほどの、小さな雷鳴が聞こえてきた。

ゴロゴロ、と不吉な音色が薄暗い書庫の中、かすかに聞こえてくる。

「……雷、ですか?」

「そのようですね」

ふたりは不安げに視線を交し合う。



そこから少し離れた場所で、智徳法師はある準備に取り掛かっていた。

「地敷大神の名において、火雷大神に畏れ多くもここに謹んで勧請し奉る」

智徳法師が隠れている薄暗い一室には、充分に設えられた祭壇が整えられていた。

「黒雷神よ、黒い雲で天を覆え」

火を灯してある燭台の前には、お神酒を含んだ皿があった。その皿には外の景色が映し出されていて、智徳法師が祈るような口調でそう呟くと、黒い雲がはっきりとうごめき、景色は暗くなっていく……

「天照はお隠れになり、伏雷神は世界の上を走り走る」

雷鳴が轟く。雷光が黒い雲間から鋭い刃物のように、その一部をさらけ出す。

「大雷神よ、火雷神よ、怨敵必滅。灰燼回帰。雷の太刀を振り下ろし給え」

祭壇の上には、三つの人形が用意されていた。それぞれに、名前が書かれている。

安倍晴明、安倍吉平、安倍吉晶――それぞれ三人の陰陽師たちの名前が。

智徳法師は短刀を掲げて、まず、安倍晴明の名が書かれた人形に、短刀を勢いよく突き刺した。

これこそ、智徳法師が用いる呪い殺しの呪法。

智徳法師が短刀を突き刺したまさにその瞬間、雷が地へと振り下ろされた。

死者の国の側に立つ火雷大神が、忠実なる契約者の言葉を聞き届けたのであろう。平安京の上空に顕現した火雷大神は、安倍家の陰陽師たちが安置されている場所に、雷の太刀を振り落とした。


間違いなく、殺した。

そう智徳法師がほくそえんだ瞬間である。



「天切る、地切る、八方切る、天に八違、地に十の文字、

 秘音、一も十々、二も十々、三も十々、四も十々、五も十々、六も十々、

 ふっ切って放つ、さんびらり」



『白拍子』は舞い踊るような小さな仕草を以って、魔を祓う秘言を唱える。

火雷大神は、どちらかというと死者の世界寄りの神である。イザナギノミコトが妻イザナミノミコトに会うために死者に下ったとき、八柱の雷神の姿を垣間見たという神話が古くから語られている。黄泉の醜女の追跡を交わしたイザナギノミコトは、次は八柱の雷神率いる軍勢に追撃されたという。

八柱の雷神、その総称を、火雷大神と呼ぶ。

『白拍子』たちのようなある種、世界のことを知っている人間から見れば、おそらく、イザナギノミコトを追いかけた火雷大神は、その後、『日陰の一日』を行うための人柱を探して日の本各地に姿を現したとされる。地方によっては、火雷大神を信仰して祭られているのである。

この世界を滅ぼそうとする、イザナミノミコトの配下、火雷大神。

その攻撃を防ぐに充分なまじないを、『白拍子』は唱えたのである。



故に、呪力を込めた智徳法師と火雷大神の一撃は、薙ぎ払われるように無効化された。



雷が書庫に直撃する寸前、それは周辺に拡散して、大気に溶け込むように消えたからである。



「――何?」

手応えを感じなかった智徳法師は、愕然とした様子で、しかし冷静に式神を放った。

すでに内裏のあらゆる所に巣食っている蜘蛛の式神を一体、陰陽寮の近くにすばやく移動させる。安倍家の陰陽師が保護されている書庫が、すぐに智徳法師の視界に飛び込んでくる。

陰陽寮の賀茂保憲たちは、あの書庫に雷除けの呪法は施していないはず……

まさか、安倍家の陰陽師たちが目を覚ましたというのか?

それならば、雷除けの呪法を施すことは可能だが……ここまで都合よく準備できるのだろうか?



その時、智徳法師は背後をがばりと振り返った。

何か、聞き覚えのある声が、すぐ近くで聞こえた気がしたからである。

……気のせいか?



「――神火清明、神水清明、神心清明、神風清明、善悪応報、清濁相見!」



――しまったっ!

はっきりと耳に捉えられる言霊に、智徳法師は致命的な失敗をしたと確信した。

この声は、安倍晴明だ!

いまのまじないは、対面する危険人物に対してかけるものだ。

だが、安倍晴明はこれを、遠距離から相手を捉えるための呪法として用いている。以前、このまじないを智徳法師はあの陰陽師にかけられたことがある。その時と同様、奴の半妖の呪力……いいや、妖気が迫ってきているのだ。自分をからめとるために。

あの狐が!

智徳法師は、愕然として立ち上がり、すばやく、その妖気のつながりを断とうとした。

だが――。遅い、と嘲るような低い一言が聞こえてくる。

視界が、唐突に暗くなった。あ奴が迫った、と智徳法師は直感で理解した。

「見つけたぞ。智徳法師」

何年ぶりだろうか。ほんとうに久しく聞く、あの陰陽師の声が、すぐ近くで聞こえた。

「安倍、晴明……!」

苦々しげに、智徳法師は彼の名前を呟く。

「……驚いたな。貴様、延命の術でも使ったのか?」

姿なき安倍晴明の声が、嘲る意図と声音を含んで、どこからか聞こえてくる。

「愚かしいあの日から、まったく変わらぬ姿だのう――若造」

『――カツッ!』

不意に、智徳法師がそう叫んで、妖気の束縛を破壊した。

視界が戻る。薄暗い部屋。

「己……安倍晴明」

やはり貴様は、あの日と同じように、自分自身を愚弄するか。

怒りを撒き散らすように、智徳法師は、ふたたび短刀を握り締めて、陰陽師の名前を書いた人形に振り落とす。何度も何度も。

まるでその姿は、丑の刻参りという呪法に魅入られ、それに必至で呪力を込める姿。

ほんとうに、怖ろしい姿である。

短刀には、すでに火雷大神の呪力が込められている。それを振り下ろす度に、火雷大神の力が呼応して、雷が何度も何度も振り落とされる。



だが、安倍家の陰陽師たちがいる書庫を、雷は近寄ることすらできなかった……



暗闇のなか、達筆に文字が書かれた符呪が浮かび上がる。

優雅に。

そして、歌うような声が、ある呪文を唱えた。



「東方、阿迦陀 西方、須多光

 南方、刹帝魯 北方、蘇陀摩怩」



『白拍子』は呪力を込めた符呪を、空中に浮かばせて歌うように唱える。

これは、陰陽道における雷除けの呪法である。

『白拍子』は優雅な仕草で、呪力を込めた符呪を空中に浮かばせると、書庫の四方の柱に貼り付けた。これにより、書庫は雷が直撃できなくなったのである。

いうなれば、これは避雷針。

雷は書庫に直撃することができず、不可視の力によって大気に消えるだけである。

「感謝致します、『白拍子』殿……」

たとえ信頼できない呪術師であろうが、いまだ目覚めぬ息子共々命を助けられたのは事実。

礼儀正しく安倍晴明は頭を垂れた。

「構いませんが、晴明殿、あなた、智徳法師をかなり怒らせたようですね?」

『白拍子』が、自分の呪法がきちんと機能しているのを確認して、苦笑を滲ませて口を開いた。「これほどまでに激しく攻撃するとは……かなり屈辱的なことを、相手側に仕掛けたようですね。法師の古傷に塩でも塗りつけたのですか?」

「まあ、そのようなことを」

苦々しげに答えながら、安倍晴明は周辺の音に耳を済ませる。

雷鳴がひどく激しすぎる。

「……周りに、何の被害が出ていなければよいのですが……」

「安倍晴明殿、もうそのような希望は捨て去るほうがよろしいでしょう」

『白拍子』が淡々とした口調で、静かに言った。

「もう始まっているのですよ……『日陰の一日』は」

――何、と陰陽師は、驚きを隠せずにそう呟いた。



そう、『日陰の一日』は、まさしく雷鳴と共に始まりを告げたのである。

黒い雲は大地を包み込んだ。太陽神、天照大神の加護は、もはや地上には届かない。

地上は暗闇に閉ざされた。

夜は妖怪の舞台。されど、闇は――



死者と魔性がうごめく舞台。世界の最後を飾るに相応しい、狂乱の舞台である。



序章は暗雲から地上に降り注ぐ、数多の雷である。

人々は異常現象を、ただ呆然と見上げていた。しきりに降り注ぐ雨のように、落雷は続いている。降り止む気配をまったく見せない。嵐の光景を、平安京の人々は、ただ呆然と見上げている。

自分たちの住む家に雷が落ちて、火の手が上がれば、ようやく悲鳴を上げて人々は逃げ惑う。

絶えず雷は降り続ける。

恐怖して逃げ惑う人々を嘲笑うように。



陰陽頭の賀茂保憲は、目の前で起きる異常現象に、ただ呆然としていた。

「……なんだ? 何が……起きている?」

しきりに降り注ぐ雷。異常現象であることは理解できるが、それが、何故起きているのか、賀茂保憲は陰陽師として理解していた。

呪術師による、雷神の召喚。そして……適切な手順に則った儀式によって、その力を行使しているのだ。

それが誰かは、もはや確認する必要もない。

「――智徳、法師……何を始めるつもりだ」

「……父上、どうすればいいのですか?」

息子光栄の問いかけに、賀茂保憲はただ唸りで返した。

何が起こるかすら分からぬこの状況。いったい自分たちはどう動けばいいのか。

それを知りたいのは、賀茂保憲自身であった。



「何ということ……」

神酒が入った器に、『白拍子』の神通力が灯る。彼女が外に置いていた式神が写す光景が、その表面に鮮明に映し出される。それは明らかに雷神の力の暴走である。火の手が上がり、黒煙がゆっくりと平安京のあちこちから昇っていく……

「まもなく地獄絵図のような光景が始まりますよ」

「それが……『日陰の一日』ですが」

『白拍子』のことばに、安倍晴明が苦々しげに呟く。

いままだ始まったばかりの『日陰の一日』。

だが、真に人々を恐怖させるのは雷ではないのだ。

問題は――。

「死者、ですな」

陰陽師のことばに、『白拍子』は頷いた。

「ええ、おそらく、黄泉比良坂の穴が大きく広げられ、死者の世界の異形どもが溢れ出るでしょう……ムゲンの世に」



鴨川の辺から、雷がしきりに降り注ぐ、異常に怖ろしい景色を見上げる水虎の藍染、そして鞍馬天狗の相木、愛宕天狗の白絹。ともに緊張の表情であり、ついに始まったのだという思いに囚われ、不安を抱き続けていた。

すでに、人々の悲鳴は聞こえている。

「……千木殿の話しによれば、穴から零れ落ちるとのことです」

天狗の相木が呟き、白絹が続ける。

「――数多の死者と異形の化け物が」

「ついに来たか……『日陰の一日』が」

暗い声音で、苦々しげに、暗い空を見上げて水虎の藍染は呟く。



ある建造物の屋上から、平安京の町並みを見下ろし、空を見上げる。

“修験落ち”は鵺を背後に従えて、錫杖を掲げる。彼は歪んだ声音で宣言する。

「いざ来たれり。ここに『日陰の一日』、幕開けぞ!」



ジャラン、ジャラランと不吉な音色が鳴る。

そして、鵺もヒョーと不気味な鳴き声をその音色に重ねる。



混乱を極めつつある平安京から、遠く離れた場所。密林。

蘆屋道満は平安京から遠く離れた場所から、最後の仕上げを実行しようとした。

彼がいるのは、廃屋のなかである。板張りの空間で、所々に穴が開いていて傷みが激しい。

風穴から漏れる冷たい空気が、悲しげな細い音を奏でる。

蘆屋道満はこの廃屋のなかに居ても、寒さに身を震わせることはなかった。不快な居心地に顔をしかめることも、体を動かすこともなかった。

ここは……彼にとって、ある意味重要な場所であるのだから、当然である。

蘆屋道満は、いまこの瞬間、頭巾で顔を覆い隠していなかった。

彼は瞑目するように顔を伏せていた。眠るように腕を組んでいた。

蘆屋道満は、不意に、顔を上げる。

暗闇の中でもはっきりと分かる、腐敗も激しい顔立ち。

彼は、死者である。彼は、この世界に蘇った、死者。

そんな彼は、そんな陰陽師は、この世界を滅ぼす死者と異形の化け物を、この世界に呼び寄せるための術式を、人知れずに廃屋の中から実行しようとした。

「始まりを見守り天地を壊す御方よ。地敷大神にここに謹んで勧請し奉る。

 幾つもの星霜に渡り、ご辛抱いただき恐縮の至り。されど、今ここに扉は開かれり。

 いまここにその復讐を遂げられよ! 我らが怨嗟、今ここに果たす時!

 まこと、天地に禍あれ! まこと、イザナギノミコトに永劫の呪いあれ!」

ついに訪れた『最後の戦い』である。

蘆屋道満は狂喜に満ちた顔で、叫び声を上げた。

すると、奇妙なことが起きた。廃屋の床と壁が、奇妙な紋章や文字で輝き始めたのだ。どこからか、仄かな光の粉末が溢れ出す。

蘆屋道満は、確かにまじない言葉を唱えた。

だが、何らかの儀式などの準備は、まったくしていなかったはずである。符呪などは壁や床に配置はされていなかったはず。それなのに、自然に浮かび上がる何らかの呪術的な図形や紋章。陰陽道だけでなく、新大陸の滅んでいった数々の大国、帝国で使われてきた記号すらそこには存在している。

蘆屋道満は、彼だけが使える手段で、華々しく死者たちをこの世界に召喚しようとした。

満足そうに、蘆屋道満はククク……と低い笑いを漏らす。

いまなお廃屋に浮かび上がる謎めいた紋様や記号の輝きに照らされて、その顔は凄絶なものとしている。

「まったく……伯道上人も、見事なものを残してくれたのぅ……」

満足げに呟く蘆屋道満の目は、とても濁っていた。



蘆屋道満が発動した術式は、地脈と共に呪力を平安京へと流していった。

地脈とは川と同じように、上から下へと流れるもの。蘆屋道満が生み出した呪力とともに、地脈は螺旋を描きながら平安京へと向かう。

注ぎ込まれていくのだ。

生者の世界と死者の世界をごちゃ混ぜにするための、とんでもない呪力が、平安京へと。



平安京の左京区は、色濃い瘴気に包まれて、灰色がかった霧に沈んでいた。

そこは五年前から穢れに満ちている場所であり、ならず者たちが住まう荒廃した町並みではなく、いまや百鬼夜行が巡る領域ともなっている。

そんな場所に、色濃い瘴気が突然、姿を現した。

それがいったいどこから訪れてきたのか、それを知ることと気づくことはできなかった。誰かはふと瞬きをしてようやく異変に気づき、妖は塀の角を曲がった途端に、自分たちの縄張りが灰色の霧に沈んでいることに驚く。

色濃い瘴気は灰色がかった霧を産み出し、世界を不透明にする。

だが、それだけでは終わらない。

人々と妖怪は、自分たちの体を突如襲った異変を、予知することはできなかった。

激痛は唐突に訪れた。異変は風のように襲い掛かった。変化は目に見える最悪な形で起きた。

ある者は苦しみ、ある者は突然倒れて事切れる。

悲鳴を上げた妖怪は、自分と仲間の体が急激に変化するのを、絶望の眼差しで見つめる。

誰一人、何が起きているのかを理解することができずに、変わってしまった。

体が歪に大きくなり、肉体は急速に腐敗する。血肉は崩れ落ちかけ、地面に生々しい痕跡を残す。

そこには、誰一人、生きているものとして動かなかった。

かつて盗賊だった人間は、腕をだらりと下げて、濁った目で辺りをぼうっと見ている。

妖怪だったその生き物は、左右の腕と足の長さが異なり、体を引きずるように歩いていた。

その様子、まさに死者の如く。

もはや彼らは生きてなどいなかった。

変わり果てていた……人はまさしく鬼のように。妖は魔物のように。

これこそ、まさしく“境界線”を越えた結果である。

平安京の左京区に、ひっそりと吹き荒れるのは死者の世界の風だった。死者の世界の風は、この世界の何もかもを呪い、腐敗させ、“境界線”を越えさせようとしている。

人を鬼へ、妖を魔物へと。

形あるものすべてを、強制的に終わらせようとしているのである。



これが、ついに始まりを告げた『日陰の一日』である。

始まり方はあまりにも歪で残酷で、怖気を抱かせてしまう。誰もがなす術もなく、葦原の中つ国――即ちこの世界に侵攻を開始した、死者の世界そのものに食い尽くされてしまう。

そんなシナリオがすでに出来上がっている、あまりにも、怖ろしい始まりである。

だが、真に恐怖すべきなのは、これがまだ序章であるということである。



――まだ、悲劇は起こるのだ。

  悲劇は始まりを告げただけに過ぎず、更なる悲劇が待ち構えている。

  まもなく、平安京は恐怖と悲鳴に溢れることとなる。

  そして、世界は滅んでしまうのだ……



十五、



世界が滅びる戦い。

暗黒に包まれたムゲンの世で、それが、ついに始まった。



「平安京より火の手を確認致しました!」

「愛宕の天狗部隊、到着であります!」

「鞍馬愛宕両方の兵、何時でも出撃可能な状態で待機せよ!」

鞍馬天狗の隠れ里は、いまや騒然としていた。

かなりの速度で飛行する伝令の天狗たちが、緊迫した声音で怒鳴り続けている。

空中を自分の翼で移動する者は、重々しく完全武装している。竹などで編んだ鎧は妖気に染まっていて、すでに兵士たちの士気の高ぶりは目に見える形ではっきりとしていた。巨樹にぐるりと設けられた廊下からは、すばやく鞍馬天狗たちが空中に身を躍らせ、翼を広げる。

彼らは地上ではなく空中に集結しつつあった。

出撃する武装した天狗たちの総数は、きちんと二千人。

壮観。たったの一言でそう表現できる、すさまじい光景である。

「状況を確認せよ!」

「報告急げ!」

「指揮官は前へ集合せよ!」

絶えず怒鳴りあう天狗たちの喧騒を、山姫はうんざりした表情で聞いていた。

いつまで怒鳴りあう気だ、こいつらは……

剣呑な表情で、山姫は視線を向ける。

いま、天狗の千木は鞍馬天狗の僧正坊と共に、愛宕天狗の首領、太郎坊とその側近たちを迎えるところだった。一条と山姫が、初めて天狗の里に降り立った、空中に迫り出された舞台のように大きな場所だ。あり得ないほど太すぎる大樹の枝がその舞台を支えている。

「よくぞ参られたな、太郎坊殿」

「此度は参戦頂き、まこと、幸甚の至りであります」

打ち解けた友のように挨拶する僧正坊の横で、呆れるくらいに天狗の千木は礼儀正しく頭を垂れる。そんなふたりの様子を見て、鼻が高い仮面をつけたままの愛宕の太郎坊は、鋭く研ぎ澄まされた戦意に満ちた顔で頷く。

「久しいな、僧正坊。感謝の言葉は要らんぞ。天狗の千木よ」

「はっ」

短く息を吐くような声を出して、千木はそう答える。

仰々しい態度だな……何故、あいつはそんなに固くなっているのやら、と、山姫の夕衣は苛立ちを滲ませた表情で彼を見やる。

距離を置いてはいたが、会話だけは明瞭に山姫の耳に届く。

「さて、ついに始まったな」

「ついに始まったぞ。これが最後の戦いとなろう」

太郎坊と僧正坊がそれぞれ語り合う。

「今度こそ、きちんとした形で終わらせることができます。そのために、お二方と二千の天狗たちには死を覚悟して、此度の戦に出陣して頂きます」

「異存はないぞ」

太郎坊が再度覚悟を口にする。

すでに僧正坊は、千木と約束を交わしていた故、沈黙して先を促した。

「今回は二手に分かれて、死者の世界の軍勢を迎撃してもらいます。黄泉の醜女と火雷大神の軍勢が地上に噴き溢れ、地上の人間たちは大混乱の状態にあるでしょう。まず鞍馬愛宕のどちらか一方の軍勢が人間たちの避難を完了させるべく、動いてもらわなければなりません。そしてもう一方の軍勢は、足止めのために左京区を中心に兵力を展開させてもらいます」

「うむ、承知した。指揮は私たち二人でほんとうに良いのか?」

口を挟むことなく、千木の作戦を聞いていた太郎坊は、最後にそう確認した。

「はい。お二方には戦場での陣頭指揮を執っていただきます。そのほうが、兵力も無駄なく動けましょう。被害も少なく済むでしょう」

「だが、私としては……この世界の事情に一番詳しい、そなたが指揮をすると思ったが」

疑念を滲ませた愛宕大天狗のその言葉。

距離を置いていた山姫の夕衣は、怪訝そうに思って同胞の姿に目を凝らした。

――この世界の事情に一番詳しい? 千木が……? どういう意味だ……?

「残念ですが、私は『四天王』の玄武を担う身。影の勢力の呪術師たちの首を討ち取らねばならないのです。私はほかの誰よりも死亡する確率が低いゆえ……」わずかに苦笑を滲ませて、天狗の千木は淡々と語った。「この戦いで、私は死ぬことになるかもしれませぬ。戦場における指揮系統を乱さないためにも……大天狗のお二方に指揮をお願い致します」

太郎坊は沈黙して千木を見つめる。僧正坊も表情が険しい。

「……千木殿、おぬし、死ぬ気か?」

戦場は死の危険を伴う場所であり、千木が死ぬ覚悟を固めていても、違和感などどこにもない。だが、太郎坊からして見れば、いまの千木の発言は、天狗として正気の沙汰ではない発言なのである。

影の勢力に、陰陽師や“修験落ち”がいることを、愛宕と鞍馬の大天狗は承知している。

即ち妖怪の天敵にして最大の脅威。

そんな者に立ち向かうということは、自殺を宣言している異常な発言なのである。

「そのような自殺行為……同胞として見過ごすと思ったか?」

険しい声で太郎坊は警告する。

「残念ながら、私は純粋に天狗ではありません。この世界で初めての“修験落ち”なのです。私たち『四天王』はこの戦いに対して、誰よりも死ぬ覚悟を固めなければならないのです」もはや何の表情も垣間見せない顔で、千木は淡々と無表情に無感情に語る。「はっきりと申し上げますが……大天狗殿が何を申されようが、私の覚悟は崩せませぬぞ」

愛宕の太郎坊は沈黙した。

もう、この者は覚悟を決めている。

それほどまでに重要である故、何としてでも悲願を遂げると決意している。

こんな天狗を、太郎坊はよく知っている。誰よりも自分自身を信じて、決して己のやり方を変えようとしない、頑固な若造どもを。

「…………相分かった。もはや何も言うまい」

「こやつは、昔から他者の助言などに耳は傾けませぬからなぁ」

太郎坊の言葉に、僧正坊も頭が痛いと言いたげに苦笑する。

「鬼一様、私は昔から、それほど頑なではありませんでしたぞ」

「そうだな……まあ、随分と変わったものよ。あの時の若造も……」

僧正坊の言葉に、千木は無表情で首を振る。

しばらく愛宕の大天狗は思案するように沈黙していたが、不意に頷く。

「もはや貴殿の覚悟には文句ひとつも言うまい。だが、これだけはハッキリと言わせてもらおうか――必ず生きて帰って来い。それが、我ら同胞、天狗に皆等しくかける最大の掛け声なり。故に、必ず生きて帰ってくるのだ。たとえ貴殿が、死ぬ覚悟を固めていたとしてもだ」

「お言葉、有難く頂戴致します」

千木が敬礼して丁寧に感謝を口にする。

「さて、それでは始めるとしようか……」

僧正坊の言葉に、太郎坊も頷く。

「戦前の啖呵を切らねばなるまい。習わしに従って……その役、千木殿にお任せしようぞ」

「――私が?」

戸惑ったように千木が呟く。

「これほど相応な若者は他におるまい。断わり言葉なんぞ、絶対に聞かんぞ」

太郎坊の軽い笑みを含んだ脅しに、千木は溜息を吐いて頷く。

「分かりました。この千木、啖呵を切らせて頂きましょう」

「千木の名は両方の里に知られている。誰もが貴様の演説に耳を傾けるであろう」

満足げに僧正坊がそう語る。

山姫が鋭い目で見守る中、天狗の千木と愛宕の太郎坊、そして鞍馬の僧正坊は舞台の端へと近づいていく。



「――聞け!」



不意に、鞍馬天狗の隠れ里に集結した、天狗の兵士たちに向けて、千木の叫び声が木霊す。

腕を前に突き出す体勢で、彼は演説する。

「ついに『日陰の一日』が訪れたぞ! 地上は死者の怨念と異形の化け物で満ち溢れる。大地は腐敗する。緑は枯れる。灰燼は空しく宙を泳ぐ。そんな未来に向かって、影の勢力は突進している。だが、我ら天狗が山神の力を持って阻むぞ!」

ひとりひとりの天狗が、応、と叫ぶ。

それは、暗雲に鳴り響く雷鳴よりも激しい一丸の叫び声となる。まさしく、山が震えるような雄叫びだと、山姫は険しい表情でそう思う。

「大地に潤いあれ! 緑に祝福あれ! 森よ、常に瑞々しくあれ!」

天狗がその胸に抱く願いを、天狗の千木は叫ぶ。

――まこと、そうであれと。

――『日陰の一日』をぶち壊し、この世界を護るために、と。

「我ら、山神の力を以ってして戦場に向かおうぞ! たとえ大地が裂けようとも、小川がその谷を走り、岩肌は緑に覆われる! 死神の通り後がどれほど砂漠となろうとも、必ず森は舞い戻り、大地を癒し、優しく獣たちを呼び戻そうぞ! 我ら、山となりて森となりて、ここに大地を救済すべく、いざ、戦いに挑もうぞ!」

ふたたび起こる、雷鳴よりも激しい天狗たちの雄叫び。

天狗の千木は、最後の叫び声を、覚悟の雄叫びを、全身から爆発させる。

腕を天高く突き上げて、全力で叫ぶ。

口が張り裂けるほど。もうこれ以上に、声が出ないほど。



「――飛翔せよ!」



天狗の兵士たちは、その叫び声に応えるべく、自らの妖気を大気へと爆発させた。

妖気は個人によって色や強さを異なる。いま、ここに集結している兵士たちは、それぞれが強力な妖気を身に纏っている。

だからこそ、無表情に眺めている山姫を驚かすほどの光景が、樹海に広がった。

朝霧のような半透明な霧に覆われていた隠れ里全体に、ぽつぽつと、どこか仄か儚げに、妖気が灯りを点す。それは数え切れないほど増えていく。まさに、夜空に浮かび上がる星たちのように、次々に強い輝きを発し始める。

ひとつひとつの妖気の星は、霧を掻き消すように動かし始める。

そして、すべての霧が、唐突に妖気によって掻き消される。

すべての霧が妖気で掻き消され、この瞬間、全景が明らかになる。

整列して集結する軍隊は、確かに見る者に規律正しさとどこか強靭さを与えるだろう。

だが、目の前の光景は、万人に間違いなく感動を与えるものだろう。

天狗たちの戦士は、隊列を整えて集合するのではなく、ただ、集っていた。

縦に横に、ただ無秩序に。立体的に。その広がりは天狗たちの強大さを物語っている。

天狗は大自然のなかを、鳥のように飛び、鹿のように駆ける。

彼らの妖気の色は、まさしく大自然の色である。

山神として力を持つ天狗の軍勢。彼らはひとつの世界を造り出した。

それは夜空に浮かぶ星空のよう。

それは大自然に息づく数多の色。



いま、まさに天狗たちの世界が動き出そうとしている。



「法螺を鳴らせ!」

不意に、天狗の背後で太郎坊が叫び声を上げる。

愛宕天狗たちが、腰から法螺をそれぞれ手に持って、大きな音色を放つ。

天狗たちは翼を広げて、上空へと一気に駆け上がる。

天狗風が唸り、妖気が火の玉を作り出す。

まるで上空へと駆け上る流星群。目の前に、そんな光景が描かれる。

その光景は、ほんとうに美しかった。

戦へと駆けていく天狗の戦士たちを、女天狗や子供天狗たちが見守る。

愛宕の大天狗、太郎坊と鞍馬の大天狗、僧正坊は天狗の千木を振り返る。

「千木殿、そういえば、貴殿が話されていた“太虚の覇者”とやらはどこにいるのだ? 戦地に赴く前に顔を拝みたいのだが?」

千木は顔を強張らせた。

「“太虚の覇者”の一条殿は、先発隊と共にすでに出陣しております」

「なんとも勇猛果敢な兵よ。戦場での巡り会いに期待しようぞ!」

太郎坊は勇ましく笑いそう語るや、翼を大きく広げて、茜色の妖気を爆発させながら飛翔した。すぐにその姿は火の手が上がり続ける平安京へと、吸い込まれるように飛び込んでいく。

「ではな、千木。早死にと無駄死には絶対に許さんぞ」

「鬼一様も……動ける余裕ができましたら、お頼みします」

鞍馬の僧正坊は千木と言葉を交わすや、すぐさま戦場へと向かっていく。

これで、だいたいの駒は配置についた……

疲弊した頭脳で状況を整理して、不備がないか再確認してから千木は溜息を吐いた。

ついに始まったのか……この、戦いが。

「――千木、」

背後で、同胞の山姫の声が鋭く投げかけられた。

憤怒を滲ませた声であることは容易に理解できる。だから、千木は同胞を振り返ることはしなかった。

「…………なんだ、山姫」

「貴様、何のつもりだ?」やはり剣呑な表情を拭えずに、山姫の夕衣は厳しい口調で詰め寄る。「一条は動けないのだろう? “樹海の祠”で、いまかろうじて命を保っている状態なんだぞ?」

そう、山姫が苛立ちを示しているのは、一条が動けないのに戦争を開始したことだ。

この戦争で影の勢力に勝利するためには、“太虚の覇者”一条守は必要不可欠な戦力。

だが、一条は、いま戦えない状態にあるのだ。

「全員を騙して、玉砕覚悟で無駄死にさせる気か、貴様は!」

「一条が回復するまでの時間を稼ぐための布石だ! 貴様なら一条を目覚めさせることができるのか?」

さすがに疲労を感じているのか、天狗の千木が激昂したように怒鳴り声を上げる。

「絶対に一条が戻ってくるという確証はあるのか?」

「あいつは“太虚の覇者”だ! この世界に選定された以上、奴は戦場に戻らなければいけない。それは絶対なんだ! だいたい、あいつはもう覚悟を固めたんだ!」

「あんな修行を執り行ったから、一条はあんな状態になったんだろう!」

気に入らないように、山姫は子供のように叫んだ。

「いい加減に黙っていろ、山姫! 私情を交えて戦うつもりか?」

「貴様は人ひとりの命を軽んじて戦場に臨むというのか?」

「戦場で誰もが生き延びられるわけじゃないだろう! 誰かが死ぬことは覚悟しなければならない! 俺ができるのは、犠牲者を少なくするためにどれほど戦力を巧妙に配置するかだけだ! 誰も死なないように奇跡が起きるために全力を尽くすためじゃないんだぞ!」

「そのために、一条を容赦なく切り捨てるのか?」

「山姫、おまえはもう出撃しろ! 平安京を南下して奴らを探せ! おまえは影の勢力の主力呪術師を迎撃するんだ!」

――なにを馬鹿なことを!

妖怪と呪術師は相性が悪すぎる。妖怪に対して呪術師と戦いに行けというのは、紛れもない無駄死にしろとの宣言である。

反論しようとした山姫は、唐突に頭痛を覚えて目を閉じる。

視界は、暗くなる――筈だった。

だが、見えてきたのは見たこともないのにどこか懐かしいと感じてしまう、そんな光景。自分が戦っているような気がする。そして……終わったような感じだ。

――……なんだ、いまのは?

随分前から何度も見続ける、予知夢めいた記憶の再生。

違和感がひどすぎて吐き気がするが……

だが、なぜかはっきりと分かる。これは恐らく……私が死んだ過去。

影の勢力の呪術師に無謀な戦いを挑み、空しく死んでしまった、私の記憶だ。

「そうやって何度も無駄死にさせてきたのか? 私たちを?」

山姫の夕衣は、不意に脳裏に蘇った奇妙な光景に、思わず苛立たしげに叫び声を上げる。

「――また私たちを無意味に死なせるのか? これで何度目なんだ、おまえは!」

同胞の叫び声に、天狗の千木は愕然とした面持ちで振り返った。

「おまえ――、覚えているのか?」

驚愕を滲ませた声で、彼は同胞に尋ねた。

ありえない出来事に直面して、恐怖するように。

「何故――覚えている?」

「ずいぶん前から違和感は抱えていた。見たこともない景色と思い出も、ずっと前から見ていた。貴様が何か奇妙な謀を成し遂げようとするのも、これと関連しているのだろうなぁ!」

山姫の夕衣は、苛立ったように怒鳴り声を上げる。

「待て! 山姫、貴様、他には何を思い出した?」

「黙れ、天狗!」

もはや仲間を信じられなくなった山姫の夕衣は、暴言を吐き捨てる。

そして、歩いていく。

“樹海の祠”へと――。



一条守の容態は、いまは辛うじて安定していた。

鞍馬大天狗の僧正坊と天狗の千木は、一条の“太極”の暴走で地脈の流れに悪影響が及ばないようにするために、独特なやり方で一条の暴走状態を鎮めることにした。

いま、一条の周りには神木で設えた祭儀用の神具が揃っていた。

槍や剣、矛や杖。それらが数多く地上に突き刺さっている。それはどうやら、地脈の流れを安定させる効力を持っているらしい。“樹海の祠”に到着した山姫は、その様子を見てやはり溜息を吐いた。一条の体に無数の神具が突き刺さっているようにしか見えない。

一条がいま動けない事実を知るのは、自分と、僧正坊と千木のみ。

他の天狗たちは、一条がいまどんな状態にあるかを知ることもできず、一条はすでに戦場に向かったとの偽情報を信じて、死地へと向かっている。

何から何まで、無茶苦茶な気がする……

大まかにある程度の予定を立てていたとしても、すべての予定が修正を余儀なくされた。

そして、予想以上に早く、『日陰の一日』は実行に移された。

白き女賢者『白拍子』は仲間を裏切って得体の知れない呪詛を放ち、平安京は完全に無防備となった。そして、戦争が勃発する時期がさらに早まった。世界が滅亡する瞬間も。

何とかして一条を鍛えるために、戦局がこれ以上不利にならないために動くも、智徳法師がすでに内裏で暗躍して、検非違使の一隊を差し向けた。

おかげで陰陽師たちは昏睡状態に陥らせなければならなくなった。

実質的にいま、このタイミングで動いているのは『天竺』と天狗のみ。

人間たちの組織で唯一、この戦争で実力を発揮できる陰陽寮は、おそらく大した働きはできないだろう……陰陽寮の協力者として『天竺』が接触した安倍家の陰陽師たちは、智徳法師に命を狙われているから動けない。

まさしく、多勢に無勢という状況。圧倒的にこちら側が不利だ。

「……何故、こうなった?」

何度も抱いてしまう疑問を胸に、山姫は溜息を吐く。

こんなにも弱い人間を護ろうと誓い、片時も見失うまいと心に刻んだはずなのに。

彼が何かを目指しているのならば、その背中を押してやろうと決意したのに。

それなのに、自分は無力に苦しむ彼の横に立っている。

「……何故、こうなる……」

それはもう疑問ではなく、呆然とした呟きだった。

いま一条が倒れている場所にはやはり“太極陣”が煌々と輝きを放っており、光が強すぎて一条の体は見えない。

はやく目覚めてほしい。言葉を交わしたい。

「一条――、」

聞こえぬと分かっていても、届くはずがないと確信しても。

山姫の夕衣は寂しげに、彼に声をかけた。

「――行ってくる」

そして、身を翻す。

向かう先は、戦場――



平安京の内裏も、火雷大神の攻撃で各所から火の手が上がっていた。

落雷の被害にあって火災が発生する。誰かが雷に打たれて事切れる。雷神様の怒りだと貴族と検非違使たちは恐怖のどん底に突き落とされていた。

まるで蜘蛛の子が散るように、誰もがあちこちに逃げようと走っていた。

通せと怒鳴るもの、やめろと悲鳴を上げるもの。

だが、誰もが理性を失って、逃げようとしたのではなかった。

「御上! 御上!」

冷静さを取り戻した衛士や側近たちが、落雷の被害を受けた円融天皇の御所に飛び込み、煙や火の中で必至に君主の姿を探していた。

「どうだ? そちらにはお姿が見えたか?」

「いいや、居ないぞ! 御上の姿はなかった!」

「もしや、悪鬼妖魔に連れ去られたのでは?」

「鵺か?」

「かもしれぬ。各々気をつけて中へ進め!」

怒鳴り声や指示を出す叫び声が、今にも崩れ落ちそうな建造物の中で飛び交う。

不意に、誰かが火と煙の向こう側に佇む人影に気づいて声を上げる。

「そこに居るのは何者か?」

異常な天災や最近おきている妖怪絡みの事件。それが、検非違使の刀剣を握る手に力を込める。もしやあれは、悪鬼妖魔の類ではあるまいか、と――。

だが、その人影は紛れもなく人の形を取っていた。

そして、ゆっくりと近づいてくる……

もしや、御上ではと疑ったが、あの歩き方は不自然に落ち着きすぎているように見える。だいたい、装束が高位の貴族のものだ。

しばらくすれば……相手が誰なのか分かった。

「藤原顕光様? いったい何故この場におられるのですか?」

疑念を強く滲ませた声で、検非違使のひとりが尋ねる。

藤原顕光に関する黒い噂は、宮中ではしきりに囁かれている。いまや権力者として動いている藤原道長に、呪詛を放ったという噂も、もちろん検非違使たちの耳には届いている。

危険人物ではあるが、高位の貴族。一瞬、どうすればいいのかと疑問に思う。

その検非違使は一瞬だけ迷って、貴族として藤原顕光に接することにした。

「ここは危険です。すぐさま避難を、」

そこで……言葉が、途切れた。

藤原顕光は、不意に腰に下げていた太刀を抜いて、検非違使の体に切りつけた。

悲鳴を上げて崩れ落ちた検非違使は、傷が浅いので、すぐさま体を転がして、藤原顕光と距離を取る。すぐさま、その悲鳴を聞きつけた検非違使たちが、慌てて駆けつける。

「どうした? 何があった?」

「顕光様? 何故、こちらに……?」

「何の真似か? ご乱心なさったか!」

怒鳴り声が飛び交う。

藤原顕光が最初に斬りつけた検非違使は、まだ軽症だった。それは、片手でほとんど力なく振るっただけだからである。

最初は、どこか操られている、人形めいた雰囲気が見えた。

だが、次の瞬間……空気が、変わった。

藤原顕光は両手で刀剣を持ち、それをきちんと構える。

検非違使の誰もが、藤原顕光という名の貴族の思わぬ行動に、理解できずに愕然とする。そして、対応が遅れる。

相手は貴族。斬り捨ててよいものかと、その場にいる誰もが迷った。

誰かが、混乱したように叫び声を上げた。

「何をなさるつもりか、藤原様!」

藤原顕光は問答無用で斬りかかった。真っ先にふたりが斬り捨てられ、悲鳴が上がる。

慌てて応戦すべく、何人かの検非違使が慌てて抜刀するが、その隙に藤原顕光は次々にまともに攻撃を防ぎきれぬ検非違使を斬り捨てて行く。

仲間が殺されていく光景を見て、何人かが悲鳴を上げて、刀剣を放り出し、逃げていく。

しばらく追うべきか迷うような素振りを見せて、藤原顕光は無表情で頭をめぐらす。

その方向は、陰陽寮。

陰陽頭、賀茂保憲とその息子光栄を殺害すべく、藤原顕光は動き始めた。

その首筋には、蜘蛛の糸のようなものが垂れ下がっている。

そして、それは……どこかへと続いている。



その糸を手繰り寄せて、智徳法師は満足げにニヤリと笑っていた。

「面白いなぁ……童どもが見事、取り乱しておるぞ……」

結果を楽しむように独り言。智徳法師は指で蜘蛛の糸を弄びながら、暗い一室でそう呟く。その部屋の中には、見事自身の傀儡と化した円融天皇や侍女のように礼儀正しく侍っている、妖しげな風貌の美女がいる。

円融天皇は、うつろな表情で目を開けている。もはや自我が死んでいる状態だ。

その首筋からはやはり蜘蛛の糸が垂れ下がり、いま、内裏中で天皇の名を呼ぶ声に、まったく反応することができない。

「さあて、いよいよ殺そうぞ……賀茂保憲、あやつめを」



「……なんということだ!」

外に出て呆然と平安京の様子を観察し、賀茂保憲は愕然とした声を漏らす。

平安京のあちこちから火の手が上がり、黒煙が視界を黒く染めようとしている。人々の悲鳴や怒声がここからでも聞こえてくる。盗賊たちが一斉に貴族たちの屋敷に押し入り、火を放ったように見える光景に似ているが、これは紛れもなく、敵の大軍によって攻め込まれた市街地の景色だと、賀茂保憲はそう断定した。

「……父上、いったい、これは?」

驚きを隠せぬ様子で、賀茂光栄も呆然としている。

「何が起きているのか、至急取り調べよ!」すばやく賀茂保憲は指示を飛ばした。「検非違使に連絡を! 馬を飛ばすのだ!」

「しかし、危険ですぞ!」と、天文博士が異議を唱える。「陰陽頭殿、ここは避難するべきです。何処より訪れた敵軍かは分かりませぬが、下手に市街地に入れば格好の餌食ですぞ! すぐさま、ここは他の貴族や御上ともども、安全な場所まで避難する必要があります!」

「民を捨て置けば、この国はいとも容易く崩れ落ちるぞ」

賀茂保憲は語気を強めて反論した。「よいか、博士殿。いま我らが朝廷は重大な危機に瀕しているのだ。何としてでも生き延びなければならない。それは私たち陰陽師だけの問題ではなく、あの町で苦しんでいるであろう市場の人々のためである。だからこそ、私たちはまず自分の体を護ることよりも、誰かを救うことを優先しなければならないのだ!」

その時、陰陽寮の直丁(下級役人)が声を上げた。

「陰陽頭、検非違使の方が参られます! 馬に乗っての伝令です!」

「伝令の馬か、これはちょうどいい」

賀茂保憲はすばやく検非違使の若者が馬を駆けてくる方角に目を向けた。手綱を握る者の顔色は悪い。どうやら、余程なにか不吉で重大なことが起きたらしい。

「陰陽頭、賀茂保憲様に伝令であります!」不意に叫んで、馬から降りることも泣く検非違使の馬に乗る御者は叫んだ。「左京区より奇妙な霧が発生しました。それは建物の壁を腐らせ、柱を劣化させます。霧が通り過ぎた後はすべてが瓦礫の山。生きていた人間ですら、奇妙な化け物になるか骨を晒して息絶えております! 至急、この事態に関しての助言をお願い頂きたい所存であります!」

賀茂保憲は、左京区、という言葉に反応した。

「左京区から、奇妙な霧――とな?」

五年前、平安京上空を鴆という名の妖怪が埋め尽くす事変が発生した。

猛毒を含む羽は、世界を埋め尽くすように舞い降り、たちまち平安京左京区を荒廃させたのだ。多くの人の命と、家を奪って。

鴆の猛毒によって侵されたためか、左京区では頻繁に怪異が発生するようになったのだ。

「検非違使の各員が、それぞれそう報告しております! すでに狂乱した盗賊どもが左京区を中心に暴れ、多数の死傷者が出ております!」馬から降りた検非違使は、礼儀正しく膝を突いて報告する。「さらには、物の怪と遭遇したと報告する者まで出ております! 火急の所存。速やかに左京区へと参られるようにとの、上官よりの指示であります!」

「すぐさま全員、準備を整えよ!」冷静に情報を整理して、動くべきと判断した賀茂保憲は、命令を飛ばした。「馬の用意を急げ! いま左京区に百鬼夜行がうごめくのならば、調伏の用意も怠るな! よいな!」

「はっ!」

それぞれの陰陽師たちがすばやく準備に入ろうと動き出す。

その時だった。

「あああぁああああ!」

どこからか誰かの悲鳴が、上がった。

「なんだ?」

「何が起きた?」

「あれは……?」

いま、陰陽師や検非違使たちで、縁側は混雑しすぎていた。落雷によって燃え上がる平安京の光景を見ようと、誰もが縁側に溢れるように出ていた。人々はざわめき、騒然とする。

「藤原顕光様……?」

悲鳴が上がった方角に目を凝らして、賀茂保憲は怪訝そうに呟く。

様子がおかしいのは一目で分かる。

服装は乱れているのに正そうともしない。まとめていた髪はばらばらだ。歩き方もどこか不自然だ。そして……何よりもおかしいと感じてしまいのは、彼が細身の刀剣を片手に握っていることだった。それが、不自然さと不審さを異常に臭わせている。

誰かが呟き始め、小さなざわめきが起こる。

不安は不安を煽り、恐怖は恐怖を大きくする。

「賀茂……保憲ぃ……」

藤原顕光が、乾いた唇を動かして、彼の名を呼んだ。

賀茂保徳は怪訝そうに顔をしかめて相手を見やる。見知らぬ人物めいて見えるが、間違いなく聞いたことがある、どこか怨霊めいた独特の言霊。狙い続けてきた獲物に、ついに巡り会えた。それをまったく隠すことができず、そう言いたげに、恍惚を滲ませる、不気味すぎる声音。

……やつだ……!

「いかん! 奴を取り押さえろ!」

賀茂保憲は恐怖で体を強張らせて、大声で命令を発した。

だが、その命令の意図を、誰もが理解できずに戸惑ったように、賀茂保憲を見返す。何を言っているのだ、と言いたげに。

誰もが理解できなかった。そして、動けなかった。

そして、藤原顕光を傀儡とした智徳法師は、思うが侭に動くことができた。



「――さあて、殺せ」

暗い一室。瞑想するような表情で智徳法師は、満足げに呟く。

目を閉ざしているが、実際、彼は見ていた。慌てた表情で指示を飛ばす賀茂保憲。けれど、誰もその指示の意図を理解できずに、呆然としている。

「まずは貴様だ、賀茂保憲!」

狂喜を滲ませた声音で、智徳法師は叫んだ。

――貴様の次は、安倍家の陰陽師を黄泉に送ってやるぞ!



「ああぁあああああ!」

刀剣を振り回して、錯乱したような叫び声を上げて、藤原顕光は襲い掛かってきた。

誰もが悲鳴を上げて逃げようとする。ほとんど押しのけるようにして、藤原顕光は賀茂保憲に迫っていく。



その時だった。明瞭な声音が響いてきた。



「あんたりをん、そくめつさく、びらりやびらり、そくめつめい、

ざんざんきめい、ざんきせい、ざんだりひをん、しかんしきじん、あたらうん、

をんぜそ、ざんざんびらり、あうん、ぜつめい、そくぜつ、うん、ざんざんだり、

ざだりはん!」



ぱん、と拍手を打つ音は、はっきりと誰の耳にも届いた。



いまのは……遠当法?

拍手の音が静謐に鳴り響くと同時に、まるで糸が切れた人形が崩れ落ちるように、藤原顕光の体からは力が消えた。どさ、と音を立てて四肢を力なく伸ばす貴族。刀剣はからりと音をたてて転がる。誰もが、呆然としてその貴族の姿を恐る恐る眺めている。

また動き出さぬかどうか、誰もが怖がっていて、藤原顕光だけを眺めている。

だが、賀茂保憲は、別の方角に視線を向けていた。

間違いなく、いまのは遠当法。神仙として名高き杉山僧正が広めた、人を気絶させる神仙道系のまじないだ。

あの声を、賀茂保憲はよく知っていた。

「これは、これは……いつの間に、そこへと忍び込まれたのですか?」

驚きを隠せぬ表情と声で、そしてわずかに微苦笑を滲ませて、賀茂保憲は言った。

「白き賢者……『白拍子』殿?」



「――馬鹿な!」

愕然とした智徳法師は、辺りに積んであった書物や何か妖しげな道具を引っくり返して、跳び上がるように立ち上がった。その立ち方は、彼の驚愕の大きさを示す。

何故、ここに『白拍子』がいるのだ?

「……忍び込んだのなら、『眼』が見つけ出すはずだぞ……!」

驚きを隠せぬ様子で、智徳法師は思考を重ねる。

内裏のありとあらゆる場所に、蜘蛛の式神は配置している。結界などを仕掛ければすぐさま陰陽寮が動くため、張ってはいないが……それに劣らぬほどの働きを、式神はやっている。だから……もし、侵入があればすぐさま警報がなる。すぐに分かるはずだ!

おのれ……式神使い。

天に雷を放つ呪詛以外にも、新しいまじないを生み出したというのか?



「はっきりと申し上げましょう。内裏はすでに智徳法師が掌握しております」

淡々とした口調で、『白拍子』は賀茂保憲に語りかけた。

「ええ、それは存じています。すでに、円融天皇も……」

周囲の視線と耳がある以上、奴の手に落ちた、と陰陽頭はさすがに言えなかった。憚られる。だが、『白拍子』はこの内裏で何が起きているのか、誰もがはっきりと分かったようだった。

「……保憲様、」

『白拍子』の背後から、安倍晴明が声をかける。表情は、もちろん険しい。

「そうなれば、もはや述べる事実はただひとつ――内裏は陥落した」

『白拍子』は淡々と事実を述べた。

「この混乱に乗じて、悪事を遂行しようとしております。我々はそれを阻止せねばなりませんが、最悪なことに、我々は圧倒的に不利な立ち位置です。今から全員で智徳法師に対決しに行っても、状況は芳しくありません。世界を滅亡させる奴らの計画を止めることは、絶対にできません」

「待て、世界を滅亡させる計画――とは一体?」

賀茂保憲が当然の如く疑問を口にするが、安倍晴明が首を振って、いま質問してはいけませんと合図する。

「敵は智徳法師ただひとりではありません。京の闇を踊る白き怪異『修験落ち』、そして藤原道長に呪詛を放った反逆者、蘆屋道満もです」

『白拍子』の言葉に、その場で聞き耳を立てていた誰もがざわめく。

「智徳法師を倒しても、計画は何の問題もなく遂行されてしまう。奴らは長年、この平安京に潜り込み、準備を重ねてきたのですから……奴らは戦力を分散させることにより、敵戦力の脅威を削ぎ落とす戦法に打って出たのです。平安京全域が戦場となっている以上、適切に戦力を分配しなければなりません。そうしなければ、我々は敗北する……死ぬだけです」

「では、私たちはどのように動けばよいのですか?」

賀茂保憲が、そう尋ねたときだった。

不意に、妖しげに微笑んだ『白拍子』が、掌いっぱいに符呪を持って、両手を高く掲げた。途端に吹き荒ぶ強風に煽られて、紙吹雪のように内裏へと散っていく。

それらは雪のように、内裏のあちこちへと降り注いでいく。

すると、その雪のような紙切れから、巨大な狼が空中に飛び出してきた。クレナイとムラサキだった。まさに神の眷属を思わせる純白の巨体は、軽々と舞い上がり、地面に落ちた白い紙切れに、吸い込まれるように消えていく。

内裏のあちこちに舞い降りた白い符呪を使って、内裏全域を駆け巡っているのだ。

クレナイとムラサキは、食らい尽くしていた。

内裏中に放った、智徳法師の式神を、次々に食らい尽くしているのだ。



「己、『白拍子』!」

悔しげに唸る智徳法師。だが、何もできない。

あの式神は、あくまでも内裏の監視用に放った式神で、攻撃能力はまったくない。

だから、何もできずに、次々と自分の式神が食われていくのを、指をくわえてみていることしかできないのだ。



「これで、智徳法師の目と耳は封じました」

建物のほうから突然姿を現したクレナイとムラサキに驚いた賀茂保憲に、『白拍子』は静かに説明した。

「作戦を説明します。拒否権は絶対に認めません。私の指示に、全員、従ってもらいます」



十六、



影の勢力は、『修験落ち』と智徳法師、そして蘆屋道満を主力として活動している。

だが、その勢力を構成するのは、たった三人の呪術師ではない。

影の勢力は鬼や魔物だけではない。生者の国を攻撃して、世界を滅ぼす死者の世界そのものが、影の勢力であり、死者や怨霊も影の勢力を構成する。

鬼や魔物は、いま、確かに平安京を暴れている。

火の手は上がり、空と視界は黒く染まる。

だが……しばらく時間が過ぎれば、新たなる敵の姿が現れる。

しばらくすれば、平安京に溢れ出すように出現するのは、死者たち、怨霊たちなのだ。

この世界を、破壊しにやってくる。

道は、いまは半分だけつながれた。

死者の世界と生者の世界をつなぐ穴は、半ば開いている。

あと……もう少しすれば……

死者と生者の世界は、完全につながる。



……あともう少しで――道は、完全に開く。



上空から見た平安京は、まさに地獄の釜の蓋が開いた状態である。

平安京のあらゆる場所で炎は踊り続けている。それは地獄の業火が、地上に噴き溢れる前兆のように見える。

そして、上空にも新たなる変化が顕れた。

火の玉が、数え切れないほど空を飛んでいるのだ。

大きな唸りをあげて、すべての火の玉が、地上へと降り注いだ。



何も理解できない者にとっては、その光景は、恐怖を掻き立てるものだろう。

火の玉が、落ちてくるのだ。

地上から空を見上げるすべての人間は、新たなる災厄だとおののき、無力に佇んでいた。



――だが、実際は違う。



「かかれぇ!」

鞍馬と愛宕の大天狗は、上空から号令を発した。愛宕大天狗の太郎坊は斧を振りかざし、鞍馬大天狗の僧正坊は太刀を振りかざす。それに呼応する天狗の戦士たち。火の玉と化した天狗たちは、地上に降り注ぐ流れ星のように、美しく、そして疾風のように駆け出した。

翼がばさりと、力強く動く。その拍子に、空中を舞う天狗たちの羽。

「大地に潤いあれ! 緑に祝福あれ! 森よ、常に瑞々しくあれ!」

彼らは叫ぶ。心に刻むその誓いを。

己が夢見る世界に、まことそうあれと。

天狗たちの戦士は、各々の武器――戦闘用の斧や刀剣を振りかざしながら、地上に向かって、ほとんど真っ直ぐに落ちていくように、急降下していく。



地上には、あまりにもおぞましいもので満ち溢れていた。

死者の世界の瘴気に侵されて、ここにいる盗賊や物の怪は“境界線”を越えてしまい、自我が崩壊した鬼と魔物に成り代わってしまった。ただ、何かを壊す思考しか持っていない。ただ、傷つける行動しかできない、そんな鬼と魔物である。

地上を跋扈するのは、鬼と魔物だけではない。

この世界に穿たれた黄泉比良坂の穴から、すでに死者の怨念は漏れていた。左京区を覆いつくすように広まっていた。

逃げ惑う人々に、死者の怨念が憑く。

死者は魂だけの存在。

この世界に存在するためには、死者の魂は魄――すなわち肉体を手に入れなければならない。

そして、ついに、死者は肉体を手に入れた。

死者に憑かれた生者たちの肉体は、二重の魂を内側に宿すことになった。

だからこそ、その肉体は、はやくも朽ち始めたのである。

死者の怨念に憑かれた人間たちは、ほかの人間を見つけるや食らい尽くすように襲い掛かっていった。壊れた人間がまだ壊れていない人間を喰らう。そんな共食いの地獄絵図のような世界が、平安京を埋め尽くすように広がっていく。

まだ無事である検非違使たちは、愕然としたようにその光景を見つめている。

「なんだ…………なんなんだ、こいつらはぁ!」

「逃げろ! 逃げるんだ!」

「待て、おまえら配置に戻れ! 逃げるな!」

「化け物だぁ!」

町中に展開していた検非違使の隊は、わずかふたり、三人で構成されている。

誰もが恐怖に駆られて逃げ出した。

そして、それを追いかける死者の軍勢。



死者の世界の軍隊は、大部分が平安京に集結しつつある。

だが、そこに、天狗の軍勢が、空から攻めてきた。



天狗たちは流れ星を放った。

実際、それは妖気が込められた斧や投擲剣や投槍だが、流れ星のように黒い空に美しい自然の色を細く残す。

そして、地面に達すると思いきや、それは急激なカーブを描いた。

まるでその武器自体に意識が宿っているように、投擲された様々な武器は、縦横無尽、自在に動き始めたのだ。邪魔なものを避けるように動き、不意に道を曲がる。それらは平安京にいる人間たちには決して当たらず、魔物や悪霊めいた死者の怨嗟を切り裂くように動き続ける。

斬りつけられた魔物や死者の怨嗟は、途端に悲鳴をあげて消失していく。

彼らはただ刃で斬りつけられて傷を負ったのではない。妖気にやられて消えたのではない。

天狗たちが唱える修験道のまじないによって、投擲されたすべての武器には、ある呪力が込められているのだ。



「所々の天狗来臨影向、悪魔退散諸願成就、悉地円満随念擁護、怨敵降伏一切成就の加持、

 オンアロマヤテングスマンキソワカ、オンヒラヒラケン、ヒラケンノウソワカ」



彼らは詠唱する。後の世に『天狗経』の名で知られる、日本有数の天狗を来臨させ、悪鬼妖魔を退散させ、調伏させる諸願成就のまじないである。これは別の地域では、『勤行法則』とも呼ばれる。

投擲武器には呪力が込められており、それが悪鬼妖魔や死霊の怨嗟を蹴散らす。

だが、それだけではどうにもならないほど、数が多すぎた。

だからこそ、鞍馬大天狗と愛宕大天狗は、お互い遠く離れた場所にいながらも、適確な指示を出した。

「二手に分かれよ! 肉弾戦で相手を蹴散らす者と、呪術詠唱によって相手を組み伏せる者に分かれるのだ! すぐさま取り掛かれぇ!」

ついに、それぞれの大天狗は武器を抜いて、地上に激突するように着地した。

鞍馬の僧正坊は大柄の太刀を振るい、愛宕の太郎坊は両手で戦闘用の斧を構える。

武器に迸るように妖気が灯り、大気に零れるように漏れる。鞍馬と愛宕の大天狗は一撃一撃に、とんでもない大きさの妖気を込めて、破壊の音と衝撃がすさまじい苛烈なる攻撃を次々に放つ。

死者の怨念や悪鬼妖魔が、風に吹かれた落ち葉のように吹き飛び、壁に激突して、地面に墜落する。

「首領に続け!」

「まじないを唱えるんだ! 行くぞ!」

天狗の戦士たちはすぐさま動きだした。

地上に着地するや、太刀や斧を振るい、悪霊や悪鬼妖魔を蹴散らす。

そして、不意に飛び上がって、翼を広げ、急降下すると同時に、一撃必殺の攻撃を放つ。

黒い羽根が、空に舞い、地に落ちる。



「天魔外道皆仏性、四魔三障成道来! 魔界仏界同如理、一相平等無差別!」



様々な詠唱を開始しながらも、別の組の天狗も戦闘を開始する。

地上を埋め尽くす、さまざまな呪力と色あざやかな妖気。そして、死者の怨嗟と悪鬼妖魔。さらに、死屍累々と崩れた建物の残骸。

地獄のなかで、天狗たちは叫び続けていた。

己の心に焼き焦がす、夢見る世界。

彼らは誓うように、強く夢見るように、己の決意を、己の夢を、己の意志を叫び続けた。

「大地に潤いあれ! 緑に祝福あれ! 森よ、常に瑞々しくあれ!」



地上で広がり続ける、繰り広げられる混沌とした戦場。それをはるかな上空から眺めていた天狗の千木と山姫の夕衣は、天狗風が作る空中の目に見えない床に立って、それぞれが別の方角を眺めていた。

天狗の千木は、内裏の方角へと。

山姫の夕衣は、これから向かえと指示された場所の方角へ。

「これから安倍家の陰陽師を助けるにしても……これほどの惨状だ。眠り続けたままの陰陽師が三人とも無事という保証はないんじゃないのか?」

素っ気無い口調で山姫が尋ね、吐息した天狗の千木が、そうだな、とまず短く答えた。

「だが、賀茂保憲は優秀な陰陽師でもある。そこに期待しよう」

「運良く無事だったとしても……」

同胞に背を向けていた山姫は、この時、天狗の千木に振り返った。

「……あの三人が、果たしておまえを信頼するかどうか。見物だな」

吐き捨てるように言い放つ嘲りの言葉。

それに言い返せない天狗の千木は、ただ沈黙していた。

答えが返ってこないことに溜息を吐いて、山姫の夕衣は、不意に天狗風が作る床を蹴って、地上へと急降下を開始した。

そんな彼女を見送って、天狗の千木は静かに呟いた。

「せめてあんたが生き延びてくれれば良かったんだよ……ハゲ坊主」

いまはいない同胞に語りかけて、天狗の千木も出発した。

目的地へと。



地上には地脈の力が満ち溢れていた。

どうやら山から洪水のように、地脈の力が平安京を中心地にして押し流されているようだ。明らかに、呪術的な作為性を感じる……

智徳法師は、内裏を制圧して死者の神を顕現させるための祭儀の準備を行っているから、これほどの大規模な呪法を展開する余裕はないはず。

ならば、どこにいるか分からない蘆屋道満か、“修験落ち”の仕業だろうか?

山姫は山の妖怪。地脈の力を使いこなせる数少ない、強力な妖怪である。

地脈の力を操作して、美しい砂塵と木の葉の旋風を巻き起こし、落下する速度と衝撃を完璧に緩和して、地面に軽々と着地した。

「さて……行くか」



内裏の建物の屋根を、飛び跳ねながら移動するクレナイとムラサキ。その背中に跨り、『白拍子』もまた、目指す場所へと向かい続ける。すでに、彼がいる場所は理解している。影の勢力が以前から繰り返した計画――『日陰の一日』――には、成功する確率が低かった。

だが、白き怪異、“修験落ち”が彼らの戦列に加わることにより、いよいよ、この世界を滅ぼす『日陰の一日』の、成功してしまう可能性が高まってしまった。

死者の世界と生者の世界をつなぐ準備を蘆屋道満が行う。

この世界に死者の神を呼び寄せるための儀式を智徳法師が執り行う。

そして……死者の世界から儀式に必要な道具を運ぶ、死者の世界の異形の魔物を呼ぶための扉。それを、“修験落ち”が開けるはずだと、『白拍子』は予測していた。

その場所は、ただひとつしかない。

「南へと下りなさい! クレナイ、ムラサキ!」

呪いでもあり、友でもあり、式神である純白の狼に、『白拍子』は声をかける。

願うような彼女の声に応えるように、クレナイとムラサキは大きく身を躍らせる。



彼らは駆ける。この世界に残した夢を、実らせたいと願うがために。

そして、影の勢力の呪術師は、彼らを待ち構えていた。



十六、



円融天皇と謎めいた妖艶なる美女を伴い、智徳法師は煙と炎で満たされた内裏の建物の中を移動していた。検非違使や仕官などが混乱したように縁側や建物のなかを往来しているが、誰一人、円融天皇と智徳法師という奇妙な組み合わせに気づくことができていない。

「これは隠形の術か、法師?」

女が尊大な口調で尋ねてくる。

智徳法師は恭しく振り返り、頭を垂れる。

「いかにも、その通りに御座います。誰であろうと気づくことなど出来ますまい。私がその術を解かない限りは」

「どこに行くつもりだ? わらわの縛りはいつ解ける?」

「すぐに解けますぞ、しばしお待ち頂ければ、そうれ」

まるで相手を楽しませようとする貴族のように、智徳法師は芝居がかった口調で体を動かし、移動を開始する。

それを見送るのは、口元の笑みを扇で隠した謎極まりない女。しばらくすれば、円融天皇のほうにぎらついた眼差しを向けて、獣めいた吐息を漏らし始める。

移動し続ける智徳法師は、扉を開けてくぐるたび、奇妙なことに姿かたちを変えていた。

一度目は検非違使の姿、そして二度目は貴族の姿へと。

変化の術で人相を変えて、服装までも色も素材も変わっている。智徳法師は不意に高位の貴族の面持ちと装束に姿を変えた。

そして、人がいる方角へと集まると、大声で誰か参れと叫ぶ。

すぐさま何人かが気づいて慌てて駆け寄り、膝をついて頭を垂れる。

「如何なさいましたか、道長様」

誰も畏怖したように、そう口を揃える。

藤原道長。智徳法師は自分の人相を、誰も疑わないほど精巧に、しっかりと真似たのである。

平安京の最大の権力者。いまやこの国の最高権力者に化けたのだ。。

「いまここにいる者で、『三種の神器』が無事かどうか、確認したものはいるか?」

「い、いいえ……」

混乱していた下級役人のひとりがそう答える。

「すぐさま調べるのだ! 状況をこの私に知らせよ!」

「は、直ちに」

誰もが口々にそう答えて、まるで鬼から逃げるように走り出す。

「ほう……急げよ、法師。わらわはそんなに辛抱強くないぞ?」

燃え盛る建物から、操られた人形のように円融天皇が姿を現し、退屈だと言いたげな様子で妖艶な女が姿を現す。先ほどまでとは違い、どこか、人とは違う雰囲気を醸し出し始めている。

「今しばらくお待ちを。このような事態では、必ず、宝物を安全な場所に運び出す慣わしになっております故……しばらくすれば、この内裏を覆い、あなたを閉じ込め、そして縛り続けた結界も破れますぞ」

「それは楽しみだのぅ……いましばらく待ってやろう」

尊大な口調で、相手を見下す面持ちで、楽しげに女は語る。

しばらくすれば、かなり距離の離れた建造物のなかで、安置されていた『三種の神器』が、移されるだろう。

慌てた……愚かな人間どもの手によって。

だがそれは、大事な宝を護ろうとする愚かさが引き起こす、最大にして最悪の悲劇の始まりである。

「待っていたぞぉ……この時を、何年も。何年も」

狂おしげにそう語り、女は扇をぞんざいに空中に放り投げる。

それが、ふわり、ふわりと宙を踊り、地面に落ち葉のように落ちた瞬間――



まさにその時、『三種の神器』が、ついに、人の手によって動かされた。



ぱん、と弾けるような音をたてて、内裏に張り巡らされた最後の防壁は、ついに、壊れた。

即ちそれは、所定の位置に納められている時に発動する結界であり、『三種の神器』が持ち出された場合には、結界は効力を失う。

人の手によって造りだされたものは、人の手によって、無意味なものになった。

「いざ、時は参られました」

恭しく女に敬礼して、智徳法師が言葉を語る。

「どうか、我らにお力添えを。あなたですら胡乱に思うこの世を、ついに終わらせるために。その力、我らに貸与を!」

「契約は果たされた。法師、貴様の望みに応えてやろう」

女は怖ろしい形相で、そう語る。

空気が、ぞわりと動く。何か妖しげな色が、どこからともなく現れて、周辺を暗く染め上げていく。

何かが変わろうとしている。



そして、変化は更に訪れた。



僅かな驚愕を示す、智徳法師の目の前で――。



ぱちん、と黒い星が現れた。

そして……ぱちん、と白い星が現れた。



それは、女と智徳法師が理解できない、空中に突如出現した、奇妙な丸い星である。



智徳法師と謎めいた女がいる場所から遠く離れた場所、内裏の築地の壁と門の正面に、七人の陰陽師たちがいた。彼らはそれぞれ、扇などを構えて自分たちの力を具象化しようとしていた。

陰陽寮の筆頭、賀茂保憲。

その息子、賀茂光栄。

その他、陰陽博士、天文博士など。俗に人々から陰陽師と呼ばれる力量を持つ者、七名。

彼らは『白拍子』の指示通り、この場に馳せ参じたのである。

悪鬼妖魔うごめく、この戦場に。



「七つの星を連なる北斗、天の中に座して白き星」

歌うような口調で、その陰陽師は碁盤に白い星をぱちん、と置く。

「右に現る黒の星、閉じた門を示す」

智徳法師が潜む内裏を三日月の陣形で囲むように並ぶ陰陽師。さらに別の陰陽師が呪文めいた歌を口ずさむ。

「左に現る白の星、開いた門を語る」

それぞれの陰陽師は、人数分用意した囲碁の前に片方の膝をつけていた。

「さらに連なる黒の星、重ねてつなぐ」

それぞれの碁盤に、白と黒の星を打ちつけながら、呪文を唱える。

「そして連なる白の星、列ねてただす」

智徳法師と陰陽師たちが見上げる空には、黒白の星が連なるだけではなかった。

「ついに終わりの黒の星は、因果の陰を」

暗い空に現れる変化は、星だけにあらず。

内裏の上空に、まるで竹を編んだかのような、どこか半透明な檻めいた籠が出現する。

「更なる終わりの黒の星は、因果の陽を」

六人の陰陽師は碁盤に白と黒の星を打ち続けているだけであったが、陰陽師の陣形の中央にいた陰陽頭、賀茂保憲の手前には碁盤はなかった。彼が用意したのは六壬式盤。地を現す四角い盤に、天を表す球体が埋め込まれている、陰陽道における占星術の道具である。

本来、六壬式盤は、占星術に用いられる道具ではあるが、時に、鬼神を使役すべく式神召喚の媒介としても用いられる。

陰陽頭、賀茂保憲は六壬式盤に記された星と神の名を紡ぐ。

「青龍、白虎、朱雀、玄武、勾陳、帝台、文王、三台、玉女」

九字護身法の詠唱と同時に、陰陽頭はドーマンを地に描く。

最後の詠唱が終わると同時に、すべての星が連なり、呪力が結び合い、つながりあい、重なり合い、内裏を隔離する結界が完成した。

……これで、悲劇を食い止めることができるだろう。

陰陽師たちはそれを見届けて、彼らは安堵の吐息を漏らす。



上空に描かれるのは、北斗七星。夜空の中心に浮かぶ七つの星。

「……法師、よもやこれは……?」

女がうんざりしたように尋ね、苛立たしげに智徳法師が厳かに応える。

「申し訳御座いませぬ、どうやら陰陽寮が動き出したようです」

「安倍家の陰陽師は……動けない状態ではないのか?」

「それがどうやら、別の人間が……『白拍子』が、動いているようでして……」

智徳法師のことばに、女は目を細めた。

「己……小癪な」

「ですが、あれはまだ脆い。故に、破れますぞ、我らの力で」

智徳法師の言葉に、女は面妖に笑みながら頷く。

『三種の神器』は、間違いなく所定の位置から動かされ、この内裏を覆う平安京最後の結界は壊れたのだ。

護るために在らず、封印するために在るだけの結界。それは壊れたのだ。

この女は人間に在らず。

故に、存分に力を振るうことができる。



残念だったな、陰陽寮。

何処に立っているであろう陰陽師たちを嘲笑い、智徳法師と女は動き始めようとする。



だが、そんな彼らの動きを縫いとめるように、さらに動く陰陽師がいた。



上空に浮遊し、見えない床に足をつける、稀代の力を振るう陰陽師。

安倍晴明は美しい絵が描かれた扇をふたつ、両手で振るった。



「奇一奇一たちまち雲霞を結ぶ、宇内八方ごほうちょうなん、たちまちきゅうせんを貫き、玄都に達し、太一真君に感ず、奇一奇一たちまち感通、如律令」



この咒言は、まさしく神の力の貸与を願い奉り、絶大な神通力をヒトの肉体に宿す呪いである。太一真君とは根源を司る天地開闢の神仙道における神であり、神道においては別天津神の一柱である天之御中主神である。

この呪文を唱えることにより、安倍晴明は絶大なる神通力を開闢の神から頂戴した。

稀代の陰陽師は、その力を用いて結界をさらに強靭なものとしたのである。

地上に陰陽寮の熟練者たちを七名。そして、安倍晴明と加えて八名の陰陽師が、いま内裏を包囲するように集結していた。

安倍晴明と陰陽寮は、ここに、四角四境祭と呼ばれる呪術祭祀を、擬似的に行ったのである。

都と宮中を守護するために行われるこの祭祀は、四方を陰陽師で固める必要があり、計八人の陰陽師が必要となる。これは、疫病や邪気を祓い、結界を張るという呪法である。既に内裏の四方には霊符を仕掛け、六壬式盤を起点として呪力が注ぎ込まれ、結界が完成した。

これで、智徳法師の動きを封じる檻は完成した。



「――まあ、要するに」

失望の色をまったく隠せぬ声音で、智徳法師はうんざりしたように嘯いた。

あれほど挑発したくせに、安倍晴明、あの怨敵はやはり私の相手をしないという訳か。檻を造って、ここに閉じ込めた。出入りすら禁ずる強固な牢獄。閉じ込められたのだ。ふたたび対決することを待ち望んだ自分を嘲笑うように、奴は何処へと行くだろう。“修験落ち”か、もしくは蘆屋道満を討伐すべく。

――安倍晴明よ。貴様……自分は、相手にする必要がないということか?

怒りを隠せずに、智徳法師は剣呑な表情で彼方を見やった。

そこから……炎が吐き出す黒煙の向こう側から、歩いてくるふたつの人影があった。

――自ら手にかける必要はないと踏んだ上で、雑魚として、片付けさせるつもりなのか?

怒りは憎悪に変わる。恨む必要のない人間ではあるが、奴の血筋を引いている以上、やはり怨恨の眼差しを向けずにはいられない。

「――小物という訳か。私は相手にされんという訳か」

自嘲するような呟きと共に、智徳法師は狂気に染まった笑みを浮かべる。

ならば、良い……良かろう。

貴様の息子どもの躯を、その死骸をここに掲げてくれようぞ。

「良くぞ参った……安倍吉平殿、安倍吉晶殿。見えること叶いまして光栄ですぞ」

光栄など微塵も思っていないが、智徳法師は笑顔で出迎えた。だが、内心はこう思っていた。

私を殺そうとして赴き、私に無様に殺される、哀れな哀れな青二才どもめ――と。



「そこの者、智徳法師と見受ける。おとなしく縄につけ」

相手がそうするつもりがないと分かっていても、形式的に安倍吉平は口を開いた。

安倍吉平は堂々とした様子で歩いていた。弟も、多少の緊張に顔を強張らせながらもその後に続く。やはり、緊張してしまうものだ。これから、殺し合うことになるのだ。父と対決するほどの力を持つ、あの、悪名高き智徳法師と。

――ここは、すでに奴の胃袋でもある。

安倍吉平は油断なく周囲に視線を配らせた。近くに、何らかの呪詛は仕掛けられてはいない。

いま、歴史に記されたことのない、異様な陰陽師の死闘が始まろうとしていた。

呪術師は、直接対決することは絶対にない。

そもそも、陰陽師などが用いる呪術は、秘匿性が重んじられる。

呪いというものは、いかなるものか、何処より訪れたのか、そして何を狙うのか。

――……一見、それが分からないことに存在価値があるといっていい。

誰かを呪い殺す場合、自らの手を血で汚すことがない。適切な咒言を唱えれば、忌み嫌う一族に簡単に災厄を見舞うことができる。そういった理由で、貴族たちは呪術を重用していたといっていいだろう。

呪いを浴びせ合う闘いなど、ありはしない。呪術師が用いる呪いは秘匿性が重んじられる。だから、こういう闘いで、真言や咒言を唱えることはない。

世界が滅びる寸前というこの異様にして怪異な状況下で、彼らが用いる力は――、

式神、である。

これを式神比べ、と言おうか。どちらが優劣か決すべく。皮肉にもかつて父と智徳法師の間で行われた式神を使った闘いの再演でもある。あの時、父は智徳法師の式神の支配権を強奪して、智徳法師の式神を隠したと言われている。智徳法師はそれなりに力を積んでおり、ただ弱かったという話ではない。単純に、父が強すぎただけだ。

だが、自分たちは、他者の式神を強制使役させるほどの力は持っていない。その術を知らない。だからこそ、式神を使役して、殺しあうという単純にして凄惨な闘いが、まもなく幕を開けることになるだろう。

勝機は……僅かながらも、こちらにはある。

安倍吉平が使役する『妖怪殺し』の異名を持つ鴆……猛毒の羽を以って挑めば、勝機はある。奴が使役するのがいかなる大妖であろうと鬼神であろうと、鴆のもう毒に耐えられる妖怪や鬼神はいまい。

……今のところ、問題なのは智徳法師の背後に控える円融天皇と謎の女だ。

あの女官めいた者がヒトあらざる空気を出しているのは分かっている。

「――何者だろうな、あの女」

「影の勢力とやらの妖怪では?」

安倍家の兄弟陰陽師は、お互いに緊張を隠せずに呟き合う。

死ぬ覚悟は、ここで固めなければならなかった。この闘いの勝敗が、まさしく世界の命運を左右する。ここでしくじれば間違いなく世界は滅びる。自分たちは死んでしまう。

死ぬ覚悟を固めなければ、生きる覚悟は生まれない。

この闘いで、死ぬかもしれない。生き延びるかもしれない。

死ぬかもしれないという恐怖はもちろんあった。だが、生き延びたいという自分自身の想いは、しっかりと息づいていた。



いつもより風が冷たい。そんなことを感じながら、稀代の陰陽師は扇を仕舞った。

安倍晴明は、智徳法師と息子たちが接触したのを確認すると、踵を返して地上に降り立とうとした。だが、その直後、宮中に不穏な穢れめいた影が、津波の如く迫っているのに気づいて内心の動揺を禁じ得なかった。

――なんだ、あれは?

遠くから見れば、黒い甲冑で身を固めた軍勢が、攻め込んだようにも見える。火の手があちこちから上がり、立派な建造物が轟音をたてて崩壊する。逃げ惑う人々。まるで何者かに斬られたように地に倒れる人々。何もかもが混沌としていた。

地上の賀茂保憲やその他の陰陽師も、混沌とした光景を戦慄の眼差しで見つめていた。

「……これが、世界が滅びる光景か」

賀茂保憲は恐怖を持って呟いた。

退くべきだと誰もが心中でそう考えていたが、本能的に彼らは留まろうとしていた。

あれはおそらく、死者の怨念や悪霊であろう。あれらはおそらく、無防備な人々を喰らい尽くす。

いま、自分たちに出来ることは、何も知らない人々を、ひとりでも多く救うことだ。

「父上、『白拍子』殿の指示はどうするつもりですか?」

息子の問いかけに、賀茂保憲は即答した。

「光栄、おまえは何人かを伴って目的地に向かえ。現時点で、おまえ程の力があれば、あれを行うには事足りる。私たちはここに残って時間稼ぎをしよう」

「果たしてわれらの術が、彼らに聞くのでしょうか」

わずかに不安を滲ませて、陰陽博士が呟く。

「己に呪をかけるな。容易く穢れに呑み込まれるぞ」

「……囲まれています」

冷静に周囲を観察した天文博士が、緊張を押し殺した抑揚のない声で告げる。

誰もが、辺りを見渡して愕然とする。

「……なんと」

賀茂保憲も、かすれた声を絞り出す。

――時間を、かけすぎたか……

怨嗟の声を漏らす黒い霧が、周囲を埋め尽くしていた。人の形をした霧のようなものが無数にうごめき、内裏の建物は急激に風化したように壊れ始める。人々は悲鳴を上げて逃げ惑うが、黒い霧に呑まれると、不気味なまでに、その悲鳴はぴたりと止んだ。

沈黙。冷たい何かが自分たちに迫る感触。

これが、自分たちが対峙する穢れか。かつての人の名残か。

死を覚悟して、自分たちの命が、いかに失われやすいかを自覚して、陰陽師たちは刀印と符呪を構える。



上空では、安倍晴明が急いで地上に降り立とうとしていた。

「到底、太刀打ちなどはできぬ!」

焦燥を募らせながら、稀代の陰陽師は呟く。あれはまさしく死神の息吹と言えようぞ。軽く触れただけで、自らの命を吸い取られてしまう。稲穂の如く簡単に刈り取られてしまう。いかに強力な真言を唱えようが咒を仕掛けようが、あっけなく命は奪われてしまう。

このままでは、あっさりと無駄死にするだけだ。

「保憲様!」

まさに、絶体絶命。

安倍晴明が思わず師匠の名を呼んだ時だった。



天から救いが降り注いだ。



――流れ星が、降り注いだ。



賀茂保憲を始めとする陰陽師たちの目の前で、空から巨体が舞い降りた。その動きは荒々しくも、周辺に苛烈な衝撃をまったく伝えることはない。翼はあまりにも凛々しく広げられ、羽根は花びらのようにゆっくりと舞い落ちる。

その巨体は、両手で二振りの巨大な日本刀を構えるや、

――轟然と、怨嗟と怨念に満ちた死者と悪霊に斬りかかっていった。

翼を広げる大柄の武者。その体から仄かに放たれるヒトあらざる気配。気迫。

まさか、と陰陽師たち全員が息を呑む。



「――天狗、だと? 何故ここに?」



賀茂保憲と安倍晴明は、地上と上空で異口同音に呟く。

不意に迫る複数の気配に、安倍晴明は上空を仰ぎ見る。鮮やかな光を放つ火の玉が、隕石のように地上に向かってくる。なんだ、あれは、と安倍晴明は愕然とするが、それが強烈な妖気だと感知するや、仰天の眼差しで見送る。

天狗はあまりにも空を速く駆けるため、妖気が熾烈な輝きを帯びるという。

故に、火の玉は天狗の速さの象徴でもある。

火の玉は地表に達するや、その中から翼がばさりと広がる。妖気の輝きが大気に溶け込むように見え、妖気の残滓が火の粉のように空中を舞う。

火の玉から天狗たちは華麗に姿を現すと、武器を構える。

彼らは異口同音に叫びながら、死者と悪霊の怨念が形作る霧に挑みかかった。



「大地に潤いあれ! 緑に祝福あれ! 森よ、常に瑞々しくあれ!」



妖気で色濃く包まれた刀剣や斧は、死者や悪霊を斬りつけるや、神通力によって零体を苦しめて、消滅させていく……。

妖怪が神通力を使いこなすという奇妙な現実を、陰陽師たちは呆然と見つめていた。

しばらくすれば、天狗たちはすべての死者と悪霊を片付けると、陰陽師たちに頭を向けた。

賀茂保憲の隣に、安倍晴明は音もなく降り立つ。

「そこな陰陽師、安倍晴明殿と賀茂保憲殿とお見受けする」

大柄な天狗が、厳かな口調で淡々と語る。

「……いかにも。わたしが安倍晴明である。こちらがわが師、賀茂保憲様」

安倍晴明は戸惑いながらも答える。

「そなたらは、何者だ? 何故、ここに参られた?」

「安倍家の盟友たる天狗の千木。彼の者の指示でここに参ったのは、某、鞍馬大天狗の僧正坊である。我が部下が貴殿らをそれぞれの目的地へとお運びする」

賀茂保憲は、僧正坊という名に、思わず体を強張らせる。

何故に、天狗の首領がここにいるのか。天狗の千木とは、いったい何者なのか。

横目で弟子を見やると、老齢の安倍晴明は瞠目して沈黙している。

「……さあ、如何為される。陰陽師殿」

天狗の首領は、膝をつき、主君を催促する家臣のような口調で訪ねる。

「我らが翼、いつでもお貸しいたしますぞ」



十七、



“太極”。その黒すぎる世界で、一条守はありえない人物と向き合っていた。

この世界に存在しないはずの人物。五年前に“修験落ち”に堕ちた修験者。

「なんで……あんたがここにいるんだ……?」

理解できず、恐怖して、愕然として、訳が分からず一条は困惑の呟きを漏らす。

「……あんたは、“修験落ち”なんだ! ……ここにいるはずがない!」

四天王の一角、『白虎』の称号を担う西方守護者、白夜。

数多の式神を従える伝説の兵であり、ヒトと妖から畏れられてきた強大な神通力の持ち主。

そして、いまのこのムゲンの世においては――、

化け物を従える、白い衣を翻す、錫杖を振るう死神。



ムゲンの世に、間違いなくいるはずの敵。

“太極”の世界に、間違いなくいない敵。

――こいつが、ここにいるはずがないのに。絶対に……。



「少年よ。その心にしかと刻むのだ」

“修験落ち”の格好をした白夜を名乗る呪術師は、静かに語った。

「この私に、ここで巡り会えたことこそ……ムゲンが辿り続けた悲運を、唯一、覆せる重要な奇跡である。愚かな私の過ちは、神をも欺く偽りを産み出した。そして、この時まで……その偽りは、誰にも気づかれることなくここまで保たれた」

よく意味の分からない発言に、一条は戸惑った。

――何の話を? あいつは、何を話しているんだ?

「……一条殿、身構えてください」と、白い仮面の女神が囁く。「来ます!」

何が来るのか、と疑問に思った次の瞬間、黒い何かが襲い掛かってきた。

音もなく。気配もなく。

ただ襲い掛かってくるのは、とんでもない圧力だった。見えない巨大な手が、獲物を握り潰そうとするような圧迫感。冷たい洪水に呑み込まれるような感覚。地に足をついている感覚を失って、墜落する感覚。

一気に、それらが迫ってきた。

実際、一条は、短い時間のなかで、潰されそうになり、吹き飛ばされ、そして落下した。

天地すら分からぬ黒の世界。“太極”の中で、一条はあっけなく弄ばれた。

正体不明の、強大な敵に。

何が起きたのか、理解できず、ほんの一瞬すら悲鳴を上げることもできず、一条守は、人形のように弄ばれて、ほとんど地面に叩きつけられるように放り投げられた。

頭上で、何かが動いているのが分かる。

黒い何かが、欠片のようなものが、ひらりひらりと舞い降りる。無数に。

旋回しているのか。くるり、くるりと何か見えにくい影が動いているのが辛うじて見える。

「来るぞ!」

突然の叫び声に、一条は一瞬だけ対応が遅れた。

慌てて跳躍して何とか回避するが、驚愕はまったく色褪せない。

いま……“修験落ち”が、警告の叫び声を上げたのか?

黒い何かは、一条が先ほどまでいた場所を、“太極”より黒く深い闇の色で、まるで喰らい尽くすようにうごめいていた。その姿その気配、まさに、闇夜に溶け込む獲物に飛び掛り、その血肉を喰らう獣を思わせる。

怖い、と思うと同時に、理解できない。

“修験落ち”はいったい何をしようというのか。

それに、先ほどからの発言も理解ができない。

――神をも欺く偽り? それが誰にも気づかれることなく、今まで保たれてきた?

嘘っていうのはいずれバレるものだ。そんなに長続きしないものだ。

いったい、どういう意味なのか……

ふたたび、敵が襲い掛かってきた。慌てて跳躍して回避するが、その際、視界に、あの白い仮面の女神が横切る。

――待てよ……確か、あの時、



世界で最初に死んだ神様が、隠れ住んでいたあの世界で。

確かに、あの女性は言っていたではないか。



――「――“修験落ち”、奴はほんとうに、何者なのでしょうか」



そういうことか!

いま、ようやく、彼女と彼の謎めいた言葉を理解した。

神をも欺く偽り。何故女神が“修験落ち”の存在自体に疑問を抱いていたのか分かった。そういうことか。そういうことなのか。

ムゲンでいま、何かが起ころうとしている。

かつて起きた何かが、いま、奇跡を産み出そうとしている。

人の愚かさが奇跡を産む。

狂おしいほどの人生への執着が、世界を変える。

――その事実を、まもなく自分は知ることになるだろう。



何かが、一瞬だけ見えたような気がした。

何かに、一瞬だけ気づいたような気がする。



一条守の目の前で、敵は大きくその存在感を広げた。

突然のことだった。

敵がその姿を変えるなど、一条はこれっぽっちも考えていなかった。獣は己の姿そのもので襲い掛かる。その牙で、その刃で。まさしく化け物のように、獣はその姿を変えることはない。

あの鵺のように、異形の姿に変わることはないだろう。

だが、一条はまだ意識が完全に切り替わっていなかった。

この世界は、ムゲン。夢と現が入り混じる世界。

現実と同時に、ありえないことが起きてしまう世界。本来ならば、存在しないであろう妖怪たちが、当然のように人々の間で受け止められている。

そういうことだ。ここは、そういう世界なんだ。



だから、一条は、まだまだ甘かったと言えよう。



油断していた――。

一条は、目の前で巨大化した気配に、無力に呑み込まれた。

相手は、獣ではない。

化け物だ。



陰陽師は、星の名を読み、鬼神を召喚して使役するという。

修験者は、鬼神だけではなく、強大な悪霊や妖怪を護法童子として使役する。



そういうことだ。

この世界では、化け物を使役する特殊な人間が存在している。



相手は、“修験落ち”である。

いまだなお多くの謎を残す“修験落ち”は、数多の人々を殺し、異形の妖怪を使役している。

まさしく化け物を使いこなすのだ。



一条守は、あっけなく呑み込まれた。

いまだその姿を闇に隠す、謎の化け物に呑み込まれた。喰われた。



「……あなたは、いったい何を望むのですか?」

「それは、私の問いかけでもありましょう」

白い仮面の女神は静かに尋ね、“修験落ち”は三つ目の仮面をふたたび被り、静かに音を紡ぐ。

ふたたび仮面に覆い隠される、謎めいた術者。

他者の目には、出かける準備をする人間が衣を羽織り、帽子を被っただけのように見えるだろう。だが、白い仮面の女性は、違うと見ていた。

覆い隠したのだ。自分自身を。

――ふたたび。

「あなたは、半分だけこの世界に存在しているのですね」

「あなたも、半分だけではありませんか」

仮面を覆い隠した以上、彼は何も語らない。何も明かさない。

彼と彼女は、謎めいた抽象的すぎる会話を行う。

ふたたび仮面をつけた“修験落ち”は、黙って見届けろと無言で語っているよう。



白い衣を翻す“修験落ち”。

白い仮面で素性を隠し続ける、“世界で最初に死んだ神様”。

皮肉にも奇しくも、世界を狂わせた存在と、世界を変えるであろう存在が、世界の始まりたる“太極”に揃っているのである。

「真実を知ったとき、あの少年は何を思うのでしょうか」

女神の呟きを、“修験落ち”は無言で考えていた。



いずれ、あの少年は理解するのだ。

この世界において、かつて何が起きたのか。そして、この世界が、どのように時を巡らしたのかを。

残酷な世界を、理解するだろう。非情な命運に、激怒するだろう。



今まで通り……

我ら、祈り、託すしかあるまい……

“太虚の覇者”たる、あの少年に。



十八、



混沌を極めた戦場から、遠く離れた樹海の中。

蘆屋道満は静かに待ち構えていた。

蘆屋道満は物静かに、何度も何度も、ここで闘ったと過去を振り返る。

――天狗と、水虎と、山姫と、そして、数多の陰陽師たちと。

この世界を滅ぼそうとする自分たちの敵となる、『天竺』を始めとする、この世界を変えようとする、妖怪と、呪術師によって。

だが、そこに、あの仇敵はいなかった。

奴は力ある故に、常に祭壇を攻撃していたな、それも何度も何度も。愚かしいほど単純に。

だが、あ奴は気づくべきだ。

そんな所を攻撃しても、無意味だということを。



蘆屋道満は佇んでいた。

その顔にもはや仮面はない。まるで死体のように顔色は青白く、血の気がまったくない。いや、生気そのものが消えている。まるで肉が削げ落ちているかのように、彼は痩せこけていた。その頬には皮だけが骨に張り付いたように見える。その指は黒ずんでいて、血管が死んだように浮き出ていた。

ありとあらゆる者に呪われた、おぞましい形相で。

ありとあらゆるものを呪う、恐ろしすぎる形相で。



待ち構える蘆屋道満は、すべてを晒していた。

己が死者であるという事実を。

事実、蘆屋道満は死者である。まだ安倍晴明と仲がよく、陰陽寮の学生として修練に明け暮れていたあの頃。陰陽頭のご好意によって、幼き蘆屋道満と安倍晴明は遣唐使の一員として大陸に訪れることがあった。

その時、大陸で幼き陰陽師を迎えたのが、伯道上人である。賀茂家と親睦を深めていた伯道上人は、陰陽頭の要請にしっかりと答えた。ふたりを更なる陰陽道の深みへと導くために、ふたりを弟子としてあまたの秘術や知識を教授したのである。

蘆屋道満と安倍晴明は紛れもなく弟子としては優秀であった。ふたりの成長に、間違いなく伯道上人は満足していた、紛れもなく喜んでいたと、蘆屋道満は回顧する。

そう、どちらも等しく優秀であったはずなのに……

伯道上人は、何故か安倍晴明を選び、秘中の秘たる秘術の継承を行った。

……なぜ、あやつ、だけなのか……

蘆屋道満は、あの日、理解できずに悶えるように思考し続けていた。

いったい何故なのか。術の理解はほぼ同等。いや、自分のほうが、理解が早いはずだ。

あの時、蘆屋道満ですら気づけなかった何かに、あの師匠は気づいていたのかもしれない。

術の理解のはやさに、僅かに差があったこと。力の大きさに、明らかな差があったこと。それとも、もしくは……

――蘆屋道満の心に巣食う、黒い何かに気づいたのかもしれない。



「だが……今となってはどうでも良いこと」

蘆屋道満は淡々と呟く。

何はともあれ、運命は蘆屋道満を間違いなく導いたと言っていい。

その後、蘆屋道満と安倍晴明は、それぞれの過去を決別して、死闘を繰り広げた。そして、蘆屋道満は死んでしまった。殺したはずの相手に殺されて。

一度目は負けた。だが、二度目はこちらが勝利する。

陰の勢力の呪術師として、ふたたびこの世に舞い降りた蘆屋道満は、誰よりも憎き安倍晴明との闘いを望んでいた。

奪われた命を、奪い返すがために。

血みどろの因縁を清算するがために。



「ああ……久しいな。またもやここで見えることが叶うとは」

蘆屋道満は呟く。この場所を懐かしみ、ここで起きた悲劇を思い返し、ふたたびこの場で闘える奇妙な運命を皮肉に思いながらも、感謝しながら。

蘆屋道満は呟いた。だが、その声は彼ひとりのものではなかった。

「ああ……久しいな。まさか、ここで見えることが叶うとは」

ついに、来た。

この時と、あの者が。



蘆屋道満は振り返る。そこに、いた。彼が。

――安倍晴明が。



こうして、安倍晴明と蘆屋道満は因縁の場所で、ふたたび巡り合った。

「久しいな」

ふたりの陰陽師は、静かにお互いに声をかける。

「……成る程、つまりは内裏に息子たちを配備したというわけか。知徳法師の企みを阻むために」

「その通りだ。『白拍子』殿の助言に聞きしたがってな」

晴明の回答に、道満は苦笑いした。腐った肉が引きつり、わずかに残る血液がつう、と頬を伝い落ちる。「晴明、もしや……あの白き賢者の言葉、疑いもせずに聞き入れたのか?」

「疑いはある。信頼してその助言を聞き入れた訳ではない」

晴明は淡々と語った。

「道満……この地における貴様との闘い……いったい、何度目だ?」

稀代の陰陽師は、奇妙に不明瞭な問いかけを放つ。

それを受け止める蘆屋道満は、僅かに驚きを隠し持っていた。

――晴明、貴様も気づこうとしているのか? この世界の在り様を、思いだろうとしているのか……?

この世界の真実に気づこうとしているのなら僥倖。

ならば、奴も分かっているはずであろう。

因縁を清算するには、この世界に残された時間が、あまりにも少なすぎると、――。

だからこそ、蘆屋道満は答える。

「……この地における貴様との闘い、これが最初であり、これが最後だ」

「ならば、もはや躊躇いは捨てて置かねばなるまいて」

蘆屋道満の答えに、安倍晴明も断固たる覚悟をこめて呟く。

そう、彼らは呪術師という、特殊な力を持つ人間同士として闘い合う事になる。怨嗟に呪力をぶつけ、憤怒と殺意を滾らせる、血みどろの闘争。

「――いざ、式神比べ」

ふたりの陰陽師は、我知らずふと呟く。



仕掛けたのは、安倍晴明であった。

安倍晴明は袖を振るい、刀印を組む。

式神を召還して使役するには数多くの方法があるが、安倍晴明は周知されている方法を用いた。即ち星の名を呼び、玉女を呼び出し、自身が従える最強の式神を顕現させる方法である。六壬式盤などの道具がないため、晴明は一旦地にかがみ、指先で大地を示す四角い箱と天体を示すきれいな円を結ぶ。そして、それぞれの星の名を呼び。

「顕現招来――十二神将!」

一喝するように、晴明は彼らを呼び寄せた。

蘆屋道満が瞬きした次の瞬間、まるで安倍晴明の背後に侍っていた従順な従者のように、十二神将が姿を現した。まるで安倍晴明の呼び声に応じて、背後に控えていた十二神将が人型を取って主の前に躍り出る。蘆屋道満を威嚇するように大地に降り立った。

なんと優雅なる姿か。何度も対面したその姿に、やはり蘆屋道満は感動を覚える。

阿修羅のごとく険しい表情をしている者もいれば、菩薩のごとく穏やかな表情を浮かべている者もいる。彼らが身につけている鎧は、仄かな光に包まれているように見える。それぞれが持つ武器は棍棒、大弓、錫杖、大柄な刀剣、槍と様々。

正しく百戦錬磨の武者たる堂々とした彼らの姿。

一筋縄ではいかないことは容易に理解できる。

だからこそ、蘆屋道満はこの瞬間を待ち侘びていた。どれほど、この時を望んでいたか。この瞬間のために、どれほどの苦労を重ね、準備してきたことか。

安倍晴明。強大なる式神、十二神将を従える稀代の陰陽師。

「晴明……」

狂おしいばかりの喜びを持って、蘆屋道満は雄叫びを上げる。


「我が闘争の終戦相手、貴様こそふさわしい! 相手にとって不足はないぞ!」


その叫びと同時に、蘆屋道満がついに動いた。

まず、蘆屋道満は両手を前方にばっと突き出した。晴明は、刀印を組むかと一瞬疑ったが、蘆屋道満の指は、何かをつかむように……いや、何かを引き裂こうとするかのように開かれている。

次の瞬間、安倍晴明はぞわりと、悪寒を覚えた。

なんだ、あれは――?

蘆屋道満の指先から、どういう訳か、何らかの呪力めいた黒い煙が、細く立ち昇る。

指が、不気味にうごめく。蘆屋道満はその指をわずかに上にあげると、見えない何かを引っ掻くように、勢いよく両手を振り下ろした。

次の瞬間、十の指によって、世界が引き裂かれた。

まさしく世界が引き裂かれたのだ。黒い何かが、景色を歪ませて細長い洞を作り出す。何か黒い霧が漏れ出し、安倍晴明は直感のうちに理解した。

あれは、死者の世界の瘴気か……。

そうと気づけば、奴が何をしようとするのか、安倍晴明は大体の予想がついた。

あ奴、死者の世界から何を呼び出すつもりだ?

晴明が従える十二神将は、間違いなくこの世界最強の部類に入る式神。他者が使役する式神と護法童子と闘うことがあっても、死者の世界の化け物とは闘ったことがない。自分は何も知らない。死者の世界の化け物のことなど。

わずかに恐怖したのか、十二神将が用心深く各々の武器を構える。

十二神将の阿修羅の形相は険しくなり、菩薩の顔はわずかに顎を引く。

事実、安倍晴明も恐怖を抱いていた。

――呑み込まれるな……恐怖に呑み込まれては、ならぬ。

内心恐怖しながらも、わずかに踏ん張る安倍晴明の眼前で、蘆屋道満が呼び寄せた式神――否、正真正銘の化け物が、姿を現そうとしていた。



世界の裂け目、その向こう側の死者の世界から、おぞましい化け物が姿を現した。

錆びてかなり朽ちた部分も目立ち、腐食して一部欠けた甲冑を身に着けた、鎧武者が姿を現した。虫に食われた穴だらけの布は垂れ下がって引きずっている。その化け物は、よろい武者の格好をしていた。だが、鎧の内側にあるべき肉体は朽ちていて、血肉がこびりついたような骨格だけで、鎧武者の化け物は動いていた。

なんだ、あの化け物は――?

その化け物は、全部で十体だった。どす黒い毒気を全身から発しながら、鎧武者の化け物たちはガチャガチャと音を立てて、葦原の中つ国、即ち死者の世界からこの世界へと足を踏み入れてきた。

蘆屋道満の左右に、それぞれ五対ずつ鎧武者の化け物たちは立ち並ぶ。整列するや、化け物たちはそれぞれ腰に差してあった太刀を抜刀して片手で構える。

「顕現招来……――“オニガミ”!」

満足げな表情を浮かべた蘆屋道満は、ついに、化け物の名称を口にする。

オニガミ……それが、蘆屋道満が彼奴らに与えた名前。

――道満、あんな化け物を使役しているというのか?

愕然として安倍晴明は内心の驚愕を鎮めようと努める。

鬼。そして、神。どちらも禍々しい音を含んでいる。この名を冠している以上、十二神将ですら一筋縄ではいかないだろう。

十二神将はさらに武器を用心深く構えなおし、オニガミたちは、血で錆び付いた太刀を両手で構えて、誘うようにふらふらと剣先を揺らす。

安倍晴明は蘆屋道満を睨み据える。彼の前方に展開した十二神将たちが、武器を構えたままわずかに足を、――足を上げずに滑らせるように、踏み出す。

蘆屋道満は狂気の笑みを浮かべて、不意に歩き出した。

その左右で、オニガミもまた、蘆屋道満と同じように歩き出し、錆び付いた太刀を、弧を描くように振りながら迫ってくる。

不意に、安倍晴明が何の合図も出していないというのに、十二神将たちは迎撃すべく、突進した。だん、と足を踏み、応、と気迫に満ちた雄叫びを上げて。対するオニガミも十二神将と同じくらい速く駆け出し、血に飢えた獣のように飛び掛っていく。

ふたりの陰陽師は刀印を構える。

してやられた、と安倍晴明は内心呟く。十二神将はオニガミとの闘いで手一杯になるだろう。それこそが、おそらく蘆屋道満の狙い。やつは、まさしく私自身との対決を望んでいる。この私と死闘して、心臓を抉り出す気でいるのであろうな……

わずかに冷や汗を流しながら、ふう、と短く息を吐く。

死ぬ覚悟を固めねばならぬ。

蘆屋道満に心臓を抉り取られる。そんな未来しか、いま、安倍晴明には見えなかった。



鴆はばさりと姿を現した。緑色の羽が周囲に撒き散らされて、崩れた建物の残骸や地面に無残に散らばった高価な品々の上に、ゆらりと落ちて触れた途端、鋭い音を発しながら全てのものを溶かしていった。

皮手袋を嵌めた安倍吉平の手に、鴆は大人しく舞い降りた。

まるで威厳を示そうとするように、最後に一度、翼を大きく広げて。

「兄上、ほんとうに鴆を使うつもりなんですか?」

吉平の背後から弟の吉晶が声をかける。吉平が振り返ると、弟は、不安げな視線ではなく、どこか心配げな視線を向けている。

「……大丈夫なのですか?」

弟の心配げな問いかけに、吉平は軽く笑って頷いた。

吉晶が心配する理由は、分かっている。

誰から教えてもらったか、安倍吉平がはっきりと覚えていない、危険な式神――鴆。安倍吉晶は幼い頃から兄が鴆を使役するのを案じていた。

理由は簡単。

五年前に起きた、平安京の左京区全域を荒廃させる大事件。あれに、安倍吉平が何らかの形で関与しているからである。

安倍吉平は、鴆の使役呪法を父親に教えてもらったのではなかった。元々、鴆とは日ノ本の妖怪ではない。大陸の化け物である。毒蛇を食らい、農地の上を飛べば、その翼が起こす風が大地を枯死させる。糞をかければ石をも砕く。

安倍吉晶はため息を吐いた。

そんな妖怪が、どうして日ノ本にいるのか。そして、何故、兄上がそんな妖怪を使役できるようになっているのか。まったく訳が分からなかった。

五年前、兄上は記憶を失った。

何者かに攻撃されたような傷跡もあり、兄上は死に掛けていた。ちょうど五年前、安倍家は賢者『白拍子』殿と交流を持つようにもなり、『白拍子』殿の力で兄上は回復した。もっとも、記憶は戻らなかったが……

それにしても、成り行きはほんとうに妖しくなっていくものだ。

一度、我らの眼前で裏切り行為を働いた『白拍子』殿の指示で、こうやって兄上と自分は智徳法師と闘うべく参上したわけだが……どうも、この組み合わせに『白拍子』殿の何らかの意図を感じずにはいられない。

何も知らない者たちは、疑心暗鬼に陥りながらも闘わねばならないのか。

兄弟陰陽師は揃って溜息を吐いた。

気が重い。

無事に生き延びることができればいいのだが……。



そんな兄弟陰陽師を見やって、智徳法師は余裕の面持ちで対決に臨もうとしていた。

「やれやれ、あのような童をいたぶるのか。わらわにそんな趣味などないぞ、法師」

ほんとうに面倒くさげに呟きながら、謎めいた女は静かに言った。扇は先ほど放り投げているので、女は面倒くさげで退屈だと言いたげな様子だった。

機嫌を損ねてはまずいな、と智徳法師はそう思った。

「ご安心を、あなた様の好みの食事に御座いますぞ。奴らは安倍晴明の血筋を引く者。“樹海の主”葛の葉の血と力を受け継ぐ者です。長きに渡り、この狭き宮中に閉じ込められたあなた様は、舌が満足できるものに恵まれなかったでしょう。ですが、いま、ここに……」

智徳法師は、ここに食事のご用意は整ったと、身振りで示し、そう語った。

「おお、そうか法師。気が利くではないか」

智徳法師の言葉に、女は上機嫌に喜びの表情になっていた。

「確かに、閉じ込められてからは舌が満足できるものはなかったな。天皇家の死体を漁って、腐った血肉を啜るだけであったからな。新鮮な血肉と霊力か。それはまさしく極上の馳走。感謝するぞ、法師。世界最後の夜、満足できそうだ」

上々、――手応えを感じた智徳法師は安堵の笑みを浮かべる。

「それならば、新鮮な血肉を、急ぎ召し上がり下され」

「急かすな、急かすな。法師、貴様への感謝の印ぞ。忠臣たるそなたには、その働き相応の褒美をくれてやる」

「あなた様のお力添え、それだけが私の望みで御座います」

「貴様との契約、上々に果たしてくれようぞ」

女の上機嫌な声に、智徳法師もにやりと笑って顔を上げる。

「では、生き血を啜りますか?」

「ああ、こやつのを、頼むぞ」

女は語り、法師は頷く。智徳法師は己の傀儡と化した円融天皇の腕を持つと、懐から短刀を取り出して、畏れ多くも若き天皇の腕に突き刺し、裂くように短刀を動かす。

裂かれた円融天皇の腕から、ぽたり、ぽたりと、血が零れ落ちる。



「――貴様らッ!」

「御上!」

それを見た安倍家の兄弟陰陽師は、怒気も露に攻撃を開始した。

吉平の手に止まっていた鴆は、怒りの形相を浮かべた陰陽師の思念に命じられたのか、翼を突然広げるやその手から飛び立った。鴆の妖気が周囲に容赦なく放たれ、建物や地面に転がる石や残骸が、あっけなく風化していく。

鴆は智徳法師と女に襲い掛かった。ばさりと翼をはためかせ、猛毒の羽を撒き散らすと同時に、大地を枯死させる妖気をもすばやく放つ。

だが、――。

「失せろ。無礼であるぞ」

まさしく見下ろすような口調、その表情で女は短く言霊を放った。

途端に、どういう訳か、女から妖気が放たれ、鴆が弾き飛ばされた。それを見た安倍家の兄弟陰陽師は一瞬だけ愕然とするも、攻撃の手を緩めなかった。

「臨兵闘者、皆陣列在前!」

「令百由旬内、無諸衰患!」

それぞれの強力な九字を唱えると、智徳法師たち目掛けて、神通力が飛来する矢と投槍を形作って襲い掛かってくる。うんざりしたように女はそれを見やるが、吉平と吉晶の攻撃を防ぐ素振りを見せなかった。

神通力の飛び道具は、容赦なく智徳法師と女に降り注いだ。

轟音と共に、土煙が周囲を包み込むように湧き上がり、相手の姿を覆い隠した。

だが、次の瞬間……神通力の衝撃で巻き起こった土煙が、突然、ぶわりと動いた。何かが来る、と直感した兄弟陰陽師は、声を上げることもなく地面に身をかがめた。途端に頭上を通過する、何か大きなもの。

「クソ、しくじったのか……」

油断なく目を凝らしていた吉平が畜生、と毒づく。



土煙の向こう側から、女は冷ややかな視線を投げかけてくる。

「無礼であるぞ、ふたりとも。急かさず待っておけば、きちんと平らげてやるというのに……まったく、騒がしすぎて頭が痛いわ」

「全くですなぁ、だがこやつらは焦っておるのですよ」

智徳法師の言葉に、女は呆れたように笑った。

「死ぬのを恐れて焦っているのか? 法師、貴様の企み事がうまく行くと、こやつらは迷惑なのか?」

「まあ、この世界にまだ希望があると抜かす若造どもですからなぁ……」

智徳法師は蔑みを込めてそう語り、対する女も呆れたように安倍家の兄弟陰陽師を蔑む。

「なんと哀れな者たちよ……もう無駄というのに」

「さあ、全ての準備は整いました。あとは、あなた様のお気に召すままに」

智徳法師は頭を垂れてそう語るや、顔を上げることなく数歩後ろに下がる。

彼としては顔を上げる必要はないと考えたのか、それともいまは、顔を上げたくないと考えたのか。いや、おそらく後者だろう。上げたくなかったのだ。

目の前の女が、おぞましく変化するのはさすがに目に痛いのだろう。

安倍吉平と吉晶は、目の前に姿を現す正真正銘の化け物を、恐怖の眼差しで見つめた。



「そんな……」

「嘘だろう……?」

弟は震えて、兄は全身を強張らせる。



――彼らは、その化け物を知っていた。



目の前にいる女は、不気味なまでに膨れ上がっていった。膨れ上がった体は縁側を飛び出していく。縁側から地面に両手を付けると、それはやがて化け物の前足に変わる。そして、かつて女が身に付けていた美しい衣装は破れていき、破片がひらりと宙を舞う。あざやかで艶やかな毛並みが美しく恐ろしく目立ち始める。驚くほど澄んだ獣の眼が、ぎょろりと動いて吉平と吉晶を捉える。

そして、その眼は、笑うようにすぅっと細められた。

内裏を巣食う、異形の化け物。

その話を、吉平と吉晶は父親から聞いたことがあった。

大陸の向こう側で、かつて猛威を振るった帝国で、その異形の化け物はうごめいていたという。とある帝国の最後の王は、ある女をとても愛していたという。その化け物は王が愛する女を殺し、その女の皮をかぶり、王をたぶらかした。やがてその帝国を滅ぼす結果になり、化け物はあらゆる国と帝国の王室に姿を現し、混乱を引き落としたと言われる。

まさか、そんな化け物が実在して……そして、まさか宮中に潜んでかつて封印させられていたとは……!

「まったく、鑑真和尚も腹立たしいことをしてくれたものよ。まさか遣唐使船に魔性が紛れ込んでいるのに気づき、さらに宮中でその臭いに気づくなんて……やつとやつの弟子たちが、結界まで張って、わらわを封印するとは思いもよらなかったものよ」

退屈そうにそう語りながらも、化け物はニヤリと凄絶に笑っていた。

安倍家の陰陽師たちは、その顔を見上げる。それは紛れもなく、狐の顔、だった。

「我が名を知らぬ者など、どこにもおるまい」

かつて女だった化け物はそう語り、智徳法師が諸手を上げて狂気の叫び声を上げた。

「さあ、絶望しろ! 泣き叫べ! そして憎むがいい。おまえたちをこの場に巡らせた父親を! おまえたちの前にいるお方こそ、白面金毛九尾の狐、玉藻御前にあらせられるぞ!」

別の名を、玉藻前。

権力欲に突き動かされ続けた男は、ついに、世界最後の日、権力を巣食う妖怪と契約を結び、磐石の備えを固めていたのであった。



「――勝てる訳がない……」

安倍吉平は、敗北を半ば覚悟しながらもそう呟いた。そして、立ち上がる。それに追うように、弟の吉晶も震える足を何とか堪えながらも立ち上がった。

「まったく、親父……あの世で説教してやるからな」

兄の呟きに、弟も強張ったように笑う。

「兄上、ご冗談を。親より先に冥土に下るのは、親不孝というものですよ」

「父親がそうなるようにやったんだ。俺たちに親孝行できるか?」

吉平の問いかけに、まったくだと吉晶は内心そう思った。

だが……諦めてはならない。父上も、ほかの者も、皆、命を賭して闘っているのだ。

こんな所で、勝手に一人、諦めてはいけない。

「まあ……努力すれば、親孝行になるのではないのでしょうか」

緊張を抑えようとしながら、吉晶は抑揚のない声でそう語った。そして、刀印を構えて短く呪文をつむぐ。

「顕現招来――」

天高く刀印を組んだ手を掲げて、吉晶はすぅっと息を吸い込む。

そして、内心、しっかりと命ずる。

――来い、と。

その思念に答えるように、暗雲のなかから雷鳴が低く轟いてくる。その様子を見て、智徳法師は怪訝そうに天を見上げる。自分が呼び寄せた火雷大神は、陰の勢力にのみ加護を与え、力となる。故に、安倍吉晶の声には何も応じないはず、だが……?

「――雷獣!」

一喝するようなその呼び声と共に、安倍吉晶が誇る式神が、ついに姿を現した。

狩人と共に山の中を駆ける猟犬のように、四肢がすっきりとした獣だと誰もが思うだろうが、雷獣は、後ろ足が四本あり、仔犬のような体躯にオオカミとイタチのようなずる賢い顔をしている。足の鋭い爪がいやなくらいに目立ち、雷獣が振る尻尾は二股に描かれている。わずかな赤みを持つ黒い体毛からは、絶えず雷光のようなものが迸っている。

吉平はすぐ隣に姿を現した、雷光を迸らせる妖怪に、呆然と驚愕の視線を向ける。強力な式神であることは一目瞭然。吉晶はこんな奴を従えていたのか?

「おい、おまえ……」

「兄上だけが強いのは、間違っていますからね」

緊張しきってかすれた吉晶のその声に、吉平は苦笑して立ち上がる。

「おまえが頑張るなら、俺も頑張らないとな……兄貴面を台無しにする気はないぜ。お互いが信じる最強の式神で、見事華々しく勝利してやりましょうか」

「ほざけ、雑魚を従える陰陽師が」

玉藻前が九尾の狐の姿で、嘲るように吼える。

「火雷大神よ、今一度、ここに力の貸与を願い奉る」

短刀を取り出しながら、智徳法師は咒言を唱える。途端に雷鳴が鳴った途端に、彼らのすぐ近くを、雷神が法師の言葉に応えるように、銀色の閃光を振り落とした。

それが、合図だった。

両者は敵に向かって、攻撃を開始した。



内裏の方角では落雷が激しい。

天狗たちはやかましく叫び声を上げながら闘っている。地上に溢れ出てきた死者の軍勢以上にやかましいかもしれない。

遠くの山のほうから運ばれる風には、何やらこの世あらざるものが混じっているように感じられる。

そう思いながら、山姫の夕衣は建物の屋根瓦から跳躍して、地面に軽々と降り立つ。

先ほどまで山姫が立っていた建物に、ちょうど鵺が突進してきて、ものすごい音を立てて瓦解する。建物に突っ込んでいった鵺はわずか一匹だが、山姫が地面に跳躍した途端に、さらに二匹の鵺が襲い掛かってくる。

――ジャラン、ジャララン……

錫杖の音が、山姫を嘲笑うように響いてくる。

すでに戦闘は始まっていた。“修験落ち”が潜伏している地点に近づけば近づくほど、死者の世界の空気が強まっていた。接近を試みようとした途端、完全に気配を隠していた鵺が、山姫の死角から襲いかかってきたのだ。まともに防御することすら出来ずに、鵺の攻撃を食らった山姫は吹き飛ばされて地面に激突して転がり、壁に全身を強く打って呻いた。

だが、その一撃だけだ。山姫はすばやく立ち上がると、妖気を爆発させて跳躍。次々に姿を現して、すさまじい形相と「ヒョー、ヒョー」と鳴き声を上げながら襲い掛かってくる鵺を交わし続けていた。

そして、いまに至る。

ふたたび鵺が攻撃してきた。山姫はすばやく向こう側の築地壁に跳躍すると、そのまま駆け出して“修験落ち”の居場所を割り出すべく探索しようとした、が――。

目の前に鵺が立ち塞がるように飛び込んできた。

「なるほど……足止という訳か」

うんざりして山姫はそう呟いた。

山姫はいまだいぶ平安京の市街地を南下して、端の街区まで来ていた。朱雀大路からそう離れていない場所だ。ここまで来て、鵺がしつこく山姫を足止めさせようとしているのだから、“修験落ち”はこの近くにいるはずだ。もっとも、奴が隠れ家にしている場所の見当はもうついている……

問題は、この鵺たちだ。

三匹を同時に相手にするのはさすがに骨が折れる。“修験落ち”の動きを妨害するためにも体力は温存しておかねばならないというのに……

――いっそ、強行突破するか?

山姫の脳裏を読んだのか、すばやく鵺が襲い掛かってくる。ひらりと軽やかに跳躍して、山姫はふたたび鵺たちと距離を開く。そして素早く駆け出す。何としてでも鵺と距離を開いて、“修験落ち”に近づかねばならないのだが……

「またか、」

うんざりした山姫は、立ち止まってそう呟く。

気づけば、黒い歪みのようなものがあちこちに出来ている。そこからするりと姿を現したりする鵺や、強引に飛び出してくる鵺が山姫の行く手を塞ぐのだ。黒い歪は角度を変えればあちこちに出来ている。その向こう側にあるのは……死者の世界か。

まるで、この世界が綻び始めているようだな、と山姫は溜息を吐く。

いいや、実際、綻び始めているのだ、ムゲンは。“境界線”がいよいよ曖昧になってきているのだろう。死者と生者の世界の区切りがぼんやりとしているからこそ、ふたつの世界が溶け合おうとしている。融合しようとしている。

鵺たちが襲い掛かってきた。三方向から同時に。

一気に妖気を掻き集め、まるで嵐のような妖気の爆発を起こしながら、山姫は焦燥感を募らせていた。

――急がなければならない。

そう、急がなければならない。天狗の千木の話によると、死者の神々は生者の世界をすべて破壊し尽くすために動いているという。死者の世界とこの世界が融合すれば、死者の神々の力は一気にこの世界を侵食する。一気にこの世界を滅ぼすだろう。いまや“太虚の覇者”が動けない『天竺』は、儀式を何としてでも妨害しなければならない。

「こんな所で……足止めされてたまるか!」

己自身と敵を一喝するような叫びを上げて、山姫は妖気を爆発させて鵺を吹き飛ばす。

だが、山姫の正面にいた鵺は、爆風で吹き飛ばされながらも空中で何とか体勢を立て直し、着地するや間髪入れず攻撃してきた。山姫は片腕だけで受け止めようとするが、猪のような突進力に、思わず後方に足を滑らせてしまう。

さらに、残りの鵺たちが無防備な山姫の背後を攻撃しようと飛び掛ってきた。

「しまったっ――」

山姫がそう呟いて、応戦しようと片腕に妖気の塊を具現化したその時だった。



「クレナイ、ムラサキ!」



忌々しい女の、叫び声がした。

「賢者……『白拍子』?」

歯軋りしたまま山姫は、裏切り者の名前を呼んだ。視界の片隅で、巨大な白い獣が鵺を捉えて地上に引き摺り下ろす。鵺が悲しげなヒョー、と悲鳴を上げる。クレナイとムラサキと呼ばれる犬神にも匹敵する式神は、容赦なく鵺の首を噛み千切った。

山姫は全力を込めて目の前にいる鵺をぶん殴り、築地塀に埋め込むように蹴りを見舞わせた。

荒い息を整えようとする山姫のすぐ近くに、『白拍子』はするりと降り立った。

「ご無事ですかな、山姫殿」

その挨拶に、山姫は剣呑な表情で彼女を睨んだ。

「貴様、裏切り者の分際でよくそんなことが言えるな。一条を利用して、『日陰の一日』を早めた張本人が」

「確かに、裏切り行為を働いたことには謝罪しましょう。ですが、これは陰の勢力の位置を炙り出すために重要な作戦だったのです。もっとも単独で動いたため、誰も知りませんが」

『白拍子』の淡々とした応え方に、山姫は沈黙のうちに疑念を示す。

山姫は先へ進めろと、そう言っているのだろう。『白拍子』はそう判断して話を続けることにした。

「元々『日陰の一日』とは、死者の世界とこちらの世界の“境界線”を曖昧にさせ、死者たちがこちら側に入りやすいようにする必要があります。そのために必要なのが、地脈の操作。それはすでに蘆屋道満が実行しました。次に必要なのは、冥界の扉を開いて、死者の神をこちら側の世界に呼び寄せるために必要な供物を、運び入れることです。これまでは蘆屋道満と智徳法師で儀式の準備を行っていましたが、今回、“修験落ち”が冥界の扉を開きます」

「奴らは効率的に儀式を行うわけだ。それで、妨害の策は練ってあるんだろうな?」

挑発的な口調で問いかける山姫に、余裕を持って『白拍子』は笑みを浮かべて応える。

「――然り。策はあります。ちゃんと用意してきました」

山姫は怪訝そうな視線を向けて、『白拍子』は策を進める。

「効率良く影の勢力は事を運ぼうとしていますが、逆にこれが叩きやすいのです。死者の神をこの世界に召喚する儀式は、冥界の扉が開かなければ始めることすらできない。私たちが冥界の扉を開けさせまいと攻撃しても、智徳法師はこれほど距離が開けた場所で儀式の準備を整えておりますから、そう簡単に援軍として駆けつけることはできません。法師の動きを封じるために、安倍家の兄弟陰陽師を内裏に配置しましたから」

「……安倍晴明は、いまどこにいる?」

「あのお方なら、蘆屋道満。彼の許へと行きました」そして『白拍子』は付け足すように語る。「蘆屋道満がもしこちら側に駆けつけてきたら、困りますからね」

「なるほど、つまりはそういうことか。安倍家の陰陽師を三人とも、おまえは捨て駒にしたのだな? 戦力はすべてこちらに配備すれば良かった筈だ。冥界の扉さえ開けなければ、『日陰の一日』は破綻する。吉平殿と吉晶殿を見殺しにしたという訳か、貴様は」

山姫がやはり剣呑な口調でそう語るが、『白拍子』は冷静に反論する。

「内裏には、九尾の狐が、玉藻前がいます。智徳法師と契約を交わしているはずです」

思いもよらない大妖の名を告げられて、山姫は一瞬だけ絶句したが、やはり女賢者に対する怒りが沸騰してしまった。

「だったら尚更ではないか! いったい何故、未熟者の吉平殿と吉晶殿を、智徳法師と対決させるのだ? 正気の沙汰ではないぞ。いったい何を考えている!」

「安倍吉平殿だけが、智徳法師を撃ち破る可能性を秘めているからですよ」

『白拍子』の謎めいた回答に、山姫ははっとする。

白き女賢者はいま、山姫に背を向けて歩き出していた。その背中には見覚えがあった。決然としていて、そのくせどこか弱々しい……背負った重荷に疲れ果てた、そんな背中。

――千木。

一瞬だけだが、山姫は彼の背中を思い出してしまった。

腹立たしさが込み上がってくる。あの天狗と同じく、こいつも何かを知っているのだろう。この世界の秘密を。

「おまえも千木と同じだな。秘密を抱え、仲間を信じようともしない」

「ええ、そうですね」

『白拍子』は歩き続けながら悲しげに応えた。

「私たちはそういう愚か者なのでしょう。他人に信頼してもらいたいくせに、私たちは他人を信じることができない。だからこそ、今まで無駄に時を過ごしてきたのでしょうね」

山姫はうんざりしたように『白拍子』を見つめる。

「それでも、はっきり言えるのはただひとつ。私たちは、この世界を護るために動いているのです」

重大な裏切り行為を重ねた『白拍子』の言葉を、そう易々と信じることができず、まだ何か隠された意図を感じ取って、山姫は沈黙して彼女を見つめる。

さあ、行きましょう。

そう言って、『白拍子』は歩き出した。どこに行くべきか、もう分かっているらしい。



人々は恐怖の叫び声を上げ続けながら、何とか橋を渡り終えて、少しでも遠くに離れようとして必死だった。そして、そんな彼らの無防備な後姿を嘲笑うように、化け物たちは彼らを追いかけて、追い詰めていた。彼らが狩られるのも、時間の問題だった。

鴨川の水面は静かに揺らぎ始めた。

まるで雨が降り始めたかのように、複数の波紋が同時に現れて水面を揺らめかす。水がはねる。光が踊る。水面下で、何かがすばやく動いている。

人々は悲鳴を上げた。ついに、死者の怨念が獲物に飛び掛ろうとしていたのだ。

だが次の瞬間、川に姿を隠していた何かが、その身を起こして姿を現した。

巨大な、水柱だった。水柱は何らかの意志を持って活動しているかのように、天高く突き上がるように姿を現すと、逃げ惑う人々の背中を襲いかかろうとした死者の怨念を叩き潰した。

恐怖しきった人々は、新たに現れた怪異現象を、呆然として見上げていた。

人々から姿が見えない、向こうの岸辺で、優雅に水虎の藍染は地面に降り立った。指揮した通り、水虎と河童は息を合わせて水流を無数に出現させた。これで、人々を護る壁は造ることができたというわけだ。

水の防壁は、四神の思想に基づいて、藍染の指揮で造り上げた。

人間たちは、よもや妖怪が命を助けてくれたとは気づくまい。せいぜい、青龍という存在しない神様に感謝することになるだろう。

うまくいったな……。

水の防壁に綻びがないか確認していた藍染は、不意に、子供の悲鳴をその耳に捉えた。

振り返れば、逃げ遅れた子供が死者の怨念に包囲されていた。折れた木の枝を振り回して泣きじゃくっていた。父と母の名を呼び、その子は泣いていた。

藍染がその子を助けるべく動こうとしたが、藍染の両脇から、何かが駆け抜ける気配があった。

天狗の相木殿と白絹殿か。

ふたりの天狗は、電光石火、すばやく子供の所まで駆けると、白木が武器を手にして死者たちを斬りつけ、白絹が子供を対岸まで運んでいった。すぐにふたりとも戻ってきた。

「まったく、嫌な闘いですね」

「これほど邪気に満ちた世界は、さすがに息苦しいです」

相木と白絹が交互に語る。

そんな彼らを見やって、藍染は言いにくそうに口を開いた。

「なあ、相木殿、白絹殿……千木殿の指示で、御二方は、私を援護すべく共にいるのか? それとも……別の目的があるのではないか?」

その問いかけに、ふたりの天狗は顔を強張らせてお互いの顔を見合わせる。

ふたりの気がかりな様子に、藍染は不安を色濃く覚えた。

先ほどから疑問に抱いていた。このふたりは、自分にぴったりとくっつきすぎていると。まるで藍染が命を落とすかもしれないと千木殿が考え、助力せよと指示を出したのかもしれないが、ふたりは片時も藍染から離れようとしなかった。

逆に、監視しているのではないか?

先ほどからずっと、監視されているような感じで、藍染は居心地が悪かった。

距離が近すぎる。異様に近すぎるのだ。

「……正直、私たちはどうすればいいのか分かりません。ですが、あなたは気づき始めているのですから、ここは正直に語ったほうが良いでしょう」

しばらうお互い悩むように沈黙していた天狗たちは、迷いながらもそう語りだした。

藍染は眉根を寄せた。その言い方には、嫌な予感しか感じられない。

「千木殿の指示は……藍染殿を援護せよとのものではありません。あなたを監視して、この鴨川の持ち場を離れて戦場に飛び込むようなことがあれば……武力を以って阻め、と」

予想外の返答に、藍染は愕然とした。

つまり、それは――。

「私が……もし持ち場を離れたら」

要するに、

「我々の手で、抹殺せよ。そう指示を出されました」

愕然とした藍染は、呆然としながら同胞に問いかけた。いったい、何を考えているのか。



安倍晴明は、じわりじわりと追い詰められていった。

十二神将は邪気を放つオニガミに苦戦していた。まるで血に飢えた狼のように、重い鎧を着ている化け物たちは俊敏に動き、十二神将を追い詰めていた。あるオニガミは不意に太刀を放り投げて、素手で十二神将の武器を掴むやへし折り、不気味な叫び声を上げて十二神将を肉弾戦で追い込んでいった。

何とか相手を切り伏せたかに見えた十二神将は、仲間を援護すべく動き出そうとしたが、背後の奇襲で血反吐を吐いた。オニガミは死神たる存在。死という概念は存在しない。倒したはずのオニガミは何事もなかったかのように太刀を握るや、無防備な十二神将の背中に突きつけたのだ。

明らかに、十二神将は苦戦していた。すでに、こちら側はふたりが死んでいる。

この世最強の式神といえども、さすがにあの世最強の化け物は退治できないらしい。

だが、勝機がない訳ではなかった。いくら不死の化け物のオニガミといえども、契約を交わした術者がいなければ存在することができない。死者と死者の世界の化け物がこの世に存在するためには、呼び寄せる陰陽師――つまり蘆屋道満の力が必要なのだ。

蘆屋道満を倒せば、化け物たちは呼び寄せられなくなり、死者の世界に帰るしかなくなる。

そう、蘆屋道満を……殺せば。

――殺せるのか?

軽い頭痛を覚えた安倍晴明は、突然迫ってきて短刀を突きつけようとする蘆屋道満の攻撃を交わすべく、すばやく後方に跳躍する。わずかに、晴明の母、葛の葉から貰い受けた妖気の残滓が、ぱらぱらと大気に零れ落ちる。

――殺せるのか? かつての友を。

蘆屋道満は憎悪と怒りに満ちた雄叫びを上げることなく、虎視眈々と狙い、音もなく襲い掛かってくる。叫び声を上げない彼の面持ちは、不気味なまでに落ち着いている。逆に、そこまで本気で私の命を狙っているのだと、怖ろしく理解させられる。

――そんなにも、殺したかったのか。私を……

「晴明、逃げてばかりか? 貴様は逃げるしか能がないのか?」

腹立たしげに蘆屋道満は声を荒げる。その顔の肉は腐って裂け、血が静かに流れる。おそろしい形相であると同時に、彼に残された時間があまりにも短いことを理解させる、悲痛な面持ちでもあった。――そう、残されていないのだ。彼に、時間は。

「焦っているのか?」

晴明の問いかけに、蘆屋道満は嘲るような笑みを浮かべた。

「私のいまの体を腐らせて、この場を凌ごうというのか。老いたものだな、晴明。貴様がそんなに腑抜けだったとは知らなかったぞ――。はっきりと言っておこう。この場所で私が死んでも、私は新たな肉体を見出して貴様を探し出すぞ。分かっているのだろうな、もはやどこにも逃げ場はないということを」

「待て、道満。世界は終わるのだろう。ならば、逃げ場などどこにもないだろう」

「おまえは何も分かってはいないのだな、晴明。哀れすぎるほど愚かだぞ……この世界が滅べば確かに私は貴様に復讐は出来まい。だが、もし貴様が私と闘わずに時間稼ぎをして勝利し、運良くこの世界が救われたとしても、逃げ場などないのだよ」

つまりはこういうことだ。

ここで勝っても、蘆屋道満という悪霊は地上に残り続けることになる。おそらくこの安倍晴明が死ぬまで、彼は執拗に私を復讐しようと命を狙い続けるだろう。たとえ世界を救ったとしても、その後の人生は平穏には過ごせないのかもしれない。

ならば、――

ならば、いっそ、ここで終わらせてもよいのではないか。

直視しないように努力していた方向に、陰陽師の思考ははやくも入り込んでいた。

いっそ、ここで……終わったほうが良いのではないのだろうか。

吉平と吉晶を置いていくことになるが、妻を悲しませることになるが、終わったほうがいいのではないのかと、晴明は考えていた。

自分は、人生を狂わせたのだ。蘆屋道満を殺したのである。

そして、自分だけ都合よく生き返った。自分は罪を犯したのだ。罰されることなく、満足して人生を終えることなどはできない。いまここに、罰される時が巡ったのだ。

だから、



――ここで、終わりだ。



安倍晴明の戦意喪失により、現世へとつなぎとめる霊力の供給が途絶え、十二神将の姿は消えた。もはや彼を護る者は誰もいない。

妻と息子たちに謝りながら、安倍晴明は目を閉じた。



蘆屋道満は、ついに安倍晴明が諦めたと気づき、落胆と失望を浮かべる。

所詮、こんな所なのか。私が望む復讐の、決着が流れ着く場所は。思い描く未来と現実はあまりにも違いすぎる。落胆した。失望した。

やはり、こうなるのか。

蘆屋道満はやはりつまらない世界だと思いながらも、この世界を滅ぼす意志を強めたのである。もはや、世界など無用。消すべき価値しか持たないのだ。

手始めに、

貴様から消してやるぞ。晴明。



死闘は、始まってからそれほどの時を流さずに、決着を迎えようとしていた。

だが。

終わろうとする闘い。

それに、身を躍らせた愚か者がいた。



「晴明!」



名を呼ばれると、思わず安倍晴明は目を開けた。

天から響く彼の名を呼ぶその声。と、同時に肌に感じる妖気。

風は今まで普通に吹いていた。だが、強引に、爆発したように風が四方から押し寄せてくる。風と風がぶつかり合ったのだ。自然の風と、わずかに妖気を含む人工の風によって。

その風の名を、晴明は知っていた。

天狗風、すなわち木々の間を駆け巡る、天狗の象徴たる風である。

「……天狗の、千木殿。いったい何用でここに参られたのですか?」

「決まっている。貴様を死なせないためだ」

天狗の千木は決然とそう語る。

分かったような口を利くなと、晴明は内心吐き捨てた。そもそも私と道満との間に、いったい何が起きたのか、分かっているつもりなのか――。

内心、問いかけようとした晴明は、不意に天狗殿を見やる。

そういえば……

“「――何しろ、おまえの心臓はあやつのものだ。いずれ取り返しに来るだろうよ」”

そう言っていたではないか。彼の同胞、山姫殿は。

「……千木殿、ひとつ伺っても宜しいでしょうか」

「陰陽師、安倍晴明よ。俺はこの世すべてを見定めてきた。つまり、貴様とあいつの間に何が起きたのか、容易に想像することはできる。おまえ、あいつを殺したんだろう?」

天狗の回答に、安倍晴明は顔をしかめた。

やはり、……知っていたのか。

すでに事実を知っている天狗には、何ら答えを返す必要がない。肯定する必要もない。否定する必要もない。沈黙こそが全てを語るのだ。

そう、安倍晴明はかつて殺したのだ。

蘆屋道満を。

死んだはずの安倍晴明は、かつて、間違いなく殺したのだ。

自分を殺した、蘆屋道満を。



そう、この場所だった。

忌まわしき因縁が起きたのか、この場所だった。遣唐使の船で大陸から故国に戻り、陸路をゆっくりと旅している途中、蘆屋道満は姿を消した。一行は蘆屋道満の消息を気にしながらも、平安京を目指した。そして、その道中、まさしく平安京一歩手前という場所で、安倍晴明と蘆屋道満は再会を果たしたのである。

血みどろの再会を。

連れの者は皆殺された。森の中の道を歩いていた一行は、不意に飛び掛ってきた獣に襲われたのだ。獣たちは見事に気配を隠していた。安倍晴明以外の人間は、何の武器も持っていなかったから、ほとんど一瞬で命を落としていった。ある者は喉を食い破られて、ある者は頭を潰されて。

まだ学生だった安倍晴明は、愕然としながらも式神を使役して護身に徹した。

旧友、蘆屋道満が姿を現すまでは。

彼が姿を現した時、晴明は気づくべきだったのだろう。彼の様子がおかしいことと、もう彼が変わり果てたことを。思えば、すでにあの時から、道満は死者の神と契約を交わしていたのかもしれない。もう何を考えても分からないが、あの時、蘆屋道満はすでに変わっていたのだ。

あっけなく殺された。

安倍晴明は完全に油断していた。そして、その油断を突いて、蘆屋道満は殺したのだ。

道満が隠し持っていた短刀は、至近距離から晴明の心臓を、簡単に貫いた。

安倍晴明はあっけなく殺された。

だがその後、事態は急展開した。大陸で晴明に陰陽道の知識を教授していた伯道上人が、晴明に死が迫っていることに気づき、愛弟子を警告すべく日ノ本に訪れていたのだ。上人は晴明の死体に気づき、蘆屋道満が殺害したのだと気づけば、すばやく彼を捕縛した。

そして、伯道上人は安倍晴明を蘇らせたのだ。

蘆屋道満を殺すことによって。

陰陽道の秘中の秘。禁断の秘術を行使して。



「しかし、厳密にはおまえが殺したのではない」

天狗の千木の言葉に、安倍晴明は回想から現実に引き戻された。

確かに、千木殿の言葉は分かる。私の手が奴の心臓を潰したのではないのだ。

だが……私は奴の命を利用して、蘇っただけに過ぎない。殺したも同然ではないか。

「はっきり言っておくが、死人の陰陽師をそう易々と楽に死なせるつもりはない。貴様より苦しみながら死ねずにいる者たちも、この世には数多存在する。貴様はまだ恵まれているほうなんだよ。甘えは許さんぞ」

「私が生粋の人間として人生に満足したとでも思っておいでですか?」

「否定はできないだろう。伴侶を得て、家庭を持てた。おまえは隣人に恵まれている」

安倍晴明はそんな天狗の言葉に、思わず笑ってしまった。

「千木殿、はっきりと申し上げましょうか――家族を持てたとしても、傷は癒えることはないのですよ。己が孤独でないことを理解できるのが家族であり、心に抱えた傷を癒すのは家族ではない。家族にそんなことを話しても、誰が私を慰めてくれるのやら」

む、と天狗の千木はそんな音を出す。

失言だったか、と内心で反省しているような表情だった。

「無駄話はもうおしまいか?」

蘆屋道満はうんざりしたようにそう語ると、呪力を込めて天狗に呪いを放った。何かどす黒いものが飛んでくるが、天狗風を巻き起こせばそれはあっけなく霧消した。

「ところで……」

都合よく話を切り替えたことに内心感謝しながら、天狗の千木は口を開く。

「蘆屋道満の居場所によく、単身赴いたものだな。率直なところ、おまえがあいつと因縁の清算を臨んでいるとは思わなかったぞ」

「いろいろとありましてな。天狗殿が話された事柄を考慮して、決断したまでですよ」

安倍晴明はつまらなげに語った。

興味を持ったように、天狗の千木は横目で老齢の陰陽師を見やる。

「ほう……俺の話を聞いて、決断したって? それほど重要な話をしたのか。俺は」

「私にとっては重要な話ですよ。私だからこそ気づける内容ですが」

「それは何だ?」

「死者をこの世界に呼び寄せるからくり、あれには心当たりがあります」

天狗の問いかけに、陰陽師は短く答える。だが、どこか思わせぶりのような響きに聞こえてしまう。何やら重い裏がありそうだな、と千木は直感で考える。

「……俺は何か重要なことを話したっけ?」

ある夜、天狗の千木は同胞を伴って蘆屋道満の拠点を襲撃したことがあった。その時に判明した事実、蘆屋道満が死者をこの世界に招き寄せていること、戦争――つまり『日陰の一日』がまもなく起こるということを伝えただけに過ぎない。

蘆屋道満が死者であるという事実は、関係ない安倍吉平たちの耳に入れたくなかったので、一条だけに教えていたはずだ。

「……死者を呼び寄せるからくり、教えてもらおうか」

「簡単ですぞ。陰陽道という学問の最終奥義。秘中の秘たる禁断の秘術。陰陽道が主宰神として祀る神の名をお借りした術名――即ち、“泰山府君”です」

陰陽師の回答に、天狗の千木は顔をしかめた。

なるほど、つながった……

ようやく、蘆屋道満が死者を呼び寄せる秘術の原理と、何故蘆屋道満が安倍晴明の命を狙い続けるのか。その理由が、ようやく理解できた。即ちそれは、殺された安倍晴明がこの世に生還した理由でもあり、蘆屋道満がかの陰陽師に復讐劇を挑み続ける正当な理由なのだ。

厳密にいえば、泰山府君とは風前の灯であったある僧侶の命を救った安倍晴明の秘術なのだが、陰陽師たちが祀る泰山府君は健康長寿を祈る祭祀の名称でもある。無知な人間たちから見れば、その儀式は特別に見えただろう。死ぬと誰もが思っていた人間を、陰陽師たちはたちまち回復させるのだ。

いつしか泰山府君という技術は、死者を蘇らせる秘術としても知られるようになった。

確かに噂はあるのだ。安倍晴明は、かつて一度だけ蘆屋道満と対決して敗北したと。

そしてその際に、道満によって首を斬首されたと。

――だがその後、晴明の師匠が蘆屋道満を斬首して安倍晴明を蘇らせたという、その噂が。

それは事実だったのだろう。

そしておそらく、安倍晴明の大陸の師匠――伯道上人が用いた晴明を蘇生させた秘術こそが、別名、“泰山府君”で知られる死者蘇生術なのだろう。

「つまり、蘆屋道満は泰山府君のからくりを応用して、死者の軍隊を組織したという訳か」

「いかにも。他者の命を使って延命する呪いは昔から存在していました。泰山府君もそれと同様。他人の肉体に他人の魂を入れる。それこそが泰山府君という奇跡の技術でもあり、この世にあってはならない、禁断の秘術なのです」

確かに、他人の命を利用して生き続けるというのは、人間に重荷を背負わせるものだ。

蘆屋道満は、己の心臓を取り返そうとしているのだ。それは、どこまでも人間臭い、道理に叶う復讐でもあった。皮肉にも。

だが……問題は依然としてあった。

「奴は、それを教えてもらっていないはずだな」

天狗の千木の確認の呟きに、安倍晴明は重々しく頷く。

風に聞く噂によれば、安倍晴明だけなのだ。大陸に留学したふたりの陰陽師は、ある仙人に陰陽道を教授されたが……その陰陽道の奥義は、安倍晴明のみに伝授された。蘆屋道満はそれを不服に思い、後に安倍晴明の好敵手となったと。

つまりは、そういうことだ。蘆屋道満は、独学で到達した秘術を、泰山府君のからくりを利用して、死者の軍隊を大々的に組織した。

泰山府君。蘆屋道満は死者を呼び寄せる際に、陰陽道の最高奥義を用いてだ。

それは安倍晴明しか知り得ない奥義であって、蘆屋道満には伝授されることがなかったはずの門外不出の秘術なのである。

なのに、どうして蘆屋道満は泰山府君のからくりを知っているのか。その秘術を行使できたのか。

答えは簡単だ。独学で近づいたということだ。自らの力で、――奥義に。

「力だけでなく、あやつは知識をも貪欲に追い求め、吸収したのでしょう。結果、あやつは未完成ながらも己独自の泰山府君を編み出したのです。並大抵の努力で導かれる結果ではありますまい」

「確かに……な」

天狗の千木は用心深く蘆屋道満を見据えて、低く呟く。「となれば、奴は独自の呪法を編み出している可能性は当然あるわけだ。真言なり咒言なり唱えることなく、無言詠唱で呪力や神通力を発揮することができるという訳だな。相当の難敵じゃないか」

「……失礼だが、彼と闘ったことがあるのですか?」と、晴明は怪訝そうに問いかける。

「これまで三度ほどか、奴と死闘した。だが……二度は奴に見事に消されたよ。三度目はつい最近の夜のことだ。藍染とふたりがかりで闘ったが、こっちが負けそうになって、何とか逃げることができた程度だ。だが、今度は――」

千木は決然と拳を握る。彼の感情に反応してか、天狗風がその周りを渦巻く。

「今度はこちらが勝たせてもらう番だ。そのために、多くを犠牲にしたんだからな」

「妖怪風情が呪術師に挑むというのか」嘲るように蘆屋道満がそう言った。「妖怪退治を生業にし続けてきた、この陰陽師に挑むのか」

「天狗を舐めると痛い目に遭うぞ、蘆屋道満。死んだ陰陽師よ」

天狗の千木は冷ややかにそう語ると、天狗風を爆発させた。

次の瞬間、蘆屋道満の背後にそびえる樹海が、大きく揺さぶられた。木片や枯葉を撒き散らしながら、数十本もの樹木が強引に地面から抜き取られ、蘆屋道満めがけて派手に激しく押し寄せてきたのである。さすがに、蘆屋道満はこの攻撃を予測することができずに、愕然と振り返る。慌ててオニガミが駆け寄って、刀剣を振りかざし、無慈悲に押し寄せる樹木を叩き切る。

蘆屋道満は忌々しげに天狗の千木を振り返るが、すでに安倍晴明の隣に天狗の姿はない。

「ここだ!」

頭上から、鋭い一声。ぎくりと道満は顔を上げる。

見上げれば、天狗の千木がそこにいた。翼を広げて、隠し持っていた短い造りの太刀を手にしている。それを、千木は躊躇せずに道満の肩に太刀を振り落とした。彼の肩に触れると同時に、天狗風が轟音を立てて渦巻く。まるで貪欲な獣が、肉に貪るように、太刀と天狗風は食い込んでいった。

オニガミがおぞましい叫び声を上げて、太刀を振り回して天狗の千木に迫る。

だが、千木は天狗風を爆発させて、一瞬だけオニガミの動きを封じて、その隙に一気に飛んで距離を開ける。彼は軽やかに安倍晴明の隣に着地した。

「……なんだ? おまえは闘わないのか?」

天狗の千木は、半ば闘志を無くした安倍晴明に冷ややかに視線を向ける。

「闘う目的など、あると思いか。旧友を殺した罪人風情の、この老人に」

疲れ果てたように溜息を吐いて、自分自身を自嘲するように、安倍晴明はそう語った。

世界を救うなど、そんな目的のために闘えるわけがない。相手は自分自身が殺した旧友。世界を救うという大義名分を前にして、私は旧友を殺害した咎を負う者に過ぎない。罪人だ。死んで当然の人間なのだ。世界の救済という大義名分で、闘える訳がない。

いっそ死んだほうが吉というもの。闘えというのが酷であり凶である。

賢者『白拍子』殿の指示で辿り着いたものの、やはり覚悟していた以上に現実は厳しかった。

殺せる訳がない。死んだはずの旧友と、ふたたびかの地で巡り合えても。逆に許しを願い、無様に殺されても文句は言えないのだ。

もはや闘う意志と目的を失った陰陽師を、天狗の千木は冷ややかに見つめた。

「俺はおまえが羨ましいんだがな。たとえ一度死んでも、おまえは戻ることができたんだ。自分の故郷に。愛する家族の許に。俺とは根本的に違う。俺は人間として山奥で修行していたら妖怪に生成りしてしまった。もう家族と友人の許に行っても、温かく迎えられることはない。一度だけ、故郷に行ったが、誰一人俺には気づいてもらえなかった。俺は変わっていたからな。天狗に。そして、この世界で最初の――“修験落ち”へと」

天狗の千木が語る内容に、安倍晴明はハッとして天狗を見やる。それは誰の物語だ、と問いかけるのを何とか堪える。彼が誰のことを語っているのか、一瞬だけだが、分かった気がしたのだ。

そう、それは天狗の千木の物語。いいや、違う――妖怪に成り変わる以前の、いま“千木”と呼ばれる人間の物語だ。

彼は、何もかも失ってしまったのか。故郷に帰っても、誰も彼のことを覚えていない。誰も彼のことに気づきはしない。彼は一気に失ってしまったのか。

そして、強制的に立たされたというわけだ。妖怪と人間の世界の、その狭間。

誰も理解してくれる隣人がいない、友すら探し出すことすらできない、寂しすぎる世界に。

……『四天王』に選定されるということは、率直に語れば、呪いなのかもしれない。

彼らは孤独に人生を過ごすしかない。

――……今なら、何か分かるかもしれない。安倍晴明はそう思った。

天狗の千木は、紛れもなくこの世界の在り方に怒り、それを否定しているのだ。そして、もしも願いが叶うならば、自分の人生をやり直すことを強く望んでいるのかもしれない。彼が怪しげに見えたのも、何かを隠して動いているのも、必要な情報を開示せずに、我々を駒のように扱っていたのも、何としてでも是が非でも世界を救おうと、その一心で、必死すぎて、周囲の心情を察することができなかったのかもしれない。

それほどまでに、天狗の千木は、この方は追い詰められていたのか。

我らを裏切った……あの賢者『白拍子』ですらもしかしたら、理解されることを望んでいたのかもしれない。彼女は誰よりも救済を求めていたのかもしれない。幼少の頃から酷な生き方を強いられ、『四天王』に選定された。そして、この世界の在り様を理解した時、絶望したのかもしれない。肉親によって比叡山に幽閉され、孤独に人生を過ごしてきた彼女は、この世界を変えようとするのか、それとも滅ぼそうとするのか。それはいまの晴明には分からない。

だが、はっきりと言えるのはたった一つだ。

彼らは、ほかの誰よりも人間らしい。人間らしく、苦しんで、苦しんで、そして悩み続けている。『白拍子』のことは今となっては分からないが、いま、晴明の横に立つ天狗の千木のことは、理解できるような気がした。

この者の、力になりたい。――純粋に、安倍晴明はそう思う。

この者のために、全力を尽くそう。全力で信じよう。この世界を変えようとして、この世で人知れず努力を積み重ねてきたであろう、この愚かな天狗を。彼が苦しめば助けよう。彼がゆくなら、私もゆこう。この世界を変えるという叶いもしそうにない夢を、共に掲げよう。

「顕現招来――来たれ、十二神将!」

ふたたび彼らの目の前にて、踊るように武器を構え、敵を威嚇しながら十二神将たちは戦場に舞い戻ってきた。すでにオニガミにやられて倒れた者は、さすがに数えることができず、いま、晴明の背後には十二神将は十体しか姿を現さなかった。

だが、いま、自分の隣には、頼りになる仲間がいるではないか。

――何も、恐れることはない。

安倍晴明は己を鼓舞する。そして奮い立たせる。蘆屋道満、かつて殺した友を、もはや迷いなど見られない、揺ぎ無い面持ちでじっと見据える。

晴明の面持ちを見て、道満は満足げに、狂気が滲んだ形相で笑みを浮かべた。

これで、蘆屋道満と安倍晴明は、全力を尽くして闘いあうことになる。

だが、それを……彼らふたりは良しとしていた。これで、良い。全力で決着をつけねばならないのだからこそ。

「やっとやる気を出したか、陰陽師」

老齢の陰陽師の横で、天狗の千木は、わずかに安堵の息を漏らす。

「あなたをここで無駄死にさせる訳には行きますまい。この闘いを無事終わらせることができた暁には、息子たちにも、一条殿にも、全てを話して頂きますぞ。あなたを同志として信じるに足る証拠として。あなたを信じて、これからも闘い続けることができるように」

「無論、そのつもり。俺もおまえを無駄死にさせんぞ、晴明」

千木の笑みを浮かべたその一言に、晴明は安堵の表情で頷いた。

「では、奮闘致しましょうか、千木殿」

「ああ、――いざ」

今度は安倍晴明と十二神将と、天狗の千木が攻撃を開始した。

神通力の苛烈な輝きを帯びて、十二神将の戦士たちはそれぞれの武器を手に、オニガミに襲い掛かる。棍棒で、剣で、槍で体当たりするように攻撃する。オニガミは両手で錆びた太刀を構えて迎え撃つが、十二神将の背後から、不意に、天狗の千木の姿が舞い上がった。

宙を踊るように身を躍らせ、天狗の千木は天狗風の塊を複数作る。

「お、ら、よ!」

練り固められた天狗風は、砲弾のようにオニガミを直撃した。天狗風の攻撃は、上空からただ一直線に頭を叩くのではなく、大きな円を描くようにすべてがオニガミの足や腕の関節部分に直撃した。思わぬ攻撃に、オニガミの体勢が崩れ、十二神将がさらに力を込めて、オニガミを押しつぶすように押さえ込む。

先ほどまでとは攻守の関係が一転した。

天狗の千木という思わぬ援軍のおかげで、蘆屋道満とオニガミは追い詰められたのだ。

だが、蘆屋道満が契約した化け物。一筋縄で行く訳がない。オニガミの何体かは異常な力を持って、逆に真正面から十二神将を蹴飛ばしたものもいる。不意に片手を太刀から離し、十二神将の力を受け流し、すばやく身を反転させて窮地から脱する鎧武者もいる。十二神将もすばやく追撃するが、オニガミはふたたび立ち上がって、両手で太刀を構える。

――敵の攻撃を、その太刀筋を見切って交わし、その隙を攻撃する。鍔迫り合いながらも用心深く勝機を見逃さず、一瞬を突いて太刀をずらし、一撃で終わらせる。

そんな闘い方は、どこにもなかった。

ただ、全力だった。十二神将とオニガミは、全力で太刀を振るい、全力で相手に斬りかかり、防ぎ、また襲い掛かっていた。そこには型に忠実な動きなどはない。ただ、本能的に剣をふるう野生の獣じみた動きがあるだけだ。逆に、人がしないようなその動き、人の手では到底及ばないその闘いが、人ならざる空気を発している。

ほぼ、互角。

十二神将とオニガミはそんな死闘を繰り広げていたが、間違いなく、蘆屋道満は追い詰められていた。安倍晴明と、天狗の千木によって。

「……ここまでやるとは、見事だな、晴明」

蘆屋道満は千木に目もくれず、復讐を誓った相手に賛辞を口にする。

「そして、貴様にも感謝せねばなるまい……どこかの天狗よ」

明らかに軽蔑したその声で、蘆屋道満はククク、と不気味に笑いながらそう語った。

「貴様のおかげで晴明は戦意を取り戻した。貴様のおかげだ。感謝せねばならんなぁ……感謝の印に、面白いことをしてやろうぞ」

「何――?」

蘆屋道満の不可解な発言に、天狗の千木は天狗風をその手に集めて怪訝そうに首を傾げた。――面白いことだと?

蘆屋道満は狂人の形相で笑みを浮かべて、天狗を驚かせるほど俊敏に動いた。

彼と天狗の間には、十歩ばかし距離が開いていたはずであった。だが、次の瞬間、ダン、と蘆屋道満は大きく一歩踏み出すや、さらにもう一歩稲妻のごとく踏み出した。

「な、――?」

さすがに、安倍晴明も驚いて振り返る。気づけば道満はすぐ横にいて、あっという間に横切ったからだ。まるで、矢のように飛んでいった。そして、獲物に迫っていく。

天狗の千木へと。

「千木殿!」

陰陽師は慌てて警告の叫び声を発する。彼が危ないと、直感で理解する。助けねば。

「クソッ! ――カマイタチ!」

天狗の千木は天狗風を刃のように鋭く放って、蘆屋道満との距離を開くべく翼を広げ、攻撃で道満が怯んだ隙に一気に避難しようとしたが……

「遅い、遅いぞ、天狗の小僧!」

カマイタチという天狗風の攻撃で、顔を切り裂かれ血肉を削られながらも、狂人の形相で、蘆屋道満が狂喜に満ちた声音を上げる。

その指に、黒い煙が立ち昇っているのを、安倍晴明はしっかりと見た。そして、それを見て、ハッとする。

あれはっ――?

あれには見覚えがあった。お互いに式神を召喚する時だった。蘆屋道満は、十の指から黒い煙を立ち上らせていた。この世にあらざるべき呪力の、その残滓。見る者を恐怖させ、不安に陥れ、悪寒を抱かせる……穢れにそっくりな邪気。

オニガミはこちらの世界の鬼神ではなく、あちらの世界の、――化け物だ。

ならば、その化け物がやってきたのは、死者の世界から。

そして、いままた、蘆屋道満が死者の世界の入り口を、大穴を穿とうというのならば……己が契約した化け物を呼び寄せる以外に、ただひとつしかない。

「いかん、避けられよ! 千木殿!」

再度、警告の叫び声を上げるが、――



すでに手遅れだった。



死者の世界とこちらをつなぐ裂け目は、すでに作られていたからだ。

蘆屋道満は躊躇なく、そして勢い良く世界を引き裂いた。穢れの呪力が、獣の爪で布を切り裂いたように、あっけなく世界を切り裂き、景色を歪ませる。安倍晴明から見て、すでに天狗の千木の体は、半分だけ黒い裂け目に呑み込まれているように見えた。

不意に、死者の世界で、何かがうごめいた。

――安倍晴明はゾッとしてそれを見つめた。

裂け目の向こう側から、ぶわりと、何か黒いものがうごめき、天狗の千木の体を半分呑み込むようにうごめいてからだ。そして、それは、人の手が何かをつかもうとするように、天狗の千木に襲い掛かった。千木は声を上げる暇もなかった。いや、上げられなかった。

次の瞬間、黒い裂け目はあっけなく消えた。

恐ろしすぎる静寂。安倍晴明は崩れ落ちる同胞の体を見つめて、恐怖と怒りに震えていた。

崩れ落ちる千木の体。黒い霧のようなものが、あたりをぼかすように覆っていたが、彼の身に何が起きたのかは、もはや一目瞭然だった。

天狗の千木の死体は、半分だけしかなかった。

もう半分は、――死者の世界の化け物に、食われてしまったのだ。



怪しげな呪文や神話に登場する特別な宝物を調べるのに苦労したのを思い出しました。日本オカルト大全なんて本をたくさん借りて、図書館の司書(しかもかなり美人)から”オカルトマニアなのだろうか、危ない人なのだろうか”という視線で見られたことがありました。地味に心に痛かった。

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