第二部 冥界の扉 ②
七、
「驚いたな……何故某の正体を見破れたのだ?」
鞍馬の大天狗は、いまだ驚愕冷めぬ様子だった。それほどに、自分の存在を隠し通せていて、異界を破られないと自信を持っていたのだろう。一条の反撃が予想外だっただけでなく、自分をすでに見破っていたことを、鞍馬の大天狗、鬼一法眼は仰天していたのである。
「まず初めに、あなたの名前に違和感があるなって思いました。鬼一法眼、名字と名前。まるで人間の名前じゃないですか」にやりと笑って悪戯が成功したことを喜ぶ童子のように、一条は明るく続けた。「それと、これは俺の記憶なんですけど……鞍馬大天狗のほんとうの名前って、僧正坊じゃなかったですか」
「その通り、それが某の本名でもある」鞍馬天狗は静かに頷いた。
次の瞬間、黒衣の襲撃者の姿が変わった。紛れもなく人間だった姿から、黒い翼をたたみ、修験者のような格好をしたまさしく天狗そのものの姿へと。先ほどと違うのは、仮面を外していること。
人と変わらぬ顔に見えるが、その鼻は、確かに高かった。まさに天狗の象徴だ。
「確かに某は僧正坊。鬼一法眼という名は、人型を取っているときに使う名前だ」髪の毛を指でいじりながら、鬼一法眼を名乗った僧正坊は静かに言った。「いやはや、よくぞ見破れたものよ。異界について何を知っていた? 何故、妖気を出していなかったのに、某だと気づけたのだ?」
一条守は返答に一拍あけた。「異界については何も知りませんでした。それと、多分あなただろうという気がしただけです」
「……ならば、どうやって異界を侵食したのだ?」
「毒には毒をもって制する。ただそれだけです」一条は短く答えた。
ふむ、と一条の顔を見やって鬼一法眼は考える。
つまりは、“太極”を用いずに、知識を漁ることなく、直感と自分自身ですべてを看破していたというのか。
「肝っ玉が据わった童子よ」面白げに笑って、鬼一法眼は静かに言った。「その表情を見るだけでもう分かったわ。一条殿、某に鍛錬のほうを申し入れるつもりだろう?」
一条は苦笑いした。
「力ずくでもお願いするつもりです」
それはお願いする態度じゃないな、と鬼一法眼は静かに呟いた。「断わるといってもその態度。もはや翻す気はないのだな」
一条は静かに頷いた。
「……危険は伝えたはず。たとえ童といえども……鬼に変わるようなことがあれば」言いにくそうに、少々ぎこちなく鬼一法眼は口を開いた。「その時には、某自身が動かねばならなくなる。鬼に変わり果てた貴様を殺さなければならない」
その言葉にやはり一条は少々の緊張を見せたが、一番の反応は山姫だった。大天狗に対して、鋭い視線を向けている。その視線に込められているのは、紛れもない殺気。
鞍馬の大天狗の宣告に対して、一条は一拍だけ間を空けた。
「危険なことは分かっています。でも、俺はやらないといけないし……俺には帰らないといけない場所がある。だから、絶対に退けないんです」
「つまり……自分の世界につなぎとめているわけか」鞍馬の大天狗は静かに言った。「だが、ずっとつなぎとめていられると断言できるか? 強く留まれると言えるのか? 境界線の向こう側に、落ちてしまわないか?」
「大丈夫です。自分は千木とは違いますから」
にやりと笑って一条はそう言うと、千木のほうを見やる。そちらに視線を向ければ、千木は不快そうな顔をして一条を睨んでいて、悪態をつくのを我慢している表情だった。
自分に見せたことがない千木の人間らしい面持ちに、鬼一法眼は驚きを隠せなかった。
一条守。この人間は、確かに妖怪が考えている以上に、大きな器を持っているのかもしれない。千木のように、ただ頭の回転が速いだけではない。山姫のように、ただ戦闘に特化しているだけでない。藍染のように、ただ理解が深いだけではない。
どこか陽炎のように儚げでありながらも、確固たる何かを持っている。
どこか、似ていると思わずにはいられない……
千木のように、何かを抱えているのかもしれない。
山姫のように、何かを振り切ろうとしているのかもしれない。
藍染のように、何かをもう一度、見つけ出そうとしているかもしれない。
遠く過ぎ去ったあの日の夜、とある計画を千木から聞かされたあの時のことを、鬼一法眼はふと思い出した。あの時、千木は言っていたではないか。何百回も何千回も見定めた。この世界を変える人間がひとりだけいる。その人間に、すべてを託す……あの時、千木は確かにそう言っていたな。
託す……
危うさを抱えている少年に、全てを背負わせようとしている千木に対して、初めの鬼一法眼は否定的な見解を抱いていた。そのやり方に正しさなどあるものか。非道。それ故に、鬼一法眼は鍛錬の申し入れを頑なに断わったのである。
だが……もはや無下にはできない。
千木たちが何故これほどまでに弱き者を推すのか、ようやく鬼一法眼は理解した。
重要なのは強さではない。戦術の精密さではない。理解の深さではない。
何故、千木たちはこの少年を推すのか。いまなら分かる。この者ならすべてを任せられるのだ。すべてを託せられるのだ。直感で、それは簡単に理解できる。
この者は決して王にはならない。人々の上に立つことを選ばない。暴君にはならない。
だからこそ、世界を救うことができるだろうと、誰もがそう信頼してしまうのだ。
「ならば……某も信じ、託すことにしよう」鬼一法眼は静かに言った。
千木が希望に満ちた表情で顔を上げて、鞍馬の大天狗を見やる。一条守は安堵しきった表情で、緊張を吐き出すように吐息する。唯一、不安そうな表情なのは、山姫ただ独りであり、一条に気づかれないように視線を向けている。
「ついて来い。鍛錬は“樹海の祠”にて執り行う」
一条と山姫と千木は、鬼一法眼に誘われて“樹海の祠”に到着した。
“樹海の祠”という場所は、薄暗くて涼しい場所だった。頭上に視線を向ければ、樹枝が幾重にも重なり合い、天井のようなものを作り出している。そこから漏れてくる陽光はあまりにも少なく、逆にその少なさが、光というものの神聖さを作り出している。
「……妖気じゃないですよね、ここにあるのは」
一条は怪訝そうな面持ちで口を開いた。先ほどまで、鞍馬天狗の鬼一法眼の苛烈な妖気を肌に感じた一条は、妖気というものがどういうものか理解していた。妖気というものは、苛烈な刺激というものがある。
だが、ここにあるものは……妖気とはまったく違う、静謐さがある。
「その通り。これは妖気ではない。地脈の霊気だ……」
修験者の格好をした鬼一法眼は、静かに頷いて説明した。
「平安京がある地理は、三つの方角を山で囲まれている。まるで山の川が平地に流れていくように、地脈の霊気が平安京へと注ぎ込まれていく……常に穢れようとするものを、常に清めようと働きかけるがため」
「地脈の力は、いまも平安京に注ぎ込まれているのですか?」
何かがおかしいと一条は考えていた。三つの方位を山に囲まれ、川が流れて大きな湖が近くにある……平安京が立てられている土地の特性。山から流れ落ちる地脈の力によって、霊的な力がその土地に満ち溢れている。ならば、それ自体が平安京を守る自然の要害にならないのだろうか? 三つの方角から流れ込む地脈の力は、相当なものになるはずだ。
そんなものがこの土地に満ち溢れているのならば、明らかに周辺の土地とは資質が異なる筈。
つまり……地脈の力が自然の要害として働き、一種の“境界線”を引いているかもしれないのだ。邪を絶ち、魔を拒む“境界線”……そんなことは充分に考えられる。
「……五年前に、平安京に、穴が穿たれたんだよ」千木が静かに口を開いた。
五年前、という言葉に一条は反応した。
そういえば……待てよ、と一条は考えた。そして、思い出す。確か、“修験落ち”が初めて姿を現したのは、五年前のはずだったのではなかったか? それに、五年前……“四天王”の朱雀と白虎が闘いあって、死んでしまい……平安京の防御が脆くなったはずだ。
それだじけじゃなかったはずだ……
まだあったな……確か、あれも五年前だったはずだ。
安倍吉平。あいつは確か、五年前、鴆を暴走させて左京区を荒廃させたはず。
なんだ……このつながりは……。
何かがつながっている。何かが絡み付いている。何かがぼんやりと見えてはいるのだが、何か重要なものが、何かで隠されている。
「……五年前、何が起きたんだ?」
「五年前、初めて“修験落ち”が平安京を攻撃した時、まだ平安京の防護術式は安定していた」千木は静かに説明した。「“修験落ち”は、巨椋池に呪いを注ぎ込んで、穢れを生み出した。“境界線”は完全に形に変えた。平安京を周辺から隔離できなった……波が押し寄せる砂浜、といった状態だな。地脈の力が砂浜に染み込んでいるが、そこに穢れが押し寄せている。まさしくそういう状態なんだ。“境界線”を越えて、平安京内部に侵入してしまう穢れは、やはり存在してしまうんだ」
「“修験落ち”だけじゃなくて……蘆屋道満とか、智徳法師とか、そういう悪い奴らが平安京に潜入することができたのも、“修験落ち”が、五年前に、巨椋池に呪いを掛けて、穢れを生んだからなのか……」一条が何とか情報を整理して、確認のために口を開いた。
「――その通りだ……」
まるで思い出したくもないものを思い出してしまった表情で、千木は暗い声で言った。
それは、五年前に何かが起きたことを示唆する重みと共に、遠くない未来に訪れるであろう何かの凶事を暗示しているようでもある。
こいつは何かを苦しんでいる、と一条は考えた。それは五年前に起きたことが原因ではないだろうか。だとすれば、この世界の転機は五年前となる。五年前に、“修験落ち”が現れた。それにより、平安京は穢れていった……蘆屋道満や、智徳法師といった影の勢力が、平安京内部に潜入して、何らかの活動を行えるほどに。
千木と“修験落ち”は、お互いを知り尽くしたような言動を、以前、取っていた……
こいつなら知っているはずだ……“修験落ち”の正体を。
五年前、いったい何が起きたのか。どうして白虎と朱雀が死んでしまったのか……“修験落ち”がいったい何者なのか。千木は、おそらく見てしまったはずだ。五年前に、何が起きたのかを。その目で確かに。
五年前のことを尋ねようとした一条は、口を閉ざした。いまは聞くべきではない。
おそらく……“太極”に留まるあの白い仮面の女性が、いつか話すであろう何かの真実。それと同じように重いもののはずだ。
あの女性は自らがムゲンを狂わせた原因と言った。
千木はおそらくムゲンの全てを長年見定めてきた。
だから、ふたりの話を聞くときは、『天竺』の本来の目的……世界の改変という悲願を成し遂げる準備が出来たときに限られる。
いまは、『日陰の一日』という戦争を止めるために動いている。
だから、いま、千木の話は聞くべきではない。ほんとうに世界を救済するために動いているのではない。いまは、世界が壊れるのを止めるために動いているのだ。
いまなら、千木の慎重さが分かる気がする。必要でない時に、必要ではない情報は与えるべきではない。それぞれの情報には、どうしても話さなければならない時間があるのだろう。情報が多すぎれば、きちんとやるべき事を見失ってしまうかもしれないのだから。
「一条殿、某からひとつ言わせてもらおうか」鬼一法眼は静かに言った。「己が正義とは信じてはいないだろうが、敵が正義であることも疑いながら、闘うのだ。いずれ分かる時が来るだろう……闘いながら迷い、戸惑い、疑ってしまうだろう……何が正しくて何が正しくないのか。果たして己自身の行いが、義か、それとも悪なのか」
……まるで何かの予言のようであり、とんでもなく重い言霊だと、一条はそう思った。
この先に、何か良くないことが起きると、鬼一法眼は言いたいのだろうか。それとも……いや、敵が正義であることも疑うとか言っていたから、まさか、この人……影の勢力が何のために動いているのか、理解しているのか?
ただ、この先一筋縄ではいかない事態が起こる。
それだけが……たったそれだけの重要なことが、いま、一条に理解できればそれで充分だった。
「それでは、尋常に……」
鞍馬の大天狗、鬼一法眼は、不意に妖気を周辺に溢れ出させた。天狗は山神としても崇められる強大な妖怪。妖気は甚大にして苛烈だろう。
一条が“太極陣”を発動させた時、準備を整えようとした時だった。
足場が崩れた。地脈の流れが、乱れた。土砂が巻き起こり、視界が一気に悪くなる。何とか体勢を整えようとしたが、一条は、妖気の大きな塊が、自分の背後に急接近しているのを感覚で察知した。肌に何か生暖かい空気が触れる。高速で何かが接近してくる音。空気が震えているのが分かる。
一条はすばやく“太極”を使って、鎖を出現させて、ふた振りの刀剣をしっかりと握った。
一条が振り返って、接近してくる敵を迎撃しようとしたまさにその時、土煙がぶわりと動いた。まず見えたのは、黒い翼。それが、まるで腕を伸ばして何かを掻き分けようとするように、姿を現して、土煙を吹き飛ばした。そこから姿を現したのは、諸刃の刀剣を両手に構えた鬼一法眼、鞍馬天狗の僧正坊である。
翼がふたたび動いた。次の瞬間、鞍馬の大天狗は頭上に飛び上がった。
迎撃しようと剣を横になぎ払おうとした一条の攻撃は、空振りに終わった。
「高飛び斬り!」低くよく通る声で、鞍馬の大天狗はそう叫んだ。
次の瞬間、大天狗は急降下して攻撃を開始した。ただ、上から下に二本の刀剣を振り下ろす、ただそれだけの単純な攻撃。だが、刀身には妖気がぶわりと渦巻いていて、明らかに危険を臭わせる。一条は神通力を使って、自分の刀剣を強化しようとした。黄金色の光が漏れる。
妖気と神通力で彩られた四本の刀剣が、激しくぶつかり合い、鋭い一瞬の金属音を立てて、妖気と神通力の色が迸る。そして、次の瞬間……三つ目の力が姿を現した。
距離を取って成り行きに目を凝らしていた山姫と千木は、驚愕に目を見開いた。
「地脈の力が……」千木が思わずといった風に呟きを漏らす。
誰もが間違って結論してしまうことだが、妖怪とは、決して穢れ多い存在ではない。人間とは確かに相対する存在ではあるが、そこに負の要素はまるでないのだ。妖怪は時に神としても崇められる。天狗は山神としても信奉され、実質、山神としての壮絶な力を持つ。
だからこそ、鞍馬の大天狗、僧正坊が地脈を使えるのは、何の違和感もないことなのだ。
僧正坊は鞍馬山の山神。妖気だけでなく、地脈の霊気までもが意のままに操れる、強大な妖怪なのだ。
「まずい、一条!」慌てて山姫が叫んだ。「距離を取れ!」
だが……その叫び声は、遅かった。
次の瞬間、妖気と地脈の力を織り込んだ大天狗の僧正坊の刀剣は、あっさりと一条の刀剣を打ち破った。砕かれる神通力の輝きと刃。一条は何とか鍔迫り合いで防ごうとするが、僧正坊はふたたび天狗の翼を羽ばたかせ、一条に向けて加速。押し潰そうと圧力をかける。
耐え切れなくなり、ついに一条が地面に叩き潰されたのか、次の瞬間、轟音と共に土煙が上がり、一条と天狗の姿が土煙に覆い隠されて見えなくなってしまう。山姫が思わず駆け出そうとするが、次の瞬間、爆音がもう一度聞こえて土煙が吹き飛ばされた。
一条が、大天狗と距離を置いて立っていた。刀身が中間で砕けた刀剣を握り締めて、荒く息をして、なんとか間合いを保っている状態だ。大天狗の僧正坊は妖気と地脈の力を渦巻かせた刀剣を握り締めて構えたまま、じりじりと間合いを詰めようとする。
まさに殺そうとする者と殺されようとする者の光景だった。
「一条……どう動く?」千木が多少の不安を滲ませながら呟く。
先に動いたのは、鞍馬の大天狗、僧正坊だった。翼を大きく広げて、ほとんど地上を滑空するように、一条へ向かって突進する。巻き上がる砂塵と木の葉。両手にある刀身の妖気と地脈の霊気の力が、色濃く渦巻き、後ろへと棚引く。ふたつの色が、さながら流星のように、轟音を凄まじく、勢いを激しく、迫っていく。
一条は、迫る猛攻に対して、折れた刀剣を持ったまま、一歩前に踏み出した。
「なっ――?」見て分かる一条の自殺行為に、山姫は顔を青ざめて飛び出そうとした。
だが、次の瞬間、一条は誰の予想をも裏切る行動に出た。
一条は“太極陣”を発動させた。そこから飛び出たのは何本もの、先端に槍の穂先のようなものが付いている鎖。それらが、突進してくる鞍馬大天狗の僧正坊に、迎撃するように襲い掛かっていく。
――何をするつもりだと、僧正坊は怪訝そうに思った。
あの鎖はおそらく、一条の意志によって自在な攻撃が可能となるだろう。油断すれば、絶対に死角に回り込むだろう。だから、この鎖はすぐにでも撃ち落すべきだ。妙なことをされない内に。
猛烈な勢いで突進しながら、僧正坊は両手の刀剣を使って、鎖を撃ち落すべく迎撃する。
次々に砕けていく鎖は、地面に触れると同時に霧消していく。剣で撃ち落したときは、確かに物質として存在していたというのに、どういう訳か、地に触れた途端に、初めから存在していなかったように、消えていってしまうのだ……
妙なもの。まるで、ムゲンそのものの儚さを体現しているようだと、僧正坊は思う。
だが、これに一条守の謀略が込められていることに、僧正坊は遅れて気づいた。一条守は、僧正坊の意識を逸らすために、この攻撃を仕掛けたのだ。
何故なら、鎖を一本だけつかんで一条はそれを回転させた。瞬時にして、鎖が大きな弧を描きながら、人の手で創られたとは思えない、立派な装飾が施された槍へと姿を変える。
僧正坊はわずかに瞠目した。なるほど、これが“太極”の力か。
鎖をたったの一瞬で、見事な造りの槍に変えようとは……
しかも、槍そのものから、甚大なる神通力が零れ落ちて、肌に感じることができる。
僧正坊は妖気と地脈の霊気を色濃く剣に渦巻かせ、ふたたび、一条の武器を破壊すべく、刀剣を振りかざして、攻撃した途端だった。
神通力が、ぶわりと、穂先から吹き出した。
次の瞬間、僧正坊の攻撃が完全に跳ね返された。一条の神通力に、大天狗の攻撃が弾かれたのだ。
一条の反撃は、まさにこの瞬間から始まった。大天狗は何が起きたのか一瞬だけ理解できずに、弾かれた攻撃の反動で、そのまま両腕を上げていた。だが、次に自分が無防備な状態であることを理解すると、一条が一歩踏み出して槍の持ち手を下げると、腰に低く剣を構えて大きく振るった。
だが、その攻撃を大天狗は読んでいた。すばやく翼を広げると、高飛び斬りの攻撃をしようとするが、すでに体勢を整えていた一条が、さらに持ち手を変えて突き上げたのだ。慌てて横っ飛びに僧正坊は回避するが、どういう訳か、人間にしてはありえない跳躍力で、地面を蹴って、追撃を仕掛けてきた。
これに、山姫は驚愕した。なんだ――あの跳躍力は?
一条守は“太虚の覇者”といえども、確かに人間のはずだ。“太極”がもたらすのは創造と消滅のふたつの属性の能力のみ。一条は、ただ武器を作り出したり、何らかの攻撃を無効化したり、飛び道具を消し去るなどの、そういったことしかできないはず。
その時に山姫はあることに気づいた。一条の“太極”の能力はまだ完全完璧な状態ではない。まだ掌握してからほんの数時間しか経っていない。だから、一条のいまの“太極”の状態は、一言で表すならば初期状態。そして……研磨して“太極”を完全に使いこなせるように訓練していけば……別の能力が開花することも考えられる。
まさか……いまの一条の状態は、“太極”に近づいているのか……?
その可能性とさらなる危険性に思い当たった山姫は、怒りの形相で千木を振り返った。“太極”は強大にして危険。使い方を誤れば、強大な力に呑まれて、一条は“境界線”を越えてしまいかねない。鬼になる危険性があるというのに!
「千木! いったいどういうつもりだ?」
すでに山姫が激怒する展開は予想していたらしく、千木は冷静に口を開いた。「一条の“太極”を万全な状態にするには、一条を“太極”に調整しないと意味がない。そのために、“太極”に一条を近づけるために、この訓練を行ったんだ」
「だからといって!」山姫は叫んだ。「一条が鬼に変わり果ててしまう! おまえは分かっていてこれをやっているのか?」
「危険は重々承知。だからこそ、鬼一様に俺は助力願い出た」抑揚のない声で、千木は反論する。「一度目は俺が失敗した。だからこそ、対策はすでに取っている。あえて“樹海の祠”を訓練の場所として選んだのも、すぐに一条を抑え込めるように、そして、地脈の力を使って、一条の能力の暴走を止めて、“境界線”のこちら側へと引きとめるためだ」
「だからといって! 失敗したらどうする? 成功する確証はないんだろう?」
「確かにそうだが、いい加減に理解しろ、山姫!」苛立ったように千木が怒鳴った。「他に何の道がある? あいつの他に、どこに“太虚の覇者”がいるというのだ? この世界を変えるために、俺たちに託された唯一の希望は、あいつだけなんだ! あいつに頼るしかないんだよ! どれほど残酷な願いを、あいつにしか押し付けることしかできない!」
「だからといって、ひとりの命を軽んじていいものか!」激怒して山姫が叫ぶ。
「確かに俺は残酷だろうよ! 世界を変えるために、ひとりを軽んじているだろうよ!」どこか苦しげな思い、苦悩を滲ませた声音で千木は口を開いた。「俺がもし“太虚の覇者”なら、迷わずこの可能性に賭けて、自分の身を危険にすることだってするさ。だけど、俺は“覇者”じゃない。この世界のどこにも、あいつ以外に“覇者”なんていなかった。あいつにしか頼るしかないんだよ! あいつに押し付けるしか、俺たちには道がない。ただあいつに背負ってもらわないといけないんだよ」
「だからといって、こんなやり方は残酷だ!」山姫がやはり納得できず、叫び返した。「この世界が残酷でも、あいつがいないといけないんだ! 今この時だって、一条は必要な存在だ。それを、自ら手放すようなことをやって、いったいどこに明日があるというのだ!」
「何のために、ここに大天狗と“太虚の到達者”を揃えたと思っている! 奴が死なないための、あいつを死なせないための当然の配慮だ!」千木がついに山姫の両肩を強くつかんで怒鳴った。「世界の救済という大義を俺は謳っているが、決して妄言でもない。豪語しているわけでもない。成さねばならぬことがあるからこそ、俺は心を鬼にしてでも残酷な選択をしている。たかがひとりの私情を挟むな! 世界の命運を賭けている以上、絶対にやり遂げないといけないんだ! どんな犠牲を払ってでも」
山姫はかつて信頼していた同胞の顔を呆然と見つめた。策士とはいえども、こいつは確かに情に厚かったはずだ。だが、いまは違う存在へと変わり果てている。誰かを犠牲にするというやり方を、確かに千木は嫌っていたはずだ。
なのに、何故、こんなことをする?
だいたい、いまの千木は様子がおかしかった。どこか狂気にとらわれている空気がある……。
「……おまえの、過去に何があったのかは知らないが」山姫は静かな口調で、諭すように口を開いた。「いまのおまえは、おかしいぞ。おまえがどれほど正義を貫こうとしても、周りの者は、絶対におまえを悪としか見ないぞ……絶対に理解されないぞ。おまえはただの孤独な天狗だ」
千木はその言葉に、はっきりと顔色を変えた。かつてかけられた言葉に、皮肉にも、残酷にもはっきりと重なったからだ。
脳裏のなかで、“奴”が振り返った。すこし寂しげで、不安げで、心配している……
そうだ。“奴”は、あの時、そんな表情を浮かべていた。
そして、言ってではないか。あの時、あのように……
――“背負うなよ。背負えば何もかも無くしてしまって、孤独な天狗になるだけだ”
千木は顔を険しくしたが、何も反論することなく顔を背けた。
結局のところ、やはり自分が一番、この世界に、ムゲンに囚われているのだ……
八、
「一条守……“太虚の覇者”……」
河原で急速を取っている『白拍子』は、式神のクレナイとムラサキを顕現させたまま、足を水に浅く浸し、目を瞑って考え事をしていた。
ずっと、一条守という存在を、安倍吉平からの文で知った時から、ずっと抱いていた疑問。
――何故、一条守は、この時期にこの世界に訪れたのか?
これが偶然なのか必然なのか。『白拍子』にはずっと分からなかった。
何かがおかしい。そして、何か作為的なものを感じてしまう……
この世界の真実を知る者のひとりである『白拍子』は、この世界の流れと結末をすでに理解していた。だからこそ、在り得ないと断言できるのだ。
一条守は、この世界に来ることすらできない。
一条守は、この世界に存在することすらできないはずなのだ。
……いったい、この世界で何が起きているというのか。
ずっと昔からそうと定められていた流れ。それを変えることは難しいと、『白拍子』は考えている。まさに、それは川の流れに等しい。たかが一日、たかがひとりの力でどうこうなるようなものではない。だからこそ、あの少年がこの世界に訪れるということは……絶対にありえないと断言できるほど、可能性が低いのだ。
となると……やはり最後に残る可能性は……
「鞍馬天狗の、千木」
彼女は、彼の名前を呼んだ。
『四天王』の玄武の称号を担う妖怪。人から妖へと変わり果てた哀れな存在。この世界の真実を深く理解している“修験落ち”。
「……彼が、何かをしたのでしょうか?」
何百年も前から暗躍を続けている、天狗の千木。彼が、また、動いているのかもしれない。
『白拍子』は過去へと思いを馳せた。かつてあの尼寺で、天狗の千木との邂逅を思い出す。あの時の会話、あの時の、彼が浮かべていた暗い表情、どこか疲れ果てたような声、何かが欠けたような、何かをなくしてしまったような者の、疲労感。
ふと、遠い昔の千木と、一条殿の面影が、どこか重なったような気がした……
一条守が鍵だと、『白拍子』は考える。
そして、天狗の千木は……まさに鍵穴。
この二組が揃っていることが、この世界の、『すでに定められた結末』を変える重要な要素となっていることは間違いない。破滅へと向かっていくこの世界の流れが、この二組が存在するからこそ、大きく乱されている。
世界が滅びるか、世界が生き延び続けるか。
まさにその頃。平安京では……
安倍家の陰陽師たちは、賀茂保憲の機転によって安全な場所へと搬送されようとしていた。
武装した五名の検非違使が前後にふたりずつ、中央にひとり。陰陽寮の者たちがその周囲を歩く。賀茂保憲は、最後尾を歩きながら袖のなかに刀印を組み、誰にも聞こえない小声で静かに呟いていた。
「結びて閉ざす。隔てて隠す。重ねて覆う……オン・アビラウンケン」
一行と同じ歩調で歩きながら、ひとりひっそりと、賀茂保憲は刀印を動かす。
五名の検非違使の配置は、まさに一筆書きによる陣形である。
陰陽師が用いる五芒星や六芒星、七芒星といった印には、すべて呪力が込められている。それらの共通点はすべて、一筆書きによって作られる印であること。ひとつながりの道を作ることにより、呪力はその道の中を流れ巡る。零れることなく枯渇することはない。
陰陽師が用いる印というものは、一筆書きであるが故、術を発動させた者の意思により、永続的に効果を発動させ続けることができるのである。
陰陽頭、賀茂保憲は術の原理を応用させている。
五名の検非違使にそう立つように指示を出して、賀茂保憲はすばやく検非違使を人柱としてこの陣形から“境界線”を敷き、結界を発動した。
昏睡状態に陥った安倍家の陰陽師たち三名を、宮中に潜む敵から保護するための陣形である。
それを、物陰から智徳法師は見つめていた。
仔細に観察しているからこそ、すでに賀茂保憲が対策を打っていることは分かっていた。攻め難き護り。さすがは安倍晴明の師匠を努めていただけのことはある。老齢である故に判断力及び洞察力は相当に働いていよう。修験道の開祖、役小角の血を引く故に、神通力の強さは磨きがかかっていよう。
まこと、攻め難き護り。難攻不落。
だが、すでに智徳法師は賀茂保憲の術式の欠陥を見抜いていた。
正面から攻めるのが固いならば、搦め手に回るまで。それで事足りる。
城を攻め落とすのが難しいのならば、城の土台を崩せばいい。ただそれだけだ。
左手で刀印を組んだ智徳法師は、右手で式神を放った。白い紙が動いて壁に向かっていく。すると、細い足が現れて、白い紙に色が染み込まれていく。そして、ゆっくりと壁を登っていきながら、それはありふれた蜘蛛の姿を取った。
智徳法師が放った式神の蜘蛛は、天井に足をつけると、速度を上げてから縁側をゆっくりと行軍する一団に近づいていった。その目がひとりの検非違使をしっかりと捉える。
彼らと同じ速度で歩きながら、蜘蛛は、ゆっくりと糸を垂らしていった……
そして……その糸が検非違使のひとりに触れた途端……
「うぁ、ぁぁう、うぁああああああああああああ!」
唐突にひとりが叫び声を上げた。検非違使の中央に配置されている若い男だ。取り乱しは突然のことだった。何が起きたのか、誰もが理解できなかった。賀茂保憲ですら、磐石の守りを備えていたつもりだった。だから、誰もが驚愕した。何が起きているのかを理解できずに。
気配なき奇襲。
相手は分かる。間違いなく智徳法師だ。だが、直接的に安倍家の者たちを狙うと考えていた賀茂保憲は、間接的に安倍家の命を摘み取ろうとする蘆屋道満の戦略に、ほんの一瞬だけ対応が遅れた。
「なに、かが……ああ、ぁあ……入ってきている!」
気持ち悪そうに、若い検非違使の男はうなじを押さえて叫ぶ。
「ああああぁ! 痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」
唐突に、検非違使の者が頭を強く抑えて叫びだした。
ほかの検非違使たちは、突然の同僚の奇妙な状態にぎょっとして、落ち着かせようとしていた。彼らは、何が起こっているのか分かっていなかった。だが、賀茂保憲だけでなく陰陽師には、何が起きているのかが分かった。
これはまさしく、自己の意識に対して、他者の意識が介入している状態だ。
「いかん、式神か!」
頭上に蜘蛛がいることに気づいた賀茂保憲は、慌てて「令百由旬内 無諸衰患!」と九字真言を唱えて検非違使を助けようとしたが、次の瞬間、すべてが手遅れであることを理解した。
蜘蛛の糸が、うなじに入り込んでいるのだ。しっかりと入り込んでいる。
ただ呪力を込めた言霊では、だめだ。おそらくあれは、他人の意識を乗っ取る呪詛そのもの。
あれは、糸が入り込むのを阻止しなければならない。もしくは、身動きできないように体を束縛して、選り抜き陰陽師が集団で、穢れ払いの儀式を執り行わなければならない。
だが、いまは時間がない。
何故なら――敵が、攻撃をしかけてきたのだから。
「――“狂乱”」
まさしく不吉な言霊を、静かに、智徳法師は口にした。暗い怪しげな表情で。
次の瞬間、検非違使の男が暴走した。
奇妙な叫び声を上げて抜刀すると、いきなり振り回した。傷を受けて悲鳴を上げる検非違使たちが、慌てて距離を取ろうとする。だが、狭い縁側。何人もの検非違使や陰陽師が縁側から転がり落ちる。安倍家の陰陽師たちは力なく床に倒れこむ。
検非違使の配置は崩れた。防護の術式はもう機能しない。
智徳法師の奇襲によって、容易く破られたのだ。
「いかん! あの者の動きを止めろ!」賀茂保憲は息子に怒鳴った。
「はい!」
慌てて息子の光栄が動く。
「右は搦め手、左は縛り手! 不動明王の真言以ってここに縛り戒める!」
賀茂光栄が真言を唱え終えると同時に、かなり見えにくい半透明の両腕のようなものが現れた。それは刀剣を振り回している、取り乱した検非違使の体を両手で握った。完全に動けなくなった検非違使の男は、白目を剥いてやはり叫び声を上げ続けている。
さすがにこのままでは、若人の体に障ろう。そう考えた賀茂保憲はすばやく検非違使に駆け寄ると、その額に片手を上げて、刀印に口をつけて静かに一言の言霊を唱えた。
「鎮まれ」
言霊で内側を鎮める、簡単な応急処置に過ぎないが、どうやらすでに検非違使は限界に達していたらしく、一瞬で気を失った。体の力が抜ける。
「……甘い」
その場を離れながらも、智徳法師は邪な笑みをたたえたまま、静かに呟いた。
すでにその手から零れるように、木の葉が二枚、ふわりと宙を舞う。風に泳いで騒ぎの縁側へと向かっていく。それはどこか奇妙な生々しさを帯びている。色も、少し黒ずんでいる。
「策に重ねてさらに策。抜かったな、陰陽頭」
ふわり。
奇妙な風が頬を撫でるのを、賀茂保憲は感じ取り、怖気を感じた。
何かが、来る。
次の瞬間、左の頬に小さく切った痛みが走った。思わず手をやると、血が流れたのが分かる。何に切られた? ……と思う間もなく、目の前をひらりと横切る二枚の葉。片方には血が付いている。そしてもう片方の木の葉は、息子と天文博士のほうへと向かっていく。
それが何を意味するか気づいた賀茂保憲は、愕然として叫んだ。
「いかん、光栄!」
かなり歩いて離れたとはいえ、陰陽頭が息子を呼ぶ声。確かにその声は、智徳法師に耳に捉えることができた。あの慌てた声。もはや成功をこの目で確認する必要はない。もう、充分。
見事、策は実った……
あの木の葉には、あらかじめ毒を塗ってあった。古風のやり方ではあるが、あれは事前の対策などはできまい。察知することはできない。絶対に。賀茂保憲は見事油断して、毒にやられた。あれは猛毒。解毒剤など近くにはないから、命は助かるまい。
確かに、安倍晴明とその息子は葬らねばならぬ。
だが……私自身の存在に気づいた以上、陰陽頭、賀茂保憲も葬らねばならぬ。
万事……うまくいった。
「……さて、次の仕事に取り掛かるか」
「――やはり貴様か。智徳法師」
ひやり、とした。聞き覚えのあるその声に、智徳法師は慌てて振り返った。
バカな――!
賀茂保憲の声だと、智徳法師は悪寒と共に理解していた。しかし、ありえない。塗り毒は即効のものを使っている。だからこそ、理解できなかった。あれは式神だというのか? 馬鹿な。自分の策を読んでいたというのか? 彼奴の思惑に……はまっていたということか。
「賀茂……保憲殿。これは驚いたぞ」
足音も慌しく、若い男の検非違使が二名、緊張で顔を強張らせて足音騒がしく、智徳法師の前後に現れて刀剣を構える。首筋に感じる冷たい感触に、思わず智徳法師は顎を引く。やはりこの感触は嫌いだな、と思いながら……
縁側に立つ智徳法師を、賀茂保憲と賀茂光栄は、庭から静かに見上げていた。
「策謀の宮。ここで何年も動けば大抵、その程度の動きは分かるぞ」
「なるほど……自分の詰めが甘かった、ということですか」
何が面白おかしいのか、クク、と低い声で笑いながら、不気味な様相で智徳法師は呟いた。
「あれは私の部下だ。変化の術を使い人相を誤魔化していたのよ。すでに解毒の準備も整えていたゆえ、死人が出ることはない……それにしても貴様、やはり昔から変わらぬ下劣な真似をしてくれたな、若造が……」
侮蔑を込めて、賀茂陰陽頭は低く唸った。
「仕方ありますまい……下劣な場所で生まれ育ったゆえ、高貴なあなた方とは違いますぞ」
「貴様、生きているのか?」
単刀直入に、陰陽頭、賀茂保憲は鋭く尋ねた。
智徳法師。何年もの間、死んだとされた邪悪な陰陽師。権力欲に溺れた愚か者。天下を取らんと大それた野望を抱き、宮中で暗躍していた噂はあまりにも色濃かったもの。
実質、宮中で起きた幾つかの事件に、智徳法師は関与していたのではないかと、賀茂保憲は疑念を抱いている。
だが、藤原顕光が、道長様への呪詛を行ったあの事件後、智徳法師は消えた。
蘆屋道満と智徳法師は、安倍晴明自らの手で殺されたのか……それともこの京から締め出されたのか……いまとなっては、もう何も分からないが。
いいや、ともかく。問題は……智徳法師の、いまという状態だ。
いまの智徳法師からは……生きる人間らしさというものが、まったく感じ取れない。
「……貴様、智徳法師であることは間違いない。だが……生きているのか?」
……この者からは、実質、生者のものとは思えない、そんな空気を感じ取れる。顔も異様に青白く、生きた人間の色を、していないのだ。目も、濁りすぎているように見える。
ククク……、と不気味な嘲笑
「ならば……生死どちらにあるか、試してみるか?」
ぐるりと、体を回転させた智徳法師は、信じられない行動に出た。
ズブリ。
検非違使は両名とも、智徳法師の首に刀剣を当てていたが、突然、体の向きを変えた智徳法師は、驚いて怯んだ検非違使の刀剣を両手で掴んだ途端に、ぐい、と自らの左胸、心臓に一直線に突き刺したのである。
邪悪な笑みを浮かべて。狂気の嘲笑で。ただ狂気で爛々とする眼を大きく開いて。
「なっ――?」
誰もが驚愕して、その場に硬直した。
誰一人、理解できなかった。
まさか、智徳法師が自決を図るなど……
誰から見ても、状況は明らかだった。奇術を用いて宮中だけでなく、日ノ本各所で暗躍した陰陽師。首筋に刀剣を当てられたといえ、検非違使二名はただの人間。首の心配などする必要がないのだ。秘術用いて蹴散らせば、簡単に逃走することなど容易いのだから。
「……何の真似だ、智徳法師!」慌てて叫び声を上げ、賀茂保憲は縁側へと飛び上がった。
「父上……この者……」
すぐさま智徳法師の死体を、仔細に観察した息子の賀茂光栄が、愕然とした風に口を開いた。
ム、とようやく賀茂保憲は異変に気づいた。
この者、智徳法師ではない。服装が先程までと明らかに違ったのだ。顔も異なっている。宮中の衛士、だ。先ほどまでの狂気に彩られた怖ろしい智徳法師の形相は、もうここにはない。いまその顔にあるのは、苦しんでいる色と、いま何が起きたのか理解できずただ混乱している色。それらが強く滲み出ているだけだ。
「この者……すでに傀儡となっていたか」
おそらく、姿形がまるで別人だったのは、別の場所から暗示の秘術を掛けられたからだろう。
……つまり、奴はこの近くにいたことになるが……もう逃げおおせてしまっただろう。
乱れた髪を手で掻き分け、死体となった衛士のうなじを確認した。まるで太い血管の一部が、ぼこりと気持ち悪いほどはっきりと浮き出ているのだ。だが、これは血管ではないと、賀茂保憲はすぐさま気づいた。皮膚から一部突き出ている、白髪のような、白い糸。
……見覚えがあった。
先ほど、突如、苦悶の表情で暴れだした検非違使。若輩の首にあった糸と同じものだ。
おのれ……智徳法師。咎無き者をここまで軽んじるか。そこまで弄ぶか。
――必ず炙り出してくれようぞ。
心にそう固く誓いながら、冷静と平静を装って、賀茂保憲は顔を上げた。
「この者を、丁重に葬ろうぞ」
時刻は、ゆっくりと変化しようとしていく。
京上空の暗雲の隙間から、わずかな夕日が、寂しげに世界を染め上げていく……
薄暗い一室。ひとりの男が入ってくると、どこからか声が聞こえてきた。
「――その様子。どうやら失敗に終わったようだな」
「ああ、徒労に終わったぞ。蘆屋道満」
智徳法師は部屋に入ると、隅に座り込んで疲労を隠せぬ口調で言った。
「だから言ったであろうが。賀茂保憲。侮るなと」
山奥にある、忘れ去られて荒廃した社の廃屋。
呆れを隠せずに、動揺を抱いてしまい、蘆屋道満は叱責を口にした。賀茂保憲。今回の計画において特に目立った脅威ではなかったが、智徳法師の失態によって、『日陰の一日』の危険な邪魔物になってしまった。あの者ならば、肝心の『儀式』を妨害してしまうかもしれん。
あの、安倍晴明の師を努めていたほどなのだから……
かつて師弟の関係にあった蘆屋道満ですら、はっきりと分かる。老齢とはいえ、あの陰陽頭を侮ってはならないと。
「――どうするつもりだ?」
「……まあ、呑み込むこともできようぞ」
邪な策謀を思案しながら、智徳法師は静かに言った。
策はある。幾らかは。
老齢であろうとも、賢者であろうとも、いかに経験が豊富であろうとも、思考というものはほぼ一本道に絞られる。あの賀茂保憲も例外ではない。ひとつ「理解しがたいもの」を仕掛ければ、当然、奴は混乱するだろう。
人を惑わすには何が必要か?
――答えは簡単。そやつが知らぬものを用意すればよいだけだ。
間を置いて、蘆屋道満が尋ねてくる。「策があるようだな。ならば要らぬ心配か?」
「何を懸念することがある。この内裏こそ、人を惑わしやすい場所は他にない。それは、あの陰陽頭すら弁えていよう」ククク、とどこか楽しげに笑いながら、智徳法師は言った。「ところで、蘆屋道満……貴様、いまだ藤原顕光が必要か?」
「……不要、だな。こちらの準備は終えている。もはや要らぬ」
「ならばその傀儡、この法師が貰い受ける」
やはり楽しげに、ククク、と笑いを漏らしながら、智徳法師は立ち上がった。
「何をするつもりだ?」
蘆屋道満の問いかけに対して、智徳法師は短く淡々と答えた。
――なあに、ただ、捨てるだけのこと、と……
邪悪さを孕む声音と表情。智徳法師は、まさしく狂人の笑みと口調で嘯いた。
「さあて、まもなく舞台は整うぞ……安倍晴明」
それを聞いて、蘆屋道満も同じ思いに囚われた。
そう、まさしく舞台は整うのだ。すべてを終わらせるための舞台が。
「因縁に決着をつけようぞ……安倍晴明」
とある建造物の瓦屋根の上に立って、“修験落ち”は鞍馬山の方角を見据えていた。
次第に世界は薄暗くなりつつある。『白拍子』が放った呪詛の影響によって、平安京周辺地域は、分厚い暗雲に覆われつつある。凶兆の雲が、ゆっくりと動いていく……鵺の姿はここにはない。
だが、京中で、ヒョー、ヒョーという鳴き声は聞こえてくる。
「千木……急げ、千木」
“修験落ち”の口から出た言葉は、意外にも、苦しげな人間の口調。
邪悪さを秘めた、甲高い声ではない。あの、歪な声ではない。
智徳法師、蘆屋道満。両名が対決を臨むのは、安部晴明ただ独り。
だが……“修験落ち”が対峙を願うは、鞍馬天狗の千木である。
やはり謎に包まれたまま、物語は進んでいく。
大きな悲劇が道先に待ち構えていると知らずに、この世の役者たちは踊っていく。
夢現な、この世界の上で。
九、
水虎の藍染。以前、内裏の建物から建物へと飛び移りながら、このなかに姿を隠しているであろう智徳法師と、「何者かすら分からぬ妖怪」をいまだ捜索中だった。時間がゆっくりと過ぎていくほど、漂う妖気は怪しいほどに色濃くなっていく。
死者の世界の瘴気が、ここでも異様に濃いのが気になるが……
ここには黄泉の瘴気が零れる穴が存在しないはずだ。言うなれば、ここは聖域。黄泉比良坂の穴が穿たれるはずがない……たとえどれほど貴族たちが欲望に囚われていても、邪念を募らせても、憎悪を込めた呪いを放ったとしても……
内裏の宝物庫に、『三種の神器』が安置されている以上。
この地が穢れに呑み込まれることはないはずなのに……
不意に、藍染は急速に接近してくる妖気を、ふたつ分感知した。
――敵襲か?
すばやく藍染は応戦体勢に入った。重心をずらして腰を低く構え、前後左右、どちらにも瞬時に動けるように足をずらす。刀剣に手を置いていつでも抜けるように準備する。
だが、すぐに藍染は応戦体勢を解いた。
近づいてくるのは、敵ではない。味方だと分かったからだ。
「千木殿ではなく……ほかの、天狗殿か」
まるで隕石のように、何か明るいものが近づいてくる。それは藍染のすぐ目の前に墜落するように見えたが、突然、火の玉のような輝きを放つ妖気がうごめき、黒い翼が現れた。ばさりと、その翼は力強く羽ばたくと、漆黒の羽根を撒き散らす。
そうして、着地の衝撃を完璧に殺して、ふたりの天狗は姿を現した。
こうして、ふたりの天狗は藍染の目の前に礼儀正しく頭を垂れた。
「お久しぶりです、藍染殿」
ひとりが声をかけた。その声に、藍染は頷いた。「久しいな、相木殿」
水虎の藍染は、『天竺』に加わると同時に、鞍馬天狗などの交流を行っていた。以前、千木の弟子として訓練を受けていた天狗が、鞍馬天狗の相木。彼が使う武装は、腰に下げている戦用の二振りの斧。身に着けている甲冑は竹を編んで作ったもの。
その隣にいるのは、おそらく愛宕天狗の者だろうと藍染は考えた。
「お初にお目にかかります、藍染殿」
同じく竹で編んだ鎧を身につけている愛宕天狗だが、唯一鞍馬天狗と違うのは、なめし皮の外套のようなものを着けているということだ。篭手や具足なども、なめし皮で造られている。腰に掛けているのは、長刀と短刀の二振りの武装のみだ。
「名を白絹と申します。今回の件に関しては、千木殿からの進言を受けております」
「……何かあったのか?」
「一旦、宮中から去れ。そのような言伝を承っております」白絹が静かに言った。
藍染は予想外の指示に眉根を寄せた。「いったいどういうことだ?」
「詳細は知らされてはおりませんが、千木殿には何らかの戦略があってのことだと、自分は思います」鞍馬天狗の相木は、静かに口を開いた。「ともかく、次の段階に移らなければいけません。鞍馬と愛宕、両方の軍隊の招集は完了しました。次に、京の人間たちを無事に避難させるための経路を確保しなければ……」
「鴨川の向こう岸にすべての人間の避難を終え、さらに鴨川を“境界線”にして、戦場の影響を及ぼさないためにも……藍染殿のお力が必要です」白絹が促すように言った。
「分かった……兎も角は、急がなければならないな……」
藍染は言葉を区切り、もう一度、内裏全体を見渡した。
ここに、確かにある。死者の世界の瘴気だけではなく……大妖怪が放つ妖気と毒気……何かが潜んでいて、何かがここで起ころうとするのだろう……一旦、この地を離れることを藍染は一抹の不安を拭えなかった……
だが、一言ゆこう、と呟いた。瞬時に思考を切り替えて、やるべき事をやることにしたのだ。
次の瞬間、天狗風が彼の体の周りを動いた。
鞍馬天狗の相木。愛宕天狗の白絹。双方の天狗風にきちんと支えられて、水虎の藍染は空中へと吸い込まれるように上昇していった。
途中、振り返る。そして、上空から見下ろす。
何らかの悲劇が起こるであろう、内裏を。
なにやら危険なものを孕み、いまは平穏を装っている……不吉な宮中を。
柱の物陰から、智徳法師は上空を見上げていた。一番の邪魔物と彼が考えていた妖怪が、突然、この宮中から離れていった。戸惑いと怪訝は隠せなかった。
何故、一旦、離れたのだろうか……
蘆屋道満が夜中に襲撃されたとの話はすでに聞いていた。二人組みの妖怪の様相は、蘆屋道満から伝えられている……その内のひとりが、おそらくあの大陸の者のような服装をした者。『天竺』のひとりに違いない。
影の勢力の動きに何百年、何千年も前から対抗し続ける……敵対組織。
『天竺』――
世界の救済という大それた目的を掲げながらも、世界を救済できるほどの、決定的な力を持っていなかった、空しい組織。力がないというのに、最後まで己の在り方を、決して変えようとしなかった、往生際の悪い者たち。
だが、今回は、ほんとうに往生際が悪くなったといえよう。
智徳法師は腕を組んで、そう考えていた。
彼らは大戦力を手にしたのだ。この世界を変えるほどのできる力を手に入れた。圧倒的に不利な状況を、たったの一瞬で、たったの一人で引っくり返せるほどの……強大な、戦力を。
即ち、“太虚の覇者”一条守。
その出現は、この世界の命運を大きく左右する。この世界を完璧に救済するか、滅ぼすか。一条守という小さき少年の存在が、大きく左右するのだ。
長年の悲願がついに叶うか。それとも、この世界が救済されるか。
……問題は、それだけではない。
“修験落ち”。
蘆屋道満は“修験落ち”を信頼しているが、だが、正直なところ、智徳法師は、ほんとうにこの者が味方なのか信じることができず、薄気味悪さを感じていた。
そもそも、彼が何者なのかすら、智徳法師は理解していないのだ。
何百年、何千年もの間、“修験落ち”という邪悪な修験者は、この世界に存在していなかった。
なのに……どうして、一条守とほぼ同時期に、“修験落ち”なる者が、この世界に姿を現したのだろうか。
今回の戦い、ほんとうに、慎重に事を進めねばならない。
智徳法師は戦略を慎重に吟味していた。
確固たる勝利を、何としてでも手に入れるため。千年に一度の、たった一回限りのこの勝機に、すべてを賭けるのだからこそ。悲劇と苦難の連鎖を、今宵、間違いなく、断ち切るために。
この世界を、真の意味で救済するために。
――今宵、我らはここに終止符を打つ。
智徳法師の傀儡となり、死んでしまった検非違使の埋葬を済ませた陰陽師たちの一行は、人数を増やして、さらに厳重に警戒しながら、陰陽寮へと向かった。
そして、彼らが到着したのは、陰陽寮の敷地内にある書庫。
「これにて……安置は完了した」
賀茂保憲は、疲労を滲ませた声で呟いた。
稀代の陰陽頭が、安倍家の陰陽師たちを、外敵から保護して、昏睡状態から回復させるためにとった手段。それこそが物忌みである。災厄および悪霊や鬼などから身を守るための手段として、貴族や陰陽師などが頻繁に用いる行いだ。分かりやすく言えば、自宅などの限られた領域に留まり、穢れや凶事を絶ち、自身の体の内側を清めるための防衛手段である。
賀茂保憲は、物忌みを応用することにより、安倍家の陰陽師たちを、保護と回復の絶対領域に安置させたのである。
場所は、陰陽寮の敷地内にある書庫。様々な道具や書物が山ほど仕舞われている。
物忌みを行う環境としては最適。さらに、安倍家の者たちの身の安全を守る上で、これほど好都合な場所はない。
出入り口はひとつだけ。窓はひとつもない。あるのは排気孔だけ。
人がひとり侵入するならば、閂を掛けた唯一の扉を開けるしかない。ここは見晴らしのいい場所で、容易に警備は固めやすい。異変が起きたら、即座に対応することができる。
もっとも……
賀茂保憲は、振り返って、建物の屋上部分を見上げた。
そこには、白い鳥が止まっている。
……客人が、ひとり、いるようだな……
「父上、これからはどうするおつもりですか?」
縁側に上がり、自分の執務室に向かおうとする賀茂保憲の背中に、息子の光栄は緊迫した表情で問い尋ねた。智徳法師が宮中に潜入していることはもう判明した。何らかの策謀を巡らしていることは、もはや明白。御上の身に危険が迫っている危険性があるのだ。
どう、動くか。
宮中において動くに関しては、極端に慎重にならなければならない。
「智徳法師は、間違いなく宮中に潜んでいる」
どう動くか、慎重に考えながら賀茂保憲は静かに言った。
「だが……智徳法師の狙いが読めない。まるで動けない。御上の命が狙われているのか……いや、それはあり得ん。何かが起こるのだろうが……クソ、まったく読めんぞ。これから先、いったいこの地で何が起こる……?」
「父上……兎も角は、式神を放ち、宮中内部の様子を探るべきでは?」
息子の進言に、束の間迷った賀茂保憲は、静かに立ち上がった。
宮中の様子を密かに探る。それは危険行為だ。陰謀の宮中においては、頻繁に用いられる手段ではあるが、役人である賀茂保憲は、躊躇いをやはり抱かずにはいられない。それは重罪なのだ。いくら御上の身の安全を確認して確保するとはいえ……やはり、重罪。
だが、悲劇は間違いなく起こる。
智徳法師を捕縛するためにも、この手を汚してでもやらねばならぬ。
だからこそ、賀茂保憲は行動を起こした。両方の袖の中に手を通して、そこから四本の細い管を取り出す。両端を封されている管は、なかで何かがしきりに動いているらしく、奇妙な物音を発している。
賀茂保憲は縁側に立って、両手にそれぞれ二本ずつ構える。
そして、片方の封を取り除いて、短く言葉を呟いた。
「――顕現招来」
途端に、管狐たちが飛び出していき、屋根に飛び上がり、すばやく建物から建物へと移動していく。地面に着地してから、すばやく陰から陰へと音もなく移動していく。柱の陰や天井や壁をすばやい勢いで駆けていく。
智徳法師を、炙り出せ。
式神たちには、そう命じていた。
いま、管狐たちは主人の命令に従って、この宮中に漂う異質な臭いの源を探り出すために、そして、智徳法師の居場所を炙り出すため、誰にも気づかれずに宮中を捜索していく。
炙り出せるのも、時間の問題と思われた。
だが……賀茂保憲は、すでに自分が、智徳法師の策略に見事囚われていることを、すでに彼の謀に呑み込まれていることを、気づくことができなかった。
――だから、賀茂保憲は、しばし時経てば、敗北を理解する。
「さあて、見事、探りを入れたか……戯けめ」
智徳法師は瞑目したまま、内裏の至る所に配置した蜘蛛や蝙蝠などの式神の目で見て、賀茂保憲が放った管狐が動き始めたのを確認した。そして、やはり邪な笑みを浮かべる。計略は見事に進んでいく。
奴が賢者で良かったと、そう思いながら……
宮中はまさしく、計略と謀略がせめぎあう舞台である。
密かにして苛烈な闘いが、いま、始まろうとしている……。
謀を巡らすこのふたりには、ひとつだけの共通点があった。
賀茂保憲が、すでに自分の行動が智徳法師の狙い通りのものだとは、まったく考えなかった。
そして、皮肉なことだが、智徳法師も陰陽頭と同じように、この宮中で動いている賢者が、賀茂保憲やつひとりではないことを、考えることができなかった。
この宮中にいる賢者は、稀代の陰陽師、賀茂保憲ただひとりではなかったのだ。
昏睡状態に陥った安倍家の陰陽師を回復させるため、そして安倍家の陰陽師の身の安全を確保するために、賀茂保憲が安置場所として選んだ書庫の屋根。そこに止まっていた白い鳥は、行動を起こした。翼を動かしてふわりと小さな体を浮かせると、鳥の動きとは思えない、不自然にゆっくりと、翼の動きもあまりにも遅く、静かに書庫の上部に設けられた排気口に近づいていった。
そして、次の瞬間、鳥の姿が変わった。
一枚の紙になったのだ。それは、吸い込まれるように、書庫の内部へと消えていった。
それは、紛れもなく式神。
複雑な文様とわずかな灯りの中に、安倍家の陰陽師たちは横たわっている。そこにゆっくりと近づいてくるのは、白を基調とした装束を身にまとう、ひとりの女性。
――『四天王』がひとり、青龍の称号を担う、女賢者の『白拍子』だった。
十、
ついに、何もかもが動き出そうとしている。
宮中では、智徳法師と賀茂保憲の戦いの、火蓋が切り落とされようとしている。
宮中を駆ける、管狐。複数のその式神の使いては、賀茂保憲。およびその息子の光栄。
静かな決意の元、賀茂保憲は呟く。「炙り出してくれるぞ、智徳法師!」
そしてそれを確かな殺意で、智徳法師は迎え撃とうとしていた。
「――捻り潰してくれる」
平安京の各所に穿たれた、黄泉比良坂の穴。そこから零れ落ちる瘴気の濃度は、ますます強まり、濃くなる一方だった。
蘆屋道満は、平安京のなかでやる作業を、すべてやり終えていた。
平安京を見下ろせる崖の上から、蘆屋道満は静かに呟いた。
「……まもなく、生れ落ちる」
ジャラン、という音と共に、“修験落ち”は屋根瓦の上に飛び移った。
見上げれば、暗雲は至る所で渦巻いている。地上に降り注ぐ光は次第に薄まっていき、少なくなっていき、消えようとしている。まもなく、闇が訪れる。この世界を終わらせる闇が。
死者の国から、闇が訪れる。すべてを呑み込む闇が。
「ここで……何もかもが、変わる」
“修験落ち”は、そう呟いた。奇妙に歪んだ声音で。
そう、何もかもが変わるのだ。
――世界が滅びるか、それとも生き延びるか。
まさしく、何もかもが動きだしたまさにその瞬間。
平安京の北方に連なる山々に舞台は移る。
そのなかの一つ、鞍馬山に隠された鞍馬天狗の里。
そこでも、世界の流れを大きく変えてしまう、小さな変化が起きようとしていた。
地脈の霊気に満ち溢れる、“樹海の祠”……
“太虚の覇者”一条守と鞍馬天狗の僧正坊は、互いに一歩も譲らず、ほぼ互角という闘いを続けていた。それを傍らで見つめる千木と山姫は、戦慄を抱かずにはいられなかった。何百年、何千年と生きてきた鞍馬の大天狗と、たかが十数年生きた少年が、ほぼ互角で渡り合っているのだ。
“太極”を掌握してから、まだ一日も経っていない少年が、それほどまでに、強くなっている。互角に戦っている。大天狗と、渡り合えている。
……鬼一様はまったく手加減をされていない、と千木は冷静に状況を分析した。
数時間前に“太極”を掌握したばかりだというのに、一条守はそれをほとんど本能的に使いこなしているのだ。あるいは、直感的に。
奴には分かっているというのか?
いや、しかし……“太極”の使い方が分かるだけでは、あれほど激しく闘えるものではないはずだ。直感でどうすればいいか、そしてどうするか……それだけでは、闘うことなんてできない。
一条守。闘い方など、その人生で学ぶことなどないはずだ。
奴が経験に基づいて、そして鍛え上げた本能によって動いているのではないとしたら……別の要因で闘っているとしたら……
考えられる可能性はただひとつ。
あいつが、呑み込みが早すぎるということだ。異常なまでに。
そして……この世界の情勢が、それに拍車をかけたのかもしれない。
ともかく、いまの一条の全神経は、大天狗と互角に渡り合えるほど、それほどまでに研ぎ澄まされているのだ。
……このままでいいはずがない。悪い予感ばかりする。
一条。彼が闘うその姿を見ながら、山姫の夕衣は刻一刻と倍増する不安に悩まされていた。“太極”の影響が強いのだろうが、あれほどまでに運動能力が飛躍的に上がっているのならば、当然、肉体にかかる負荷は甚大なものになるはずだ。
運動能力が飛躍的に向上したとはいえ、肉体の耐久力は向上していない。
“太極”の能力は、万能に見えるが万能ではない。そもそも“太極”は創造と消滅という二つの属性の能力しか持っていない。何かを作り出す能力。そして、作り出したものを、なかったことにする能力だ。
このふたつの能力は、同時に発動することはできない。
つまり、“太極”というものは、ひとつの条件しか変えることができないのだ。
自身の推論ではあるが、おそらくいまの一条の状態は、ただ運動能力が向上しているだけ。
肉体の耐久力はちっとも向上していない。だから、これ以上の異常な活動を続ければ、人間の脆すぎる肉体に負担がかかりすぎてしまう。危険だ……
止める……べきだと、頭では分かっているが……
この世界を救済する計画。それを成功させるために、この鍛錬は止めるべきではないかもしれない。
何よりもそれを成功させたいと思っているのが、皮肉にも一条なのだ。
その願いを誰よりも叶えたいと思っているのが、一条でもある。
それを邪魔したくないが……他に、方法はないのだろうかと、山姫はずっと、動かずに悩み続けていた。このままでは、一条の肉体が限界を迎えてしまい、いざという時に、“太虚の覇者”として動けない。
そうなれば……計画が失敗しかねないというのに。
……何事もなく、全てが平穏に過ぎればいいのだが……
嫌な予感ばかりしてならないが、山姫は静かにそう願い続けていた。
――だが、そんな願いは、あっけなく打ち破られる。
鞍馬の大天狗、僧正坊は驚嘆を隠せなかった。
一条守。この少年は、いったい何者なのだ?
ほんの数時間前に“太極”を掌握したという話だが、現時点で見る限り、その扱いは玄人ものだ。一条守は、次々に刀剣や槍や飛び道具などの武器を、“太極”を発動させて、次々に作り出して、それを巧みに使って攻撃を仕掛けている。
“太極”の乱発とも言えるその行動を、僧正坊は危険視していた。それは、地脈に刺激を与える行為でもあるからだ。
だが……地脈はまったく反応していない。何事もないように、静かに動いている。
“太極”を乱発しているというのに、地脈がまったく暴走しないのはまず間違いなく、“太虚の覇者”である一条守が、適確に“太極”を制御しているのだ。
闘いの本能を限界近くまで研ぎ澄ましているというのに、理性だけは適確に働いている。
……只者ではない。
この者は悉く順応性が高すぎる。異常に対応力が素早すぎる。
闘うということは、ここまで容易く出来るものではない。覚悟を決めるというのは、簡単に出来ることではない。
何故……ここまで闘えるのだろうか?
この者は人の上に立たない。王になることを拒む。だからこそ、世界を救えるだろう。
僧正坊は、一条守という少年を、そんな人間として捉えていた。
だが、ここまでの予想外な行動を見せてくれるとは……
何故、ここまで闘うことができるのだろうか?
一条は、必至な表情で、常に全力で攻撃を繰り返している。
その目は真剣な色だ。負けたくないと、後悔したくないと、絶対にやり遂げるんだと、まさにそう語っている様で。
誰よりも、挫けたくないと、強く誓っている者の表情だ。
……そうか、一条殿は……
僧正坊は、静かに理解した。
ただ、誰よりも必死なのだ。この世界を変えたいと強く願う。大切な人たちを、救いたいと、強くそう思う。だからこそ、この少年は、小さき体にして大望を抱き、世界の救済という無謀な結末に、ただ全力で向かっている。それが出来ると信じて。
ほんとうに、ああ、今ならほんとうに、分かる。
――この者こそが、唯一、この世界を変えられると……
ならば、もはや……
「この僧正坊、全力で貴殿を打ち倒すぞ!」
何度も鍔迫り合いや打ち合いを繰り返したため、すでに僧正坊の両刀は今にも砕け散りそうな状態だった。現に、いまは妖気と神通力で補強しているようなものだ。今にも砕け、零れ落ちそうな刀身の破片は、妖気と神通力で、辛うじてつながっている。
それぞれの淡い光が、刀身を蜘蛛の巣のように、複雑に走っている。
異様な空気を発し続ける刀剣を、ふたたび僧正坊は一条に叩きつけた。
一条はそれを、すばやく槍を作り出して両手で構えて迎え撃つ。
鞍馬大天狗の武器は、すでにボロボロの刀身。対して、一条の武器は、傷ひとつない槍。そんなものがぶつかり合えば、どちらが壊れるなど、一目瞭然。
砕け散る刀身。一条はすばやく持ち手を変えると、自分の上空にいる僧正坊に、切っ先を一直線に向ける。
ついに、鞍馬大天狗の武器が壊れた。形勢は逆転したかに見えた。
だが、次の瞬間、槍を両手でつかむと、僧正坊は、一条を槍ごと投げ飛ばした。突然の反撃に一条はまったく対応できずに、そびえる大樹に激突して、一瞬だけ意識を失った。
だが、次の瞬間、彼の首筋にぞっとするほど冷たいものが、迫った。
「……嘘、でしょう……」
首を圧迫する冷たさの正体に気づいて、一条は顔を思い切り青ざめた。
槍だ。つい先ほど、“太極”で作り出した槍が、一条のすぐ真横に突き刺さっているのだ。視線を転ずると、鞍馬大天狗の僧正坊がたった今、何かを投げたという体勢で、自分を睨み据えている。
ほんとうに……
「一筋縄じゃ、いきませんね」
そう呟くや、一条はすばやく槍を手にすると、“太極”を発動させる。“太極陣”からすばやく飛び出したのは、投槍や矢などの飛び道具。それらは一直線に、僧正坊に飛んでいく。すでに大天狗の手には刀剣はない。
おそらく、回避するだろう。天狗風を使って完全に防御してしまうだろう。
でも、飛び道具はすべて、一条の意志によって操作できる。標的がすばやく回避したとしても、飛び道具は獲物に飛び掛かる。まさしく牙を剥いた獅子のように。執拗に。しっかりと。
これで確実に傷を負わせることができる、と一条が確信した途端。
――鞍馬の大天狗が、両手を動かした。
ぬうん、と気合を入れたような、低い叫び。
鞍馬大天狗、僧正坊は両腕を大きく動かすと、天狗風ではなく、自分の妖気を使って大気を揺り動かした。空気がぶつかりあって、裂けるような轟音と小さきものを押し潰すような威圧。
何から何まで、僧正坊は圧倒的だった。
自分自身に襲いかかる飛び道具すべてを、大天狗は撃ち落したのだ。素手で。
「そういえば、一条殿。式神は持っておらんのか?」
悠々とした表情で、僧正坊は尋ねた。
突然の問いかけに一条は戸惑ったが、安倍吉平が使役していた鴆のことを思い出した。そういえば、どうやって使役するんだろうと疑問に思い、空中に飛び出して、大天狗に切りかかる。
「式神、って、どうやったら使役できるんですか?」
渾身の、一撃だった。まさしく。
一条は体全体を使って、槍をバッドのように僧正坊に叩きつけた。それを、さも容易いと言いたげに、鞍馬の大天狗は片腕のみを使って防御する。
「それは――」
もう片方の腕を一条にゆっくりと近づけて、僧正坊は静かに言った。
「――私に片膝つかせたら、教えて進ぜよう」
大天狗の攻撃は実に単純なものだった。
――デコピンだ。
だが、実際の妖怪のデコピンは、冗談抜きで威力が強すぎる。
額にものすごい衝撃を食らってしまい、一条守は一直線に落下した。頭が後ろに弾かれたように動き、のけぞるような姿勢で、バランスを見事に崩してしまって無防備に落下してしまったのだ。いいや、これは墜落のようなものだ。
地面に激突すると同時に舞い上がる土煙。一条の姿はまったく見えない。
それを見て、大天狗は顔をしかめた。さすがに激しすぎたか……加減したつもりだが。
そう思いながら、鞍馬の大天狗は少しずつ慎重に高度を落としていき、一条の状態を確認しようとしたが……次の瞬間、だった。
ぶわりと、土煙がうごめいた。
――何かが来る!
鞍馬の大天狗が直感で、そう身構えた時だった……
次の瞬間、ふたたび一条の攻撃が始まった。
飛んできたのは、今度は飛び道具ではなく……先端に穂が付いた鎖。
すばやく頬や腕、そして首筋など鎧では防ぎきれていない部分。そこを削るように、鎖は通過していく。一瞬だけ身動きが取れなくなるが、妖気を爆発させて僧正坊は鎖を弾き飛ばす。その時、背後に人の気配が現れたのに気づいて、過敏に振り返った。
そこに、いた。一条守が。
「おお、お見事!」思わずそう叫んで、鞍馬の大天狗は、体全体を使って少年を殴ろうとする。体全体の勢いを利用した攻撃。それは、一条の体に見事当たった。
だが――その目の前に、“太極陣”が煌々たる輝きを放った姿を現す。
なるほど……そういうことか。
大天狗は理解して笑みを浮かべた。「頭蓋にしては、固すぎたわけだな」
先ほど、一条の額を人差し指で弾いた時の違和感が、ようやく分かった。
「ええ、“太極陣”を使って護ったんですよ」一条は静かに言った。「扉を開けば能力を使うことができます。だけど、扉を閉ざせば、“太極”は城壁にもなる」
「なるほど、巧妙だな」
一条はすばやく刀剣を“太極”で創造すると、ふたたび僧正坊に切りかかった。
「――両膝をつかせますから、式神の使役の仕方、ちゃんと教えてくださいね!」
大声で、そう、怒鳴りながら。
よかった、無事だったか……
千木は安堵の息をついた。
すでに鬼一様はこの目的を……千木が進言した、この鍛錬のほんとうの目的を、見抜いている様子だった。
そう、――式神だ。
今回の戦いでは、“太虚の覇者”は確かに重要な戦力。
だが……あの“修験落ち”は鵺を従えている。智徳法師はあの「大妖」を使役する。そして、蘆屋道満は死者の世界の、異形の化け物と契約を交わしている。
ただ“太極”を使いこなせるだけではだめだ。それだけでは確実に勝利できない。
奴らをはるかに圧倒するために……何としてでもこの戦いに勝つために、必要なのだ。
――一条だけが使役できる、一条だけの式神。
……今のところは、何の問題もなさそうだな。
山姫は一条の様子を仔細に観察して、冷静に結論を出した。
だが、一条の肉体はかなりの限界に達しているはずだ。今のような、人間離れした動きを続けていれば、必ず……最悪な結末を迎えてしまう。
いざという時に、まるで役に立たなくなってしまう。あいつはそれを何よりも嫌う筈だ。
……あいつのために、何が、できるだろうか。
何もできないままに、ただ時間が過ぎていくのが、すごく、辛かった。
こんな状況のなかで、鍛錬は行われていた。
敵もいない、安全な場所で、時間は流れていった。
そう、ここにいるのは、たったの四人……
地上を、そして空中を、激しく競り合う鞍馬の大天狗、僧正坊と、“太虚の覇者”の一条守。
地上からそれを見守る、『天竺』の千木、山姫……
そこには、敵などいないはずなのだ。
――それなのに……
一条が大天狗の攻撃を何とか交わし、体勢を立て直すために距離を置いたその時だった。
山姫は、“樹海の祠”に満ちる地脈の霊気が、奇妙な状態になっていることに気づいた。
渦巻いているのだ。それは、比叡山の状況とどこか似ている……「静」という状態から、いままさに動き出そうとしている……何かが、起きようとしている。何かが起こる。そんな、地脈の渦巻き方……何かが、起ころうとしている。
何かが来る……!
理性が警告したのではない。野生本能と直感が、山姫に警告した。
「千木!」
慌てて、叫んだ。
突然の叫び声に、千木は怪訝そうに同胞を見やる。
「いったい、何だ?」
だが、次の瞬間、千木の声に応えるように……
――事が、起きた。
一条が、攻撃しようとして、勢いよく空中に飛び出した瞬間だった。
目の前にいたはずの、鞍馬大天狗の姿が、ぶれた。
いや、ぶれただけではない。景色全体に、黒いノイズが走る。
――なんだ? これ?
何から何まで黒く染まっていく。まるで、侵食されるように……
……流れる一秒が、重みを増した。
一条は辺りを見渡した。
なぜか、重圧感がすごい。何かが来るという予感が、体中に緊張を走らせる。
これは、鞍馬の大天狗が仕掛けたトラップではないはずだ。
なら、誰がこれを仕掛けたのか?
一条の疑問に、まるで応えるように、
唐突に、右足のくるぶしを、誰かに掴まれた。
鞍馬の大天狗、『天竺』の千木と山姫は、いったい何が起きたのか、理解できずに瞠目した。
突然、一条が体を大きく振り返ると、大声で叫んだのだ。それは悲鳴に近かった。困惑して、恐怖して……一条は、叫んでいた。
「一条!」
何が起きたのか分からず、ともかく彼の元へと飛び出そうとした山姫。
「待て、山姫!」
慌てて制止の声を上げた千木も、とにかく一条の許へと、翼を広げて飛び上がる。
そして、僧正坊も、一旦、鍛錬を中止すべきと判断して、一条を落ち着かせようと慌てて近づこうとする。
だが、次の瞬間、一条の神通力が暴発した。
一条に近寄ろうとした三人は、思わぬ“太極”の暴発に、木の葉のように吹き飛ばされる。
一条が自分自身を制御しきれていない証拠だ。それほどまでに、混乱している。恐怖している。
いったい何が起きた?
何とか体勢を立て直しながら、誰もが呆然と一条を見やる。
彼は今、まさに落ちていくところだった。
……いや、引きずり落とされている?
何かにつかまろうとしているのか、一条は必至に手を動かしている。
まるで溺れかけようとしている者のように、両手を激しく動かしている。
「なんで……なんでおまえがここにいる!」
恐怖と困惑で頭が真っ白になった一条は、呆然と「敵」を見つめた。
ここにいるはずのない「敵」の姿。
真っ黒な視界のなか、黒い渦のようなものから、その中心から姿を現しているのは……
一条のくるぶしを掴み、一条を無言で不気味に威圧的に見上げているのは……
そして、今まさに、自分を底知れぬ奈落に引きずり落とそうとしているのは……
――“修験落ち”だった。
十一、
気づけば、黒一色の世界に、一条守は横たわっていた。
上下左右、天地すら分からない、何もかもが分からない世界。目を開ければ、それが眼前に広がっている。
一瞬だけだが、一条は何故ここにいるのか分からなかった。
だが、くるぶしを強く掴まれた感触が、唐突に、蘇る。いきなり現れた“修験落ち”が、自分を底知れぬ闇に引きずり落とそうとしている、その光景。それが脳裏に焼きつくように蘇る。感覚が一気に冷え冴える。
がばっと、一条は体を起こした。
どうして、“修験落ち”が、鞍馬山の天狗の隠れ里に、姿を現した?
一条は答えを得られない疑問に恐怖を感じながら、辺りを見渡した。
鞍馬山は確かに地脈に満ち溢れている聖域。“修験落ち”のような邪悪すぎる存在が、そう容易く侵入できるのだろうか? 天狗の妖術によって、里全体は隠蔽されている筈……だいたい“樹海の祠”は、天狗の里の奥まった所に位置する。妖術で隔離された里に侵入して、天狗に誰一人気づかれることなく……この場所まで侵入できる確率……
ゼロに近いと、一条は冷静に考えた。
なら、どうして“修験落ち”はあの場に姿を見せた?
考えれば考えるほど、訳が分からなくなる。間違いなくあの場に“修験落ち”はいた。
そして、自分は……“修験落ち”に、どこか知らない場所へと連れ去られている。
――ここはいったいどこだ?
場所を把握するためにも、一条は辺りを見渡して、手を動かした。いまのところ、誰もいる気配がない。もし“修験落ち”が攻撃してきたとしても、この黒一色の世界。すぐに視界に飛び込んでくるから……問題はないはずだ。
そう、思った途端だった。
突然、ジャララン、とあの錫杖が出す音が聞こえた。
そして、思わず反射的に身構えた瞬間、瞬きして、次に目を開いた時……
――“修験落ち”が、すぐ目の前に迫っていた。
「うわぁあああ!」
ほんとうに恐怖して、一条は悲鳴を上げて後ろに飛び上がった。膝に力が入らない。
無様にも体が地面に崩れ落ちてしまう。
ここには誰もいない。頼れる仲間がいない。山姫も、千木も、藍染さんも、晴明さんも、吉平も、吉晶さんも……誰もいない。独りぼっち。ムゲンの世に、初めて訪れたあの夜だ。振り出しに戻っているのだ。
誰もいない場所で、自分は殺されかけようとしている。
また、だ……
「いいや、違う!」
一条は立ち上がった。振り出しに戻ったわけじゃない。
振り出しじゃない。自分は無力じゃない。いまは、“太虚の覇者”という、力がある。
すばやく立ち上がって、ゆっくりと迫る“修験落ち”を見据えて……
一条は“太極”を発動させた。
あの紋章を明確に、頭のなかで思い描くだけ。ただそれだけで、力は呼び起こされる。
一条は細身の剣を二振り取り出した。両手で構えて、じっくりと間合いを見計らう。一歩ずつ、“修験落ち”は歩を進めながら近づいてくる。あの錫杖を両手で構えて、くるくると弄びながら。相手を挑発していると同時に、相手の動きをじっくりと見定めている。
相手が挑発に乗らず、慎重に待っていると判断したのか、“修験落ち”は、攻撃を開始した。
自分の武器の持ち方を変えると共に、たったの一蹴りだけで、“修験落ち”は一気に間合いを詰めてきた。すかさず一条は防御した。“修験落ち”の動きは、まるでフェンシング選手の攻撃みたいな動きだった。滑らかに、すばやく、そしてすばやく、“修験落ち”は錫杖をまっすぐに突き出した。
奴が狙うのは左胸。一直線に心臓だ。
殺す気かッ!
すばやく錫杖を左手の剣で叩きつけるようにして、何とか防御して、一条は右手の剣ですばやく反撃に出た。右腕を大きく回して、半円状に抉るように振るったのだ。
“修験落ち”は難なく軽々と、一条の反撃を回避した。
今度は一条が攻撃した。
すばやく一歩踏み出す。すでに“修験落ち”は一条の攻撃を予測していたのか、槍のように錫杖を構えている。一条は両方の剣を勢いよく振り落とし、“修験落ち”の体勢を崩す。そして、片方の剣で錫杖を抑え込み、さらに一歩“修験落ち”に近づいて、至近距離で致命傷を与えようとするが……
その時、錫杖がくるりと、視界の隅で回転した。
直感的に、それが危険と判断して、一条は攻撃をやめて、一気に“修験落ち”との距離を開いた。何が来る、と身構えたが何も起こらなかった。
よく見れば、何故か空中を“修験落ち”の錫杖がくるくると回転している。
それは、片手を掲げた“修験落ち”の手に、きれいに収まった。
……遊ばれているな、と一条は判断するが、何故か、このバトルに違和感がある……
――“修験落ち”は、自分を殺すつもりがないのか?
このバトル、形式試合のようなものにしか感じられない。
まず、“修験落ち”が仕掛けた。それも、読み易い攻撃だ。それを、一条は防いだ。今度は一条が仕掛ける。そして……“修験落ち”は防いだ。なんとか追撃を仕掛けるも、簡単な揺さぶりで、“修験落ち”は一条との距離を開いた。
殺気立ったものが、まったく感じられない。
殺そうと思えば、殺せたのではないのか?
一瞬たりとも、油断していなかったわけではない。神経を研ぎ澄ませていても、どれほど集中していても、無駄な動きは絶対にない、とは言い切れない。“修験落ち”に比べて、自分は戦闘の素人。簡単に、殺されてもおかしくないのに……
遊んでいるのではない。弄んでいるわけではない。
……見定めているのか? 自分がどこまで出来るのかを?
――試されているのか?
また、“修験落ち”が、迫ってくる。
今度は上段のような構えから、錫杖を振り下ろしてくる。すばやく両方の剣を交差させて受け止め、一条はあえてその姿勢のまま近づく。だが、次の瞬間、“修験落ち”が軽く飛び上がって小さく蹴りを入れてくる。
もろに食らってしまい、一条は思わず膝を突いた。
だが、すばやく右手で力いっぱいに剣を斜めに振り上げる。
ふたたび地を蹴り、“修験落ち”は空中で回転しながら、一条の攻撃を交わすと同時に、まるでバッドのように錫杖を振り下ろしてくる。一条は横っ飛びに回避してから、一直線に“修験落ち”に向かって突進する。空中にまさに着地しようとするその瞬間、“修験落ち”が生み出した唯一の隙を突いて――
十字を描くように、一条は斬りかかった。
だが……“修験落ち”が目の前から消えた。忽然と。
……逃げていったのか。
一条は立ち上がって、三百六十度、全体を見渡してから“修験落ち”の姿がないのを確認した。黒一色の世界。とにかく閉鎖的な空気を漂わせる、世界。自分はひとりここに、孤独に取り残された。
でも、次どうやって“修験落ち”が姿を現すか分からない……
警戒は怠るべきじゃない。神経は研ぎ澄ませておかないといけない。今以上に。
それに、今では、この世界がどういう所か、少しだけ理解することができた。
結界か異界かは、まだ自分には分からないが、おそらくここは“修験落ち”の胃袋。奴が獲物を狩る、自分自身のテリトリーだ。
自分はそこに引きずり落とされた。呑み込まれた。
だが……恐らく、ここから抜け出せる手段は、可能性は、まったくゼロという訳じゃない。
――そのはずだった……
沈黙が、しばらく続いた。“修験落ち”は攻撃をしばらく仕掛けてこない様子だ。一条は緊張しすぎで、体中に力が入りすぎていた。何もしていないというのに、疲労感がひどすぎた。いったい、どれくらいの時間が経ったのか、まったく分からない。
……“ここから抜け出せる手段は、可能性は、まったくゼロという訳じゃない。”……
……そう、信じたかった。いいや……そう、信じて……いるのだが……
まったく自信がないと、一条は正直に思った。ここには仲間が誰一人いない。いままで以上に、感じたことのない孤独感、圧迫感、焦燥感。自分は、どうなってしまうのか。そんなメッセージが頭のなかに、脳裏に、焼きつくように浮かび上がる。
――自分は、どうなる?
助けてくれる仲間がいない。いや、ここに、仲間が助けに来ることができるのか?
結界もしくは異界……“修験落ち”がそれを使って、自分を仲間たちのいる場所から隔離したのであれば、仲間が助けに来てくれる可能性は、確かにあるだろう。いや、自分から脱出することだってできるはずだ。
だが、ここはほんとうに結界や異界といった、人もしくは妖が作り出せる世界なのか?
結界と異界は、区画を示す“境界線”を敷くことによって、森羅万象の上に存在できる小規模な世界なのだ。簡単に言えば、世界に上書きされた、小さな世界。造りやすくて、消しやすい存在。それは絶対に閉鎖された空間ではない。どこかに、穴が開く。“袋の口”のようなものが、絶対に存在してしまうはずなのだ。
だが、ここにはそんなものが、どこにも存在していないように見えてしまう。
いったい何なのだ、この圧迫感は。上下左右、まともに感覚がそれを把握することができない。いま自分が、地に足をつけているという実感すらない。黒一色の世界、すぐそこの場所すら分からない。彼方がまったく分からない。見えない。広いのか、狭いのか、それすらも分からない世界。
感覚がまともに機能しない……だから、理性がいま、震えていた。
――ほんとうに、怖かった。
比叡山の時のように、山姫に助けて欲しかった。今すぐ。とても強く、しっかりと、優しく……心強く。人を勇気付けるように。今すぐ助けに来て欲しかった。大丈夫だと、励ましてほしかった。
でも、山姫は絶対に助けに来られない。
来て欲しいと感情はそう願っているのに、理性が残酷にも無理だと判断している。
結界でもなく……異界でもない、この黒い空間。
ひたすらに圧迫してくる。重圧を与えてくる。恐怖を掻き立てる。理性が震えてしまう。
時間すらまともに数えることができず、左右すら判別できず、距離をまともに測ることもできず……感覚は完全に麻痺してしまった。理性は完全に安定を失ってしまった。自分は何とか“ 太極”を使えるだけであり、それ以外に、自分自身の武器がない。
……殺されてしまう、という予感が色濃くなる。殺されてしまう、と感じてしまう。
そして、殺されてしまう、と確信した。
死にたくない、という思いから、一条は自分自身を落ち着かせるために深呼吸した。確かに怖い、確かに危ない。だけど、冷静さを失ってしまえば、一気に殺されてしまう。死にたくない。簡単に殺されるわけにはいかない。だから、冷静になって、防御を固めればいい。
まず、自分自身の安全なテリトリーを確保しないと……
鞍馬大天狗、鬼一法眼の奇襲攻撃を防いだ時のように、一条は、この世界を侵食する自分だけの世界――“異界”を作り始めた。“太極陣”が足元に発動して、黄金色の粉末が、ゆっくりと周囲に立ち上っていく……仄かな輝きではあるが、こんなに黒い世界では、とても心強い光だった。
まさにその時、“修験落ち”が一条の背後に音もなく瞬時に姿を現した。
一拍遅れて、一条はようやく二度目の奇襲攻撃に気づいた。首筋にわずかに空気を感じ取り、ぞっとして慌てて振り返ってみれば、すぐ近くに“修験落ち”がいる。武器を構えている。錫杖を横に薙ぎ払おうとしている。
気づくのが遅すぎた。回避するにしても、“修験落ち”は至近距離から攻撃しようとする。
交わしきれない。相手の武器のリーチから、逃れることができない。交わせない!
だが、一条がすでに展開していた小さな“異界”……仄かな黄金色の粉末が、その輝きが、紙一重のところで、一条の体を護ってくれた。錫杖が、確かに何かにぶつかった。ジャラン、と不吉な音色を出した。だが、一条にはまったくダメージがない。
これだ――!
わずかに窮地を脱した気分になって、一条はすばやく距離を置いた。異界を展開させ続けておけば、予知できない、すぐに対応できない“修験落ち”の奇襲攻撃を、防ぐことができる! これなら大丈夫だ。これは鎧。これなら、“修験落ち”の気配すら読めない攻撃を、防ぐことができる!
……あれは、飛行法か……
冷静になれば、理性は普段どおりに、何ら変わりなく動くことができた。
現在位置から目的位置へと移動する際に、修験者が使うことができる秘術。分かりやすくいえば、ワープだ。一直線に高速で移動することができる手段。以前、鴨川の川原で、向こう側から一気に接近してきたのを思い出して、一条はようやく“修験落ち”を冷静に敵として見ることができた。
いまや“修験落ち”は、無力な自分を一方的に追い詰めて、殺すだけの狩人ではなくなった。
あれは敵だ。一条はその敵を静かに見据えた。落ち着いて。
敵を理解しなければ、呑み込まれてしまい、敗北してしまう……
……“敵を理解しろ。それが、勝つための第一歩だ。”
一条は自分に言い聞かせるように、心の中でそう呟いた。軽い揺さぶりに、簡単に惑わされてはいけない。わずかな仕草や動作などに、集中するのはいい。だが、意識しすぎてはいけない。何をすべきかを、見失ってはいけない。
戸惑い、理解できず、恐怖して、自分自身を見失ってはいけない。
相手に簡単に殺されてしまわないためにも、何としてでも、絶対に、生き残り、生き延びるために、勝たないといけないのだ。
「なるほど、異界は使いこなせるのか」
その声を聞いたとき、一条守は息を止めた。凍りついた。
決して、敵に揺さぶりをかけられても動じないように、自分自身をしっかりと保てるように、落ち着いていたというのに。しっかりと自分自身に誓ったばかりだというのに……負けないと。勝って、生き残り、そして、生き延びると誓ったばかりなのに。
また、一条は予想外の展開に、自分自身が崩れかけるのに気づいた。
一条は、新たに不可解な情報を突きつけられて、混乱の渦に呑み込まれそうになった。
“修験落ち”が、しゃべった。
――いいや、しゃべること自体が不可解ではない。
――問題は、その声だ。
一条が“修験落ち”の声を、あの不気味でぞっとするような声を聞いたのは、あの夜だ。初めてムゲンの世界に訪れた、あの夜。恐怖心を掻き立てるように錫杖を鳴らし、怖ろしい大妖怪、鵺を従えて襲い掛かってきた、あの夜だ。
あの時の“修験落ち”は……しゃべっていた。「――なるほど、これぞ珍妙な。お主がやってみせたのか」って……不気味に甲高い声で。
そう、あれが“修験落ち”の声だった。とんでもない邪悪さを滲ませた、甲高い声。
人間性というものがひび割れていて、歪んでいるような、そんな、化け物じみた声。
なのに、どうして、いま自分の目の前にいる“修験落ち”は、普通の人間の声を出しているのか。あれは“修験落ち”の声じゃない。自分の知っている敵じゃない。自分の知らない敵、自分の知らない“修験落ち”が、いま、目の前にいる。
――……ぞっとした。
「誰だ!」思わず、一条は叫んだ。焦燥感と恐怖心が、とても滲んだ、震える声で。「誰だよ、おまえは! “修験落ち”じゃないのか?」
目の前にいる、ほんとうに謎めいた“修験落ち”は、何も応えなかった。応える代わりなのか、唐突に、さりげなく錫杖を振るった。ジャラン、という音が広さ狭さを感じさせない、この異世界に奇妙に幾重に木霊した途端……応えるように、ヒョー、という複数の鳴き声が、木霊すように聞こえてきた。
一条は聞きなれたその鳴き声に、ぞっとして狂ったように辺りを見渡した。鵺だ。
しかも、声が木霊しているから、単独なのか複数なのかすら、まったく分からない。気配すらまともに察知することができない。“修験落ち”のように、どこから攻撃してくるか、まったく予測することができない。
一条は慌てて、“太極”を使って、自分を包み込む黄金色の粉末を、さらに広範囲に拡大させた。結界の要領だ。これで、唐突に襲い掛かってきても、鵺は自分自身にダメージを与えることはできないだろうし、辛うじて防ぐことはできる。“修験落ち”はまだ視界に捉えることができているから……おそらく、大丈夫だ。
そう思った矢先、頭上から鵺が襲い掛かってきた。不覚だった。
いままですっかり忘れていたが、鵺の体はそれぞれ別の動物の肉体の一部を組み合わせて作られたようなものだ。両足は、まさしく虎の強靭な足だ。頭上からとんでもない圧迫感。思わず一条は膝をついた。鵺が体そのものを、隕石のように一条にぶつけてきたのだ。予想以上の重量で、一条は潰されかかった。
「ク、ソウ……ちっくしょう!」
一条は、思わず小声で悔しげにそう毒づき、何とか逃れようと、体を動かそうとしていたが、無理だった。“太極”を使って、身に纏うように結界を張ったのが、逆に仇になった。分かりやすく言えば、結界というものはその内側にいる人間と妖怪の行動範囲を制限するものだ。だから、防御のために結界を纏った一条は、結界ごと鵺に圧迫されていて、体を動かしても逃れることができなかった。鎧が一条を閉じ込める檻となっているのだ。
鎧の中で体を動かしているようなものだ。自分で自分を追い詰めてしまった。
「……となると、己自身の式神を、見つけることすらできていない、ということか……」
“修験落ち”は鵺に抑えつけられた一条を見やって、静かに呟いた。
その時、ジャラン、と音がした。一条はその音にはっと顔を上げた。すぐそこに“修験落ち”が迫ってきている。錫杖を構えていて、まっすぐに振り落とそうとしている。黄金色の粉末にひとつでも触れれば、錫杖は弾き返されたが、削られていることだけははっきりと分かった。しかも、錫杖自体が奇妙に仄かな色を帯び始めていて、二撃目で、一条は自分の鎧がさらに深く削られたのが分かった。
――クソ、ほんとうにまずいことになっちゃった!
何とかしてこの窮地を脱しないといけないが、鵺にほとんど体を抑えつけられている以上、まるで動くことができない。しかも“修験落ち”はそんな一条を嬲り殺すように、ゆっくりと追い詰めようとしている。鎧は削り取られていく。何とか“太極”の力で黄金色の光を強めて、分厚くしても、固めても、削り取られていく量はどんどん増えていく。
このままではただやられてしまうだけだ。急いでこの状況を打開するためにも、急いで行動しないといけないが……どうする。どうすればいい? 抑えつけている鵺は、“太極”の力を使って吹き飛ばすことはできるだろうが……“修験落ち”は飛行法を使って、瞬時に自分を追跡してくるだろう。すぐに間合いを詰めるだろう。追いつかれるだろう。
逃げ切れないだろう。だが、いまは間合いを取らなければならない。
――やるしかない。とにかく、鵺を吹き飛ばし、“修験落ち”から距離を取らないと。
一条と鵺と“修験落ち”を呑み込むように、“太極陣”が、光り輝く。
門より溢れ出す、黄金色の光の奔流。それを見て、“修験落ち”は何らかの危険を察知したのか、すぐさま跳躍して一気に一条と距離を取る。だが、鵺は一秒遅れて飛び上がり、回避しようとするが……
黄金色の閃光が、爆発した。
空中に飛び上がった直後の鵺は、爆風をもろに食らってしまい、ヒョーという悲しげな咆哮と共に吹き飛ばされて地面に叩き落された。“修験落ち”はすでに衝撃に備えた姿勢を取っていたから、爆風に吹き飛ばされることはなかったが、一条がその隙にすばやく跳躍して体勢を立て直すべく姿を消したのに、すぐさま対応することができなかった。
一条は逃走した。黒一色の世界。溶け込むように姿を消した。
“修験落ち”は黄金色の粉末が、儚げに舞い踊る黒一色の世界、錫杖をジャランと鳴らして立ち上がった。逃げたか。だが、すぐに追いつける。
鵺も立ち上がって、静かに、鳴き声を上げた。
――ヒョー、と。
逃走を開始した一条は、すぐさま自分が取った選択に後悔していた。
“修験落ち”から距離を取って、ただ飛行法で走り続けるなんて、するんじゃなかった。ここは黒一色の世界。何も見えない。何も分からない。何も知ることができない世界なのだ。
走り続けることは逃げ続けること。逃げ続けることは、背中を敵に見せ続けることだ。背中を敵に見せ続けることは、自分自身をまともに防御することなんてできない。だいたい、この黒一色の世界は、どうやらお互いがお互いの距離を開けば、お互いを視認することができなくなるようだ……一定の距離を開けた途端、一条の視界から“修験落ち”の姿は忽然と消え去った。
だが、“修験落ち”には飛行法がある。すぐに見つけ出してしまうかもしれない。
相手が襲い掛かる気配すら、もはやこの世界では読み取れない。いまの自分は、感覚がほとんど死んだような状態になっている。だから、直前になって、ようやく敵襲が分かるだけ。事前に備えて黄金色の神通力をまとって、鎧のようにすれば大丈夫だが……もうこの手段は捨てるべきだ。また、鵺に抑えつけられたら、自分を閉じ込める檻になるだけだ。
それに……“太極陣”を発動すれば、“修験落ち”は感知するかもしれない。黄金色の粉末が、逆にこの暗い世界では、自分の位置を教えてしまうかもしれない。だからこそ、神通力の輝きはもう出してはいけない。“太極”は、武器を取り出すためにしか使えない。
距離を取るだけとって、自分で罠に飛び込んだ気分だ――。一条はそう思って、“太極”からふたたび両手に武器を取り出して構え、そう思った。
距離を取るだけ取れば、相手から自分は見えなくなるだろうと、単純に、幼稚にそう考えていた。だが……デメリットのほうが、この異世界では大きく働いてしまう。何も見えない。何も聞こえない。何も感じ取れない。自分から、相手がどこにいるのかすら見えないのは、致命的に危険だ。
一条は“太極”を使って、ふたたび、二振りの刀剣を取り出す。
いつでも“修験落ち”が突然襲撃しても、すぐに対応できるように……一応の準備は整えた。だが、すでに体と精神はボロボロ。擦り切れている状態だ。もう、体に力が入らない。集中することができない。あまりにも疲れがひどすぎて、目の前がふらふらする。
……ああ、もう限界になっている。
どこにも希望はないと、残酷に告げるような、この黒一色の世界。何も見えない世界。何も分からない世界。そんな世界で、凶悪な“修験落ち”と対峙して、どれだけの時間が流れたのか分からない……とにかく、もう限界だった。
見えない重圧。それに、一条が押し潰されかけようとする時だった。
とてもひんやりとした手が、背後から一条の額にそっと添えられた。
目が閉じかけていた一条は、冷水を浴びた気分になって、ハッと目を開けた。思わず“修験落ち”が姿を現したのかと思って、ゾッとしたが……武器を構えてすばやく振り返り、目の前にいるのが、敵でも味方でもないことに気づき、一条は愕然とした。言葉が、でない。
……何故、この人がここにいる?
「落ち着いてください。原初の色に、呑み込まれてはいけませんよ」
一条の意識をはっきりさせるために、彼の額にそっと手を当て、敵でも味方でもないその人は、静かに淡々と言った。
そんな彼女を見やって、一条は呆然と疑問を口にした。
「……どうして、ここにいるのですか?」
一条はほんとうに、何が起きているのか分からずに呆然とした。
自分を呑み込んだこの世界。黒一色。狭いのか、広いのか。上下左右すら分からない、時間の経過すら感覚で測れない、異常な世界。絶えず一条を圧迫し重圧をかける、この世界。一条は、この世界が“修験落ち”が作り出したものと、そう考えていた。もしくは、“修験落ち”が偶然見つけて、支配している世界だと。
だが、それは違った。目の前にいるこの人が、その事実を証明している。
「いったい、どこなんですか、ここは……?」
一条の問いかけに、白い仮面をつけた女性は、千木が“世界で最初に死んだ神様”と呼ぶ、その人は、静かに答えた。
「原初の色、黒一色のこの世界は……万物の起源、“太極”の真の姿です」
――なんだと。
一条は愕然とした。ここが、“太極”だって? 世界の始まりの場所。そして、終わる場所。創造と消滅をつかさどる領域。“太極”の真の姿ということは、“太極”の最深部に自分はいることになる。奇妙なこの空間も、この人がここにいる理由も、“太極”ならば説明がつくだろう。
だが、唯一説明がつかないことがある……絶対に、理解できないことがある……
一条は“修験落ち”が潜むであろう黒一色の世界を見やった。いったいどういうことか。
……どうして、“覇者”クラスの人間と妖怪しか干渉できない筈のこの最深部に、
――“修験落ち”は存在しているのか?
十二、
「……どうして、“修験落ち”がここに……?」
一条は呆然として呟く。この異世界が“太極”ならば、奇妙な景観は理解できるだろう。広さも狭さも、上下左右、天地すら分からない、その異常性。“太極”というものは、形を取らないものだと、以前、そう言われていた。物理的に、固定した姿形を取らないと、千木が以前そう言っていた……だからこそ、黒一色の世界が“太極”だと言われても、難なく理解できる。
確かにここは“太極”だと、そう頷けるが……
白い仮面の女性は、ここにいても何ら不思議ではない。意外だとは思わない。理解できないことではない。
だが……絶対に理解できないのは、“修験落ち”が、“太極”内に存在していることだ。
――何故、奴がここにいる?
一条は混乱しているが、白い仮面の女性は静かに世界を見渡して、冷静に状況を把握しようとしている。
「今のところ、“修験落ち”は私たちを襲ってくるつもりがないようですね」しばらくして、仮面の女性は静かに言った。「あの者の行動には、あなたを殺そうとする一貫した意志行動がありませんでした……いったい、どういうことなのか」
一条は彼女を見上げた。敵なのか味方なのか分からない、奇妙な中立者。「……あなたは、全部、見ていたのですか?」
「あなた方が、とても速く動き回っていましたからね」苦笑いしているような、そんな雰囲気で、彼女は騙った。「闘いに無理に仲裁に入ろうとすれば、とんでもないことが、起きそうな気がしましたからね……あなたが何とか“修験落ち”と鵺から逃げたのを確認して、追いかけたのです」
一条は何とか自分を落ち着かせるために、深呼吸を繰り返した。「……俺が、“太極”にいると気づいたのですか? いったい、いつ……?」
「あなたの気配と同時に、今まで“太極”内で感知したことがない気配……それに気づいて、あなた方がいるところが、“太極”の真髄たるところだと気づき、慌てましたよ……ともかく、約三十分ほどですかね……あなたがいるのに気づき、ここまで辿り着けたのは」
一条は疲れて吐息した。
「ともかく、人間に対する“太極”の負担は大きすぎる……ここには膨大な情報量が満ち溢れています。純粋にすべてを表す“太極”に長く留まれば、あなたは壊れてしまう……一旦、ここは避難するべきですね」と、白い仮面の女性は静かに言った。「――私が造る、擬似世界へと」
……どういう意味だ、と一条が怪訝そうに顔を上げると同時に、白い仮面の女性は、一条の腕を取って、さあ立ち上がってくださいと呟くと、歩き始めた。
足が見えない地面に触れた瞬間、彼女の足元から、世界が変わり始めた。足元から、草原のような世界がゆっくりと、黒一色の世界に、染み込むように広がり始める。そこから、ゆっくりと別世界が姿を現し始めた。そして、どこか中国風めいた建物や、どこか和風めいた建物が、ぽつんぽつんと点在する景色。その近くを流れる小川。遠くに連なる白と青の山脈。見上げるほどに高い樹木が並び立つ森……。
「……ここは、どこですか?」
「わたしの世界。わたしの心象風景。心の中で、決して離れることがない、焼きついて、絶対に忘れられない、思い出のひとつです」仮面の女性は、少し寂しげな口調でそう説明した。
以前、千木は、この人が“世界で最初に死んだ神様”と言っていた……となると、ここは人間の世界ではなく、神様の世界にある景色ということになる。広大な世界。けれど、何もかもが自分自身を圧倒して、とてもちっぽけな存在だと思い知らせるような、そんな世界。神様が何人いるか分からないが……ここに住む神様ってのは、ほんとうに孤独なんじゃないだろうかと、一条はそう思った。
目の前にいる、この謎めいた神様のように。仮面をつけた女性のように。
「安全……なんですか?」と、一条は少し不安げに尋ねる。
「多少の安全は、もちろん確保しています。ここなら当分の間、“修験落ち”は攻撃してくることはできません」白い仮面の神様は、静かに説明する。「あなたにとっても、安全は確保されていますよ。“太極”から受ける影響と負担を、かなりの割合で減らせていますから」
……確かに、疲労感は奇妙なことに、ほんの少しだけ拭えている。一条は自分の体の状態が変化していることに気づき、無言で頷いた。「……“太極”から距離を置いている、っていうことですか?」
「あなたの感覚で言うなら、そういうことですね」白い仮面の女神が口を開く。「正確には幾層もの離れた次元に、私たちは移動したのです」
「さっき、言いましたよね、俺が壊れてしまうとか……」一条は尋ねる。「あれ、どういう意味ですか? 確かに、“太極”に長く留まることは危険だって、以前学びましたけど……それに、あれほどの圧迫感と疲労感、何なんですか?」
「一条殿、あなたがいたのは、まさしく“太極”の心臓。そこに、何千年にも長きに渡る知識や宝物、それらあらゆる情報が、貯蔵されているのです」白い仮面の女性は静かに説明した。「膨大な知識、膨大な宝物。それらが人間に及ぼす影響力は計り知れない。当然ですよね、一度に人間が受け取れる情報量には限りがある」
「情報のなかに、埋もれていたってことですか、俺は?」
「そういうことです。あなたは、自分がどうして修験道の秘術、飛行法を使えているのか、疑問には抱いていないようですね」
彼女の問いかけに、一条は息を止めた。修験道の秘術、飛行法……
頭のなかには、確かに、その事についての情報がある。修験者が習得できる秘術だ。高速で移動するための、特殊な手段……確かに、“修験落ち”が瞬時に移動して攻撃してくる時に、自分はどうして、それを飛行法だと見破ったのか。そして、何故“修験落ち”から逃げ去るために、それを、あたかも知り尽くしているように、使いこなすことができたのか。
奇妙な、感覚に囚われた。知っているはずなのに、知らない。知らないはずなのに、知っている。そんな、矛盾した感覚。自分自身のことなのに、訳が分からなくなる。奇妙な映像が次々に脳裏にフラッシュバックする。自分が知っている光景に混じって、自分が知らない光景までもが。
「――一条殿、」
白い仮面の女性は、沈黙の混乱に陥っている一条を、そっと呼んだ。
そして、――それと同時に呪をかける。名前は単純にしてしっかりと言霊を伝える。相手を呼び止めるだけではなく、導くだけではなく、相手を狂わせることや相手を惑わすこと……あらゆることが可能なのだ。
一条は、ぼんやりとして、だがかなり疲労した表情で白い仮面の女性を見つめた。
だいぶ、“太極”の悪影響を受けて、人間の肉体に負荷がかかりすぎている……無意識のうちに情報を受け取っていた彼の頭脳が、どうやら今になって情報を整理しようとしているようだ。知らないはずの情報を、知っているはずの情報として……。混乱しないわけがない。混乱してしまうに決まっている。だから、いま、一条殿はこんな状態になっているのだ。
「一条殿、目を閉じてください。しばし休息が必要です」一条の顔を覆うように両手を添えて、白い仮面の女神は静かに言った。「無理は禁物。いざという時に動けなければ、あなたが努力し続けた意味がなくなる……自分自身の行動で、自分自身を否定しないでください」
その言葉の影響なのかそれともすでに疲労していたのか、それとも中立者を貫くこの謎めいた女神が何かをしたのか……ともかく、一条はすぐに意識を失った。
そっと彼を横たえて、白い仮面の女性は世界を見上げた。
――ああ、ムゲンの世は、いったいどうなるのだろうかと、疑問に思いながら。
一条はゆっくりと目を覚まして、気だるげに体を起こした。
何故自分が寝ていたのか、まったく記憶にない。
近くに彼女が座っているのに気づいて、一条はぼんやりと世界を見渡した。
「……、」一条は彼女の心象世界を見渡して、彼女を見やる。「ずっと……あなたは、ここにいるんですか? ここで、待っているんですか?」
白仮面の女性は、静かに頷いた。「……ええ、そうです。ずっと、ここで……」
「……今回、何の目的で、俺を助けたんですか?」
やはり不気味であるこの中立者を貫く女神を見やり、一条は不安げに尋ねた。
千木が“世界で最初に死んだ神様”と正体を見破った、中立の女神。“太極”に留まる謎めいた神様。自らをムゲンの世を狂わせた元凶と表現する。千木と似たような存在感を放っていて……何をどこまで知っているのか、そして、これから何をしようとするのか。何から何まで分からない、読めない存在……
かつて、一条が“太極”を掌握する時、この謎の中立者は不気味なまでに手助けをした。
そして、今回も……一条を助けてくれた。命を救ってくれた。
わずかに警戒心で、一条は体を強張らせた。「――何が目的です?」
「なんの、目的といわれましても……」多少困惑気味に、仮面の女神は静かに言った。「私としては、警告、ですかね」
なんの警告だ、と一条は怪訝に思うと同時に無言で問いかけた。
「――“修験落ち”、奴はほんとうに、何者なのでしょうか」
誰に対して放たれたのか、それすら分からぬ、彼女の疑問。それを聞いた途端、ありえない相手からありえない疑問を聞かされて、一条はただひたすらに困惑した。
目の前にいるのは、間違いなく神のはずだ。なのに、何故、そんなことを疑問に思う?
一条は油断なく彼女を見やった。「…………いったい、どういう意味ですか?」
「言葉その通りの意味ですよ。私は、“修験落ち”がいかなる者か、知っているはずなのに。それなのに、あの者は、私の予想外の行動に出た。“太極”に干渉できるはずがないものと、私は間違いなく断言できるはずなのに……」困惑気味に、彼女は静かに呟いた。「……いったい、どうして奴は“太極”に存在しているのか? 干渉できるはずがないというのに」
「何かの……秘術、とかじゃ考えられませんか?」
一条の問いかけに、ありえませんと、彼女は首を振った。「それは不可能です。あなたのような特別な人間とは異なり、この世界では、ムゲンでは、神に選定された者にのみ、“太極”につながることができる。“修験落ち”に成り代わった四天王のひとりは、間違いなく、“太極”とのつながりを放棄したことになり……この世界に存在することができないのです」
「じゃあ……どうして……?」一条も混乱して疑問を呟いた。
「あなたも理解できないこととなると……」目なき目で、表情なき表情で、仮面の女神は一条をじっと見つめて呟いた。「あの“太虚の到達者”である天狗殿も、おそらく、この事は予想できていないのでしょう……何か気づけば、あの者は、あなたを探し出すことができるでしょうから……」
ああ、そうか。以前、千木が“太極”に呑み込まれかけた一条を助けるために、強引に“太極”に飛び込んできたことがある。ここが“太極”ならば、山姫は来られなくても、千木は一条を追跡して探し出せるのだ。あいつが助けに来てくれる可能性があるのだ。
だが……いま、千木が現れていないということは……千木がこの事態を予想していなかったことになる。一条が“太極”にいることに気づけない千木は、何が起こったのか分からず、あの鞍馬山の天狗の隠れ里で、ただ右往左往しているだけなのだろうか……
「そういえば、俺は?」
一条はふと、自分自身のことを思い出した。
ここが“太極”ならば、前回の時と、何ら状況は変わっていないはずだ。ここにいるのは、一条の魂――精神だけだ。つまり、肉体は鞍馬天狗の隠れ里に留まっていることになる。
「……何が起きているのか、私にすら理解できません」
白い仮面の女性は静かにそう答えた。その答えを聞いて、一条は愕然とした。何の神様なのかは分からないが、何千年も生きている以上、知識と知恵は誰よりも豊富に蓄えているはず。何らかの異常事態が発生したとしても、推測はできるはずではないのだろうか。
だが、彼女が応えられない、何かが起こっているとしたら……
一条はゾッとした。すべてを知り尽くしている、そんな雰囲気を放つ千木とこの中立者の女神ですら、この事態を予測することができなかった……となると、何かとんでもない問題が発生したことになる。なにか、イレギュラーな展開。
天国か地獄か、この先どちらに転ぶか分からない、とんでもない問題が。
おそらく、原因はあの“修験落ち”だろうが……神様ですら疑問を抱いてしまうような、怖ろしく不気味な存在。あれの正体を見破って何が目的なのかを知らなければ、何もできない。どうすることもできない。
「……いったい、何が起きているんですか?」
「まさしく、世界が変わろうとしているのでしょう。それしか分かりません」
一条の困惑した問いかけに、やはり困惑気味に、白い仮面の女性は応えた。
ただ、まさしく今この時、何か重要な出来事が起きようとしている。それだけが一条には分かった。戦争はまもなく始まる。この世界を変えようとする勢力、即ち自分たちと……この世界を滅ぼそうとする影の勢力……“修験落ち”、蘆屋道満、智徳法師。
両方の勢力の準備はほとんど整った。戦争はまもなく始まろうとしている。
そして、まさにそういう時に起きてしまった、奇妙なイレギュラーな事態。
何かが、大きく変わろうとしているのだ。ここから……
「――あなたは、」一条は静かに問いかけた。「“修験落ち”を、いったいどう捉えているのですか?」
白い仮面の女性は、即答しなかった。しばらく、幾つかの情報を整理するかのように、静かに沈黙している。
やがて、口を開いた。「……この世界が、まるで川のように、時を流していくのなら……。この世界に存在することができるあの“修験落ち”こそが、その流れを、大きく変えてしまう、何らかの重要な役割を持っているのでしょう。それしか、私には分かりません」
中立の女神と、自分の予想が、ほぼ一致……証拠がないにも関わらず、何故か、確信を抱いてしまう。
ならば、やるべき事はただひとつ。あの“修験落ち”が何らかの目的をもって、“太極”内部に一条を引きずり込んだのだろう。ならば、自分が全力でぶつかっていくだけの、理由は得られた。何か重要な情報を持っているのなら、何としてでも手に入れる。絶対に、手に入れる。
ムゲンの世界を、変えるためにも。
今度こそ、揺るがない。一条がそう決心したその時、白い仮面の女性が、ハッとしたように顔を上げて、ある一点を無表情に見つめた。
その様子に気づいて、一条も怪訝そうに、つられてその方向に目を向ける。
そして、ギョッとした。
空間に亀裂が入っていたのだ。それはゆっくりと、確かに黒く大きくひび割れていく……一条は愕然として戦慄した。亀裂を大きく広げていくのは、強引に突っ込まれた、白い布でコーティングされた両手……それが、力を込めて、空間の亀裂を広げていく。徐々に大きく見え始める、その向こう側の暗闇――純粋無垢の、ありのままの姿の“太極”が、すぐそこに見える。
敵の正体は、もう分かりきっている。――“修験落ち”だ。
「何て奴だよ……」何とか自分を落ち着かせて、一条は呆れて呟いた。
「なんという執念深さ。もはや呆れてものが言えませんね」白い仮面の女性も、同感だと言いたげにそう呟いた。「一条殿、今度ばかりは覚悟を決めてもらいますよ。私が、“境界線”を敷いて造り上げたこの心象世界は、まもなく“太極”そのものの膨大な情報量に、塗り潰されてしまいます。“修験落ち”得意の縄張りに引きずり戻されるわけです」
「覚悟なんて、固めませんよ。でも、やる気は充分にあります」
一条は“太極を発動させて、静かにそう言った。その手に握られるのは、中国古来の、伝説の名剣……干将と莫邪。血塗られた伝説を持つ名剣であると同時に、大国と覇者の象徴。滅亡の必然性を強調する、祝福と呪いの陰陽剣。
「――今度こそ、勝つ」
「その志、まさしく上々」満足げに中立者の女神は言った。「あまりにも体の状態がひどくなった場合、私のほうで何らかの手を打ちましょう……それでは、頑張ってくださいね。ムゲンの世を、変えるためにも……」
心象世界と“太極”をつなぐ穴が大きくなると、次第に、“修験落ち”の全身が見えてくる。三つのそれぞれ色彩が異なる不気味な眼を描いた顔面が、不気味な白い姿が、ゆらりと姿を現す。そして、見つけた、と言いたげに一条をまっすぐに捉えると、一歩踏み出そうとする。
すでに、心象世界は“太極”の黒い色に侵され始めている。時間はもうあまりない。“修験落ち”の得意の狩場に完全に塗り潰されないうちに、何としてでも一条は速攻で“修験落ち”に勝つ必要があった。
だからこそ、すばやく特攻を仕掛けた。
足の裏側に力を込めて、いまだかつて上げたことのない、自分を鼓舞するための叫び声を上げて、一条守は飛行法を使って、一気に“修験落ち”の眼前に高速で移動した。
両腕を振り上げて、一条はすばやく神通力を込めた一撃を、“修験落ち”に叩き込んだ。
一条たちがいる時間と空間から離れた場所……
即ち平安京内裏。
宮中に潜入している智徳法師が、安倍家の陰陽師たちを、その命を狙おうとしていることに気づいた賀茂保憲は、陰陽頭として、安倍家の者たちを安全な場所に隔離することにした。その場所に選ばれたのは、陰陽寮の敷地内に建設されている書庫……建物そのものを用いて、賀茂保憲は防御の鉄壁を築き上げた。
賀茂保憲を始めとする実力派の陰陽師たちを付近に配しているため、智徳法師が何らかの式神を放っても、もし検非違使の誰かの意識を操って、強行突破を試みても、それをすばやく阻止できる利点がある。
だが……それはあくまでも、智徳法師の対策として、陰陽寮が取った処置である。
安倍家の命を狙わない者たちにとって、その防御は無意味である。
だからこそ。
比叡山本願寺に隠れ住む女賢者『白拍子』は、自分自身が誇る式神使いとしての能力を用いて、排気孔から書庫の内部に侵入することに成功したのである。
白い紙がゆっくりと劇的に変化していき、『白拍子』の姿を形作る。
「……天狗の、千木殿か」
安倍家の陰陽師たちの容体を見やって、『白拍子』はすばやく判断して静かに呟く。
三名の陰陽師の体に、馴染み深い千木の妖気が込められて、循環している。これが原因で彼らは昏睡しているようだ。
「となると……やはり智徳法師側が動いたとなるか」
思考が回転する。おそらく、『日陰の一日』の危険因子である安倍家の陰陽師を、智徳法師は排除すべき対象と考えたのだろう。そのために、検非違使を動かして、安倍家の陰陽師たちの捕縛を狙った……だが、千木の妖気で、陰陽師たちが昏睡させられるのを見るところ、千木が込めた思惑は簡単に理解できた。
「私の仕事は……彼らを目覚めさせて、誘導させることですね」
――世界を変える役者たちの、それぞれの役目を果たす立ち位置に。
十三、
「御上は、なんら変わりないご様子ですね」
「付近には誰もいないな……智徳法師の気配も感じられない」
なにやら『白拍子』が謎めいた行動を開始しようとするまさにその時、賀茂光栄と賀茂保憲は、宮中に潜入している智徳法師の捜索に専念していた。目を閉ざし、各所に放って走らせている管狐に思念を集中させている。
目を閉ざしても、視界は次々に切り替わる。
縁側で談笑する貴族たち、警備に専念する衛士たち、部屋にこもる女性たち。誰にも気づかれないように、誰にも見られないように、管狐たちはするりと移動する。壁を登り、柱を滑り、屋根を流れる。
「……すべての部屋を、虱潰しに探したつもりでしたがね」
賀茂光栄は、怪訝そうな表情で目を開き、父、保憲に視線を向ける。
管狐はそれぞれ八匹ずつ放っている。それぞれの式神は御上の部屋を中心に、すべての部屋を捜索しているのだが……智徳法師らしき人物の姿が、まだ、見つからないのだ。御上は普段とお変わりなく過ごされているご様子……
念のため御上のお部屋に一匹だけ残し、残りの管狐をすべて周辺の部屋を捜索させるために思念を送り、管狐は命令どおりに捜索に取り掛かった。広範囲に、見落とす箇所なく、管狐はすべての部屋の情報を主の賀茂保憲および光栄に送り届けた。
閉ざした目に映る景色は、次々に切り替わる。かなりの時間が経った。
だが、見つからない。人がいる場所はすべて、確認したというのに……
どこに、隠れた?
人がいる場所および人が隠れそうな場所は、すべて確認し終えたというのに。どういう訳か、この宮中に潜んでいるはずの智徳法師の気配はどこにも見当たらない。いったいどういうことなのか。智徳法師がここで何らかの悪事を働く場合……御上近辺に潜んでいるはず。
逃げたのか、と考えた次の瞬間、否、と賀茂保憲は判断する。
逃げるはずがない。奴は、ここに潜んでいるはずだ。
「光栄」と、陰陽頭は息子を呼んだ。「もう一度、承名門から北上する形で捜索するぞ」
内裏は二つの築地と呼ばれる壁で囲われている。承名門は、南に位置する門であり、校書殿を始めとする複数の殿舎と呼ばれる建築物がその近く建ち並んでいる。
賀茂保憲がふたたび念入りに捜索しようと考えたのは、まず校書殿だった。
ここは文書の管理が行われる「文殿」と呼ばれる領域であると同時に、調度品などを納め置く場所でもあり、「納殿」と呼ばれる場所でもあった。
智徳法師が何らかの悪事を行う場合、必要な道具をそちらに仕舞い込んでいるのではないかと、賀茂保憲は疑っていたのだ。何らかの術が施されていて、そこに隠れている智徳法師を見過ごした可能性がある……だからこそ、もう一度、一から調べなおすことにしたのだ。
もう一度内裏に放った管狐たちに思念を送り、命令を実行させようとした瞬間だった。
何かが、見えた。
――にやりと笑った、誰かの口元が、見えた気がした……
ぞっとして、賀茂保憲はハッと目を見開いた。自分は恐怖しているのか。うっすらと、冷や汗が肌に滲んでいる……
なんだ、いまの、目に見えたものは……?
怪訝そうに思いながらも、ふたたび賀茂保憲は管狐と思念をつなげる。その途中で、賀茂保憲は気づいた。先ほどのあれは、御上の御部屋に留めておいた、管狐の目に映ったものか?
まさか、――智徳法師か?
御上の身に、何かの危険が迫っているかも知れぬ――そう考えた賀茂保憲は、慌てて、御上の御部屋に置いた管狐と急いで思念をつなげる。まぶたを閉ざした目に、鮮明に浮かび上がる少し薄暗い一室。御上は御簾の向こう側にいるはずだ。人影は、しっかりとある。周辺には誰もいないようだな、と賀茂保憲が判断すると同時に、御簾が、静かに動いた。
御簾の向こう側にいる人影が、御簾を上げて、ゆっくりと人影を現したのだ。誰が動いているのか理解した賀茂保憲は、思わず体を固くした。
円融天皇……?
突然の奇妙な行動に、賀茂保憲は戸惑った。まさか、自分が放った管狐の気配に気づいたというのか? いや……それはあり得ない。円融天皇には、御上には見鬼の才はない……だからこそ、たとえ奇妙な気配があったとしても、それが式神だと分かるはずがない。
だからこそ、そう考えた賀茂保憲は次の瞬間、驚愕と恐怖に凍りついた。
円融天皇は管狐がいる場所の目の前まで、一直線に歩いてきた。賀茂保憲は顔を強張らせた。円融天皇が手を伸ばして管狐をすばやく掴むと同時に、もう片方の手に握っている短刀を、陰陽頭の眼前にはっきりと晒したからだ。
――バカな……御上が、見えている、だと……?
愕然とした賀茂保憲は対応が遅れてしまった。
「賀茂保憲ぃ……覗き見とは趣味が悪いぞぉ……」
円融天皇の口から零れる、低い声。聞き慣れた声とはまったく違う。何らかの違和感ははっきりと声に滲んでいるが、賀茂保憲の思考は、ものの見事に智徳法師によって縛り付けられた。
もはや賀茂保憲は、思考が停止している状態だった。
「バカな……」
思わず、そう賀茂保憲がそう呟く……
次の瞬間、円融天皇は管狐に短刀を突き刺した。
その管狐と思念でつながっていた賀茂保憲は、眉間に走った激痛に小さく悲鳴を上げる。
視界が一気に暗くなる。
「ククク……見事、うまくいったな」
御簾に寄りかかりながら、円融天皇と智徳法師は静かに言った。ふたりはまったく同じ体勢と同じ表情だった。動きも仕草も同一。まるで鏡面に映る、たった一人の姿のように……円融天皇と智徳法師は、同じタイミング、同じ仕草、同じ口調で、ぴったりとそう言ったのである。
「策、ここに為る」智徳法師はにやりと笑って嘯く。
声は円融天皇と重なっている。
「――賀茂保憲、見事、策に呑み込まれたな」
嬉しげな狂気に満ちた笑みで、円融天皇もまた静かに嘯いた。
狂気に滲んだ声と顔で。
その首筋には……わずかに蜘蛛の糸が、細く垂れていた……。
「父上!」
賀茂光栄は焦り、何度目かの呼び声で父親を揺さぶった。
いったい、何が起きた?
父が放った管狐は光栄とはつながっていないから、父、賀茂保憲がいったい何を見たのか、そして何が起きたのか……光栄はまったく分からなかった。意識を失っている父の状態から察するに、おそらく、思念をつなげていた管狐が消されたのだろう。
思念をつなげるということは、感覚の共有。
管狐が見ている視界だけを共有するのではなく、管狐の痛覚も共有する。
「父上、起きてください!」
このまま父上が目を覚まさなかったら……最悪の可能性を考えて、賀茂光栄はゾッとした。これが、もしや智徳法師の狙いではなかろうか? 父はすでに、安倍家の陰陽師を法師の手から護るために、書庫に結界を敷いた。だが、父が死亡すればその結界は無力化される。陰陽寮に動揺は広がり、統率は乱れる。その隙に智徳法師は安倍家の陰陽師を殺害して、自らの本懐を成し遂げるつもりでは……
あ奴の狙いは、まさにこれか。
してやられた、と思わずそう内心で呟いた時だった。
賀茂保憲がわずかに体を動かした。かすかな呻き声を上げて、息を吸い込み、小さく吐く。
無事だったが……安堵の息を吐き、賀茂光栄は父親の体をそっと起こした。「父上、大丈夫ですか?」
しばらく、賀茂保憲は息子の問いかけに応えなかった。いいや、応えられなかった。
意識は確かに失っていたが、何回か瞬きしても、あの光景だけは決して離れない。鮮明に浮かび上がる。
思考が凍り付いて、まるで理解することができない。
「何が……起きている……」かすれた声で、賀茂保憲が呟く。
「父上?」
賀茂光栄が父親に訝しげに目を向ける。だが、父親は怪訝そうな口調で、呆然と呟くだけ。
「……何が、起きる……この京で……?」
こうして……賀茂保憲は、呑み込まれてしまった。
智徳法師の思惑に、その策に。
……世界は、暗くなる。
この先に何が起こるか、それすら分からなくさせるため、世界は暗くなる。
体が、重い……。
汗が服に滲み、少しだけ動きにくくなっている。世界はもはや黒く塗り潰されていた。心象世界は“太極”の原初の姿に呑み込まれた。ふたたび戻ってくる疲労感と圧迫感。二度目だからこそ、体は耐え切れるだろうと考えていたが、甘かった。
体が認識しようとしなかった疲れが、重く肉体に負担をかけてくる。
干将と莫耶。しっかりと両手には握っているものの、ただ構えるだけで精一杯だった。両方の刀剣はかすかに刃こぼれしている。ほのかな神通力の輝きが、“太極”から零れて、一条の体を包み込んでいる。
“修験落ち”は、鵺と共に、攻撃することなく、ただ一条の目の前に立って、じいっと彼を見つめて対峙するだけだ。
もはや攻撃意志はない。
一条は今後敵がどう動くのか分からずに、ただ、武器を構えているだけ。
“修験落ち”と鵺は、何を考えているのかまったく分からない様子で、ただ、直立不動の姿勢を維持している。さっきからずっと動いていない。
そんな彼らを交互に見やり、白い仮面の女神は、怪訝そうに首を傾げる。
これから、……何が、起こる?
“修験落ち”はいったい何者なのか。そして、何を目的として動いているのか。現状を見る限り、一条殿を殺害することがあの者の狙いではないようだが……一条殿を“太極”に引きずりこんで、いったい何をしようというのか……
殺す、という目的でなければ、一条殿の体を乗っ取ることが狙いだろうか。
確かに、“太虚の覇者”もしくは“太虚の到達者”が“太極”に干渉する場合、精神と肉体は切り離される。切り離された精神を食い尽くせば、他者の肉体を乗っ取ることなど可能だろう……何しろ、陰陽道などにおいて、そのような原理を用いた術は、確かに存在するのだから。
だが、もしそれが目的ならば、“修験落ち”が長期戦をする必要も意義もない。
……一条殿と長期戦を行うことで、“修験落ち”が何の利益を得ることができるのだ?
幾度も壁にぶつかる思考に頭を悩ましていたその時だった。
――不意に、ばさり、と小さな音がしたような気がした。
中立の女神は顔を上げた。
黒一色の世界に、何か黒いものが舞い降りようとしている。
ひらり、ひらりと……
――なんだ、あれは?
白い仮面の女性は怪訝そうに視線を周辺に向ける。聞き覚えのある小さな音。そして、何か懐かしいと、そう感じてしまうような何か。
しばらく、それが何であるか分からなかった。
だが……まさか、という思いと共に、疑問の答えを理解する。
そして、やはり困惑したまま白い仮面の女性は、怪奇不敵に佇む“修験落ち”を、表情のない仮面の顔で、怪訝そうに見やる。
……おまえは何者だ、と問いかけるように。
何が目的だと、そう尋ねたそうに。
遠く近く、離れているのかすら分からない距離。
場所を移して鞍馬山。天狗たちの隠れ里……“樹海の祠”で、山姫は閉じた目を開こうとしていた。
山姫の夕衣は、重たげにまぶたを開ける。
……意識がまだはっきりとしない。冴えない……
いま自分がどういう状態にあるのか、そして、自分が目を開ける以前の記憶……いったい何が起きたのか、そういうことすら、山姫はいま理解できていない状態だった。
意識と世界が混濁している……判別がつかない。
自分は、どうやらうつ伏せに寝ていたようだ……土の感触が冷たい。
頭痛のひどい頭に手をやる。何か濡れたような感触が指先にある。
手を見やると、指先が赤い。血だ。出血しているみたいだ。
次に、音が聞こえてきた。
まるで嵐のような轟音と、ふたり分の怒鳴り声。
ゆっくりと頭を上げる。のろのろと、瞬きをする。
世界が、見えてきた。
光と音が激しい世界。“樹海の祠”に、光と音の嵐が訪れているようだ。金色の粉末が大量に大気を舞うと同時に、轟音が世界を揺るがす。周辺の樹木は激しく揺れ動き、木の葉がヒラヒラと舞い落ちてくる。
金色の粉末のなかに、黒い毒気のようなものが、あった。
黒い、筋。それが噴き出しているのだ。世界へと。まるで世界を穢そうとするように、広がろうとしている。金色の粉末と絡み合いながら、世界に広がっていく。
……あれは、なんだ?
「天魔外道皆仏性、四魔三障成道来! 魔界仏界同如理、一相平等無差別!」
……千木?
見慣れた同胞の姿が、後ろ向きに見えた。何かを叫んでいるようだ。聞き覚えのある……呪文だ。ああ、あれは確か、悪魔と外道を退ける類の呪術だ。
だが……千木は、いったい、誰にその呪文をかけている?
その時、別の叫び声が聞こえた。
「すべてすべよ、金剛童子! 膝ひっしとすべよ、童子。搦めよ童子。不動明王の正末の本誓願を以ってし、この悪魔を搦めとれとの大誓願なり!」
鞍馬の大天狗……僧正坊、鬼一法眼が、不動明王の不動金縛り法を詠唱している。
「搦めとりたまわずんば、不動明王の御不覚、これに過ぎず、タラータ・カーンマーン・ビシビシバク・ソワカ」
完全詠唱のつもりか。山姫はゆっくりと立ち上がりながらその光景を見守った。
修験道の本尊は不動明王であり、不動金縛り法は、神をも呪縛する強力な調伏法である。
かつて修験道の開祖・役小角は、この呪術を用いて一言主神を呪縛したという。
……だが、そんなに強力な呪縛を、いったい誰にかけている?
頭痛がひどく、記憶がはっきりしない。何が起きたのか、何が起きているのか。まったく分からない……
千木が簡易の不動修法を詠唱している。
「緩くともよもやゆるさず縛り縄、不動の心あるに限らん、オン・アビラウンケン!」
次の瞬間、強力な妖気と呪力が、不動の結界を構成した。
格子状の光の筋が重なり合い、箱を創り上げる。ぶわりと金色と黒い煙があたりに吹き荒ぶ。ドーマンと呼ばれる格子状の呪力のある呪縛の檻が、何を閉じ込めて、何を抑え込もうとしているのか、その正体をはっきりと露にした。
地面にうつ伏せに倒れている、一条守の姿だ。
「一条!」
山姫は悲鳴のような叫び声を上げた。
頭のなかがすべて鮮明に冴え渡った。何から何まではっきりする。
そうだ、思い出した。
一条だ。突然、鞍馬大天狗との鍛錬の途中に、叫び声を上げて空中から地面に落下。“太極”が暴発したのだ。尋常ならざる、莫大な神通力が周辺に爆発して、それに刺激を受けたのか、地脈までもが暴走し始めたのだ。
山姫、天狗の千木、そして鞍馬の大天狗は慌てて一条の許へ駆け寄ろうとした。
何とかして一条の容態を安定させて、“太極”を鎮静させて、地脈の暴走をこれ以上悪化させないために、何とかするためにも、三人の大妖は動こうとした。だが、山姫はその直後の記憶がない。おそらく……いまの状態を見て察するに、神通力と何か「黒い力」が暴発し、山姫はその衝撃を食らって意識を失ったのだろう……
「千木! これはどういうことだ!」
慌てて同胞に駆け寄りながら、山姫の夕衣は声を荒げた。
声に怒りが滲んでいる。
一条が、いま危険な状態にあることははっきり分かる。修験道の呪術形式は、主に不動明王の真言を基礎として成立している。
ふたりの鞍馬天狗は、神をも呪縛する不動金縛りの調伏法を唱えていた。
“太虚の覇者”の一条守は、確かに神に勝るとも劣らぬ力を持っているといえよう。
だが、神を呪縛する強力な呪術を、神通力と妖気と地脈の霊気を掛け合わせて、人間の肉体にかけていいものか!
一条は神ではない。“太虚の覇者”といえども、人間。
強力すぎる呪縛は、一条の肉体を苛烈に圧迫してしまい、簡単に押し潰してしまう!
「今すぐやめろ! 一条を殺す気か!」
「一条は“覇者”だ! 神の呪縛には耐え切れる。この力を何とか抑え込むためには、これしか方法がないぞ!」
あまりにも轟音がひどいため、天狗の千木も怒声で返事をする。
「他に方法があるだろうが! それとも貴様、このまま摩利支天鞭法で一条を調伏させるつもりだったのか?」
又の名を神鞭法と呼ばれる摩利支天鞭法は、魔性降伏の九字法のなかで、もっとも強力な呪術だ。怨敵を即座に滅する強烈な呪いであり、妖怪退治だけに用途が限定された呪術ではなく、これは人間にも応用することができるのだ。
意識を奪って殺し、人形のように従えることもできる。
思うが侭に操るだけじゃない。殺すことだってできる。
「違う」声を落ち着かせた千木は、静かにそう言った。「摩利支天鞭法は使わない」
なに、と山姫は立ち止まる。轟音のせいであまり音は聞こえないが、千木のいまの言葉だけは、奇妙に響いてきた。
使うのは、――
「高天原に神とどまります神のまなこのこの飯縄ききとめて、祓え給え、清めたもう」
天狗の千木と鞍馬の僧正坊は、唐突に、祓えの詞を唱えた。
山姫はその詞を知っていた。飯縄権現の呪法……飯縄法と呼ばれる修験道の秘術だ。
修験者たちは飯縄大明神を祈念することにより、明神が変幻自在に姿形を変え、様々な呪術を使うことができるという。護符を作り、式神を使役し、さらには人を救うと同時に、魔性を退ける加護と力をも与える。
ちなみに、千木が一条に与えた黒瑪瑙の“呪い封じの勾玉”も、飯縄法の原理を応用して作られた護符である。
千木は、“呪い封じ”の力を強めるために、ふたたび、飯縄法を使うことにしたのだ。
「高天原に神とどまります神のまなこのこの飯縄ききとめて、祓え給え、清めたもう……神の加護により平安の時授けたまえ……オン・アビラウンケン」
その間に、鞍馬の僧正坊は、呪詛返しの秘法を詠唱していた。
「アビラウンケン・バンウンタララキリリアク」
何者からか呪詛を仕掛けられたと、鞍馬の大天狗はそう考えていたのだ。
だが、反応がない。つまり、これは呪詛ではないということだ。
「……何があるのか分からないのなら、憑依祈祷で慎重に動くべきではないのか?」
山姫はわずかに不安を感じて進言した。
憑依祈祷とは、世間にかなり周知されている手段だ。呪詛や悪霊などに苦しんでいる人間を救う際、その正体がはっきりしない場合は、霊媒師にその呪詛や悪霊を憑依させる。修験者たちが慎重を期して調伏を図るための適切にして安全な処置である。
「いいや、憑依祈祷は無駄だ。これは、俺たちではどうしようもない」
山姫の進言を、天狗の千木は静かに首を振って否定した。
もう分かりきっていることだ。一条は“太極”を暴発させた。すでに“呪い封じ”の黒瑪瑙の勾玉を所持して、さらに“太虚の覇者”として覚醒している以上、一条は何らかのケアレスミスで“太極”を暴発させることはない。
考えられる可能性は、唯ひとつ――第三者の介入。
だが、いったい誰が?
“太極”に干渉できるのは“覇者”と“到達者”だけだ。現在、“太虚の覇者”は一条守。“太虚の到達者”は自分と賢者『白拍子』だけだ……今のところ。
だが……“覇者”もしくは“到達者”であるか不明だが、“太極”に自身を干渉できる人物が、いま、この世にはふたりだけいる。
天狗の千木は嫌な予感を覚えた。
ひとり目は、一条と“太極”内部で出会いを果たした、『世界で最初に死んだ神様』。
そしてもうひとりが……
――“修験落ち”だ。
……奴が、何らかの形で関与していることが考えられるが……
“修験落ち”がもし何らかの形で関与している場合、一条は間違いなく“太極”に引きずり込まれたことになる。
だが、一条がいる“太極”は、“修験落ち”が造った心象世界に変わっているかもしれない。
心象世界は、“覇者”と“到達者”のみが造りだせる領域。
結界でもあり、異界でもある。
当然のことながら、“修験落ち”が第三者の介入を望まないのならば、扉は閉ざされて、心象世界に入ることはできない。
千木は“太極”にいる一条を助けに行くことができない……
「もはやどうすることもできんぞ、千木」
不意に、鞍馬大天狗の僧正坊が言った。
天狗の千木と山姫の夕衣は、静かに振り返った。そんなふたりを見て、僧正坊は、かつて目の前に起きた光景が、いまふたたび起ころうとしているのを確信して、重い口調で語った。
「千木……あの時、貴様の記憶は飛んでいたから、もう覚えてはいないだろうが……」
鞍馬の大天狗は、一条は見やって、静かに断言した。
「――一条殿が戻ってこられぬその場合、このままでは『堕ちる』ぞ……」
――その言葉に、山姫は心臓が凍りついた。
沈黙と暗黒。
まず動いたのは、一条守だった。
神通力の黄金色の輝きが、少しだけふわりと動く。次の瞬間、飛行法を用いて“修験落ち”の目の前に高速で移動した一条は、両腕を前方に大きく開くように振った。
鈍い鉄が、線を描く。
すでにその攻撃を見切っていた“修験落ち”は、瞬間移動ですばやく一条の背後に回る。
そして、錫杖を振り落とす。
その錫杖には、“修験落ち”の力が込められている。うっすらと漂う、蒸気のように、半透明な力。それが錫杖全体を包み込んでいる。
――一条は、もはや交わすことができなかった。
疲労は限界に達している。足の筋肉はもう強張っている。精神が動けと叫んでも、肉体はすでに気絶していた。
もう、ダメだった。
原初の“太極”は、一条を圧迫しすぎた。膨大な知識は、自分がフィルターを掛けているつもりでも、容赦なく押し寄せてくる。意識的に制御しているつもりでも、力は溢れ出しすぎてしまう。
頭痛がひどい。破裂しそうだった。
体の内側を駆け巡る神通力が、あまりにも激しすぎる。何から何まで押し流すようであり、自分自身を呑み込み、溺れさせようとしている。
もう、力が抜けた。理性が死に絶えようとしている。
いままさに、自分が堕ちようとしているのを、一条は悟り感じ取っていた。
莫大な力が、自分を押しやろうとしているのが、なんとなく分かった。
“境界線”の向こう側へと。自分を、鬼へと変わり果てさせようとしている。
……力を、制御できていなかったからだ。
“太極”を掌握しても、あの黒瑪瑙の勾玉があるから、力の暴走はかなり抑えられていた。
あの“呪い封じの勾玉”は、自分自身が発生させる力を、知識を、確かに外側に零さなかった。きちんと、その役割を果たしていた。
だが、“太極”の深遠にいる一条は、押し寄せてくる力と知識に、なす術も持たなかった。
“太極”は、自分を圧迫している。知識と力を絶えず押し込んでくる。
周りにまったく害を与えないように、及ばせないように、対策はきちんと立てていた。
だが、条件がひっくり返った。自分が持つ力が、自分に悪影響を与えないようにしなければならないのに、一条はどうすればいいのか分からない。
ひとりだ。ひとりで、問題を解決できるわけがない……
千木……おまえなら、この状況をどうやって打破すればいいのとか、色んなことが分かるんだろうな……
藍染さんは……こんな時、どうするんだろうな。そういえば、あの人と話すことなんて少なかったから……どういう人だったっけ……?
山姫……さっさとケリをつけろとか、言いそうだよな……夕衣は。どこまでも自分に正直で、自分らしくて……こういう時でも、決して諦めないよな。山姫の夕衣って、そういう妖怪だ。
あれ……? そういう、妖怪だったっけ……?
いまや一条は、膨大な歴史と知識に、自我の記憶を塗り潰されようとしていた。
見慣れたはずの景色、見たこともない景色。それが複雑に交錯し、フラッシュする。
自分の名前。自分が今まで過ごしてきた時間。自分が見続けてきた光景。
そして、自分が目指そうとしていた場所……
何から何まで、一条の内側から消えようとしていた。
“太虚の覇者”とは、分かりやすくいえば器である。
“太極”の力を使うということは、器に中身を満たすということ。
しかし……“太虚の覇者”という名の器は、完全に空っぽの状態ではない。
そこには、中身がある。“覇者”の記憶と自我と感情があるのだ。
いま……“太極”の真っ只中にいる一条守は、津波のように押し寄せる、膨大な力と知識によって、自分自身を見失いかけているのである。
その記憶は、膨大な情報によって、塗り潰されようとしていた。
その自我は、膨大な情報によって、奈落に埋もれようとしていた。
その感情は、膨大な情報によって、押し潰されようとしていた。
塗り潰される。埋め尽くされる。押し潰される。
何もかも見えなくなる。分からなくなる。世界がぼんやりとしてくる。
いま、まさに一条は消えかけようとしているのだ。
「ここ、は……どこ?」
消えかけている一条の意識は、呆然と口を開いた。
どこ? 何? 自分は……誰?
――ジャラン、ジャララン……
目の前に、人影が舞い降りる。音もなく。
白い、姿。
三つの目が描かれた、仮面のようなものをつけた顔が見える……
もはや、一条は“修験落ち”を認識できていなかった。
――もはや限界か。
白い仮面の女性は、ぎりぎりの最後の瞬間を悟って、行動を起こすべきだと判断した。
もはや一条守は圧倒的な“太極”に抗えるほどの、自我を保てるほどの力がない。
一条守は見事に“太極”の力に呑み込まれてしまった。少年の身にして“覇者”に選ばれ、そして原初の色、黒で塗り潰された世界のなかで、半時間闘えるだけですでに奇跡の域に達しているのだ。
やはり、あの者も限界がある。
それは仮面の女性にとって、まだあの者が人間離れしていないことを証明する、喜びとなる。
そして、この事実は白い仮面の女性にとって、敵対する謎めいた“修験落ち”が、完全に人間から離れすぎてしまった存在であることを証明する、不安と戸惑いを生み出す。
依然、“修験落ち”は疲労した様子を微塵にも見せない。
一条の許へと、白い仮面の女性は、まるで踊るような仕草で数歩ずつ、近づいていく。
一条に急接近する“修験落ち”。止めを刺すつもりか、もしくは自らの下僕として従えるつもりなのか。
白い光が、仮面の女性の片手に集まる。指先に集約した力を、彼女は揺らした。
細い白い光が、まるで波打つように揺れて、一条と“修験落ち”の間合いに滑り込んだ。そのまま光の糸を操作して、仮面の女性は“修験落ち”の動きを封じようとする。
だが、その刹那。
声が、響いてきた。
「かけまくも、かしこき、道敷大神……」
思わず白い仮面の女性は、ゾッと、恐怖を覚えてしまった。
意識がぶれて、白い光の細い糸が消失する。白い仮面の女性は、足を止めた。彼女は、“修験落ち”との距離を保って、いま、声を上げた“修験落ち”を見やる。
ちしきのおおかみ。奴はそう発音したのか?
何故、祝詞……何故、奴は知っているのか。私の仮の名のひとつを。
白い仮面の女性は、悠然と、そして不敵に佇む“修験落ち”を凝視した。それぞれ虹彩の異なる三つの目は、しっかりと仮面の女神を凝視している。
「否、私は道敷大神に在らず」
“修験落ち”は、錫杖をジャラン、と鳴らしながら、不気味に言霊を紡ぐ。
無駄だとは分かっていても、それが空しい言い訳に過ぎないと理解していても、ほとんど無意識のうちに、白い仮面の女性は反論した。
それを無視して、“修験落ち”はふたたび言霊を響かせた。
「諸々の禍事、罪、穢れを在らんと産み出す、荒御霊よ」
嘲笑の意図を込めてのその台詞か、と仮面の女神は静かな怒りを覚えても、ただひたすらに沈黙した。否と答えても、現実は是である。
悲しいことに、それは事実なのだから……
「禊ぎ祓え給いし時が今。夢と現、明白に切り分けるためこそ、今ここに申し上げる」
白い仮面の女性は怪訝そうに“修験落ち”を見やった。
“修験落ち”が、唐突に敬意を示すように、敬礼をしたからである。
「……何者、して、何が目的だ?」
その問いかけに対して、“修験落ち”は答えるのではなく、見せた。
不意に、頭痛を覚えた。仮面の女神はこめかみに手をやった。
途端に、脳内に強引に流れ込んでくる数々の映像。幾つもの風景が、おそらく“修験落ち”が持つ記憶であろうその映像が、目の前に浮かび上がる。
次の瞬間、仮面の女性は草原にいた。前方には大きな湖が広がっている。目の前にはひとりの男が佇んでいる。僧侶のような男だ。何かを叫んでいるが、爆音と同時に強風が吹き出して、その声は掻き消される。
だが、はっきりと分かるのは……何か必至だということだ。
何から何までが唐突過ぎた。閃光が訪れると同時に、視界が真っ黒に染まる。
……いま、何が起きた?
そう疑問に思う白い仮面の女性に対して、“修験落ち”は静かに答えた。
「これが、私が覚えている最期の記憶。敵でないことは、お分かりですね?」
……あの僧侶の男、もしや……?
声音をがらりと変えた、謎多き“修験落ち”を見やり、白い仮面の女性は首を傾げた。「あれは……五年前に死んだとされる『朱雀』だな?」
『朱雀』――四天王の南方守護者。鳥獣の妖怪を使役する、真言宗の僧侶。
では……目の前にいる“修験落ち”は、消去法から考えてもやはり……
『白虎』――四天王の西方守護者。数多くの妖怪、魔物を服従させた、最強の式神使い、
……なのか?
「一条殿を、どうするつもりだったのですか?」
「……彼に必要なものを、与えるため、ここに連れてきました」
“修験落ち”は若い男の声で静かに言った。
「彼は持っていないのです……この先の闘いで、どうしても必要となるものを」
「――式神、ですか……」
確かに、人間と妖怪と魔物が、地上を血で染め上げるような戦争に、式神は必要だ。
それも……“太虚の覇者”だからこそ、何よりも誰よりも、圧倒的に凌ぐ式神が。
“修験落ち”の行動を理解した白い仮面の女性は、彼の背後の闇に目をやった。「あなたが与えようとしているのですか? それとも、その翼が行こうとしているのですか?」
「否……」
“修験落ち”は振り返った。
黒一色の世界。それこそが、無垢な“太極”だ。
だが、それよりもはるかに黒い黒が――闇が、そこにある。ばさりと動き、こちら側へと、ゆっくりと近づいてくる。
「私たちは待っていたのです――彼を」
一条守の、自分自身と記憶は、混濁していった……
“太極”と神が長らく見守ってきた人々の物語。名前。性格。変化する景色。無念のまま死を迎えたものの悲しみ、唐突に人生を終わらされた、怨念の怒り、憎悪……欲望、嫉妬、殺意、憤怒、悲哀……何から何までもがごちゃ混ぜだ。
世界が、ごちゃ混ぜになっていく……どんどん、ごちゃ混ぜに……
一条守という人の器の中に、多すぎるほどの情報が入り込んでいる……
自分自身が分からない。
俺の、名前……は?
俺は……何をしているの?
俺は……どこにいるの? どこに……いたの?
何を、しようとしていたんだっけ……? 何か、あったような気がする……
何か、大切なことを……忘れていないだろうか?
濁りすぎた自分の意識が、唐突に、無意識に、何の意図もなく、そう問いかけた。
脳裏に、絶えず現れる、奇妙な女性がいる。
人間らしくない風貌だ……髪が長く、はらりと揺れている。きれいな、長い黒髪だ。絶えず不満そうな、怒っているような表情だが……どこか優しさが見える気がする。
誰だろう、あの人。
……どこで会ったんだったっけ?
不意に、知っているのか知らないのか、それすら分からないが……名前だけが、ふと、浮かんだ。
山姫――山姫の、夕衣……
「……夕衣……?」
不意に脳裏に蘇る、記憶の一欠けら。それにかすかに戸惑いながら、一条は呟く。
その時、男女の声が聞こえてきた……
「貴殿の名を、一条守。“太虚の覇者”に選定された者」
“修験落ち”が、一条の頭部に手をかざして、重々しくそう語った。
まるで呪詛を掛けようとする奇術師のような声ではあるが、その言霊は、誰かを呪う響きを持たない。
「貴殿は夢現な世、ムゲンに迷い込んだ者。初めての夜にして白き怪異“修験落ち”に襲われる」
白い仮面の女性も、“修験落ち”と同じように、言霊をはっきりと紡いでいる。
このふたりは、一条守を、暗示によって意識を回復させようとした。
混濁した意識と記憶を回復させるためには、必要な情報を強く認識させる必要がある。
暗示とは言葉や何らかの合図によって、他人の思考、感覚、行動を操作して誘導させる心理作用の行為をいう言葉だ。
現在の一条守の、衰弱した様子では、第三者によって記憶を回復させなければならない。
“修験落ち”と白い仮面の女性が簡潔に語っている言葉の内容はすべて、一条がムゲンに初めて訪れたあの日の夜から、今日に至るまでの情報を、簡潔にまとめたものだ。それを言霊によって、一条の記憶と自我に強く働きかける。
一条が、いままで見てきたもの、感じてきたもの、知ってきたもの。
それを、強く認識させることによって、一条を回復させようとしているのだ。
「……それで、彼を助けることができるのでしょうか」
先刻、白い仮面の女性は、敵でないと判明した“修験落ち”に質問した。
「この少年は“覇者”である故、自分自身を繋ぎ止めにくい。見失いやすいのです」
“修験落ち”は静かな口調で語り始めた。
「膨大な知識と知恵、そして武器を使いこなすには、その情報を認識しなければならない。“太虚の覇者”は“太虚の到達者”に比べて、情報量に圧倒的な違いがあります……。一条殿は“覇者”になってわずか数時間しか経っていない……熟練した者でない故に、呑み込まれやすく……こうして、倒れやすいのです」
かつて、私がそうであったように……と、“修験落ち”は小さく付け足した。
なるほど、“到達者”が“太極”に近づくためには、自我をしっかりと保つ必要がある。
だが、一条殿は“覇者”。“太極”に近づきすぎるがために、自我を強く保つ準備ができていない。そのため、こうして、記憶と人格、そして自我が消えやすくなっているのか……
「……一条殿は、どのくらいで回復するのでしょうか?」
「それは、さすがに私も予想がつきません。かなりの時間がかかるでしょう」
白い仮面の女性の問いかけに、少し疲れたように、“修験落ち”は答えた。
視界と自分は濁りすぎていた。
だが、そんな濁りすぎた世界に、白い何かがふたつ、佇んでいる……
……誰だろう……?
見覚えのある二人に見えた。ひとりは女性。白い和服と白い仮面をつけている……
そして、もうひとりが……
そこで、一条の意識は、急激に覚醒した。
三つの目が、自分を狙い定めるように見つめているのだ。それぞれの虹彩が異なる三つの目が、じいっと、自分を見つめてくる。
そうだ、こいつは――!
記憶が蘇り、脳裏に鮮烈に再現される、あの夜のシーン……
ぞっとする寒気と恐怖を与える、不気味な邪悪すぎる修験者。
「修験落ちッ!」
ぞっとして、一条は体を起こそうとした。
だが、体が思うように動かない。何故か疲労感がひどすぎて、自分の体じゃないように、体が強張っていて、思うように動かせない。
体が崩れる。
その時、そっと手を添えてくれる人がいた。
……仮面の女性だった。
「……大丈夫ですか?」
優しい声で、彼女は静かに一条の体を支え、起こしてくれた。
「いま……何が起きているんですか?」
いまだぼんやりとした自分自身を、なんとかハッキリしようと、きつく目を閉じて、前後の記憶を呼び起こそうとして、こめかみに手をやって、一条は静かに尋ねた。
世界と自分がぼんやりしすぎている。
いまようやく……はっきりとしてきたが。
「……何が起こっているんですか? どうして、“修験落ち”が……?」
何故、攻撃してこないのか。何故、これほど至近距離に、目の前にいるのか。
その疑問を、彼女はゆっくりと答えてくれた。
「一条殿、すぐには信じられないでしょうが、あの者は敵ではありません。私が保証します……多くを語ることはできませんし、あなたを理解させるのも、時間がかかりすぎます。どうか、私を信じて、先に進んではもらえないでしょうか?」
無理な話だと、一条はぼんやりとそう思った。
あまりにも信じにくい、不気味なこの人からの、「信じてください」と一言。
無理な話だ……あなたを信じることがまだ、出来ていないというのに。
「時間がないのだ。“太極”における時間は、時に早く過ぎ、時に遅く進む」
“修験落ち”が唐突に語り始めた。
「一条守……ムゲンの世はまさしく動き始めているぞ。もはや、戦争が始まっていてもおかしくない状況……ここでのんびりと時を過ごすのか? 友が命を賭して戦うその最中、貴殿はここで倒れたままか?」
なんだと、と一条は思わずそう呟いた。
「ムゲンの世と“太極”の時間の流れには、違いが存在します。いまこの場でははっきりと申し上げられませんが、“修験落ち”の言うとおり、すでに戦争が始まってしまっている可能性があるのです」
理解できずに混乱する一条に対して、白い仮面の女性が説明した。
それを聞いて一条は真っ青になった。
戦争が始まっているかもしれない? なら、自分は時間を無駄に過ごしてしまったのか。
どうして、ここでグズグズしていた。はやく、みんなのところに行かなければいかないのに。
いったいどうして、自分はここに閉じ込められている?
「おまえだろう!」不意に、一条は叫んだ。“修験落ち”に対して。「おまえが俺をここに引きずり込んだんだろう!」
「然り。おまえを導き、新たな力を与えるためにも」
“修験落ち”の静かな返答は、逆に一条を苛立たせてしまう。
「俺をここから出せ! 俺は急いで、みんなのところに、行かなきゃいけないんだ!」
なんとか立ち上がりながら、一条は叫んだ。
急がなければいけない。何もかも、手遅れにならないうちに、急いで、帰らないと。
あの、場所へ。
「すまんが、いまのおまえを出すことはできぬ」
「一条殿、まずは話を聞いてください」
“修験落ち”と白い仮面の女性が、交互に制止の声を上げる。
だが、一条はそれを無視した。
おそらくは、“修験落ち”が支配して操作するこの世界。出口がないというのならば、自分の“太虚の覇者”としての能力を使って……こじ開ければいいだけだ。
不意にふたりに背を向けて、一条は瞑目してから、自分でイメージした。
奇妙なことに、疲労感は完全に回復している。だから、自然に自分の力を発言させることができた。この世界の、わずかな隙間を探し出す。黄金色の粉末が、目では見つけることができない、そんなにも小さなわずかな隙間を見つけ出す。そして、ゆっくりと入っていき、強引に世界の隙間を押し広げようとする。こじ開けようとする。
出口を、作り出そうとする――その瞬間だった。
“修験落ち”が、ゆっくりと動いた。
まず、片手を上げた。そして、それをゆっくりと降ろした。
その途中で、“修験落ち”は五本の指をゆっくりと開くように、動かした。
――いや、その動きは、まるで何かを掴もうとする動き、と表現するべきか。
“修験落ち”が軽く手を動かした次の瞬間だった。
自分の力が、不意に、何かに断ち切られた。
ジャラン、と聞き慣れたあの音を聞いた一条は、ゾッとして目を開けた。
自分の周囲に、まるで自分を閉じ込めようとする鳥かごのように、幾つもの錫杖が、目の前に突き刺さっていた。
錫杖のひとつひとつに呪力が込められている。ふわりと白い力が立ち上る。
「その様子だと……どうやらかなり回復したようだな」
“修験落ち”の声が、背後から聞こえてきた。
仕掛けたのは……あいつか。
「何の真似だよ!」
振り返って怒鳴り際、一条は“太極”を発動させた。
空中に突然現れた“太極陣”は、飛び道具を数多く溢れ出した。怒号の勢いで、飛び道具はすべて“修験落ち”目掛けて襲い掛かっていく。
“修験落ち”に直撃する寸前――黒い何かがうごめいた。
原初の黒よりも、さらに深く、どす黒い、黒い何かが。
――なんだ、あれ?
次の瞬間、黒い何かが大きく動いて、“修験落ち”を暗闇に呑み込んだ。“修験落ち”の姿は一瞬だけ見えなくなり、一条の攻撃はすべて暗闇に呑み込まれて消えていった。
次の瞬間、ふたたび“修験落ち”は姿を現した。
「落ち着け、若造」
かすかに苛立ちを滲ませた声で、“修験落ち”は、片手を上げて、黒い何かを翻しながら、静かに言った。
黒い何かが……幾つもの、黒い何かが、ひらりゆらりと舞い降りる。
……なんだ、あれ?
「落ち着いてください、一条殿」
白い仮面の女性が、静かに言った。
「あなたは確かに“太虚の覇者”ですが、不死ではなく、まだその能力は未完成。戦いの準備は万全とはいえません。あなたひとりでは、簡単に殺されてしまうかもしれないのです」
「……どうしてですか?」
一条は振り返って彼女に尋ねた。
「あなたは、式神を従えてはいないのです。それが戦略的に大きく弱点となる」
「すでに『日陰の一日』は近づいている。影の勢力はそれぞれ強力な式神と魔物を従えて、要所で儀式を行おうとしている」
“修験落ち”が説明を加える。
「だったら、はやく潰さないと……」
「いま行ったところで、一条殿、いまの貴様ではあっさりと捻り潰されるだけだ」
淡々とした口調で、“修験落ち”は静かに言った。
「何百年ものあいだ、何千年ものあいだ、奴らは敗北寸前まで『天竺』や陰陽師たちを追い込んでいた。それほどまでに圧倒的。それを見続けてきた私だからこそ、はっきりと言えるのだ――いまの貴様の状態では、せいぜい無駄死にしかできないと」
一条は怒りを覚えたが、奇妙な感覚に囚われた。
いま……この“修験落ち”は、「何百年ものあいだ、何千年ものあいだ、奴らは敗北寸前まで『天竺』や陰陽師たちを追い込んでいた」と言ったのか? そして……それを見続けてきたと?
……こいつ、ほんとうに誰なんだ? 何を知っている? 何が目的なんだ?
千木に対して抱いていた疑念や不安が、ふたたび蘇る。
こいつはそっくりすぎる気がする……天狗の千木に。
「……誰だよ、あんたは」
一条の問いかけに、“修験落ち”はしばらく動かなかった。
まるでどう答えるべきか悩んでいる様子だったが、不意に、両腕を上げると、頭巾を外そうとした。
ゆらりとゆれる、三つの目が描かれたあの、白い布。
五年前、大量虐殺を実行して、恐怖と穢れの代名詞ともなった“修験落ち”。
……正体不明、何者かすら、その目的すら分からぬ邪悪すぎる修験者が、いま、その正体を、素顔を明らかにしようとしていた。
「この者は、あなた側の人間です……影の勢力の者ではありません。何故ここにいるのかは、分かりませんが……あなたを助けに来たようです」
白い仮面の女性は静かに言った。
一条は戸惑って仮面の女性を見上げる。
――助けに来ただと?
確かに、殺意ある行動はしてこなかったけど、無害な“修験落ち”がどうして自分を助けるのか? だいたい、自分を助ける理由なんてあるのか?
「……じゃあ、あの人はいったい、何者なんですか?」
「彼は、『四天王』のひとりです……」
白い仮面の女性は静かに彼の正体を明かした。
「四天王が一角、『白虎』の称号を担う者、白夜」
頭巾を取り外して、その顔を晒しながら、威厳ある口調で、その男は言った。
「――西方守護者、ここに推参仕る」
一条はその顔を見てゾッとした。
その顔に見覚えはなかったが、その面影に近いものを、一条は知っていた。
不意に蘇る、あの言霊……「――ぼく、化け物にされちゃった」……
唐突の不気味な声に、一条は視線を落とした。先ほどまでとは、まるで声音が違う。
一条は、子供を見下ろす。
小さな子供が見上げる顔は、顔が半分だけ、腐ったように崩れ落ちていた。
……あの子と、不気味なまでに、重なってしまう。あの面影が。
あの子と……近すぎる。似すぎている。不気味すぎる。
「何者なんですか、あなたは……」
かつての恐怖感と寒気と不安が、一気に体に蘇ってくる。
体は小刻みに震えている。
一条は、静かに、震える声で、小さく、精一杯、問いかけた。
「私は……世界で最高のクズだよ。ただ、――それだけだ」
『白虎』の白夜と名乗った、その“修験落ち”は、淡々と冷静に、だが、寂しげにそう答えてくれた。
あの子の顔と、同じだった……
――その顔は、半分だけ、腐ったように崩れ落ちている……