第二部 冥界の扉 ①
ムゲン。夢と現が交じり合い、天地万物の形が曖昧な世界。
ここは、ただ、人と妖が無意味に無価値に、無力に生き続ける世界。
ここは、神が作り上げた、残酷な世界。
ただ、人と妖が操り人形のように、神に操られた人形劇を踊り続ける、孤独な舞台。
序幕、
その日は誰もが記憶していた。今日という日は、暗雲すら出ていない晴れた日だと。青空があって、輝く太陽があって、雲などどこにも見当たらなかったと、誰もがそう記憶していた。市場で駆け回る子供たち、市場で売買のやり取りをする大人たち。薄暗い路地裏でたむろすならず者たち。馬を走らせる検非違使の男たち。寝殿や広い庭で談笑する貴族たち。彼らは全員、今日が青空であることを記憶していた。
だから、誰もが空模様が急変したことに気づいて、愕然としていた。
日が半ば隠れている。怖ろしい速さで黒雲がうごめいていき、京から北東の方向へと流れていく。奇妙な音が聞こえ始めた。雷鳴だ。いままさに雷が神の怒りのように、振り落とされようとする、その刹那の音が。
誰もが唖然としてその方角を見やっていた。
何故なら次の瞬間、ありえない光景が目の前に突如、姿を現したからだ。
鬼門より放たれる呪詛『神殺し』を、平安京の人々は呆然と見上げていた。
比叡山の上空で渦巻く黒雲。その渦の中心へと、まるで吸い込まれるように、紅の雷は走っていた。天から地へと放たれる雷ではなく、地から天へと放たれる、血のように深紅な雷だ。雷鳴は幾重にも轟き、黒雲には亀裂が入るように稲妻が走り続けている。
平安京の人々は、訳が分からず、その有り得ない光景を見上げる。
訳が分からず、恐怖して。
その光景が意味することを理解できる者は、誰ひとりいなかった。
もちろん、それは常人においての話であるが。
常人にあらざる者、すなわち陰陽師、修験者、見鬼の才を持つ者はその光景を理解していた。
禍々しさと毒々しさを帯びた、空に渦巻く黒雲。
天へと放たれる鮮血のような紅色の雷。
それが、世界が崩壊する、ほんの序章に過ぎないことを。
平安京の町並みを一望できるとある建物の屋根瓦に腰掛けて、“修験落ち”はその光景を、無表情に見上げている。驚くことも恐れることも慌てることもない。まるで、その光景がいつか訪れるのを予期していたかのように、そして、それを待ち望んでいたかのように、ただ、その光景を見上げている。
ジャラン、ジャララン……
肩にかけていた錫杖が、“修験落ち”が立ち上がった拍子に揺れる。
その背後に座している一匹の鵺は、ヒョーヒョー、と悲しげに鳴いた。
これから起こり得る悲劇を、告げ知らせるように。
時を同じくして“修験落ち”と同様、蘆屋道満もこの光景を見上げていた。
平安京を見下ろせるとある高い山の樹海。樹林の開けた場所にて、彼方の比叡山を見渡せる位置に、蘆屋道満は佇んでいた。黒い布で顔を覆い隠しているため、やはり表情は読むことはできない。ただし、この光景を待ち望んでいた、という印象だけは伺える。
「今こそ……『日陰』の時、いまここに来たれり」
大空が見せ始めた変化。平安遷都以来、鉄壁として害悪を阻んできた結界、『王城守護陣』が崩れ落ちていく。思わぬ形で彼らに好機は訪れた。おそらくは天へと放たれたであろう呪詛。平安京の防衛網の全壊。思わぬ形で、こちら側に有利に秤は傾いた。
「しかし……妙だな」
聞き取りにくい呟き。蘆屋道満は首を傾げた。
あまりにも、好機は都合よく訪れたのだ。平安京の防衛網の瓦解。これにより、影の勢力は京へと攻めあがりやすくなった。計画は実行しやすくなった。それは、影の勢力にとって、あまりにも都合よく……いや、都合が良すぎはしないか?
何やら……嫌な予感がする。
我らの行動が、何者かの掌の上にあるような、そんな気がする。
……杞憂であればよいが。
平安京の内裏。
円融天皇と智徳法師が秘密裏に会合しているその部屋からでも、深紅の雷と空の異変は確実に捉えることができた。
天皇が知り得ない、この京で起きている怪異の詳細を報告し終えた、まさにその時だった。
閃光と轟音と震動。それら三つが、ほとんど同時に襲い掛かった。
若き天皇は驚きと恐怖の叫び声を上げた。智徳法師は慌てて若い帝を落ち着かせた。事実、自分はこの内裏に潜り込んでいるようなものだ。天皇の信頼は得ているにせよ、他人にこの姿を見られてはならない。人払いをさせているからといって安心してはならない。
誰かが自分に気づいてしまったら、大変なことになる。
そうなれば、計画に大きな支障が出てしまう。何としてでも、その危険は避けなければならない。そう、絶対に。
「法師よ……あれは、あれは何だ?」円融天皇が、瞠目して囁くように尋ねてきた。
ようやくあれに気づいたか。
智徳法師は、鬼門の方向へと目を向ける。
鬼門の方角、すなわち北東。この平安京には遷都以来、鬼門から来る災厄を祓うために、比叡山延暦寺を設置している。俗に言う『鬼門封じ』である。
その方角にある、有り得ない光景を目にすることができた。
大地から天上へと放たれ走る深紅の雷。重々しい雷鳴、震動、閃光。
ありえない光景だ。天へと走る雷など。
いままで誰が目にしてきただろうか。このような光景を。
「法師よ、あれは何なのだ? ……あれが何かと聞いておる!」
智徳法師はすぐには応えなかった。縁側へと顔を覗かせ、誰もこちらへと歩いてこないことを確認する。今のところ、周辺にいる貴人や武官は、誰もが信じられない光景を呆然と見上げている。
帝に見えない角度で、智徳法師は両手から符呪を飛ばす。
これで、誰かがこちらへ向かってくる場合、検知できるようになる。
「法師!」苛立ったように円融天皇が声を上げた。
智徳法師は急いで振り返り、すばやく頭を下げる。「申し訳ありません、御上。あれは呪詛に御座います」
「呪詛だと?」若き天皇は仰天して立ち上がる。
「用途効果ともに不明。あれがどういった類のものかは分かりません。何しろ、あのようなものはいまだかつて見たことがなく、そして、書物に記されるようなものではありません。おそらくは、相当な術力を持つ者が編み出した、新しい呪詛に御座いましょう」
「新しい呪詛だと?」天皇は唖然として聞き返した。「それは……それは防ぎきれる類のものか? 朕に害を為すものか? いったい……いったい誰が仕掛けたのだ? そのような呪詛を、誰が放ったというのだ?」
「落ち着いてください、御上。あれがどういった類のものであるかは分かりませんが、直接、御上に害を為すものではありません」言葉を区切り、智徳法師は顔を上げる。「ただし……あれがいったい誰の手によって放たれたか……それだけは予測でき、お答えできます」
円融天皇は智徳法師を注視した。「何者だ?」
「安倍晴明に御座います」智徳法師はふたたび頭を下げる。
一拍だけ、間が空いた。「ありえぬ! 安倍晴明がだと? ありえん、何故あの者なのだ? あの者は呪詛といった類の術は全て忌み嫌っておる。あの者は朕に対して忠実であった。呪詛を放つなど考えられん!」
「ならば、比叡山にて安倍晴明以外の術者がいるか、調べてみましょう」
智徳法師の思わせぶりな口調と台詞に、円融天皇は興味をそそられた様子で、囁くような声で尋ねた。「……いま、何と言った?」
「いま、安倍晴明は比叡山延暦寺に赴いております。あの呪詛は、間違いなく延暦寺の付近で放たれたもの。ならば、その周辺に、あれほどの呪詛を放てるほどの力を有する術者がいるかどうか、調べてみればよいのです。そうすれば、真実ははっきりとします」
「……晴明が、わたしを裏切るなど……」
そう呟く円融天皇に、智徳法師は静かに問いかけた。
「あなたは、藤原道長を失脚させるために、そして、天皇主導の政権を復活させるために、私を手駒とされたのではありませんか?」
そう、自分はまさしくその目的のために雇われたのだ。円融天皇自身に。
この国における天皇の威厳を復活させ、長く続いた欲望と腐敗だらけの摂関政治を終わらせるために。天皇主導の政権を、構築するために。それは、長年の皇室の悲願。そして、幾度も傀儡として動かされた、円融天皇の宿願でもある。この若き帝は、傀儡ではなく真の統治者としての地位を、復活させようとしていた。
そのために、この若き天皇は雇ったのだ。智徳法師を。
「そうだ……確かに、お前の言うとおりだ……しかし、」と呟き、円融天皇は懸念を示した。「安倍晴明でなかった場合はどうするのだ? それに、安倍晴明が比叡山に赴いていることなど、朕は知らなかったぞ。どうすればよいのだ?」
「確かに、安倍家の者どもが比叡山に赴いていることを知るのは、少数の人間のみ」
しかし問題はありませんと、智徳法師は続けた。
「まず陰陽寮に、あれが何であるか詳細の上奏を求めるのです。上奏により、それが呪詛であると断定でき次第、直ちに勅命を出されるのです。検非違使の一隊を派遣して、比叡山にて呪詛を放った人間を捕縛せよと。その際、安倍一族が捕縛されても何の問題になりません。それに、安倍一族が現場付近にいながら、呪詛の阻害が叶わなかった時点で罪に問うこともできます。何しろ、御上に何らかの悪害をもたらすものなのですから」
「おお……そうだな、確かにそうだな……」
智徳法師の合理的で有効な提案に、円融天皇が同意して頷く。
ではそのようにしようと呟く円融天皇に、智徳法師は深々と頭を下げた。
――天皇には見えないように、ニヤリと笑ったまま。
事実、この帝は気づいていない。
傀儡である自分自身を嫌っている帝が、実際は智徳法師の傀儡であることを。
智徳法師により傀儡として言葉巧みに操られていることを。
そして、この男が、良からぬことを企んでいることを。
そのことに、気づいていない。
陰陽寮では大混乱が起きていた。
ここからでも、天へと放たれる深紅の稲妻はしっかりと目にすることができる。薄暗くなる大空、鬼門の方角で起きた怪異、渦巻く黒雲、走る稲妻。何から何までが不吉めいていた。ただし、陰陽寮では誰一人、それが意味するものとこれから何が起きるかを、理解しているものはいない。
陰陽頭である賀茂保憲は、陰陽助を伴って縁側に立った。
見渡せば、左右の縁側も同じように、陰陽師や天文博士などの中間職の職員が縁側に立っている。驚きを隠せない様子で、怪訝そうに皆が大空を見上げている。鬼門の方角で、いままさに起きている、あれを。
「地神……いや、あれは雷神か?」
「鬼門にていったい何が起きている?」
「鬼門が破られたのか?」
「まさか……」
口々に呟きあう陰陽師と博士たち。もう少し言霊に注意してもらいたいものだと、賀茂保憲は苛立たしく思った。そのような言霊を口に出し音に紡げば、間違いなく悪しき結果は訪れてしまうだろう。
それにしても……
賀茂保憲は大空へと視線を向ける。
あれは、間違いなく呪詛。ただし、書物に記されてきた従来の呪詛といった類のものではなく、おそらくは、新たに作り出された呪詛だろう。
呪詛が放たれている場所は、おそらくは比叡山延暦寺。
いったい、あの地で何が起きた?
あそこにひっそりと暮らす賢者を、賀茂保憲は知っていた。賀茂保憲は『白拍子』の名前とその威光を知る数少ない人間のひとりでもある。かの賢者が隠れ住むあの山で、いったい何が起きているのか。
そして、本日、安倍家の陰陽師が比叡山に赴いている。
昨夜、かつての弟子である安倍晴明から文を貰った。あの少年が持つまさに得体の知れない能力と、彼が現れたことにより何が変わるのか、そして何が起こるのかを問い尋ねるために、山奥に隠れ住む『白拍子』なる女性賢者に会うため、比叡山に赴くという。
安倍晴明だけでなく、いまは直丁に過ぎぬ吉平と吉晶ですら、相当な能力を持っている。いずれかは正式に陰陽寮の陰陽師として活動できるほどに。
安倍家の陰陽師、比叡山の『白拍子』。
彼らがいるあの場所で、いったい何が起きているのか。
頭痛がひどくなり、賀茂保憲は吐息する。
情報が入ってこないことに、これほどにも焦り苛立ち畏れるとは……
「父上! 父上! ……父上、大変です!」
慌てた叫び声が、騒がしい足音が、聞こえた。
顔を上げれば、息子の賀茂光栄が青ざめた表情で、縁側を走ってくるところだった。いまは、宮中への使いとして出していたはずだが……何か、まずいことでも起きたのか。
嫌な予感は、すぐさまはっきりとした形を取ることになる。
「光栄、何があった?」
「御上直々の上奏の要請が下りました。あれについて……」周りに聞かれるのを憚るように、賀茂光栄は小声ですばやく言った。「あれについて至急調べ、報告するようにと。上奏の際には父上も出席するようにとの厳命です。それと、これは関白様から聞いたのですが……」
保憲は眉根を寄せた。悪い知らせはまだあるのか。
「どうした?」
「道長様の話によりますと、御上はどうも……安倍家の一族があれを引き起こしたのではないかと考えておられるようです。確証は取れてはおりませんが、検非違使が馬の準備をしているとの話も」
「……まずいな」
これはまずい、と賀茂保憲は直感した。
『白拍子』の存在は、宮中ですらあまり知られていない。何しろ、彼女は外界との接触を過敏なまでに拒んでいるのだ。だからこそ、まずい。
おそらく、御上は安倍家が今日、比叡山に赴いていることを存じていらっしゃる。
そして、安倍家の陰陽師が、この怪異を引き起こした、もしくは阻害できなかったと見るだろう。安倍家の一族が比叡山に赴いていることを、その事実を知っている人間誰もが。
検非違使がはやくも出立の準備に取り掛かったのも、御上が比叡山に安倍家が赴いていることを知っていて、さらに安倍晴明が何らかの呪詛を放った、もしくは呪詛の発動を阻害できなかったと考えているからだろう。おそらく、検非違使にはこちらと同じく厳命が下されているに違いない。
度々出される詔によって、公職にある陰陽師は呪詛の発動と行使を禁止されている。
そして、陰陽師たる者、呪詛の発動は何が何でも阻害しなければならない。呪詛の発動を阻害できる力ある者が、呪詛の発動を阻止できなかった場合、それは御上に対する反逆行為と見られてもおかしくないのだ。
最悪な場合は死刑。恩情がかけられても、地位と名誉の剥奪は必須。
「……宮中のなかで、安倍家の者が、今日、比叡山に赴いていることを知っている者は?」
父親の問いかけに、一瞬だけ光栄は怪訝そうな表情を浮かべて首を振った。「関白様以外、誰一人知りません。安倍家の者が本日あちらに赴いているのは、極秘扱いとされています。あの少年のこともありますから……」
そう。そうなのだ。だからこそ……成り行きに、疑問を抱かずにはいられない。
検非違使が出立の準備をしているのであれば、おそらく、御上は比叡山延暦寺に、呪詛を放てるほどの力を持つ術者がいるとお考えになられたのだろう……しかし、そこで何かが引っかかる。何故、御上がそこまで迅速に考えられたのか。
「道長様は、今回の件に関して、他言なされたか?」
「いいえ。そのようなことはないと」
賀茂光栄は困惑していた。
実際、つい先ほどまで関白様と会合した時、藤原道長は、御上が安倍家を疑っているようだと、焦りを滲ませた声で言っておられたのだ。安倍家が今日比叡山に赴くことを知っているのは、陰陽寮の幹部と藤原道長のみ。お互い、その情報を漏らしてはいないはず。
なのに、何故、御上は安倍家が比叡山に赴いていることを知っていたのか。
誰が、その情報を御上に流したのか……。
「何かある……何かあるぞ。これは裏に……」
困惑を隠しきれずに、混乱したように賀茂保憲は呟いた。
「父上、上奏の件ですが、いかがなさいますか?」
「うぅむ……」
息子の問いかけに、父親は唸った。
止むを得まい。安倍家が比叡山へ赴いていることは伏せられまい。実際、どういう手段と経緯があったか分からぬが、御上がその情報を入手しているのだ。ほかの貴族にその情報が流れるのも、時間の問題と見るべきか。
……あれが何であるか、いまだに分からない。
賀茂保憲は鬼門の方角を見やる。
そして、陰陽助と息子の光栄を振り返る。
「上奏の準備と調べごとのために、天文博士と陰陽允、そして陰陽師を全員呼べ。内通者がこのなかに潜んでいる可能性がある。あらゆる手段を使ってでも洗い出せ」
賀茂保憲は、ひとつだけ勘違いしていた。
あの呪詛が、いったい誰が放ったかということを。彼は先入観により、有り得ないとする可能性を端から考慮に入れなかった。すなわち、あの呪詛を放ったのが、安倍家の陰陽師でもなく、この京で暗躍する呪術師でもなく、安倍家に世話になっているあの少年でもないことを。
あれを放っているのが、『白拍子』であることを。
彼はその可能性を、最初から考えなかった。拒絶していた。先入観から。
だからこそ、物語は最悪な状況へと進む。
上奏が終わり次第、直ちに検非違使は馬を走らせて比叡山延暦寺へと向かうだろう。
現場に到着次第、ただちに捜索を開始して、付近にいる術者を捕縛する。たとえ、相手が安倍家の陰陽師であろうとも。天皇の勅命は絶対。検非違使はたとえ名の知れた陰陽師であろうとも、安倍家の一族の者を捕縛するだろう。
全ては、智徳法師の狙い通りに、動いていった。
一、
少年が迷い込んだのは、すでに、壊れかけた世界だった……
物語は加速する。刻々と、最悪な方向へと。
それなのに、まだ彼らは戦い続けていた。
疑い合う、味方同士で。
天へと放たれる紅の雷は、薄暗い樹海を真っ赤に染め上げていた。視界には地獄が広がっている。急激にしおれて枯れていく樹木、呪いの熱波を食らい、真っ赤に燃え上がり倒れる樹木。火の粉は絶えず目の前を踊っている……まさに、地獄。
いまだ“太極陣”は輝いていて、その中心から呪いは放たれている。
この場に居合わせている全ての人間と妖怪が、その肌で確かに感じることができるほどの、地脈の激しい鼓動。
呪いとして天へ放たれている影響か。地面は震え、ひび割れていく。
放たれた呪いは、唐突に終わった。
変化はゆっくりと訪れた。『神殺し』の呪いは、紅の雷は、震え始めた。相変わらずすさまじい雷鳴と衝撃波だったが、一本の雷は次第に枝分かれし始めた。一本ずつ細い糸となり、周囲へと溶け込むように消えていく。地上から見上げれば、それはまるで、一本の樹木が枝を伸ばしているようであり、枝分かれしているのが呪いの一部であることを考えると、あまりにも不気味だった。
まるでひとつの巨大な樹木のように空に拡散していく呪い。
細く枝分かれしたところから、呪いは皮が剥がれていくみたいに、姿を消していった。
次第に小さくなり薄まる紅の鮮烈な光。
やがては、消えた。
雷は消えた。ただし、黒雲はいまだ消えない。
しきりに稲妻を走らせながら渦巻く黒雲は、比叡山の上空にだけ停滞している。影が落ちた樹海のなか、佇む“太虚の覇者”と『天竺』の大妖と安倍家の陰陽師は、ただ呆然と空を見上げる。螺旋を描くその中心、渦の中心、呪いが放たれた彼方。彼らはそこから目を離すことができなかった。
呪いは放たれてしまった。自分たちは何もできなかった。
一条守は歯を食いしばった。
何もできなかった。どれほど頑張っても、『白拍子』の方が一枚上手だった。ここで自分が取るべきだった行動は、戦闘ではなく避難。自分がいたからこそ、呪いは放たれてしまった。
あとになって……正しい答えを思い知るなんて。
残酷な事実。無力な自分自身。そして……『白拍子』。この呪いを放った、張本人。
あいつだけは、許せない……騙すなんて……裏切るなんて……他人を道具のように扱うなんて……
一条は、憎悪と憤怒の色も激しく、『白拍子』の背中を睨んだ。
――殺シテヤル。殺シテヤル……
――一条の様子がおかしいことに、誰一人気づかない。
天界に呪詛を放つ。
それは、何年も前から考えていた構想だった。
平安京を守護する『四天王』という立場上、『白拍子』はこの世界に関する事実を知る機会が幾度かあった。この世界が、どんな形で造られていたのか。そして、これから未来で何が起こりうるのか。自分たちの存在が、どういうものか。
真実というものは残酷なまでに単純であり、知ればそれは猛毒となる。
それを理解した時には、もう何もかもが遅すぎた。自分の世界が、あっけなく変わり果ててしまった。
黄泉の国が葦原の中つ国に、死者の国が生者の国に干渉して、世界が滅びる。
そんな、結末が待っている世界で、自分は生きていたのか。
残酷な真実は、それだけではない。それだけで終わることはない。
さらに残酷なのは、それが、あらかじめ神様がそうなるように、この世界の御伽噺を設定していたということ。あらかじめ滅びるように設計して、そしてそうなるようにこの世界の創造主が、創り上げていたということ。
この世界に生きる人々は、ただ、死ぬために生まれてきて、そして無意味に生きなければならない。
自分も。そして、自分の大事な人たちも。
生まれてくる場所を選べないという事実が、あまりにも腹立たしく、こんな世界を創り上げた神が、あまりにも憎かった。
だからこそ、『白拍子』は決意した。
この世界の神に、復讐するために。反乱を起こすために。
天界に向けて、『神殺しの槍』を、放とうと。
元凶を絶たなければ、何も変わりはしない。残酷な世界を終わらせなければならない。
だからこそ、『白拍子』は、天界に呪詛を放つ計画をゆっくりと進めた。
手段はすでに考えていた。
ひもろぎ。あれを使って、天界へ呪詛を届かせるための、一種の“道”を作り上げる。
ただし、その先が問題だった。天界に届かせるのに必要なのは、霊力でも神通力でもない。人間が使う力が、天界に届く確率は低いだろうと『白拍子』は考えていた。それに、人間の力で神を殺せるはずがない。毒には毒を。おそらくは、神の力には神の力をもって征するしかあるまい。『神殺し』には、どうしても神たる力が必要だった。ただし、そんなものは容易に扱えるものではなく、そして、どこにでもあるようなものではない。
『白拍子』は悩んだ。どうすればいいかと。
そして……長い時間をかけて解答にたどり着いた。地脈の応用である。
風水や陰陽道において地脈とは、この世界が誕生した時からあるとされる神の力だ。この世界では、天地が創造された時、神の力が大地に残留したと言い伝えられており、陰陽師や修験者などは、地脈を用いることによって、通常の手段では発動できないまじないなどを発動できるという。
ただし、人間ごときが神の力を容易く扱える訳がない。
人間の肉体には扱えるエネルギーの許容量というものが存在する。実のところ、地脈はその許容量を一瞬にしてオーバーさせてしまうため、下手すれば人間の肉体が消滅してしまうか、地脈を暴走させて大災害が発生する。そのため、地脈の力を使う者は誰一人いなくなった。
たとえ常人にあらざる『四天王』である自分ですら、地脈は扱うことはできない。
だからこそ、『白拍子』は“太虚の覇者”に目を向けた。
一条守。この世界に存在できないはずの、しかしそれでも存在している少年。『白拍子』は、少年が“太虚の覇者”の資質を持っている故と、それと別の理由から、この少年を計画に用いることを決めた。
昔から縁のある安倍家からもたらされた文には、すぐに返書を出した。
そして、数日後に比叡山に一行を招いたとき、直ちに、一条守が、“太虚の覇者”として地脈を扱えるかどうかを実験するための試験を開始。“太極”と地脈を掛け合わせた技で、自分の式神を圧倒するのを見て、『白拍子』は決意を固めた。自分の計画を成功させるために、被害を最小限に抑えるために、やはりどうしても一条守は必要だった。
旧友、天狗の千木が突然来訪してきたことはさすがに驚いたが、問題はないと『白拍子』は判断した。そして、ずいぶん前から用意していたひもろぎの最終準備に取り掛かる。すでに、天界とこの儀式場をつなぐための“道”は固定している。あとは、一条守が“太極陣”をここで発動させれば、そして自分が呪詛を詠唱すれば、万事計画通りに進むはずだった。
ただし、物事は思い通りには進まぬもの。
天狗の千木という危険分子は取り除いたものの、山姫と安倍家の陰陽師の目を欺くために用いた式神は、どういう訳か見破られた。そのため、儀式を始める寸前に妨害の手が入り、もはや呪詛は放てないかと、一度だけ覚悟を決めた。安倍吉晶の光明真言の詠唱が痛手だった。あれにより、ひもろぎは破壊されてしまった。悲願、果たされぬかと覚悟を決めたもの、皮肉なことに奇跡は起きた。
一条守は『白拍子』の思惑通りに“太極”を発動。これにより、『神殺し』を放つための必要条件が神殿に揃えられたため、天界への呪詛は、発動できる状態へとなった。
計画は、呪詛を放てる段階へと進行。
『白拍子』は、ひもろぎが破壊されて、消えかけていた道を使い、天界へと呪詛を放った。
辛くも……成就。
危ないところだった。ほんとうに。
「……終わった…………」
誰にともなく、『白拍子』はそっと呟いた。
さすがに体力と霊力の消耗が激しい。一旦、『白拍子』は自分の式神たちをしまうことにした。愛しげに頭を撫でて、クレナイとムラサキを一瞬で形代に変える。そして、“太極陣”から最後の呪詛の力が、細い糸のように揺らめいて消えるのを、複雑な表情で眺めていた。
呪詛の全ての力が天界へと放たれ、“太極陣”はゆっくりと消えていった。
ただし、地脈の鼓動は激しく、そして荒々しい波動を絶えず放っている。いまだ地面は小さく震え、足元の地中、その奥深く、地脈の流れは暴走している。いまだかつて、地脈は呪詛の一部として放たれたことがない。おそらく、天界へと流れ込もうとしている動きが、まだ残っているのだろう。
天界へと放たれる入り口であった、“太極陣”は消え失せた。
放出される釜は蓋が閉じられた。だから、もう天界へ地脈は流れ込むことはできない。ただし、そこに流れ込もうとしている地脈の流れが形成されているため、ここに地脈の莫大な力が集まりつつある。
これは早急に、鎮めなければならない。このまま放っておけば、蓄積された地脈の力が爆発して、大惨事になる。
これは自分がやらねばならないこと。そう思い、『白拍子』は拍手を打った。
閑散とした樹海に響く、乾いた音。
次の瞬間、地脈が強く鼓動を打った。『白拍子』の拍手に応えるように。
ドクン、
……なんだ、いまのは…………?
拍手を打った体勢で、突然の奇妙な地脈の鼓動を理解できずに、『白拍子』は凍りついた。
不安と戸惑いを隠しきれない表情で、『白拍子』は地面を見下ろした。何故、地脈がいきなり強く鼓動したのか……訳が分からない……何か、嫌な予感がする。
次の瞬間、ふたたび地脈が鼓動した。
ドクン、
それと同時に、『白拍子』の背後で突如上がったのは、幾つかの叫び声。
地脈がいきなり鼓動したその訳を思い当たり、しまったと内心呟きながら、『白拍子』は慌てて振り返った。この危険性を、自分は考えていなかった。
計画が終わった途端、どうやらあの少年の怒りは最高潮に達したようだ。
声にならない叫び声を上げて、獣のような形相で猛進してくる、“太虚の覇者”一条守。
彼に静止しろと命令する叫び声も、彼の名前を呼ぶ悲鳴に似た叫び声も無視して、少年は怒り狂った表情で、どこか悲しげに苦しげに、こちらに向かって突進してくる。
物事は思い通りに進まない。そして、歯車は噛み合わない。
それを思い知った『白拍子』は吐息した。先ほど、安倍家の陰陽師を同時に相手して戦っていたため、かなりの力を消耗している。クレナイとムラサキを出すことはできるが、あまり長々とは戦えない。長期戦は避けるべきだ。一気に、片をつけよう。
怒声を上げて突進する一条に対して、
嘲笑を浮かべず、『白拍子』は、困ったように苦笑した。
賢者と少年の激突を、誰もが為す術もなく、ただ呆然と見守るしかなかった。
激突はあまりにも苛烈だった。賢者が放つ神通力と少年が放つ神気は、ぶつかった途端に、爆発したかのように衝撃を周囲に広げた。その場にいた人間と妖怪が体のバランスを崩してしまうほどの衝撃力であり、そして、その衝撃波によって、まだくすぶっていた地獄の業火や倒木が吹き飛ばされた。
衝撃を殺しきれずに倒れてしまった山姫は、悲鳴のような叫び声で少年を呼びかけた。
「一条、やめろぉ!」
けれど、声は少年に届かない。
小手調べだ。
特攻を仕掛ける敵を見やって、『白拍子』はさっさとクレナイとムラサキを出す必要はないと判断した。一条守は激怒で自我を失っていたし、そういう状態の攻撃はあまりにも読みやすく、交わしやすい。いまの状態なら、式神を出せば一気に片がつく。
ただし、それを『白拍子』は選択しなかった。
実際のところ、式神を出さずに事が済むのなら、式神を出さずにさっさと片付けたい。来るべき戦いに備えて、力は温存しなければならない。それに、個人的にこの少年がどれほどの戦闘力を持っているかどうか、確認しておきたかった。
……“太虚の覇者”たる、この少年の。
威嚇のつもりで『白拍子』が神通力を放つと、相手も神気を爆発させるように放った。思った以上に手強い反撃に思わず感心してしまったが、『白拍子』は充分な間合いに入ったと判断すると、すばやく一歩前に踏み出した。
一条守は、“太極陣”を自分の目の前に発動させた。
次の瞬間、空中に浮かんでいる“太極陣”から、鎖が勢いよく放たれた。すでにその時、前に一歩踏み出していた『白拍子』は紙一重に交わすが、一条はその鎖をつかんで、一回転させた。次の瞬間、回転して空に円を描いたと思った瞬間、鎖は槍へと姿を変えた。
「お見事」
『白拍子』はわずかに瞠目して呟く。
そしてやはり、一条の攻撃はあまりにも読みやすいものだった。
彼は、大きく振りかぶって、振り落とす攻撃に出た。
槍はリーチが長い。接近すれば攻撃は無効化される。だからこそ、『白拍子』はそう考えて、さらに一歩前に踏み出して、振り落とされる槍を受け流そうと片手を掲げた。
弧を描いて振り落とされる、一条守の武器。
それは、どういう訳か、掲げられていた『白拍子』の片手を、軽く削った。
誰もが瞠目して、一条守の手元にある武器を見やる。
それは槍ではなく、刀剣に姿を変えていた。
「……あの一瞬で…?」
苦痛に顔をしかめて、『白拍子』は安全に間合いを取るために、後退を続けた。おそらく、槍を振りかぶった瞬間に“太極”を使って、武器を作り変えたのだろう。一条殿との間合いを調整していたために致命傷は避けられたが、油断していたのは事実。
下手すれば死んでいたと考えると、ぞっとする。
『白拍子』は式神を呼び出す形代を取り出して、そっと思った。
まさに、一騎当千、いいや、それどころではなく、もはや鬼神と成り得る。この少年は。
「クレナイ、ムラサキ!」
叫び声を上げて、式神を召喚した瞬間だった。
牙を剥いた二匹の式神が、突然、足元から突出した鎖につかまった。
「しまったっ!」
『白拍子』が呟いた途端、両足を拘束された二匹の式神は、それぞれ別々の方向へと空中に投げ出された。樹木に激突して地面に落下する式神。その背後で倒れる樹木。湧き上がる土煙。
次の瞬間、一条守が“太極”を発動させた。
自分の目の前ではなく、足元……いいや、地面全体に。
“太極陣”は一条の足元だけではなく、一条と『白拍子』を呑み込むように、包囲するように地面に現れた。脱出しようと行動を起こした『白拍子』は、目の前に起きる異様な光景を、驚きのあまり呆然と見守った。
“太極陣”の外円から突出する、無数の鎖。
それらは壁となって現れた。それらは無秩序に地面から発射されて、まっすぐ樹木に突き刺さったり斜めに樹木に突き刺さったり、幾重にも絡み合い重なり合いながら、円い壁を作り上げていく。外にいた自分の式神が慌てて中に入ろうとするが、壁に阻まれて悲しげに鳴く。
やられた。
これで、隔離されてしまった。
地面を蹴る音と怒声が聞こえてきて、『白拍子』は慌てて振り返った。武器をただ単純に振り下ろし攻撃し続ける一条守。手首をつかんで投げ飛ばそうとした瞬間、地面から鎖が飛び出してきて、自分の体を拘束した。
まずい。
突然の拘束に体のバランスを崩してしまい、『白拍子』はひざをついてしまった。両腕は鎖によって強制的に背中へと回されてしまう。ここは一条守の、いわば彼が仕掛けた結界の中。ここは全てが彼の思うように動く領域なのだ。
身動きが取れずに、呆然と『白拍子』は一条を見上げた。
思わず血の気が引く。いままさに、完全に無防備となった『白拍子』に、一条は刀剣を振り落とそうとしている。
それが、スローモーションのように、ゆっくりと見えた次の瞬間――、
上空で、ふたつの妖気が爆発した。
ふたりは顔を上げた。
地面に着地する幾つかの人影を、一条と『白拍子』の視界が捉えた。
だが、ふたつの妖気の爆発により、土煙がぼうっと巻き上がって、視界を悪くする。誰なのか分からないまま、一条と『白拍子』は凍り付いて、ただ、土煙が晴れるのを静かに待った。
相手も同じように、土煙が晴れるのを待っているようだ。
やがて風が、静かに吹いた。
土煙はゆっくりと重たげに動いた。次第にあたりがおぼろげに見えてきた時、一条は目の前にいるのが『白拍子』でないことに気づいた。一条が、土煙が巻き起こった瞬間に止めた刀剣の切っ先の向こうに、『白拍子』でない誰かがいる。
『白拍子』はいま、体の自由を奪われてひざをついているはずだ。
だが……相手はいま、立っているようだ……
誰だ?
心の中で、そう疑問に思った瞬間だった。
相手が誰かに気づいた途端、冷水を浴びたような気分になった。
「……山姫…………」
両腕を広げて静止を訴えるポーズで、喉元に剣の切っ先を突き付けられた山姫は、動揺する事無く、複雑な表情で一条を見つめていた。
ふたりは、動かなかった。
いいや、動けなかった。
「助けていただいたことに……感謝しますよ」
「おまえなんかに、感謝されたくないね」
地面に崩れ落ちた『白拍子』に対して、天狗の千木は素っ気無く応えた。千木は指を揃えて『白拍子』の喉元に剣のように突き付けたまま、天狗風を操作して『白拍子』の体を縛っていた鎖を解いて、浮遊させた。
その隣では、安倍家の陰陽師が刀印のまま符呪を構えて、険しい表情で彼女を見下ろす。
「ただし……あなたも、こうせざるを得ないことを、理解しなければなりませんよ。封印しなければならないからこそ、苦難というものはあまりにも長く続くということを……だからこそ、元凶を絶たなければならないということを」
話の内容を理解できずに、困惑してお互いの顔を見合わせる安倍家の陰陽師。
「正論だとしても、やり方に甚だ疑問を感じるがね」
かつての旧友の冷淡な返事に、『白拍子』は苦笑した。
確かに、やり方に疑問を抱くのは当然。何しろ、これは私個人の目的も含まれているのだから……反論することはできない。
「やはり私たちは、お互いに理解できないのですね」
「これはおまえの愚行が生み出した結果だ」
悲しげに呟く『白拍子』に、千木が、そう応えた瞬間だった。
パアンッ!
甲高い張りのある音が、聞こえた。
安倍家の陰陽師と、天狗の千木と『白拍子』は、音がした方向へ目を向けた。
そして、一瞬で成り行きを理解する。
山姫が、一条の頬に平手打ちを食らわしたのだ。
注意が、一瞬だけそちらに逸れた。
“太虚の覇者”一条守が発動した“太極陣”は、一条の精神状態に反映してぶれるように震えて消えた。無数の鎖が織り成す防壁は霧消して、外界へ締め出されていた『白拍子』の式神、クレナイとムラサキがこちらへと音もなく駆けつけてくる。
安倍家の陰陽師は、呆けてあちら側を見ていて、式神には気づいていない。
この一瞬にかけて、『白拍子』は神通力を爆発させた。
油断した安倍家の陰陽師と天狗の千木が、神通力の爆風をまともに食らってしまい、見事に吹き飛ばされてしまう。
その隙に、『白拍子』はクレナイの背中へと飛び移った。
「この世界が滅びるのは必然。平安京が存在しているからこそ!」
京一の賢者『白拍子』は叫ぶように言った。
「我々『四天王』は、京を守護するために選定されたのではない! ……我々は、京を封印するために選定されたのです! この世界を救うためには、それを壊すしかない!」
それなのに何故、あなたは別の道を模索するのか。
起き上がろうとする旧友を見つめて、『白拍子』は天狗の千木へと問いかけた。
「平安京を破壊しなければ、この世界は救われるはずがない!」
そう叫ぶや、『白拍子』は式神を駆った。跳躍するやすばやく斜面を駆け下りていき、たちまち樹海に溶け込むように、彼女たちは姿を消した。慌てて立ち上がった安倍家の陰陽師と天狗の千木は、それをただ呆然と手遅れであることを理解して、静かに見送った。
彼らは追わなかった。
天狗は追う必要がないと考え、安倍家の陰陽師は『白拍子』の言葉に疑問を感じて。
しばらくの間、山姫は喉元に突き付けられた剣を、そのままにしていた。
だが、唐突に剣を払いのけると山姫は、今にも泣き出しそうな、怖がるような表情で、右手を振り上げて、思い切り一条の頬を殴った。
乾いた音は、思った以上に大きく聞こえた。
殴られて、一条は呆然と山姫を見やった。
殴られたことにショックを受けたのではない。一条は、山姫が浮かべた見たこともない表情に、ショックを受けていた。今にも泣き出しそうな表情で、怖がるような表情で、怒っているような表情で、そして……どこか寂しげで苦しげな表情で……
山姫は、そんな複雑な表情を浮かべている。だから、一条はショックを受けた。
いままで見たこともない表情だったから。そして……おそらくは自分が原因で、そんな表情にさせてしまったんだろう……傷つけてしまったんだろう……
「…………山姫?」
頬を叩かれた後、一条は叩かれた頬に手を添えて、呆然と山姫を見つめた。
山姫も、少し落ち着かないように呼吸をしながら、一条を見つめている。
そんな山姫に対して、呆然と、一条は彼女の名を呟いた。
「……もう、戦わないでいい……戦わないでくれ……」
小さくて今にも消えそうな、そんな声音で山姫は言った。一条の両肩に手を置いたまま、山姫は下を向いたまま言った。一条に、顔を見られないように……。
「代わりに……私がする……だから、何もしないでいい……おまえが殺したい奴は、私が代わりに殺す……だから、もう……何もしないでくれ……何もしなくていい……」
怖いと思った。
激情に駆られて、目の前の少年が飛び出した時、何も気づけず何もできず、山姫はただ彼の名前を呼ぶしかなかった。
手を伸ばしても、もはや届かない。
声を呼んでも、相手に聞こえない……
自分から離れていく一条の背中を見て、山姫は怖いと思った。一条自身にも……そして、別の何かに……。
「ひとりで……勝手に何もかも、やろうとしないでくれ……」
いまだかつて誰も見たことのない弱々しい山姫の嘆願。
誰もが呆然と彼女と一条を見守った。
彼女は顔を見せずに、呟き続けている。
「……おまえが殺したい奴は……私が、代わりに……殺すから…………」
それは、とても重い告白だった。
一条も千木も、晴明も吉平も吉晶も、人生でいまだかつて聞いたことがないその告白に、あまりにも感情的に激しすぎるその告白に、驚愕と困惑を抑えきれず隠せなかった。
一条は、山姫が、泣くのを必死で堪えるように、肩を小さく震わせているのに気づいた。
無意識に、体が動いた。一条はそっと両腕を動かして、ぎこちない動きで左腕を彼女の背中に回し、右腕で彼女の頭を撫でた。
胸が苦しかった。呼吸しづらかった。
それが罪悪感から来るものなのか、それとも嬉しさから来るものなのか、一条には分からなかったが、ただ、いまはこうしたいという強い思いがあった。
こんな形で、誰かの支えになれる。
それが……一番望んでいたものだと、一条は確信した。
辛い思いをさせてしまった罪悪感はある。誰かを傷つけてしまったことの息苦しさはある。だけど、それが、その人が自分のことをよく知っていて、考えてくれて、忘れないでいてくれるということ。それを、教えてくれる。
だから、嬉しい。罪悪感はあるけれど、嬉しさもほんの少しある。
傷つけてしまい、悲しませてしまい、苦しませてしまった。
だから、何かしてあげたい……自分のためにも、彼女のためにも。
「……そろそろ……愛の抱擁は解いてもらえないかな?」
唐突に、天狗の千木が呆れ顔で口を開いた。
どれほど時間が経ったか分からないが、天狗と安倍家の陰陽師が、少々複雑な表情で自分たちを見ているのに気づいて、一条と山姫はふたり揃って赤面した。慌てて一条は山姫から離れようとしたが、逆に顔を真っ赤にした山姫に、奇妙な悲鳴を上げられて、突き飛ばされて思い切り派手に地面を転がってしまった。
「うわぁ……ひでえ」
吉平が思わず、と言った感じで感想を漏らした。千木も同感だと呟く。
終始落ち着いた様子で、晴明と吉晶は何も言わずただ苦笑している。
安倍家の陰陽師が一条の傍に駆け寄って、一条に大丈夫かと声をかける。
「何も突き飛ばす必要はないんじゃないのか……?」吉平が差し出した手をつかみ、体を起こそうとしている一条を見やって、天狗の千木は山姫に言った。「激しすぎると思うが?」
「うる、さい! ……うるさい……うるさい……」
ひどく弱々しい声音で言うと、山姫は一同に背を向けた。落ち着こうとしているらしい。
しばらくあいつは放っておこう……。そう決めた千木は、一条に向き直った。一気に口を開いた。「一条……おまえなあ、感情を制御せずに突っ込むかこの馬鹿が! ……感情の爆発によって、力が暴走したっておかしくないんだぞ。ちったあ冷静になってもらいたいね」
立ち上がって服についた汚れを払いながら、一条は暗い顔で頷いた。「うん、ごめん……」
「言ってなかった俺も悪いからもう言わないが、今後気をつけるように」
「悪い……」そう呟くと、一条は何かに気づいたように目を見開いて、辺りを慌てて見渡した。「ねえ、『白拍子』は? あいつがいないんだけど?」
「逃げたよ……正確に言うと、わざと、逃がしたんだが……」
「はあ?」
幾つかの驚きの声が上がった。誰もが目を丸くして、千木の発言に耳を疑っている。
一条が怪訝そうな視線を千木に向けた。「なんでわざわざ?」
安倍家の陰陽師が天狗に対して説明を求めるような視線を向ける。
「一応あれでも『白拍子』は四天王のひとりだからな。あいつの四天王の呪縛はまだ生きている。来るべき時が訪れれば、あいつはまた俺たちの前に姿を現す……どうせ、いまは力を回復させるためと温存させるために地下に潜ったんだろうがよぉ……」
「いいのか……? それに、敵じゃないって保証もないんだから……」
「おまえは心配しなくていいよ。奴に呪縛は効いているはずだし、それに、影の勢力の計画にはあいつ、反対の立場だからな……そこは気にすんな」
苦々しげに千木は言った。
「なあ天狗……『白拍子』がさっき言っていたことだが……」吉平が口を開いた。「『四天王』が、京を護るために選定されたのではなく、封印するために選定されたってのはいったいどういうことだ? 平安京があるから、世界が滅びるって……おまえら、何の話をしているんだ?」
安倍家の陰陽師は皆、そのことに疑問を抱いていて、解答を求めるような表情をしている。
一条も、初耳の情報に瞠目する。
「…………説明し忘れていたな。簡潔に話そうか」
面倒くさげに髪を掻きながら、天狗の千木は言った。「俺たち四天王に与えられた任務は、平安京の守護じゃない。平安京をあらゆる外敵から近づかせないために守護し、そして、その平安京のある要素を封印するためなんだ……」
山姫が、ほんの少しだけ首を動かして、こちらを見やる。
「ある要素?」
安倍家の陰陽師は揃って首を傾げた。
「平安京が……京があるから世界が滅びるって、どういうこと?」
一条の問いかけに対して、天狗の千木は顔を曇らせた。「連中は死者の神ととある契約を結んでいる。生者の世界と死者の世界を完全に崩壊させる……その契約で奴らは動いている。計画を成就させるために……その奴らの計画を、俺たちは『日陰の一日』と呼んでいる」
二、
「……『日陰の一日』?」
一条は怪訝そうに聞き返した。なんだ、それは。
「連中の最終目標、死者の世界とムゲンを崩壊させるための、予備的な破壊行動もしくは本格的な破壊活動だ……奴らの大願であり悲願であり宿願。平安京を陥落させるために、連中が動き始める時だよ」
天狗の千木は疲労を滲ませた表情で説明した。
「『日陰の一日』……」真剣な表情で吉平が呟いた。「戦争が起こるって訳か。その日に」
「そうだ。人間の歴史の中に記されたことのない戦いが始まる」千木は言った。「すでに平安京の内部に潜伏している“修験落ち”や蘆屋道満率いる影の勢力だけでなく、平安京の防護術式が完全に無効化されたから、外界の妖怪たちも、ここに雪崩れ込んでくる。正念場だな」
「おい、千木……」
一条は苛立った。
「質問に対する応えになっちゃいない。おまえが話したのは、『日陰の一日』の表面に過ぎないんだろう? 戦争が起こるのは分かる。だけど、奴らは平安京を陥落させて何をするつもりなんだ? 何か目的があるんだろう? 俺たちが知りたいのはそこだよ」
安倍家の陰陽師と“太虚の覇者”は、天狗の千木へと視線を向ける。
「……そうだ、奴らには目的がある。平安京を落とす目的……奴らが狙っているのは……世界を破壊できるほどの、強大で確かな布石を手に入れるためだ……影の勢力は、平安京の中心部を目指している……」
「…………天皇一族の、血を手に入れるために……」
一条は理解できずに瞬きした。
……影の勢力は、天皇家の一族を、その血を手に入れるために、戦争を起こす?
「ちょ……どういうことだよ?」
「天皇一族を狙っているだと? どういうことだ?」
一条は訳が分からず、吉平は慌てて怒ったように、ふたりは千木に迫った。
「落ち着け。いや……できれば冷静に聞いて欲しい。奴らはすぐに天皇家をどうする訳じゃない。これは俺の予測でしかないんだ。外れている可能性もあるが……」
「天皇家に……利用価値があるのか?」
「あるんだよ。とんでもないくらいに……」千木は一条に顔を向けた。「おまえ、天皇家がどういった一族か知っているか? ……天孫降臨って聞いたことがないか?」
「テンソンコウリン?」一条は首を傾げた。文字が思い浮かばない。
「天照大神の孫であるひとりの神が、この世界、葦原の中つ国を平定するために降臨したという伝説だ。天皇家はその神の血を引いている一族とされている」
後ろから、山姫の声がした。
一条が振り返ると、冷静さを取り戻した山姫が、淡々とした口調で話し続ける。「高天原から降り立ったその神は、西日本各地の豪族を従えて、天皇を中心とするヤマト王権を樹立させた。その神の子孫にあたるのが、出雲氏や尾張氏そして、天皇一族なんだ」
理解できたか? と、山姫が一条に視線を向けた。
一条は無言で頷いた。
「おそらくだが、影の勢力が狙っているのは……さっき、『白拍子』がやってくれたのと、同じようなことだと俺は考えている」天狗の千木が言った。
天狗以外の全員の視線が、訝しげに彼に向けられた。
「どういうことだ?」吉平が怪訝そうに口を開いた。
「……さっき、彼女が天界に呪いを放った時に使ったのは、なんだ?」
「ええっと、俺の“太極”と……それと、地脈?」
「そう、地脈、だ」天狗の千木は地脈を強調した。「人間の力では、天界など特殊な場所に呪詛を届かせることなんてできやしない。ヒトの力で神を殺すことなんて、無謀もいい所だ。だからこそ、彼女は、地脈を利用したんだ。毒には毒をもって征するってことだ」
じゃあ……と呟きながら、一条は首を捻った。
「『白拍子』と同じ要領で、影の勢力は天界に呪詛を放つのか?」
一条の問いかけに対して、天狗の千木は首を振った。「いや、奴らの狙いは天界への呪詛ではない。世界の崩壊、全ての終わりだ。連中は、この世界に残留している神の力を暴走させるのが狙いなんだ。蓄積された地脈と天皇一族の血を使って、高天原と葦原の中つ国、そして死者の世界……黄泉の国の三つの世界を同時に、一気に消滅させるんだろうよ」
その場にいる全員が瞠目する。
「なんと、大それたことを……」安倍晴明が愕然として呟く。
「さらに別の可能性もある」と、千木は静かに続けた。「平安京は風水から見れば儀式を執り行う霊域として格別の器を備えた地理的条件を持っている。四神の構造を応用して、完成度と強度のある儀式場として作り変えるだろう。地理的条件と地脈、そして天皇一族の血を使って……死者の神をここに顕現させるかもしれない」
どちらにせよ、世界が滅びるのは必須……千木は静かに付け加えた。
驚きと恐怖と混乱の沈黙。一条ですらいまの話がとても重いことは理解できた。
しばらくの間、誰もが冷静に状況を把握するために沈黙して、誰も話さなかった。
「一条があちら側の手に落ちていなくて幸いだよ」天狗の千木が呟いた。「一条は存在自体が危険なんだ。神の力が凝縮して形作られている感じだからな。もし、一条が連中の手に落ちていれば、“太極”で地脈を刺激して、神の力を一気に増幅させる」
「俺の“太極”で……地脈を刺激するってどういうこと?」
「この世界が創造された時、この世界に残留した神の力はかなり少ないんだよ。世界を破滅させるには明らかに量が足りない。だから、神の力に類する“太極”と地脈を掛け合わせることによって、地脈を暴走させるんだ」
「じゃあ、地脈が使えないようにすればいいんじゃないのか? そしたら、敵は計画を実行できなくなるんだろう?」
「それはだめだ」山姫が口を開いた。「地脈はこの世界の礎でもある。地脈がなくなれば世界は崩壊してしまう」
「そういうこと。大体、地脈に干渉してはいけないの。この世界の住人はね」
天狗の千木は苦笑を隠せずに言った。
「じゃあ……どうするんだよ? 何か対策でもあるのか?」
「もちろん、ある。打開策がない訳ではない」
天狗の千木はきっぱりと言った。「影の勢力が狙うのは天皇家。内裏だ。平安京を攻め上がるのならば、こちらは迎え撃てばいいだけの話。“修験落ち”や蘆屋道満や智徳法師は、おそらく外部から攻撃を仕掛けてくるだろう。だからこそ、守りを固めればいい」
「しかし……内部に、影の勢力と手を組んでいる者がいる場合もありますぞ」
安倍晴明が懸念していた可能性を口にした。
「だからこそ、おまえたち安倍家に『天竺』は接触したのだ」
天狗の千木はニヤリと笑った。「呪詛や病魔といった禍々しいものを払うには陰陽師が必要。そして間違いなく、これからは災禍の前兆がひどくなっていき、内裏の奥深い場所まで、おまえたちは近づくことができるだろう。だからこそ、内裏の内側にいる内通者をあぶり出し、神の一族を護衛するのだ」
「……こいつの思惑通りに動かないといけないって訳か」吉平がボソリと呟いた。
「我ら『天竺』、名立たる陰陽師、そして、“太虚の覇者”……まだまだ戦力不足ではあるが、次第に戦局と準備は整いつつある。それに、少数精鋭が故に利点も多い。雑兵ごときに時間と力を浪費するのではなく、俺たちはただ大物だけを迅速に狙えばいい。そうすれば、こちらの勝利となる」
「そんなにうまく行くのか?」今度は一条がボソリと呟いた。
「うまく行くことを祈り、うまく行くように全力を尽くすしかあるまい」
天狗の千木は、願うような口調で静かに言った。
太陽の陽が降り注ぎにくいからこそ、そこは静けさと涼しさを備えていた。
樹海の中に覆い隠されるように、小川が流れる小さな谷はあった。
とても、美しいところだった。そこは前人未踏の世界なのだろう。樹木が高くそびえる場所的に、ここは日陰であり涼しいところだった。川の流れはほんとうに静かで、その水面の上を、カワセミが静かに横切っていく。
川の水を呑んでいたキツネは、不意に顔を上げた。
自身の聴覚でやっと捉えることができる音が、ゆっくりと近づいてくる。
キツネは危険だと判断して、すばやく森の中へと姿を消した。次の瞬間、キツネが姿を消した反対側の河原と樹海から、入れ違うように二匹の狼が姿を現した。純白で神々しくて、そして、明らかにこの世界の生き物でない狼が。
大きく跳躍し、音を立てずに地面を震わせずに着地する、威厳ある白い獣。
クレナイとムラサキは川辺に辿りつくと、ゆっくりと体を動かした。膝を折り曲げて、まるでお座りのような体勢になる。
クレナイの背中から静かに降り立つ、賢者『白拍子』……またの名を、白露姫。
彼女は怪我をした片手に白い布を巻きながら、川の水を掬い上げて、口に運んだ。疲れたように吐息すると、クレナイとムラサキが頭を擦り付けてきた。
式神の愛しさに『白拍子』は微笑を漏らした。
「大丈夫ですよ……私は、大丈夫です」
頭を撫でてやりながら、『白拍子』は呟いた。もっとも、その口調はどこか、自分自身に言い聞かせるようではあったが。
クレナイの体に背中を寄せて、『白拍子』は京の方向を見やる。
「白夜……もうすぐ、会えますよ……」
白露姫は、恋人の名前を口にする。
たとえどれほど非難されようとも憎まれようとも、私は全く構わない。
願いを叶えるためならば、たとえ残酷な手段であろうとも、躊躇なくそれを選択する。
あの人に、会いに行くためなら。
……たとえ選択の結果で世界が滅んでしまうとしても、私は残酷な手段を選択する。
――目的を、果たすためだけに。
遠く離れて、平安京……内裏。
内裏に召集された陰陽寮の幹部は、面を上げることができずに、ただ硬直していた。
賀茂保憲陰陽頭を始めとする彼の補佐官である陰陽助、天文博士、陰陽允、陰陽師らが顔を曇らせて、決して周りに目をやろうとせず、ただ少し前にある床に視線を釘付けにして、異様なまでに圧しかかる奇妙な重圧に耐えていた。
朝廷の権威者、藤原道長を始めとする貴族が、多数同席しているこの部屋。両側に居並ぶ彼らに、非難めいた視線を向けられている。いや、怪訝そうな視線を向けている。
いったい……なんだ、これは?
賀茂保憲とその息子の光栄は、先頭に二人並んで正座したまま顔を見合わせた。
「父上、これは……?」怪訝そうな口調で息子が呟き、父親は静かに唸った。
この部屋全体に、不吉な色が見られる。
それは視認するものではなく、陰陽寮にて経験と修練を積み重ねた者のみが感知できるもの。明らかに、同席している陰陽寮の人間は、ここに漂う奇妙な空気にもちろん気づいていた。
それは、明らかに妖気に似ているもの。
「陰陽頭、賀茂保憲よ、朕に答えよ」
向こう側から、円融天皇が、厳かに、一句をはっきりと区切って、重々しく尋ねる。
すでに……比叡山の方角にて確認できたあの怪異について、すでに報告は終えている。誰もが愕然としていた。同席している貴族たちは、己の身に降りかかるであろう災厄に恐怖して、安倍晴明の不在に戸惑っていた。
何故、安倍晴明が、このような一大事の報告に同席していないのか。
誰もが怪訝とした表情で、ひとりの貴族がそう尋ねた。それに対して、賀茂保憲は現在、安倍一族が比叡山に赴いている事実を話さねばならなかった。
賀茂保憲が、話し終えた時の、円融天皇の一言である。
「安倍晴明及びその息子たちは、現在、比叡山に赴いていると朕は聞いた……それはまことか?」
その問いに、居並ぶ貴族たちは愕然とした表情となる。
「あの異変が起きたのは……比叡山だったのでは?」
「如何なことが起きているか、我らは知るよしもないが……」
「何故、安倍晴明あろう者がいてあのような凶兆が防げぬ?」
解せぬ、と言いたげな貴族たちがひそひそと、しかし誰もが聞き取れるような声で囁きあう。
「御上…………もしや、あの異変」
賀茂保憲は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「安倍晴明が起こしたものと考えているのではありますまいな?」
「無論、そのような馬鹿げたことは、朕は考えぬ。だが……」円融天皇は思案する素振りを見せて、さらに続ける。「何故、安倍晴明あろう者がいて、あのような怪異は防げんのだ? 朕としてはそれが気になる……安倍晴明が、怪異に対して動いたか動かぬか、という事実が」
確かに、と若き天皇の言葉に、大勢の貴族が肯定するような動きを見せる。
「呪詛を放つ者は、捕らえねばならぬ。朕に対して不遜を働いた故にな」
次の瞬間、円融天皇は激昂したように立ち上がり、命令を下した。
「検非違使の一隊を、比叡山に向けて派遣せよ! 馬を走らせるのだ! あのような怪異を引き起こしたであろう不届き者を、疑わしき者を全て捕縛せよ! たとえ安倍家の陰陽師がいたとしても、必ず捕らえるのだ!」
――いったい、何が起きている?
藤原顕光はいま何が起きているか、まったく分からなかった。藤原道長を暗殺する計画に失敗した経験を踏まえて、藤原顕光は、死者を使って藤原道長を殺害しようと企んでいた。呪詛によって暗殺を試みる場合、この京には陰陽師が複数活動している。そのため、それらに調査が依頼されれば、すぐさま呪詛を行った者の身元が割れる。
だからこそ、藤原顕光は人間を使って殺害する方法を検討し始め、ふたたび彼の前に姿を現した蘆屋道満が、死者を用いて殺害を行う方法を考案して提案したのだ。
そのために、蘆屋道満は死体を使って死者を召喚する儀式場を京の内部に幾つか、さらに外部にも複数見つけ出し、そこで儀式を行い、死者の霊魂を死体に強制転移すると、藤原顕光に語った。
その方法だと、今度こそ自分の手が陰にあることは、誰も気づくことができない。慎重に蘆屋道満の策略を吟味した藤原顕光は、狂気に彩られた笑みを浮かべて、是非、やってくれと告げた。
――今度こそ、太政大臣の座を手に入れるために……
誰も気づけないような場所から、智徳法師は天皇の命令を聞いていた。
よし、謀は見事に進んでおる。
あの天皇がすでに操られていることに、気づく者は誰一人いないようだ。最も油断していた時に、智徳法師は動いた。背中を向けたその一瞬だけ、若き帝の背中に向けて、呪符を放った。それは傀儡として動かせるに必要な呪力が込められており、見事、円融天皇は気づく間もなく智徳法師の傀儡となった。
以来、帝は操り人形となり、智徳法師は自由に内裏のなかを動けるようになった。
「さぁて、事は次に進めねばならぬなぁ……」
宮中の人間に変装した智徳法師は、誰にも見咎められることなく、そして怪しまれることなく行動を開始した。縁側を歩き、妖気が色濃くなっていくその方向へと歩みを進める。
その先に何が待ち構えているか、智徳法師は知っている。
それを、求めに来たのだ。『日陰の一日』に、必要であり不可欠な布石を。
「ゆこう。京に巣食う大妖を、この手に従えるために…………」
すでに儀式場の準備は整え終えた。
『日陰の一日』がいつ起きても、もはや問題はない。
だが、問題は……それを妨害しに来るであろう安倍家の陰陽師。とにかく、安倍晴明は強力な鬼神を従えている。
一度は負けた。その強大な式神に。
だが……二度目はない。
安倍晴明とその鬼神をはるかに凌駕する大妖を、自分は確実な手段で従えるのだから。
天皇の詔を受けた検非違使の一隊は、馬を走らせて京を出て北東へと進路を取った。
目指すは、比叡山延暦寺。
「これは、まずいことになりましたね」
『天竺』の大妖、水虎の藍染は天皇の怒号の勅命を耳にして、急展開を見せた成り行きに戸惑いながら付近の建物の屋根に跳躍した。すでに、命令を受けて待機していた検非違使の一隊が、早速馬を走らせているのが遠くからでも見て取れる。
これは、まずいことになった。藍染はそれだけ理解していた。
安倍家の陰陽師たちが捕縛されるようなことがあってはならないことは容易に考えられる。何しろ、おそらくこの内裏のなかに潜んでいるであろう、影の勢力の主力の呪術師……智徳法師が裏でなんらかの謀を進めている可能性があるのだ。
呪術師に対して有効な戦力が、安倍家の陰陽師たち。過日の夜、蘆屋道満と戦闘を行った千木と藍染は、やはり安倍家の陰陽師という有効な戦力の重要性を再認識させられた。毒を以って毒を制しなければ、危機的状況の打開と計画の成功にはつながらない……
「藍染殿!」と声が、聞こえた。
思考からすばやく切り替えて、声のした方角に藍染が目を向けると、千木の部下である烏天狗があわてた様子でこちらに駆けつけてくるところだった。
「いかがなされますか? このままでは状況が悪くなる一方ですぞ!」
「言われなくても、その程度のことは理解しております。烏殿」苦笑を漏らして藍染は言った。「あなたは急ぎ、比叡山へ。さすがに千木殿も、この展開は見えなければ対応できないでしょう。急ぎ警告を。私は京に残って仕事を済ませましょう」
「かたじけない。では、私はこれにて」
すばやくそれだけを言うと、烏天狗は翼を広げて天高くに飛び立っていった。検非違使の馬とあれの速さはほぼ同等。ぎりぎりになるだろうが、あの策士のことだ、と藍染は冷静に考えていた。
おそらく、打開策はすばやく講じることが、できるだろう……
半ば確信して半ば信じて、水虎の藍染は比叡山の方角を、ひたすらに見やる。
三、
「これは……敵の策略と、怪しむべきか?」
闇のなか、静かに問う声があった。
修験者の道の途中、修練の途中にて悪の化身へと転落した者……“修験落ち”である。平安京の町並みを一望できる、ある建物の内部……けれど大きく開けた場所。
明るさと暗さが同居するその空間で、“修験落ち”は仲間に問いかけた。
数多の樹木の合間から、平安京の町並みを観察している陰陽師、蘆屋道満。
彼はある人物を誘き寄せるために、あえてこの地点で待機を続けている。死者の軍隊はすでに充分な数を整えている。穴は全て穿ち終えた。あとは、死者があふれ出して、死人が増えるだけだ。そうすれば、『計画』は見事に結果を打ち出してくれようぞ。
だが、蘆屋道満は慎重に戦略と現況を思考していた。
準備を終えているからこそ、考えなければならない。
何者にも邪魔されないほど、邪魔ができないほど、充分に備えたのだろうかと。
「……些細な問題があろうが、それほどの問題として捉えるべきか、多少悩むが」
暗闇のなか、ふたりの声を聞いた智徳法師は首を傾げた。
事実、彼はさほどの脅威としては捉えていない。準備を完璧に整えたと、確信しているのだからこそ。
彼はゆっくりと立ち上がって、静かに言葉を紡いだ。
「些細なことであることに変わりはあるまい。こちらの準備はすべて整っているのだろう? ならば何を躊躇う。問題などどこにもあるまい。準備を整えているからこそ、我々は邪魔者どもを迎える余裕があるのだ」
弓矢を番えて、智徳法師は矢を放った。暗闇から、外へと。
その矢は空を飛ぶ鳥に突き刺さった。小さな悲鳴を上げて墜落する鳥の体躯。それは比叡山から陰陽寮へと飛ばした、安倍晴明の式神である。
樹海の中、確かにその通りだな、と蘆屋道満は判断した。
「問題はあるまい。『日陰』の時を待てば、はっきりするだろう」
「たとえ、『天竺』と『太虚の覇者』が動いたとしても……」
“修験落ち”は町並みを凝視して、静かに言った。
「我らに、敵など有らず」
その言葉に重なるように、錫杖が不吉な音色を奏でる。
左京区にて、水虎の藍染は焦燥を募らせていた。
蘆屋道満を探すために、休むことなく動き続けていた藍染は、塀の上で立ち止まって、辺りを見渡した。青空の下に広がる、京の姿。建物が数多く連なっている。常人の目から見れば、普段と変わりない日常の風景だろう。
ただし、藍染の目から見れば、明らかに異常が紛れ込んでいた。
視認しにくい妖気が、周辺に広がっている。
いいや、これは妖気ではない。これは妖気に似て非なるもの。この世に存在することが出来ない、死者たちが持つ臭い。死者たちの気配……。藍染は顔を険しくする。気配があまりにも強くなりすぎている。おそらく、近くに伊賦夜坂の穴が穿たれて、そこから死者が群がっているのだろう。
さらに、死者の世界のものであろう空気……毒気とも瘴気とも言い表せるものも。
近くの廃屋に行けば、おそらくそこは死者で満ち溢れているに違いない。
だが……問題は、蘆屋道満だった。
死者の軍隊を今この時も休まずに造り上げようとしている、影の勢力の陰陽師。自身が持つ秘術を用いて、死者をこの世界に招きいれ、さらに死者の世界とこちらの世界を結ぶ大穴をも生み出す張本人。
彼が、この京から姿を消しているのだ。
死者の軍隊はかなりの数に膨れ上がっているはず。ひとり飛び込んでいっても無駄死にするだけだからこそ、藍染は蘆屋道満の追跡に専念していた。だが、死者の気配は強まる一方だというのに、肝心の蘆屋道満の気配はない。廃屋に隠れて、作業を続けているはずなのに……。
蘆屋道満を消さなければ、死者は増え続ける。
この京にいるのは間違いない。だが……
「……どこに、隠れた?」
うろんに辺りを見渡して、水虎の藍染は呟きながら再び活動を開始した。
「よく考えてみたらさぁ……」
安倍家の陰陽師と『天竺』の天狗の千木そして一条守の六人は、一旦、先ほどまで休憩していた『白拍子』の尼寺に戻っていた。置いていた荷物を取りに来たのだ。帰りの準備をしている時、ふと一条は気になって天狗に問いかけた。
なあ千木、と庭に降り立って声をかける。「そもそも、“太極”って何なのさ?」
「えっと、一条……おまえ、なんで今そんな問いかけを……?」
尼寺のなかに足を踏み入れずに、建物の外をぐるぐるしていた天狗の千木は、一条の問いかけに怪訝そうに歩を止めて顔を上げた。
先ほど、“太極”についてはきちんと説明していたつもりだった。万物を創造して消滅する、擬似的な『太極』がそれだ。本来人間では扱えないのに人間が扱えることができる能力。擬似的な神の力。それを掌握できるのが“太虚の覇者”であり、そしてこの世界のもうひとりの創造神たりうる存在。
それこそが、“太虚の覇者”一条守。
「それはさっき説明したはずだが……?」と、千木が怪訝そうに呟く。
「いやぁ…………“太極”って、なんだかすごく分かりにくくてさ。神様の能力だっておまえは言っていたけど、“太極”を掌握する時の……」一条は首を傾げた。「あの世界だよ。能力っていうのにはちょっと無理があるって感じがしてさぁ……」
「ちょっと待て、おまえ黙れ」
慌てたように天狗の千木がさえぎった。その時、一条はようやく千木が一度、“太極”を掌握させるための時、聞かせてはならない安倍家の陰陽師たちと離れたこととその理由を思い出して、慌てて口を閉じた。
だが、安倍家の陰陽師は怪訝そうな表情で話を聞いていた。
「いまの何の話だ? 一条?」吉平が首を傾げて聞いてきた。
「えーと、ごめん、忘れて」
「いや無理だろう」呆れたように山姫が首を振った。
一条は苦笑いを浮かべた。「じゃあ、気にしないで」
「そう言われてもさらに気になるだけだろう」千木が溜息混じりに言った。
その通りだと言いたげに、安倍家の双子の陰陽師は頷いている。説明をもとめる表情だったが、あえて言葉にはしなかった。
「安心しろ、おまえたちは嫌でも真実を目にすることになる」天狗の千木は、安倍家の陰陽師に向けて、奇妙な発言をした。「だが、今はその時じゃないから聞くな。疑問に思うだけで声に出すな。戦争が終わったら全部理解するんだからな、おまえたちは」
「千木……どういう意味だ?」一条は怪訝そうに問い尋ねた。
「真実なんてものほど無価値なものはないってことだよ」千木が静かに言った。「そして真実ってのは無価値なくせに、万象に対する効果があまりにも絶大に及ぶ。真実なんてものは、大抵覆い隠されたものだから、知らない者にとっては、それを知ることは衝撃的なんだよ」
しばらく思案して吉平は首を傾げた。
「……ふむ、で?」
「おまえも理解することになるが……この世界において真実こそが、最も禍々しいものなんだよ。じきに分かる」
謎めいた千木の発言に、山姫も怪訝そうな表情になる。
つまり……これは、『天竺』のメンバーが知っていることではなく、“太虚の到達者”である千木だけが知っていること。千木だけが理解していること。
「でさぁ、“太極”って具体的に何なの?」
しばらく天狗は、どこをどう説明したらいいか悩んでいるような様子で頭を掻いていた。
「世界が始まる場所であり、終わる場所でもある」千木はまずそう語った。「この世界の根底をなす森羅万象の一部としても組み込まれていて、万象にはもちろん絶大な力を及ぼすし、たとえばそこら辺にある木を全部枯らすような、そんな操作もできるし……んんんん、分かっていることほど、説明しづらいものはないな」
「うん、最後のはどうでもいいけど」
「まあ、とにかく、“太極”という呼び方はあまり知られていないほうだな。宗教的な一面もあるし……別の呼び方のほうが、逆に親しみがあるかもしれないな」
「それって?」一条は首を傾げた。
「――根源、だ」
その言葉に、一条は一瞬だけ息を止めた。聞き覚えのないはずの言葉なのに、どこかで聞いたことがあるような、そんな感じがした。
しかもそれは、とても重い感じ。その一言で何かが一瞬だけ変わったのが分かる。
「根源……って……」
「根源と太極はほぼ同じだ。この世界の起源と終点。全てのものとつながっている、始まりでもあり、終わりでもある場所。全てのものが、根源につながっていて集まって束ねられている。そこには力や知識が大量に眠っている」
「力や……知識……」
天狗は聞かれるのを困るのか、囁くような声で言った。「おまえはそこにアクセスして、データを引き出す作業を高速で行うことによって、武器を作り出したりする方法や、誰かの怪我を治癒できる知識と力を入手することはできる。ようするに、百科事典で探しているものを見つけるようなものだ。分かるか?」
一条はしばらく沈黙してから頭のなかを整理した。じゃあつまり、太極(もしくは根源)は、この世界のパソコン本体という訳か。“太極”とはそのパソコン本体の機能そのものであり、“太虚の覇者”は、そのパソコン本体を操作することが出来る数少ないユーザーというわけだ。
なんとか理解した一条は頷いた。
「天狗殿、そろそろ下山しましょう」支度を整え終えた安倍晴明が声をかける。
天狗の千木は静かに頷いた。「そうだな」
ようやく一行は、『白拍子』が居なくなった尼寺に背を向けた。来た時より辺りはわずかに薄暗くなっていて、何かが変わったのがはっきりと分かる。いまにも獣が飛び出してきそうな雰囲気で、思わぬ空気の冷たさに一条は身震いした。
「寒いか?」淡々とした口調で、どこか気遣うように山姫が言った。
「あー、うん。でも、そこまでひどくないから……」
道なき山道を降っていきながら、最後尾で一条と天狗は話を続けていた。「なあ千木……俺はさぁ、“太極”は掌握したんだけどさ、まだ完全に使いこなすことはできていない。いまもまだ、本能的に“太極”を使っているだけに過ぎないんだろう?」
「そうだな、“太極”の真価をおまえは引き出せていない」天狗の千木は肯定した。「最終的に“太極”を極めれば、世界を修正することも再創造することもできる。神になることすら可能だ。全知に通じ、万物を掌握、万象を覆す。それこそが“太虚の覇者”なのだからな」
「それが、イコール神様って事ね」ふと手を休めて、一条は千木を見上げた。「千木、正直に言うね……俺、そんな力はいらない」
千木は瞬きだけした。
「神様になれるってことだよね。でも、俺はそんなものになりたくないし、なろうとも思わない。大体、そんなものは欲しくもないんだよ。俺はただ、誰かを助けるのに必要なだけの力が欲しいだけ。あれもこれもはいらないんだ」
それと……と、一条は小さな声で続けた。「知識とか、なんかの情報が……頭に自動的に入ってくるってことが、すごく辛いし……怖いな」
「どうしてだ?」
千木の問いかけに、一条は苦笑した。こいつ、ほんとうに分かっていないのだな。
「いや、千木……自分が知っている情報じゃなくて、自分が知らないはずの情報だって、頭のなかにあるんだぜ? 自分が今まで見たことがない景色を、見たように錯覚してしまう。これって、充分に気持ち悪いことだから……あまりにも情報がありすぎて、自分自身のことを、見失いかねないだろう……“太虚の覇者”って、いいように見えるけど、結構不便だよな」
そうだな、と千木は呟き、唐突に、一条の胸元にある黒瑪瑙の“呪い封じ”に手を伸ばし、それをしっかりと握り締めた。仄かに見える千木の妖気の輝き。千木がいったい何をしているのか、一条には分かった気がした。
「……それって、これから先に、悪い方向に転がらないための予防策?」
おそらく千木は、一条が“太極”の膨大な量の情報に呑み込まれないために、“呪い封じ”を
「そういうことだ……。確かに、おまえには“太虚の覇者”の資格があっても、向いてはいないよな。だけど……おまえだからこそ、何かができると、俺はそう信じているんだよ……いいか、一条。極めるな。ただ理解するだけでいい」と、千木は最後に呟いた。
「いや、理解すると極めるって大差なくねぇ?」
「ある程度の使い方だけをマスターしろ。それだけで充分に事足りるだろう。いるものだけを身に着ければいい。重武装の必要はないし、何も万能にならなくても、全知に通じなくても困らんからな。もう、自然に情報が頭のなかに入り込まないように、手は打ったし……」
しばらく歩いてから、一条は話題を変えようとした。「なあ、おまえは欲しいって思ったことがあるのか? 万能とか……権力とか……富とか」
「いや、ないね。大体、四天王としてこの京に縛り付けられること自体が嫌だった。ほんとうは普通の天狗として、空を飛びたかった。実際に、大陸の地平線にある天竺に、そしてその向こう側の国々を……俺は見たかった」
千木の声はとても、抑えきれない感情を、辛うじて抑えている、そんな危うさを帯びていた。
「山姫……とかは、何かあるのかな?」
こちら側を怪訝そうに、あるいは退屈そうに見やっている彼女を振り返って、一条は囁くように尋ねた。
「山姫は、どちらかというと自分に関しては『疎い』ほうだ。自分自身が生きている実感を得られないからこそ、ほとんど、自分を殺すようにして、生きている実感を求めている。この戦いにあいつが参戦したのは、とにかく、目的があるからな……片時も休むことなく、動き続けることができるっていう」
一条は怪訝そうに千木を見やった。「……山姫は……何かあったのか?」
「元々奴はこの京の周辺にいた妖怪じゃない。別の場所にいたんだ。それを、各地を旅しながらこの地に流れ着いた。我が組織『天竺』に勧誘するまでの間……何があったのか分からないが、何かあったんだろうな……」
何があったんだか、とか呟きながら、千木はつまらなげに説明した。
「そういえば、藍染さんっていったい何者なの? 中国風の姿だけどさ」
「ああ、あいつは元々中国で生まれ育ったからな。ちなみに俺の先輩だ。大陸で三つの王国が争っていたとき、諸葛孔明だったかな、そんな軍師に命を助けられたことがあったらしく、以来、彼の姿を好んで使っている……あと、あいつが持っている武器は、関羽という名の将軍が使っていた冷艶鋸をパクって来たモノだってさ……なんでも関羽に殺されかけて、なんでも仕返しだって話で……」
「冷艶鋸って……?」怪訝そうに一条は首を傾げたが、ずいぶん前に読んだ三国志の内容を思い出して、ひとつの名前が頭に浮かんだ。「それってまさか……青龍堰月刀か?」
「ああ、そう、それがもうひとつの呼び名だったっけ?」
千木が頷く。
……藍染がとんでもないことをしていることには気づかないんだな。
とりあえず目先の問題だけを考えることにして、一条は頭を振った。
修験落ち、蘆屋道満、智徳法師を主力とする陰の勢力……彼らがこの世界を滅ぼそうとするべく、『日陰の一日』の準備は着々と進んでいる……
それに対して、自分たちはまだ何の準備もできていない。
“太虚の覇者”としての能力は、発揮するにはまだ足りない部分があるらしい……おそらく数において圧倒的に劣勢である自分たち側の陣営は、数においてものを言わせるのではなく、技術力と知力で対抗しなければならない。少数精鋭によって行動しなければならない。
ただし……問題は山積み状態だと言っていい。
まず、自分が太虚の覇者の能力に、いまだ完全に目覚めていないことだ。これは、こちらの戦力を大きく殺ぐことを示す事実だろう。これは致命的ともいえる。
次の問題は、人間界が、この戦争が勃発する可能性に関して露程も考えていないということだ。すでに『白拍子』が放った呪いによって、平安京を古くから防護した防壁は内側から破られ、防衛網の効力が無効化されている。
平安京の人々は、いまこの世界で何が起きているかすら、その前兆も読み解けないのだろう。
いまでは自然と、それが当たり前のこととして理解できるようになっていることに、一条は気づいていた。これが、“太虚の覇者”の能力に目覚めている影響なのだろうか?
とにかく、陰陽道の本来の役割は機能しなくなっている。星などの天文の動きを読んで、さらに占いなどによって、この先に何が起こるのかなど、陰陽師たちは大体のことを予測することはできたが、もはやこの世界ではそれが使えない状況になっている。
自分の進む道のその先を見渡せない状況だ。
第三の問題点で、さらに致命的なのが……『白拍子』の離反。
あの式神使いはあまりにも圧倒的に強すぎた。かつては『白虎』として知られていた今の修験落ちと恋人関係にあったと、すでに天狗の千木からは教えてもらっていた。だから、あの式神使いが再び自分たちの目の前に姿を現すとき、戦場で、味方なのか敵なのか理解できないというところだ。
これは戦略的にも重大な問題となる。戦局を、分ける、大きな要だ。
多少の整理を終えて、一条はため息を吐いた。
「整理はできたか?」千木がしばらくして尋ねた。
どうやら、自分が考えていることに気づいていたようだ。
「んー、なんとなく……分かったような気がするよ。でも完璧には整理できないよな。何しろ、すっげぇ厄介な事態なんだから」
そりゃそうだな、と千木は軽く笑った。
「世界には必ずシナリオめいたものが存在する。必ず。たとえば、分かれ道で右に曲がるか左に曲がるかで、結末は大きく異なってしまうかもしれないが、それは法則性にとらわれている時点で、シナリオに組み込まれているんだ。だけど……この世界で厄介なのは、そのシナリオ……世界の法則性を根本的に無視した事象がいま起きて進行中だということ。どう動いたらどうなるか、それすらも予測できない状況だ。たった一歩踏み間違えただけで、世界が滅んでしまうっていうこともあり得るんだ……だから、慎重に動かないといけない」
「詳しいな、ほんと、おまえ……」
「諸事情でいろいろとね……だいたい、君も“太極”に近づきつつあるんだから、知らないようなことを理解しているはずだよ。違うかい?」
確かにそうだな、と一条は頷いた。
「そうなんだよな……ちょっときつくてさ。というより、気持ち悪いよな」
先ほどから、何か奇妙なものが見える気がする。見たこともないのに、なぜか懐かしさを感じてしまう、奇妙な光景、情景、映像……知っている顔がある気がする。けれど、はっきりとは分からない。
一条は疲れを感じて溜息を吐いた。「ところで、これからどうするのさ?」
「まず下山してから、京に向かう。安倍家の陰陽師たちは宮廷で動いてもらわなければならないし、俺は京で動いている藍染と一旦合流する。おまえと山姫は安倍邸で待機。その後に、情勢次第によって天狗の里に行って、修行だな。おまえが、“太虚の覇者”として動けるほどに技量を極めれるように、な」
「……スパルタだな」小声で一条が言った。思わず苦笑が滲む。
「仕方ないだろう。状況は切羽詰っているんだ。何もしていないまま終わる一日なんて来ないぞ」同じく苦笑して千木は言った。「時間が経過することに事態は悪化する。俺たちに出来るのは、その時、どれだけ早く動けるかだな」
「千木!」背後を歩いていた山姫が不意に声を上げた。
一条は振り返った。どうしたのだろうか。
「……大丈夫だ。これは俺の烏天狗だな」空を見上げて、千木が呟いた。
「烏天狗?」
「天狗の使用人みたいなもんだ。従者だな。で、そいつはいま京都で藍染のサポートに回していたんだが……何かあったみたいだな」
わずかに眉根を寄せて顔を曇らせる千木。
安倍家の陰陽師たちも、千木の不安げな言葉に立ち止まって上空を見上げる。
一条も、近づいてくる妖気を感知して、その大体の方角に目を向ける。
吉報か、凶報か。
思わず不安になって一条は目線を頭上に上げた。樹木と枝葉の間からわずかに見える青空。そこから、何かが近づいてきているのが、はっきりと分かった。
安倍家の陰陽師たちも、顔を上げて怪訝そうに千木を見やる。「あれは……千木殿のお知り合いですかな」と、晴明が尋ねる。
「そういうもんだ。手は出さないでくれよ」
千木がそう言うと、次の瞬間、小さな風音を立てて、烏天狗が地上に降り立った。
「主、もはや京へは入られてはなりません!」
開口一番の甲高いその報せ声に、誰もが眉根を寄せた。
それほどの報せならば、京で何かまずいことが起きたのだろう。
「凶報か」顔をしかめて千木が尋ねた。「どうした、黒衣。なにがあった?」
「若き円融なる者が、検非違使を派遣したのです。武装して、その数五十。現在、こちらに向かってきております! 宮廷に潜入した智徳法師が、言葉巧みに円融を騙して、検非違使を仕向けるように事を運ばせたのです。もはや一刻の猶予もありますまい!」
千木は舌打ちした。事態が最悪な方向に転がりつつあるようだ。
馬であるならば、移動速度はかなり速いだろう。もう比叡山に着いていると考えてもいいだろう。「奴らの現在位置は? あとどれくらいでこの場所を見つけ出す?」
「もはや一刻もないかと思われる故。お急ぎください、主!」
緊張と焦りを隠せぬ様子で、烏天狗が急かす。その様子から考えるに、ここでぐずぐずしていればまずいことになるのだろう。
「慌てるな、落ち着け」冷静な口調で千木が言った。「これは、確かに致命的な事態だ」
一条は千木に顔を向けた。静かな口調で致命的といっているが、まだ余裕がある。
何か作戦でも思いついたのか?
「だが、まだこちらに利点は残る……禍転じて福と為す。実行に移すときだ」
“太虚の覇者”として目覚めたばかりの一条は、千木が不穏な気配を放っていることに気づくのに、数秒遅れた。山姫は怪訝そうな表情を浮かべており、安倍家の陰陽師は顔を強張らせている。
陰陽師たちと一条が非難と制止の叫び声をあげようとしても、すでに手遅れだった。
次の瞬間、千木の妖気が、いきなり爆発した。何の前触れもなく、あまりにも苛烈に。
無防備な視線でいた一条は、衝撃に堪えることができずに無様に吹き飛ばされたが、山姫がすばやく体を支えてくれた。だが、安倍家の陰陽師の三人は、突然のことに体勢を整えることができずに吹き飛ばされていった。
「千木、やめろぉ!」
慌てて一条は叫んだ。
――いったい、何をやるつもりなんだ、あいつは!
四、
「安倍家の陰陽師が反逆とは……なんと、大それたこと」
検非違使の一隊を率いる男は、比叡山の山道を駆け上がりながら、息を切らし、そう呟いた。すでに比叡山の僧侶たちから、話は聞いていた。この山奥に住むという『白拍子』なる女賢者の許に、安倍家の一行が訪れているという。聞けば、その者は呪に蝕まれながらも叡智を持つという、京一の賢人。もっとも……自分はつい先ほどその名前を知ったばかりであり、おそらく陰陽師など怪しげな者のようなものとしかつながりがないのだろう。
『白拍子』なる者が住んでいるという獣道はすでに見つけていた。
部下に急げと怒号を飛ばしながら、検非違使の隊長は走り続けた。すでに汗で体が冷たく気持ち悪かったが、事態が重大であり、朝敵を捕縛せよとの厳命。取り逃がしてはならないゆえ、急がねばならない。
その時、前方で派手な轟音が聞こえた。
いかん、もし朝敵がさらなる呪縛を放とうとしているのであれば、この命に賭けても何としてでも阻止せねばならぬ。
そこにいるであろう人物の名前を、検非違使の隊長は叫んで現場へと突入した。
「安倍晴明殿、並びに吉平殿、吉晶殿!」
それぞれの武器を構えながら、検非違使が現場へと乱入する。矢を弓に番え、刀剣を抜いて構えて、全員が包囲するように陣形を整えながら走り続ける。獣道の途中、少し開けた場所だった。彼らはそこで、思わぬ事態に足を止めた。
なんだ、これは?
彼らの目の前には奇妙な成りをした人間が三人もいた。ひとりは京の人間のような風体をしているが、どことなく奇妙な印象を与えている。わずかに見慣れぬ黒い布地が覗いている。さらにその後方に、男と女の組み合わせ。このふたりは、明らかに異様な服装だった。明らかに、異国めいた雰囲気を放っている。
「何者か、控えろ!」
思わず誰かが叫んだ。
次の瞬間、一番前方にいた少年めいた人間が動いた。一歩、前へ踏み出す。
恐怖を覚えたのか、思わず、反射的に誰かが矢を放った。
「馬鹿者!」思わず、検非違使の隊長が叫んだ時だった。音も無く、信じられないものが、目前に躍り出た。
鎖、である。
大きな弧を描きながら。まるで円を描くようにぐるりと動く。それはまるで、蛇が獲物を捕らえるような、そんな不気味な動きで空中を高速で移動していた矢を絡め取った。しかも、在り得ないことに、高々と矢を持ち上げると、それを地に落とした。
……明らかに、異様な動きだった。
不敵に佇む少年を見つめて、あれは人ではないと、誰もがそう直感した。そして、鎖を見やる。あんなものは今までどこにも見当たらなかった。それが、長い尾を引きながら、どこからか飛び出してきたのだ。あんなもの、絶対に人が作り出すようなものではない。
「討て、討てぇい!」
半ば悲鳴めいた、緊張を孕んだ命令に、慌てて検非違使の攻撃が始まった。矢を番えて放ち、その隙に何人かが悲鳴めいた叫び声を上げて、武器を構えて突進する。
だが、次の瞬間、暴風が森のなかに忽然と起きた。
あまりにも強大なその暴風に、不審な人型の化け物に近づこうとした検非違使の何人かが吹き飛ばされた。放たれた矢は目標から大きく逸れて地を転がる。
「クッ……なん、なのだ、あれは?」
思わず腕をかざして、検非違使の誰かが混乱して呟いた。
目を開けた瞬間、目の前にあの三人組の奇妙な存在は消え去っていた。
思わず呆然として誰もが立ち尽くす。
そして、ようやく何人かの検非違使たちが、周辺を見上げて敵がないか見渡し、敵影の代わりに、おぞましいものを目にするのである。
「ああ、あれは……」
「なんという、ことだ……」
何人かが呟き、ざわめきが起こる。
検非違使の隊長は視線を転じて驚くべき光景を目にした。
はるか昔からここにあったのであろう。神木めいた空気を持つ三つの樹木に、安倍家の陰陽師の三人が、気絶した様子で縛り付けられているのだ。鎖で。ジャラリ、と風に吹かれてかすかに動いた鎖が、小さな音を立てる。
「……陰陽師殿をお助けする。みな、動け」
かすれた声で命令する隊長。その言葉に、緩慢に全員が動きだした。何しろ高さは並みの男三つ分の背丈ほど。簡単に届くはずもない。時間がかかるだろう……何とかしてあの三人を保護して、事態を報告すべく帰京せねばならない。何か大変なことが起きていることが、はっきりと分かる。
「いったい……、なにが、起きているのだ」
誰か答えてくれることをかすかに願い、その問いかけを口にしてみる。
だが、誰も答えてくれるはずがない。
誰も、何かが起きていることを察知しても、何が起きているのかは理解できないのだから。
「あんなことを……する必要があったのかよ」
頭では理解しているが、やはりどうしても納得ができない一条は、口を開いてかすれた声でそう尋ねた。
場所は上空。足場がないというのに一条が立っていられるのは、天狗の千木が天狗風を操作しているからだ。いま、天狗の千木と山姫と一条は、天狗風によって上空を高速で移動中だった。目的地は鞍馬山の天狗の里。千木の生まれ故郷で、そこで“太虚の覇者”の訓練を行うという。
千木は振り返った。「言わなくても、分かっているはずだぞ」
「あんなやり方……理解できても、納得できる訳がないだろう」一条が小さく言った。
千木は束の間沈黙した。「確かにな。だが、ああするしか方法はない……智徳法師の計略を、なんとしてでも無効化しなければ……この戦争で俺たちは負ける。だから、ああするしかなかったんだ」
ふたたび、思案……
千木ははやくも検非違使の派遣が智徳法師によるものだと断定していたな、と一条はふたたび思案した。たしかに、蘆屋道満は死者の軍隊を造る作業に専念していて、智徳法師は内裏で死者の神を召喚させるための儀式場を整えている。そして、“修験落ち”は……冥界の扉を開く準備を整えた。
いま分かっている情報を整理すれば、影の勢力の動きはざっとこんなものだ。
内裏に潜入している智徳法師は、情報を集めやすいポジションにいるのだろう。即ち、円融天皇のお膝元。お得意の秘術を使って天皇を傀儡にしたと思われる智徳法師は、巧みに状況を操りながら、安倍家の陰陽師を反逆罪で捕縛させるべく、検非違使の一隊を比叡山に向けて派遣した。
状況は簡単に理解できる。間違いなく、検非違使の派遣の裏には智徳法師の謀略が潜んでいるはずだ。
安倍家の陰陽師を捕縛させることにより、儀式場の安全を完璧に確保するのが智徳法師の狙いだろう。昨晩、千木と藍染がふたりがかりで蘆屋道満を攻撃したのに勝てなかった事実から、やはり陰陽師は戦力として重要で必要。
『天竺』の千木、藍染、山姫……そして、“太虚の覇者”一条守る。
この四つのピースだけでは、この戦争に勝てる確率があまりにも低すぎる。
何しろ妖怪は陰陽師にとても弱いのだ。陰陽師といった呪術師は、妖怪退治を生業にするものが多い。だからこそ、『天竺』のみの戦力では勝てる保障がないので、千木は安倍家の陰陽師に接近した。どうしても、千木は陰陽師という戦力を必要としていたのだ。
呪術師には呪術師を。毒には毒を以って制するというやり方に、千木は目をつけた。
安倍家の陰陽師はこの戦争において、こちら側が絶対に失ってはならない戦力。
だからこそ、彼らを被害者として内裏に留まらせておくことに、千木はそう決めたのだ。
安倍家の陰陽師が昏睡しているのは、千木が強引に妖気を体内にぶち込んだからだ。
簡単に言えば、千木の意思と力が、いま安倍家の陰陽師の体を支配している状態だ。千木の妖気が三人の陰陽師を昏睡させている。千木の妖気と千木の意識が、彼らの力と意識を圧倒的に抑え込み、自我を強引に眠らせているのだ。
それは一見、呪いと見受けられるが、実際は呪いではない。
だが、京の人間たちは呪いとしか考えないだろう。
だからこそ、安倍家の陰陽師の呪いを解くために、何とかしようとして、全力を尽くすだろう。その間に、彼らの命が危険にさらされるとは考えられない。おそらく陰陽寮などそういった場所で安倍晴明、吉平、吉晶の三名は安置されるだろう。
たとえ智徳法師が『天竺』の計略に気づいたとしても、手は出せない。
「……それでも俺のやり方が許せないんなら、一条」彼に顔を見せず、ただ前を見据えていた千木は静かに口を開いた。「戦争が終わって……全てに片がついたとき、その時、俺を裁け。殺したって構わん」
「おい、千木!」慌てて山姫が声を上げる。
奇妙なまでに重みを帯びたその言葉に、一条は顔を上げて、千木を見つめた。
――殺しても構わない? 裁け?
「……どういう意味だ」
「いずれ分かる。いずれ説明する……俺は、おまえに対して罪を犯している妖怪なんだ」と、千木は静かに、それだけしか言わなかった。
だから、裁けと。
一条は千木の後姿を見つめた。
結局のところ……すべて、こいつの思惑通りなんだ。何から何まで、何もかも。
こいつは何も明かさない。すべてを教えてくれない。必要な情報を、段階的にしか明かさない。どこか、信頼できない妖怪だ。ほんとうに、人間以上にずる賢い策士だ。
謀略を読み通し、智略を巡らし、戦術を整える。それが、千木。
すべて、こいつの思惑通りなんだろう。
俺はさっきの言葉に興味を持った。だから、それを知りたいと思う。
つまり、どうしても、俺はやらなければならないんだ。
こいつの思惑通りに動いて、戦争に勝たなければならない。そうしなければ、この疑問の答えも、千木がほんとうは何者なのかも、まったく分からないのだから。
奇妙な霧を漂わせる山奥に、千木と山姫と一条は近づいていった。
鞍馬天狗の里は、とても神秘的な場所だった。
ひとつずつの樹木が霧をまとい、誰も足を踏み入れたことがないような、樹海の世界。時折獣の影がすぅっと横切り、鳥の鳴き声や狼の咆哮がかすかに木霊す。風は信じられないくらいに冷たい。風に揺られた拍子に木の葉から水滴が落ちていく様は、まさに芸術だった。
とてもきれいな樹海、その真っ只中に、天狗の里はあった。
幹の太い樹木の間に架けられた橋や空中回廊は、小さなヤドリギや花などの苗床のようなところにもなっている。天狗たちの住処は幹の太い樹木を刳り貫いて内部に造るか、もしくは樹木をぐるりと囲むように、木造の住居を樹木に張り付かせている。それらは全て平安京のように四角い印象を与える建物、町並み、外観、世界観ではなく、自然のなかに溶け込み共存する天狗たちのスタイルを表現していた。
どの国も達することができなかったであろう芸術の極み、それこそが天狗の里である。
千木と山姫と一条が降り立ったのは、縄文杉のように立派な大樹だった。人間世界にはない建造物が築かれている部分が三層もあり、それら全てが通路のようなもので螺旋状につながっている。一条はその建物を見上げて、ただすごいとしか思えなかった。
「ここが、天狗首領の屋形だよ。鬼一様にまずあう必要があるな」
広げた天狗の黒い翼をゆっくりと仕舞いながら、千木がそう言った。「鬼一様は剣術の達人だ。人と人界との交流もあって、人に対しては好意的だ。今回の戦争に関しても、率先して派兵して『影の勢力』との交戦を決意したお方だ」
一条は千木に視線を戻した。
「すごい……ひとなんだな。おまえがそれほど敬語で説明するんだから」
「ああ、俺もあの方からの武術の鍛錬を受けたことがある。玄武に選定されてからも世話になってばかりだ。恩を返すことができずに歯がゆいが……」千木は頭を振って、一条に振り返った。「ただし一条、分かっているとは思うが礼節は弁えろよ。いくら“太虚の覇者”であろうとも、いくらあのお方が人に対して好意的だといっても、おまえがそれほどの者として見込まれない限り、“覇者”としての鍛錬などはさせてもらえないぞ」
「分かった、気をつけるよ」一条は千木に頷いた。
「行くぞ。気を引き締めろ。一秒たりとも油断なんかするなよ」
重々しい口調で千木はそう言って、天狗風をふたたび巻き起こした。
目の前にある重い扉が、天狗風によって両側に大きく開かれていく。重々しい蝶番が軋む音。暗闇のなか、何かが潜んでいるという気配だけが伝わってきて、本能的に一条は恐怖して、緊張した。
目の前に歩き出そうとすると、奇妙な色の炎が空中に灯り始める。
何もないところに、何も燃え出さないところに、そんなものが突如出現するのはいささか不気味ではあるが、一条はすでに見慣れた感じでそれを見据えた。あれは妖気で造られた灯火だと、すぐに気づいた。
間違いなく、相手は誘っている。
――ここに、来い、と。
「行くぞ、一条」
先頭を千木が歩き出す。少し遅れて一条も歩き出す。
「大丈夫だ。傍にいる」
傍らから、静かに声をかけられて、背中に軽く添えられた手が、一条の背中を押す。
一条は隣を見た。
山姫が、小さな笑みを浮かべて、ただ、静かに、無言で、がんばれと言っていた。
後の時代に幼少の源義経に剣術を教えた、鬼一法眼の名でも知られる鞍馬天狗の僧正坊。
鞍馬山の首領たる大天狗は、周辺に妖気で形作った灯火を浮遊させて、それを不規則に左右上下に動かしながら、薄暗い建物の中、広さも狭さも分からない空間のなか、一条と山姫と千木を迎え入れた。
あまりにも建物の中は暗すぎて、地面がまったく見えなかった。それが、わずかに恐怖心を抱かせてしまう。
一条は困惑を覚えた。地に足がちゃんとついている感じがしない……
それに、この暗闇も違和感がある。かなりの距離を歩いた気がするが、いまだ壁に突き当たる気配はない。
おそらく、ここは鞍馬大天狗の領域……
「よう戻ったな、千木」
暗がりの中、灯火だけに照らされて、青白く赤黒く天狗の面が浮かび上がる。わずかに見える服装は修験者と陰陽師を掛け合わせたようなもので、腰の両側にはそれぞれ二本の太刀の鞘が見える……なぜか、人間臭い、そんな雰囲気を漂わせている。
「状況は洒落にならんほど悪化しているそうじゃないか……智徳法師や蘆屋道満といった敵陰陽師はともかく……問題は、“修験落ち”だ。やつは難敵だ。冥界の扉を開ける術を持っているだけではない……分かっていような?」
一条は眉根を寄せた。この大天狗は、“修験落ち”が一番危険と判断しているようだ。
――いったい、何故?
「重々、承知であります」天狗の千木は静かにそう言った。
ふむ、と鞍馬大天狗は口にすると、視線を千木から一条に転じた。値踏みするような、そんな眼差しと雰囲気で。
「その者が、おまえさんが言っていた、“太虚の覇者”……一条守とやらか」
突然に名前を呼ばれて、一条はビクリとした。
ただ、名前を呼ばれたからではない。
突然、妖気が目ではっきりと捉えられるほど、肌で感知できるほど、苛烈に色濃くなって大気を震わせたからだ。
敵意見せぬ、殺気滲ませぬ、予測すら許さぬ、――攻撃だった。
これは、小手調べか――
すでに千木と山姫は知っているからか、自分の妖気を色濃く顕現させて、シールドのようなものを造りだしている。突然、ダムが決壊したように押し寄せてくる妖気を、『天竺』の大妖は難なく防いでいたが、突然の予期できぬ攻撃に、“太虚の覇者”たる一条は、防御と言った何の対応もできずに、妖気の奔流に呑み込まれようとしていた。
「一条!」慌てて山姫が彼の名前を呼んで、彼を助けようとするが、
「動くな、山姫」と、千木が静かに制止した。
天狗の千木だけは言葉だけを放ったように見えた。だがしかし、常人の視界が利かないこの暗闇のなか、鞍馬天狗の鬼一……僧正坊の妖気によって造られたこの異界のなか、天狗の千木は天狗としての攻撃を静かに放っていた。
一歩踏み出そうとした山姫のその手前、ほんの一瞬だけ、天狗風が息吹いた。
何かが床に突き刺さる音が、三度。それは、明らかに鋭利なものが発する音だ。
天狗の千木は何かをした。それだけしか分からない事実が、山姫を停止させた。
「ッし、しかし!」山姫が同胞を振り返る。顔には色濃い非難が現れている。
「いまここで動いたら、一条のためにならんぞ」千木は何かを堪えるような、そんな苦しげな表情で口を開いた。「いま動いたら、それはおまえ自身のため。あいつのために、今は、動くな……いいな」
「…………分かった、」なんとか己を自制して、
山姫はただ祈り続けた。一条に対して、ただ、がんばれと。
天狗の千木はただ念じ続けた。無表情のまま、感情を面に出さずに、ただ、頼む、と。
天狗の千木に見守られる中、山姫にただ祈られる中、鞍馬の大天狗に試されるその時。
一条守は、“太虚の覇者”として敗北寸前の状態にあった。
大天狗の妖気が、あまりにも苛烈な色を帯びすぎていた。いまや一条は妖気の色や波長を認識できる状態にあるが、殺気すら敵意すら滲ませない、一瞬の隙すら見せない、苛烈な妖気の奔流に、成す術もなかった。
敵意ある攻撃、殺意ある行動……それが、いままで一番怖ろしいものと思っていた。
ただ、それだけしか知らなかったから、それだけが怖ろしいものと判断していた。
だが、現実は違った。
一条守は知らなかったのだ。ほんとうに怖れるべきなのは、ほんとうに恐怖するべきなのは、無言で寡黙に、逃走と反撃の隙すら与えず、生きるか死ぬかの極限状態のなか、ただ相手を圧倒させる、この種の力であるべきことを。
試されているだけなのに、殺されてしまうと、一条は恐怖していた。
寸でのところで造り上げた神通力の防壁も、ただ、妖気の奔流に呑み込まれるのを防いでいるだけに過ぎない。
いずれ、この防壁ごと押し流されてしまうだろう。
神通力が渦巻く中心にある“太極陣”越しに、一条守は大天狗を見据えた。
どうすれば、反撃できる?
…………押されているな。
鞍馬大天狗の鬼一法眼は、冷静にただ淡々と状況を観察してそう判断した。“太虚の覇者”といえども、いまだ幼少の少年。何から何まで小さすぎる。それが、彼だった。ただ立っているだけで精一杯の彼を目にして、大天狗は溜息を吐いた。
「千木……見込みはない。こいつを外に連れて行け。安全なところにな」
「鬼一様、話が違いますぞ」大天狗のことばを予測していたのか、千木は即座に反論した。「あなたは言われた。地に片膝すらつかずに自身を圧倒すれば、それでいいと。片膝ついたならば、見込みなしとの判断には納得できますが、いまの状態では納得できませんぞ」
もっともな反論ではあると、大天狗は頷いてやれやれと内心呟いた。
軽く、溜息を吐く。どうあっても、奴に見込みがないことは明白だというのに……それほどまでに、この可能性に未練を残すというのか。千木は。
ならば、こちらも全力を持って潰しにかかるしかあるまい。
「少年……ただ、未熟な己自身を恨め」
もはや届かぬであろう言葉を口にして、大天狗は本気の力を持って潰しにかかった。
全力の妖気を、津波のように、苛烈に押し寄せながら。
「――一条!」
鞍馬の大天狗、鬼一法眼の妖気が強大化したのに気づいて、山姫は真っ青になった。あれを食らえば、たとえ“太虚の覇者”といえども重傷は避けられない。
慌てて駆け出そうとする山姫に対して、千木は腕をかざして無情にも制止をかける。
「千木! いい加減にしろ!」さすがにその行為に激怒して、山姫が怒声を上げる。
「頼む……最後の一瞬まで、待て」
その言葉の奇妙な響きに、山姫は天狗の千木の横顔を見つめた。
その顔は、とても苦悶に満ち溢れていた。
最後の希望は、もはや『最後の一瞬』までだった。
千木と山姫が、ただ希う奇跡の瞬間……まさしく、一条が大天狗の妖気に打ち勝つという、絶望的な奇跡が起こることを望む、最後の一瞬。
けれども、もはや結果は迷惑だった。
『最後の一瞬』は、もはや、一条守がただ無力に無様に、鞍馬大天狗の鬼一に打ち負かされるという、確定したと誰もが感じ取ってしまう、絶対的な可能性に傾いていた。
妖気の奔流が、激しさを増した。
負けるという確信が強まった瞬間、捨て身の愚策に、一条はすべてを賭けることした。
いま振り返れば無謀だと判断できる愚策であり、周りが気づけばただの運任せだと激怒されてしまうような、そんな、愚策である。自分でも自分の愚かさに、その愚考に、思わず笑いを漏らしてしまうような、
そんな、愚策――
一パーセントの希望にかけた千木が、思わず失意と落胆に顔を歪めようとするその時、
怖れていたことが現実になろうとして、山姫が助けようと無意識に駆け出したその時、
もはや終止符を打ったと断定していた大天狗が、思いも寄らぬ『最後の一瞬』に、
――驚愕した、まさにその時だった。
ろくに反撃できない一条守は、“太虚の覇者”として無様に敗北するかに見えた。
押し寄せる莫大な妖気の奔流についに耐え切れず凌ぎ切れずに、ついに体のバランスを崩して、なす術もなく押し流されるように、一条守の体はあっけなく傾いて、そのまま地に倒れようとしていた。
いいや、実際は、地に倒れかけたかのように、見えただけである。
一条守は、愚かにも、大天狗の妖気の奔流を、その体で受け流そうとしたのである。
事実、愚策にも程がある愚策だった。
妖気というものは、この世界において神通力や霊力と同等の資質を持つ。
妖気というものはそもそも、自身の力を周辺に拡散させたもの。もしくは周囲に自分の妖気を同調させ染み込ませ、己の意のままに操る術のことである。つまり、空間を支配しているということだ。他者がただの肉体でどうこうできるようなものではない。
神通力は妖怪に対して毒ともなりうる。そしてそれとは対照的に、妖気は人間に対してマイナスに働きかける。
どちらに対しても毒ともなりうる。
状況的に見て、完全に空間を圧倒していたのは鞍馬大天狗の鬼一法眼であって、妖気の奔流にねじ伏せられようとしていた一条守は圧倒的に不利な状況にあった。下手すれば、妖気の毒にやられて死んでいた可能性があったのである。
ただしそれは、一条守が“太虚の覇者”として覚醒していなかった場合の話である。
一条守は、“太虚の覇者”であり、ほぼ完全に覚醒している。
だからこそ、大天狗の敵意なき攻撃を受けても、彼の肉体は妖気に対してある程度の耐性を持っている。そのため、一条守は余裕を持つことができた。ほんとうにやられてしまうかもしれないという敗北の可能性に恐怖して、この絶望的な状況をなんとか打破するために、冷静に思案することができたのだ。
その思案の結果が、まさしくこれである。
彼は反撃という選択肢を捨てた。もはや相手が自分を圧倒しているのだ。いまさら“太虚の覇者”の全力をもってしても、勝機はないと判断した。
だからこそ、彼は最後の愚策に打って出ることにしたのだ。
反撃するわけでもなく、隙を見て逃げ出すわけでもなく、
ただ相手が、全力を込めたその一瞬を狙って、
体のバランスを、わざと崩した。
ただただ、攻撃を受け流すために……
自分自身ですら苦笑してしまう、一条のそんな愚策は、奇跡的にも結果を実らせた。
「なんと……これは異なこと」
鬼一法眼は、驚愕を抑えきれずにわずかに身を動かした。
目の前で、信じられないことが、信じられない光景が、いま、沸き起こった。
圧倒的なまでに絶大な自分の妖気は、間違いなくあの少年を、敗北の瞬間にまで追い詰めていたはずだった。事実、あの人間はまともに防御すらできず、ろくに堪えることもできず、なんとか回避することもできずに、ただ、押し流されまいと必死な様子だったというのに……。
なんと驚嘆すべきことか、と大天狗は内心で感嘆の声を漏らした。
まさに負けようとしたその瞬間、全力を持って、一条守は“太極陣”を、妖気の奔流の真っ只中に出現させた。
足場を安定させるためではなく、神通力を莫大に迸らせるために。
その光の色、まさに黄金だった。まさしく文字通りの「邪悪」を連想させる色に染まった、大天狗の妖気に対して……“太虚の覇者”は、黄金色の神通力をもってして、妖気の奔流に全力をぶつけた。
まさしく奇跡的な瞬間だった。黄金色の奔流と妖気の奔流が混じり合うと、妖気の流れる方向が強引に変えられたのだ。神通力の、黄金色の、輝きによって。
敗北目前だったはずの少年は、何かを薙ぎ払うような仕草で腕を払い、妖気を受け流した。
そして、見据えた。
『最後の一瞬』のすべてを見届けた、鞍馬大天狗、驚き隠せぬ鬼一法眼を。
一条を鍛錬するか、否かの、判定を、聞くために。
千木と山姫は、理解するも成り行きに驚嘆して、しばし沈黙していた。
まず慌てて焦ったのは、千木だった。彼は最後の最後まで奇跡を願っていたが、鬼一法眼に見込みありと判断されなければ、これは奇跡で片付けられないのだ。「鬼一様! “太虚の覇者”がいかほどの者か、しかと見届けたと存じます。裁定はいかに?」
山姫は安堵で胸を一杯にしながら、ほとんど満身創痍の一条に駆け寄って、彼の細い体を支えるように、そっと手を添えた。
そして、一条と山姫は、遅れて大天狗、鬼一法眼を凝視する。
大天狗は、疲れたようにもしくは呆れたように、ただ短く嘆息して首を振った。
「見込み――ありとしか言いようがないな」
もはや語るまでもなかった。あのような状況を見事自力で乗り切ったのだ、あの少年は。あの少年が持つ力はまさしくこの世界をも救えるだろう。かつて千木が言っていたことは、ようやく現実味を帯びつつあるなと大天狗は回想して思案する。
だが……
喜びと安堵の息を吐いて笑みを浮かべる千木と山姫と一条に対して、
大天狗は無情にも口を開いた。
「――だが千木よ。某はこの少年を鍛え上げはせんぞ」
付け足された重みを帯びたその言葉に、束の間の喜びに浸っていた一条は愕然とした。
「そんな……!」
思わず、驚愕の叫び声を上げる。一条だけでなく、千木までもが。
鍛えてはくれない、だと?
千木もさすがに驚愕をまったく抑えきれずに呆然としている。まるで、棍棒で殴られてそのまま固まったような状態である。「鬼一様……いまのお言葉、どういうことですか!」
呆然と大天狗の名を呼ぶ声はかすれていて、後半の声は、半ば怒声に近かった。
山姫も愕然としていて口を開けない。
「千木、言ったとおりだ。某はこの少年を鍛え上げない」鬼一法眼、鞍馬の大天狗は重々しくそう言った。「某は見込みがあるかどうかを確かめるだけに、この少年を招いたのだ。見込みがある暁に鍛え上げようなど、言った覚えはないぞ?」
その言葉に、一条だけでなく千木も怒りを感じた。
「しかし、鬼一様!」と、思わず千木が怒りに駆られて反論しようとする。
だがそれを、鞍馬の大天狗は漆黒の天狗の翼を広げて、妖気と共に威圧させるように、その反論をさえぎった。思わず圧倒されて、千木がぐ、と黙り込む。
「いいか、千木。よく聞け」
鞍馬の大天狗は抑揚のない声で静かに言った。「天狗という妖怪がどういうものか、もはや知らぬ理解できぬ貴様ではあるまい。夢と現が混じり合うこの世――ムゲンにおいて、夢現を分ける境界線はひどく曖昧……かつて貴様自身が、そうだったのであろうが」
その厳しい口調に、奇妙なものが隠されているのを、一条と山姫は感じ取った。
「千木……どういうことだ?」
一条の問いかけに対して、咄嗟に答えようとするも詰まった千木。そんな彼の様子が、いつもより何かがおかしいと感じ取った一条と山姫は、視線をふたたび鞍馬の大天狗、鬼一法眼へと向けた。
この疑問に対する詳細の説明を、求めるために。
「一条守殿、“太虚の覇者”よ。しかと聞き届けよ」鞍馬の大天狗は静かに言った。「某は愚者の大物天狗に過ぎない。かつて某はひとつの罪を犯したのだ。己の未熟さを悩み、違うやり方で高みへと目指そうとした修験者に、某は善意を持って天狗の術を教えようとした……だが、愚か者の某は、途中で失敗してしまった。罪を犯してしまった。やってはならないことを、やってしまったのだ」
「やめろ……」顔を伏せて、表情を見せない千木は、ただ歯を食いしばって、それだけの声を出した。
どこか、奇妙な弱々しさがあると、山姫と一条は感じ取った。
千木、貴様はやはり伝えていなかったのだなと、嘆息混じりに大天狗は呟いた。
「かつて私は失敗してしまったのだ。千木を弟子として迎え入れ、修験者として格別の存在にさせるがため……すべての天狗の極意を教え込んで、千木を天狗にさせてしまったのだ」
一条守と山姫は驚愕のあまり、息を止めた。
どういうことだ?
まさか――千木は、かつて人間であり……夢と現が交じり合うこの世界――ムゲンの世において、妖怪へと変わり果ててしまったというのか?
かつて、千木が言っていたことばを、一条は闇夜の情景と共に思い出した。
…………「この世界では、誰もが簡単に境界線を越えてしまう。何しろ、その境界線がはっきりとしたものではなくなっているからだ。激しい感情の揺らぎによって、人は簡単に鬼へと変わり果て、器のぐらつきによって、妖は簡単に魔物へと変わり果ててしまう」…………
何故、おまえがそんなことをしっているのか、不思議だった。
だけど……まさか、おまえがその真実を理解している理由が……
……まさか、おまえのこの世界の被害者なのだからか…………?
一条と山姫は、千木を見つめ続けていた。
千木は顔を伏せていた。少し長めの髪がはらりと垂れて、顔を覆い隠していま彼が浮かべているであろう表情を見えなくしていた。
それは…………
すべてを頑なに拒絶しているように見えて、何も聞かないでくれと、無言で物語る弱々しい姿でもあった。
五、
「では、陰陽頭よ」
円融天皇の声が、向こう側から固く届く。声音が完全に強張っているのを感じ取って、陰陽頭の賀茂保憲は緊張で体を強張らせた。叱責か。
場所は内裏。政権の中枢にいる貴族たちが左右にずらりと並び、現在、検非違使が慎重に運んできた安倍晴明、吉平、吉晶の体が、陰陽頭の前に安置されている。検非違使の隊長の報告によると、彼らは何者かにやられたとのこと。
御簾の向こう側に腰を下ろす人影が、わずかに身動きをして、声を発した。
「この者たちを、目覚めさせるのだ」円融天皇は淡々と命令を下した。
無理なことを……賀茂保憲は誰にも気づかれないように溜息をついた。
現在、同席しているのは息子の光栄と天文博士等の陰陽寮の幹部たち。陰陽寮の実力者たちを同席させているとはいえ、もはや結論はこの時点ではっきりとしている。
もはや、明白。
「……御上よ。怖れながら、それは出来ませぬ」
賀茂保憲はただそれだけで答えた。不可能であることを、簡潔に伝えるために。
「できぬ、とな?」円融天皇は抑揚のない声で聞き返した。
奇妙な声音だと思いながらも、賀茂保憲は寒気を感じた。
「出来ませぬ。安倍家の陰陽師にかけられた呪い、我々のみがどうして解きほぐすことが出来ますでしょうか。我々に解きほぐせるならば、安倍家の陰陽師たちはこう易々と倒れはしませぬぞ」
たしかに、という声がわずかに漏れる。
「……では、どのようにするつもりだ?」
「いましばらく時間をいただきとう存じます。安全な場所に安倍家の陰陽師を運び、呪いを解くための準備と調査を始めねばなりますまい。どうか御上、陰陽寮においての調査をお許しくだされ」
賀茂保憲はすでに、この内裏に潜む危険性に気づいていた。
安倍家の陰陽師を敵対視して、これを屠ろうとする危険性に……
それはおそらく、蘆屋道満もしくは智徳法師。彼奴ら二人に間違いない。なんらかの目的があってこの内裏に潜入しているであろう、闇の陰陽師たち……
安倍家の陰陽師を捕縛すべく検非違使が派遣された動き……
それはおそらく、あ奴らが何らかの形で関与しているのだと、賀茂保憲は確信に近い予測を抱いていた。
ならば、こちらも動かねばなるまい。
何らかの形で安倍家の陰陽師たちを、この京から遠ざけようとして誰かが画策しているのならば……我らも反撃せねばなるまい。安倍家の陰陽師が何らかの障害となるならば、我らはそれを障害として残しておかねばならない。
京から安倍家を追放しようとする動きを、もしくは、この宮中で安倍家を屠ろうとする動きを阻止すべく。
たとえ敵が天皇であろうとも、己が信じる大義を貫くがために。
賀茂保憲は、反逆者として裁かれる覚悟で、ひそやかに謀略をめぐらしたのだ。
……やはり、手強いか。
賀茂保憲。安倍晴明の師匠であっただけに洞察力は鋭い。あの様子ではおそらく、自分の関与に感づいている可能性もある。検非違使の派遣もそれなりに不自然のない動きとして捉えていたはずだが、土壇場で狂ったのが、これだ。
安倍家の陰陽師たちが、何者かによって何らかの術によって、昏睡状態に陥っている。
これでは反逆者か否を確かめるための審問すらできない。
いいや、問題はそこではない。
順調に進んでいたかに思われた智徳法師の計略は、最後の一瞬によって狂わされた。これでは安倍家の陰陽師を覚醒させるための動きが発生してしまう。これでは『日陰の一日』の計画に何らかの支障が出てしまうが……それまでの間に何とか処理すれば問題はあるまい。
だが、しかし……。
賀茂保憲。あれも注意せねばならない障害かもしれない。
あれをどのように処理すべきかと考えながら、智徳法師は謀略に対して謀略を返すべく、口を開いた。次の瞬間、智徳法師の傀儡と化した円融天皇が口を開き、彼の思惑通りに言葉を紡いだ。
「……では、陰陽寮における調査を許そう。ただし、検非違使の立会いの許、である」
「……ご決断に感謝致します。御上」
何か違和感があると感じ取りながらも、平静を装って賀茂保憲は頭を下げて感謝を口にする。
何かが、おかしい……やはり、何かがおかしいのだ。
違和感の正体を見極めようとして、賀茂保憲はわずかに面を上げて視線を空間に走らせた。どこだ、違和感は。どこにある。左右に目を走らせて、ひとりひとりの貴族の面持ちを見定める。とくに怪しげな気配を放つ貴族はいない。一番怪しいのは、御簾越しに審問に臨む円融天皇であるが、やはり疑わしいけれども疑うことは許されない。
おそらく、円融天皇が何らかの形で謀略に関与しているのであろうと予測しながら……
さりげなく、視線をわずかに上へ、天井のほうへと向けた賀茂保憲は、疑惑の予想を確信へと強めた。
円融天皇は、間違いなく、蘆屋道満もしくは智徳法師と接点を持っているに違いない。
何故なら、天井の梁の部分に、本来ならば存在しないはずの蜘蛛が巣を張っていたからである。巣に静かに居座る蜘蛛の目は、間違いなく自分を捉えていた。
敵方の陰陽師が仕掛けた、式神、か……!
陰陽頭の賀茂保憲は歯噛みした。円融天皇はすでに傀儡となっている可能性がある。下手を打てば、相手の意のままの展開となり、すべてが呑み込まれてしまうだろう。
蘆屋道満と智徳法師の、欲望、その欲求本能に。
ほんの一瞬だけではあったが、
間違いなく、智徳法師と賀茂保憲の視線はぶつかり合った。
……気づかれたか。
智徳法師は、わずかな賀茂保憲の体の動きに反応して、彼の様子を仔細に観察する。視線は一度だけこちらと合わさった。そして、彼は自然な動きで視線をそらした。それ以来、まるで視線は合わない。賀茂保憲は、こちらと視線を合わせない。
当然といえば当然。気づかれないところに式神を放ち、気づかれることなく一部始終を観察していたのだ。けれど、智徳法師は懸念を抱かずにはいられなかった。
賀茂保憲。老公といえども実力は確かなもの。あの、安倍晴明の師匠を勤めたほど。
ならば、油断はできまい。奴は気づいてしまったと考えるべきだ。
……消さねばならない。あの陰陽頭を、早急に。
この計画を妨害しかねない力と可能性を持つ、安倍晴明を、この世から葬り去るためにも。
ただし、陰陽頭はひとつだけ気づくことができなかった。
自分を見据える藤原顕光が、蘆屋道満の謀略によってすでに傀儡となっていることを。
もはや対決は避けられまい。お互いにお互いが邪魔である故。
賀茂保憲は何事もなく平静を装って、その後の会話などをやり取りしながらも、目に見えない敵に向かって、決意を新たにしていた。何らかの悪しき謀が為されようとしている。ならば私は、ひとりの人として、動かなければならない。
自身の正義を、貫くためにも。
智徳法師は陰陽頭を見据えたまま、静かに殺意を固めていた。拳は握られていた。眼光は、文字通り刃のような鋭さを、冷ややかに帯びている。
もはや殺意は固まった。
我が大義、邪魔立てするのならば、いかなる者であろうとも排除すると。
まさしくこの建物で、熾烈な駆け引きと謀略は幕開けを告げた。
そして、その建物の上……。
そこには、水虎の藍染の姿があった。
間違いなく、ここには智徳法師がいる。
蘆屋道満の捜索を断念した水虎の藍染は、すばやく内裏へと引き返した。時間を計算して、すでに検非違使が帰還している頃合だろう。この瞬間に、智徳法師は動き出すはずだと判断して、藍染は内裏へと高速で移動した。貴族たちが集まっている建造物の屋根に登った藍染は、自身の感覚を鋭敏化させて、智徳法師の気配を探りだろうとしていた。
いる。すでに人間らしくない違和感……気配がこの建物のなかに紛れ込んでいる。
だが……それはごく微量だ。感知できるのはほんとうにごくわずかな気配だけだ。
まるで、それを覆い隠すように……なぜか、膨大な量の妖気が染み込んでいる。
この建物だけではなく……この内裏全体に。
藍染は不安を色濃く感じ取って、立ち上がった。なにやら嫌な予感がする。平安京は守護術式が強固な城塞都市のはず。なかでも内裏は侵入されない造りになっているはずだと、千木から聞かされたことがあった。
即ち、この内裏に安置されている『三種の神器』……それらを中心として、最後の防壁がこの内裏に築かれているという内容である。それは所定の位置に納められている時に発動する結界であり、『三種の神器』が持ち出された場合には、結界は効力を失う。
いまだかつて、『三種の神器』は安置されている場所から動いていないはず。故に、入ることの出来ぬはず内裏という領域に、妖気を色濃く感知するという事実は、不可解極まりない。
何故、妖気が感じ取れるのだ? 破られたことがないはずの、聖域ともいえるこの内裏に。
不意に、藍染はある答えに到達した。
初めからこの結界のなかに、妖怪が潜んでいたとしたら?
昔の陰陽師たちが、退治することが叶わぬほどの大妖であるならば、限定された領域に封印したのではないのか?
ならば、この内裏に潜む妖気の色濃さにも、納得のいく説明が得られる。
ここに封印されていた妖怪が、封印を破ろうとして今、動いているのかもしれない。
だとしたら、
ここに潜む妖怪は……
「何者だ、貴様は?」
目に見えぬ大敵に向かって、藍染は強張った口調で尋ねた。
「ここに潜んでいる貴様は、何者だ? いったい、どこの妖怪なのだ?」
いまだ不穏な空気と成り行きを潜める内裏。
そこから遠く離れて北方。うっそうと樹林が山を覆い隠す鞍馬山。山の中腹に秘術によって隠されている、鞍馬天狗の隠れ里。
一条守は鞍馬の大天狗、鬼一法眼に見込みありと判定された。
だが……鍛錬は行わないとの勧告が下され、いま、一条は何をすればいいのか分からず、屋外に出て風に涼んでいた。傍には山姫がただ沈黙して佇んでいる。まるで朝霧のようなものに包まれていて、隠れ里全体の景観は見渡すことができない。幻想的でどこかあやふやで……奇妙な感情を掻き立ててしまうような、そんな景色を、ただ一条守は眺めていた。
沈黙と静寂……
「……ねぇ、知っていた?」
一条は静かに唐突に沈黙を破った。
「いや、まったく知らなかったし、気づかなかった」
山姫は突然の問いかけも、どういう意味かすぐに分かったようだ。彼女はほとんど即答した。千木がかつて人間であったなど、そんな事実に気づけなかったと。
「驚いたね……」
「ああ、驚いたな」
一条の呟きに、山姫は淡々と短く答えた。
千木は、かつて人間だった……
そんな衝撃を一条と山姫が知った直後、天狗の千木は静かに立ち去って姿を消した。詳細を尋ねようとした一条は、千木を呼び止めようとしたが、逆に鞍馬大天狗の鬼一法眼に制止された。あれを追うな。行かせてやれと。
その後、千木が翼と天狗風で飛び立っていくと、鞍馬の大天狗は静かに語り始めた。
かつて千木は、修験者として鞍馬山に入り、修行を行っていたという。だが、自分の修行の成果に納得できず、ただ悩み続けながら修験を続けているという。
ともかく千木は、悩み続けながら孤独に修験を続けていた。
ある時、森の獣に千木は襲われて死に掛けたという。その際に彼の命を救ったのが、鞍馬の大天狗、鬼一法眼。
人の目の前に滅多に姿を現さない天狗を前にして、千木はその時、ひとつの可能性に賭けた。
天狗に修験を鍛えてもらうという、ひとつの可能性である。
天狗は山と森を統べる妖怪。山神として崇められることも過去多く、修験道においても重要な神として名を連ねる鞍馬の大天狗である。山にて高みに近づく修験者にとって、天狗との巡り合いは奇跡であると同時に天恵でもあるのだ。
だからこそ、千木は修行を頼み込んだのだ。天狗の首領、鬼一法眼に。
何日も何日も、千木は頼み続けたという。自分自身を。
「だがな、某は悩み続けていた。天狗という獣が、そもそもどういう妖怪であるか、一条殿、お主は存じてはいるか?」
酒瓶を飲み干しながら、大天狗の鬼一法眼は静かに言った。
「いいえ……天狗について、詳しくは知りません」
一条のその答えに、鬼一は残念そうな表情を浮かべた。
「よいか、天狗はなぁ……人を魔道と魔物に導きかねない、危険な妖怪なんだよ」
その言葉に、一条は息を止めた。
「一条殿も、千木に導かれる形によって“太虚の覇者”になったのであろう?」大天狗の鬼一は淡々と言った。「気づいていような? すでに千木という名の天狗に導かれたからこそ、“太虚の覇者”に目覚めてしまった……普通の人間とは一線を画してしまい、人間らしさを失ってしまったことは自覚していような?」
結果……
ついに千木に折れた大天狗の鬼一法眼は、危険を考慮して最大限の安全を期して鍛錬を行うことにしたという。
天狗の影響を受けて、千木が魔物へと変わり果てないように、鬼一法眼が最大限配慮しての修行が行われたという。
結果は、無残。慎重に鍛錬したというのに、千木は天狗へと変わり果てた。
……それは、夢と現が曖昧なこの世界、ムゲンだからこそ起きた悲劇なのかもしれない。
人から妖へと変わり果ててしまった千木は、人間世界での自分の居場所を失ってしまった。
以来、千木は天狗として隠れ里に迎え入れられることになった。
その後、玄武として選任された後も、鬼一法眼との交流と師弟関係は続いたという。
鬼一法眼は、千木を人間に戻すべく尽力したというが、結果は、いまに至る。
結論は、まさしく残酷なものだった。
――千木は、人間に戻れなかった……
この世、ムゲンにおいて。人は簡単に人でなくなってしまう。
一条も例外ではない。すでに一条は、人間から一線を画した存在になっているのだ。“太虚の覇者”。人間に扱えない神の力を手繰る人間が一条。世界を創りかえることも、壊すこともできる。何かを生み出したり、何かを消したりすることも。
自分も、修練の途中に、“境界線”を踏み越えてしまうかもしれないのだ。
一条はちらりと山姫を見やった。
「……ねえ、人間らしくないと思う?」
それはもちろん、自分の人間らしさがあるかどうか、その確認の問いかけである。
「…………人間らしくない部分があるのは事実だが、人間らしい部分もある。だから、おまえが人間ではないと断言できないし、人間であるとも断言できない……そう思っている」
「中途半端だねぇ」思わず笑いが漏れてしまう。
山姫もわずかに笑みを漏らした。「おまえが中途半端にしか存在していないからだろう」
「そうだね……」一条はふと山姫を見上げる。「ねえ、山姫の下の名前はないの?」
「下の名前?」怪訝そうに山姫が問い返した。「なんだ、それは?」
「天狗の千木、水虎の藍染。山姫もそんな感じに、名前があるって、俺は思っていたんだ。だって、あの鞍馬大天狗も鬼一法眼って名前を持っているんだからさ」一条は頷く。「山姫はないの? 最初会ったとき、名乗ってくれなかったなって、いま不思議に思ってさぁ」
「ああ…………それか」ああ、とようやく理解して、少し歯切れ悪そうに、山姫が口を開く。
答えは、しばらくなかった。
「……ごめん、聞かれたくなかった?」
「いや、聞かれるのが初めてだから。なんて答えればいいのか、分からなくて」
山姫のその答えに、一条は一瞬怪訝な面持ちになって彼女を見上げた。なんて答えればいいのか、分からない?
「誰にも聞かれたことない、質問なのか?」
「初めて……だな。下の名前が。久しく使っていないから、忘れていた」山姫は遠くを見るような表情になって、口を開いた。「山姫の……夕衣姫。それが私の名前だ」
「夕衣……姫?」妖怪に姫という名前があるのが、一瞬奇妙に思えた。
「夕衣姫だ。夕焼けの衣に姫。それがわたしの名前」山姫が頷いて、淡々とそう言った。
なぜか、妖怪らしくなくて、人間らしく響く名前だ。いま見ると、山姫という彼女に違和感を少しだけ覚えるような気がした。
だけど、山姫、だから……別に違和感なんてないな。
「姫なんて呼び名……好きじゃないからな」小さく疲れたように吐息して、山姫は静かに言った。「一条、名前で呼ばないでくれ。私はまだ山姫と呼ばれるほうがいい。姫などと呼ばれることは、正直……嫌だからな」
一条は、こちらを見ようとしない山姫の横顔を、静かに見つめていた。
ただ沈黙して、静かに思案して。
「ねえ……山姫の夕衣、って呼んでいい?」
その言葉に、山姫は怪訝そうな顔をして一条と顔を合わせた。「山姫の、夕衣?」
山姫にしてみれば、ひどく短い響きであることに疑問を抱いたのだろう。一条という名字がこの世界でもありふれていても、安倍晴明、吉平、吉晶の三人にも、守という名前は珍しく思われていた。
夕衣、という名前も奇妙な響きに聞こえてしまうのも無理はない。
平安時代らしい名前ではなく、これは、現代の名前らしい響きを持っているのだから。
「奇妙な……響きだな」
山姫は、静かに口を開いた。
「けれど、なぜか馴染むな」山姫は瞬きしてふっと微笑んだ。「好きに呼んでいいぞ。夕衣という名前は悪くないな」
「ありがとう……夕衣」
一条のその言葉に、山姫の夕衣は恥ずかしげに顔を背けた。
「少し慣れんな、やはり」
そこは、隠れ里から離れた場所。崖の上にそびえる巨樹。そこからは空を広く臨むことができて、平安京の町並みを一望できる位置である。そこから景色を眺めれば、誰でも吸い込まれていくように錯覚してしまうだろう。
そこはただ美しいだけの景色ではない。
初めて広い青空を見上げた小鳥たちが、翼を広げて初めて飛び立とうとする、まさにそんな場所。そんな景色がそこから見ることができるのだ。
そんな所に、天狗の千木はいた。
もう数えるのをやめてしまった、遠い過去。彼は幾度もこの景色を眺めていた。人間だった頃は落ちることに恐怖しながら昇っていき、天狗になってからは、苦労することなくここにたって、何度も何度も眺めていた。
何千年も変わることない景色。飽くことはない。
だが、寂しさと空しさだけは濃くなる一方だ。何度も何度も……何百、何千とこの景色を眺め続けていたからこそ、はっきりと分かる。
どうしても変えたくても、どうしても変わらないものがある。
「……今更なに悩んでいるんだろうね、俺……」
天狗の千木はひとり寂しく呟いた。
「こんな所で、ひとり何をやっているんだよ」
一条守は山姫と一緒に、巨樹の枝まで跳躍して姿を現した。
「その様子だと……自分の明確な目的意識で“太極”の力をまだ使えていないってことか」天狗の千木は肩越しに振り返った。「現時点ではそれ位、できてほしいね……いつまでも頼ってるばかりじゃ困るんだから」
「まだ何も始めていないんだよ。出来ることは少ないに決まっているだろう」
「自主的に習得する心がけはないのか?」
「千木、やっぱりこれだけは言っておくぞ。俺、おまえのことが嫌いだ」一条ははっきりと言った。「おまえは隠すばかりで期待するばかり。ほんとのことはあんまり話さない」
そうだろう、と一条が問いかけて、そうだな、と千木は答えた。
「……で、何が言いたいんだ、おまえは?」千木は一条の意図を図りかねて尋ねた。
「おまえのことは嫌いだよ。だけど、おまえのことを法っておこうなんて、俺は絶対に思わないね」一条ははっきりと言った。「おまえに命を助けてもらって、ムゲンのことを教えてもらって、修行とか付き合ってもらって色々ある……分かったことは色々ある。でも、分からないことも色々ある。そうだろう?」
天狗の千木は静かに肯定して頷いた。
「この世界のことを、俺はまだまだ知らなさ過ぎる。おまえが段階的に情報を教えようとする考えも、ようやく分かってきたよ。やっぱりこの世界は、危険なまでにおかしい。だから慎重にならないといけないっていうおまえの考えも分かるよ。だけど、知らなくちゃいけないことは確かにあるんだよ。時期とかに関係なく」
天狗の千木はしばらく一条を見つめて、ためていたものをすべて吐き出すように、
そう、長々と吐息した。
「まあ、絶対に聞きにくるだろうって予想はしていたよ」
天狗の千木は静かに口を開いた。
「分かったよ……話そう。すべて。俺の過去を。俺がいったい何者であったのかを」
六、
一条はざらざらとして樹皮に腰を下ろして口を開いた。
「そういや、おまえ天狗らしくないところがあるよね」
「まあ、そうだな。ほんものを見ればさすがに違いに気づくよな」
まず、天狗の千木との会話はそこから始まった。
「鼻が高くない。鬼一さんは仮面で隠れて分からなかったけど、人間より鼻が高かったのは確かだ」一条は千木の横に座って、京の町並みを眺めながら言った。「でも、おまえの鼻は人間のとあんまり変わらないよなぁ……」
「元人間だからね。そういうところだけはしっかりと残っているのさ」
ふうん、と頷きながら一条はふと考えた。「そういえばさ……俺の世界ではさぁ、天狗の鼻はそいつの傲慢さの証ってのが常識だったと思うんだけど」
「この世界でもそうだぞ。あんまり変わらないよ、常識だけは」
「……おまえってさぁ、なんていうか天狗らしくないのに天狗っぽくて傲慢だよな」
一条の言葉に、彼の隣に座っている山姫が思いっきり吹き出した。
「……笑うな」痛いところを疲れたのか、しかめ面で天狗の千木が呟いた。「おまえ、ほんとひどいことを言うよな。一直線に」
「俺、正直者だからさぁ」
「ニヤニヤ笑いながら、んな戯言言ってんじゃねぇよ」千木は呆れたように吐息した。「ていうか、山姫。おまえまで笑うな。酷すぎるぞ」
「当然、おまえが酷いから笑ってしまうんだ」楽しげに笑いながら山姫が突っ込んだ。
「おい、酷いどころじゃないぞ」うんざりしたように千木が呟く。
気づけば、三人ともが全力で笑っていた。妖怪と人間の三人が、だ。ひとつの巨樹の枝に腰かけて、この世界ではありえないほど仲良く。
「こんな風に笑い会えるって事、初めてじゃないのかな」
不意に、一条が呟いた。
「そうだな、『天竺』はこんな空気ではなかった」山姫が静かに肯定する。
「山姫はいっつも仏頂面の顔だし、藍染はなんていうか詩人な奴だから冗談とかそういう付き合い方はないもんなぁ」千木が溜息をつく。「おまえがムゲンに来てから、なぜか緩くなっちゃいけない空気が緩んでしまっているな」
一条は何か不服そうな表情で首を傾げた。「俺が原因なのか?」
一条の問いかけに、天狗の千木はあっさりと頷いた。「おまえしか原因がないよ」
「まあ、俺は悪いことはしていないよな? それだけはっきり言えるよな?」
一条の確認に天狗の千木はやはり苦笑を隠せなかった。「おまえが悪いなんて断言なんかしないよ。だけど、世界が滅びる直前という時に……しかも、戦争がもう起きるっていう直前に、こんなにのんびり会話をしているのもどうかと思わないか? 緊張感に欠けているとか」
「……ま、いいじゃん。戦争って言っても、四六時中神経研ぎ澄ましっぱなしって訳じゃないだろう?」一条はしばらく考えてから言った。「戦争に向けて、ちゃんと準備しなければならない時間は絶対にある。そして、知らないといけないことを、ちゃんと知るための時間も」
「……そうだな。確かに、その時間はどういう訳かきちんと作られているもんだ」
感慨深げに千木が呟いた。「これは神様の悪戯か? それとも運命の偶然か?」
「悪戯にせよ偶然にせよ……必然にせよ」山姫が静かに口を開いた。「どちらにおいても言えることはただひとつ。やはり残酷だという事実だな」
「同感」一条は頷く。「でも、どんなに残酷な世界でも、いずれは終わるのは絶対だよ」
「古い世界と新しい世界、その境界線に俺たちは立っているようなもんだな」一条のことばに頷き、千木が呟く。「いまさら気になったんだが、まさしく境界線のような状態の世界で、俺の過去がどうとかこうとか話して……おまえにとって何か益になるのか?」
「ならないね」一条は即座に首を振った。
「…………即答するなよ。せめて肯定してくれ、そこ」千木が苦笑いして言った。
話はまず二百年前に遡る、と千木は話し始めた。
「まだ平安京が建設される前の話だよ。俺は近くの山で修験を続けていたが、自分の伸びを悩んでいる時期があまりにも長すぎた。自分の力ならもっと上を行けるって、そう過信していたんだよ……まあ若気の至りって奴だな」
「すでに天狗だな」驚いたように一条が口を開く。
それに対して山姫は、予測可能と言いたげに頷く。「天狗以上に傲慢だったんだな」
「おまえらなぁ、少しは静かに人の話を聞けよ」一条と山姫が交互に突っ込み、天狗の千木は邪魔な突っ込みに苛立ったように声を上げる。「ったく、だいたい俺は何のために話しているんだよ」
「そりゃ当然、仲間のことを知るためだろう」一条が静かに言った。「おまえがかつて人間であり、天狗の指導によって天狗になってしまったのに……なんで俺を、鞍馬大天狗に指導させるのか、俺には分からないんだよ。おまえの過去に何かヒントがあるんじゃないかって、少し不思議に思っているのもあるな」
「何故、鬼一様に指導を仰いだのかという疑問だが、答えは簡単だ。俺とおまえは違いすぎるからな」淡々と天狗の千木は自分の見解を述べた。「いいか一条、おまえはすでに“太虚の覇者”として覚醒しているんだ。俺は修験者の修験中の若輩。違いすぎるんだよ。おまえは己自身を自分のあるべき世界に、きちんとつなぎとめることができるのがおまえだ」
一条はしばらく沈黙して、おもむろに千木を見やった。「じゃあ、おまえは……」
「力も経験も中途半端の、修験中の若造だぞ。そんな俺のいったいどこに、自分をつなぎとめるだけの力がある?」自嘲気味に笑って、千木は言った。「さっき、鬼一様からおまえらが聞いたとおりだ。俺は自分の力を伸ばすために、鬼一様直々のご教授を願った。そして、天狗の秘術を理解するうちに、“境界線”を踏み越えてしまったことに気づけず、気づいたとしても、引き返せなかったんだ……」
「……それから、どうしたんだ?」
「鬼一様は俺に対して罪悪感を抱いていたらしい……もはや人ではなく生成り同然の天狗。人の里では迎え入れられるわけがないから、天狗の里にせめてもの居場所を提供しようと、俺に、里で住めるようにいろいろと手配してくださった。それ以来、俺は天狗の里で住み続けていた」
一条は首を捻った。「おまえが玄武に選定されたとき……四天王の一人に選定されたのは、天狗になってからか?」
「そうだ。天狗になってから五十年くらい経って、俺は選定された。里から離れて独自で動くために……『天竺』を組織するために、藍染や山姫のような強力な仲間を探し続けたんだ」
「……選定は、どんな風に行われたんだ?」
一条は、もっとも気になっていた部分を尋ねた。
平安京をあらゆる危険から守りぬき、守護と封印の任務を背負う人柱。妖怪と人間から選抜された、四天王を名乗る特殊なチーム。その存在を聞いたときから、一条はずっと疑問を抱えていた。彼らはいったいどうして四天王として選抜され、四天王に選定されたのだろうかと。神様のお告げか何かで、彼らはそれを理解したのだろうか。
神を見たのか。それともその声を聞いたのか。
どちらなのだろうか、一条は千木の解答に期待して尋ねた。そして、答えを待った。
「……悪いが、いまのおまえには答えるわけにはいかない。その答えを知れば、今後の流れを大きく変えてしまいかねない危険性があるからな」千木は厳しい表情でそう答えた。「一条、悪いがこれだけは譲ることはできん。おまえには教えられない」
また、千木は情報を隠した。
一条は怪訝そうに彼を見やって思案した。まただ。また千木は情報を隠した。最初、ムゲンの世のことを教えてもらった時、歯切れ悪そうに答えたことがあった。俺がこの世界に来た理由だ。あいつはある程度予測して答えてくれたが……今思えば、奇妙なことだ。どうしてそこまで予測できる?
こいつは何を知っている? どこまで知っている? そして、何を見つめている?
改めて隣にいる奴の不可解さを思い知って、一条は千木を見やる。
一条が“太極”を掌握する際、何の模様もない光のような白い仮面の女の正体を、千木は数分足らずで見破った。あの謎めいた仮面の女は、自分自身がムゲンの中核にいる存在であり、ムゲンを狂わせてしまった元凶だと告白した。そんな存在を知ることができて見破れたということは、千木もこの世界の、かなりの中核に近い位置に立っていることになるはずだ。
『白拍子』との奇妙な因縁も気になる。あと、千木がかつては修験者だという情報も引っかかる……あの夕暮れ時、“修験落ち”と敵でありながらも親しげに会話していた。もしかしたら、こいつは“修験落ち”との接点が多いのかもしれない。
この世界でいったい何が起きたのか。何故こんな世界になったのか。そして、この世界がどこへ行こうとしているのか。
天狗の千木。こいつだけは分かっているかもしれない。理解しているかもしれない。全てを良い方向へと巡らせようとしているからこそ、天狗の千木は、こいつは、すべてを救おうとして、一人で全部を無謀にも抱え込もうとしているのかもしれない。
仲間だといえども、必要な戦力として山姫や藍染を仲間にして……自分の力を、開花させたのかもしれない。
どちらにせよ……
「おまえ、傲慢だよな」一条は頭を完全に整理して一言呟いた。
山姫も整理がついたらしく、冷静に笑みを浮かべて肯定した。「当然、天狗だからな」
一条と山姫の反応をすでに予想していたらしく、天狗の千木は盛大な溜息をついた。笑みを滲ませて。「そうですよ、どうせ天狗ですから傲慢ですよ。天狗になる前から傲慢だったんですから天狗になっちまったんですよ。まあ分かっているとは思いますが俺は傲慢ですから口が堅いですよ」
一条はにやりと笑った。「分かっているよ。どうせおまえの我が侭に付き合わないといけない世界なんだよ、ここは。夕衣だって藍染さんだって、そんなことが分かっているから、『天竺』をやっているんだよ。俺も大人になることにする」
「……おまえ、ほんといやな奴だよな」
「そういうおまえも、充分に嫌な奴だよ」千木の呟きに、一条はニヤニヤ笑って返してやった。「まだまだ足りないけど、とりあえず、理由はできた。これでまた一歩前進することができると思うよ」
その言葉に、千木は驚いて顔を上げた。その言葉には計り知れない重みを含めているが、それをこの少年は静かに放ったのだ。重みを持っているはずなのに、重みを感じさせない言霊。
「……おまえ、やる気なのか?」
「やる。やらなければ何も始まらない」決意を確かに込めた響き。一条守は静かに宣言した。「古い世界を終わらせて、新しい世界を始めるのがおまえの計画なんだろう? それが悲願なんだろう? だったら、全力で挑むしかない。出来ることは全部やらないといけないんだ」
千木は戸惑ったように沈黙した。「だが……それでは、おまえも俺の二の舞を演じてしまうかもしれないんだぞ。俺とおまえは確かに違うが……おまえが“境界線”を踏み越えて、鬼に変わってしまう危険性は絶対にないとは言い切れない」
「分かっている。だけど、俺は大丈夫だよ」
何故大丈夫だとそれだけを確信して断言できる。千木はやはり戸惑いを隠せなかった。「何故大丈夫だって言えるんだ? 危険だってことは分かるんだろう?」
「以前のおまえと違う点ははっきり言える。俺には帰る場所がある。帰らないといけない目的がある。だから、絶対に負けない」
一条の言葉に、千木は“太虚の覇者”の横顔を見やった。こいつは本気だ。
目的意識がはっきりと定まっている。世界を救うという大それた目的のために動いているんじゃない。天狗のように傲慢な自分とは確かに違う。こいつは、自分のためという人間らしい傲慢な目的のために動いている。自分にできることとできないことをはっきりと分かっていて、自分の器の小ささもきちんと理解している。
ああ、こいつなら大丈夫だと千木は思った。ほんとうに、こいつなら、やれるかもしれない。
いまならこの胸のうちに希望を抱ける。精密な計画を忠実に実行することを最優先としていたが、いまの千木はようやく、誰かを駒としてではなく戦力としてではなく、戦友として頼ることができるようになっていた。
こいつは大丈夫だ。ならば、何も言うまい。
「そうか……なら、いい」満足げな表情をひそかに浮かべ、その口調に安堵の音色を滲ませて、天狗の千木は人間らしくそう言った。「だがな、一条……試練というものはほとんどの場合、目に見えない形で迫ってくるものだぞ」
目に見えない何かを滲ませた、そんな口調。
――何かを含ませている、そんな口調だ……
山姫は千木を見やった。何かを隠していて、何かが静かに含まれている。遠い未来を警告しているようでもあり、すぐ近くに迫る脅威を警告しているようでもあり……暗に迫っているぞと警告しているのか?
その時、何かが変わったのを山姫の直感が感知した。
ただし、何か大きな妖気が迫っているなど、そういうものではない。神通力の類でもない。風のにおいが変わったわけでもない。何かが敵が迫ってきているわけでもないはずだ。なにも危険が迫ってきている訳ではないはずだが……何かがおかしいと思う。
危険はないはず。
――だが、何かがおかしい。不安になって、なぜか恐怖してしまう。
山姫は不安げに辺りを見渡すが、一条が落ち着いた様子で、ゆっくりと立ち上がった。
「一条、気をつけろ!」小さな声で、山姫は警告した。
「分かっているよ。夕衣。落ち着いて」静かな声で、落ち着いた口調で、慌てた風もなく一条は口を開いた。突然の襲撃にも対応できるように、体を構えるといったことをしていない。
ただ無防備な状態で、彼は直立不動の姿勢を保っていた。
何が来るのか分かっているのか? それとも危険がないとすでに確信しているのか? 状況の不可解さに薄気味悪さを感じている山姫は、混乱を抑えきれなかった。
ただひとり座ったままの千木は、一条が夕衣という名前を口にしたことに遅れて気づいて、内心では大きく驚いていた。夕衣というのは山姫のまことの名、夕衣姫のことだろう。山姫の名前を聞きだすとは、そこまで仲間とこの世界との距離をつめたか。
一条は悠然として、山姫は緊張して、千木は何ら動じることない、そんな状況下。静けさが鋭さを増す。音がすべて掻き消えた。風は消えた。小川のせせらぎも聞こえない。動物の鳴き声はない。木の葉はまったく揺れず、こすれあう音を一切出さなかった。
何もかも制止した世界。何もかもが止まった世界……何もかもが死んだ世界。
何かが迫ろうとしているが、どこから迫ろうとしているのか分からない世界。
「まさか……これは……」ようやくこの世界の違和感に気づいた山姫が、愕然として辺りを見渡して呆然と呟く。「異界、なのか……」
肯定するように千木は静かに頷き、山姫は脅威の度合いを推し量れずに戦慄した。
人間の術者が使う、境界線を敷いて世界と世界の違和感を作り出す秘術。それが結界だ。招かれた者だけが入ることを許され、招かれざる者は入れない。ある程度の拒絶の機能を働かせる特殊な神通力によって構成された領域。
それとは対照的に、妖気によって作られた特殊な領域を、妖怪は、異界、と呼ぶ。
結界というものは、分かりやすく言えば「閉ざす」という機能を持つ。結界を施術した術者の意識と同調して、招く者と招かない者を選別して、常識的に機能している感覚に違和感を働きかける……まさに、術者の意中によって何もかもが「閉ざされる」世界なのである。
それに対して異界は、「開く」という機能に特化しているといっていい。
簡単に言えば、異界の作り手は世界に対して侵食させる能力を持つ。自分の力を、妖気を対外に放出することによって染み込ませ、自分の領域を意のままに広げていくことができるのだ。結界とは異なり異界はあまりにも効果の影響が広範囲に甚大に及ぶ。結界の発動に対しては、大抵のものは事前に察知することができるだけではなく、打ち破ることができる。山姫が『白拍子』の結界を、ずらされた場所から聞こえた音によって、打ち破れたように。
率直に言おう。結界とは未完成の術だ。そこは完全な異世界ではない。世界と世界をずらした境界線が結界を機能させているだけ。その“境界線”を踏み越えれば、簡単に結界を破ることができる。
だが、異界とは結界に比べて、完成した秘術。
そこにはそもそも“境界線”が存在しないのだ。
だから、打ち破ることなど不可能。五感はすべて、異界を展開させた作り手に完全に支配される。その支配から逃れることはできない。
千木は一条をそっと見やった。
こいつは何が来るのか大体の予測をつけているのだろう。ならば、その何かが嵐のように訪れたなら、こいつはどう動くのか。どう対処するのか。
風のにおいは変わったのは直感的に分かるが……どこがどう変わったのか。それすらはっきりとすることができない。何かが変わったのは確かなのに、何がどう変わったのかはっきりとしない。変わっていないのではないかという錯覚に囚われる。
山姫は舌打ちした。自分の直感すらまともに機能しない。
このままでは死んでしまうのではないのだろうかという恐怖が、次第に大きくなる……
それは音もなく静かに迫っていた。
着地して、すばやく跳躍。その動きは人間のようでもあり人間離れしている。細い枝に飛び移っても、木の葉が揺れることすらない。枝が折れることもない。黒い衣を翻すその後姿は紛れもなく人間のもの。けれど、何かが違う。
それは、すぐに一条と千木と山姫の背後へと迫る。
黒い衣の内側から、襲撃者は短刀を二丁取り出して、襲いかかろうと飛び上がって、飛び掛ろうとした。
襲撃者は間違いなく異界の作り手である。
その者は完全に異界を展開させ、標的の感覚を完璧に支配していた。襲撃は絶対に気づかれない。気づきようがないはず。対処できないはず。
――だからこそ、次の瞬間の反撃は、予想外の驚愕を招くものだった。
唐突に発現したのは、“太極陣”であった。一条の力が、発動された。
何の目的で一条が自分の力を発動させたのか、千木と山姫と襲撃者は、まったく見当がつかなかった。そこにどんな意図があるのか。山姫は愕然として千木は冷静に思案して、危険を感じ取った襲撃者は、いったん空中で自分の体を反転。距離を取って別の枝へと飛び移る。
誰もが一条守を注視した。この“太虚の覇者”がいったい何をしょうとするのか。
一条は“太極陣”を四方に展開していた。
門から大気に放出されているのは、黄金色の粉。それらは一条の神通力の輝きだ。
それが、唐突に……甚大にして苛烈なものへと変わった。黄金色の輝きが苛烈にあふれ出す。螺旋を描きながら、神通力は世界を呑み込む津波のように、それは激しく唸りながらうねりながら、世界のすべてを、黄金色に塗り替えるように押し寄せてくる。
千木はその動きを見て、心のなかで呟いた――世界のすべてを、黄金色に塗り替えようとしている。
そこで、すべてが分かった。一条守の意図が。
襲撃者もようやく理解した。
ようやく、自分の磐石の備えが、あっけなく瓦解されていることを。
彼は、世界を塗り替えようとしている。つまりそれは、すでに形成された異界を、自分自身の異界を使って侵食しようとしているのだ。毒には毒を、の原理を応用して、一条守は異界を異界で打ち破ろうとしているのだ。
異界とは結界に比べて完成された術ではあるが、やはりどうしても「造りがもろい」部分が存在してしまう。欠陥というものはどうしても存在してしまう。
一条守、あの“太虚の覇者”は、異界という構造のなかにある、巧妙に隠された欠陥を適切に見破っている。そして、それを鋭く突いて、異界を崩そうとしているのだ。
異界のなかで別の異界を発現させることにより、世界を矯正するというやり方で。
クソ、これは予想外だ。まさか異界をこんな手段で打ち破るとは。
自分の異界が破られれば、自分自身の存在はすぐに気取られてしまう。どう動くべきかと、襲撃者は一瞬だけ迷った。攻撃するか、それとも撤退するか。
自分の異界が瓦解するのを感じ取りながら、襲撃者は攻撃することにした。
音もなき跳躍。軽々とした飛翔。黒い衣を翻しながら、短刀を手の中でもてあそびながら、襲撃者はかろうじて気づかれていない状態のなか、一条守の背後に迫ろうとしていた。
「――見つけた」
一条の口から漏れた小さな呟きに、誰もがぎくりとしてしまった。千木と山姫だけではなく、もちろん襲撃者も。
一条守はまだ何の動きすら見せていない。動き出そうとする体の微細な動きすら見せていないのだ。それなのに、見つけた、との一言。誰もが静かな言葉にある重たげな響きに、注視する。何を見つけたのか。そしてこれから、彼は何をしようとするのか。
何をするつもりだ。何をする気だ……誰もが疑問に思うなか、少年は動いた。
“太虚の覇者”は鎖を現出させた。
鎖は一条の周りから天高く突出すると、螺旋を描くように大きく動いた。そして、まるで獲物を見つけた不気味な蛇のように、先端に槍の穂先のようなものをつけた鎖は、一直線に襲撃者へと迫っていく。
襲撃者は愕然とした。もう自分の位置がばれているのか。
すでに鎖が何かを突き破って、自分の異界を崩した音が聞こえた気がした。パリン、と何かが割れて砕け散る音。自分の異界がついに壊れてしまったのを理解すると同時に、襲撃者は敗北を確信してしまった。
負け、だ。自分の敗北は確定した。
何とか先端の危険な部位を交わしたものの、鎖は不気味にうごめき、くるくると空中で回転して、全方位から襲撃者の体に巻きついていき、もうどこにも逃げられないと無言で告げるように、襲撃者の体を縛り上げていく。完全なる束縛。もはやどこにも逃げようがなかった。
だが、襲撃者も一筋縄ではいかない力を持っている。襲撃者は妖気を周辺に爆裂させると、その反動で鎖の束縛から自分の体を脱出させた。すばやく樹上に跳躍すると、反撃のために態勢と間合いを整えて、即座に足を力強く蹴って跳躍し、反撃を開始する。
だが、一条もすでに反撃の準備を整えていた。彼は現出させた鎖の一本を手にしてそれを回転させた。それは人間の手によって作り出されたとは到底思えないような、装飾と造りが芸術的な一本の槍へと姿を変えた。両端には刃のようなものがついていて、波を描くような独特な形をした持ち手部分。
あれは何だ、と襲撃者が驚愕すると同時に、一瞬だけ攻撃のタイミングが遅れた。
その隙を狙って、一条は襲撃者を包囲するように“太極陣”を発動させた。至近距離から放たれる鎖の攻撃に、襲撃者は迅速に対応して脱出することはできなかった。今度こそ、襲撃者は囚われてしまった。
手のひらで槍を回転させて、空中を悠々と闊歩する一条守。黄金色の粉末が、奇妙な音を立てて、ゆっくりと広がる。彼は襲撃者の首に槍の先端を向けて、静かに口を開いた。
「捕らえましたよ……天狗の鬼一法眼さん」
天狗の千木の過去が明らかになりました。千木はこの作品のなかでも一際思い入れの深い登場人物で、ある意味、この物語の進行に欠かせない人物のひとりです(こういうのをキーパーソンと言うんでしたっけ?)。第二部では千木のように次々に過去が明らかになっていく人物が多いので、登場人物のひとりひとりに共感したり同情したり感動したりしてください。