第一夜 万代の宮 ⑤
十八、
「――彼に何を教えようとしていたんだ?」
天狗風の力をまったく抑える事無く、天狗の千木はすさまじい形相で言った。
妖気という名の力は、妖が持つ感情によって、ある時に劇的な変化を見せることがある。
天狗はいま、嵐のように猛々しくて荒々しい妖気を帯びている。
表現する感情は、即ち怒り。
「何を考えている……白露姫」
天狗は、ひとりの女性の名前を呼んだ。
それが誰のことなのか、一条と安倍家の陰陽師と山姫は分からなかった。
そのなかでただひとり、妖しげな笑みを浮かべたまま、賢者『白拍子』は天狗の千木の顔を、涼しげに見返した。
唐突に、天狗風は止んだ。
枯れ葉がひらひらと舞い降りる。
戻る静けさ。だけど、居心地が悪いと一条は思った。
天狗の千木は落ち着いた様子だったけれど、表情はまだ険しくて棘のある口調で言った。
「もう一度問う……彼に何を話そうとしていたの?」
「よく、ここが分かりましたね」
天狗の問いかけに答えず、『白拍子』は淡々と答えた。
驚いた様子でもなく、焦る様子でもなく。
ただ、待っていましたよと、千木に無言で告げる様子で。
「当然だろう。何しろ比叡山の周りで、いきなり地脈の流れが暴走したからね。何が起きたのかは、誰だって分かる……俺はそこまで愚かではないからな」
天狗は苦々しげに言った。
「何しろ……地脈の流れに干渉できるのは、いまやこの世界では一条守、唯一人だからな」
「確かに」
「……あえて、一条の能力が発動させるような環境を作り上げ、さらに彼の能力が及ぼす影響範囲を調べるために結界を発動させて、そして自分の式神をけしかけるとは……まさか、京一の大賢と謳われた君が、ここまで軽率で短絡的な行動に出るなんてね……」
思ってもいなかったよ、と千木は呟いた。
そこまで軽率で短絡的な行動だったでしょうか、と『白拍子』は静かに笑う。
「ただ書物を漁り、ただ推測するだけでは実証的とは言えませんからね」
「その実証的なやり方に、いささか不安と疑問を感じるんだがね」
「ご安心を。最悪な場合にはちゃんと備えておりますし……それに、何かあった場合、私がただ傍観するだけだと思いですか?」
最悪な場合を引き起こすのが君の目的ではないかと、千木は聞きたかった。
だが、彼は沈黙した。
それを見て、賢者『白拍子』は一条を振り返った。
「それに……このように動かなければ、あなたが更なる真実を教えてくれませんからね」
それは、一条を見つめているが一条に対する言葉ではなく、天狗への静かな言葉。
その言葉に込められた意味を理解して、天狗の千木は不安げな表情で視線を動かした。
『白拍子』が向けるその視線の先――ただ呆然と正座したまま、瞬きすらせずに目を見開いて身動きひとつせず、凍り付いている一条守に。
目の前で起きている出来事に、一条はついていけなかった。
思考力が、凍り付いている。
天狗の千木。そして、賢者『白拍子』。
ふたりが話していることに、違和感がなかった。
だって千木は妖怪だし、『白拍子』って人は陰陽師みたいな人っぽかったし。だけど、千木が『白拍子』の別の名前を知っていることや、『白拍子』は千木のことをよく知っているみたいで、どちらもただ顔を合わせただけの関係には見えない。
昔からの知り合い、ということだろうか。だけど、話し方は、どこか刺々しかった。
なんか……喧嘩した友達同士みたいな感じで。何かが、素っ気無い。
だけど、問題はそこじゃない。
ふたりが、自分に関係あることを話している……自分が知らないことを、自分に知らせていないことを話しているということだった。
それも、本人の目の前で。
――何を話している?
なんで、俺の能力について教えてもらおうとしたら、こいつは怒っているんだ?
――何を隠しているんだ? 千木は。訳が分からない。
頭のなかがぐちゃぐちゃしていて、気持ち悪い。真っ暗で何もない所に、放り出された気分だった。目の前にあるはずのものが、見えなくなっているような感じ。
「……一条」躊躇いがちに、千木が自分の名前を呼んだ。
奇妙な響きを持っている。何かを怖れているような、そんな感じの声。
「なんだよ……」
かすれた声。
信頼しかけていた相手を、一条は疑っていた。
何が目的なのか。
考えてみれば、こいつの行動は何から何までおかしくはなかったか。あの夕暮れ、“修験落ち”に狙われたとき、どうして自分を助けたのか。あの時、天狗と水虎は自分たちの命が危ない状況だったではないか。それなのに、まったく闘えない一条を助けて、そして一条を守るように闘ったのはなぜか。
お荷物のような存在なんだ、俺は。何もできなくて、ただ周りを傷つけるだけだったのに。
……捨てられても、おかしくなかったのに。
なのに、こいつは俺を捨てずに、最後まで闘っていた。
それに、自分のことを無力と嘲る“修験落ち”に対して、こいつは否定的な意見を言わなかったか。
――俺の力をよく理解しているのは何でだ?
――この世界のことを何でよく知っているんだ?
考えてみればおかしいじゃないか。この世界がどんな所か、ここに住んでいる人は分かるはずがない。現実味を帯びない曖昧な世界なんて、どうやったらそんな事実を手に入れることができるんだよ。この世界がどんな所かっていう疑問ほど、この世界の住人が答えにくいものなのに。
どうして、そんな当たり前のことに気づかなかったのか。
「おまえが何を言いたいのかは分かる。だが、まずは落ち着け……」
「これで、落ち着いていられるかッ!」
千木の淡々とした口調が、感情を逆撫でする。混乱して混乱して、戸惑って訳が分からなくなって、一条は弾かれたように立ち上がって怒鳴った。
千木は外に立ったまま。
目線は、ちょうど天狗と同じくらいの高さになる。
一条の動揺した表情を、混乱して見開かれた目を、天狗は「水」のように冷たくて透明な表情で静かに見返す。
――なんだよ……なんなんだよ、コイツは。
「おまえ……なんなんだよ、色々と隠しやがってから……」
「情報を隠していたのは事実だから、否定することはできない。いまさら言っても信じられないだろうが、俺は全てを隠すつもりじゃなかったんだよ」
「言い訳だろ、そんなの! だいたい、全てを隠すつもりじゃないって、おまえはおまえが持っている秘密を、全部俺に教えてくれるわけじゃないんだろう! ああ、はいそうですかって俺が言うとでも思ってんのかよ!」
「……一条、落ち着け」
激昂する一条に対して、千木はあくまでも冷静に応じる。
それが、一条の混乱と憤りと戸惑いをさらに大きくしていき、そして目の前を歪める。
「落ち着ける訳がありませんよ。大半の者がああいう態度を示すのですから……全ては千木、あなたがまいた種。これはあなたが生んだ結果ですよ。一条殿に真実を話さず、ただ自分の都合良く動かせるための手駒にするために行動したが故に」
混乱する一条にさらに拍車をかけるように、『白拍子』が補足情報を口にする。
――手駒? どういう意味なのだ?
その言葉に、安倍家の陰陽師たちをさらに驚愕させる。
「手駒って……どういうことだよ……」
一条は掠れた声で呟いた。
「千木殿、あなた、いったい何を考えておられるのですか?」
驚愕した面持ちを見せる、晴明が重々しく問いかける。
「――どういう事かって聞いているんだよ、千木!」
質問に答えない千木に耐え切れず、一条は叫んだ。
「手駒として扱うつもりなど毛頭ない」
一瞬だけ『白拍子』を睨みつけて、厳しい表情で千木は言った。
「一条、おまえの能力の名前は、“太極”って言うんだ……」
千木が、唐突に語り始めた。
「――人の器で持ち得ることができないはずの、神に勝るとも劣らぬ絶大な力だ」
舞い降りる沈黙。一条は瞬きした。
「――はあ?」
理解ができない。理解できない。
「質問はするな。おまえが知りたい情報を話せる範囲で話してやる……」
千木は厳しい表情で言った。
「……だが、話せる範囲があれば話せない範囲もある。ほんとうに分かりきっていることは話してやるが、まだ分からないことに関しては多くは語れん。この世界では言霊があまりにも強く働きすぎる。おまえに情報を全て与えたら、悪しき結果を招きかねない事態にも成りかねない」
――慎重になる必要がある。
千木は、静かに付け加えた。
「……どういうことだよ」
何から何まで、という意味で一条は尋ねた。
「天地万物が創り出される根源、無から有を生み出し、創造と消滅を繰り返す。それこそが、“太極”。ひとつの世界の根底を形作るものだ。大昔から、多くの人間の思想家がそれについて言及している。それはこの世界のどこかにあるとされていて、まるで扉のような存在として描く人間がかなり多い。だが、俺たち妖側、特に『天竺』としては、それがひとつの能力であると考えている」
「……“太極”が?」
「そうだ、何もないところから物質を創造し、そしてそれを使いこなし、最後には消滅させる……おまえの能力がまさしく“太極”なんだよ。何もないところから鎖を創造して、それを使いこなしていた。そして最後には消えていただろう?」
「――あ……」
そういえばそうだと、一条は瞬きした。
「創造と消滅は、本来、人間と妖が手にすることができない力とされている。当たり前だよな、何しろ世界を創造した神様と、同等の存在になってしまうんだから」
「……神に勝るとも劣らぬって……神様の力ってことじゃないのか?」
「使いこなせればおまえは神の力を手にすることになる。だが、おまえは“境界線上”で自分の能力を発動させているから、効果の影響範囲がある意味限定されていた。もし完全に自分の力を制御化におけば、おまえが思い描けば思い描くほど、“太極”はおまえに答え、力を与えるだろう……別世界を作り出せるほどの」
千木は淡々と告げる。
「……おまえは神たる存在なんだよ。このムゲンを作り変えることも壊すことも可能だ」
「…………なんだよ……」
――そんな、ふざけた話……どこの世界の話なんだよ、それ。
一条はひどい頭痛に吐き気を感じながら、千木に向かって呟いた。
「そんな話……信じろって?」
「信じることができないのがおかしいぞ。現におまえは“太極”を使いこなせていたじゃないか。おまえは相手を傷つけるのを怖れているからこそ、鎖を遣って相手の動きを封じるという平和的なやり方を取っている。信じることができないというのなら、おまえは自分自身が今までやってきた、自分自身を否定することになるぞ」
「でも……神様とかの力って、俺、要らないし……」
「欲しい物が簡単に手に入るわけがない。どっちかっていうと、人生、ほしくない物を手にする回数のほうが多いんだよ」
苛立ったように千木が言った。
「――おまえは知りたかったんじゃないのか?」
「……知りたかったよ」
「じゃあ、何でおまえは受け入れようとしないんだ?」
受け入れるって何を、だよ。
千木にそう言ってやりたいが、そんなことを言うべきではない。
「……俺は、おまえが信用できないんだよ。当たり前だろう」
千木が、息を詰まらせる。
そんな天狗に対して、『白拍子』がやや冷ややかな視線を向けたと思ったのは、気のせいだろうか。間違いだろうか。
安倍家の陰陽師たちは、静かに見守っている。
山姫は、沈黙を守っている。
「……今さらそんなでかいことを言われても……おまえはさ、全部正直に話したって訳じゃないだろう? だから、ああはいそうですかって言える訳ないだろう。まだ何隠しているのか分からないし、そんな奴を信用できるわけないし……いまの話だって、本当のことじゃないかもしれないだろう?」
一条は、うんざりしたように言った。
今ので千木が全てを話したとは思えない。聞いたって、全部を正直に答えてくれそうにない。ただ、自分の能力がどういうものであるか、それだけを限定的に答えただけだ。
こいつはまだ何かを隠している。
それ以外、こいつのことが分からない。
「……一条、いまの話は、すべて本当だ。偽りなどない」
それまで沈黙していた山姫が、静かに言った。
一条は傍らに立つ山姫に、驚きの視線を向けた。
「おまえが持っている能力は、まさに千木が言ったとおりの、あまりにも強大な力だ。それ故、あまりにも危険。ひとつ間違えば世界が壊れるといっても過言ではないんだ。おまえは今まで鎖しか出せなかったが、おまえが望めばあらゆる武器はおまえの掌に収まる。何もかも、おまえの望どおりに都合よく作り変えることができる」
「……知っていたの?」
「いままで黙っていてすまなかった。だが、おまえが負うことになる重荷を少しでも減らすための配慮だ。それだけは分かってくれ。そのために、『天竺』では、おまえに対して段階的に情報を与えることにしたんだ。時期を誤って情報を与えれば、最悪な方向へと転がりかねない。言霊も言霊だ。意識的にも無意識的にも言葉を発すれば、それが周囲に影響してしまい、悪しき言葉を紡げば悪しき結果を紡ぎかねない……だから、なんだ」
「知っていたの? ……山姫まで?」
戸惑って、一条はもう一度呟いた。
「――、すまない」
何故か苦しげに、一条の顔を辛そうに見上げて、山姫が一言、謝った。
それを見ると何故か、自分まで苦しくなった。
「……千木、もう話すべきだ。こいつは知らなければならない」
唐突に同胞に視線を向けて、山姫は促した。
「もう隠すべきではない。何も知らないままの一条に、やるべきことを指示してそれを実行させるなど、まさに手駒の扱いだ……こいつのためにできるのは、結局のところ、我々の……『天竺』の計画を教えるべきだ……何としてでも、一条の力が必要だから、こいつも関係者だから、話すべきだ」
「しかし……」
わずかに戸惑う千木に対して、山姫は一言放った。
「遅かれ早かれこいつには、いずれは話さなければならなかった。だから、いま話したところで問題はない」
千木は、瞬きした。
『白拍子』が奇妙な表情で千木を見つめていて、安倍家の陰陽師が緊迫した表情で見守る中、天狗の千木は思案顔で沈黙していたが、やがて観念したような表情で顔を上げた。
「……分かった、話そう」
「そこで立ち話せずに、なかに入ったらどうですか?」
『白拍子』が促した。
「そこで帽立ちされていたら、せっかくの庭のよい眺めが損なわれてしまいますから……遠慮せずに入ればいいじゃないですか」
「――では、失礼する」
決してお互いを見ずに、千木と『白拍子』はお互い奇妙な表情のまま、肩を横切らせた。
一瞬、奇妙な空気に怪訝そうに顔をしかめる一条と安倍家の陰陽師。
――このふたりの奇妙な関係が、引っかかるが……いまそれを尋ねるべきではないと安倍晴明は自律する。
一条と吉平と吉晶は、天狗の千木を怪訝そうに見やったまま。
「……『白拍子』に同じく俺たち特殊な人間と妖怪は、代々、歴史のなかでとある知識を継承している。そして、書物に記されることがないその知識のなかに、おまえの能力に関する記述がある。太古、人と妖はその能力を“太極”と呼び……」
千木は説明して、言葉を区切る。
「そして――“太極”を発動させて万物を創造するのを“太虚の覇者”と呼んだ……」
“太極”の使い手の呼び名。そして、この世界で一条が唯一名乗ってよい名前。
天狗の千木は、静かに付け加えた。
「“太虚の覇者”ってのは……本来、神が定めた不可侵の領域にいる、“太極”を使うことができる人間と妖怪の呼び名だよ」
「……それが、俺のことなんだな?」
一条の問いかけに、天狗の千木は無言で頷き返す。
「そうだ……この世界で唯一、おまえだけが特別なんだ」
だからこそ、おまえを危険視する勢力があるだろう、と千木は続ける。
「おまえはまだまだ子供だ。それに、この世界の住人でない以上、他人からの信頼は得にくいだろう。この世界を“太極”で自在に作り変えることができる一条守という少年は、陰陽師の許で厄介になっている上、妖最高位の『天竺』とも接触している。人と妖というふたつの世界に過度に干渉しているから、朝廷の貴族のなかにはおまえを消そうとする人間も現れるだろう。おまえを、利用しようとする人間も……」
「…………そんなことはどうでもいい」一条は、千木を遮って尋ねた。
「それよりも、教えろ……『天竺』の計画が何なのか……何が狙いなんだ? おまえらは俺に何をさせるつもりなんだ……?」
“修験落ち”から助けてくれたのは、俺に貸しをつくるためだろう?
一条は尋ねた。
そして千木は、無表情と言っていいくらいの奇妙な表情で、一条を見据える。
そうだ、とまず答える。
「俺たち『天竺』は……おまえの力を使ってある事を成し遂げるための計画を立てた」
言葉を、区切る。
安倍家の陰陽師たちは神妙な表情で注視して、『白拍子』は目を細めて天狗の背中を見やる。
続けろ、と一条は促した。
そうして、天狗は、口を開く。
天狗が一条に近づいた理由、天狗が一条を助けた理由、天狗が一条を利用しようとした理由……ほんとうの、目的。
それを、言おうとしている。
それは、聞くべきではなかったのだろう――聞かなければ良かったのかもしれない。
次の一言で、この時、俺の世界がぶっ壊されたんだから。
「――俺たちの目的は、この世界を、おまえの“太極”を使って作り変えることだ」
比叡山延暦寺より遠く離れた平安京。
内裏では、最悪な事態が進行しつつあった。
陰陽寮。
陰陽頭である賀茂保憲の執務室では、陰陽頭のほかに保憲の補佐官である陰陽助や、陰陽寮の幹部である天文博士や数名の陰陽師が会同している。
「では、全ての式占は、やはり……」
賀茂保憲は重苦しげに言った。
「はい、もはや先読みはできず、六壬神課すらその役割を果たすことはできません。全ての式占はもはや使い物になりません。星の動きを読み取ることすら、できないのではないのでしょうか……」
陰陽頭に応えるように言ったのが、天文博士。
卜占にも精通しており、その正確さで知られる天文博士は、顔を曇らせている。
天文博士は、広範囲な占星術を行い、空で起きる星の動きなどを観測する職務を遂行する。星が揺れ動いたあの夜、直ちにその意味を調べたものの読み解くことはできなかった。
意味を読み解けないことに、賀茂保憲同等の懸念を抱いていた。
そして、その懸念は最悪な方向へと強まっていく。
「……天文密奏はいかがなさいますか?」
天文博士は、静かに尋ねた。
おそらく政権中枢からの報告を求められていて、対応に困っているのだろうと、保憲はそう推測して頭を悩ませた。
……困ったものだ。
天文博士は通常職務で星の動きなどを観測し、記録している。一条守が現れたあの夜に、夜空のひとつの星が見せたあの異常な動き(このような異常現象を天文異変と呼ぶが)。そのような異常現象を観測した場合、占星術による解釈を君主に報告しなければならない。
これを、天文密奏または天文奏と呼ぶ。
これを長引かせるのはまずい。今頃、貴族たちは焦心しているだろうが、まだ意味をはっきりと読み解けていない今、報告できるものは何もない。
「……ひとまず、道長様にだけ事情をご説明するしかあるまい。しかし、この事態に関して一条守が何らかの形で関与している場合、危険分子と見なし、一条守が延暦寺より帰京次第、検非違使に身柄を捕縛させてここに連行させる」
止むを得まい。
陰陽頭は内心呟き、そして重々しく宣言する。
安倍晴明から一条守に関しては穏便に事を運ばせて頂きたいと、先日文を貰ってはいたが、事態が事態。一条守がこの世界に現れてから、状況はあまりにも変わりすぎている。故に、もはや穏便に事を進めるわけにはいかぬ。
早急に取り調べる必要がある。
この先に、何か恐ろしいものが待ち受けているような、そんな気がしてならない。
何やら嫌な予感がする。
賀茂保憲は、わずかに嘆息した。
「……昨晩、左京区の拠点のひとつが瓦解したと聞いたが」
右京区のとある豪邸。広大な面積を持つ庭園を眺める釣殿に立っているふたつの人影があった。宮中に参内する正装、束帯ではなく貴族が日常的に着ている直衣という服装の、上流貴族の男。そして、この屋敷の者にしてはいささか品のないといえる格好の男性。頭巾で目深く顔を隠している。
従者のような格好をしたその男性は、静かに答える。
「ご安心下さい。検非違使の者ではなく、妖が乱入しただけに御座います」
「――妖、と?」
驚きを隠せない様子で、しかし落ち着いて貴族は聞き返した。
「何故、妖がそなたの許に……?」
「理由は分かりかねますが、賊は妖のなかで最高位の組織、『天竺』と呼ばれる天狗と水虎。人と妖の双方の世界の調整を任としております。おそらく、私の行為がそれを妨害するものと見なしての奇襲を仕掛けてきたので御座いましょう」
「なるほど……天狗と水虎か」
妖怪に関しては多少の知識がある貴族は、微笑した。
「お主は随分と顔が広いのだな……」
「元々、安倍家の陰陽師を呼び寄せる罠として仕掛けていたのですが……思いもよらぬ来客。時に、安倍家の陰陽師の動きを探ることはできるでしょうか?」
「それは難しい。さすがに陰陽寮とはつながりがないからなあ……」
残念だと言いたげに、貴族は口元を扇で隠して呟いた。
「政権内部でも動けるところは限られておる。あの一件以来、監視の目はいまだなくなることがないのだからな。まあ……使える手駒はまだあるから心配する必要はない」
「かしこまりました」
「――時に、貴様はちゃんと隠れておるのだろうな?」
一転して鋭い口調で、貴族は従者に尋ねた。
「ご安心を。隠形の術を用いております故、見つかる心配などありません」
「隠形の術、とな?」
怪訝そうにその貴族が尋ねた。
「滋岳川人が得意とする術です。かつて安倍安仁とともに地神に追われた際、逃げ延びるために使ったのが隠形の術。神の目すら欺く姿くらまし。いったい誰が気づくでしょうか」
「――なるほど、抜かりないな」
貴族は面白げに笑った。
「では、貴様は作業を継続しろ。どこに潜伏しているかは分からぬが、作業に何の問題もあるまい。違うか……蘆屋道満よ?」
「順調に作業は進めております。ご安心を」
従者が頭を下げてそう言った途端だった。
従者の姿が、瞬きした刹那、ふと消えた。そして、貴族の目の前にひらひらと、人の形を取った和紙の符が舞い降りていく。
それを手にして、貴族は妖しげに笑った。
ほんとうに、陰陽師が遣う術は奇妙で面白いな。これが人の形を取るとは。
「……さてさて、面白くなってきそうだな」
貴族――藤原顕光は釣殿を歩きながら、クククと不気味に笑った。
場所は遠く離れて内裏。
現在は、若き円融天皇の皇居となっている。
円融天皇が即位したのは約九年前、九六九年のことである。即位した時、齢十一。天皇としての祭りごとなどの職務はその年齢では遂行不可能と判断され、大叔父にあたる太政大臣であった藤原光頼が摂政に就任。それ以降は、政は全て自分の意思に関係なく行われた。
ただ、飾り棚に飾られ続ける日々が、空虚に過ぎていった。
そして、いま。
実質、傀儡として扱われ続けている円融天皇の許に、いま、ひとりの呪術師の姿があった。
服装からして、明らかにこの皇居に入れる身分ではない。長い間使い続けてきたような、少々色褪せた水干を身にまとっている。
明らかに、この京の人間ではなく、地方から上京した者だ。
円融天皇が人払いさせたとある一室にて、その呪術師は天皇に対して深く頭を垂れていた。
「――面を上げよ、智徳法師」
天皇の一声に、智徳法師は礼儀正しくゆっくりと面を上げる。
「朕に話せ。この京で起きていることを、詳細に」
「はっ……」
時は巡り、物語は語られ、車輪は動く。
人はそれぞれの謀を巡らす。ただ歩き続ける。その道の先に、何があるか何が待ち受けているかを知らず。
物語は、定められた結末へと進んでいく。
ただただ、すでに定められた結末へと、機械的に。
十九、
天狗の宣告は、確かに一条の耳に届いていた。だが、聞いた途端、視覚と聴覚がぼんやりとしているような気がした。
一条守は惚けていた。
呆然と目を見開き、口を半開きにしたまま、直立不動の姿勢のまま微動しない。間抜けの面ではなく、ただ、理解できずに呆然としている様子だった。
「……え?」
ようやく、長い沈黙の後、一条はやっとそれだけを呟いた。
――どういうことだ?
「……聞こえなかった訳じゃあるまい……」
天狗の千木は相変わらず不機嫌な表情で言った。千木にしてみれば、この話はこの時点で、一条は完全に理解していなければならないのだ。一条の鈍感さと忘れっぽさに、千木はさすがに苛立ちを感じている。
「――“太虚の覇者”であるおまえの“太極”を利用して、この世界を作り変えるんだよ」
――ムゲンを。
千木は、自分がこの世界を一条に説明したときに使った名前を、最後に付け足した。
これで一条は、理解できるはずだった。
「……どういう意味だよ、それ……」
困惑を隠しきれずに、一条が呆然と呟く。
またか、と千木は小さく舌打ちする。
「どういうことだよ! どういう意味だよ! この世界を作り変えるって……おまえも、俺に何をさせたいんだ? ていうか、何を考えているんだよ?」
一条は混乱したように叫ぶ。
理解、できない。
突拍子もないことだと、千木は自覚していた。
だがやはり、一条に対して苛立ちを抱かずには入られなかった。
「何度も言わせるなよ」
一条を先制するために、千木は怒声を張り上げた。
「おまえは“太虚の覇者”なんだ! “太極”を利用すればこの世界を滅ぼすことも、新しく作り変えることもできるんだ! 大体、どうして理解していない? この世界がどういう所であるか、おまえには一度説明したはずだぞ! もう忘れたのか?」
天狗が今まで抑え込んできた苛立ちが、猛烈に爆発した。
一条は、戸惑ったように瞬きする。
「……それって……ムゲンのことか……」
「じゃあ俺はおまえに尋ねよう。おまえは自分の目の前にある、右左をきちんと分割することはできるか? おまえの目の前には何がある? おまえの右手には何がある? おまえの左手には何がある? そして、右と左を隔てるものはあるのか? 境界線は目に見えるものなのか?」
千木が、矢継ぎ早に言った。
一条はのろのろと右左を交互に見やる。
右手には山姫がいて、そして『白拍子』が天狗のすぐ傍に立っている。そして、左手には晴明さんや吉平や吉晶さんがいて……そして、右と左を隔てるものなんて……
……境界線なんて――ない。
「言ったはずだぞ、天地万物には境界線というものが必ず存在していなければならない。だが、この世界には境界線というものがはっきりと存在していないんだ! ちょうど目の前の右左の境界線が、はっきりと見えないように。同じくこの世界では生きていることも死んでいることも、全てが曖昧だ。だからこそ、この世界では夢現が混じり合っているんだ」
だからこそ、あり得ないことが起きるんだ。千木は一呼吸置いて、さらに告げる。
「この世界に生きる命あるものの存在なんて、神様から見ればひどくちっぽけで曖昧な存在なんだよ」
「……はあ?」突然の発言に、理解できずに一条は仰天して顔を上げた。
ふと横を見れば、安倍家の陰陽師も驚愕の面持ちだった。
「この世界は、この世界が誕生した瞬間から構造的に重大な欠陥があったんだよ。生者の世界と死者の世界のあいだが、異常なまでに近距離で。死者たちが生者の世界に侵入するように、そして世界を亡ぼすように、あらかじめそういった筋書きが設計されていて、そしてそうなるように始まりから創造されているんだよ! この世界が死者たちのおかげで滅ぼされかけているのも、全て神様がこっそり仕組んだ性質の悪い御伽噺に過ぎないんだよ! こんな未完成な世界を創った神様は、俺たちにふざけた人生を送り届けてくれたのさ」
最後の自嘲気味の呟き。
千木は落ち着いた表情で話し続けた。怒鳴ったりしなかった。大声で説教するように話すことはなかった。だけど、あまりにも強く言葉が響いた気がした。
「――お前には前にちゃんと……言っただろう? ここでは森羅万象の形すらも曖昧だって。境界線が敷かれていないからさ」
ほんとうに、哀しげな表情で、天狗の千木は言った。
「神様は、俺たちをただついでに創っただけなんだよ。この世界も、この世界の住人たちも。死ぬために俺たちは生まれてきて、殺されるために俺たちは造られた」
一条は息を止めた。
正気で言っているのかと、天狗に尋ねたかった。本当のことを言っているのか、疑わしかったから。だけど、千木の表情は冗談を言っている表情ではない。
本気で、それを信じている表情だ。
本気で、現実に怒っている表情だ。
自分の存在が曖昧なものにされていることに、激怒している……
まさか、本当なのか。
一条は頭痛で頭がくらくらした。
……こいつが言っていることがもし、本当のことだとすれば……
――なんて……
理不尽な人生なんだろうか。
なんてひどい、残酷で不条理な物語なんだろうか。
最悪な物語を用意する作者がいるならば、最悪な人生を用意する神様もいる。
もし、千木の言うとおりだとすれば、この世界の住人は、くそったれの人生を送らなければならないということか。ただ、神に殺されるような人生を、そんな無価値な生き方を。
そんな生き方……そんな生き方なんて、ないだろう。
あらかじめ死ぬことが決定されていて、そして無意味に時間を過ごすなんて。
確かに、そんな生き方に意味など価値などない。
この世界にいる自分も、神様から見れば、遊び飽きたつまらない人形にしか見えないだろう。
――なんて、世界だ……
だから、千木たちは闘おうとしているのか。自分たちが無価値でないことを証明するために。
だけど……そんな突拍子もない話、すぐに信じることはできない。
「……ほんとう、なのか?」
恐る恐る、信じられない面持ちで一条は天狗に尋ねた。
「俺の内側に確証はある。だけど、おまえに見せることはできないんだよ。見せてやりたいところなんだが、困ったことにその方法がない。だから、ほんとうなんだが、ほんとうだと実証できない……」
疲れたように、困ったように、悲しむように、天狗の千木は呟く。
「……それで、この世界を作り変えるっていうことは……?」
一条は、静かに尋ねた。だけど、不安げな表情で。
「…………“太虚”というのは、まったく際限を持たない、一点の曇りも障害もない、無意識無欲無我の境地なんだ。それこそが、天地万物の創造であり始まりの地点である“太極”に辿り着く唯一の方法だ……元々、人と妖は“太極”から生まれた。だから、“太極”とのつながりからあるから、“太極”へと遡っていけば、“太極”に近づくことができるんだ……」
「じゃあ、俺は、“太極”に近づいて、力を出していたってことだよな?」
一条が確認すると、無言で千木は頷いた。
「全ての生命には“太極”とのつながりがあり、全ての生命が“太極”に近づくことができる。だが、時経つにつれてそのつながりは気づきにくいものになっていった……だから、“太虚の覇者”という特別な存在だけが独占できるようになったんだ……」
「独占って……」
「独占という言い方が悪かったな、すまん。だが……おまえみたいに物質を創造して消滅させるのは、この世界に二人といないんだよ。おまえだけが持つ力。おまえだけが作り出すことと作り変えることができるんだ」
天狗の千木は、何かにとり憑かれたような、奇妙な表情で言った。
一条は、しばらく沈黙していた。
この世界が実際に、千木の言うとおり、万物の形が曖昧にされているとしよう。仮に神様が、ふざけて作り上げた世界だとしよう……ならば、当然のことながら疑問は残る。
「千木……おまえ、どうしてそこまで知っているんだ?」
当然の疑問を、一条は投げかけた。
正直、千木が薄気味悪かった。
こいつは、何から何まで詳しい。
「……悪いが、今の段階でその情報を打ち明けることはできない。仮にいま話したとしても、これから色々なことが立て続けに起きるだろうから、君はついうっかり忘れてしまうかも知れない。だから……いま、話すことはできない……すまん」
「それじゃあっ……」
――それじゃあ、何も変わらないじゃないか、と一条は言おうとして、口を閉ざした。
何も聞かないでくれと、天狗の千木が苦しげに呟いたからだ。
何か見えないものが、一条を押し止めた。
「……一条殿」
それまで沈黙を守っていた『白拍子』が、静かに口を開いた。
「千木殿の仰っていることに、偽りはまったくありません。千木殿はほんとうに、いまの段階でのみ話せる情報を話しています。それ以外は、私からも申し上げておきますが、まだ聞かれないでください。聞けばあなたは、まだ足を踏み入れていない日陰に引きずりこまれますから」
一条は眉根を寄せた。
……それは、境界線の向こう側という意味だろうか。
「……じゃあ、曖昧でもいいから教えてください。あんたたちは何者なんですか?」
『白拍子』と千木は顔を見合わせる。どちらも、感情を押し殺した無表情で、静かな様子で。
やがて、千木が口を開いた。
「……俺たちは、そうだな……一条、おまえの立ち居地のすぐ近くにいる、人と妖とはちょっと変わった特別な存在だ。だから……俺たちは普通の人間と妖怪なら知り得ないことを、知っている。今答えれるのは、それだけだ」
精一杯さが感じられる説明だった。
「……分かった。じゃあ、それはもういい」
一条は、次の質問に移った。
「おまえの説明が抽象的過ぎて分かんないんだけど……俺の“太極”で、この世界を作り変えることなんかできるのか?」
それが、疑問だった。
たとえ神様の力を自分が持っているとしても、果たしてそんな絵空事めいたことができるのか正直なところ自信がなかった。
具体的にどうやってこの世界を変えるのか、それすらも、知らされていないし分からない。
「なあ、千木……」
溜まらず追い討ちをかけるように一条が尋ねると、天狗は片腕を上げて静止した。
一条は口を閉ざす。
「おまえの力はまだ不安定だし、それに完全に制御しきれていない。今のままだと、おまえの“太極”を使っても成功しないし、下手すれば力の奔流に、おまえが呑み込まれてしまう可能性だって考えられる。“太極”自身にも創造と破滅のふたつの性質がある。生半可なやり方じゃあ、自分の命を滅ぼす結果になるだろう」
「……それで、おまえは調整するために……」
一条は呆然と呟く。だけど、その前に自分は天狗の忠告をやぶり、一度だけ“太極”を発動させた。
「そ。段階的におまえの能力を制御するために、手解きをしようと思っていた訳さ。まあ、『白拍子』が用意したふざけた試験のおかげで、おまえは“太極”と地脈の賭け技を遣って暴走しちまった……別の神宝を用意する必要もあるかもしれないな……計画が見事に狂わされたよ……とにかく、二度とあんな真似はするなよ。おまえが消えなかったのが不思議なくらいだ」
天狗の千木の厳しい口調に、一条は驚いた。
「それほど危なかったのか?」
「危ないどころじゃない、危険すぎるんだよ」
千木が唸った。
「知らなかったのか? 地脈は人と妖が扱えるような代物じゃないんだよ。日ノ本という国の礎ともなる地脈は、神の力に類されるもの。悪戯に干渉すれば体が破裂するか消えるかのどちらかなんだよ……」
「……じゃあ、間違っていれば俺も……」
「おまえ自身が“太虚の覇者”である以上、そんな無様な死に方はないだろうが、最悪腕か足がもぎ取れていただろうな。今のような状態では」
おまえが五体満足で立っているのが奇跡だよ、と千木は呟いた。
そして天狗は、『白拍子』をそっと睨み据える。
一条の顔は真っ青になった。
……おいおい、嘘だろう。冗談だろう。死んでもおかしくないような状況だったのか。
自分の力――“太極”を発動させた時、自分の足元に流れている、冷たい川のようなものを、はっきりと見ることができて、その流れを感じることができた。実際に両手は使っていないが、手で掬い上げるような感じで、一条はそれを使うことができた。
――だけど、それがそんなに危険で恐ろしいことだったなんて。
一条は、そっと視線を『白拍子』に移した。
何やら思案している表情を浮かべている『白拍子』は、暗い表情で睨む一条と天狗には気づいていないようだ。
まさかとは思うが……この試験。
初めから全部、仕組まれていたんじゃないだろうか。一条の能力をただ発動させるだけじゃなくて、地脈がある場所で“太極”が発動した場合、地脈がどのように変化するか、いいや、一条の能力がどれほど広範囲に使えるかを調べるために、あの『白拍子』は仕組んでいたのだろうか。
聡明であるからこそ、何を考えているか分からない。だから、怖い。
あの聖人のような風貌と言動が、今となっては不気味に思えてならない。
その優しさが、どこか歪んでいるように見える――今、あの人は何を考えているのか。
あの落ち着いた雰囲気が、不気味に見える。
今さらだけど、一条は自分の周りにいる人間が、自分の周りにいる妖怪が、どれほど信用できなくてどれほど怪しいかに気づいた。百パーセント味方なのか。天狗にしたって『白拍子』にしたって、そして安倍家の陰陽師たちにしたって、味方として信じたいが、絶対に味方とは言い切れない。
考えれば考えるほど、自分の絶対の味方なんていないんだ。
誰もが、自分を利用しようとしているんじゃないのか?
天狗の千木だってそうだし、山姫は計画を話してくれなかった。『白拍子』も何か妙なことを考えているみたいだし、安倍家の陰陽師もほんとうに自分のことを親身になって考えてくれると思いたいけど、ほんとうにそうなのだろうかと疑念が生じる。
独りぼっちは嫌だから、誰かを信じていたい。
だけど……誰も信じることができない……周りが、歪んで見える。
「……一条?」
沈黙していた山姫が、心配そうな表情で一条の顔を覗きこんでいる。
「……何?」
「ずいぶんきつい顔をしていたからな。大丈夫か?」
ほんとうに、心配してくれている、山姫の声。
――だけど……言葉が、出ない。
そんな一条の様子を見て、山姫は軽く嘆息する。
「……一条、ひとつだけ言わせてくれ」
山姫が意を決したような表情と口調で言った。
「――おまえが私を信じてくれなくてもいい。だけど、私だけはおまえの傍にいる」
絶対に守ってみせると、山姫は誓った。
それが、私がここに来た理由だからだ、と続ける。
そして最後に――
「これでおまえは少しばかりは楽になれるだろう?」
一条の心を見透かしたように、山姫は笑ってそう言った。
……ほんとうに、うらやましいと思う。山姫のことが。
どういう訳か自分がひどく未熟に見えて幼く見えて恥ずかしく思えて、一条は自分の頬が急激に熱くなるのを感じた。顔が真っ赤になっているのが分かる。恥ずかしいけど、一条は山姫から視線を逸らすことができなかった。
ほんとうに、うらやましい。
山姫を絶対に信用できないのに、山姫はそれでも構わないと言った。それでも、傍にいて、自分を守るといった。
山姫は嵐のような激しさを持っていて、一条が抱えている不安などを、軽く吹き飛ばす。
なんだか心まで見透かされているような気持ちになるが、それがかえって自分を落ち着かせる。
山姫のように、自分をしっかりとつかめたらいいのに、と常々思う。
流されにくくて、自分らしさを絶対に失わない、山姫みたいな強さがあればいいと思う。
だから……
――こいつだけは、絶対に疑いたくない。
こいつだけは絶対に疑いたくないと、一条が心のなかでそう決めた瞬間、こいつだけは絶対に守り抜くと山姫は決意を固めた。
お互いが、お互いに聞こえないように、お互いに気づかれないように心に誓った。
「……ありがとう」
相手にかろうじて聞き届く声で、一条は小さくお礼を言った。
情けない表情をしている一条に対して、少々戸惑ったような表情で瞬きした山姫はやれやれと言いたげに微笑んだ。
「――じゃあ、話を次に移すとしようか」
天狗の千木がそう言って、一条と山姫の注意を自分に引き戻す。
安倍家の陰陽師は、ただ傍観するだけで傍聴するだけで。目の前で起きている出来事を、姿勢を崩さずに耳を傾け、その目に刻み続けている。自分の記憶にしっかりと銘記するように。
そして、『白拍子』は首をわずかに動かして、無表情に天狗を見やる。
一条と山姫は正面から天狗を見つめる。
誰もが沈黙で先を促したが、訝しげに一条は尋ねた。
「何の話だ?」
「――『影の勢力』の動きだ。まず、それから話そう」
二十、
「何かあったのか?」
「昨晩、左京区にて一騒ぎがあったのはそこの陰陽師たちは存じているだろう。あれは我々が起こした騒ぎだ。正確に言うと、蘆屋道満を捕らえるために奇襲を仕掛けたものの、見事に失敗してしまいには吹き飛ばされて危うく死ぬところだった。そんなところ」
さっぱりとした風に語る天狗に対して、一条は首を傾げた。
「……負けたのか」
疑問では確信したような呟き。
千木が顔をしかめて首を振った。「負けてなどいない。最初はなんとか藍染とふたりがかりで押していたんだよ。だけど、数に負けて一気に形勢逆転しただけだ」
やっぱり負けたんじゃないか。一条はそう言いたかったが、堪えた。
「……それで? 何が原因で形勢が逆転したんだ?」
「死者だ。蘆屋道満がすでに死者を葦原の中つ国に招きいれている」
うんざりしたような表情で千木が話した。
途端に、山姫だけでなく『白拍子』と安倍家の陰陽師の顔色が変わった。とんでもない事態になっていることだけが、一条にも分かった。何か、悪いことが起きているということが。
「間違いありませんか?」
『白拍子』が驚きを隠せない様子で、困惑したように口を開いた。
千木は苛立ったように頷いた。
「昨晩確認できたのは十人だけだ。おそらく、死者はもっといるだろうな……」千木は続けた。「おそらく、今も死者たちの数は増え続けているだろう。蘆屋道満がどんな手段を見い出したのか分からないが、奴はおそらく、軍隊を作り上げようとしている」
一条は首を傾げた。「……何の、ために……?」
「決まっているだろう。蘆屋道満は『影の勢力』に属する呪術師。奴はこの世界を完全破壊するための準備として、軍隊を作り上げているのさ……京の警備力を簡単に捻り潰せるほどの軍事力をもってして、手始めに平安京を滅ぼすんだろうよ」
「それで……この世界、壊れるのか?」
「その可能性は正直低い。おそらく、奴らの狙いは別の次元にあるだろう」
千木は壁に軽く頭を当てて、説明を続ける。「問題なのは、いまこの時も死者たちがこの世界に増え続けていることと、死者をこの世界に招き入れている妖術が敵側にあるということ。このふたつを急いで何とかしないと、冗談では済まされない事態に進行する」
「死者をこの世界に招き入れている妖術って……どういうことだ?」
「死者というのは分かり易く言えば、魂だけの存在なんだ。肉体を持っていない。生者は魂魄――魂と肉体があってからこそこの世界に存在しているから、当然、死者はこの世界では存在できないんだ。おそらく、この世界に招き入れるためには、死者が存在するための器となる肉体が必要だ。妖術ってのは肉体を蘇生させる、といった範囲のものだろう?」
一条の怪訝そうな問いかけに対して、吉平が固い表情で答えを教えてくれた。
「さすがは安倍吉平、洞察力だけは素晴らしい」
褒めているのか馬鹿にしているのか微妙に分からない評価を受けて、吉平は半ば諦めたようなうんざりした表情を浮かべたが何も言わなかった。
天狗の千木は、しかし、と続ける。
「正確に言うと、奴らが死者の軍隊を作り上げている妖術は、肉体の蘇生ではない……蘆屋道満が編み出して用いているのは、生者の肉体に死者の魂を強制的に転移させている妖術なんだ」
安倍家の陰陽師と『白拍子』は顔色を変えた。
しかし、一条はやはり理解できなかった。山姫に「どういうこと?」と疑問の視線を送ると、山姫が困ったように答えてくれた。
「本来、肉体に宿る魂は、それぞれの魂に適した肉体にしか宿らない。おまえの体に別の人間の魂が宿ることなんて有り得ない。実際、そんなことが出来たとしても、魂魄の結びつきは不安定でもろい。だから……おそらく、肉体は崩壊するはずだが……」
「死者の蘇生となると、術者は死者が以前有していた肉体も蘇生しなければならないんだ」
天狗の千木が説明を続けた。「その人が生前と同じように不自由なく動き回れて不自由なく生活するためには、その魂が以前結びついた肉体を蘇生させる必要がある。だが、現実的にそんなことは絶対的に不可能。だからこそ、死者の蘇生は古今東西大昔から絵空事でしかなかった」
「なるほど、そういうことですか」
唐突に『白拍子』が理解したように口を開いた。「肉体の蘇生が不可能であるならば、生者の器に魂を強制転移させることによって、一定期間、死者はこの世界に存在することができる。蘆屋道満が肉体の崩壊を遅らせるために何らかの術をかけていたとしても、死者がこの世界に存在できる時間は限られていて、おそらくそれは短い……近いうちに、蘆屋道満が何らかの行動に移るということですね」
「そういうことだ。おそらく、京で大規模な攻撃を仕掛けるに違いない」
「――それって、戦争かよ」
『白拍子』の推論を肯定する千木に、一条は驚いて尋ねた。安倍家の陰陽師たちも緊張を隠せない様子。
「そう、戦争だ。もう始まるんだよ」
苛立ったように千木が言った。「誰にも止めることはできない。もうすぐ開戦ののろしは上げられる。準備している暇なんかない。もう時間はないんだ」
「そんな――」一条は言葉を失った。
蘆屋道満や“修験落ち”といった『影の勢力』が、もし戦いの準備を水面下でひっそりと進めてきているとしても、京の人間たちは準備などしていない。何しろ、戦争なんて起こらないと考えているから。だって当然だ。相手は死者という別の世界の軍隊。その軍隊が攻めてくるなんて情報は、どうやったって手に入らない。だから、準備なんてできない。
死者の軍隊はいきなりやってくるだろう。何の前触れもなく、突然。
クーデターが起きたように、京は混乱するだろう。
「……なんとか、ならないのか?」
「幸いなことに、策はまだある。死者を肉体に強制転移させる妖術は、おそらく蘆屋道満ただ一人が有しているものだろう。複数の呪術師が情報を共有していれば、軍隊を作る効率は上がるだろうが、ひとりが捕まって情報を吐けば一気に計画が頓挫しかねない。だから、死者の蘇生は蘆屋道満がただ一人で行っているはずだ」
「じゃあ、そいつをどうにかすれば、死者の軍隊は消えるってことだよな?」
「消える、ではなく死者の軍隊がこれ以上増えなくて済むということだ。そうすれば、戦争が起きたとき、こちら側の被害も最小限に留めることができる」
「……しかし、肝心の蘆屋道満をおまえは昨晩、取り逃がしたのだろう?」
山姫が呆れたような視線を千木に向けて、どうするんだ、と静かに問いかけた。
一条はそれに気づいてハッとした。
一度、千木たちは奇襲を仕掛けた。あの時点では蘆屋道満が死者の軍隊を作り上げていることを知らなかっただろうが、あの時点ですでに蘆屋道満は自分の計画が妨害されないように、さらに慎重に用心深くなっているはずだ。
昨晩の戦闘で、蘆屋道満は逃げてしまった。行方をくらませた。
このまま、蘆屋道満を見つけ出すことはできるのか。
「蘆屋道満がどこに逃げたのかとか、手がかりとかあるのか?」
「うん、奴の場所を短期間で特定する手がかりはない」
一条の問いかけに対して、千木は否定的な意見で即答した。
思い切り絶望的な状況になってきたような気がする……。どうやら、その気持ちは安倍家の陰陽師も『白拍子』も山姫も同じようで、みな、半ば呆れたような半ば冷めたような、一様に同じ表情を浮かべている。おそらく、自分もそうなのだろうが。
「……どうするんだよ……」
一条の弱々しい問いかけに、千木は静かに答えた。「これは俺の予想だが、蘆屋道満は死者を蘇生させるために、生者と死者の世界をつなぐある種の道を作っているはずだ。その道を経由して死者をこの世界に呼び寄せて、強制的に魂を肉体に転移させることによって、おそらく蘆屋道満の妖術は成功する」
「……どういうこと?」
理解できていない一条に対して、千木はふたたび苛立ちを滲ませた声で尋ねた。
「あのね、君、伊賦夜坂っていう道を知らないの? イザナギノミコトが死者の世界に下るために通った道」
「知っているけど……え? それってつまり……」
「ようやく気づいたか」
呆れ果てた千木が、疲れたように説明した。「そういうこと。人間の力で伊賦夜坂につながる道を開くことはできない。だから、蘆屋道満は死者をこの世界に招き入れるために、おそらく京に複数箇所存在している、伊賦夜坂の穴を使っているんだろう……おそらく、そのいずれかの近くに奴は潜伏しているはずだ。奴の潜伏場所を短期間で特定する、最善の手がかりではないが、まだまだマシなほうだろう?」
「……相当、時間かかるような気がするんだが」一条が呟いた。「ちょっと待てよ、蘆屋道満を探し出すまでの間にも、その陰陽師は死者を蘇らせているんだろう? その数がどんだけか分からないけど、相当な数なんだろう? 残った死者たちはどうするんだよ?」
「どうするって……もし蘆屋道満が自分の計画を実行に移せるだけの、充分な数の死者の軍隊を揃えていた場合、作業を妨害されても、奴は計画を急ぎ実行するだろうね。そいつらとの戦いは間違いなく避けられないだろう。どれほど早く蘆屋道満を潰したとしても、かなりの数の死者がすでに地上に上がっているはずだ。戦争は絶対に避けられない」
千木が断言する。
……沈黙。
自分たちがどれほど絶望的で不利な状況下にいるか、全員が思い知って沈黙する。全員の表情は固く重苦しい。しばらく、誰も口を開こうとしなかった。
「……我々『天竺』だけで隠密に動こうとしたが、さすがに限界がある。晴明殿、陰陽寮に文を出していただけないか。京に潜伏している蘆屋道満をあぶりだすため、検非違使を総動員して大規模な捜索を行っていただきたい。頼めるか?」
「承りました。陰陽寮にはただちに文を出しましょう」険しい表情で頷いて、晴明が重々しく言った。「失礼ですが『白拍子』殿、紙と筆をお借りしてもよろしいですか?」
「奥の部屋にあります。どうぞ」
『白拍子』が奥の部屋を指差し、晴明が腰を上げてそちらへと向かう。
それを見送って一条はしばらく思案して、千木に顔を向けた。「もしも、『影の勢力』が平安京を一気に攻め滅ぼそうとした場合……平安京に、死者の軍隊をどうにかできるほどの戦力はあるのか?」
「検非違使とかの武装した人間たちの正確な数や装備は知らないが、おそらく、形勢的に見て絶望的だな。あまり頼りにはならないだろう」
一条の質問に対して、天狗の千木は否定的な意見を示した。「生者の肉体に強制的に魂を転移された死者たちは、まさに生ける屍。痛覚というものがない。だから、検非違使たちが斬りかかっても奴らは何ともない。不死身の化け物じみた死者たちに対して、まともに動ける人間たちも少ないだろう」
「そんな……」
一条は真っ青になった。まさに死者の軍隊はゾンビって訳か。どこの映画の話だよ。
それに、京の警備隊がいままで闘ってきた敵というのは、死者ではなく人間だ。たとえ人間の殺し方を熟知していたとしても、果たしてその常識が死者に対して同じような効果が得られるとは限らない。
誰もが正体不明の敵に恐れて、適切な判断や行動ができなくなるだろう。
平安京の防衛網は簡単に突破されてしまう。
何も知らない無関係の人たちが、殺されてしまう。巻き込まれてしまう。
「……何とかならないのか?」
「戦争は間違いなく起きる。そして京の人間たちは死者の軍隊という突然の脅威に対して、適切な判断を下せないし、迅速に動くこともできない。それに、一度も攻め込まれたことのない平安京だ。庶民や貴族が避難する際に大混乱が起きるのは確実。そこを狙って死者の軍隊が動けば被害は計り知れない規模に膨らむだろう……奇跡が起きない限り、何ともならない」
「じゃあ、どうすればいいんだよ! おまえたちには計画があるんだろう? ムゲンを作り変える前に、この世界が壊れてしまったら意味ないじゃないか!」一条は呆然として叫んだ。「何も考えてないのか? 何も策がないのか? 俺の“太極”でどうにかなるような問題じゃないのか?」
「確かに……おまえの“太極”が、この戦争の命運を左右するのは間違いないだろう」
千木は重々しく肯定する。「ただし、おまえがどれほどはやく正確に“太極”を掌握するかが問題だ。それに、平安京に広範囲に広がる死者の軍隊を浄化するほどの大技は、さすがに一日や二日で習得できるようなものではない。“太極”が命運を左右するのは間違いないが、おまえにできるのはせいぜい百人分の働きくらいだ」
「じゃあどうするんだよ、俺の百人程度の働きぶりで奴らを抑え込めないだろう!」
「当然のことながら抑え込めない。もちろん抑えられるはずがない。こちらは数においてはるかに劣勢だからな。それに、おまえは“修験落ち”や蘆屋道満といった『影の勢力』の主力と闘わなければならないだろう。だから、死者の軍隊は愛宕と鞍馬の天狗一族に任せろ」
「……いま何て言った?」
「愛宕と鞍馬の天狗一族が死者の軍隊と戦うんだよ。それぞれの里から一千人の兵隊が戦場に派遣される。『影の勢力』が目と鼻の先で好き勝手し放題に暴れているのは許せない性質らしくてね。いま、藍染が調整役に動いている。天狗は平和的な連中ばかりだから、いち早く戦場に馳せ参じるよ。この世界のためなら」
いち早く戦場に駆けつける天狗一族のどこが平和的なのだろうかと、一条は不思議に思ってしまったが、形はどうあれ天狗一族が人間たちを助けてくれるという事実に驚いた。「なんで天狗はそこまでやってくれるんだ?」
「そりゃもちろん、この地で暴れている『影の勢力』の動きを嫌っているからだよ。だいたい、平安京が建設されるよりはるか昔から、この地は天狗一族の縄張りだったんだよ。人間たちはその縄張りに気づく事無く、平地に我が物顔で京を建設した。当然そんな行為を快く思うわけがないし、天狗一族のなかには人間たちを追い出そうとする動きは今もあるよ。だけど、『影の勢力』が人間たちの京を蹂躙するのは、さすがに許せないんだよ」
一条は首を傾げた。
「…………それってさあ、つまり……」
「簡単に言えば、いずれ天狗一族が人間たちの京を攻め滅ぼしてこの地方から永久追放する。だけどその前に『影の勢力』に京を攻め滅ぼされたら、自分たちが描く輝かしい未来が消えてしまうので、ここは不本意ながらも人間たちを遠くない未来叩き潰すためにも力を貸そうということ」
「……天狗の行動に感動しかけた俺が馬鹿だった」
一条はがっくりと頭を下げた。喧嘩したい相手がいなくなったら面白くないので、ここは手を貸してその後に喧嘩しよう、ということか。
この世界のためならと言っておきながら、結局は自分たちの野望のためではないか。
「まあともかく、天狗一族が死者の軍隊を自分たちが引き受けると進んで言ってくれるんだ。今のことだけに集中しろ。未来なんて訪れてきたその時にどうにかすればいい。死者の軍隊を天狗一族が相手するならば、俺たちはさっさと蘆屋道満や“修験落ち”と闘う準備をしなければならない。奴らの動きを確実に妨害するためには、一条。おまえの“太極”がやはり必要だ」
「でも……どうするんだよ、俺はまだ“太極”を完全に使えていないんだろう?」
一条は戸惑った。
天狗の千木はかつて言った。これ以上、自分の能力……“太極”を発動させるなと。
それは、その能力自体が強大すぎる故に不安定で、まだ完全に掌握していない“太極”を使うことに危険が伴っていたから。下手に暴走させれば、自分という存在を失わせてしまうから。この世界を、壊してしまいかねないから。
だから、千木は俺に“太極”を使わせないようにしてきた。
『白拍子』の思惑にはまって“太極”を発動させたとき、千木が激怒していたのは本気でそう考えていたからだろう。
「安心しろ。安全装置は持ってきている」
千木はそう言うと、懐から黒い紐で結んだ勾玉を取り出して、一条に差し出した。「呪力は込め終えている。黒瑪瑙という魔よけの石を使って造っている。我ら鞍馬天狗のあいだに使われてきた、呪い封じの道具さ。“太極”が暴走した場合の抑止力として働く」
「呪い封じ?」
「天狗一族の中にも、馬鹿みたいな力を持った奴がたまに生まれる。しょっちゅう力を暴走されてははた迷惑だから、力を抑え込むための道具が昔から作られたのさ。ずっと身に着けておけばいいんだが、さすがに“太極”だとどれくらい使えるかが分からないな」
「ありがとう……大事にするよ」
「大事にしろよ。何しろ、これはおまえの命綱みたいなもんなんだから」
千木から黒瑪瑙の勾玉を受け取ると、表面が氷のようにひんやりしているのに驚いた。
冷たい。
首に勾玉を掛けてみると、冷水をぶっかけられたみたいに寒気がして、思わず声を上げて一条は身震いした。それを見た千木と山姫、そして『白拍子』と安倍家の陰陽師がわずかに苦笑する。
「そこまで過敏に反応するってことは、かなり“太極”が暴走していたということだな。呪いが強く働いていれば働いているほど、黒瑪瑙の呪い封じは大きく反応する。眠気が襲ってきた途端に冷水がぶっかけられたみたいだろう? “太極”に対してどれほどの耐久力があるか分からないが、これで“太極”を発動しても大事にはならなくて済む」
「なんか……思っていたよりあっさりって感じだよな」一条は黒瑪瑙の勾玉を触って呟いた。「こんなに簡単なのかよ。これで、“太極”を発動させても、もう暴走することはないんだよな?」
「いや、“太極”を完全に掌握していないから、君はまだ暴走するよ」
結局は問題山積みの状態のままか。
「……次はどうすればいいんだ?」
「君のいまの状況を簡単に言えば、“太極”は黒瑪瑙でかなり抑えられたものの、袋にあいた穴から水が零れていくみたいに、“太極”を完全に抑止できていないんだよ。核たる部分に呪い封じが効いていない。だから、おまえが完全に“太極”を掌握しない限り、その黒瑪瑙の勾玉を持っていたとしても、力を使った途端に暴走してしまう」
「……ものすごく厄介そうな作業だな。ところで気になったんだけど……俺が“太極”を正確に発動できるように、修行に付き合ってくれる人ってまさかとは思うけど……」
一条が不安げに尋ねると、天狗の千木はニヤリと笑った。
「俺、だ」
自分の胸を指でこつんと叩きながら、千木は宣告した。
“太極”のための修行場に選ばれたのは、『白拍子』の尼寺から遠く離れた場所、樹海が開けて地上の様子を見渡せる広々とした所だった。高い樹木の合間から陽光が零れるように落ちてきて眩しい。そこからはちょうど平安京の碁盤のような町並みを見渡せることができた。
「いい場所だろう」
まるで花見の特等席を自慢するような口調だったが、天狗の千木の表情がおかしいことに一条は気づいた。
満面の笑顔ではなく、ほんのりと浮かぶ小さな笑み。
そして、実際は一条と同じ方向を見ているのだろうが、なんだか自分とは違う別の場所を見ているような、通り越しているような視線。
やがて、千木は静かに呟いた。
「……ここで、闘ったことがあるんだよ」
「『白拍子』とか?」
一条が仰天して尋ねると、違うと千木は否定した。
「『白拍子』じゃない……とある式神使いさ。人間なのに、どういう訳か殴られまくり蹴られまくり錫杖でぶったたかれまくった……ほんとうに、あいつは強かったよ。まったく歯が立たなかった。まあ実際は、詐欺師のような奴だったけどね」
「おまえ……昔は相当弱かったんだな」
一条の感想に、千木が苦笑いした。「違うよ、その式神使いはとんでもないペテン野郎でね。フェイク仕掛けまくるから苦戦した。あいつのずる賢さにはまったくついていけなかったね。あいつはほんとうに強かった」
「ふうん……そいつ、とんでもないペテン…………へ?」
一条はある事に気づいて、そして驚きに打たれて千木を見上げた。
先ほどまでの奇妙に茫然とした表情が、がらりと変化している。いつものようにニヤリと笑いながら、高圧的な態度と口調と空気で、天狗の千木は一条を見据えている。そう、まるで悪戯を仕掛けた小学生のような表情で――。
いや、待て。
問題はそこではない。問題は、こいつのさっきの発言内容だ。
ペテン? フェイク?
「おまえ……おまえ……なんでカタカナ英語を知っているんだよ?」
一条は驚きを抑えきれず、冷静さを取り戻せずに、声を震わせて尋ねた。
信じられない。
この時代、せいぜい日本が接触している外国文化といえば中国ぐらいだろう。漢字などの言語が伝わっているとしても、英語は絶対にこの時代この国に伝来していないはずだ。一五四三年に種子島に鉄砲が伝来してさらに一五四九年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために伝来するまで、日本人はまったく英語というものに触れることはなかったはず……
なのに、何故天狗の千木はカタカナ英語をちゃんと使っているのだ?
あり得ない。この時代の人間が、すでに英語を理解しているなど……
「何をそこまで驚いているんだよ、一条」
ニヤニヤ笑顔をまったく引っ込めないで、悪戯に成功したことを喜ぶ性格最悪な小学生のような表情を浮かべて、天狗の千木は言った。
なんだが、聞いてはいけない悪役の声のような気がする。
「おまえはこの世界がどういう所か分かっているはずだ。ムゲン……境界線がちゃんと敷かれていない、夢と現が混じり合う世界……つまり、あり得ないことも“夢”の一部としてこの世界の日常に溶け込んでいるのさ。驚く必要はないだろう」
「いや、驚くって……つうか、なんでおまえがそれを知っているんだよ? まさか、おまえも別の世界から来た天狗って訳なのか?」
「面白い考え方だけど、それはまるで違う。俺はこの世界の住人だよ」
そして、この世界から一歩も動いていない。ずっとこの世界で生き続けてきた、と千木は補足説明する。
「じゃあ、なんで……!」
訳が分からず混乱して、一条守は叫んだ。
「なんで、おまえはそれを知っているんだ?」
「そうパニックに陥るなよ、一条。リラックスして深呼吸しろ。二酸化炭素吐き出しすぎて過呼吸とかに陥ったらこっちが迷惑なんだぞ。なにしろ、袋のようなものなんてないし……まあ、ここまで混乱するのが普通だし当然の反応だよな」
「いい加減……質問に答えろよ」
「おまえに新しい真実を告げる瞬間がやってきたということさ」
天狗の千木はニヤリと笑って静かに言った。「俺がどうして“太極”に詳しいのか、どうしてこの世界のことに関して詳しいのか、そして俺がいったい何者なのか……いまここで、おまえに真実を教えてやるよ。おまえが知りたがっていた真実を」
混乱する一条の目の前で広がる、二対の天狗の黒い翼。
はらりはらりと音もなく舞い降りる、黒い羽根。
それを、一条は呆然として見つめていた。
何が現で何が夢なのか、もう分からなかった。
いま目の前に起きていることがあり得ないことならば、何故、それは起き続けているのか。あり得ないことは、起きるはずがないのではないのか。
ならば、これはあり得ることなのか。
もう、何が常識で何が非常識なのか、一条にはもう分からなかった。
ただ分かるのは、大きな風が吹いて、夢か現。どちらか分からないが、夢か現のどちからを吹き飛ばしていったということだ。
吹き飛ばされたのは、夢なのか。それとも現なのか。
目の前に残ったのは、現なのか。それとも夢なのか。
もう、何が何なのか分からなかった。
目の前で起きていることすら、理解できなかった。
二十一、
この世界では英語なんてものはない。だから、カタカナ英語を使わなかった。
言ったところで誰も理解してくれないし、それに、誰かにいちいち説明するのも面倒くさかったから。
だから、無意識のうちに、それを使わないようにしていた。
だって、理解できる相手なんて、いないんだから。この世界には。
そう、考えていた……
ほんとうに、ほんとうに目の前にいる奴が不気味で怖かった。
「……おまえ、ほんとうに……なんなんだよ」
訳が分からず混乱して、一条は呆然と呟いた。
「あちらで黙っていたのは訳があるんだよ。何しろ安倍家の陰陽師は完全な部外者なんだよ。俺と山姫と『白拍子』がいるいわば裏の世界の住人じゃない。あいつらは知る必要がないからこそ、俺はあそこでは語らなかったんだ」
天狗の千木は軽い口調で語る。
一条は頭痛で吐きそうになっていたが、弱々しく頭を振る。
「どういう意味だよ……何を言っているんだ?」
「『四神』という風水の思想に基づいて創造され、平安京に施されている最強にして最大の術式のひとつ、その術式の人柱でもある。青龍、白虎、玄武、朱雀の名前を与えられた四天王のひとり、それが俺、鞍馬天狗の千木だ。玄武の称号を持っている」
「……四天王?」
うろんに問い返す一条に対して、千木は頷いて説明する。
「本来『四神』は神様に与えられた名前なんだけど、その代行者として俺たちは『四天王』という名称を与えられている。平安京をあらゆる敵から防護するために組織された、人と妖のなかから選びぬかれた戦士と賢者のチーム。当然のことながら、平安京を滅ぼそうとしている『影の勢力』に対しても、俺たちは動かなければならない」
「いや、ちょっと待てよ……」
余計な情報ばかり教えられて、一条は苛立ったように声を上げた。「俺が聞きたいのはそこじゃない。なんでおまえがカタカナ英語なんて、この世界にないはずの言語を知っているんだよ!」
「それを今説明しようとしていたんだよ」
不満そうに千木が言った。「いいか、『四天王』に選定された人と妖は、普通の人と妖とは異なる存在へと神の眷属として格上げされる。人の場合は本来短い命が何倍にも引き伸ばされ、そして妖の場合はさらに不死身に近い存在へと進化する。『四天王』に選定されたとき、命だけでなく力においても知識においても、あまりにも変わり果ててしまう」
「……どういう意味だよ?」
「近づけるようになるのさ……“太極”にね」
付け足された天狗の一言に、一条は唖然として顔色を変えた。
『四天王』が“太極”に近づける?
「どういうことだよ、おまえも“太虚の覇者”なのか?」
「残念ながら、そこまで力は強くない。君と異なりかろうじて、自分の存在を“太極”に近づけることができる人間と妖怪を我々は“太虚の到達者”と呼んでいる。君のように大胆に物質を創造したりすることはできない。だが、同じく“太極”に干渉する同系統の能力者であるため、俺はおまえの能力について詳しかったというわけさ」
「……そう、か……」
「俺は“太虚の到達者”として覚醒したとき、さらなる知識の増幅を望んだ。そして……おまえたちがいる世界に干渉することができ、あらゆる知識を手にすることができた。複数の言語やこの時代にはない知識を……まあ、ほかの奴はどうかしらないけど」
それでカタカナ英語が分かったのか、と一条は呆然とする。
いいや、カタカナ英語だけでなく、その他の知識も持っているだろう。こいつは。
うまく“太極”を発動させれば、そんなことすら簡単に行えるというのか。「この世界についておまえが詳しいのも……その、“太虚の到達者”だからなのか?」
「俺だけ、がじゃない。『四天王』の全員が知っていることだ。それは」
「全員が?」
一条は驚いた。千木が玄武であるなら、まだ青龍、白虎、朱雀の三人が残っている。千木の同僚のような存在に、会ってみたいと思った。「その人たちって……どんな人なんだ? どこにいるんだ?」
千木は首を振った。「……残念だが、五年前、朱雀と白虎が戦闘を行って死亡した。現在、玄武と青龍以外が空位の状態だ」
「空位って……ちょっと待てよ、『四天王』って京都の守護神みたいな存在なんだろう? それのふたりがいないってことはかなりまずいんじゃないのか?」
「かなりまずいという一言で言い表せないくらいに危険な状態だ。朱雀と白虎が空位であるため、この京にかけられた結界は弱まって、防護術式はまともに機能していない。その結果、易々と『影の勢力』の侵入を許してしまったんだ」
一条は沈黙した。
天狗の千木は玄武。朱雀と白虎は戦闘でどちらも死亡。
ならば残る青龍は……
「……なあ、青龍ってのは誰なんだ?」
「おまえがさっき会った奴。『白拍子』、またの名を白露姫。彼女こそが京の東方守護者、『青龍』の称号を担っている。彼女もおなじく“太虚の到達者”だよ」
「『白拍子』が?」
驚いて叫んだ一条は質問しようとしたが、この天狗とあの女賢者が知り合いっぽかったことを思い出して、すぐにああそうかと頭の中で納得して口を閉ざした。
だが、別の問題点が浮上する。
「ちょっと待てよ、『白拍子』は分かっていたんじゃないのか? 俺が自分の力を暴発させれば、この世界が壊れかけてしまうってことを」
「『四天王』の一員であるからこそ、奴はその事実を充分に理解している」
一条は仰天した。「じゃあ! ……なんであの人はあえて俺の能力を暴発させようとしたんだよ?」
「理由は分からないが、なんらかの目的があったんだろう。『白拍子』はあれでも相当な式神の使い手だ。奴の狼の式神、見ただろう?」
一条は頷いた。
「幼少の頃に『白拍子』は、蠱毒という呪詛をかけられていた。古くから最も凶悪であり放ってはならない呪詛……餓死寸前の犬の首をはねて、怨念を募らせてそれを媒介として、殺したい相手に犬の怨霊をとり憑かせるんだ……本来、常人であるならば呪詛をかけられれば一日を待たずして絶命するが、彼女が特別であるが故に、苦しみの日々を送らなければならなかった。
「呪詛の影響で『白拍子』の身の回りの世話をしていた人間が次々に倒れたため、かの『白拍子』は比叡山のこの樹海のなかに幽閉された。誰にも助けてもらえずに彼女は過ごしていたが、ある時、彼女は自分の内側にある二匹の狼の怨霊を従えることに成功した……蠱毒によって自分の体内へと送られてきた怨霊を、器代わりの式神に転移させることによって、呪いの負担を軽減させたんだ。その結果生まれたのが、犬神とも呼んでいいほどの、クレナイとムラサキ……彼女の忠実な僕さ」
「じゃあ、あの式神そのものが呪いってことなのか?」
「そうだ。あれと長期渡り合えば、常人は毒気にやられてしまう。以前、あの式神とやりあった時、さすがの俺も命を落としかけた」
天狗に視線を向けたまま、一条は首を傾げた。
「なあ千木……」
「――『白拍子』は味方なのか?」
それが、ずっと気になっていた疑問だった。
千木は沈黙して、無表情にこちらを見つめ返す。それが、不気味で怖かった。
味方なのか。敵なのか。
「……正直、奴が味方とは思えん。いずれあいつは俺たちを裏切るだろう……たとえ、その行いでどれほど多くの人が死に絶え苦しまなければならないとしても、たとえこの世界が滅んだとしても、あいつは裏切るだろう……あいつのために」
「あいつ?」
「かつて『白拍子』の命を救った白衣の術者……白虎の称号を継承した『四天王』最強の兵……数多の式神を従えた修験者、白夜」
「誰だよ、そいつ……」
怪訝そうに尋ねる一条に対して、天狗の千木は驚愕の事実を明らかにした。
「『白拍子』の恋人だった男。そして、“修験落ち”の傀儡師へと変わり果てた男だ」
――…………え?
いま、千木は何を言った?
――恋人?
……誰の?
――『四天王』?
……あの、“修験落ち”が?
震える口から、一条の気持ちが零れ落ちた。「何の……冗談だよ……それ……」
「白虎は一度も顔を合わせたことがないが、その武勇はあまりにも広く伝わっていた。歴代『四天王』のなかで最強の兵。数多の式神を使役して、白衣を翻して悪鬼害獣を退ける術者。闇夜に翻る白衣の姿を、人と妖は敬意と恐怖を込めて白虎と呼んだ……まさしく、闇夜にうごめく白い虎だったんだよ」
天狗の千木は遠い目で語った。
「奴が『四天王』を裏切ったのは五年前だ……何が起きたのか詳しい事情は知らないが、ともかく奴は同胞の朱雀を殺害して空位をふたつ作ると、京の内裏へと鵺を従えて攻撃を仕掛けた。かろうじて人間側が攻撃を阻んだが、奴は京へと近づこうとしていた『影の勢力』に、入り口を与えた……もともと、朱雀が殺されて“修験落ち”が白虎の座を殻にしたから四神の結界は瓦解していた……“修験落ち”は、この世界が滅びかける原因をつくった大逆人なのさ」
「ちょっと待てよ……もし“修験落ち”が大逆人としたら、『白拍子』はどう動くんだ? “修験落ち”を殺すために動くのか? それとも……“修験落ち”の側に……つくのか?」
一条の最後の言葉は、弱々しくて震えていた。
天狗の千木は吐息して頭を振った。「昔からそうだったんだけど、あいつの動きは読めないんだよ……だから、奴がいつ自分たちを裏切るか分からない……裏切られても、さらなる絶望を味わわないで済むように、おまえは“太極”を完全に使えるようにならないといけないな」
千木のことばに一条は沈黙した。
結局、自分がいるところは危ないところなんだ。絶対に信用できる人なんていない。千木や山姫や……晴明さんや吉平や吉晶さん……いい人だけど、信じていいかまったく分からない。ほんとうに、自分が困っているとき、本気で助けてくれるのだろうかと疑問に思ってしまう。
そんな疑問を、抱いてはいけないはずなのに。どうしてか。
それに……『白拍子』。彼女は絶対に信用していけないという事実が、新たに加わった。
守られるばかりじゃ嫌だ。自分に力があるならちゃんとそれを使えるように、自分を守れるのならばちゃんと自分を守れるようにしたい。
「……分かった。でも、まだ気になることがある」
一条の言葉に、「何?」と言いたげな表情で千木は無言で問いかけた。
「……この世界に、神様なんているのか?」
予想外の問いかけに、わずかに千木は瞠目する。どう答えればいいか分からず、答え方を考えるか探しているような素振りで沈黙する。
「神様、ねえ……いるんじゃないの、この世界にも」
哀しげに笑みを漏らして、あいまいな答えを千木は呟いた。「分かりやすく言えば、俺はシャーマンのような能力を持っている。自分自身をある特殊な精神状態に陥らせることによって、この世界のことや天意を知ることができる……人間界と天界の中間点にいる俺だからこそ、知ることができたんだよ。この世界の設計図めいたものをね……たとえこの世界がどれほど無価値で残酷であろうとも、神様が造ったと言う事実は変わらないんだ……こんなふざけた世界にも、ちゃんと造り主はいるみたいだよ」
一条は天狗の千木をじっと見つめた。いまの話に、偽りは含まれていないと思う。
こいつは本心だけで話しているんだと、直感で理解できる。
もしこいつの言うとおり、あらかじめ壊れるように設計してこの世界を創造したのだとしたら、そしてこいつがシャーマンの能力を使ってこの世界の真実を知って、自分たちがあらかじめ死ぬように設定されているのを知って、自分たちがどれほど無価値な存在として創造されたかに気づいて、この世界を変えるために、動いたのだとしたら……
『天竺』。人と妖のパワーバランスを調整するためにある組織。だけど、彼らの目的はただの調整ではなく、あくまでもそれは二次的な目的であって、ほんとうの目的は、真の目的はこの世界の変革なのではないのだろうか?
天狗はこの世界を変えようとしている。おそらく、天狗の考えを水虎の藍染と山姫は気づいているだろう。いや、知っているだろう。そして……その考えに支持して、『天竺』をつくったのだろう……
彼らの目的は世界の変化。神への反逆。
ただ神に殺される人生ではなく、殺されるために生きるのではなく、それとは別の生き方を手に入れるため。
「…………分かった。協力する」
長い沈黙のあと、一条は短く言った。
それを聞いて、天狗の千木は驚いたような表情になる。予想外だったのだろう。こんな答え方が出てくるなんて。
「どういう意味だい?」
「そのまんまだよ。おまえたちがこの世界を変えたいのなら、それに付き合うよ。俺だって、こんな所でただ殺されるような生き方はしたくない。ただし、おまえの我侭に付き合ってやるんだから、全部片付いたあとは俺の我侭に付き合ってもらうぞ。それが条件だ」
びしっと指を差して、一条は明るく宣言する。
しばらく呆然とぽかんと口を開けて、一条の宣言を聞いていた天狗の千木は、ようやく理解したのかかなり遅れて笑い出した。
「おまえみたいな奴は初めてだよ。たしかに俺の我侭だけど、それに付き合ってやるなんて……大胆に宣言するなよ。おまえが殺されたっておかしくもないような状況なんだぞ。それなのに……いいのか? ほんとうに」
笑いながら、なんとか言葉を口にする千木。
「ほんとうにいいのか? 俺みたいなのを信用して」
「別に信用していないさ。何しろおまえは情報を包み隠さず教えてくれるような奴じゃないんだからな。どうせまだ話していないことが多いんだろう? 俺に分かるのは、おまえがとんでもなく嫌な奴だってことだよ。だけど、悪い奴じゃないってことくらい分かるな」
天狗の千木は音を立てて吹き出した。
「面白い奴だ……ほんとうに、面白いよ」
天狗の千木はニヤリと笑った。
「こっちの我侭に付き合ってもらえるなんて、この上なく最高な返事だよ。じゃあ、覚悟は決まったみたいだから、そろそろ動くとしようか」
千木の言葉に、一条は頷いた。
「……“太極”を、完全に掌握するために」
二十二、
「座禅してもらおう」
「…………はい?」
天狗の一言に一条は仰天して、数秒遅れて聞き返した。いま、こいつは何を言った?
座禅だって?
何をそこまで驚く、と言いたげな顔をして天狗の千木は言った。「座禅だよ座禅。無我と無欲と無意識の境地に入るための静座だよ。自分自身を“太極”に逍遥させなければ、“太極”を掌握することはできないんだよ。ほら、分かったらさっさとやる……」
やれの合図でパンパンと手を叩きながら、天狗の千木は素っ気無く言った。
「いやいや、意味分からないよ。逍遥って何だよ」
「分かりやすく言えば、目的もなくブラブラ歩き回るみたいなところかな。まあ、煩わしいことを自分自身から切り離すって言ったほうが分かりやすいかな」
「さらに意味が分からなくなってきたぞ。どういうことだよ、逍遥って。ブラブラ歩き回って大丈夫なのか?」
「あのね、“太極”を目指して歩いたって“太極”の目印が見えてくるわけないだろう。そもそも“太極”は物質的なものじゃないんだから。先刻“太虚”について説明したばっかりだろう。自分のなかみを精神的に空っぽにすることによって、“太極”に近づくことができて、さらにその力を引き出せるって……待てよ、まさかとは思うけど、君、座禅って言うものを知らなくてさらにやり方も分からなくてできない、て言うんじゃないだろうな」
現役高校生が座禅なんて日常的にやるとでも思ったのかよ、つうか座禅なんて足の組み方できるわけないだろう、という叫び声を一条は呑み込んだ。「……おまえ、俺がもともといた世界を知らないのか?」
「パラレルワールドなんて多いからね。おまえがどの世界にいたかなんて分かるか」
即座に返ってくる素っ気無い回答。
「……座禅じゃなきゃだめなのかよ」
困り果てたように呟く一条に対して、千木は苦笑を隠せなかった。
「じゃあ分かった。座禅しなくていい。ただし、目をつぶってから固まれ。瞑想しろ。どうせほんとうの意味で座禅なんてできないだろうが、形だけでもあったらそのほうが道をつなげやすいからな。ほら、瞑想瞑想」
今度は瞑想と来たか。
一条は眉根を寄せた。「つうか……おまえ、なんで翼を出したままにしているの?」
「ああ。これ? 地脈の流れを操るために、少し力を周囲に広げている。地脈の流れを操作してから、一種の結界をつくっているんだよ。“太極”に一番はやく確実に辿り着くための道なんだからな」
「へえ……で、その道がつながったら?」
「おまえは“太極”へと誘われる。安心しろ。命の危険性なんてない」
天狗の千木は断言する。
分かった……と呟いて、一条は目を閉じる。何も考えないようにして、何も聞こえないようにする。正直、近くにいる千木が何をしているのか気になったが、たぶん“太極”への道をどうにかするために何かやっているんだろうと、ぼんやりと考えた。
しばらくすれば、自分の体が水に溶け込むような感覚が、ゆっくりと広がっていった。
……入ったか。
天狗の黒い翼で地脈の力を手繰り寄せながら、天狗の千木は一条の周辺の空気が変わったことに気づいた。まるで眠っているような表情ではあるが、背筋はきれいにまっすぐと伸ばされている。
おそらく、意識がもう潜り込んでいるのだろうと、天狗の千木は予測した。
それにしても、思ったより簡単に意識を潜らせたな、と千木は感心した。かなりの時間がかかるのではないかと考えていたが。
やはり“到達者”ではなく“覇者”である故か。
自分の場合、“太極”に近づくのにかなりの時間がかかったと、天狗の千木は思い出す。
そう……時間がかかるのだ……“太極”に近づくのに。
眠りから目覚めるような感じだった。一条守の意識は、ゆっくりと浮上した。
ぼんやりとしていた聴覚と視覚と触覚が、まるで暗闇に目が慣れるように、次第にはっきりとしてくる。ぼうっとした表情で瞬きをして、一条はゆっくりと頭を上げた。千木の姿がない。森のような場所ではあるが、先ほどまでいた場所ではない。
一条は立ち上がって辺りを見渡した。ここはどこなのだろうか。
“太極”に近づくために、天狗の指示通りにやったことを、一条はぼんやりと思い出す。ならば、ここは“太極”がある場所に近いのだろうか……
しかし、“太極”らしいものはない。それに、どうすればいいのだろうか。
このままここで突っ立っておくわけにもいくまい。
方角がまったく分からなかったので、とりあえず、一条は目の前に歩き出した。足の裏に伝わる土の感触が、固いような気がした。
木々の間をゆっくりと歩き、明るすぎる向こう側を目指す。
まるでライトでこちらを照らされているように、目の前にある光が眩しくて、一条は腕を上げて進み続ける。そして、小さな茂みを迂回して右手を樹皮に置いて体を安定させようとした瞬間だった。
不意に、光が消えた。
そして、視界が開けた。
どうやら自分が立っているのは、どうやら丘か山のようだ。なだらかな斜面の下に広がっている『それ』に一条は気づいて目を見開く。幻覚を見ているのかと、一条は自分の目を疑った。
ありえない。
そう……ありえない。
『それ』がこんな所にあるなんて。いや、実物ではなく、幻覚か何かだろう。だけど、たとえ『それ』が幻覚で形作られたものだとしても、この世界で、ムゲンで目にすることはないはずだ。
何故なら、『それ』はこの世界に存在するものではないから。
「なんで……こんな所に?」
一条は呆然と呟いて、一歩踏み出した。
『それ』を一条は知っていた。よく知っていた。よく知っている建物ばかりだ。巨大な敷地に幾重にも建ち並ぶ細長い無機質の建物。灰色の大きな建物と木造の小さな建物が幾つも混じりあうように散在したなか、静かに流れる川。
『それ』を、一条はよく知っていた。『それ』の正体は……
一条守が住んでいた世界の、京都市に似た町並みだった。
一条は京都のなかに入って、誰もいない静かで寂しげな町中を、ひとり歩いていた。誰か人間がいないか探そうとしたが、人の気配はまるでない。建物は、模型のようにあるだけだ。存在しているのは外形だけで、中身はない。たとえば、八百屋の店があったとしても、窓ガラスの向こう側には何もない。置物も、何もない。全てが、ただ建物の形だけ存在している。
八百屋だけでなく床屋や本屋など、幾つもの建物の窓ガラスを覗いたが、やはり目の前に広がっているのは暗闇だけ。
京都市であると一目で判断できる町並みだったが、微妙に町並みが違うことに一条は気づいていた。実際、ここはほんとうの京都市ではないから、そっくりそのまま京都市として再現されているわけではないんだと一条は考える。
しかしやはり、幻覚なのだろうかと一条は思った。
誰もいない静かで寂しくて廃れた京都市。
ただ京都市である形だけが存在し、中身は空っぽだ。
しかし……どうして、自分の目の前にこんな光景が広がっているのだろうか。
一条は疑問を抱かずにはいられなかった。まるでおもちゃの町のような京都市、まるで展示されている模型のような京都市……この世界、ムゲンにあるはずがないものが、どうして目の前にあるのだろうか。
おそらく、これは幻覚だろうと、一条は考える。
ならば、自分が見ている幻覚は、いったい誰が作ったものなのだろうか?
川沿いの道に出て、一条は水面を覗き込んだ。水面に静かに映るのは、無機質な京都市の町並み。なんだか、自分自身を見ているような気持ちになって……とても嫌になる。気分が悪くなる。
ぼんやりとしているその時、水面に映る向こう岸の景色で動くものがあった。
慌てて一条は顔を上げる。
人の姿だ。京都でよく見かけるありふれた女物の着物を着ていて、白いお面で顔を隠している、人の姿だ。両手を前で組んでいて、こちらを注視している。
どうして、たったひとりだけ、ここに人がいるんだ……?
一条は驚いて固まって、着物を着て白い面で顔を隠している着物の女を見つめた。
あの白いお面が、一瞬、“修験落ち”と重なったような気がして、めまいがした。
敵なのか。味方なのか。緊張して体を強張らせたまま、一条はその着物の女を注視する。ただ立っているだけ。動く気配はない。攻撃をしてくる気配も。敵意は感じられないが、得体のしれない何かと接触しているような気持ちになって、冷や汗が流れ落ちる。
しばらくの沈黙のあと、女が初めて動いた。ゆっくりと体の向きを変え、すぐ隣にある橋を歩き渡り始める。その橋は一条のすぐ近くに掛かっていて、おそらく女は一条の許へと来ようとしているのだろう。
逃げるべきだろうかと、一瞬一条は守った。だけど、逃げるべきではないと、一瞬で考え直す。相手が何者なのかいまだ予想はつかないが、歩き方は敵意のある行動には見えなかった。それに、あの人はここがどういう所であるか、何かを知っているのではないか。
だから、一条はその場に踏みとどまった。
相手が橋を渡り終えて、こちらに向き直るまで一歩も動かなかった。
「ああ、そんなに肩に力を込めなくて結構ですよ。わたしは敵ではありません……ただの寂しがり屋ですから、久しぶりにここに訪れた人と話したかっただけですよ」
声が、聞こえた。面で顔を隠しているから口を動かしているか分からないが、突然、声が聞こえた。物柔らかで女性らしい落ち着いたゆったりとした口調。生まれて初めて聞いたような笑いを含んだようなその声。
一条は警戒心を緩めなかった。
「あなたは……何者なんですか?」
「たとえひとりでも、ここに居続けることを決めた愚かな女。それだけ告げておきましょう。わたしの名前を明かす時は、いまではありませんから……」
変な答え方だな、と一条は思った。いまは名前を明かす時ではないってどういうことだ?
それに……
「ひとりでここに居続けるって……どういうことですか?」
「私は待っているのですよ。ある人を……誰もが一度か二度は通る場所……あの人がここを通る瞬間を、ただひとりで待っているのです」
それは誰だろうと思って、一条は尋ねようとしたが、女が遮るように片手を上げた。
「あなたが聞きたいことは、いったいどれほど多いでしょうか。ですが、全てを丁寧に答えることはできませんよ。あなたは目的を達したらすぐに戻らなければなりませんから。そしてあなたの帰り道を、わたくしも一緒に探させてくださいな」
「は……はぁ」
やはり、変な答え方だ。意味不明だ。一条はそう思った。
しかし歌うような口調で話すこの女性は、どうやら敵ではないようだと考えて、一条は警戒心を緩めた。
こちらへと呟きながら、女性は歩き始める。この人はいったい誰なんだろうか。その疑問を胸にしまって、一条はその背中をゆっくりと追いかけた。
「あの……ここはどこなんですか?」
「あなたの目的地ですよ」名前すら教えてくれない女性は、静かに答えた。
「え? ……じゃあ、ここが“太極”なのか?」
思わぬ答えが帰ってきて、一条は驚いて辺りを見渡した。目の前に広がる京都市の町並み。この異世界のような空間こそが、まさか“太極”なのか。
「“太極”とは天地万物が生まれる場所。物質的なものではなく、いわば霊的なものです。ですから、“太極”には形がありません。形など、必要ないからですよ。形に囚われることなど、あってはならない。たえず変化していくからこそ“太極”。だからこそ、“太極”は周辺の空気に溶け込んだように存在する、目に見えないものなのです」
「え……じゃあ、目の前にあるこの町並みは、“太極”じゃないのか?」
「ええ、“太極”ではありません。この空間は、“太極”が形作るただの異世界なのです。“太極”の近くに訪れる者に対して、“太極”はその訪問者にゆかりがある思いを形にして具現化させます。大抵具現化されるのはやはり訪問者の故郷ですね」
「なんで……“太極”はわざわざそんなことを?」
一条は首を傾げた。まるで、悪戯を仕掛けられたような気分だった。“太極”という意識を持ったその不思議な存在に、興味を覚えるものの、意識を持っているということがやはり薄気味悪かった。少々不気味だ。
見下ろされているような、感じがする……
「それは“太極”が、訪問者の望みに形で応えようとしているからです」
女性は謎めいたことを言った。「“太極”。その名を呼べばそれは応え、助けを求めれば救いをもたらす。問いかければ答え、望めばそれは与える……“太極”がわざわざこのようなことをするのは、おそらく、いいえ間違いなく今回の訪問者……あなたの望みに応えようとしているからでしょう」
思わず首を傾げてしまった。
「俺が……俺が、何かを望んでいるから……?」
一条は混乱した。俺は何を望んでいるのだろうか。“太極”を手に入れることか?
分からない。
一条は沈黙し、女性は別のことを考えているのか、ふたりとも静かに歩き続ける。
「自分自身が何を望んでいるか、それが分からないというのならばその逆が考えられますね。つまりは……」不意に、女性は表情のない白い面で振り返った。「“太極”はあなたを試そうとしているのかもしれません。訪れるのなら訪問者を見定め、名を呼ばれたのならその者を試す。“太極”が応えるにふさわしい相手かどうかを」
「…………試されている、か。なんかそっちのような気がしてきた」
一条はあたりを見渡して、小さな声でそう言った。
見下ろされているような、そんな奇妙な感覚もそれで納得がいく。もし自分が“太極”に試されているのなら、ムゲンの世に戻るのにはかなりの時間がかかりそうだと思った。
「それにしても、これは興味深い……」
しばらくふたりとも沈黙して歩き続けていたが、やがて顔を上げて女性が呟いた。「このような景色はいまだかつて見たことがありません。まるで……そうですね、新しいものと古いものが、時代の遅れがあるものが混じりあっている……いいや、違う……?」
違わないだろうと、一条は思った。何しろ京都には大昔に建てられた建物が残っている。別の時代の面影を残しているのだ。この女性が言っている“時代の遅れがあるものが混じりあう”とは、そういうことだろう。
しかし……何故、この女性は「違う?」などと呟くのだろうか。
「どうかしたんですか?」
「わたしは“太極”の近くに、かなり長いこといましたから、訪問者に対して“太極”が姿形を変えていくのを全て見守っていました。訪問者の純粋な思いが生んだ“太極”が見せる夢幻。ですけどこれは……どういうわけか混沌としていますね」
混沌……?
一条は訳が分からなかった。「どういう意味ですか?」
「現在と過去が、同列に存在しているのですよ」女性は立ち止まり、左右を指差した。「御覧なさい。あちら側は古い建物ばかり。そしてこちら側は新しい建物ばかり。この川を基準として過去と現在が混在しているように見えませんか?」
一条はハッとして立ち止まり、辺りを見渡した。
確かにこの女性の言うとおりだと思った。コンクリートのビルと木造の建物が、この川を中心として左右に分かれているのだ。コンクリートと木造の建物が混在するこちら側のエリアは、まさに一条が元々いた自分の世界のようであり、そして向こう側の木造の建築物ばかりが建ち並ぶエリアは、まるでムゲンの世界にある平安京を思わせる建物ばかり。
現在と過去の混在。
いいや違う。
これは、別々の世界の京都市が混在しているんだ。ムゲンの平安京と、自分が元居た世界の京都市が……でも、なんで?
「あなたはムゲンの人間ではないようですね」女性が呟いた。
……ああ、なるほど。
その一言で、一条は疑問の解答を見つけ出した。おそらくだが、自分はムゲンの世界に迷い込んでしまった。だからおそらく、“太極”が見せるのは自分の故郷である京都市、だけど自分は平安京に存在しているからこそ、“太極”はふたつの京を具現化しているのだろう。
「……なるほど、あなたは“太虚の覇者”ですか」
女性の小さな呟きに、一条は驚いた。
この女性は“太虚の覇者”を知っているのか?
「なんで……分かるんですか?」
「“太虚の覇者”の定義から説明しなければいけませんかな? “太極”を作用して天地万物を創造する能力を有するのが“覇者”。まさに神の力ですね……“太極”を使いこなす“覇者”は、分かりやすく言えばひとつの世界に存在するふたつ目の森羅万象でもあるのです」
「……意味が分かりません」
おやおやとその女性は小さな笑い声を漏らした。「“太極”そのものがひとつの世界の創造者でもあるのです。ですが、神も人も妖も“覇者”であるならば“太極”に干渉して、創造者としての力を行使できます。つまり、“太極”と“覇者”というふたつの創造者がこの世界に存在することになるのです。だからこそ、“太虚の覇者”は、この世に存在するふたつ目の森羅万象なのですよ」
「……なんとか説明を理解することができました。続けてください」
「おそらく“太極”が見せるこの夢幻は、あなたがかつていた世界とあなたが今いる世界を具現化したものでしょう。本来、人間の魂魄はひとつの世界でしか形を保つことができません。ですがたまに、あなたのように別の世界へと迷い込んでしまうものも少なくはありません。そして……別の世界へとさまよいこんだ魂魄は、その世界で存在することが許されないため、消滅してしまいます」
一条は驚いた。「消滅って……どうしてですか?」
「天地万物は全てその世界の森羅万象に組み込まれる形で存在しているからですよ。まるで立派な樹木が大地に根を深く降ろしているように……そして、森羅万象に組み込まれている人は、別の世界に迷い込むことによって森羅万象から外れてしまい、零れ落ちる……倒れた樹木がやがては枯れていくのと同じこと……存在するための森羅万象を失ってしまうのです」
パラレルワールドが存在していることを前提でこの人は話しているのか、と一条は呆然とした。しかし、いまの説明なら納得できる要素があるような気がする。
――……でも……
「でも……もしそうだとしたら、なんで俺は……」
どうして俺はムゲンで生きていることができるのか。その疑問を尋ねようとしたとき、一条は唐突にあることに気づいて口を閉ざす。
もしかしたら……その答えを自分は知っているかもしれない。
自分がムゲンで生きることができるのは……それは……
「……俺が、“太虚の覇者”だからですか?」
一条の問いかけに、白いお面は静かに頷き返す。「先ほども申し上げましたように、“太虚の覇者”はひとつの世界にふたつ目に存在する森羅万象。たとえ自分がかつていた世界にある森羅万象とのつながりを失ってもなお、あくまでもこれは私の予測ですが、“覇者”であるゆえにあなたはこの世界で独立した森羅万象として存在しているのでしょう」
女性は首を傾げて一条を面白がるような雰囲気で見つめる。
「ですが……その命もまもなく燃え尽きてしまうでしょう。風に吹かれて消えるでしょう」
二十三、
ぞっとするような一言だった。
敵意が全く込められていないその一言に、何の感情も込められていないその一言に、自分の体の内側が凍りついたような錯覚に一条は襲われた。本能的に無意識に、一条は相手から目を離さないまま、一歩後ろに下がった。
相手が急に豹変したからではない。相手は何も動いていない。
だけど、白い面をつけた何から何まで読み解けないこの女性が、この女性が放った一言がすべてを変えた。先ほどから姿勢を崩さず首を傾げて、ただじっと無感情に静かに一条を見つめているが、死神のような雰囲気に変わって怖かった。
……怖い。
自分の命がまもなく燃え尽きる、風に吹かれて消えてしまうと宣告したこいつが、目の前にいる得体の知れない何かが、とても……怖い。
「……あなただって理解しているはずでしょう。存在しているはずがないところに存在しているという事実を。ただ、ムゲンの世にかろうじて存在しているだけにすぎません。ですから、あなたはとても消えやすい存在なんですよ」
女性は、無情に淡々と告げる。
「ムゲンと名づけられたこの世界に訪れた瞬間、あなたが“太虚の覇者”でなければあなたは消滅していました。ですが、“太虚の覇者”であるが故に、あなたはかろうじて生きているだけに過ぎません。どれほど強大であろうが、あなたほど脆弱な存在はこの世には、ふたつとないでしょう」
ゆっくりと、女性は抑揚のない声で続ける。
「あなたという自分自身が本来居た世界とムゲンと名づけられたこの世界。ここは混じり合っている。“太極”が描き出したこの世界を見る限り、あなたは中途半端な存在です。留まらずただ霧のように実体をもたない。ひとたび軽い衝撃を与えるだけで、あなたは崩れ去るでしょう……何しろ、あなたは居続けることすら選んでいない。居場所を選択しようとしない。探し出そうとも、たとえそれが目の前にあったとしても、手にしようとしないからです」
女性の宣告が、声に出された思考が、思わず耳を塞ぎたくなるほど聞きたくないことで、指摘されたくもないことで、いま一番目を逸らしたいことで……
やめてほしかった。もう、何もしゃべらないでほしかった。
「あなたはまだ何も見つけ出してはいない。探し出してはいない。歩き出してすらいない。ただじっと固まって、時間が流れるのを待っているだけにすぎない……ほんとうの自分自身すら、あなたは探し出そうとも見つけ出そうともしていない……」
何から逃げているんですかと、女性は静かに尋ねる。
それは優しげに尋ねる口調だっただろう。だけど、いまの一条にとってはそれに嘲笑が込められているとしか感じられなかった。
「…………やめろ、それ以上言うな」
やっと出たのはその二言だけ。
不意に体から力が抜けて、一条は両方の膝をついた。冷や汗が流れすぎて体が寒い。両腕を体に絡めて体を震わせる。声を出すのが辛い。息苦しい。体が思い。
「何故ですか。自分自身ですら理解できないあなたの欠点を指摘しただけですよ」
それの何が悪いのかと言いたげに、女性は静かに言った。白いお面を、わずかに傾けて。
「そのような半端な志では、この先一切良いことは起こらないでしょう。ここへ訪れる者たちは皆、それぞれがそれぞれの充分な覚悟を固めているのです。それなのに、あなたは自分自身の姿形すらあいまいなまま、ここへ訪れてさらに“太極”を完全に掌握して、“太虚の覇者”になろうとしている。何の覚悟も決意もない。ただあいまいに動こうとしているだけ。そんな者に対して、“太極”は何も応えてはくれないでしょう」
「うるさい……そんなのは、どうでも……いい」
女性の静かな諭すような話し方。それが、いま、一条の神経を逆撫でしている。かすれた声しか出せなかったが、そこに込められている感情を、白いお面は感じ取ったのだろう。わずかに体を後退させる。
「そんなのはどうでもいい……」
「どうでもいい、ですか。どうでもいいような事ではありませんが、あなたにとってはやはりその程度のことなのでしょうね。簡潔に申し上げましょう。あなたは決して“太極”に選ばれることはありません。あなたはそれほどの価値がない。帰りなさい。ここに無意味に長い時間居ることは危険です」
初めての冷ややかな声で女性は宣告した。
どうやって帰ればいいのか。それを尋ねようと顔を上げたら、すでに目の前から白いお面で顔を隠した女性は消えていた。忽然と。
まるで、初めから誰もいなかったように、目の前にはただ町並みが寂しく広がっている。
ただひとり残された一条は、ぺたりと座り込んだまま、ただ、ぼうっとしていた。
独りぼっちになってしまった。
天狗の千木は眉根を寄せていた。
“太虚の覇者”である故か、一条守は霊力と神通力の類の力を持っていた。いま、瞑想している一条守の周囲には、霊力と神通力が広がっている。意識的な抑えが消えたからこそ、体の外側へと漏れているのだろうと、天狗の千木は推測する。
わずかに涼感をさそわせる色を含む空気だった。
だが、ほんの一瞬だけ、その空気がぶれた。乱れた。
その事が示す可能性のひとつを考えて、死んだように動かない一条を見つめたまま、表情を曇らせたまま誰にともなく天狗の千木は呟いた。
「…………失敗したのか?」
独りぼっちになってしまった。
誰もいない世界で、一条守はただ一人、呆然と地面に座り込んでいた。
帰り道が分からない。どうすればいいか分からない。
……“太極”を掌握することはもう無理だ。何も手がかりがないんだから。
あの白い面をつけた女性に言われた。それほどの価値がない、と。まるで、生きていること事態が無価値だと言われたような気分だった。いや、実際に自分はそんなちっぽけな存在なんだろうな。
思考が停止している。
世界が変わり始めても、一条は呆然とそれを見つめたまま、動かなかった。
それが危険だと、何も告げ知らせなかったから。
世界の崩壊は、突然始まった。
まず変化が現れたのは空だった。空自体が渦を描く。ある一点に吸い込まれていくように、ゆっくりと渦を描き歪んでいく。雷鳴のような音とともに青空は吸い込まれていき、やがて夜空のように黒い空だけが残される。
次の瞬間、大地が揺れた。
一条は自分の体が浮き上がるのを感じた。その瞬間、思考が回復してとんでもないことが起きていることに気づいた。
無重力空間に放り出された一条は、動こうとしたがもう何もかも手遅れだった。
動くことすらできなかった。
一条の体が、ただ無力に数秒間だけ浮遊していると、大地が音をたててひび割れた。建物はバランスを失ってぐらつき、川の水があふれだし、全てを呑み込もうとうごめいた。次の瞬間、大地が真っ二つに裂けて全てが底知れぬ奈落へと崩れ落ちていった。
瓦解。
当然、一条も。
水の中に落下して、一条はビルなどの建物の残骸とともに、水の中をゆっくりと落ちていった。水中に叩き込まれた時は呼吸できないと焦ったが、しばらくすれば水の中でも呼吸はできるようだと気づいた。
だけど、どうしてこんなことになったのか……
突然の出来事に一条は理解できず混乱したが、不意に、白い面をつけた女性が言っていたことを思い出した。
……“帰りなさい。ここに無意味に長い時間居ることは危険です”……
……これはそういうことだったのか……
一条はぼんやりと考える。今までの京都市に似た空間は、“太極”が作り出した夢幻。それが消えたということは“太極”が姿形を変えたということ。実体から無体へと。
そういうことか。“太極”は形にとらわれない存在。だから、長時間、擬似空間を維持することはできない。帰り道を探さずにただ無意味にここにいた一条は、おそらく、擬似京都市の残骸とともに消滅しようとしている……
ここで、死ぬのか。
ここで、終わってしまうのか……
暗闇のなか、白い面をつけた女性は一条が沈み行く方角を見下ろす。
あのままでは、あの少年は“太極”がつくった夢幻とともに儚く消えてしまうだろう。
救いをもたらすべきか、否か。
女性は迷った。救えばあの少年に更なる苦難と試練が訪れるだろう。救わぬことが救いとなるかもしれない。だが、だからといってここであの少年が消滅するのを見送るのか。あの命を、見捨てるのか。
どちらにすべきか女性は一瞬、迷った。
「……最後の瞬間まで、待ってみましょう。あれが何を選び取るかを……」
自分に言い聞かせるように、白い面の女性は呟いた。
「……あんの馬鹿が!」
舌打ちして苛立たしく毒づくと、千木は立ち上がった。
しくじったか。
“太極”へと向かった一条の様子が、ゆっくりと『最悪な方向』へと向かっていた。
誰もが“太極”へと向かう場合、自分自身の体を精神的に空っぽにする必要がある。何も考えず何も望まず何も見ず何も聞かず……ただ地面に横たわり眠るかのように、ただ水に浮いて漂うように。完全に断ち切らなければならないのだ。煩悩を肉体から。
すなわちそれは、己の肉体と精神を切り離すことを意味する。
それは実質、シャーマンと同じような行動だと千木は考えている。霊的なものに触れるためには肉体的なものは必要ない。天意を知るために肉体など必要ない。“太極”に近づくためには肉体など必要ない。
何故なら、それらは肉体で接触できるようなものですらないからだ。
いま、精神的に特殊な状態になっている一条守の肉体には、変化が起きていた。
肉体と精神の切り離し、つまり魂魄の分離状態が長時間続けば、肉体は崩壊する。一条が“太極”に潜ってからまだそれほど時間は経っていないから、肉体が腐敗して崩壊することはない。
問題は、一条の肉体が消えかかっていることだった。
まるで周辺の空気に溶け込むように、一条の体が塵のように消えかかっている。
訳は単純明快。“太極”に呑み込まれようとしているのだ。
「……世話焼かすんじゃないよ。まったく……」
黒い天狗の翼を広げて、視覚化できるほどの強度の高い結界を織り成す。これで、一条の肉体の消滅を食い止める時間稼ぎになる。
だけど、そう長くはもたないだろう。
自分も太極に潜り込むため、座禅の構えで天狗の千木は目を閉ざした。
……ここであっけなく死んでしまうのか。
いや、消えてしまうのか。
恐怖はなかった。
ただあるのは虚しいような気持ちだけ。瓦解した建物の残骸とともにゆっくりと落ちていきながら、一条守はただ上を見上げていた。水面が揺らめいて、まるでオーロラのように光がゆらりと踊っているのが見える。
きれいだと、思った。
きれいだと思った瞬間、一条の脳裏に浮かんでくるのは、さらりと広がる長い黒髪。いままで見たことがないほど長くて、光沢を帯びていて、柔らかでしなやかで……そんなきれいな黒髪がかかる細い背中。
山姫。
ごぼりと、開いた口から空気の塊が零れる。落ちるがままに身を任せていた一条は、体の重心をずらして重力に抵抗した。足を掻いて手を伸ばし、上を目指す。上がろうとする。
……まだ、何もできていない。恩返しすら。
守ると約束してくれた。たとえ自分を信用できなくても、自分だけは傍にいると誓ってくれた。こんな自分を助けてくれただけではなく、それだけではなく、支えてもくれた。
ここで諦めたくない。ここで、消えたくない。
こんな所でこんな形で中途半端に終わりたくない。
首にかけておいた、千木からもらった黒瑪瑙の勾玉が揺れる。千木だってそうだ。あいつに約束したばかりじゃないか。協力するって。ここがどんなにひどい所か気づいて、なんとかしたいって考えたのに。
……何で、こんな所で俺は挫折しているんだよ。
何ひとりで勝手に、終わらせようとしているんだよ……!
こんな所でこんな形で終わらせたら、後悔だらけの人生じゃないか……! そんな人生ってねえよ……そんな終わり方ってねえよ……
一条は手を伸ばして、水をがむしゃらに掻く。
力が欲しい。
ただひたすらに純粋に、一条は力を望んだ。
力が欲しい。無力なまま過ごしたくはない。守られるままなんて嫌だ。力を得る資格があるならば、そのチャンスに全力をぶつけてやる。
力が欲しい。
たとえ手に入った力がどれほどちっぽけでも、その力をもって、目の前の壁にぶつかってやる。相手が神様だろうとどんなに強い強敵だろうと、構いやしねえ。ただ欲しいのはふざけた奴をぶん殴れる力だ。理不尽な人生を抗える力だ。
惨めに人生を終わらせたくない。
理不尽な人生を送りたくもない。
このままでいいなんて、逃げたくもない。後悔なんてしたくねえ。
だから……神様をぶん殴るだけの力が……
水面に揺れる光をつかもうと、一条が手を伸ばし、それをつかむように手を広げ、そしてそれを閉じた瞬間。
奇跡は起きる。
白い面をつけた女性は、空間の変化をただ、呆然と見つめていた。
“太極”が螺旋を描いて空間を呑み込もうとした過程が、いきなり変更された。
その動きがいきなり狂わされた。
まるで旧約聖書のノアの大洪水のように、どす黒い水が渦巻いている水面から、突然、無数の鎖が天に向かって突きあがった。それらは黒い空に吸い込まれていき、やがては固定されたかのようにピンと張った。
女性はただ無表情に、無数の鎖の柱を見つめる。それが何を意味するか理解できずに。
次の瞬間、さらなる驚愕が女性を襲った。
渦巻いていた水面が唐突に歪んだ。螺旋の渦が次第に乱れていき、水飛沫を撒き散らしながら、先ほどの擬似京都市を形作っていた建物の残骸がその姿を現したのだ。まるで滑車で吊り上げられていくように、水中から姿を次々に現していく。崩壊した建物の土台、地面の残骸が吊り上げられていき、それらが触れ合った途端に町並みが修復されていく。
元通りに復元されていく擬似京都市の町並み。空間。
次第に空もかつての色を取り戻していき、青空が戻った瞬間、陽光が大地を明るく照らす。
その時にはすでに、京都の擬似空間は完全に修復されていた。
「……お見事」
女性はそっと、ただ一言を、静かに呟く。
驚きを隠せずに、そして、それほどの驚きを表して。
二十四、
川沿いの道に座って、一条守は、ガードレールに背中を預けて空を見上げていた。
水干はずぶ濡れだった。髪が肌に張り付いて気持ち悪かったが、一条は呆然と空を見上げている。何事もなかったかのように雲は青空を横切っている。先ほどまで、黒い空が覆っていて、地面が瓦解して水の中に呑み込まれていたのに……まるで世界が終わったかのような光景だったのに、拍子抜けするほどあっさりと世界は変わった。
まるで時間が巻き戻されたかのように、意図せずして修復された京都市の擬似空間。
正直なところ驚くばかりだったが、さすがにムゲンに来てから驚くことばかり恐ろしいことばかり起きたので、ああまたかという程度にしか感じられない。
ムゲン。この世界に来てから、有り得ないことばかり身の回りで起きて、体験し続けた。
これからも、もっと大変な目に遭っていくんだろうな。きっと。
青空を見上げる姿勢のまま、しばらくの時間が流れた。
不意に、空を、影がよぎった。両翼を羽ばたかせ、ばさりという力強い音が聞こえる。
次の瞬間、
「いいいいいいいちぃぃぃぃぃぃぃぃじょぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
おそらく自分の名前を呼んでいるのであろう恐ろしい叫び声が、まるで自分を呪い殺すような薄気味悪い毒気のこもった叫び声が、上空から聞こえてきた。
風が激しく吹きつけてきて、
「こんの人騒がせ馬鹿野郎が! なんかしくじったっぽいなと思って助けに行こうと全身全霊全力全速で来てみれば、すでに“はい、もう終わっちゃっていますよ”的なこの状況! 一体なんなんだよ! 俺の心配は無駄だったのかよ! だいたい余計な心配かけてんじゃねえぞごらぁ!」
天狗の千木が空から降ってきた。地表へと急降下する戦闘機のような速さで。
ちなみに着地してから千木は文句を早口で矢継ぎ早に怒鳴り始めた。
一条はきょとんとした目で千木を見やって、数秒送れて、
「……あ、千木」
「あ、千木、じゃねえ! なんで間が空くんだよ!」
それとどこのお笑いマンガのワンシーンなんだよ、これ! と天狗の千木は一条が元居た世界でも余裕で通用しそうな突っ込みを入れた。
「おまえ……そんなキャラだったんだな」
「そんなことを言っている場合じゃないだろう……“太極”に呑み込まれかけて、おまえの体が消えかかっていたんだぞ……少しは緊張感とか焦りとか持てよ」
「え? 俺の体、消えかかっていたの?」
仰天して質問する一条を見やって、こいつはどこかおかしいよなと天狗の千木は思った。
「それぞれの訪問者に対して“太極”は、訪問者に縁あるふるさとといった擬似空間を作り上げる。だが、“太極”は長時間、空間を維持することができないんだよ。本来、物理的な姿形を取らないからな。長時間ここにいることはあまりにも悪いことなんだよ……で」
不意に言葉を区切る。
天狗の千木は町並みを見やる。
「崩壊した空間を、完全元通りに修復したというわけか……」
表情には出さないが、声には驚愕を滲ませている。
擬似空間を“太極”が維持しようとしなくなれば、空間は自然に崩壊する。まさに天変地異と呼ぶにふさわしい瞬間だっただろう。一時は崩壊して消えかけたというのに、何事もなかったかのように広がる町並みを眺めて天狗の千木は沈黙のうちに思案する。崩壊した空間は修復されることはない。間違いなく。
そう……“太虚の覇者”以外、誰も崩壊した空間を修復することはできないのだ。
千木は一条を振り返った。
「それで?」
「それでって……何が?」
「この空間は“太極”が作り出した夢幻。消えかかっているのに、いまも長時間こうして維持していられるってことは……何らかの変化が起きたということだ。おそらく、おまえが“太極”を発動させたんだろうが……掌握できたのか?」
「ごめん、分からない」
「…………即答するなよ」天狗の千木は苦々しげな表情で苦々しげな口調で言った。
黒い天狗の翼をしまって、思わず青空を仰ぐ。
「まずいな。あまりここも長くは持たないだろうし……」
「どういうことだ?」
「あのね、おまえさっき“太極”に呑み込まれかけただろう。いくら強引に修復して固定しているといっても、あまり長くない時間ですぐに“太極”は形を捨てるんだよ。その前に何としてでもさっさと“太極”を掌握するか脱出しないといけないの。分かった?」
焦りと苛立ちを滲ませた声で、天狗の千木は言った。
「分かった。なあ、千木。ひとつだけ聞きたいことがあるんだけど……」
「なんだ?」
怪訝そうに尋ねる千木を、一条は不安げに見上げる。「……白い面をつけた女って、おまえ知っている?」
「…………は? いま何て言った?」
ぽかんとした表情で、天狗の千木はノロノロと言葉を発した。
どうやら理解できていない様子だ。
「だから、白い面をつけた女。“太極”とか“太虚の覇者”についてやたら詳しくて、この空間に住み着いているような奴だよ。知らないのか?」
「……すまん、そいつについては心当たりがない。何者なんだ?」
困惑したように天狗の千木が問い返した。
うーん、……それを聞きたいのはこっちなんだけどな、と一条は思う。「俺にもよく分からないんだよ……不気味なやつで、言っていることがすごくきつくて……“太極”がこの空間を畳もうとした時、帰りなさいとか忠告してくれたけどまあ冷たくてぞんざいって感じだったな」
「ふうん、そう」
興味がないと言いたげな口調だった。
千木の答え方が奇妙で気になって、一条は顔を上げた。
千木の視線はいま、一条の頭上を通り過ぎている。「おまえが言っている奴が誰か分かったよ。そいつは音もなくおまえの背後から接近中だ」
「へ?」
慌てて振り返ると、白い面をつけた女性が、足音を立てずに静かに歩いてくるところだった。
あの距離だと聞こえていたんじゃないだろうかと、一条は真っ青になった。敵味方かいまだに分からないが、あんな不気味な奴の仕返しがとても恐ろしく思えてならない。
「そんなに身構えることはないだろう。敵意がないのは行動を見れば分かる」
千木が落ち着けと一条の後頭部を軽く叩く。「どうやらあいつがおまえの言っていた面つけた女みたいだな。初対面だけど、相当な霊力を感じるよ。ただ……挑発しているのか威圧しているのか、どっちか分かんねえけど」
しかしそう言いながらも、千木は体をわずかに身構えている。正体不明の敵は、油断なく歩み寄ってくる。白い面の女が歩いてくる時にわずかに揺れる両腕、間隔を開けてそしてペースを乱す事無く歩く両足。一瞬でも不審な動きを見逃さないように、天狗の神経が集中しているのが傍目で分かるほど、千木は瞬きもせずに相手を見据えている。
油断してはいけない相手なんだ。
改めて敵の不気味さを感じて、一条は体を身震いした。
一条と天狗の千木が油断なく身構え、そして緊張して警戒するなか、白い面の女性は静かに立ち止まった。
「驚きですね。第三者が訪問者の世界に入ることができるなど。経験者ですか?」
「一応これでも“太虚の到達者”だ。見くびってもらっては困るよ。いままで、一日も欠かさずに鍛錬を積み重ねてきたのでね」
ほう、と息を吐くような音で女性は相槌を打った。
「では、今度は俺が尋ねる番だな。何故おまえは、第三者でありながらこの世界に干渉しているんだ?」
天狗の問いかけに、女性は首を傾けた。
分からないという意思表示ではなく、あれは面白がっているんだというのが何となく一条には分かった。
「それは動機のことでしょうか……それとも手段に関する問いかけですか?」
「おまえが何者であるか何故ここにいるか、そしてここで何をしようとしているのか……俺としてはそれが問いかけ。さあ、親切に応えてもらおうじゃないか」
傲慢に不敵に言い放つ天狗の千木。
一瞬、相手が怒ったりするのではないかと一条は思ったが、気分を害する事無く白い面の女性は頷いた。「いいでしょう。まあ、懇切丁寧に自己紹介したいところですが紹介できるほど大したところはあまりありませんよ。私はただ“太極”の傍にいるだけの存在。“覇者”でも“到達者”でもありません。ただし、あなたたちに比べれば力はなくても知識はある。だけど、それだけの存在です」
「……ごめんなさい。意味が分からないんですけど」
一条は呆然と尋ねた。横目で確認すると、天狗の千木も自分と同じような状態だった。
混乱している。
「第一の問いかけは応えましたよ。まさかご不満ですか?」
からかうような声音だと、一条は気づいた。そして白いお面の女性は静かに続ける。「さて、第二の質問ですが、わたしが何故ここにいるか。その理由を応えるわけにはいきませんね。いや、応えられないと言っておきましょうか。私事にはあまり首を突っ込まないで頂きたいのが率直なところですけどね」
それは問いかけに対する応えになっていない。そう思ったものの一条は沈黙することにした。この正体不明で意味不明極まりない女性は、どうやら敵ではないみたいだが。
「最後の第三の質問ですが、ここで何をしようとしているのか、といった所ですね。わたしは害意ある行動は致しませんよ。先ほども申し上げたようにただここにあるだけ、それだけの存在です。ただ、さまよっている亡霊と言ったところか。根本的に違いますがね」
「結局、こっちは収穫ゼロといったところだな」
天狗の千木の呟きに、一条はそうだなと力なく返した。
女性はかすかな笑い声を漏らした。「応えられる範囲と応えられない範囲は、人と妖はちゃんと弁えているはずですよ。たとえ問いかけても応える声があるとは限らず、ないかもしれない。たとえ応えてくれたとしても、自分が望む応えが返ってくることは、あなたにとって多かったのですか?」
意味深な問いかけに、天狗は否と応えた。
「そういうことですよ……ただし、あなたちに隠し通すつもりはありませんが」
「どういうことですか?」
女性の奇妙な言い回しに、一条は訝しげに問いかけた。「隠し通すつもりがないって……どういうことなんですか? あなたはほんとうに……」
「落ち着いてください、“太虚の覇者”よ」女性は片手を上げて静止の合図を出して、一条を黙らせてから冷静淡々と続ける。「あなたはいずれ、ここに二度も三度も訪れることになるでしょう。あなたが“太虚の覇者”である限り、またそれ故に。“太極”だけでなく、ムゲンの世もあなたを必要としているからこそ、あなたはふたたびこの特殊な空間へと舞い降りるでしょう」
一条は困惑した。意味が分からない。
「どういう意味ですか……!」
「それより、あなたは“太極”を掌握したか理解していないのですか?」
女性の唐突の具体的な質問に、一条はハッとした。天狗もやはり隣で怪訝そうな表情を浮かべている。
何故、“太極”を掌握したか理解していないのか、という質問がここで出るのか。
正体不明のこの女性は、いったい何を知っているのか。どれくらい知っているのか。
一条と千木は、白くて無表情で何の絵柄も描かれていない仮面を、瞬きもせずに見つめるが、白いページのような仮面はただ静かに無情に見つめ返す。
「……“太極”を、掌握した?」
一条は囁くような声で口にした。その囁きに応えるように、女性は無言で頷く。
……なんで、そんなことを…………?
「崩壊して、この空間が消滅しかけたというのに、あなたはその最悪な状況を一瞬で覆した。空間の断片を全て吊り上げて、一瞬で空間を修復させた。“太極”を発動させた証拠であり、そして“太極”が応えてくれた証。しかし、“太極”が掌握できたか理解していないのは問題です」
「何が問題なんだ?」一条は理解できなかった。
崩壊した空間が修復されたことが、“太極”を発動させたことであり“太極”が一条に応えてくれたということならば、問題などどこにもないではないか。一条は“太極”を掌握するためにここに訪れた。そして、“太極”は自分に応えてくれた。それのどこが問題なのか。
“太極”は、もう掌握しているのではないのだろうか。
「掌握しているかしていないかで、何が問題なんだ?」千木が具体的な回答を求める。
「ただ偶然発動している場合と、自分の力の本質を理解して発動している場合、大差がありすぎる。だからこそ、問題なんですよ。いまの彼は、偶然“太極”の本質に触れているだけ。その幸運が長続きする訳がありません。“太虚の覇者”であるなら尚更、“太極”の本質を理解していなければなりません」
女性の一理ある回答に、天狗の千木はなるほどと呟いて肯定する。
意味が分からず、一条は不安げに千木を見上げる。
「おまえはただ偶然に使いこなせているだけなんだよ、“太極”を」千木が説明した。「完全にそれの使い方を理解していない。ほら、刀の持ち方とか振り方とかにも色々あるだろう。正しく使いこなせればいい攻撃はできる。だけど、使いこなせなかったらただ持っているだけしかできない。ちなみにおまえが“太極”を境界線上で発動していたのは、おまえが“太極”の本質を理解していなかったからなんだよ」
「そう、か……」
なんとか理解できたと思い、一条は呟いた。使い方。それが分からないから、“太極”を掌握したかどうか理解できないのか。
使いこなせないじゃ、ここに来た意味がない。
何としてでも、“太極”を掌握しないといけない……
「じゃあ……どうすればいいんだ? どうやったら見つけられるんだ?」
「…………それはおまえが見つけないといけない。さすがに俺はそこまで理解できん。“到達者”と“覇者”は根本的に力の容量や発動条件が異なる。俺の場合の話をしても、それがおまえに有益とはならないだろう……おまえが見つけろ」
「いや、手がかりがないし……どうやったらいいんだよ? 何からやればいいかすら分からないんだぞ?」一条は焦った。「“太極”ってのは形がないんだろう? どうやったらいいんだよ? この空間のなかに手がかりがあるのか?」
白い面の女性は一条に顔を向けた。「あります」
「え?」
「手がかりはこの空間の内部に確かに存在します。どの訪問者に対して“太極”が形作る空間に、共通点が必ず存在するのです。それに気づけば、自然に“太極”への道は開け、そして掌握できるでしょう。あなた次第で」
一条は首を傾げた。「どの訪問者に対しても……共通点?」
女性は無言で頷いた。
「共通点? ……共通点って何だ?」一条は首を傾げて天狗に助けを求める。
「俺の場合、この世界に訪れたとき、形作られていたのは天狗の里だった。訪問者に対して“太極”が訪問者の故郷を形作るというのなら、そのなかに共通点があるはずだ。それはおそらく……建物とか、固定化されたものじゃないんだろう?」
「人が作り出したものは人が。“太極”が作り出したものは“太極”が」
女性の謎めいた一言。天狗の千木は顔をしかめた。「……つまり、建物などの人間が作り上げたものではなく、“太極”が作り出す自然界に共通点があるということか。この空間内全てを探す必要があるな」
「はやく探しなさい。ふたたび崩壊は訪れるでしょう」
女性が忠告する。「それと、天狗の“到達者”殿。熟練である者ならばもはや理解しているでしょうが、この空間に留まることは危険です。ただちにムゲンに戻りなさい」
「はいはい、言われなくても分かっているよ」
ばさりと翼を広げて、天狗の千木は面倒くさげに言った。
「え、千木……おまえ、もう行くのか?」
「“太極”に同時に“覇者”と“到達者”が干渉するのは少々危険なんだよ。安心しろ、第三者として干渉した俺に悪影響が出るだけだ」顔色を変えた一条に対して、安心させるように千木は言った。「おまえに影響はない。おまえならもうちゃんと出来るだろう。しっかりやれよ」
「でも……どうすればいいんだよ!」
飛び上がって宙返りした天狗に、一条は叫んだ。
「安心しろ。もしものことがあればそいつが手助けしてくれるはずだ」
「ちょっと待てよ、こいつが?」
ご本人の前でよくそんな口が聞けるなと呆れ、天狗の千木は苦笑した。「そう、そいつだよ。おまえの力になるはずだ。“太虚の覇者”を理解している、そいつなら」
「でも……こいつが敵なのか分からないんだぞ!」
「敵ではない。そして味方でもない。だけど、お前には害意を持っていないよ」
一条は混乱して白い面の女性を見やって、顔を上げた。「なんでそんなことが分かるんだよ! こいつが何者なのかおまえ、分かっているのか?」
「ああ、分かっているよ」
天狗の千木は静かに答える。
「そいつは、世界で最初に死んだ神様だ」
「…………は?」
意味が分からなかった。
一条が理由を尋ねようとした次の瞬間、千木は黒い翼を力強く羽ばたかせた。天狗風が轟音を上げた。風が地面に叩きつけられて、一条は思わず腕を上げて目を閉じた。暴風が収まって目を開けて見上げれば、もう天狗の千木の姿はない。
行ってしまった。
二十五、
……“そいつは、世界で最初に死んだ神様だ。”
世界で最初に死んだ神様。
混乱に拍車をかける発言だった。ほんとうに、訳が分からない。
「最初に……死んだ神様?」訳が分からず呆然と呟き、一条は正体不明の女性を振り返る。
この人が、こんな格好をしているこの人が、本当に神様なのだろうか。確かに、“太極”の傍にいるだけの存在となると、人間であるはずがない。ここに長く留まっていれば、(一度“太極”に呑み込まれかけた一条と同じように)体が崩壊するはずだ。だから、人間であるはずがない。
でも……でも、ほんとうに神様なのだろうか。
「人に、見えますか?」女性はゆっくりと尋ねた。「神に、見えますか?」
一条の疑問を見透かしているかのように、女性は尋ねてきた。
なんだか哀しげな口調だな、と一条は思った。問いかけも、なんだか重々しいように感じられる。
「……どちらにも、見えません」
一条はほんとうに思った通りのことを、その女性の印象を口にした。
そう、人にも見えないし神にも見えない。それは死んだからなのだろうかと、一条は疑問に思った。ひょっとして、“太極”に詳しいのも、ほんとうに神様だからなのか。でも……死んだということはどういうことだろうか。何故、千木はそれに気づけたのだろうか。
疑問は山ほどある。だけど、一条は目的を見失ってはいなかった。
“太極”を掌握しないといけない。何が何でも、絶対に。それも急いで。
だが、一条を押し留めるように白い面の女性が口を開いた。
「あなたが訪問している“太極”の空間、そこに第三者が入ることは至難であり極めて危険。この位相空間に複数の“覇者”と“到達者”が長時間介入していれば、空間はたちまち崩れてしまう。天狗殿が帰られたから時間はたっぷりとあります。少し、歩きながら話をしましょうか、一条殿」
「話って……何の話ですか? 俺、急がないと……」
「そう急くことはありませんよ。私が空間を維持するために、少しだけ細工をしておきましょう。あなたが答えを見つけ出し、“太極”を探し出せるまでの間、私が時間を稼ぎましょう……この世界が、崩壊するまで」
「……なんで、そんなことを……?」
一条は怪訝そうに尋ねた。
理解できなかった。何故、赤の他人にそこまで親切にするのだろうか。かつて肝心なところを話してくれなかった天狗に対して抱いた嫌な気持ちを抱いてしまう。何か企んでいるのではないかと懸念してしまう。
「なんで、と言われましても……わたしも、かつてはムゲンにいた者ですからね」
「……え?」
「わたしもムゲンの関係者なんですよ。わたしも……いいや、わたしこそが、ムゲンの世の中核にいる存在と言うべきでしょうか…………理解できなくて結構ですよ。いまは、理解しなくていいのです」
「はあ……」
何かスケールの大きい話をされたな、と一条は思った。まるで、この女性が話すことが理解できなかったが。理解しなくていいのです、と言っているがそれは同時に理解しないでくださいと苦しそうに聞こえてしまう。
「話って何ですか?」
「過去、現在、そして未来」女性は謎めいた口調で話し始めた。「話さなければならないことと話したいことはあまりにも多い。それなのに、時間というものはあまりにも短い。そして、あなたが歩きその道先には、さらなる困難と危険が待ち受けている」
「そんなことは分かっていますよ」
「いいえ、あなたは分かっていない。覚悟というものは頭で決めるものではなく、決意というものは容易に固められるものではない。この道先の未来、あなたは裏切られ憎まれそして試されるでしょう」
強い口調で言う女性に対して、一条は苛立ちを募らせた。
「何が言いたいんですか?」
「あなたは何のためにここにある? あなたは何のために未来へ歩く? あなたは何のために――」
女性は奇妙な口調で尋ねてきた。
「そんなのはどうでもいい!」さえぎって、一条は怒鳴った。
苛立ちをわずかに滲ませた怒声。だけどそれには、苛立ちや怒りとは別のものも含まれている。
「どうでもいいんだよ! そんなことなんか!」一条は再び叫んだ。
そう、どうでもいいのだ。そんなことは。下らない理屈は。
「そんなのは全然関係ない。俺は俺のやりたいようにするだけだ。未来を予測したって現実に直面したときと全然違うことだってある! 考えれば考えるほど、立ち止まってしまうだけだし、動けるところでも動けなくなってしまうだけだ! 頭で考えて動くなんてもうやめた! 俺は、直感だけで動いてやる。正しいと思ったらやる。間違いだと思ったら止める。ここにいる理由とか覚悟とか決意とか、そんなのはどうでもいいんだよ!」
そう、どうでもいいのだ。そんな些細なことなど。
「もしこの世界の神様が、この世界の人間に対して死ぬことを義務付けているって言うのなら、神様がそんな残酷な世界に作り上げたっていうのなら、全部変えてみせる! ムゲンを変えてみせる、この手で絶対に」
「不可能ですね。人が神に抗うなど、正気の沙汰とは思えませんよ」
女性は冷たく可能性を否定する。
だけど、そんなものは分かっていることだ。だから、挑み続ける。
たとえ、目の前にどれほど固くて高くて分厚い壁があったとしても。それをぶち壊す。
「不可能なんて知ったことか。誰だって挑んでいないだろう、こんな勝負なんかに。神様になんて挑もうとした人間がほかにいたのか? そいつは失敗したのか? まだやろうとしていないのに、それは不可能だなんて決め付けてしまえば、できることだってできなくなってしまうだろう!」
一条は吼えた。以前の自分自身とはあまりにもかけ離れている自分に気づく事無く。
「“太虚の覇者”は神様と同等の力を持っているって千木は言っていた。それなら、神様をぶん殴ってから俺が世界を作り変えてやるさ! 絶対に、やり遂げてみせる!」
一条の宣言を嘲笑する事無く、白い面の女性は沈黙して聞き届けた。
「なるほど……あの時と比べては、自分自身をつかんだということですか」
ただ、静かに呟く。
「あの時……?」
一条は怪訝そうに顔をしかめて首を傾げたが、“太極”が崩壊する直前、彼女に痛い所を指摘されて混乱した自分自身のことを言われていることに気づいてわずかに顔を赤らめた。“あの時”とはそういうことか。
「戦いは間もなく始まるでしょう。いいや、すでに始まっているのです」
女性は唐突に語り始めた。
「蘆屋道満は死者の軍隊を作り上げ、“修験落ち”は冥界の扉を開け放とうとしている。智徳法師はすでに儀式場の準備を整えている。あなた方、この世界を作り変えるために守ろうとする勢力は、あまりにも後手に回っています。ですが、その戦局を一気に反転させるのが、あなたである、“太虚の覇者”。天狗たちがあなたを求める理由は、もうお分かりですね」
一条はその問いかけに無言で頷いた。
「……では、たとえその道先に、どれほどの危険や困難、そして裏切りが待ち構えているとしても……」女性は言葉を区切った。「あなたは行くというのですね。戦場へと」
「決めたんだ。だから、後には退かない」
一条の静かな言葉に、女性は頷いた。
「では……“太極”への道標をお作り差し上げましょう」
「え?」
女性の突然の提言に、一条は驚いた。
口を開いて真意を尋ねようとした一条を、女性は片手を上げて制する。「これは私からのサービス、というものです。あなたに全てを賭けてみましょう。ムゲンの命運を。神が創った悲劇を、喜劇に変えられるかどうか。全て、あなたに賭けてみましょう」
「なんで……なんでそんなことを?」
一条は理解できずに叫ぶように尋ねた。それに対して、女性はあくまでも冷静に語る。
「わたしが……このわたしこそが、ムゲンを狂わせてしまった原因だからです。ですから、その罪滅ぼしとお考えになってください。あなたが再び“太極”へと舞い降りた時、全てを話す時期とわたしが判断したら、わたしが何者であるか、そして何を目的とするのか、全てを話しましょう」
「ちょっと待ってよ」
「時間は短く、そして早くも走り去るもの」女性は歌うように言った。「待ったなしです」
「でも……あなたがムゲンを狂わせたって、どういう意味なんですか?」
「それは……天狗の千木殿に尋ねれば、きっと応えてくれるでしょう。ただし、質問は戦いが終わってからにして下さい」女性はきっぱりと言った。「あの天狗なら、わたしが何者であるか理解するでしょう。そして、この世界がいったいどういうからくりで出来上がっているのか。何故、この世界が生み出されてしまったのか。原因と因果。天狗なら、真実と史実に近い推測を語るでしょう」
「ちょっと待ってよ」
叫んだ瞬間、一条は川辺の様子がおかしいことに気づいた。慌てて川岸に駆け寄って水面を覗き込む。轟音をたてながら、激しく水面が渦を巻いているのだ。普通の川では決してできない、激しくて大きな渦。川底がとんでもなく深いところにあるということが分かるほどの、巨大な渦。
「では、参りましょう」
とん、と背中を押されて一条は短い悲鳴を上げて空中へと放り出された。
天地が逆転する。
次の瞬間、水面が勢い良く目前に迫ってきて、冷たい感覚がしたかと思うと、水中に一条守は漂っていた。あれほど激しく渦巻いているというのに、水の流れは穏やかだ。まるで、台風の目の中にいるかのように静かで穏やかだった。
「あちらをご覧ください」
一条と同じく水中に飛び込んだ白いお面の女性が、音もなく一条の傍らに移動して、ゆらりと袖をなびかせてある一点を指差す。
一条は、そこへ視線を向けた。そして、驚いて目を見開き、口から空気を漏らした。
螺旋を描くように、曲がりくねった道ができている。しかも、その道の両端には……
「灯篭です。あれが、道標となります」
女性は静かに言った。「“太極”とは万物の創造者であり母親。万物は生みの親である“太極”とのつながりを持っています。まるで、立派な木の根が大地に広がるように。ちゃんと、結びついているのです。川もまた然り」
「……まさか、全ての訪問者に見せる“太極”の共通点って……」
「そう、川です。大地を走りて恵みを与えて巡りゆく。つながりは断たれることはない。川こそが、“太極”の象徴なのです」
一条は底知れぬ川底に続く、螺旋の道を見つめた。「じゃあ、この道の先に……」
「“太極”が、あなたを待っています」
女性を振り返って、一条はふたたびこの女性が作ってくれた、螺旋の道を見つめる。
しばらく、動けなかった。
「……どうして、行かれないのですか?」女性が怪訝そうに尋ねた。
「いや……なんか、まだスッキリしないことが多すぎて。ちょっと……ためらっている訳じゃないんだけど、こんなに簡単すぎていいのかなって言うか……なんて言えばいいのか分からないけど……」
一条は首を傾げた。今すぐにでも、あの道を行くべきだった。なのに、どうしてここで立ち止まっているんだろうか?
訳が分からない。頭では分かっているはずなのに、体は……動いていない。
「それに……どうやればいいのか分からないんだ。“太極”を掌握するといっても」
「求めなさい。そうすれば“太極”は願いを叶え、望むものを与えるのです」女性は静かに続けた。「さあ、もうお行きなさい。大事な人たちが、あなたを待っているんでしょう」
大事な人たち……。
その言葉で、どうしてかすぐに思い浮かぶのは、鮮やかに姿を見せるのは、山姫だった。
行かないと。もう、待たせるわけにはいかないんだ。
一条は潜行しようと足をばたつかせた。
だけど、しばらくしてから振り返って、大声で叫んだ。
「ありがとうございます!」
相手に聞こえるように、はっきりと。
女性がくすりと笑ったのが、聞こえたような気がした。
次の瞬間、女性は頭を下げると、一条が瞬きした途端に姿を消した。
しばらく女性がいた場所を見つめてから、一条は螺旋を描いて川底へと続く道を潜り続けた。分からないことだらけだった。一度、ムゲンについて天狗が話してくれたことがあった。ムゲンは、死者たちがこの世界を滅ぼすように、あらかじめそういうストーリーが設定されて、創造されたって。だけど、それだけではないみたいだ。まだ、分からないことだらけだ。
この世界がほんとうに無価値なのだとしたら、そんな世界を変えたい。
助けたい。大事な人を…………大好きな人を。
だから、進もう。
立ち止まる事無く、振り返る事無く。
過去を振り返ったままではなく、前を見て、ちゃんと、いまという時間に向き直って。
光が強くなる。
一条守は、無意識のうちにそれに手を伸ばした。自分が何をしているのか、頭は分かっていなかった。ただ、体が勝手に動いた。小さなとある紋章を描いた、だけど光が強くて何も見えないそれを、自分はつかもうとしている。
次の瞬間、何もかもが消えた。
二十六、
「お帰りー」
「……なんだよ、それ。なんか先生に引っ張られていって、なんかボロボロの奴に対してうわあ的な感じに声をかける台詞。もうちょっとマシな台詞はないのかよ」
「訳が分からんと激しく突っ込みたいところだが、まあ、いいや。どうでもいいし」
天狗の千木に、あっさりと終わらされた。座ったままの姿勢で苦笑して、一条守は地面に仰向けに大の字に倒れこんだ。
なんだか、疲れた。
「お疲れさん。その様子だとかなり苦労したようだな。どうやら、あの女は手伝ってくれなかったのか?」
「なんかすんごい手伝ってくれたよ。サービス精神満点でさあ、“太極”までの道を作ってくれたんだよ。サービスが良すぎて何か怖かったけど」
「……同感だな、俺もなんか薄気味悪いし怖いと思ったよ」
天狗が顔をしかめて言った。
「何はともあれ、結果オーライってとこだな。“太極”に呑み込まれるって言う最悪の事態は回避できた訳だし、あの女が“太極”を掌握するために手助けしてくれたのなら、ここに五体満足で帰還できた時点で、おまえは晴れて“太虚の覇者”になったということだ」
「そう、か……」
上半身を起こして、自分の両手を見つめて一条は呟いた。
「発動させてみろよ」
「え?」
天狗はニヤリと笑った。「“太極”だ。おまえが“太虚の覇者”なら、その証拠が目に見える形で現れるはずだ。発動させてみろ」
「……うん、分かった」
緊張した面持ちで一条は頷いて、立ち上がった。
何をすればいいのか、自然に分かった。いや、何を理解すればいいのか、どうすればいいのかを今の一条守は理解していた。
両腕をだらりと力なく下げた。頭のなかで、強い光でよく見えなかったが、見覚えのある紋章を、頭のなかで思い描く。
次の瞬間、事は起きた。
大地が、静かに脈動した。
風が吹いていないのに、樹木が大きく震えた。
木の葉がひらひらと彼らの周辺を舞い降りる。
一条守の足元にある、地脈が震えるのを天狗の千木は感じ取った。
「来たか……」
天狗の千木がそう呟いた途端、一条の足元が仄かに輝き始めた。黄金色の光は、一条を中心としてとある紋章を描く。
次の瞬間、地中から無数の鎖が天に向かって激しく放たれる。
一条は目を開けて、鎖のひとつに触れる。
すると、次の瞬間、一条が鎖を回転させた途端にそれは槍に変わり、それをまた回転させると細身の諸刃の刀剣に、一瞬で姿を変えた。
「お見事」沸き起こる喜びを抑えきれず、天狗の千木は笑顔で言った。
「これこそが、“太虚の覇者”である証拠、実力でもある“太極陣”……万物を創造させる具現化された扉だよ」
「これが……“太極”」
一条守は複雑な思いで、地面に描かれた紋章を見つめた。ふたつの勾玉のような形をした印が組み合わさり、ひとつの円形が形成されている。これが、“太極”。そして、これが“太極陣”。具現化された扉。世界でたったひとり、自分自身が使える能力。力。
一条は“太極”が生み出した鎖の群れを見上げる。
集中していなくなったからなのか、“太極”が生み出した無数の鎖は、周囲の空気に溶け込むように消えた。だけど、一条が何気なく手に触れて回転させ、諸刃で細身の刀剣だけは、一条の右手にしっかりと残っていた。
「なんで……これだけは消えないんだ?」
「おまえが固形物として作り変えたからだよ。おそらく、あの鎖は単なる素材で、おまえが鎖を作り変えればそれは形としてはっきりと残るんだろうな」天狗の千木が倒木に腰掛けて言った。「これから先、おまえは何もかも思い通りに出来る。金も銀も数多の武器を作り出すことができる。求めるすべての知識を手に入れることができる。自然界のすべてに同調することができる。不可能というものが、おまえにはなくなるだろう……」
千木のことばを聞いて、一条は眉根を寄せた。
それは、つまり……
「死んだ人も、生き返らせることができるってことか?」
一条は、思い切って尋ねてみた。
考えていた。死者たちは、ひょっとしたらこの世界に戻りたがっているんじゃないだろうかと。死者たちの世界がどんなものなのか、自分は知らない。だけど、いま生きている自分自身ですら、美しいと思えるこの世界に帰りたいと願うのは当然なのではないか。もし、死者の世界がどんなに暗くて寂しい場所だとしたら……
それに、もし、死者たちがほんとうにこの世界に帰りたいのだとしたら……
「死んだ人たちを助けることって……できるのか? “太虚の覇者”には」
思い切って、一条は続けてみた。自分が、考えていたことを。
それを聞いて、天狗の千木は表情を曇らせた。
それは、理解できる。千木は内心呟いた。確かに、“太虚の覇者”には可能かもしれない。世界を作り変えることが可能なら、死者を蘇らせることも可能だろう。
だが……それには問題があった。
「一条、おまえにだけ話しておこう……そして、これは他人に話そうとするな世」天狗の千木は重々しく言った。「たとえ、安倍家の三人の陰陽師に対してもだ。絶対に、あの三人に話してはいけないことだ……おまえにだけ、話そう」
一条は怪訝そうに天狗の千木を見やった。
「昨晩……俺たちは蘆屋道満と戦った。奴は何らかの妖術を使って、すでに死者をこの世界に蘇生させていた……だけど、それだけじゃないんだよ。それだけじゃない……」苦しげに、混乱しているように、天狗の千木は呟いた。「死者の蘇生活動を続けている蘆屋道満……あいつ自身も、死者だったんだよ」
一条守は、息が止まったかと思った。
呼吸することができなかった。蘆屋道満も、死者?
「間違いないのか?」
「この目でちゃんと確認して来たさ。間違いなく、あいつは死者だった。安倍晴明と同じく高齢なる陰陽師である蘆屋道満。なのに、昨晩、あいつと戦ったとき、あいつの顔は若人の顔をしていた……やつの年齢と、やつの肉体があまりにも不釣合いだったんだ」
「何かの……間違いじゃないのか?」一条は信じられなかった。「いや、そいつが偽者だったってことだってありうるだろう? 名前を騙っているだけかもしれないんだぜ?」
「ありえん。あいつと二度ほど闘ったことがある。その時、奴の霊力と神通力は肌で感じたことがある……昨晩、間違いなくこの肌で感じたのは、蘆屋道満の力そのものだったんだよ。肉体が腐敗していたが……」
「そん、な……」一条守は呆然と呟いた。
蘆屋道満が、死者。
……晴明さんの古い友人が、すでに死んだ存在でありながら、影の勢力の一員として動いているなんて……いや、死んでなお何らかの目的を果たそうとして、動き続けているなんて……
信じられない。
「おまえだったら、確かに死者を蘇らせることはできるだろう……」
天狗の千木は疲れたように言った。「だけど、死者を蘇らせることはするな。死者は決してこの世界に呼び戻してはならない。たとえ戻ることを死者が望んだとしても、おまえはその言葉に耳を傾けるな。命あるものは全て死ぬ定めにあり、さらにそこから生まれ変わる。既存の法則……すでに出来上がったルール……そいつはやぶっちゃいけないんだ」
「そっか……」一条は立ち上がり、衣服についた泥を払った。「なあ……これから、どうするんだ?」
「どうする、か……これで、“太虚の覇者”という最重要のピースは揃ったわけだし、あとは影の勢力が動くのを待たないといけない。奴らが動かないと、俺たちも動きようがないからな……これからは、“太虚の覇者”として、おまえを鍛えられるだけ鍛えておこう」
「“太虚の覇者”、かあ……」一条守は自分の両手を見つめた。
「どうかしたのか?」
「ううん。ただ、何でもできるっていうのが、ちょっと怖いなと思ってさ。最悪、死者だって蘇らせることができるんだろう? 不可能がないっていうのが、ほんとうに怖いよ……不死身でもあるんだろう? なんか、何でもできるっていうことが怖いと思ってさ」
彼らを見下ろす位置に、とある人影が立った。
「何でもできる……確かに、いまのあなたなら、神すらも殺しうるでしょうね」
聞き覚えのある突然の声に、一条守は呆然とした。
……え?
声がした方向へと、怪訝そうに視線を向けた天狗は、驚愕をあらわに瞠目する。
「クソッ!」
顔を真っ青にした天狗の千木が毒づき、すばやく天狗風を操作して倒木を浮遊させた。そして、雄叫びを上げて腕を大きく振って、巨大な倒木を、自分たちふたりを見下ろしている、崖の上に立つ人物に向かって槍を投げるように吹き飛ばした。
「千木?」仰天して、一条守は彼の名前を呼んだ。
そして、慌てて飛び上がって、千木が倒木を天狗風で投げ飛ばした方向、崖の上へと視線を向けた。そして、ここにいるはずのない、いてはならない人間を見つけて、一条は顔色を変えて息を呑んだ。
天狗が投げ飛ばした倒木が、土煙を巻き上げ、斜面を転がり落ちてくる。
「なんで……ここに、『白拍子』さんが……?」一条は呆然と呟いた。
馬鹿な。なんでここにいる?
一条の“太極”を発動させようとした『白拍子』は、悪戯な発動の危険性を充分に理解していながら、それをあえて実行した。
ここに来る途中、あいつには用心しろと天狗の千木は言っていた。あのふざけた試験も、奴の何らかの狙いがあってのこと。信用ならない。今後、いつどのような形で裏切るかわからない。だから、山姫を『白拍子』を監視させるために、あそこに敢えて残してきたと。
いまも、『白拍子』は山姫の監視下にあるはずだった。
それなのに、何故、こいつはここにいる?
「あそこに残していたのは……式神か」
「わたしはこれでも式神遣いの端くれですからね」と、『白拍子』は軽く笑った。「それに、この特殊な結界を作り上げたのも私自身。それを遣えば、簡単に安倍家の陰陽師と山姫殿の四名を欺くことはできますよ」
千木はうんざりしたような表情になった。「それで、何の用だ?」
「様子見に来て悪いのですか? それに、いったい何なのですか? ただ、声をかければ倒木を飛ばしてくるなんて。物騒にも程がありますよ」冷たく笑いながら、『白拍子』は続けた。「何やら私を警戒しているようですね。わたしが、影の勢力に組する者かどうか」
「その通りだ。何しろおまえの行動はあまりにも胡散臭いからな」
遠慮することなく天狗の千木は冷たく言った。
「おやおや……私が世界の崩壊を望むほど愚かに見えるのですか」
「一条守の“太極”を発動させるだけではなく、地脈と掛け合わせて“太虚の覇者”の力が及ぼす影響範囲について調べるために、あのふざけた試験を用意したんだろうが。世界をぶっ壊す準備をしていると考えるのが普通なんだよ。そして、そんなことを調べようとしているおまえは異常なんだよ」
天狗の千木の言葉に、『白拍子』はくすりと笑った。
「世界の崩壊という愚劣の極み。それが私の最終目標地点とでも思いましたか。残念ながら、私の狙いは別次元にあります。すなわち……」
『白拍子』は、白くて細い右腕を上げて、大空を指し示した。
「目指すは……天界、高天原」
天狗の千木は、極端に顔を強張らせた。
一条は咄嗟に理解できなかった。
何を言っているのか、『白拍子』は。狙いが天界と言っている。でも、影の勢力と同じく世界の崩壊が狙いじゃないというのなら、『白拍子』が天界を目指すのは……
まさか。
「まさかおまえは、天界の破壊を目指しているのか?」
天狗の千木は仰天して、驚きを隠せず瞠目して、激しい口調で言った。
「いかにも」動揺する千木の様子を見て何が楽しいのか、『白拍子』は冷笑する。
「私の狙いこそが天界。そこに矛先を向けること。牙を剥くこと。研ぎたる刃を貫かせること。実際、この世界の真実を知りうる者たち誰もが選択する道ですよ。壊すべくは死者の国でも生者の国でもない。天界です」
神をも恐れぬ不敵な発言に、天狗の千木は顔を青ざめた。
「ふざけるな! そんなことをすれば、救われる者も救われない!」
「あなたの救済はあまりにも限定されたもの。生者に対する救済のみですね。死者に対する救済をまるで考えていない、あなたに非難されるつもりはありません」
『白拍子』の反論に、千木は言葉を詰まらせた。
『白拍子』は続ける。「結局、あなた方『天竺』が目指そうとするのは、そしてやり遂げようとするのは、あなたがムゲンと呼ぶこの生者の世界、葦原の中つ国を作り変えてそこに生きる生者を救済するだけの計画。死者に対する救済など、そこには含まれていない」
「おまえの選択に、死者への救済が含まれているとでもいうのか?」
天狗の千木は叫ぶように尋ねた。
「無論。夢現が混じり合い、ただ無力に無意味に無価値に時を過ごし、ただ、神に殺されるだけの物語を終わらせる。そのために必要な布石、それこそが天界の破壊。天界こそがすべての元凶。それを滅ぼさずして誰が救えるものか!」
『白拍子』は感情の激昂を抑えきれずに、しまいには叫んだ。
「狂っている! おまえは狂っている!」千木が叫び返した。「そんな蛮行を、我ら『天竺』が見過ごすとでも思ったのか?」
そんな叫び声をつまらないと言いたげな表情で聞いていた『白拍子』は、嘲笑する。
「邪魔をさせないために、ここに来たのですよ」
そう宣言するや、『白拍子』は懐から白い紙切れを取り出した。
それに、一条は見覚えがあった。まるで神の眷属を思わせる白い巨躯の狼、『白拍子』の強力な犬神ともいえる、彼女の式神……クレナイとムラサキの形代だ。
無意識に、一条守は“太極”を発動させた。
自分の足元に“太極陣”が仄かに浮かび上がった途端、発射された銃弾のような勢いで、先端部を鋭利に尖らせた黒曜石をつけた鎖が、ふたつ、『白拍子』が手にする形代に適確に襲い掛かり、形代の真ん中を瞬時に貫いた。
突然の、高速の攻撃に驚きで目を見開く『白拍子』と千木。
そしてふたりは、同時に思う。
もう、この少年は、すでに、ここまで“太極”を使いこなしているのかと。
次の瞬間、一条守は攻撃の手を緩めることなく、二枚の式神の形代を貫いた二本の鎖を操って、すばやく螺旋状に回転させながら『白拍子』の体を締め付けるように拘束した。
「うまい、」と天狗の千木が呟いたまさにその時だった。
『白拍子』の姿が忽然と消える。
彼女の体を拘束していた鎖は、バランスを崩してジャラジャラと床に崩れ落ちる。それは、確かに捉えていたはずの『白拍子』の姿が消えたことに、一条守が驚いて集中力が欠けてしまったからだった。
彼らの目の前にひらひらと舞い落ちる、一枚の人を象った形代。
「しまった、こいつも式神か!」
天狗の千木はそう叫ぶやほとんど無意識のうちに、一条と共に背中を合わせて周辺を用心深く目を凝らした。一条も無意識のうちに天狗の千木と背中を合わせていたが、ふたりとも、警戒の表情で鋭く辺りを見渡す。
「気をつけろよ」千木は周囲に忙しげに視線を走らせながら、警告する。
「分かっている」極度に緊張していて、声が震えるのを抑えるように、一条は小さく言った。
その返事を聞いて、千木はわずかに苦笑した。
それにしても、まさかこのような形で共闘するなんてな。
「じゃ、お互い頑張りますか」
「うん、」
一番掛けて欲しかった言葉を聞けて、一条は嬉しそうに小さく言った。
次の瞬間、『白拍子』の攻撃がふたたび始まった。
背中合わせに立って周辺を警戒する、天狗の千木と一条守の真正面から、突然、『白拍子』の式神、クレナイとムラサキが姿を現した。式神の具現や攻撃の前兆を、まったく予期することも予測することもできない、ほんとうに一瞬の出来事だった。
牙を剥いて、襲い掛かるクレナイとムラサキ。次の瞬間、天狗風がうなりを上げて、二匹の式神を弾き飛ばす。
「やっぱり、結界があるか」天狗は苦々しげに呟いた。
それを聞いて、一条は顔を上げる。先ほど、山姫が二体のあの式神と交戦した時、不自然なことがあまりにも多く起きた。突然、相手の姿が消えたと思うと、瞬きした途端、相手が目の前に移動していたなど……あまりにも不自然で不可解なことばかり起きた。だが、それらが、結界が及ぼす作用のひとつであると、一条はもう理解していた。
賢者『白拍子』が気づかれないように結界を張ったのだろう。
いまや“太虚の覇者”となった一条守には、天に伸びる樹木の枝の揺れ方や音の響き方、木の葉の合間から差し込む光などに、わずかな違和感があった。まるで、録画した映像を見ているような感じで――。
「一条、来るぞ!」
天狗の叫び声に、一条は目の前に襲い掛かる白い狼の式神を見て、“太極”を発動させる。
次の瞬間、地面から複数の鎖が突出して、『白拍子』の式神を二体同時に束縛する。しかし、それらはたちまち姿を消して、鎖の束縛を簡単に抜け出してしまい、形代と変わった式神は瞬時に狼の形へと具現化する。
獲物を睨み据えて、牙を剥き、涎を垂らしてうなるクレナイとムラサキ。
千木が舌打ちするのがかろうじて聞こえた。
もっとも、一条も舌打ちしたい気分だった。これでは、長期戦だ。消耗戦だ。やってもやってもキリがない。まさに無限ループじゃないか。
「さてと、どうするべきか」
うんざりするような状況を打開すべく、天狗が思案しようとした時だった。頭上の光がわずかに遮られたような気がして、千木と一条は同時に顔を上げた。
「正攻法ではやはり時間がかかりますね」
声は、重なるように聞こえてきた。
一条はギョッとして辺りを見渡す。
式神か。太い枝の上に立つ『白拍子』の姿は、式神を用いたのだろう。いまや一条と千木を見下ろすように、円状に立ち並んでいる。
その数、八人。
「ならば、搦め手で攻めるまで」
八人の『白拍子』はそう宣告するや、ゆっくりと両腕を広げた。突然、千木と一条へと舞い降りてくる白い紙吹雪。一条と千木はそれが式神の形代であることに気づく。そして、数秒遅れて、『白拍子』の式神、クレナイとムラサキが姿を消していることに。
これは、『白拍子』の布石。
おそらく、周辺に舞う無数の形代から、どこからかクレナイとムラサキが、突然、姿を現して襲い掛かってくる。
「一条!」さすがに焦ったように、千木が怒鳴った。
「分かっている!」一条も怒鳴り返した。
天狗が何を言いたいのか、そして自分が何をすべきなのか。
不思議と、全てがはっきりと分かる。
一条の足元に描かれる“太極陣”が、神通力の波動を幾重にも広げて、発動する。
次の瞬間、まるで弓矢を構えた兵隊が、合図を受けて一斉に矢を放ったかのように、地面から無数の鎖が、先端部に刃物をつけた鎖が、全方位にひらひらと待っている紙吹雪へと襲い掛かる。だが、どれほど鎖を出したとしても、まだ、一条の行動を嘲笑うようにひらひらと舞っている形代があった。
――クソ。
次の瞬間、轟音をたてて天狗風が爆発した。
一条は千木につかまれて、体が急上昇するのを感じた。地面に描かれていた“太極陣”が姿を消して、鎖は朝霧が溶け込むように姿を消す。先ほどまで一条と千木が立っていた場所に舞い降りるのは、破れた紙切れとわずかに無傷で残った形代だけ。
「一条、“太極”でこいつらを壊せ!」空中で、天狗の千木は怒鳴った。
一条は指示通りに、“太極”を空中で発動させる。そして、四方に描かれた“太極陣”から二本ずつ鎖が飛び出していき、合計八本の槍へと姿を変える。それらは適確に、式神が象った八人の『白拍子』を貫いた。
終わった。そう思った瞬間だった。
一条と千木の背後、彼らの死角に突然、『白拍子』が姿を現す。広げたままの扇を振りかざして、それを千木の天狗の翼の根元へと、容赦なく強烈に叩きつける。
一条は知らなかったが、そこは天狗の急所のひとつ。
「ッッ――――――――!」
声にならない悲痛の叫び声を上げて、天狗の千木は空中で身をよじる。
背後の奇襲に気づいて、一条は手を振りかざして“太極”を空中で発動させようとするが、左右から同時に襲い掛かろうとする『白拍子』の式神、クレナイとムラサキの姿に気づいて、顔を青ざめた。空中。身動きは取れない。千木が攻撃を受けたいま、自分たちは攻撃をかわすことができない。
クレナイとムラサキ。『白拍子』。
一条守は、一瞬だけ迷った。
どちらを攻撃すべきか。どちらから自分たちを防御するべきか。
次の瞬間、一条守の右腕が跳ね上がる。
“太極陣”は一条と千木の左右ではなく、真正面、『白拍子』を迎撃するように浮かび上がる。一条は標的を『白拍子』に選んだのだ。
おそらくは本体であろう『白拍子』へと、一条は鎖を突出させて拘束する。
だが、『白拍子』の式神に、胴体をくわえられた途端に、その姿が無情にも忽然と姿を消す。身動き取れない一条と千木を捕まえた式神は、衝撃を完全に押し殺して地面に着地すると、一条を千木のふたりを地面に転がして、前足で体を押さえつける。
そして、正面から無傷で歩いてくる『白拍子』に向かってお辞儀するように頭を下げる。
「“太虚の覇者”に“太虚の到達者”……さすがにこの二人を同時に相手することは骨の折れる作業と思っていましたが……存外、あっけないものですね。あまりにも」
冷笑を浮かべて、『白拍子』は静かに言った。
「さあ、ご協力を願いましょうか……“太虚の覇者”一条守殿」
一条守は、呆然と敵を見上げた。
負けた。
その事実が、あまりにも残酷なまでに重く、一条守に圧し掛かってきた。
負けた。
俺は、いま、負けたんだ……