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夢現(ムゲン) 三部作  作者: 橘悠馬
4/14

第一夜 万代の宮 ④

十四、



万代の宮、平安京。

昼も夜も、絶えずこの京にはどんよりとした不穏な空気が漂っている。貴族は権力争いに明け暮れて、呪術師は絶えず呪いを放ち、庶民は犯罪などを繰り返しながら生きている。悪しき行い。それらはやがて、この京に妖を招くことになる。

埋葬すらされない死体が転がり、死臭を放ち、腐敗する。

それに群がるのは、飢えた獣だけではなく、もはや妖も。

ただし、妖は『逢う魔が時』より動き始める。太陽が、境界線上の「こちら側」へと落ちたときに、妖は動き始める。

昼が人の領域ならば、夜は妖の領域。



闇夜に覆われたこの京は、暗くて陰気な、百鬼の京……



「……呪われているとしか思えないね、この京は」

夜の静かな町並みを見下ろし、天狗の千木は静かに呟いた。

彼がいる場所は左京区のとある廃屋の屋上。左手に内裏を見渡し、真正面に朱雀大路を臨むことができ、そしてその大路の向こう側、整然と区画された貴族の邸宅の数々を見晴るかせることができる。右京区は上流貴族が住まう領域。そして、左京区は……

「……ならず者と妖の縄張り、か」

「哀しい眺めですね。左と右でこれほどの違いがあるとは……それに、ここが呪われているからこそ、我々はここにあるのでしょう?」

廃屋の屋上、天狗の隣に立って水虎の藍染は静かに呟いた。

「まあ、そうだね……」

同胞の意味深な問いかけに、千木は頷いた。

そう……この京は、呪われている。

災難を払いて末永き平安を願うために桓武天皇が遷都して以来、やはり相変わらず、ここは良からぬ謀と殺意や憎悪が渦巻く舞台であった。平安遷都以来、この京には災難を退けるための幾つかの仕掛けが施されている。四神に倣い風水に則り、王城守護神を祀る寺社を平安京の周辺に配置して、そして鬼門と裏鬼門に『鬼門封じ』の聖域を築くことによって、この京だけでなく、京の周辺地域丸ごとを特殊な結界で保護している。

だが、その結界は、あまりにも容易く崩れ去った。

貴族は権力争いに呪術師を重用した。邪魔者や政敵を排除し、天下を掌握せんと画策し、謀をめぐらして。

永きに渡る貴族の醜い争いによって、結界の効力は次第に無効化されていった。

故に、この結界は内側からほころんでいき、やがては壊れていく。平安の京はいつしか百鬼の京へと変わり果て、夜にさまようのはならず者だけではなくなった。屍を食らう妖、悪戯に人を襲う妖……

だが、それだけではなかった。闇夜に暗躍するのは、妖だけではない。

人の暗い感情が京の上空を覆いつくし、この京に“修験落ち”を始めとする呪術師が現れた。

そして、良からぬ謀を張り巡らす。それは、とんでもない結果をもたらす。現に、影の勢力はこの世界を崩壊させようと虎視眈々と時を狙い、準備を進めている。

だから、それを阻むために、自分たちはここに呼び寄せられたのだ。

「こんな仕事、ほんとはやりたくないけど……」

天狗の千木は、立ち上がって呟いた。

「現に“修験落ち”らは計画を順調に進めている……“太虚の覇者”がこちら側にあると言えども、俺たちは奴らに抗えるほどの大した戦力を有してはいない……敵の動きを少しでも遅らせるために、手始めに、潰すとするか」

月を背景に黒い翼を広げ、天狗は凄絶にニヤリと笑った。

「陰陽師――蘆屋道満を」

天狗の水虎の妖気が極端に抑えられる。

天狗風が螺旋状にうごめき、木の葉や折れた小枝、わずかな土砂が舞い上がる。

ふたりの姿は、忽然と闇夜に消えた。



左京区のとある一角。

かつて豪邸であった名残をわずかにとどめる廃屋。

貴族の屋敷をぐるりと取り囲む土塀は、朽ちていて崩れている部分も多い。庭園は雑草が伸び放題であり、広い池の水面はにごっていて、ゆがんだ夜空を写している。そして、池の傍らには倒木が転がっている。

かつては寝殿として使われていた廃屋は、今にも倒壊しそうな雰囲気だった。

長年使われていなかった影響ではなく、まるで盗賊が押し入って荒らし回ったかのような、ひどい状況だった。部屋に残っていた家具は、乱暴に床に倒されているか壊れている。壁や柱などは風化しているか刃物による傷や燃焼されている部分が多い。そこで何かかつてひどいことがあったことを物語るひどい状態だ。

人が住めるような場所ではない。

そして、人が住んでいそうな場所ではない。

「……ここか」

黒い翼を羽ばたかせながら、廃屋を見下ろして天狗の千木は呟いた。

「やはり結界が……」

水虎の藍染の言葉に、千木は無意識に頷いた。

常人には感知できない程度の強度と広さで、いま、屋敷を中心に半円状の結界が仕掛けられている。

いま、最高位の妖は、結界のすぐ上空に天狗風で滞空している。

「罠……かもしれませんね」

「罠だろうね。決まっているよ」

同胞の懸念を示す呟きに、千木は緊張感の欠けた答えで返した。

たかが罠。何を畏れるというのか。獲物がすぐ目の前にいるというのに。たとえどのような罠が仕掛けてあろうが、それにやられないように注意すればいいだけだ。

「いきなり本番だ。行くぞ!」

鋭い一声を発して、千木が掲げる右腕に天狗風の槍を形作る。

次の瞬間、轟音とともに天狗風が結界を通過して、地面に向かって叩きつけられる。地表に接触した途端、天狗風は回転をさらに強く広げていき、大きな螺旋を描くようにして爆発。

結界の内側を、すさまじい衝撃が激しく揺さぶる。

池の水面は激しく揺れて、庭園の雑草は激しい波を描き、倒木はわずかに動き。

天狗風は稲妻のように、廃屋のなかを駆け抜けていった。

廃屋のなかを駆ける天狗風は、床に転がっている家具の残骸や蔀などを、まるで絡め取るようにして、部屋に転がる残骸を全て吹き飛ばしていった。まるで天狗風そのものに意識が込められているような動きで、あっという間に風は通り過ぎていき、何もかも吐き出される。

まるで建物の骨組みを残す状態である廃屋。

まだ天狗風が吹き荒んでいるが、結界越しに廃屋の内側に侵入した『天竺』の千木と藍染は、衝撃を完璧に殺して音もなく静かに地面に降り立った。

ふたりは廃屋を見やってから、素早く行動を開始。

千木と藍染は縁側に飛び移って、廃屋の内部へと目を凝らす。先ほどの天狗風のおかげで、視界は常人でもはっきりと見えるほどにくっきりとしている。

露出した柱、壁、そして天井の梁。建物の骨組み。

今のところ、内部に人の姿は見えないし、気配は何も感じられない。

「……この臭い……」

天狗は幾つかの部屋を通り過ぎて、不意に顔をしかめた。

人間の味覚で捉えることができない臭いが、この部屋にわずかに残留している。嵐のように天狗風で全てを押し流したというのに、わずかな臭いが、この部屋に染み込んだように残留している。人間の体臭に似ていて、個人によって臭いの強弱などが異なる、それと似て非なるもの。

「……霊力か」

「どうやら、ここで間違いないようですね」

千木の背後に藍染が駆け寄って、鋭い表情で部屋を見渡して呟く。

「もう少し調べるぞ……行こう」

千木は廃屋のほとんど中心にある、大きな部屋に向かって歩き出した。その後に、藍染も油断なく刀剣を両手で構えたまま、足音をまったく立てずに続く。

やはりそこには、霊力が残留している。

ただし、先ほどまでのとは違い、わずかに強く、濃く。

「……いないな」

「部屋には何も仕掛けられていないようですね」

「まあ……こういうのはいっつも決まって、どこからもなく何かが飛んでくるっていうものだろうな」

天狗の千木が呟き、そして水虎の藍染が頷く。

次の瞬間、ふたりは利き足を軸にして体全体の遠心力を用いて、すばやく回転し移動した。先ほどまでとの位置から二歩程度下がったところに立ち、天狗と水虎は自分たちが先の瞬間まで立っていた場所を冷静に見やる。

そこに、短剣が二本、床に深く突き刺さっている。

音は、まったくなかった。



「――何者だ?」



唐突に、声が聞こえた。どこからとなく。

千木と藍染は背中を軽く合わせるようにして立ち、用心深く廃屋の内部を見渡して、声の発生源を探ろうとする。だが……何らかの奇術が働いているのか、声の響きは重なって聞こえる。

「何者だ? 何用でここに入った?」

ふたたび問い尋ねる声。その声は、四方から、聞こえてくる。

千木と藍染が答えないのを見て、声の主は何を思ったのか、物影からゆらりとその姿を現す。まるで“修験落ち”のように黒い布ですっぽりと顔を覆い隠し、呪術師のような服装をしている。おそらく、こいつは陰陽師だろうと千木は推測した。

「もう一度尋ねる……何者だ? して、何用?」

陰陽師のなりをした不審者は、苛立ったように尋ねた。

「貴様こそ何者だ? ここはかつて、藤原顕光の屋敷。“五年前の事変”にて左京区が封鎖されて以来、使われることのなかったこの屋敷にて何をしている? ただのならず者ではあるまい」

不審者に対して、千木は逆に問いかけた。「名を名乗れ! 貴様は朝敵、蘆屋道満か?」

鋭い一声に、奇妙な陰陽師は束の間沈黙する。

まるで、どう答えるべきかと思案するように。

「……検非違使が嗅ぎつけたかと思ったが……」

片腕を上げて異様に長く見える人差し指で、陰陽師は明らかに嘲笑めいた音を漏らしながら、低く言った。「カカカ……成る程、そぉか……貴様ら、妖か」

危険な声音。次の瞬間、陰陽師が人差し指に中指を重ねて、すばやく腕を振る。

千木の直感がけたたましく警鐘を鳴らした。目の前で規則的に動く腕。それが描くのは、縦に四つ横に五つの合計九本の線が格子状に絡む、陰陽道における、とある印――

「……ドーマン、かッ!」

千木が唖然として両腕を掲げる。天狗風をとっさに練り固めて、陰陽師に放つ。

だが、天狗風の砲弾は陰陽師に直撃しなかった。けれど天狗風が爆発し、刀印を描いていた陰陽師はわずかに体勢を崩した。印が、空中に溶け込むように消えてしまう。術は不発だ。

「……貴様、蘆屋道満だな」

間違いない……問いかけではなく、もはや確信を持って、千木は呟いた。

ドーマン。それはかつて、蘆屋道満が好んで使ったとされる刀印。実際は、多くの陰陽師が使っていたが、安倍晴明に並ぶ大陰陽師であった蘆屋道満が主に使っていた刀印であるが故、人々は彼の名を取り、その刀印をドーマンと呼んだ。

蘆屋道満。凶悪にして最強の陰陽師。

その力量は、安倍晴明の力量に匹敵するほど。正直、天狗と水虎がふたりがかりでも、勝てるか怪しいほどだ。

「いかにも」

体の重心を少しずらして、わずかに身構えながら、蘆屋道満は答えた。

「大妖が集いし『天竺』の者に手を向けるとは笑わせる。我々に牙を剥くというのか」

天狗の千木は凄絶に宣言し、そして尋ねる。

「妖は、退治せねばならぬのよ」

「たとえ相手が『天竺』であっても、か?」

「カカカ……所詮、『天竺』は雑魚どもの集まりよ、所詮はな」

冷たい一言に、千木と藍染の表情ががらりと変わる。

「……言ったな、その言葉、遺言と受け取った」

「蘆屋道満、その首、頂きます」

唐突に、刃が鈍くぎらつき、天狗風が怒りの唸りを上げる。千木と藍染はそれぞれ各々の武器を構えながら、蘆屋道満に殺気立った口調で死刑宣告を静かに行う。

対する陰陽師は、不敵に佇んだまま。符呪を取り出すことも、手刀すら構えない。

両者睨み合うこと数秒。

わずかに夜風が吹きぬけて、外から運ばれた木の葉がひらりと彼らの目の前を舞った瞬間、木の葉が音もなく消滅する。神通力と妖気がぎらつき、木の葉を押し潰したのだ。唐突に風がぴたりと止むと、目に見えにくい色を含んだ風と異なる波動が、唐突に幾重にも広がる。

すさまじい霊力と妖気がぶつかりあい、千木と藍染と陰陽師は同時に足を蹴った。



陰陽師がどこからか符呪を素早く取り出した瞬間、天狗と水虎の姿がスッと消えた。

さすがにこれに驚いて、陰陽師は辺りを見渡す。

天狗は天井に天狗風で高速で移動して、天井に両手両足をつけるや弾丸のように体を弾き、すばやく陰陽師に飛び掛る。天狗風の衝撃波を思い切り陰陽師に叩きつけた。それを防御して後退する陰陽師の背後から、音もなく迫る水虎の藍染が刀剣をすかさず振り落とす。

それは獲物を確実に捉えたかに見えたが、陰陽師は短刀を懐から取り出す。

刃が重なり合い、鋭い音とかすかな火花が散る。

水虎の攻撃に、短刀にわずかな亀裂が走る。

藍染の攻撃を受け流しながら、すばやく攻撃を仕掛けようとした天狗に短刀を投げ放ち、陰陽師は横っ飛びに符呪を構えた。手刀の間に符呪を構えて天狗と水虎を沈黙して見据える。

次の瞬間、天狗と水虎は驚きに打たれる。

通常、呪術師が何らかの呪を放つときは、刀印を描くなり詠唱を行うものだ。それなのに、蘆屋道満はそれを行わなかった。沈黙している。言葉は聞こえない。いつ仕掛けられるかが分からない。あの陰陽師は、ただ構えたまま、ただ佇んでいる。

――無言、だと?

符呪に書かれた文字が明滅して、消滅する。

天狗と水虎が驚いて呆けていると、空気をも震わす霊力の波動が、不意に扇状に強く広がり、馬鹿みたいに油断して隙をつくっていた天狗と水虎に直撃する。

天狗と水虎に予測できない攻撃だった。

妖ですら眼に捉えることができない、霊力で形作られた衝撃波をまともに食らってしまい、天狗と水虎は無様に壁に激突してしまう。そこに迫る蘆屋道満。次の瞬間――いったいどこに隠し持っていたのか、そしていったいいつの間に抜刀したのか分からないが、両手にふた振りの太刀を手にして天狗と水虎に切りかかろうとしている。

刃がひらめいた途端、千木は天狗風で水虎と自分の体を反対側の別の場所へ飛ばす。

振り下ろされる蘆屋道満の太刀打ちは、空しく壁に当たる。

次の瞬間、天狗風で壁に着地した藍染が、すばやく跳躍して蘆屋道満に切りかかろうとする。難なく水虎の攻撃を正面から受けて立つ陰陽師。まず一つ目の太刀で水虎の攻撃を受け流し、体を回転させて次にふたつの太刀をほとんど同時に水虎の体に打ち込む。

流れるような攻撃。あっけなく弾き飛ばされる水虎。

次の瞬間、天狗風が陰陽師に激突した。

ただの天狗風なら、蘆屋道満は何の怪我も負うことはなかっただろう。しかし、この天狗風は庭に転がっていた倒木を蘆屋道満に激突させている。

向こう側の部屋へと倒木とともに突き飛ばされる蘆屋道満。

落下する音と共に視界を白煙が覆いつくす。

――あれでしばらくは動けまい……

気配を探って、どうやら向こう側の部屋だけではなく縁側の向こう側に吹き飛ばされたことに気づいて、千木は体中についた汚れを払いながら立ち上がった。

さすがは悪名高き蘆屋道満。伊達に倒されるわけがないか……

「大丈夫か、藍染?」

「ええ……大事ありません。それより、奴は?」

「いまのところ、完全に沈黙だな。それにしても、あそこまで剣術に長けていたとは……」

「まったく、驚きましたね」

驚きを隠せない千木に、藍染は頷いた。

『天竺』のなかで、妖のなかで最も剣術に長けている水虎の藍染を、あの陰陽師はいとも容易く藍染を切り捨てて、容赦なく刀を振るっていた。まさに、鬼神の如く。

ふたりだからこそ、かろうじて蘆屋道満と対等に戦うことができた。

だが、これが一対一の勝負であったのならば、天狗と水虎のどちらも、すぐに首をはねられていただろう。

――侮り難き、蘆屋道満。

噂に聞いた力の渇望が、まさかあれほど人を強くするとは……

通常、人間に比べて妖はあらゆる力が人間を凌駕している。脚力、跳躍力、握力、筋力、その全てが人間の何十倍もの威力を持っている。まさに、力のひとつひとつが武器そのもの。だからこそ、人間が妖を凌駕することは、そんなことはあり得ないことなのだ。

だが、蘆屋道満は、あれは自分たちをふたり同時に相手にして、悠然と二刀を構えていた。

かろうじて見つけることができた、あれの油断を突いて、気づかれないように倒木ごと天狗風で吹き飛ばしていなければ、おそらく、自分たちは負けていただろう。

あり得ないことだ。人が、妖を凌駕するなど。

「修練が足りないな、俺たちも……ガッ!」

同胞を起こそうとして手を伸ばした千木は、背後からの音もなき衝撃に一瞬、呼吸できなくなった。

首筋に強く叩き込まれる、刀の柄。

立ち込める白煙のなかからゆらりと姿を現す陰陽師、蘆屋道満。

不敵にも二本の日本刀を構え、やはり体の回転を利用して二本の刀を千木の体に、しかも急所を適確に狙って鋭く打ち込む。

あえぎ声を上げて仰向けに倒れる千木。

次に蘆屋道満が水虎の処理にかかろうとした途端、水虎が弾丸のような勢いで、怒声を上げて、刀剣を振りかざして飛び掛る。

二刀流で受け止める蘆屋道満。わずかに、衝撃を殺しきれずに後退する。

だが次の瞬間、水虎は背後からの突然の攻撃を食らってしまい、一瞬、意識をさまよわせる。

「……なんだ、こいつら……」

「蘆屋道満の……配下ではないでしょうか」

天狗の千木は呆然と顔を上げ、水虎の藍染は落としそうになった刀剣を再び構えなおす。

目の前に、蘆屋道満とは別の人間の姿があった。

その数、およそ十。

それぞれが蘆屋道満と同じような装束をしている。だが、顔をすっぽりと覆い隠しているのは白い布であり、その布に数字が書かれている。

「気配は感じなかったぞ……」

「確かに。ですが、蘆屋道満の気配も探ることはできませんでしたよ」

「となると……こいつらも術者か」

次の瞬間、霊力が爆発する。

白煙が渦巻くように立ち込めて、妖気の含んだ天狗風が螺旋を描き、天狗風で霊力の波動を防いだ千木と藍染が、苦々しげな表情で無傷の様子で立っている。

「まさか、ここまで戦力を増強させていたとは……」

「……いや、待て……」

天狗の千木はとあることに気づいて、顔を強張らせる。

天狗の、声音だけでなく表情にまで変化が著しく現れたことに気づいて、怪訝そうに同胞の顔を見やる水虎の藍染。

「こいつら……」

天狗風を織り成して、天狗の千木は呟く。

轟音を立てて妖気が爆発する。

蘆屋道満と十人の術者が、爆風に体勢を崩す。蘆屋道満は難なく風に逆らう事無く、流されるようにして後退。一瞬で体勢を立て直す。まるで隙を見せない優雅な動き。だが、ほかの十人の術者は、無様に吹っ飛んで壁に叩き付けられたり、無様に床に転がったり……

いいや、待て。ようやく、水虎の藍染は異変に気づいた。

――床に、転がる?

水虎の藍染は、ようやく違和感の正体を悟った。

人間にしては奇妙なほどぎこちない動き。まるで、体が麻痺しているような、ひどく緩慢な動作。立ち上がり方も、腕の動き方も、違和感がある。

「こいつら……」

「――死者、ですね」

再度呟く千木に、藍染は短く応答する。

生者の国に存在することすらできないはずの存在――死者。

「だが、どうやって……」

藍染は訝しげに疑問を口にした。

命あるものは全て、魂魄という存在のひとつとして数えることができる。魂魄とは、魂と肉体が結びついた存在、すなわち生者を意味する。

それに対して、死者とは魂だけの存在。つまり、魂と肉体が結びつかずに、魂魄と数えることができない存在。あるのはかろうじて魂だけといっていい。

そう、死者とは肉体を持たない存在なのだ。

肉体が魂と結びつくことがなく、腐敗してしまったために。魂だけの存在が故に。

――だが、現に千木と藍染の前に、死者たちは存在している。

どういう訳か、肉体を手にして。

「……死者を蘇生させる妖術を編み出したというのか……」

千木はとある可能性を慎重に考慮して呟いた。死者が以前自身の魂と結びつけていた肉体は、この世界の一部と溶け込むように消滅しているはずだ。一度形を失えば、それをふたたび形を戻すことはできない。たとえ、どれほど力ある妖であろうと人であろうと……だが、何年間も蘆屋道満は行方をくらましていて、その間になんらかの妖術を編み出したかもしれない。

現に、死者たちが目の前にいるのだから……

やはり、侮り難き陰陽師。一筋縄でいく相手ではないと、ふたたび千木は自覚する。

しかし。

「……死者の魂を弄んだか、蘆屋道満」

やはり、怒りは抱かずにいられない。

世界の理を、あえて壊そうとしているこの術者が、ほんとうに気に入らない。生者の国に死者を招き入れることは、事実上、生者の世界と死者の世界の混合を意味する。双方の世界における重量の均衡が崩れてしまえば、簡単にムゲンなど消滅してしまう。

悪名高き蘆屋道満、彼は、そのことを承知しているはずなのに。

「それで、死者を救済したつもりなのか、陰陽師」

「否、死者だけに対する救済ではなく、すべてのものに対する救済だ」

陰陽師、蘆屋道満は、憎たらしいほど落ち着いた答えを返す。

「貴様とてこの世界の末路は目に見えているはずだ、『天竺』の千木よ。この世界を救うためには、この世界を破壊しなければならない。それ以外の救済など、ありはしない……貴様こそ、何故、我が道を阻む? この世界の歪んだ在り方を、正しく理解しているはずの貴様が、何故?」

「俺個人がその道を選択したくないだけだ」

「……故に、『天竺』も弱者の集い場となったわけか」

束の間の沈黙。蘆屋道満は嘲るのではなく、考察したような口調で静かに言った。

「黙れよ」

ふたたび、天狗風を織り成して千木は低い声だがはっきりと呟いた。

蘆屋道満めがけて放たれる、天狗風の槍。蘆屋道満は、動く事無く自分に向かってくる槍を無表情に見つめている。

死者のひとりが、動いた。

そのまま直撃して、死者は吹き飛ばされる。衝撃で、顔を覆う布が吹き飛ばされる。

あらわになる、死者の顔。

それを見たとき、千木と藍染は驚きで顔を歪めた。劣化して腐敗した皮膚、鼻の部分は消えていて、眼球はない。

「……違う、肉体の蘇生ではない……」

「これは……まさか……」

千木と藍染は呆然と呟いた。

「――生者の肉体に、強制的に死者の魂を結ばせようとしていたのか」

「いかにも」

蘆屋道満は、千木の呟きを静かに肯定する。

千木は、体の内側で激しく何かが駆け巡るのを感じた。

数ヶ月前から、京に程近い小さな村々で、神隠しが起きているという話を聞いたことがある。

子供だけではなく、大人まで、老若年齢を問わずして姿を忽然と消すという。

「……蘆屋道満よ……ひとつ答えろ」

感情を押し殺した無感情な声で、千木は歯を食いしばって尋ねた。

「ここ最近、京周辺で起きている神隠し……貴様が関与しているのか?」

「いかにも。それも救済のため」

無情な肯定。



次の瞬間、爆音とともに天狗風が炸裂。爆風が廃屋を揺らす。



「貴様は……それで何人殺して、何人救ったつもりなんだ?」

死者たちを吹き飛ばして壁に叩きつけながら、依然、嵐のような天狗風に体勢をまったく崩さない蘆屋道満に対して、天狗の千木は静かに言った。

「……そんなやり方で、救われる人間など、いるのか……」

「――千木殿!」

藍染の警告する叫び声が聞こえた途端、藍染が突き飛ばされる。

瞬時に、千木と藍染の正面に移動した蘆屋道満に。

「馬鹿な……どうやって……」

千木が、呆然と呟いた。

黒い布で顔を覆い隠した蘆屋道満。嵐を形成している天狗風に流されることなく、難なく、瞬時にここまで間合いをつめるなど……ありえない。

「何を、そこまで憤怒する?」

蘆屋道満は、不気味なまでに静かに問いかけた。

「貴様とてやることは同じよ。相違あるまい?」

「何――を?」

天狗の千木は、かすれた声を絞り出した。

――こいつは、何を言おうとしているのだ?

「確かに、数多の常人を犠牲にしている私に比べて、貴様の罪業ははるかに軽いであろうな……何しろ、貴様はとある少年ひとりの命で、この世界を救うというのだから……秤にかけるまでもなかろう……ひとりの命で数多の命が助かるのなら、ひとりの命など、軽々しく扱われるのだからな」

――とある少年?

それを聞いて、藍染は驚く。

何の、話をしているのだ、あのふたりは。

「千木、殿……?」

「――ただし、貴様も罪人であることに変わりない」

「黙れぇぇ!」

もう聞きたくないと言わんばかりの形相で、天狗は叫んだ。

まるで、拒絶するように。

――核心を突かれた動揺を、押し隠そうとするように。

天狗風が炸裂する。

死者たちを突き刺していた短刀が、ふたたび宙を舞い、全方位から蘆屋道満に突き刺さる。

顔面に短刀が突き刺さった衝撃で、顔の黒い布がめくれる。

その顔を見て、千木と藍染は驚愕に目を見開いた。

だがそんなことよりも、蘆屋道満は両手から符呪をぱらぱらと広げていき、それはやがて千木と藍染を包囲するように円状に配置される。

「しまったッ」

「言うたであろうが……『天竺』といえども、所詮は雑魚の寄せ集め」

蘆屋道満の声が、この部屋に重く響く。

部屋の四方に天狗風で吹き飛ばされていた死者たちの、黒い装束が内側から燃え上がっていき、死者たちの胴体に隙間無く張り巡らされている符呪があらわになる。

装束だけでなく呪符も燃えているというのに、符呪は燃える事無く文字と印を明滅している。

ドーマンだ。

「――貴様らを退けるなど、容易い」

吐き捨てる蘆屋道満がゆっくりと床に倒れた途端、床と壁と天井から、パタパタと音をたてて回転しながら無数の符呪が姿を現す。それらは全て、ひとつの空間を形作るように配されている。

その全ての符呪に、文字とドーマンが書かれている。

くそったれ。

天狗がそう毒づいた途端、轟音と閃光が、駆け抜けた。



ドン、と太鼓が鳴るような音。次の瞬間、閃光が駆け抜ける。

重い振動。

廃屋の内側にあった柱が呪術的に消滅して、廃屋は内側から沈み込むように倒壊した。周囲の建物も呪術の余波を食らって同じように倒壊する。立ち込める土煙。そのなかを動くものは、捉えることができない。

塀の上に立つ蘆屋道満は、それを静かに見下ろしていた。

……『天竺』か。

大層な名前をつけていたとしても、どれほど力ある妖が集まっていたとしても。

「所詮は、雑魚の集まりよ……」



そう――『天竺』などは。



十五、



「……では、天狗と水虎は見つかっていないのだな」

「そうだ。検非違使と陰陽寮の報告によると、見つかったのは蘆屋道満の痕跡と腐敗した老若男女の多数の死体それだけだ。あと……建物は呪術的な何かによって倒壊されているとのことだ」

山姫の確認でも問いかけでもない呟きに、吉平が蛇足ながらも情報を伝える。

昨晩、左京区にてまたもや変事が起きた。

かつては貴族が住んでいた廃屋が、その夜に突然轟音を立てて倒壊したのである。付近を見回っていた陰陽師と検非違使は、そこに蘆屋道満が使用したと見られる呪符とたくさんの死体を発見した。その知らせは夜明けにすぐさま内裏へと届けられ、ふたたび陰陽寮は騒がしくなったという。

吉平と吉晶は“修験落ち”との戦闘による怪我が癒えていないのを理由として、陰陽寮に出仕することは控えることにした。どうせ、自分たちの下っ端、いまさら行ったところでただ無駄に時間を過ごすだけだ。

故に、安倍晴明とその息子の双子の陰陽師、一条守、そして山姫は現在、比叡山延暦寺にいた。

今日は、延暦寺に隠れ住んでいる賢者『白拍子』と面会するために、遠路、今朝早くから京より訪れている。

昨晩のことに関してだが、山姫によると、天狗の千木と水虎の藍染が左京区で動いていたらしい。山姫が昨晩、千木と藍染の妖気の動きを捉えていたという。

そして、それが唐突に消えた。

「しかし、消えたといっても、死に絶えた訳ではない。天狗に比べて藍染はなかなか機転の利く男。実際、あれは妖怪が死に絶えたようなものではない。おそらく、呪術的な何かによって、妖気そのものを感知できなくなっているのだろう……」

石畳の階段を上りながら、山姫は浮かない表情で呟いた。

では、まだあのふたりは生きているということか。

吉平は一驚する。

「悪運強いってことか、あのお二方」

吉平が後頭部を掻きながら呟いた。すると、山姫が警告を発する。

「あれでも『天竺』の一角を担う者。侮れば墓穴に入るぞ、陰陽師」

決して冗談ではない警告に呆れ半分ではいはいと相槌を打ちながら、改めて吉平は、比叡山延暦寺の『聖域内』をあたかも普通の人間のように歩いている妖――山姫を観察する。苦もなく当然のように歩いている。

人間のように見える。

今日の山姫は、他人が見ては貴族の娘と思ってしまう装束をしている。黒い長髪はきれいに結われていて、動きにも信じられないくらいの品がある。本人曰く、戯れ程度の真似事は容易くできるということだ。

だが、常人でもはっきりと分かるほど零れ落ちているのは、妖気だった。

正直、周りに殺気立っているように見える、が問題はそこではない。

「……ほんとうに、おまえ、何ともないんだな」

「言っておいただろうが。結界など、大妖にしてみればただの戯れに過ぎん。こんなものが妖に効くなど考える者は、時代遅れかただの馬鹿だけだ」

鼻を鳴らして山姫が宣言する。

いままで吉平が見たことがないほど、高圧的な態度だった。

階段を行きかう僧侶や見張りに立つ僧兵の、自分に向けられている驚愕と怖れの視線には、まったく気づいていないようだ。いいや、気づいていない振りをしているだけなのか。

その背後で、一条は苦笑して吉平と山姫を見守っていた。

そしてさらにその背後に続く晴明と吉晶は、一条殿に不安げな視線を向けながら。



大陰陽師とその息子の陰陽師は、顔を見合わせる。



――この少年は、昨日自分が倒れたことを、忘れている……



昨日の正午前だった。少年は唐突に目を覚ました。

突然の目覚めだったため、吉平と山姫はぎくりと驚いて慌てた。ぼんやりとした表情で一条は虚空を呆けて眺めている。顔色も悪い。時折、目を開けているのに疲れたかのように目を閉じて、額に片手を当てる。様子は始終、ぼんやりとしていて、一条はすぐ傍にいる吉平と山姫にほとんど気づいていなかった。

ようやく気づいたときは、ああ、おはようというひどく間抜けな挨拶だった。

思わずふたりは見事に脱力した。

おそらく山姫は、何をいったい能天気に――、と説教しようとしたのだろう。ただし、次の一条の言葉でのどに出掛かった言葉は詰まってしまう。

――ごめん、寝ちゃったのか……

山姫と吉平は咄嗟にそうだ、と相槌を打ってしまった。

ほとんどふたりとも、無意識に。

そうしなければならないという予感が働いて、そうしなければいけないという嫌な直感が、頭のなかによぎったから。そして一条と会話を交わしてからも、その嫌な予感がどんどん大きく膨らんでいく。

まだ頭痛がしている様子の一条に、もう少し横になっていろと吉平は言った。

いつの間にか、山姫は無言で立ち上がって退室している。

そんな山姫の後姿を一条は不思議そうに見送っている。

大人しく横になっていろと、吉平はそう言ってから一条をひとりにした。

一条は、疲れたように頷いて、ふたたび横たわった。

山姫は縁側を少し歩いていったところ、一条の部屋にまったく声が届くことがない所まで来て、思案するような仕草と表情で虚空を睨んでいる。そして、吉平が顔を強張らせたまま近づくと、山姫は吉平が心のなかで危惧していることを尋ねた。

――忘れている?

忘れているのか、と山姫は戸惑うように尋ねる。

その問いに、吉平は何も答えることができなかった。

あんな人間は、一条が最初だった。あの状態でほんとうに忘れているのか、それともあれが演技なのかどうか、吉平は判断することができない。

いいや、忘れてしまっても、それよりも、もっと混乱していてもおかしくないはずなんだ。

この世界に訪れてから、すでに二度も“修験落ち”に命を狙われている。

そして、『天竺』の天狗の千木から、一条がこの世界においてあまりにも危険な存在であることを知らされている。自分が、どれほど周りに悪影響を及ぼすか。

――そう、一条は、

……落ち着きすぎている。

吉平は顔を曇らせる。

一条の態度は、それはまるで、分かっていて受け入れているようでもありながら、怒っても混乱しても誰に当たっても無駄だしどうしようもないことだと、すでに諦めているようで――

一条の異常な落ち着きが、吉平にはあまりにも不気味に見える。

吉平と山姫は、あの後数分間、沈黙していた。

お互い、何もしゃべらなかった。

そして、ようやく山姫が言いにくそうに口を開いた。

――“……しばらく、様子見だ”、と。



「ふたりとも仲いいねー。昨日、何かあったの?」

背後からふたりの横に並んで、一条が歩幅を合わせながら問いかけた。

吉平と山姫は顔を一瞬だけ見合わせる。

「おまえが半日口を開けて涎垂らして寝ている間に、そりゃあもう色々と。おまえの間抜け面全開の寝顔を見てひと時を過ごすのは、まあ楽しいほうだったよなあ、山姫殿」

「その通りだな、吉平殿」

山姫も吉平に完全に調子を合わせる。

そんなふたりの様子を見やって、一条は完全に沈黙した。

このふたり、つい先日までお互いを激しく嫌悪していたはずなのだが。

それなのに、どうして完全と言って良いくらいの高めのシンクロ率で、まるで打ち合わせたようにこうも調子よく話しているのだろうか。

異常といえば異常な光景なのだが、どういう訳か一条は悔しさを感じていた。

いいや、それよりも……

「――なんだよ、俺の寝顔、そんなにひどかったのか?」

「吉平殿は一目見て爆笑していたがな」

さらりと山姫が言った。

「そういう山姫殿こそ、一条の寝顔を一目見るや、『いままで見たことがない醜い寝顔だな』とかなんとか感想を漏らしていたではないか」

「ふむ、そうだったか?」

「ふたりとも、めちゃくちゃ失礼です! 俺に謝ってよ! すっごい傷ついた」

「なんでだ?」

本気で訝しがるように山姫が首を捻って一条を見やる。

なんでって……そりゃあ、自分のこと言いたい放題言われているんですよ。陰口を叩かれるならまだましですけど、何しろご本人の目の前で堂々と……

思ったことを上手く口に出せない一条は、口をパクパクさせるしかなかった。

「悪い悪い、冗談だ。そんなに面白くない寝顔だったよ」

「そんなに可愛くない寝顔に訂正してやろう」

吉平は苦笑して山姫は手を振って慌てて謝罪する。

――おふたりとも、謝るところと訂正するところ、違いますよね。

一条は頭を下げた。

だけど、苦笑は隠せない。

大声で笑い合いじゃれあう三人の後姿を見守りながら、ほっとしたように晴明と吉晶は顔を見合わせる。以前に比べれば一条殿は回復しているといえる。一条殿の小さな変化を、ふたりとも見出し始めていた。

吉平の腕を思いっきり捻っている一条と呆れたようにそれを見守る山姫と、さらに腕を捻られて痛い痛いと連発している吉平に、目的地が近づいてきているから、晴明はそろそろ声を掛けるべきだなと判断して、両手を軽く叩いた。

三人が、こっちを振り返る。

「いつまでも戯れている場合ではありませんぞ。場所には着きましたので」

「え? ……場所って、ここですか?」

怪訝そうに一条はあたりを見渡した。

山姫も不審な目で辺りに視線を投げかけている。

まだ、石畳の階段の中段あたりだ。てっきり、豪壮な寺院のなかに、今日面会する『白拍子』という賢者がいると思い込んでいた。一条は階段の彼方に建つ巨大な門や塔や寺院を見上げ、晴明をもう一度見やる。

そして、唐突に理解した。

「結界か……何かが仕掛けられているようだな」

一条が答えるよりもはやく、山姫が気づいて呟く。

「残念ながら、ここからは私たちはお供することができません、一条殿。山姫殿はご自身の目的通りに一条殿の護衛を為さって結構ですが、いまから簡単な試験を行います。あなたはこれから、自力で『白拍子』の場所まで赴いていただきます」

晴明が試験内容を説明する試験官のような口調で言った。

「と、いうわけだ一条。がんばれよ」

「一足先に『白拍子』の許へ参らせていただきますよ、一条殿」

吉平と吉晶が揃って声をかける。

「ああ、はい……って、え? 『白拍子』の場所を見つければいいんですか?」

「そうです……何か?」

晴明が怪訝そうな表情を一条に向ける。

「いや……もっと、何か難しいのとかが出されるかと思ったんで…………ちょっと最終確認ですけど、晴明さん? 罠、とか……仕掛けられていませんよね?」

「罠は仕掛けておりませんよ。これっぽっちも」

晴明の即答に一条はとりあえず安心する。

「ですが、あなた方は式神と戦わなければなりませんよ」

「――え?」

一条が顔を上げる。

いやいや、ちょっと待て。それこそが罠ではないのだろうか。

凍りつく一条を見やって、晴明は苦笑した。

「ご安心を。命からがらの戦いなど、我らは望んでおりません。ただ、あなたが戦闘においてどのように考えて行動するのか、そういった情報が必要なのです。吉平のように攻撃系の人間なのか、それとも吉晶のように防御系の人間なのか。それを、ここで見極めさせていただきます」

「……はあ」

つまり、戦闘データを取るってことか。

「それでは、がんばってください」

晴明が声を掛けた途端だった。

「えッ? ちょっと、待ってください……!」

まだ質問したいことが山ほどあった一条は、突然、空間がすさまじい音を立ててひび割れていくのに気づいて、ひび割れた景色を呆然と見上げ、それが派手に砕け散ると目を覆うように腕を上げて視界を塞いだ。山姫は面倒くさげにその光景を見やっていた。

目を開けた一条は、唖然として瞬きした。

視界が、様変わりしている。

今まで歩いてきた長い階段の道は消えていて、代わりに視界に飛び込んでくるのは、今まで見たことのない樹海。薄暗くて樹海を吹き抜けていく風はひんやりとしていて、風に吹かれて枝葉と枝葉がぶつかり合う音が樹海のなかに木霊していて、一条は薄気味悪く思った。

……めちゃくちゃ、怖い。

「結界で認識をずらしているのか。これはやられたな」

山姫だけが驚きもせずに、冷静に状況を分析して呟く。「しかし……妙だな。この近くには寺院などがないのに、どうして僧侶や僧兵が……?」

「え? どっかに飛ばされたとかじゃないの?」

一条はてっきり、そう思っていたのだが。

「そんな訳があるか。転送などのふざけた術は、ただの戯れ言だ。おそらく、常人が流すんだろうが……考えても見ろ。結界の本質と利点は、相手の認識をずらすことによって自分の存在を相手に認識されないようにするというところにある。妖がとある場所に寄ってこないように、といったものだけでなく、結界は結界のなかにいる複数の人間の認識をずらす働きも持っているんだ。常人が生まれて初めてその種の結界のなかにいてそれが壊れれば、誰もが自分が今までいた場所でなく別の場所にいたと考えるんだ」

山姫がさらりと冷淡に一蹴する。

やたら長い説明だったが、一条はなんとか理解できた。

認識を、ずらす……か。そんなからくりに凝った結界もあるんだな。

ふと、一条は首を傾げた。いままで歩いてきた風景が結界となるならば……

「じゃあ、あのお坊さんとか僧兵とかは、式神なのか?」

「……この結界のなかで陰陽師たちと自分たち以外、人間はいないはずだってことか。確かに、先ほどの結界が、結界の中にいる人間の認識をずらす種のものであれば、な……そう判断する理由も分かるし、その可能性も一理あるな……」

「う、うん……」

山姫が思ったよりもすんなりと自分の意見を肯定したのに一条は驚いた。

思い切り馬鹿にされると、てっきり思っていたのだが。

「とりあえず、ここでのんびりとずっと帽立ちしているわけにはいくまい」

吐息して、山姫は空を見上げる。吸い込まれるように高い樹木がそびえていて、青空はほんの少ししか覗くことができない。

「上に行って、方角を確かめてこよう。下手に動けばまずいからな」

「お……うん、分かった」

思わずOKなんてこの世界にない答え方をしようとしていた一条は、慌てて言い直した。

山姫が一瞬、怪訝そうに顔をしかめた。

すぐに戻って来る、と言った山姫は軽く地面を蹴った。一番近くの樹木の枝に飛び移ると、すばやく階段を二段飛ばしで上るように、軽々と枝から枝へと飛び移っていき、どんどん上へと近づいてくる。

小さくなっていきその姿を見送っていた一条は、上から漏れる一筋の陽光の眩しさに瞬きした。

もう一度見上げれば、山姫の姿は、すぐに見えなくなってしまった。

……すぐに戻ってくる。山姫は、すぐに戻ってくるはずだ。

だけど、ひとりで樹海のなかに少しの間佇むのは、やっぱり怖い。山姫はしないだろうが、一条は誰かに置いていかれる恐怖心で一杯になる。

はやく、戻ってきて。

か細い声が、心のなかで自然と上がる。

上を見上げて、一条は山姫の姿を探す。

その時だった。

視界の片隅で、白い大きなものが写って、ひらりと姿を消したように見えた。

一条はハッとして振り返る。

目の前に、白い狼がいる。獲物を見る眼つきで青い眼を光らせて、今にも獲物に飛び掛ってきそうな体勢で、用心深く一条を見つめて。



「……どういうことなんだ、一体」

樹海の高いところから辺りを見渡しながら、山姫にしては珍しく困り果てたように、そして焦っているように呟いた。樹海を見渡しても、遠くに塔や門などの小さな形は見えるが、そこに行くには相当の距離がある。方角は確認したからこの樹海で遭難することはまずないが、『白拍子』があんな所にいるとは思えない。

易々と拝顔することが適わない『白拍子』は、元々は京で活動していた賢者であり、とある事情からひとりであることを望み、この聖域の内側にひとりでひっそりと暮らしているという。

滅多にお眼にかかれない人物と、山姫は噂で聞いていた。

ならば、あんな所に、僧侶がうじゃうじゃといるような所にいるはずがない。

まさか、とは思うが……

「この樹海の孤島に、住んでいるのではあるまいな……」

見つかるのだろうかと、山姫は懸念していた。

しばらくしてから、もうひとつの懸念を、山姫は考え始めた。


はるか下方の地上では、一条が金縛りにあったように凍り付いていた。

人と狼。

どっちが勝ってどっちが負けるかなんて、一目瞭然だ。

一条と白い狼はお互いを見据えたまま身構えたまま、一条は恐怖して驚いて動けずにいて、狼は相手がどんな動きに出るか用心しているように一歩も動かない。

どうしよう。どうすればいいんだ。

一条は凍りついたまま途方に暮れていた。内心、両手で頭を抱えて絶叫している。

まだ何も教わっていないのだ。九字護身法など、そんな術がありますよって事は晴明さんや吉平や吉晶さんに教えてもらったことがあった。だけど、授業で数学の公式を教えてもらうようなもんだ。それを使った練習なんか、一度もやっていない。

一条はあることに気づいて、口を小さく開いた。

「あ……」

重大な事実を見逃していて、今さら重大なミスに気づいて冷や汗が噴出する。

そう、まだ、何も教えてもらっていない。

護身術とか、そんなものは、まだこれっぽちも。



大陰陽師、安倍晴明は確かに言った。



“――命からがらの戦いなど、我らは望んでおりません。ただ、あなたが戦闘においてどのように考えて行動するのか、そういった情報が必要なのです。吉平のように攻撃系の人間なのか、それとも吉晶のように防御系の人間なのか。それを、ここで見極めさせていただきます”


そう、確かに言った。自分がどう戦うか、見極めてもらうと。

だから、言われたときに気づいて、どういうことが尋ねておくべきだったんだ。

自分はまだ何も知らない。だから、何もできないって。

そこまで考えたとき、一条はとんでもないことに気づいた。



……確かにあの陰陽師は言った。

一条に、“あなたがどう戦うのか、見極めさせてもらう”と。

あれは、いったいどういう意味が込められているのか。

最初はほんとうに些細なことにしか聞こえなかったが、今さらと思うくらい遅すぎる今になって、その言葉に込められている意味を、山姫は考えるようになった。

自分が一条と同行することはもちろんなので、正直、その点にはまったく注意していなかった。安倍晴明が何を考えていようと、一条を守るのが自分の務め。だが……一条に害を為そうとするはずのない人間が考えていることが全く読めず、あらゆる可能性を考慮して山姫は頭を捻っていた。

そう、晴明は一条に危害を加える理由がない。

何しろ、自分のふたりの息子をあれに助けてもらっているのだから。それも一度ではなく、二度も。

だから、晴明は一条に害を為そうとはしないはず。

ならば、考えられるのは……

……一条の特異な能力の発動――か?

「まったく、どういうことなんだ、いったい……」

山姫は吐息して呟く。

嫌な予感がする。

「天狗から、『太極』の発動は何が何でも阻止しろと言われているのに……」



風が、ざわりと動く。

これから起こる不吉な出来事を予告するように。



この『鬼門封じ』の延暦寺に招かれた危険性を考慮する。さらに、“一条の闘いを見極めようとする”目的で動いている、保安倍家の陰陽師と『白拍子』が何を狙っていて何を考えているか分からない以上、下手に動くべきではない。慎重に動くべきだ。そう判断した山姫は、一条の許へ急いで戻ることにした。さすがに、あまり長い時間、あれを独りにさせておく訳にはいくまい。

何しろ、あれはとことん寂しがり屋だからな。

かすかに苦笑して山姫は、静かに降下を開始する。

そして、枝から枝へと飛び移り、そしてゆっくりと降りていきながら、その途中に地上を見下ろして、山姫は驚愕に目を見開いた。

そして、辺りを狂ったように見渡す。



一条守の姿はどこにもなかった。



十六、



――まさか、こんなことになるとは。



樹海を風が吹きぬけていき、木の葉がひらひらと舞う。

片手で目の前の木の葉を払い、山姫は高速で枝から枝へと飛び移り移動しながら、眼下に目を凝らしながら地上の様子をすばやく確認していく。人間に比べてはっきりとしている視力で、山姫はすばやく地表を確認する。かすかに水気を含んだ土は、新しい足跡をくっきりと残している。普通の徒歩にしては間隔が開きすぎていて、そして歩幅がばらばらだ。左右にふらついているように、不規則に間隔が空いている。

間違いなくこれは一条の足跡。だが、普通の歩き方じゃない。

あいつは、走っている。

――何かから逃げるように……

山姫は歯軋りしてさらに速度を上げる。先ほどからかなり飛んでいるのだが、いっこうに一条は見つからない。どうやらかなり遠いところまで行っているらしい。

護衛でありながら、あいつを見失ってしまうとは……

「……一条!」

山姫は歯軋りして、不安になりながら、少年の名前を小さく口にしながら、申し訳なさ一杯で心のなかでそっと呟く。

――すまない。



ふと立ち止まり、山姫は感覚を鋭利に研ぎ澄ませる。

リンと響く、鈴のように澄んだ音色。

妖気の波長が三六〇度全体に広がっていく。

広がっていく妖気の波長は、人や妖の気配を探し出そうとする。樹木などの自然界の一部として組み込まれている樹木などは波長を通り過ぎてしまうが、自然界に組み込まれていない人間などの存在は、明らかな違和感を持ち、そして妖気の波長に引っかかる。

そして、その波長が、山姫のちょうど正面方向で『壁』にあたった。

一条の気配ともうひとつ、この森の中に大きな気配がある。おそらく、一条の前に現れたものだろう。この聖域内で妖の類が活動するのは考えられない。だから、一条を襲ったのは陰陽師などが放った式神だろう。

だから、一条に害を為そうとすることはないはず……

ないはずだ。式神を放ったのが、安倍家の陰陽師ならば。

「――油断していたな……」

そう、油断していた。

安倍家の陰陽師以外の陰陽師も、この『鬼門封じ』のなかに潜入することはできる。蘆屋道満や智徳法師などの側にいる人間の仕業だろう。

だが……

この樹海のなかに、すでに何かが仕掛けられている。

山姫は辺りを見渡す。

先ほど、一条の気配を探るために感覚を研ぎ澄ましたときに気づいたのだが、妖気の波長を広げた瞬間、何かに阻害されているような違和感があった。『壁』に当たるような感じではなく、全体の妖気の波長が、普段とは違い、誰かに抑えられているような、感覚――。

山姫はある可能性に思い当たって顔をしかめる。

……認識がずらされている?

どうやらここにも結界が張られているようだ。大体、一条の気配も明らかに近くにいるはずなのに、山姫は一条の姿を見出すことができなかった。結界が張られているのなら理解できる。おそらく、一条といま一条のもとにいる式神はすぐ近くにいるはず。だけど、結界が張られているおかげで視覚や聴覚といった認識がずらされている。

だから、一条たちを見出すことができない。気配を察知しても。

「……クソッ!」

舌打ちした瞬間、山姫は背後の風と妖気の波長が突然乱れるのを感じた。

危険を感じて身を低くして振り返る。

目の前に、白い狼が獰猛な動きで襲い掛かってきた。慌てて地面に飛び降りて攻撃を回避する。気配を感じることはできなかった。音も聞こえなかった。大きさや気配が読めないことからおそらく、野生の獣ではなくこれは式神。

攻撃に失敗した狼は静かに着地する。そして、獲物を見る目つきで白い狼は身構える。

いまにも、飛び掛ってきそうな雰囲気だ。

忌々しげに山姫は再度舌打ちする。

「……やれやれ、ほんとうに、苦労させてくれる」

一条と一条と対決している獣だけに、結界が張られていると山姫は考えていた。だけど、それは違う。一条と山姫がいる空間そのものに結界が張られていたのだ。故に、一条も山姫もお互いの存在を視覚や聴覚などで捉えることができず、目の前にいる白い狼の式神が、実際に目の前真正面に姿を見せるまで認識することはできなかった。

山姫は吐息して妖気の波長を、人間の肉眼で視認できるほど濃度を高める。

紫色の、妖気の波長。

螺旋の如くうごめく妖気。

通常、人間は妖気の波長を目にすることはできない。色で認識できるほどの妖気は大妖の象徴であり、それほどの大妖がもつ妖気は、陰陽師のような特殊な人間とは異なり常人に悪しき影響を及ぼしかねない。故に、『天竺』の大妖は人の世界に悪しき影響をもたらさずに秩序を乱さぬために、普段より妖気を抑えることを原則としている。

その原則を、山姫は初めて破った。

久しぶりに抑えていた自分を開放した山姫は、妖気の波長から妖気の波動へと変わった自分の力に、体が興奮したように痺れるのを感じた。

久しく手にしていなかった感覚。それにいま、自分は震えている。

闘いというものを、これほどまでに望んでいたのか。

「私はいま、頭に来ている。土下座してももう遅いぞ」

凄絶な笑みを浮かべ、山姫は、宣戦を布告する。

狼も、それに応えるように咆哮を上げる。

相対する獣と妖は、同時に地面を蹴った。

――闘いが、始まった。



この式神に敵意がないことに、一条はしばらく気づくことができなかった。

さすがに夜に“修験落ち”と鵺に襲われて、さらに翌日の夕暮れに再び“修験落ち”と鵺に攻撃された一条にとって、目の前に野生の獣のような白い狼が現れたことには驚かなかったが、さすがに自分が今まさに死んでもおかしくないような状況にいることに気づいて、生存本能に従って逃走を図った。

冷静に考えれば人間の脚力と獣の脚力。優劣の差などはっきりしているのに。

さらにその白い狼をよく観察すれば、その大きさが自然界に生きる野性の獣とあまりにも桁違いな大きさであることに気づくはずだった。そして、決定的なのは一条を瞬時に食い殺さなかったこと。一条が背中を見せて逃げ出せば、野生本能に研ぎ澄まされた獣は、一条が瞬きする間もなく食い殺していたはずだ。

それなのに、白い狼は一条の背中を見送った。

まるで、獲物が逃げてもすぐに捕らえることができると、考えているように。

一条がゆるやかな斜面を駆け上がり、その姿や樹木のあいだや茂みの向こう側へ消えてしまうと、白い狼は体を縮めて跳躍する。白い巨躯を引き伸ばし、一条の背後へとすとんと一気に、体格からして相当な重量がある巨躯を、周囲に広がる衝撃を完璧に殺して着地する。

肩越しに振り返った一条は瞬きした。

明らかに、おかしい。

まるで、体重というものを持っていないような着地だった。

視界の隅で狼が跳躍しているのに気づいていた一条は、狼の着地があまりにも異常に思えたので、ゆっくりと振り返って白い狼を見つめる。

その時になってようやく、一条はこれが野生の獣ではないと気づいた。

これは、式神。

昨日の午後、吉平が使っていた式神を思い出した。小さな紙切れに何やら文字を書いて、そしてただ腕を振っただけで、小さな鳥となった。それが、式神なんだと、一条は思っていた。それからは、紙切れの大きさによって式神の大きさが決まっているんだと考えていたが、それが違うことが今の瞬間ではっきりと理解した。

おそらく、式神の大きさや強さは、陰陽師などの特殊な力を持つ人間の、力量を示している。

だけど、まさかこんなに大きな式神がいるなんて。

大きさは一条の身長の二倍以上はある。狼の口は一口で一条を丸呑みできるほどだ。大体、“修験落ち”が使役していた鵺と同じくらいの体躯。だけど、雪のように白一色の体躯は鵺とは違った存在感を放っている。

「どうすりゃいいんだよ……」

一条は途方に暮れて、弱々しい笑みで呟いた。

狼を、見据えたまま。



紫色の妖気が螺旋を描いて、まるで竜巻のように木の葉を撒き散らして爆発する。

白い狼は衝撃をまともに食らって、その白い巨体が宙を舞う。爆発の余韻で体の自由を失って、近くの樹木に体をぶつける。ぶつかった途端に、樹木の太い幹が音を立ててひび割れる。ざわざわと枝を揺らしながら、木の葉をあたり一面にぶちまけながら、樹木はすさまじい音をたてて倒れた。

倒れた拍子に巻き上がる土煙。

狼がまだ体を起こそうともがいている拍子に、山姫は次の行動にすばやく移った。

紫色の妖気が樹海のなかを猛然と走りぬけ、ある一本の樹木に巻きつく。そのまま、まるで引き伸ばされたゴムが元の状態に戻るように、山姫の体が勢いよく引き寄せられる。遠心力を利用して速度を増しながら、山姫はあるタイミングで妖気を大気中に溶け込ませる。大きな弧を描いて、山姫は土煙の背後に回った。

まさに迅雷のような動き。

次の瞬間、狼が立ち上がった。

すかさず山姫は足を狙って、体のバランスを再び崩させようとする。

紫色の妖気がまるで放たれた矢のように神速で動く。

ただし、狼はすばやく攻撃を察知して飛び上がる。数秒遅れて妖気の攻撃がむなしく地面に突き刺さる。

巻き上がる土砂。一瞬、視界が悪くなるが、山姫は跳躍して後退する。

狼はすばやく近くの樹木を足場にして、地面に跳躍する。

後ろ足が地面に触れた途端、白い狼の反撃が始まった。しかも、急速に。

山姫と狼の間には十メートル以上の間隔が開いていたはずなのに、狼はその距離をどうやったのか、すばやく間合いを詰めて山姫に攻撃する。

――また、だ。

怪訝そうに眉根を寄せて、山姫はすばやく地面を蹴って、紫色の妖気の波動を使って上昇する。

そう、また、だ。

先ほど、山姫は自分らしくないくらいにみっともなく無様にこの攻撃でやられた。あの一撃で、あばらが何本かいってしまうくらい。

山姫は枝の上に飛び移ってから、狼を慎重に見下ろす。

――この空間そのものが結界。

つまり、この空間にいる一条と山姫は感覚の認識がずらされている。この結界のなかにおいて、たとえば、ひとりの人間が相手を殴ったとしよう。その人間が攻撃してくるのを、攻撃される側の人間はしっかりと認識している。だけど、結界の中において距離感などはあいまいなものとなっていて、まだ距離があると認識している人間は、すでに相手の拳が目の前にあることに気づかずに、無様に攻撃を食らってしまうのだ。

いまの山姫における状況が、まさしくそれ。

相手側の攻撃をしっかりと認識することができず、さらには自分の攻撃も相手には一向に確実に当たらない。

「まったく、面倒だな」

山姫はうんざりして呟いた。

これはまさしく、この結界を仕掛けた側にとってしか有利に働かない絶好の舞台じゃないか。

「さて、どうするか」

誰にともなくひとり呟く山姫。

その目の前を、白い狼が牙を剥いて襲いかかろうとする。

やはり、まただ。

下を駆けていた狼は、いきなり止まった。その反動を利用して、山姫のいる場所へと跳躍する。そして、まだ距離が空いているはずなのに、いつの間にか目と鼻の先に現れているのだ。どういうわけか。

紫色の妖気が渦巻き、山姫は腕を上げる。

途端に、狼は体を曲げて、山姫が立っている樹木に足をぶつけて、地面に降下する。

狼が樹木にぶつかった衝撃で、山姫は手元を狂わせた。落下する狼に向けて攻撃しようとするが、視界と足場が安定しておらず、さらには自分も落下している。無造作に妖気を放ってから、樹木の側面を蹴って隣の樹木の枝に飛び移る。そして、放たれた妖気の爆弾が、むなしく地面に落ちていく。

「さて、……ん?」

山姫は怪訝そうに地面を見下ろす。

待てよ……

――攻撃しようとした素振りをした途端、あの白い狼はまだ攻撃が始まっていないのに、攻撃を回避するために行動を起こさなかったか?

動くタイミングが、おかしかった。

狼の動きは、あまりにも早すぎた。

自分が攻撃してからではなく――攻撃する前から。

「何故、そんなことを……?」

山姫は眉根を寄せて、ある可能性に行き着いた。

もしかして。

山姫は掌を広げる。途端に、紫色の妖気が螺旋を描くように渦巻いて集合し、球体をつくりあげる。そして、それを掲げる。まるでそれを投げる直前の行動のように――。

だが、山姫はそれを投げなかった。

山姫の攻撃の動き、それを確認するや、狼はすばやく行動に入った。

右手でもなく左手でもなく、ただ、後方に飛ぶように下がる。

だが、小さな弧を描きながら放たれた妖気の爆弾は、回転しながら大きな球体へと変わっていき、速度を増していき、そして狼を真正面から叩き潰す。

「……なるほど、そういうことか」

読めた。山姫はニヤリと笑った。

冷静になって慎重に考えてみれば、先ほどからその傾向はあったのだ。大きな攻撃を放つとき、どういうわけか狼はそれら全てを、攻撃が放たれる直前で回避行動に移る。そして、小さな攻撃だとわずかに体に直撃する。攻撃の大きさによって回避行動に移るタイミングがずれていることを、山姫はまったく気にしていなかったが、いまになってようやくこの結界がどういうものか理解することができた。

結界とは、影響の範囲が実に広い。

ひとつの空間が結界となっている場合、確かに、山姫自身としては自分だけにその影響が及んでいると考えていた。距離感はあいまいなものとなっていて、さらに攻撃は適確に的を射ることがない。最悪なのは相手の行動がまったく読めず、回避行動に入る瞬間を見逃して、かなり体力を消耗してしまった。

相手にとってのみ有利に働く環境、だった。

だけど、そのからくりを理解してしまえば、それは自分にとっても有利に働く環境となる。

――まさに、諸刃の剣。

山姫が攻撃しようとした瞬間にはすかさず回避し、ダメージをゼロにしていた。だけど、山姫が突然、射程圏内に入った狼に対して、自分の妖気を爆発させると、あの白い狼はまともに攻撃を受けてしまう。先ほども、狼は至近距離からの攻撃をまともに食らって、幹の太い樹木を一本、見事にぼっきりと折った。

それも、一度ではなく二度も。

その違和感に、どうして気づけなかったのか。

この種の結界は、空間のなかにいる特定の存在に対して効果を発揮するのではなく、結界の内部の空間そのものに対して効果を発揮する。つまり、山姫個人の感覚の認識がずらされているのではなく、この空間内において、視覚、聴覚、嗅覚、触覚などがあいまいになっているのだ。

そう考えれば、先ほどからの狼の異常な反射行動にも説明がつく。

だから、それを逆手に取れば――

次の瞬間、妖気が再び爆発し、土煙をまき散らし、白い狼の巨躯を無様に吹き飛ばす。

「――ほうら、簡単だ」

山姫はニヤリと笑った。

――さて、先ほどまでやってくれたお礼を返すとするか。



容赦ない山姫の逆襲が始まった。



大陰陽師は確かに言った。

“――命からがらの戦いなど、我らは望んでおりません。ただ、あなたが戦闘においてどのように考えて行動するのか、そういった情報が必要なのです。吉平のように攻撃系の人間なのか、それとも吉晶のように防御系の人間なのか。それを、ここで見極めさせていただきます”

そう、確かに、見極めさせてもらうと。そう言っていた。

妖退治とかで使うような術をまだ一度も教えてもらっていない一条は、妖怪だけじゃなくて目の前にいる白い狼と闘う術も知識もまったく持っていない。だから、敵意がない白い狼がいつ飛び掛ってくるか、全神経を集中させて一条は身構え、そして狼を凝視して、固まっている。

対する式神の狼も、いつでも動けるような態勢で固まっている。

目下のところ、まさに膠着状態。

今のところ、相手――といっても獣だが――に刺激を与えないように、一条は震える足で何とか踏ん張って立ち続けていた。

今のところ、最善なのは動かないことだ。

理科の授業で、山登りを趣味とする頭の禿げた先生が言っていたことを、一条は思い出した。熊などの野生の獣は、野生本能に従って相手の強弱を見定める。熊に出会って背中を向ければ、熊は相手を自分よりも弱い生き物だと認識して、簡単に殺してしまうと。

脚力でも腕力でも、人間は野生に勝てるわけがない。

だけど、知識の面においては、野生に勝てることができる。目の前の、白い狼にも。

野生本能は単純だ。相手が自分の前から逃げれば、それはただの弱者に過ぎない。だから、その野生本能を逆手にとってやればいい。

逃げる素振りをまったく見せず、相手に自分が強者か弱者か分からないようにさせればいい。

だけど、相手は野生の獣ではなく、野生の獣の形をした式神。

果たして、式神はどう動くか。式神は間違いなく術者とつながっているはずだ。術者が攻撃しろなどの命令でも送ったりしたら、一条にとって絶体絶命。あっけなくやられてしまう。


その頃、安倍晴明と吉平、吉晶の三人の陰陽師は、樹海のなかに半ば埋もれるようにある石畳の道を、ゆっくりと歩いていた。落ち葉のおかげで道らしき道がほとんど見えない。だが、彼らは曲がりくねる道の彼方にある、小さな尼寺をすでに目に捉えていた。

「それにしても、一条殿は大丈夫でしょうか」

唐突に、吉晶が心配げに言った。

「さすがに、今回の試験は少々荒っぽいやり方ですからね。山姫殿がこの試験の真意に気づけば、おそらく我々もただ事ではすみませんね」

「あー、それ分かる。絶対、ぶちぎれてるぞ、あいつは」

吉平がげんなりした表情で相槌を打つ。

先頭を歩く晴明は、前を見据えて歩き続けている。口を開こうともしない。

しばらくして一行は、尼寺に辿り着いた。

尼寺の縁側に、ひとりの女性が腰掛けている。眠っているように目を瞑っていて、細い肩が静かに上下している。

「お待たせいたしました、『白拍子』様……」

晴明は恭しく頭を下げて、挨拶する。

吉平と吉晶も、それに倣う。

「そこまで礼儀正しくする必要はありませんよ、晴明殿」目を開けて、賢者『白拍子』は静かに微笑んだ。「いま、ふたりを相手しているところですが、これはなかなかの大物ですね。先が楽しみですよ」

「しかしながら、今回のやり方は、少々乱暴すぎはしませんか?」

晴明は懸念を口にする。



「――いくらなんでも、一条殿の能力を発動させるなど……」



この試験を用意したのは、おそらく賢者『白拍子』だろう。

妖気の爆発で土煙が立ち込める地面に着地して、山姫はさらなる攻撃に備えながらも考慮する。あの白い狼のなりをした式神は、敵意や殺意をまったく感じさせない。ただ、足止めさせているようにしか思えない。

この結界の内部に、蘆屋道満や智徳法師といったあちら側の勢力は入り込んでいないようだ。

目の前の狼は、間違いなく『白拍子』の式神。

陽動。

一条と自分を引き離し、結界のなかでお互いを孤立させる。

そして、時間稼ぎ。

――やはり、狙いは……

「……『太極』の発動か――」

忌々しげに呟きながら、山姫は吐息する。

天狗から、『太極』の発動は是が非でも阻止するようにとの、厳重注意を受けていた。『太極』の誤作動が森羅万象にいかなる影響を及ぼすか、天狗の推測も聞かされていた。おそらく、天狗の推測は当たっているはずだ。だから、山姫は何としてでも『太極』の発動を阻止しなければならない。

『太極』の発動による、世界の崩壊を防ぐためにも。



『白拍子』は静かに微笑んだ。

「さてと――そろそろ本腰を入れるとしましょうか」

不安な様子を隠せない晴明は、怪訝そうな面持ちで、『白拍子』を見やった。



一条を見据えていた狼は、突然、弾丸のように跳躍した。

――え?

気づいたときには、一条の目の前に白い巨躯が踊っている。まさに電光石火。一直線に飛んでくる狼の攻撃を、みっともない悲鳴を上げながら一条は横っ飛びに辛くも回避した。

なんだ、今の……?

攻撃が来るのは覚悟していた。それに、攻撃を回避できるように、一応は準備していた。

だけど、まさかこれほどの速さだなんて。

まるで、雷が落ちるような感じだった。

白い狼の攻撃は、思い切り空振りとなった。スピードを殺しきれなかったのか、着地した衝撃に一本の樹木を思い切りぶっ飛ばした。そして、一条を視界に捉えるや、大口を開けて咆哮を上げる。まるでヤクザから怒声を浴びさせられたような感じで、一条は体を恐怖に震わせた。

人生初めて、生でしかも近距離で獣の咆哮を耳にした。

空気がビリビリと震えて、迫力がある。

体が、震える。だけどそれは、人生初の野生の獣の咆哮を目の前で見ることができて、さらに耳にすることができる感動ではなく、一瞬で間違いなく殺されてしまう恐怖からだ。

そして、狼は再び攻撃を開始した。

次の瞬間、紫色の閃光が視界を染め上げた――。



「……やっと見つけたぞ、手を焼かせるな、童ごときが」

荒い息と荒い口調。聞きなれた声に顔を上げる。

紫色の妖気を螺旋に放ちながら、いつの間にか、満足げにニヤリと笑っている山姫が一条のすぐ隣に立っていた。



突如、樹海に響く狼の咆哮が、一条の位置を知る手がかりとなった。

樹木の側面を蹴り続けて、山姫は移動を続けていた。妖気の波長で、一条の気配が近くにあることは分かっていた。だが、狼の咆哮が、自分のすぐ後ろから響いてくることに気づいた。おかげで、白い狼の体ごと吹き飛ばし結界が破れ、一条のいる認識がずれている場所に入り込むことによって、ずれていた自分の認識を、山姫は戻すことができた。

矯正完了。

いま、目の前では哀れに二匹の狼が苦しげに体を動かしている。

「怪我はないのか?」

山姫が尋ねると、一条は無言で頷いた。

「それにしても……よく無傷でいられたな」

山姫は感心する。

苦笑いを浮かべた一条は、山姫の脇のあたりに滲む赤黒い血の跡に気づいて、顔色を変えて慌てて叫ぶ。

「山姫、おまえ、怪我しているじゃないか!」

「安心しろ。人間と比べて、回復ははやいし、それに大した傷ではない」

「だけど、手当てはしないと……」

「うるさい奴だな、大したことないって言っているだろう」

些細なことにうるさい奴だと思いながら、山姫も苦笑して一条を見やる。自分の命が危なかったというのに……いいや、正確には命の危険はなかったが、かなり危ない状況下にいたというのに、どうして、他人をそこまで気遣えるのか。

ほんとうに、不思議なやつだ――。

「これから、どうするの?」

「そうだな、とりあえず」山姫は一条の肩に手を置いた。「飛び上がるか」

「へ?」

一条が間抜けな素っ頓狂な声を上げた途端に、重力に逆らって体が上昇する。山姫が地面を蹴って、すばやく大木の枝に飛び移ったからだ。肩が抜けかけたような奇妙な感覚に、無言で悶絶すること数秒。やっと視線を改めたときには、白い狼が忌々しげに自分たちを見上げているのに気づいた。

「ええっと……」

「どうやらあれを完全に殺さないと、試験には合格できないようだな」心底うんざりした様子で、山姫が口を開く。「おまえはここにいろ。あとは私が片付ける」

「いや、でも……おまえ、怪我しているじゃないか!」

一条が慌てて叫ぶのが、どういうわけか奇妙に面白かった。

山姫はニヤリと笑った。「おまえのような軟弱な体とは違うんだよ。いらぬ心配。おまえは自分の命だけを大事にしていろ」

「って、おい――」

一条が突然叫んで何かを言おうとしていた。だけど、もうその声は山姫に届かない。

山姫は、地面への急降下を開始していた。

「さあて……今度は二匹同時に相手してやろう」

両手に紫色の妖気を渦巻かせながら、山姫は凄絶に宣言した。

轟く爆音。

土煙が、広範囲に立ち込める。



数においても大きさにおいても多勢に無勢なのに、山姫は二体の式神を圧倒している。

すぐに攻撃できるように、そして防御しやすいように、体を低くして身構えたまま、式神は山姫を見据える。お互い動かずに相手を警戒する。はるか上空で地上を見下ろしている一条も、先ほどまでは正直、不安で一杯だった。いくら『天竺』の山姫でも、さすがに強力な二体の式神を同時に相手にすることができるのか。

次の瞬間、一条の懸念はあっけなく引っくり返された。

山姫の両手に紫色の妖気がうごめく。まだ土煙のせいではっきりとしていない視界のなかでも、狼の式神は迅雷のごとく動いた。片方は後退し、片方は突進する。突進した狼の式神は、足元で起きた妖気の爆発に体のバランスを崩す。

狼の哀しげな咆哮。

土煙のなかにいるまだ姿見えぬ敵に、後退している狼はじりじりと後退り、あらゆる攻撃にすぐさま対応できるように、忙しく顔を動かしている。

次の瞬間、土煙がブワリ、と動く。

危険を察知して狼が横っ飛びに攻撃を回避する。ふたたび咆哮を上げて、狼は突撃を開始する。緩やかな斜面を駆けていき、攻撃が発せられた場所へと跳躍する。

「――遅い」

狼の頭上から、一声。

一条は息を呑んだ。

瞬きする間もなく、上空に飛び上がった山姫は、身動きの取れない空中に飛び上がった狼の白い巨躯に、両手で練り上げた球状の紫色の妖気を思い切り叩きつける。回避することもできずまともに攻撃を受けてしまい、衝撃を殺しきれずに直下に落下する狼。

あっという間に、山姫は狼を二体とも片付けてしまった。

「すんげぇ……」

一条は呟く。途端に、地面が揺れた。

強い衝撃。頭上の木の葉が激しく揺れて、はらはらと幾つかの木の葉が落ちてくる。

「うわぁ?」

「――何?」

思わぬ一条の悲鳴に、山姫が驚いて視線を転じる。

震動が幾重にも重なって響く。地面が激しく揺れている。ほんとうに落ちそうになって、枝に思い切りしがみついた一条は地震かと思ったが、激しく揺れているのが、自分が乗っている樹木だけだと気づく。下を見下ろして、一条は目を剥いた。

最初にやられた狼の式神が、樹木に体当たりしているのだ。

幹全体にひびが入っていき、ゆっくりと一条の目の前の景色が傾いていく。倒れることを意味する不気味な音を聞きながら、枝にしがみついた一条は迫り来る地面を恐怖で見つめた。

途端に、視界に現れる、山姫。

「つかまれ!」

手を伸ばす山姫。その手にしがみつこうと片腕を伸ばしかけた途端、一条は視界の隅に横切った白いものを認めて、真っ青になって叫んだ。

「――山姫、危ない!」

「なッ?」

次の瞬間、山姫は白い狼に弾き飛ばされた。小さな短い悲鳴を上げて、地面に落下する山姫。慌てて手を伸ばそうとするが、一瞬で届かなくなる。

小さな体が、地面に激突する。

そのすぐ近くに、白い狼が二匹とも跳躍して音もなく着地する。

「山姫エェ――!」

助けを求める叫び声でもなく、恐怖を訴える叫び声でもなく、

ただ、ただ彼女の名前を呼ぶ叫び声が、森のなかに幾重にも木霊して、むなしく響いていった。



一条がしがみついていた樹木は、派手な音を立てて地面に激突した。激しく土煙と落ち葉を巻き上げながら、視界を不透明にしていく。誰にも助けられることなく、一条は木にしがみついたまま。狼に攻撃されて地面に墜落した山姫は、頭から血を流したまま指一本動かすことなく地面に横たわっている。白い狼は二体とも、獲物を見下ろしたまま背後を振り返ろうとしない。

どこか遠くで、烏が騒々しく鳴きながら、飛ぶ音がした。

しばらくすれば、森に静寂が戻ってきた。



十七、



あの陰陽師――安倍晴明が言うのは、この闘いは人の命を奪わないものだという。

おそらく、この試験は安倍晴明が用意したものではなく、『白拍子』が用意したもの。戦闘経験が皆無に等しい一条が、どのように闘うか。それを見定めるものだと。それを聞いただけで、山姫は気づくべきだったのだ。

これが、仕掛けられた罠であることを。

“修験落ち”に二度も命を狙われ、さらに正体不明の術者が使役する化け物に襲われた一条は、偶然、助かってきただけに過ぎない。誰かに守ってもらったからこそ、その命が助かってきただけに過ぎないんだ。“修験落ち”に命を狙われたとき、一度目は安倍家のふたりの陰陽師――安倍吉平とその弟吉晶。そして、二度目は『天竺』の同胞、天狗の千木と水虎の藍染に。

そして、三度目は、自分に。

四度目も、自分があの少年を助けるつもりだった。

闘うことなど、できるはずがない。

あんな、やつに。

助けられ続けてきた者に、いったい何ができるというのか。

もっとはやい時点で、山姫は気づくべきだった。

この世界に、一条を敵対視する人間と妖そして、そのふたつのどちらにもあらざる存在が、あまりにも多すぎることに。

安倍晴明がどのような形で関与しているか知る由もないが、『白拍子』の狙いは、間違いなく――



一条が有する『太極』の発動――。



「……一条ッ――」

指先に力をいれ、泥を握りながら、ゆっくりと頭を上げて、山姫は視線を転ずる。思うように動かない体を引きずりながら、何とか立ち上がろうとする。

あの少年の、安否を確かめるために。



閑散としている樹海に、すさまじい音はゆっくりと響いてきた。

『白拍子』と晴明は同時に顔をしかめる。

「――少々、派手にやりすぎましたか」

「充分やりすぎですが」

晴明は『白拍子』の呟きを、冷たくさえぎった。

ふたりはいま、縁側に座っている。後ろの床には吉平と吉晶が礼儀正しく正座して、緊張した表情でその会話に耳を傾けている。

「あれでは一条殿の怪我がますますひどくなるばかり。連日、術者に襲われて傷が増えているのですぞ。直ちに試験を中止していただきたい。予防線を張っての『一条殿の能力』を発動させようとしていたと考えておりましたが、どうやら違うようですな。お止めにならないのならば、『白拍子』殿といえども私がその行いを続けることを許しませんぞ」

普段見せることない晴明のすさまじい気迫。

だが、『白拍子』は動じる様子を微塵も見せない。

「晴明殿、あなたが激怒なさる気持ちも分かります。ところで……」

目を閉じたまま、『白拍子』は静かに問いかけた。

「一条殿の傷はまだ癒えていないのですか? 癒えているのか癒えていないのか、晴明殿、きちんと確認なされましたか?」

「それは――ム」

否と返答しようとして、晴明はとあることに気づいて口を閉ざす。

沈黙した晴明は、頭のなかで静かに思案する。

「もしや……」

「――お静かに、見守られてください。決して悪い結果へと運ぶことはありません」

『白拍子』は、それだけしか言わない。

吉平と吉晶は、お互いの強張った顔を見合わせてから、ふたりの背中を無言で注視する。聞きたいことが山ほどあるが、そうすることはできなかった。



「一条……」

なんとか体を起こしながら、山姫は二体の白い狼の式神を見上げる。

黒い双眸が、静かに見つめ返す。先ほどまでの激しさはどこに行ったのか、今は襲ってくる気配をまったく見せない。

だが、油断することはできない。いつ、襲ってくるか分からないんだ。

「一条……」

ふたたび、山姫は少年の名前を口にする。

そして、両手を広げて妖気を集合させて、地面に向けて放つ。すさまじい爆発。途端に土煙が視界を覆う。山姫は苦しげに咳き込みながら、駆け始めた。

途端に、白い狼の前足が、山姫を殴打する。

背中を打たれて、あえぎながら山姫は倒れこんだ。二体の式神は、ゆっくりと山姫の背後に迫る。



その時、大気が揺れた。

震えるように。



次に、風が螺旋に渦巻き、木の葉がひらひらと山姫と式神の周囲で大きな輪を描く。

式神が異常を感知したのか、顔を上げて周囲の光景を見守る。

そして、山姫は地面が震え始めたのに気づく。

否、これは――

「脈動、している……?」

山姫は、呆然と呟いた。

元々山姫は文字通り山に棲む女妖怪。地脈とのつながりがある故、山姫はいま、この山の地脈が脈動しているのを感じた。

そして、視線をゆっくりと転ずる。

地脈は竜脈とも呼ばれる。風水において、起伏を描く山の斜面などには、地脈が複雑に絡み合い多くの「気」が集まるとされている。一部の妖は、それを用いることによって強大な妖術を発動させることができる。もっとも妖だけに留まらず、陰陽師などの奇術師も、地脈を用いることによって強大な術を発動させることが可能だ。

だが、地脈の操作を誤れば、それは悪い結果をもたらしかねない。

だからこそ、力あるものですら滅多に使うことのない地脈。

それが、いま、震えている。

「……まさか、一条、なのか……?」

有り得ないと内心首を振りつつも、やつ以外に誰が使えるというのかと呟きながら、山姫は、怖れを持って視線を土煙の彼方へと向ける。地脈は、そこを中心に激しく脈動しているのだ。

土煙が、唐突に、まるで誰かがかき分けたかのように、動く。

視界が、さらにはっきりとする。

巻き上がる土煙、木の葉、小枝。

風が、また吹く。

幽鬼のごとく佇む一条を、山姫は見た。



不意に、一条が、片手を上げる。

途端に、地脈がいっそう激しく脈動し、地面から鎖が突出する。

その数、およそ千。

鎖はくるくると回りながら、鎖は式神めがけて一気に飛来する。すばやく胴体をきつく拘束しながら、地面から鎖が引き上げられていく。気づけば、一条が手を引いていて、式神は一気に体の自由を奪われて、仰向けに倒れこんで地面に無様に転がる。

むなしい、咆哮。

その咆哮に、山姫は重大なことを思い出して慌てた。

「一条、やめろ!」

山姫は立ち上がって、甲高い声で叫んだ。

一条はいま、自分の能力を“境界線上”において発動させている。ただでさえ不安定な状況だというのに、おそらく初めてだと思われる地脈を利用しての発動。強大が故に不安定な要素を含む、『太極』と地脈の掛け算。今のところ異常は見られないが、下手に長引かせれば『最悪な結果』になりかねない。

なんとしてでも、『太極』の発動を止めなければならない。

山姫は駆け出した。

一条の目の前に来て、彼の頬を思い切り引っぱたく。

甲高い音。

それでも、一条は止まらない。目覚めない。気づかない。

こんなに――目の前に、すぐ近くにいるというのに、山姫に気づいていない。

「一条、――頼むからもうやめろ!」

悲鳴に近い叫び声。

次の瞬間、地脈の脈動が一気に収まった。まるで、熱いものに対して、冷水をぶっかけたように、急激に地脈が収まった。

舞い戻る静けさ。

ハッとして、山姫は顔を上げる。

「……一条」

すこし痛そうに顔をしかめている少年が、そこにいた。

「――殴られたところがすんごい痛いし、しかも肩に力込めすぎ。ぶんぶんしないでよ……骨が折れるかと思ったよ」

無意識のうちに山姫がつかんでいた肩。なんとか山姫の両手を外そうと、一条はもがいている。

「……戻った」

山姫は信じられないものを見る目つきで、一条を見つめる。

「ええっと……ごめんなさい」

「――そんな謝罪で済むと思っているのか、この馬鹿者!」

次の瞬間、顔を伏せたまま山姫は、拳を思い切り一条の顔面に向けて全力で放つ。

それをもろに食らった一条は地面に仰向けに倒れて無言で悶絶する。

「天狗があれほど厳重注意をしたというのに、いったいどうしておまえは自分の能力を発動させてしまうんだ! 天狗と私があれほど使うなと言っていただろうが! 殴られても文句は言えんことくらい、分かっているだろうな?」

すさまじい説教。

涙目のまま、一条は何度も首を縦に振って、理解したことを示す。

途端に、気が緩みそうになって山姫はさらに表情を険しくする。

「私は怪我をしてもすぐに癒えるが、おまえたち人間はあまりにも弱い存在なんだ。ひとつの傷が、どれほど危険なのか……なんで、分かっていないんだ」

一条の傍らにひざをついて、山姫は怪我がないかを確認する。

「えっと……ほんとうに、ごめん」

「……謝罪しただけで済むと思っているのか?」

ギロリと山姫に睨まれて、一条は顔を引きつらせた。

「今度からは、発動させないように気をつけるから……」

「ああ、そうだな――は?」

相槌を打っていた山姫は、瞬きした。“発動させないように気をつける”という言葉に引っかかって、一条の顔を覗きこむ。いきなり顔を近づけられて、一条は驚いているようだが。

――発動させないように?

「どういうことだ?」

「え? ……どういうことって?」

戸惑っている一条。山姫は一条の正面に回りこんだ。

「どういうことだ? おまえは“境界線上”で能力を発動させたんじゃないのか?」

一条は瞬きする。

「境界線上ってことは……ほとんど無意識にやっているってことだよね? でも、さっきの場合は……なんていうかな、ちょっとぼんやりしているけど、山姫と式神はちゃんと見えていた。地面の下にある霊力みたいなのが、なんとなく……汲み上げる、って感じかな。拾いやすくて……」

「……意識して、やっていたのか……?」

呆然と、山姫が確認する。

戸惑いながら、一条は頷いた。

「……どうか、したの?」

やがて、一条は恐る恐る聞いた。

いま、一条の目の前にいる山姫の顔は青ざめている。

「いいや……なんでもない」

掠れた声で、山姫は呟く。

実際のところ……なんでもない、では済まないが、山姫は首を振ってしまった。

――意識して自分の能力を、発動させていたとは……

予想外の事態に、冷静を失ってしまったか。自分らしくないと、反省する。

ただし、これは問題。天狗の推論が的を外しただけでなく、今後の『計画』にも大きな支障が出る。早々に天狗と連絡を取って軌道を修正すべく、何らかの手を打たなければならない。

山姫がそう考えたその時だった。



「――どうやら、天狗殿の推論は外れていたようですね」



声が、した。

背後から。

自分たち以外には誰もいないはずのこの結界のなか。一条と山姫は背後に倒した式神がいることを思い出して、ふたり同時に立ち上がって一歩後退り、そして声がした方角を見据える。式神はおとなしく地面に転がっていたが、その二匹の狼の間に、両方の式神に手を添えながら、ひとりの女性が神秘的な雰囲気を漂わせてゆっくりと歩いてくる。

誰かは分からない。だけど、あちらは自分たちが何者か知っている様子だ。

「そちらの少年は、確かに“境界線上”で能力を発動させてきました。いままで、ずっと……もっとも、それは使い慣れていない能力が故。天狗殿は安全対策として、慎重に一条殿の能力を覚醒させようとしていましたが……果たしてその必要があるのやら」

くすりと、その女性は笑った。

「――そのなり、『白拍子』とお見受けするが」

まず、山姫が口を開いた。

只者ならぬ鋭い空気をまとうその女性は、静かに笑みを浮かべた。

それを、一条と山姫は肯定と受け取った。

「手荒な歓迎をお詫び申し上げましょう。何しろ、一条殿あなたが有する能力はいまだかつて書物に記され続けてきたものに類を見出すことはできませんし、それがどういった能力であるのか、その本質すら読み解くことができない。実際に能力を引き出させてそれを調べようとする方法は確かにいささか品がありませんが、これ以外に方法はありませんでした」

申し訳ありませんと、『白拍子』は頭を下げる。

「一条殿の能力に関しては、なんらかの考察がなされていたのでは?」

疑わしげに山姫は尋ねた。

妖のあいだでも畏れられている賢者『白拍子』。彼女に理解できぬものはないと言われている。博識でありながらその洞察力は驚異的なもの。確かに、一条守という未知なる存在は理解できないだろうが、実際、同胞の天狗が一条に関する合理的な推論を持っているから、この賢者も同じようになんらかの推測は行っていたのではないかと、山姫は疑問に思う。

「確かに……あなた方『天竺』と同じような結論に至りましたが、実物を見ないに限りませんし、推論といっても、ただの憶測。正確さが著しく欠けております」

当然のことですと、『白拍子』は静かに答える。

「それで、あなたは何を理解できたのですか?」

「天狗殿はどうやら、一条殿の能力に関しては、蓋が閉められている状態と考えているようですが、それが違う可能性が出てきました。それと……天狗殿が何か良からぬことを考えていることも」

――なに……?

山姫が怪訝そうな表情を浮かべる。

一条もこれには驚いて顔色を変えた。

「どういうことですか?」

「まあ……こんなところで立ち話を続けても面白くありませんから……」

つまらなげに『白拍子』はそう言うと、式神に手を置いて小さく「解」と呟く。途端に、式神の姿が霧消して小さな紙切れが二枚ひらひらと『白拍子』の手元に舞い降りる。

「茶菓子を食べながら、ゆっくりと話そうではありませんか」

静かだがどことなく危険な笑みを浮かべて、『白拍子』は静かに言った。

「――時間は、ゆっくりと流れるものですから」

こちらへ、と促す先を一条と山姫は見やる。

そこから、安倍家の三人の陰陽師たちが、慌てた様子で駆けてくるのが見えて、ようやく安堵の息を漏らす。

山姫も、疲れたと言いたげに吐息して、肩の力を抜く。

その姿を横目でそっと見て、一条は自分でも気づかない小さな笑みを口元に浮かべた。



樹海のなかにひっそりと佇む小さな尼寺に、一条と山姫は案内された。

安倍晴明と『白拍子』が並んで先頭を歩き、吉平と吉晶が一条と山姫の隣を歩いている。尼寺に向かう途中、一条たちは吉平たちから話を聞かされた。この試験に関して、『白拍子』が荒々しい乱暴なやり方で臨んだこと。晴明が制止させようとするが、『白拍子』は試験を強行。そして、自分たちはただ見ているだけしかできなかったこと。

だから、尼寺に着いたとき、一条の気分は最悪だった。

吉平だけでなく吉晶までもが一条に不機嫌丸出しの形相で、無言で睨まれてしまい、遠く離れている晴明もその余波を食らってしまう。

「――だから、一条、とにかく落ち着け」

表情を強張らせたまま、吉平は何とか一条を落ち着かせようとする。

「そうですよ、過ぎたことに執着しても何も変わりませんし、『白拍子』様もあれほど頭を下げていたではありませんか。一条殿が激怒するのは分かりますが……」

吉晶までもが恐る恐るなだめようと言葉をかける。

「――行動していない奴に言われたくないです」

一条の、冷たい、一言。

安倍家の兄弟陰陽師は、空気の温度がいきなり下がったような錯覚に囚われた。

「普通、動きますよね? 何もしないままってありえないじゃないですか。傍観決め込んで、あとになって俺たちは心配してましたよって言われても、ああそうですかって感じですよ。俺たちがあそこでどんなに苦労したか……」

「一条、おまえの気持ちも分かるが……」

「それ、分かろうとしない奴がいう台詞」

吉平の一言は、あっけなく一条に撃墜される。

重苦しくて誰もが泣き出したくなりそうな沈黙。晴明も「どうか自分に来ませんように」と言いたげな様子で遠くを見つめている。

壁際に座り込んで、一条は頭を伏せている。

先ほどの台詞も、まるで呪詛のようにものすごく毒々しい。

吉平と吉晶は、一条の正面に正座して、一条を何とかしようと苦労している。このままではまずいのだ。何しろ、ここからは『白拍子』殿との会合。重要なことが今から話されるはず。だから、一条をいまの状態で居させることはできない。

「父上も何とかしてくださいよ」

弱り果てた吉平が、父親に声を掛けるが、歯切れの悪い返事しか返ってこない。

「一条、おまえ……なんで、そんなに怒っているんだよ」

「……怒っていて悪いですか?」

冷たい返答に、吉平は言わなければよかったと猛烈に後悔した。

「いや、怒ってて悪いとか、そういう問題じゃなくて……」

「悪かったですね。どうせ俺は弱虫ですよ。何もできないし、みんなにばっか迷惑かけている。吉平も吉晶さんも、山姫も怪我してばっかだ。俺が足手まといだから、みんな、怪我してしまうんですよ……俺が、弱いから……ほんとうに、近くにいる人にばっか、迷惑かけているし……」

安倍家の陰陽師は揃って絶句した。

吉平は何を言うべきか迷ってしまった。

吉晶は瞬きした。

思わず晴明は、天を仰ぐ。

正直、いまの一条はものすごく怖い。さらに吉平に対していままで一度も使ったことのない敬語で話しているのが、ものすごく違和感がある。

だけど、こいつが怒っているのは、自分たちに対してじゃないことに、吉平はようやく気づいた。

「……おまえ、何悩んでいるんだよ」

「いろいろ、とね」

一条が吐息する。

「……ごめん、なんか、八つ当たりしちゃって」

弱々しい謝罪に、吉平は頭を下げた。

苦笑を隠すことはできない。

ほんとうに、こいつは面倒くさい奴だ。

「一条殿、まずはお茶でも飲んで落ち着いてくださいよ」

「山姫殿が怪我して、おまえが責任を感じるのは分かるが、最終的にはあの『天竺』をおまえが助けたんだぜ? 俺はそっちのほうがすごいと思うけどな」

「でも……大切な人に迷惑ばかりかけているから……」

すっごく苦しいな、と呟きながら、一条は吐息する。

「だーかーら、一条。おまえはそこまで責任を感じる必要はないって言っているだろう? 『白拍子』様は確かにものすごい方法に出たし、山姫も式神相手にちょっとは苦戦していたみたいだけど、おまえは最後の最後であいつを守ったんだろう?」

気にするなよ、と吉平は一条の髪を乱暴にぐしゃぐしゃさせた。

「――つまりは何だ、吉平殿。わたしが弱者であるといいたのか?」

冷たい声。誰の声なのかは疑うようもない。

吉平が顔を強張らせて、「しまったー」と口だけ動かす。

「山姫!」

一条が驚いて顔を上げた。

一条たちがいる和室の向こう側、障子で仕切られた向こう側のもうひとつの部屋で、山姫は『白拍子』から簡単な傷の手当てを受けていた。妖だから傷の治りがはやいと主張する山姫を、装束も乱れていますよと『白拍子』は強引に彼女を別室に引きずっていったのである。

「怪我は大丈夫なの?」

姿勢を崩して、一条が尋ねた。

「ああ、先ほども言ったと思うが、おまえのような貧弱な存在に比べて、妖は頑丈なんだよ。それほど心配するほどでもないと、『白拍子』殿にも申し上げたのだが、どうして話を聞かない人間ばかり私の周りにいるのか、大いに不満であり疑問だな」

慣れないように着替えの衣を整えながら、苦々しげな口調で山姫が言った。

すると、『白拍子』が笑顔で姿を現した。

「よいではありませんか。あなたを心配する人が、それほど近くにいるということは」

「いい迷惑だよ」

吐き捨てるように山姫が呟く。

相変わらずの、口調と性格だ。誰もがそう思った。

でも――

「よかったぁ……」

一条は、肺が空っぽになるまで息を吐き出して、小さく呟いた。安堵するように。

「――それと……おまえがさっき言っていたことだが」

安堵した一条を見やって、唐突に、山姫が話を変えた。

「丸聞こえだったぞ。恥ずかしくないのか?」

「――なッ……」

冷たい一言に、一条は自分の顔が猛烈に熱くなるのを感じた。

思わず顔を下げてしまう一条。そんな一条の様子を見て、山姫は呆れたような表情で見つめていたが、唐突に肩を小刻みに震わせて、次第に抑えきれないように声をあげて笑い始めた。

突然の笑い声に驚いて、一条は、顔を上げた。

山姫が、笑っている。

笑顔が珍しいって訳じゃない。笑顔なんて、いままでたくさん見てきている。だけど、山姫の笑顔だけは、不思議と目が離せなかった。いままで見たことない表情で、楽しそうに、ほんとうに、楽しそうに。

山姫が、いつも仏頂面をしているからだろうか。

いまのあいつの笑顔が、とてもきれいに見える。

視線を、逸らしたくないくらいに。

「山姫殿……?」

誰が彼女の名前を言ったのか分からないが、一条は、そんなことはどうでもいいと思った。

あんな顔で、山姫は笑うんだ。

その笑顔に、一条は目が話せなかった。

「なんだ、おまえたち。物珍しげな目で私を見るなよ。私だって笑うときは笑うぞ。おかしなものが、あれば、な……」

まだ小さく笑いながら、山姫が呟く。

途端に、誰もが吹き出した。

小さく、笑い出す。

「さて……そろそろ、休憩時間は終わりとしましょうか。水を差すようで大変申し訳ない気持ちなのですが……のんびりとおしゃべりをしているだけでは許されませんから」

唐突に、『白拍子』が言った。

笑いが、一気に静まる。

一条は、妖しげな笑みを浮かべる『白拍子』を見上げる。

「どういう意味ですか、『白拍子』殿」

安倍晴明が、静かに重々しく尋ねる。

「言葉どおりの意味ですよ、晴明殿。“修験落ち”だけでなく蘆屋道満、智徳法師といった『影の勢力』はいま、この京を中心に集結しつつある。この京を破壊するだけではなく……いいや、この世界そのものを破壊するためにいまこの時も暗躍していることでしょう……まあ、もっとも、彼らが何ゆえそうしているのか、そして何が狙いで、ただ単に破壊活動をしているのかは、詳細は不明ですが」

「詳しいんですね」

『白拍子』を見上げて、一条は静かに言った。

「もちろん、考えてさらに答えを導き出すのが、私の仕事ですから」

「じゃあ、教えてください。俺の能力は、ほんとうに何なのか……あなたなら答えを知っているんでしょう?」

「……ええ、もちろん」

返答に、しばらく間があった。

それを怪訝に思い、一条は首を傾げる。

「ですが、私の答えは真実に近い場所に位置するもの。あなたの能力の本質は見定めることはできませんよ。それに……あなたが知ってしまえば、あまりにも世界は変わり果ててしまいます。それでも、よろしいのですか?」

ささやくような問いかけ。どうしてか、一条は体が冷えるのを感じた。

「……どういうことですか?」

「あなたの周りにいる人間を、妖を、信頼できなくなる日が、やがては訪れるでしょう」

賢者『白拍子』が放つ驚愕の一言。

安倍家の陰陽師は、それを予言と受け取った。

誰もが、驚きのあまり目を見開いた。

「どういうことですか!」

「『白拍子』殿、あなたはいったい何を考えておられる?」

「いつからあなたは予言者の真似事でもするようになったのか、『白拍子』殿。戯言にも程があるぞ」

一条が、晴明が、山姫が、言った。

その背後で、吉平と吉晶は驚きのあまり何も話せない様子で、正座の姿勢を崩さない。

小さく吐息して、『白拍子』は首を傾げた。

「……正確にいうと、まず、あなたを信頼することができなくなり、あなたを危険な人間と捉える人と妖が大勢いるということです。何しろ、この世界の人間ではありませんから……」

「それって……」

一条が怪訝そうに首を傾げる。

その傍らで、山姫は顔を強張らせる。脳裏に蘇る、昨日の話。

そこで、晴明は彼に向けていたではないか。破壊者の資質を持つ一条守。彼に、怖れ、疑い、懸念する視線を、あの陰陽師は向けていたではないか。

この、小さな少年に。

吉平と吉晶は怪訝そうに顔を見合わせる。

「天地万物はすべて、この世界の森羅万象に組み込まれる形で存在することができる。ですが、異なる別世界から来られた一条殿は、あなたが来た世界の森羅万象に組み込まれたまま、存在することができないのにこの世界に存在している。実際、“修験落ち”や蘆屋道満などの勢力がこの世界を破壊する前に、一条殿の存在によってこの世界が崩壊するといってもよいでしょう。何しろ、すでに一条殿がかつておられた世界とこの世界の均衡がすでに崩れていますから、死者と生者の国の双方の均衡を崩すよりも、手っ取り早くこの世界を壊すことができるでしょう」

一条は凍りついた。

山姫は、多少不安げに一条の傍らに座って、彼の横顔を注視した。

「現に、崩壊の兆しは目に見える形で現れています」

賢者は重苦しく言った。

「一条殿がこの世界に来られたあの夜、星は揺れ動きました。陰陽師たちはその星の動きを読み解くことができなくなり、五年間も行方をくらましていた“修験落ち”だけでなく、蘆屋道満や智徳法師などの呪術師が京に再来。それだけで充分ではありませんか。死者を生者の国に招き入れて、双方の世界の均衡を崩し、世界の消滅を画策する『影の勢力』の主力が、いまやこの京に急速に集結しつつあるのです」

「一条殿は、これからも狙われ続けるのでしょうか?」

陰陽師、安倍晴明が尋ねた。

「狙われ続けることに間違いはありませんね。何しろ、一条殿は魂魄そのものに世界を破壊しかねないほどの莫大な力が込められている。自分たちの計画の危険要素を排除するためか、それとも一条殿を利用してかは分かりませんが、一条殿はこれからも狙われ続けることでしょう。ですから、天狗殿もあなたがひとりでも闘えるように鍛えるつもりだったのです。あなた自身の能力を、あなた自身が制御下におけるように」

『白拍子』は言葉を区切った。

一条は握った拳を、瞬きもせずに見下ろしている。

晴明、吉平、吉晶は複雑な思いで一条の背中を見つめている。傍らに座る山姫も、わずかに体を斜めにして、一条の顔色を伺うように覗き込む。

そして、山姫は『白拍子』を見上げた。

「しばらく休ませたほうがいいかと思うが……」

「ええ、そうですね」

「いや……大丈夫です。続けてください」

頷きかけた『白拍子』は、一条へと視線を向ける。

「続けるのは私としては構いません。ですが、一条殿。あなたは顔色が優れません。気分が悪いのならば、しばらく落ち着かれたほうがよいでしょう」

「いいです」

思ったより強い声で、一条は言った。

「大丈夫です。お願いです。話を、聞かせてください」

まっすぐ『白拍子』を見つめて、一条は言った。

しばらく『白拍子』は一条を不安げに見つめていたが、分かりましたと静かに頷いた。

「……代々、我が一族が継承する知識のなかに、書物に記すことが許されない知識のなかに、とある能力を使うその使い手の呼び名があります」

『白拍子』は語った。

「私の予測が正しければ、あなたはその使い手のひとりと数えることができます」

そして、彼女は口を閉ざす。

まるで、口にしてはいけない何かを口にすることを、恐れているかのように。

まるで、躊躇っているかのように。

一条には、そう見えた。

「……『白拍子』さん?」

「失礼、考え事をしておりました」

沈黙に耐え切れずに口を開いた一条に、『白拍子』は小さく笑った。

そして、口を開く。



「その使い手の名は――」



使い手の呼び名を、『白拍子』が告げようとした瞬間だった。

沈黙。『白拍子』は口を閉ざし、安倍家の陰陽師たちはわずかに身動きして、山姫は怪訝そうな面持ちになって天を仰ぐ。

かすかな妖気が感じられた。一条にも。

そして、それは次第に、急激に大きくなっていく。



刹那。

轟音が聞こえた。木々が突然、突風に吹かれて不気味にざわめき合い、吹き飛ばされた木の葉がひらひらと外を舞った。弱まるどころか風はさらに強まっていき、枯れ葉や短い小枝や土砂で、螺旋を描いていく。

爆音。衝撃が重く伝わる。

『白拍子』が使い手の呼び名を声にした途端、それは響いてきた。

思わず、誰もが腕を上げて縁側の向こう側に目を向ける。

驚きと動揺は隠せなかった。

ただひとり、『白拍子』を除いては――



「おや……来られましたか」

『白拍子』はかすかな笑みを浮かべて、静かに言った。

「予想以上に、はやかったですね」



この風を、自分は知っている。

一条は呆然と腕を上げて、縁側の向こう側、小さな庭に降り立ったひとりの妖の姿を見つめた。彼は大きくて真っ黒な翼を広げていて、衣を風に泳がせている。

これは、天狗風。

あの夕暮れ時、自分が“修験落ち”に襲われたとき、助けてくれたあいつが使っていた風。

「……千木?」

彼の名を呼んでみるが、彼は自分を見ていない。



――彼が睨み据えるのは、賢者『白拍子』だった。



「――お喋りはそこまでだ、白露姫」



声が、した。その声の主は……

妖最高位の組織、『天竺』の一角――。

天狗の千木は、怒りを隠しきれない険しい形相で、抑揚のない声で静かに言った。



「……彼に、何を話そうとしていた?」



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