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夢現(ムゲン) 三部作  作者: 橘悠馬
3/14

第一夜 万代の宮 ③

九、



見る者を呑み込んでしまいそうな、そんな星空だった。

いつも見上げていたあの夜空とは違って、風は冷たく澄んでいて、夜空には雲ひとつなく晴れ渡っている。一条は惚けた表情のまま、初めて見る満天の星空を見上げていた。小さなダイヤが無数に散りばめられたような、そんな星空を。

「……今日は、見事にすっきりした星空ですね」

傍らに立っていた晴明が口を開く。「初めてですか? この夜景を眺めるのは」

一条は、無言で頷いた。視線を、星空に釘付けのまま。

今まで見上げていた夜空に、これほどの美しさはなかった。

「この星空を見上げて、杯を酌み交わすのも風流ですなあ」思い起こすように晴明は呟き、笑みを漏らす。「失礼、あなたに杯を持たせるのはちと早すぎますか」

酒のことか。「……酒には強くないと思いますよ、俺」

「おやおや、下戸ですか」晴明は軽く笑う。

はい、と一条は相槌を打つ。

しばらくの間、ふたりは無言で星空を見上げていた。

一条はふと、視線を晴明に向けた。

「晴明さん……蘆屋道満と智徳法師っていったい誰ですか?」

この人は知っているはずだと思い、一条は問いかけた。

晴明は、星空から一条へと視線を移す。

「さっき、天狗の千木が言っていました。すでに、この京に潜入して動いているって……安倍家に縁浅からぬ陰陽師って言っていましたけど……そのふたりは敵なんですか?」

不安げな問いかけに、一条は重々しく頷いた。

「そのふたりは……“修験落ち”の味方なんですか?」

「敵のひとりと数えることはできますが、いまは“修験落ち”の味方と数えることはできません。まだ、“修験落ち”とのつながりを我々は何も見い出しておりませんから。ただし、どちらも危険な人間であることには変わりません。蘆屋道満は貪欲に力を求め続け、智徳法師は富と名誉と権力を欲しておりました」

晴明の説明に、ふたりとも、どちらも危険そうな敵だと一条ははやくも直感した。

昔に思いを馳せるように沈痛な面持ちで、晴明は語る。

「智徳法師は播磨の国で活動を続けていた民間陰陽師です。卜占や妖怪退治などを稼業としておりましたが、人々に高額な料金を請求しておりました。権力欲に溺れたのでしょう。智徳法師は禁術などに手を出すようにもなりました。危険な陰陽師ですね」

「それで、蘆屋道満は?」一条の問いかけに、答えが返ってくるまでにかなりの間があった。

「……蘆屋道満は、私と同じ環境で修行した陰陽師。陰陽寮の生徒だったものです。友人、と言ってもいいくらいの仲でしたね」

「友人って……え? 蘆屋道満と、晴明さんが?」

一条は驚愕した。

先ほど、天狗の千木は、その蘆屋道満が敵であるとほのめかすような発言をしていた。

かつての友人が、いまや敵となっているのか?

「何があったんですか?」

「蘆屋道満は、幼きころに賊に親を殺されておりました。大事な、人たちを。しばらくして、陰陽師としての才能を買われて、陰陽寮で蘆屋道満は私とほとんど同じ時期に修行を開始しましたが、周りを驚かせるほどの優秀な陰陽生でしたよ。当時の最高位の陰陽師であり同時に私の師匠でもある賀茂忠行様も、彼には一目置いていました。熱心に知識を求める姿は、周りから高く評価されておりました」

当時のことを思い起こすように、腕を組んで晴明は遠くを眺める。

視線を、月夜を写す池の水面に向けて。

まるで、そこにその当時の光景が写っているかのように、それを見ようと、懐かしむように。

「しかし……誰一人気づきませんでした。幼きころの蘆屋道満が、間違って、自分にかけた呪いに苦しみ、ただひたすらに強くなろうと、貪欲に力を求め続けていたことなど」

苦々しげな、晴明の呟き。

一条は、晴明を見上げる。聡明さを物語る横顔。それが、今、苦しむように歪んでいる。

陰が、落ちている。

「蘆屋道満は幼き頃に、大事な人の死を目前にして、己の無力さを呪った。そして、初めは復讐をするがためだけに修業を行っていたのです。ただひたすらに力を追い求めるうちに、蘆屋道満は奈落に落ちてしまいました。自分にかけてしまった、ただ強くなろうという、ただそれだけという呪いによって」

晴明は沈黙する。視線を、静かに哀しげに、池の水面に注いだまま。

一条も、晴明と同じ方向に視線を向ける。

夜風が不意に吹き抜けて、ひとつふたつと木の葉が夜景に踊る。ひらりひらりと落ちながら、木の葉は水面に触れると、小さな波紋を立てた。

まるで、一条の心を写すように。

沈黙。

どちらも、重苦しく口を閉ざしている。

「どう、するんですか? これから……」

「蘆屋道満と智徳法師が良からぬ謀を巡らせているのなら、当然、ひとりの陰陽師として私はそれを阻まなければなりません。何としてでも」

哀しいまでに決意を固めた、抑揚のない一声。

――尊いものとは、いったい何だ……?

ふと、蘇る。鞍馬天狗の千木のことばが……尊ばれなければならないものは、この世界で、ほんとうに尊ばれているのだろうか。一条は、疑問に思わざるを得なかった。

かつて友人同士であった安倍晴明と蘆屋道満。ふたりの過去に何があったのか。

一条には、知る由も術もない。

いまやそのふたりが、友達同士が闘わなければならない状況など、一条には理解することができない。晴明がどんな気持ちで今までの時間を過ごしてきたのか、そして、今晴明がどんな気持ちでこの事態に臨もうとしているのか。

どんな、気持ちなのか。

晴明は、複雑な表情で虚空に視線をさ迷わせている。

「……それでは、そろそろ中へ入りましょうか、一条殿」唐突に静かな声でそう言うと、晴明は屋敷へと歩き始める。

一条は、あとに続くことができなかった。立ち止まったまま、下唇を噛み締める。

そして、唐突に、

「あのっ……晴明さん!」一条は、振り返って陰陽師の名前を呼ぶ。

「はい、何でしょうか?」

振り返る陰陽師、安倍晴明。その表情には、先ほどまでの複雑な表情は微塵も残っていない。あるのは、優しい笑顔。

だけど、今の一条には、それが無理してつくったようなものにしか見えない。

相手を気遣っている笑みのようでもありながら、それはもう、何も言わないでくれと静かに密かに頼んでいる、弱々しい笑みのよう。

口を動かしても、漏れるのはかすれた音と息だけ。声を出すのに、苦労してしまった。

「……おやすみなさい」

一条は、それだけしか言えず、頭を下げた。ほかに、何も言えなかったから。

「……おやすみなさい、一条殿」

少し遅れて、晴明が静かに言った。

ゆっくりと遠ざかっていく晴明の足音。一条が頭を上げても、晴明は一度も振り返らなかった。

その背中が、一条には寂しげに弱々しげに見える。

――おやすみなさい、それだけしか、言えなかった。

ほかに掛けることばが見つからなくて。

今さらにして、一条は残酷な事実を思い知った。誰かの力になりたくても、誰かの役に立ちたくても、何も言えずに何も出来ずに、自分は何もできない無力でちっぽけな存在だと、そんなことにやっと気づくなんて。

慰めすら、自分はできない。何も、知らないから。

そう、何も、知ろうとしていなかったから。

それだけで、いいと、そんな甘っちょろい考えを持っていたから。

だから、後悔してしまうんだ。今までの自分に、動き出そうとしなかった自分に。



「……やっぱり、知ることから始めないといけないんだ」



知ることさえしなかった少年は、ひとり呟く。

それはまるで、変わることを決意したかのように。そしてやっと、いままで見つけ出せなかった自分自身を、見つけ出したように。



――ムゲンに来てからの、長い一日がようやく終わりつつあった。



その夜――夢を見た。



“修験落ち”が多くの妖怪を従えて一条を捕らえようとする夢を。

鬼気迫る“修験落ち”の面。手をゆっくりと伸ばし、確実に一条を捕らえようとする。

獲物に迫る名前も知らない多くの妖怪。

逃げ惑う一条は、地面が大きく口を開いたのに気づいた。

呑み込まれる一条と妖怪の数々。奈落の淵に立って、“修験落ち”は冷たく見下ろす。

一陣の風が吹きぬけて、顔面を覆い隠す、三つ目が描かれた布がめくれる。

首があるはずの所には、首はなくて――



――ただ、冷たい笑い声だけが、空しく聞こえる。



一条守はゆっくりと眼を開けた。

頭痛がひどい。ぐっすりと眠れたはずなのに眠れていないような、奇妙な矛盾した感覚がある。寝返りを打つと、差し込む朝日に気づいた。光が眩しくて眼を細めると、夜空が白く染まり始めているのに気づいた。

夜明けだ。昨日、きちんと閉じていなかった扉から、部屋に入ってくるのは光だけではない。

ひんやりとした冷たい空気もだ。

起き上がり、ひんやりとしている床に裸足を触れると身震いしてしまった。

薄い毛布を肩に掛けたまま、一条は縁側に出て外を眺める。

外はまだ薄暗いが、東の山は真っ赤に燃えていた。

夜明けって、こんなに寒かったんだな。一条は両手に息を吐きかけながら、そう思った。複雑な気持ちと複雑な面持ちで、一条は夜明けの空を見上げた。

「もう……」

奇妙な気持ちで、一条は、呟いた。

――ムゲンに来てから、もう二日も経ったんだな……



まさか、“修験落ち”がこれほど早く接触するとは。

衝撃と驚きが覚めやらぬまま、晴明は昨晩から抱き続けそして頭から離れることがない疑問に、頭を痛めていた。“修験落ち”の再接触はあまりにも自分自身が考えていた以上に速すぎた。いささか早計のように映るが、その行動に焦りのようなものも含まれているように見られる。

それにしても、一条殿には驚かされるばかりだ。

この世界に来て間もないというのに、はやくも妖に臆する事無く距離を縮めるとは。

そして、彼自身が有する奇妙な能力――その、ひとつの予測でありながら解答としては最も真実に近い、天狗の考え方にも。

一条殿は、本来、この世界に存在していないはずの人間。

それなのに、この世界に一条殿が生活しているということは、一条殿がこの世界の森羅万象のなかに確かに存在しているのだが、“この世界に存在していないはずの人間”であるが故に、森羅万象のなかでひとつの個体として存在するのではなく、人間として存在しているという事実が森羅万象には通用しない。

本来、この世界に存在していないはずなのに存在しているが故に、一条守という存在は、森羅万象のなかに存在する固体ではなく、森羅万象と離れた距離にある固体。

だからこそ、通常の人間が森羅万象に影響を及ぼすのと違って、一条守は、その特殊な能力によって森羅万象自体に波紋を広げる。

何もない何も仕掛けられていない場所から、突如として鎖を出現させる。

あの能力も、そうだ。

「……我々が考えている以上に、一条殿は危険な存在なのかもしれない」

あらゆる懸念を込めて、晴明は縁側から庭の景色を眺めてひとり呟いた。

夜明けを告げ知らせる白く晴れ渡った大空を、ひとり晴明は複雑な感情の入り混じった表情で見上げる。

その顔に滲むのは、不安、戸惑い、懸念。

常人が見れば、いつも通りの夜明けと見上げて思うだろう。しかし、晴明にはいつもと違う空だと気づいていた。

眼には見えないが、まるで朝霧のようにはかなくて見えにくくて、そして注意しなければつい見逃してしまいそうな、そんな暗い空気が漂っている。

いまだ晴れぬ霧のように。



――敵は、“修験落ち”だけではない。



その事実が、重々しく迫る。

長年、姿を消していてもはやその名を聞くことはないと、いつしかそう思うようになっていた。しかし、あのふたりの名を昨日、ふたたびこの耳に捉えることになろうとは。

蘆屋道満と智徳法師。欲に溺れていった、ふたりの陰陽師。

長年姿をくらましていたのは、いったい何故か。

そして、どうして今の時期になって表舞台にふたたびその名と姿を現したのか。

すでに、この京に潜入していると聞く。ならば――ふたりの目的は?

何故この時期になって表舞台に舞い戻り、そして何をしようと言うのだろうか?

「悪名高き“修験落ち”に力に貪欲な蘆屋道満、富と名誉と権力の欲望に沈んだ智徳法師。あまりにも敵が多すぎますね。そして、分からないことだらけです」

ふと、声がした。

顔を上げれば、擦り傷や打撲傷だらけの吉平が、縁側をこちらへと歩いてくるところだった。

「吉平、もう起きても大丈夫なのか?」晴明は静かに尋ねた。

「ええ、この程度は大したことではありませんが、それより問題は吉晶ですね。妖気に当たられたのかそれとも、頭の打ち所が悪かったのか、起き上がることも難しいようです。さっき、様子見してきました」

長男は、父親の傍らに立った。

「最悪な事態ですね。文にもありましたように、すでに内裏の内壁に“修験落ち”とつながりのある人間がいるようです。中枢にまで敵は潜り込んでいます。参っちゃうような状況ですよ、どこに敵が潜んでいるか分からないなんて……ほんと、華の京が地獄に見えてきますよ」

「そんな腑抜けたことを言っておるから、おまえは精進せんのじゃ」

息子の弱気な発言に、晴明は溜息を吐いた。

「敵さんの目的は、いったい何なんでしょうね?」唐突に、吉平が呟いた。

「ただの権力の掌握とは思えない。まあもっとも、智徳法師が何の進歩も成長もしていなければ、彼の目的は相も変わらないのでしょうが……気になるのは、蘆屋道満ですね。父上、彼は間違いなく死んだのではなかったのですか?」

その問いかけには、奇妙な響きがあった。

それに気づいているが、晴明はあえて言及せずに吉平に顔を向けずに、静かに答えた。

「確かに死んだ。それを、私はこの眼でしかと見届けた。あれの死を」

「となると、蘆屋道満は間違いなく死者であったことになる。そしてもし第三者に蘇生されたとすれば、別の者も裏で動いているようですね。“修験落ち”だけでなく」

表情を険しくして、晴明は静かに言った。「――警戒を、怠るでないぞ」

ただそれだけ、短く。けれど、吉平にはその意味をちゃんと理解していた。

それほどまでに、事態が切迫していると、この大陰陽師が考えているということに。

「分かっているよ、親父」吉平は、そう答えて背を向ける。

「……吉平」

自室に引き返そうとする長男に、晴明は声を振り絞るように呼びかけた。

吉平が、振り返る。

「――すまんが、一条殿に朝食を済ませ次第、私の部屋に来るようにと、」

ことばが、途切れる。そして、絞り出されたような一言。

――伝えてくれ、

晴明は何故か苦しげに言った。

父親の奇妙な態度に不審に思いながらも、何も言わないほうが懸命だと考えて無言で吉平は頷き、そして一条の部屋へと向かう。

晴明はふたたび空を見上げる。

昨日、平穏に日々が過ぎますようにという願いは、あっけなく崩された。

予想以上の速さの“修験落ち”の襲来。

あたかもそれは、平穏など、どこにもないと告げ知らせるように。

願うこと祈ること望むことが、もはや無意味なものに思えてならないが、晴明はどうしても祈らずに望まずに、そして、願わずにはいられなかった。



――どうか、平穏な日々が訪れますように、



ひとり、弱々しく。切なげに。



「――おはようさん、一条、もう起きていたのか」

吉平は一条の部屋に顔を覗かせた。

一条はすでに起床していて、ご丁寧に寝具を部屋の隅に畳んで置いている。すでに朝食は母が用意していったようで、一条はいま食事中だった。

そしてその一条は、吉平を迷惑そうな視線で見つめていた。

「……おまえは本当に信じられないほどケロッとしているよな。昨日、みっともなく鵺にやられて倒れていたくせに」

吉平の快い挨拶に対して、開口一番容赦なく一条はきついことばを放つ。

昨日思い切り負傷した相手を気遣い心配する響きはまったく聞こえない。

――やっぱり、こいつ、可愛くない……

沈黙して溜息を吐きながら、面倒なお荷物を眺める面持ちと心境で、吉平は一条を見やった。

昨日のままの衣服に汚れや傷などの乱れはまったくない。自分たちに比べたらあの夕暮れは比較的安全な場所にいたようだし、あの『天竺』の名を使う相当な妖気を放つ鞍馬天狗と水虎にはちゃんと助けられていたようだ。

一安心して吐息する。

「なんだよ」吉平を凝視して一条が呟く。

「なんでもないよ」柔らかに吉平は答えた。

一条はお椀を持ったまま動かない。「……人の顔を何じろじろ見ているんだよ、気色悪い」

「……あのですね、一条さん。俺がどれだけおまえに嫌われているかはもう身に染みるほど分かったからさ、本気で頼みますからそのような態度は止めていただけないでしょうか」

吉平は本気で懇願した。

いままで誰に対しても使ったことのないような低姿勢と口調で。吉晶や親父が見たら何て言うだろうかと考えると、気分が思い切り沈んでもおかしくない、と吉平は思っている。

沈黙。一条が自分を凝視しているのが分かる。視線が、どういう訳か痛い。

「……悪かったな」

吉平は驚いて瞬きした。

――悪かったな?

よもやこいつの口から謝罪が聞けようとは。

「迷惑かけっぱだよな、俺って」一条守は肩を落として呟いた。表情には、疲労に似た落胆の表情だ。「“修験落ち”に初めて狙われた夜も、昨日の夕方も……俺は守られっぱだった。なんも出来なくて、ふたりには迷惑かけたし……ごめん」

最後の、小さな子供のような、謝罪。

見るからに細そうな肩を落として、一条は視線を下に向けている。

見るからに、弱気になって涙を流さないように、必死で堪えている、ほんとうに小さな少年だった。吉平はそんな少年の姿を見て、笑みをこぼした。

「……なんだよ、気持ち悪い」

減らず口はそのままか、と内心呟きながら、吉平は声を上げて笑った。「いやいや、最初会ったときから、おまえ、なんか自分を妙に抑えているところがあるよなって、そう思っていたからさ。激変ぶりにちょっと戸惑ったのさ」

「……は?」一条が本気で訳が分からず首をかしげた。

「おまえは、なんていうかな……落ち着きすぎているって感じだったな」吉平が壁に背中を預けて言った。「自分がいた元の場所とは別の場所にいきなりやって来たんだぜ。普通は、戸惑うはずだろう。そして、混乱して必ず恐怖する。人間誰でも落ち着いていられるか、いきなり訳の分からないことになっているんだぞ。取り乱すのが、当たり前なんだよ……だけど、おまえは違った。見ているほうが不安になるくらいに、おまえは落ち着いていた……不自然に」

――不自然、か……

一条は視線をずらした。確かに、他人から見れば自分は不自然に見えるだろうな。

「おまえ、人間観察が得意なんだな」

「まあ、な」一条の初めてまともな相槌に気を良くしたのか、吉平は満足げにニヤリと笑った。「俺はこれでも眼が冴えているほうなんだよ……とにかく、おまえは不自然だったな。なんか、こう……自分自身っていう形を持っていないみたいに」

自分自身という形を持っていない、ということばに、一条は引っかかった。

なんだろうか、胸のなかを重苦しく感じる。

「……体の中身が空っぽ、ってことか?」

「分かりやすく言えばそうだな。そんな感じだ」吉平が頷いた。「とにかく、周りに無頓着っていうか無関心っていうか……とにかく、俺の眼から見れば、いままで見てきたどんな妖怪よりも異様に写るぜ」

「そう、か」一条は、短く相槌を打って、箸とお椀を置いた。

こんなに近くの人間から、そんな風に見られていたと気づくと、気分が悪くなる。

……ものすごく、ここから逃げ出したい、そんな気持ちになってしまう。

「とりあえず、何か悩み事とかあるんならちゃんと言えよ。おまえ独りにしていたら、すっごく危なそうだからな。空っぽって感じて、何も持っていなくて、すぐに消えてしまいそうな感じで……おい、一条?」

吉平は、一条の表情が変わっていることに気づいた。哀しげな表情だが、ほとんど無表情と言っていい位の、いままで吉平が見たことのない表情を、一条は浮かべていた。

「どうした?」

「……おまえに、」

ことばが、途切れる。

一条は、今にも泣き出しそうな今にも怒り出しそうな小さな声で、震えながら呟いた。

「……おまえに、……おまえなんかに何が分かるんだよ」

吉平は、瞬きする。どうやら、失言だったようだ。「すまん、何か気に障るようなことでも言ったか?」

多少居心地悪く思いながら、吉平は気遣うように言った。

「――別に」

短い、一言。明らかな拒絶。

どうやら触れてはいけないところに触れてしまったか、と吉平は考えて押し黙った。さすがに、今日は調子に乗って喋りすぎたか。

「すまん」

「……吉晶さんは、大丈夫なのか?」一条が、話題を変えた。

「安心しろ、そこまで重症じゃない。あれは本来、動き回っての妖退治を専門にやっているんじゃなくて、本業の占いとか祓いのほうが得意なんだよ。だから、実戦には向いていない。陰陽寮とかの役所仕事が一番向いているからな……さすがに、昨夕は体に無理を強いたらしい。妖の瘴気で体をやられたらしい」

「……ほんとうに、大丈夫なのか?」心底心配したように一条が呟く。

「大丈夫だって、さすがに朝は起きにくいだろうから、無理して起きずに横になっとけってさっき言っておいた。昼ぐらいになれば回復しているさ」

「おまえは、実戦系だから何ともないのか?」

吉平を観察していた一条が、聞いていた。

「まあな。鵺みたいな大妖怪は何度か夜間の見回りで退けたことがあるから、こっちは慣れているんだよ」

「へー」小さく驚いたようにそう呟きながら、一条は礼儀正しくご馳走様と呟いた。「おまえが言う実戦ってさ、いったい何が必要なの?」

一条の問いかけに、吉平は眉根を寄せて首を傾げた。

「なんだ? おまえ、そういうのに興味が出てきたのか?」

「いや……そういう訳じゃないよ。自分の身は自分で守れるように、なっておきたいんだよ。いつまでも人に頼っているようなガキじゃないんだからな」

「へえ、前向きな考え方だな」

「褒めてくれても全然嬉しくないから。それとうるさい」

吉平の発言を、一条はぴしゃりと弾く。

「……ほんとうに可愛くないな……まあいいや、俺が使う術とかは、ほとんど符呪とかを遣っているな」

「フジュ?」

吉平は懐から和紙のような長方形の紙を取り出した。それに、読みにくい漢字のようなものが書かれている。

「ことばっていうのには力があるんだ。おまえくらいも聞いたことはあるだろう? 言霊って奴を。人間は誰でも言霊を持っている。意識して使えば、かなり広い範囲で使える……おまえも、その他の大勢の人間が、無意識のうちに使っているのもあるよ」

「たとえば?」一条は首を傾げた。

乗ってきたな。「おまえが俺の前を歩いているとしようか。俺は走りながらおまえに追いつこうとするが、伝えなければならないことがある。そして、俺は大声でおまえの名前を呼ぶ。そうしたら、一条、おまえはどういう行動をとる?」

「名前呼ばれたんだから、普通、振り返るだろう。誰だって」一条は戸惑いながら答えた。

「正解。気づいていないかもしれないが、この時点で人は誰かの名前を呼ぶときに強い言霊を使っていて、立派なシュを遣っている。そして名前を呼ばれた人間は、シュをかけられた」

――シュ? 一条は首を傾げた。

「シュっていうのは、呪いのことだよ。呪と一文字を書いてシュを読むんだ。人を恨むようなものじゃなくて、呪詛とかに比べたらはるかに弱いが、名前を呼ばれた人が立ち止まるような、誰かの行動を一定範囲に縛ることができる。それが、呪、だ」

意外に分かりやすい説明だなと、内心の感想を抱きながら一条は頷いた。

分かった、と意思表示する。そして吉平は説明を続ける。

「名前とかそういう単語ひとつひとつに呪力ってのがこもっている。誰かに名前を呼ばれたら立ち止まるし、例えば怒られたときとかは気分が沈むだろう? あの時は、呪の影響で体に効果が現れているってことだ」

「なるほど……」

「ただし、注意しなければならないのは、こういう言霊の力はよく悪い方向に使われているんだ。ある時は無意識に、ある時は意識的に……たとえば、こうすればよくない結果が起きるとか、なんていうか暗いことばかり言っていると、そういう結果を言霊の力が招きかねないんだ。言霊はいい方面で効果を発揮するときもあれば、悪い方面で思わぬ力を見せつける。自分が言っていることにはちゃんと注意するんだぞ」

「ん……」

初めて聞く話なのに、どういう訳かすんなりと理解できる。

ことばが、相手に与える影響があまりにも大きすぎたんだな。この時代、そしてこの世界――ムゲンでは。ここの人たちは、ことばに最大限の注意を払って生きていたんだ。悪しき結果を招き寄せないために。

「この世で最も呪力の強い言霊が、九字護身法だな」吉平が言った。

晴明さんが昨夕に言っていたことだな、と思い一条は顔を上げる。

「元々は道家ってところが導入したんだ。日ノ本でも、陰陽師だけでなく真言宗なんかの仏教でも広く用いられている。一般的に広く使われているのが、臨兵闘者皆陣列在前だな。臨める兵闘う者、皆陣列ねて前に在り。攻撃系の呪文だ」

「おまえがよく遣っていそうなやつだよな」

「そ。で、吉晶が主に使っているのは、おもに病魔とかの禍を祓う種類のものだ。主に用いるのが令百由旬内、無諸衰患――これをこの京で妖退治に用いることができる人間の数はあまりにも少なくて、使える者は相当の使い手として周りから怖れられる」

一条は沈黙した。つまり、兄は一般的に広く使われているようなものしか使えなくて、難しいのを使える弟が相当の使い手ってことだから。

それはひょっとして……「なあ、吉平。おまえ、弟に比べたら馬鹿なのか?」

「……純粋な好奇心による質問か。それはそれでかなりきついな」

質問に答えず、沈んだ笑みを浮かべて吉平が呟いた。「馬鹿はないだろ、馬鹿は。まあ実際、吉晶は俺に比べたら相当な使い手だ。あいつにいろいろ教えてもらったらどうだ? 俺の眼に狂いがなければ、おまえは九字護身法程度、難なく使えるはずだ」

「不安だな。吉晶さんと晴明さんに一応、検討してもらう」

「……俺の言うことはそれほどまでに信頼できないってか」

溜息を吐きながら、苦笑混じりに吉平は呟いた。「おいおい……おまえ、どんどん印象が悪すぎる餓鬼になっているぜ」

「悪かったな」一条は視線を崩しながら、ふと思い出した。

昨夕の、あの惨劇。

鴨川の市で“修験落ち”に襲撃された後、あそこはどうなっているんだろうか。

「なあ、昨日の夕方だけどさ……」

「ん? ああ、鴨川の市のことか? いまは検非違使が動いている。陰陽寮のほうからも何人か人員が派遣されていて、事態を収束しているよ。おおかた陰陽寮は今頃、天地が引っくり返ったみたいに大騒ぎしているだろうよ。何しろ、“修験落ち”の強襲だ。ほんと、あれはびびったぜ」

ああ、それと――と吉平は続けた。

「なんだ?」

「親父が、おまえを呼んでいる。なんか話があるってよ」

用件を告げると、吉平は訝しげな表情を浮かべた。

それは一条が、何かを怖れるような何かを哀しむような奇妙な表情を浮かべたからだ。



十、



沈黙。一条も吉平も、口を閉ざしている。一条は苦しげな表情で床に視線を落とし、吉平は怪訝そうにしかし心配そうに一条を見やる。

「……どうか、したのか?」

吉平はゆっくりと問いかけた。

どうにも、様子がおかしい。

用件を言った途端、一条に劇的な変化が訪れた。いままで抑えていたものを抑えきれなくなっている、といったところか。昨晩、いったい何が起きたのか自分が意識を失っていたから、詳細は分からないが、親父と何かあったのだろうか。

「親父に、何かされたのか?」

正直、そんな可能性はないだろうと思いながら、吉平は懸念を口にする。

「いや、晴明さんがって訳じゃないし……あの人は、ほんとに悪くないから」

慌てて一条の本音らしい響きを持つ言い訳に、吉平は首を傾げた。

となると、問題はあの『天竺』の一角と名乗った大妖怪の鞍馬天狗と水虎だろうか。昨晩、ただ一条たちを屋敷にご丁寧に送り届けただけで帰るとは思えない。一悶着あったのではあるまい。帰り際に、あの天狗が途方もない一言でも放ったのか。

「えっと、千木と藍染さんがどうとか……っていう問題じゃないんだ」

吉平の考えていることを簡単に読み取った一条は、慌てて手を振った。

「……ただ、昨日、蘆屋道満と智徳法師のことを、晴明さんに聞いたんだ」

ああ、なるほど。一条の一言で、吉平は理解した。

どうやら父、晴明にあの事を聞いて、聞かなければ良かったと後悔しているようだと、吉平は容易に推測する。

「聞いたのか」確認でもなく非難でもなく、吉平は相槌を打った。

「ん……天狗の千木が、蘆屋道満や智徳法師もこの京で動いているって言ったからさ。最初は誰か分からなかったし、晴明さんは誰だか知っているみたいだったから……それで、質問したら……なんていうか、聞かなきゃ良かったのかなって……なんか思っちまってさ」

「でも、聞いちまったんだろう」

そんなことで悩んでいたんじゃないだろうなと思いながらその予感が的中して、吉平は呆れ半分で言った。今さら後悔していったいどうするのか。率直なところ、そう怒鳴りたいのだが、吉平は、それはいかんと自分を抑えていた。

「……その事聞いちゃったから、なんか晴明さんと顔を合わせるのが、ちょっと……」

まあ、分からないでもない。

欲望の塊のような陰陽師である智徳法師は置いておいて、かつて父、晴明と交友関係にあった蘆屋道満がいまや敵側の人間であるなど、裏切りなどがまるでないようなそんな世界にいた一条にとっては、衝撃が大きすぎるのだろう。

ただの険悪な仲という関係ではなく、もはや、晴明と道満におけるそれは、殺し合いであるのだから。

吉平は面倒くさげに溜息を吐いた。

自分も、かつてはそんなことをやったことがあった。だらか、幼い頃の自分を見ているようで、なんだか笑い出したくなってくる。

笑いを必死に堪えて、吉平は静かに言った。「……知らなきゃよかったって後悔するときもあれば、知ってよかったと安心できるときがあるんだよ、絶対にな……」

「は?」きょとんとした顔で一条が呟いた。

「自分のことだけじゃなくて他人のこととかで、相手が聞かれたくないようなことを聞いてしまい、その秘密とかを知ったら、何もかも変わっちまうだろう。少なくとも、何も知らなかった自分自身には戻れない。だけど、一条、おまえはそこで終わっちまっていいのか?」

一条は沈黙して傾聴している。続けろと、表情が言っているように見える。

「ほんと、人間ってのは面倒極まりない厄介な生き物なんだよな。どうしようもないことに悩んだり、ちっぽけなことに苦しんだりする。周りの人間に話せば、少しは重荷は降りるだろうに。それなのに、聞かれたくないとか知られたくないと一心で、周りに気づかれないように、苦しいのに普段どおりに振舞う馬鹿がいる。一条、周りの人間が傷ついているの、おまえは分かるか?」

事実を淡々と述べるように、馬鹿だのしゃべっている吉平。

だけど、ほんとうに愚弄しているようには見えない。呆れたような、そんな響き。

そして、吉平は問いかける。その問いかけに、一条は首を横に振った。

「そ、分かるはずがない。見ただけでこいつが苦しんでいるとか、悩んでいるとか。そいつが独りぼっちだとか。分かる訳がない。何も話していないからな……だけど、何か知っていると、知っているやつは動けるだろう? そいつのために」

「……晴明さん、何かまだ悩んでいるのかな?」

「自分で、動いてみれよ」

「……ところで、」胡散臭げに一条は吉平を見やった。「なんで、おまえはそんなに楽しそうな笑顔なんだ?」

「へ? ああ、やっぱり笑顔になってたか?」

吉平は顔を下に向けて肩を震わせた。

「いやあ、俺もそういうことついうっかりやっちまったことがあってさ。ご本人に思い切り説教されたことがあるんだよな。あれが懐かしくてさ、あの頃の自分がすんげー馬鹿だったからさ、なんか当時の自分を見ているようで気分がおかしいんだよ」

「……はい?」

侮辱されたように感じている一条は、それだけしか言わなかった。

つまりは、あれか。俺たちは似た者同士だったんですよって、そう言いたかった訳か、こいつは。

生きていたなかで最上級の侮辱としか思えない。

吉平は半ば懐かしげな半ば面白げな表情で、過去話を延々と語っている。どうにも、事情を聞いてしまった本人とやらは、晴明さんではないみたいだが、ほかの人にそれほどの迷惑をかけていたことになるのではないかと、一条は思った。

吐息して一条は顔を上げた。「……はやく晴明さんのところへ行こうぜ」



ふたりは縁側に出た。吉平は先頭を歩きながら、振り返りもせずに尋ねる。

「昨日、『天竺』の妖たち、何か話していったのか?」

「話したよ」

「何を聞いたんだ?」

「……まあ、いろいろと」

なんとか会話を保とうと努力する吉平の意図を見抜いているのか、それとも会話自体に興味がないのかどっちか分からないが、とにかく一条は無関心な様子で外を眺めている。

放心、しているのだろうか。

一条を観察して吉平は首を捻った。いいや、すでに重傷、なのだろうか。

頭痛がしたような気がして、吉平は頭に手をやった。

「うぇ、ん、うう、ぅ、ん」

子供の、泣き声が聞こえた。

吉平と一条は立ち止まって縁側を見やった。男の子か女の子か分からない小さな子供が、ボロボロの風体で歩いてくる。怪我をしているようで、体中が擦り傷だらけだった。泣き声を抑えようと、両手で顔を抑えながら、小さな嗚咽をもらしながら、歩いてくる。

一条の体が、自然に動いた。駆け寄って目線を同じくらいの高さに膝をつく。

「どうしたの? 何かあったの?」

――ああいうことには素早く動くんだな……

一条の動きを見ていた吉平は、首を傾げた。ほんとうに、分からない奴だ。泣いているのが小さな子供だから、心配しているのか……それにしても、何故、あんな子供がここに?

吉平は、ある方向を見やった。一瞬、怪訝そうな表情を浮かべて、ふたたび子供を見やる。

そして、漂う奇妙な空気に気づいて、驚きで眼を見開く。

一条は子供の頭を撫でていた。

「お兄ィちゃん……助けて」

小さな子供は、苦しげに言った。哀しそうな表情で、一条を見上げる。

「何かあったの?」

一条はふたたび、そう問いかけた。

「ぼく……ぼく……」

子供は、零れる涙を抑えきれずに、聞き取りにくい声で言う。

「――ッ、一条!」

吉平の叫び声が、唐突に聞こえた。

「扉は閉じられたままだ!」

一瞬、時間が止まったように感じられた。

扉は閉じられたまま――?

その叫び声を聞いて、立ち上がった一条は門扉の方角へと眼をやる。確かに、門扉は開かれた形跡はない。この子ひとりの腕力で開くものには見えない。

この子は唐突に庭に現れた。

扉は開かれたいないはずなのに、入れないはずなのに、何故、この子はここにいる――?

そのことに、今更ながらに一条は気づく。

――まさか、この子……



妖、なのか――そう思った途端だった。



「――ぼく、化け物にされちゃった」



唐突の不気味な声に、一条は視線を落とした。先ほどまでとは、まるで声音が違う。

一条は、子供を見下ろす。



小さな子供が見上げる顔は、顔が半分だけ、腐ったように崩れ落ちていた。



鵺は、今まで見たことがないほどキテレツ極まりない化け物だった。

人体実験の最果てに生み出された、「失敗作」を思わせるような、あまりにも歪な生き物。自然界に生息していること事態が不自然な、異形の化け物。

だけど、少なくとも、生きているということだけは分かった。

たとえ、どれほど醜くても、どれほど嫌われていても、“修験落ち”の人形のように動かされていても。

生きている、ということだけは、はっきりと分かる生き物だった。



――ならば、

  目の前にいるのは、何だ。



異形であることは分かる。ただ分かることは、明らかに、この世界の生き物でないこと。

そして――生きていないということ。『これ』からは、まったく、生き物らしさがなくて、そして生気が感じられない。



「――なんだ、あれは……」

縁側に驚愕と恐怖と悪寒で凍り付いている吉平は、やっとのことで声を絞り出す。

眼を離すことができない。



そして安倍晴明は、自室にて唐突に顔を上げる。

「なんじゃ……この気配は――」

この屋敷で間違いなく広がっていく、禍々しい霊力とも妖力とも分からぬ「気」の波動に戸惑い、腰を上げる。そして、縁側へと向かう。

何やら、不穏な気配が漂っている。



確実に、一定の速度で。

そして、不気味な音と奇妙な振動を広げていきながら、それは変化を遂げた。

顔の右半分だけが腐敗した死体のように、音もなくゆっくりと崩れ落ちていく。左目だけはいまもなお涙を流しながら、一条を空しく冷たく沈黙して見つめている。喘ぐような声だけが、漏れる。そして、崩れ落ちた顔の右半分が、まるで空洞のように空っぽになっていて、黒くて見えない体の内側から、今まで聞いたことのない音が見たことがないものを吐き出していった。

まるで、人や生き物とも判別がつかないような、まるで鵺のように、つぎはぎだらけの死体が吐き出されていき、形を大きくしていきながらゆらゆらと左右に危なっかしげに揺れる。

化け物。ただ、それだけは分かる。

――それ以外に分かるのは、それが、この世界にいるはずのない化け物だってこと。

「なんだよ……これ」

一条は、金縛りにあったかのように固まり、名前もつけられない異形の有様を凝視する。

その視線に、恐怖と困惑を込めて。

「――お兄ィちゃぁん……」

ことばが、聞こえた。

顔を上げれば、かろうじて残っているあの小さな子供の左半分の顔が、必死に口を動かして声を出そうとしている。

だけど口が左半分しかないせいか、

ことばは、あまりにも歪に強く激しく響く、一条の体の内側を、ぐちゃぐちゃにするように。

「た――スゥ――け、て」

辛うじて発せられた、助けを求める小さな声。

だけど、異形の化け物を前にして、そして、自分が無防備であることに気づき、名前もつけられない異形に食い殺される恐怖が大きく膨らみ、助けを求められても、

一条は、

「――ぁぁあああああああああああああああ!」



恐怖からあげた、意味不明な叫び声を上げながら、助けを求められても恐怖して、逃げた。



「クソッ!」

一条の叫び声にようやく事態に気づいて、恐怖して驚愕して固まっていた自分を呪いながら、悪態を吐き捨てた吉平は素早く縁側から飛び降りた。そして、化け物の背後にすばやく駆け出す。懐から和紙で作られた符呪を取り出しながら、吉平は逃げた獲物を狙って動き始めた化け物に向かってすばやく言霊を発する。

「――臨兵闘者、皆陣列在前!」

霊力が、爆発する。

常人には眼に捉えることができない霊力が、様々な武器――剣、槍、矢に形作られて標的に照準を合わせる。そして、間髪入れず一斉に放たれた。

雪崩の勢いで押し寄せる霊力の奔流は、攻撃系の呪文は見事に化け物に命中する。

だが、しかし。

「吉平、止めろ!」

晴明が縁側に出てくるなり一目見て事情を察し、慌てて吉平の行動を止めるべく叫び声を上げる。

だが、時すでに遅し。

吉平の攻撃を受けた化け物は、どういう訳か子供の叫び声を上げた。口が半分だけで声もあいまいにしか聞こえないのにも関わらず、子供ははっきりと歪で甲高い悲鳴を上げた。あの化け物は、吉平と晴明の眼から見れば、生きていないはずの異形の塊。

「――なッ?」

生きていないはずなのに、どうして叫び声が――?

その理由を瞬時に理解した吉平は、苦々しげな表情になる。どうやら先ほどの子供は、まだ生きているようだ。

「――何としてでもあの子は助け出さねばならん」

縁側から降りた晴明は、吉平の隣に立って険しい表情で言った。

「ですが、父上。助けるといっても、あの異形の化け物はどうするんですか?」

「まだ考えていないが、とにかく結界を引いてあれの動きを止めるぞ。あの子と異形の化け物を引き剥がすのには何かの手段があるはずだ。行くぞ」

「――はい」不安げになりながらも吉平は呟く。

ほんとうは、こういうのは吉平が得意とするものではなく、弟の吉晶の専門の分野である。今すぐ吉晶を叩き起こして動いてもらいたいところだが、この場から離れればあの化け物が何をするのか分からない。

そういえば、一条は? ……ふと思い出して、吉平は辺りを見渡す。

気づけば一条は、向こう側の塀の近くで倒れて震えている。

「――父上!」あることに気づいた吉平は慌てて叫び声を上げた。「別の結界が敷かれています!」

「何ッ?」晴明が驚愕の表情で呟く。

次の瞬間、それははっきりとした形として現れた。

結界の土台であることを示す赤みを帯びた線が浮かび上がり、化け物の周囲に方形の陣を形作る。そしてそれは横長く伸びていき、一条とその化け物を長方形に囲むように形を変えていった。慌てて一条の許へ駆け寄ろうとするが、見えない壁に阻まれてしまう。

「一条!」吉平は叫び、

「抜かったか……」晴明は苦々しげに己の遅い愚行を呪う。

初めから、あの化け物を安倍邸に召喚させた何者かの狙いは、初めから一条守であったのだ。

化け物は、小さな子供の泣き声を上げながら、ゆっくりと操り人形のように不安定な動きで、震えている一条に、ゆっくりと怪しげに近づいていく。

「一条、逃げろ!」結界を打ち破ろうと術を放ちながら、吉平が怒鳴った。

叫んでも、一条は頭を抱えて震えている。一向に、動こうとしない。このままでは、あの化け物に喰われてしまうというのに。

その間に、化け物は確実に間合いを詰めていく。

「一条!」

「一条殿!」

吉平と晴明がほとんど同時に叫んだ、まさにその時だった。安倍邸の屋上に立って、一部始終を見守っていた人影は、小さく舌打ちした。

「――使い物に、ならんな」

くだらないと言いたげな口調。冷たく吐き捨てると、ひらりと衣をはためかせて跳躍する。

白くて細い腕を振り上げて、まるで刀を振り下ろすように腕を鋭く振った。

途端に、妖気の波動が突き抜けて、化け物と一条を包囲していた結界があっけなく砕け散った。結界の名残を示す破片を撒き散らしながら、崩れ落ちる結界。かろうじて形を残している結界に音もなく着地したその人影は、化け物を正面から見据える。

怖れる様子を微塵にも見せずに。

唐突に手を伸ばすと、人影は化け物のなかに手を勢いよく突っ込んだ。苦しげに甲高い悲鳴を上げて、死体の複合体を揺らす。子供の悲鳴に怯む事無く、人影は何かを発見してそれを捉えたかのように、唐突に手を引っこ抜いた。

その手には何かを持っているようだ。

すると、まるで命を失ったかのように、形を保つことができなくなったのか、急激に化け物の肉体は崩れ落ちていった。

誰にも気づかれないように、誰にも気づかれず、化け物を難なく倒した女は、両手のあいだに挟んでいる、小さな子供の頭を愛しげに撫でた。無愛想な表情で、そっけない口調で、ぶっきらぼうな仕草で。

「――安らかな平安を」

女は、小さく呟いた。誰にも聞こえないように、誰にも聞かれないうちに。


まさに、一瞬の出来事だった。

自分たちが対処にてこずっている間に、一人の女がほとんど一瞬のうちに、あの化け物と一条を包囲していた結界を造作なく突き破り、着地するや途端に化け物の急所を打ち抜いた。実際は、その化け物の弱点を看破したまでであるが、吉平と晴明ふたりの陰陽師の眼にはそう写った。

驚愕の視線を送る。いささか以上に陰陽師としての矜持を傷つけられた面持ちで。

吉平は唖然とした表情を収めることができず、晴明はふと感じた妖気に似た空気を感じた途端、昨晩に続いて二度目の妖の通過を、自分自身が施術した結界が許可したことに気づいて、自身の力の衰えと妖の力がいかに侮り難いかに気づいて、嘆息して天を見上げる。

この者は、間違いなく妖。しかし、いつからこの屋敷の敷地内にいたのか。気配すら、読むことができなかった。まったく。

先ほどの化け物の出現の件もあり、突如現れた正体不明の妖なる者を不審そうに睨みながら、吉平は一条の元へと急ぐ。一条は、化け物が崩れ落ちた後の場所を、瞬きもせずに青白い顔で震えながら見つめていた。

「一条! おい、大丈夫か?」

一条は、答えずに首を振った。

そんな様子を横目で観察して、晴明は一条の安全に気づいてひそかに安堵の溜息を吐く。そして、油断なく相手を凝視したまま、ゆっくりと緊張を隠せぬ声音で晴明は静かに尋ねた。

「あなたは何者ですか?」

「どうやら昨晩、天狗は私のことは何も言っていなかったようだな」面倒くさげに嘆息して、女は苛立ちを隠せぬ表情と口調で続ける。「私は山姫という。気づいているとは思うが、私は『天竺』の一角たる者だ」



十一、



――ぼく、化け物にされちゃった。

あの叫び声が、頭から離れない。

自室の寝具に潜り込んで、一条は眼を固く閉じたまま震えていた。小さな子供が泣いている。近づけば、その顔の半分は腐り落ちていて、そしてそこから化け物へと形がいきなり変わっていく。半分だけかろうじて残っている子供の顔。それが、冷たく見下ろしている、見下ろしている、見下ろしている――

――おにいちゃん……

一条は、頭に爪を立てた。呼びかけてくる、あの子の声を、自分は知っている。

あの小さな子供を、自分は知っている。



――昨夕の鴨川の市で、笑顔で挨拶してきた、小さな子供。

  市のなかを駆けていった、うらやましい笑顔を持っていた子供。



――まさか、あの子が……化け物に、されていたなんて……そして、死んだなんて……



震えを、止めることはできない。

「――いやだ、何も、見たく、ない……」

すぐ傍でその呟きを聞いた吉平は、困ったような表情で、一条に気づかれないように嘆息した。

参ったな。吉平が予想していた最悪な状態に、一条はいま成りつつある。



「――下らん。天狗からあれについては聞かされていたが、まさかあれほどの小心者とはな」苦々しげに吐き捨てながら、『天竺』の山姫は冷酷に言い放った。「鵺と対峙しても一歩も引かぬ大物と聞いていたが、見事に期待を裏切られたな。それにしても、大陰陽師と畏れられた安倍晴明とその息子もどうかしているぞ。あのような結界を破壊できないとはな」

明らかに山姫のことばには侮辱が込められている。

「山姫とは、これはまた珍妙な来客ですな」挑発に反応せずに、晴明は静かに言った。

そう、珍妙な来客。山姫とは。

「……あれについては、よくご存知のご様子で」

「知っている、おまえたちよりも多くのことは」山姫は短く答えた。「あれは人や妖を媒体としてつくられる死体の集合体だ。あの子供はあの化け物の形態を維持するために生贄にされていた。死体は死者とは違って自己意識を持つことができない。だから、あれは遠隔地で術者が操作しているんだ。まるで、傀儡師の人形どものように」

「――その術者は目星がついているのですか?」

「ない。傀儡師でないことは確かだが……考えられるのは蘆屋道満ただ一人。大方、奴が裏で動いているんだろうよ。何しろ、安倍一族に恨みがあるとすれば、奴だけだからな」

山姫は冷たく答えた。

「――何しろ、おまえの心臓はあやつのものだ。いずれ取り返しに来るだろうよ」

その一言に――晴明は驚愕に眼を見開く。

冷たく無感情に自分を捉える双眸を、晴明は静かに見つめ返す。感情をまったく表に出さないこの妖が、天狗や水虎や、傀儡師の誰よりも、あまりにも危険な存在に見えてくる。

――この者、そこまで知っているとは……

おそらく、山姫が知っているとなれば同じく『天竺』の天狗殿と水虎殿も知っているに相違ないだろうと晴明は考えた。

沈黙して思案する晴明に対して、山姫は苛立ったように言った。

「一条が有する能力はあまりにも強大。しかし強大が故に陰に転じやすく、そして鬼へと簡単に変わり果ててしまう。一条が今のままでは自我を失い内側から壊れてしまうぞ」

早急に何とかしろと言いたげに、山姫は高圧的な態度と口調で晴明に言った。

しかし、晴明は長年の経験でどうこうできる問題ではないと直感していた。

何しろ、一条殿は晴明から見れば、すでに『死にかけているも同然の人間』なのである。何しろ鵺との二度に渡る対決だけでなく、辛くも“修験落ち”の魔の手を何とか交わした。それなのに、あの平然とした様子。強靭な精神を持つと感嘆する以前に、人間の内側に在るべきものが一条殿にはあるのかどうか、疑問を抱かせる。

恐怖、困惑、混乱……その他諸々の感情。

それが、一条殿の内側に在るのだろうか。

もしかすると、一条殿はそれを表現できないほどに精神的にボロボロの状態ではないのだろうか。

一条殿は、ひょっとしたら苦しんでいるのかもしれない。

しかし、自分たちには分からない。

それは、一条殿が自分たちに何も話してくれないから。

何もすることができない。ただ、そっと見守る以外――。

「――どこから、手をつけるべきでしょうな」

本音を零してしまう晴明。

山姫は晴明の呟きに怪訝そうな表情になった。「どういう意味だ?」

「一条殿は……ちと複雑なお方でして……」

何から話すべきか迷っていた晴明は、山姫にも分かるように言葉を慎重に選びながら、鵺や“修験落ち”に命を狙われても、それほど動じない奇妙な態度について、そしてそこから晴明と吉平と吉晶が少々不安に思っていることを、一部始終を話した。

話し終えた途端に、呆れたように山姫が溜息を吐いた。

「――下らん」

短く、そう呟く。

一条に対する呟きだけではなく、自分たちに対する呟きでもあると晴明は気づいた。

「そうして、お前たちは時間を無駄に流していただけか」

愚弄するように呟くや、山姫は立ち上がって足音をたてずに、まるで滑っていくように晴明の部屋から出て行き、縁側を歩いていく。

晴明はただ呆然無言でその背中を見送るしかなかった。

「あのぉ、いったいどちらへ……」

突然のことに戸惑って、数秒遅れて、晴明はもはや相手に聞こえない呟きを漏らした。

一条殿の部屋に向かったのだろうかと思い、晴明は腰を上げた。


吉平は不意に近づいてくるわずかな妖気に気づいた。

あの山姫という長髪の女妖怪だろう。吉平は立ち上がって縁側に出た。音も無く長い黒髪を妖しげに揺らしながら、山姫は吉平を眼中に捉えた様子もなく、一条の部屋に入った。

何をしにきたのか。不審に思いながら、山姫の後に続く。

毛布に包まって丸くなっている一条は、まだ震えている。

その一条を冷たく見下ろして、吉平が止める間もなく、

――山姫は一条を思い切り蹴飛ばした。



「――ちょっと!」

山姫の足蹴りで見事に部屋の隅まで吹っ飛んで、苦しげに激しく咳き込む一条に駆け寄りながら、吉平は非難の叫び声を上げた。「おまえ何するんだよ、いきなり!」

信じられない面持ちで、山姫を睨む。

対する山姫は平然としている。眉根を寄せて。「蹴飛ばしたんだよ、見て分からないのか」

簡素に短く即答する山姫。思わず吉平は肩を下げた。

いや、そういう問題じゃなくて。

「いきなり乱暴に何するんだよってことだよ。こいつは今――」

「黙れ、おまえと談笑しに来たつもりはない」

山姫が吉平をさえぎってぴしゃりと言った。

「……こいつに、何か用か? 用件なら後で伝える」怒鳴りたい気持ちを抑えた表情で、抑揚のない声で吉平が言った。

「今伝える。おまえは必要ないから出ていろ」

「断る」

「好きにしろ」

山姫は冷たく言うと、蹴られて呆然としている一条の近くに立った。

「なん、だよ……」蹴られた衝撃で山姫を怖々と見上げ、一条がかすれた声で呟いた。

顔色が悪すぎる。青白く、蝋のように見える。

「いつまでそこで寝転がっているつもりだ?」

山姫は淡々と冷たく問いかけた。

「おまえの命を狙う者はあまりにも多い。おまえを利用しようとする者も。そんな所で、いつまで寝転がっているつもりかと聞いているんだ」

「……ふぅん」一条の、気の抜けた返事。

「所詮、貴様は赤子か」山姫は嘲笑った。

おまえが貴様に格下げになった。

「物事を理解できないのは自分が理解しようとしていないから。何もできないのは自分が何もしようとしていないから。貴様は自分に原因があることに気づいていない。理解するほどの頭を持っていながら、赤子同然の行動力……いいや、赤子以下か。生きる価値すらない」

一条の表情が、凍りつく。

「山姫、いい加減に……」吉平が背後から声をかけた。

「――おまえは、死んだあの小さな子のために、何もしないのか」

嘲笑ではない、確認するかのような響き。吉平は口を閉ざす。そして、一条は顔を上げた。

「愚かしさにも程があるぞ。過去に囚われていったいどうするんだ。過ぎてしまったことに関しては、人と妖は何ら手を打つことはできない。今さら思い返しても、何も変わらない。変えられようがないんだ。過去は永久不変。ただ、それがあったということに過ぎない」

淡々とした、事実のみを述べる山姫。一条と吉平は沈黙して山姫を見つめる。

「過去に後悔するのなら、未来に後悔しないで済むようにしろ」

言い聞かせるように、悟らせるように山姫は続ける。何故か、奇妙に心地良い響きだ。

「何もしないままでは、間違いなくあのような小さな子がふたたび犠牲となり、屍の操り人形として動かされるだけだ。また救えなかったと後悔するのなら、それが起きないように全力を尽くせ。目の前で誰かが死ぬのを見たくないのなら、誰も絶対に死なせないようにしてみせろ!」

山姫は、怒鳴る。それは、目の前をちゃんと見ることができない少年に対する怒りでもなく、ただ、茫然自失としている少年に対する、呼びかけ。教訓たる怒鳴り声。

一条は、下唇を噛んだ。

堪えきれないものが、ある。溢れるのを、防ぎきれない。

「所詮、人も妖も、自分自身のためにしか生きられないんだ。自分自身のために、大切なものを失いたくないという思いがあってからこそ、人と妖はがむしゃらに生きることができる。おまえも、がむしゃらになってみろよ!」

「う……うぅぅ…………う……」

顔を伏せた一条の口から、嗚咽が少しずつこぼれる。

「それと、最後に言っておくぞ」山姫は、短く素っ気無く言った。

「あの子はおまえのことを怨んでいない。あの子は安らかに眠った」


嵐のように現れては、嵐のように、一条の周りを破壊する。

山姫は、そんな妖だった。

強くて、聡明で、思慮深く。決して過ぎ去ったことに気を取られることがない。

第一印象は暴力性悪女としか写らなかった。だけど、あいつが何かを語れば熱っぽくて、がむしゃらで、自分自身をちゃんと理解しているところに、憧れに似た尊敬を抱いてしまった。

こんな風になれたらいいという、憧れ。他人に対して、初めて抱く感情だった。

この人を、『強い』と思うことができた。

嵐のように現れては、嵐のように破壊する。そんな嵐は、静かに一条に背中を向けた。



一条は、泣き腫らした眼で、その後姿を見送る。

ふわりと妖しげに広がる、踝まで届きそうな長い黒髪が、奇妙に眼に焼きついたのを覚えている。



十二、



しばらくしてから、簡単に洗顔してから、一条はしわだらけになった服装を着替えなおした。山姫に足蹴りを喰らわされてこの部屋に訪れた晴明は、自分立ちは自室にて待っていると言っていた。落ち着いたら、来てくだされと。

一条は大急ぎで晴明の部屋に向かう。縁側を歩いている時、あの化け物が残した妖気のような空気が、いまだに漂っているのを感じた。

……いったい、誰が、あれを差し向けたんだろう。

一条ははやくも、あれが術者によって操られている化け物だと、冷静に考えていた。

生気をまったく感じさせない、陰気な空気をまとった化け物。

そして、使い捨てにさせられた、あんなにも小さな子供。

誰が狙ったのか。それは分からないが、間違いなく自分を狙っていたことに、一条は不安を抱いた。

「――遅くなってすみません……」

「遅い。のんびりしている暇などない。もっと迅速に動くように心がけろ」

晴明の部屋へ入った途端に、すでに部屋に待機していた山姫が冷淡に厳しく言い放った。

冷淡な一言にムッとしたものの、辺りを見渡してすでに晴明と吉平と吉晶は正座で待機していることに気づいて、遅刻者の恥ずかしさと晴明たちへの申し訳ない気持ちで一杯になった。

「ええっと、……すみません」

「構いませんぞ、一条殿」晴明が手を振りながら、明るく言った。

「――山姫、おまえ、少しは力を抜け」吉平が呆れたように呟く。

同席している吉晶は顔色が少々悪く、気遣わしげな視線を向ける一条に軽く頭を下げた。そして、何か言おうとした一条を、安心させるように静かに笑う。

「断る。実際に事態は最悪な方向へと進んでいるんだぞ。なのに、悠長にいつも通り何もなかったかのように行動するなど、言語道断だ。愚かしさにも程がある」

吉平の提案を即座に却下して、山姫は厳しく糾弾する。

もう二度とこいつと話などするか、と言いたげな表情で吉平が閉口する。

「すでに黄泉の国の扉は開き始めている。この京で暗躍しているのは“修験落ち”と蘆屋道満と智徳法師だけではない。妖側も多勢この件に画策して動いているぞ。のんびりとしている時間はないんだ。黄泉比良坂を駆け上がった黄泉の軍勢が、この葦原の中つ国を攻め滅ぼさないように、最悪な悲劇を回避するために打てる限りの手を打たねばならない」

一条は瞬きした。「――攻め滅ぼす?」

この世界を、攻め滅ぼす――だけど、誰が?

話についていけず、一条は山姫に思い切って質問してみることにした。

「黄泉の……軍勢って?」

「死者、生ける屍。この世界に存在してはならない者たち……」山姫が言った。「葦原の中つ国と黄泉国のはざまにある、黄泉に通じる伊賦夜坂の穴が大きく開いてしまっている。だから、死者たちは何千年も気づくことができなかった、生者の国への道の存在に気づいてしまい、生者の国へと還ろうとしている」

一条は眉根を寄せた。伊賦夜坂。その単語に聞き覚えがあった。別名黄泉比良坂。

その話は、先日晴明たちの口から聞かされていて、大体のことは覚えている。大昔、黄泉の国に下ったイザナギノミコトが最愛の妻であるイザナミノミコトを連れ戻そうとするが、イザナミの変わり果てた姿を見てしまい、見られた羞恥と約束を破られたことに対する怒りに駆られたイザナミノミコトは、夫のイザナギノミコトを殺そうとする。

命からがらイザナギノミコトは難を逃れる。

イザナギノミコトが使った黄泉比良坂の穴は地反の大神が封じたという。

だけど、この葦原の中つ国には黄泉比良坂の半分――伊賦夜坂と呼ばれる道が残っていて、そこにつながる穴が、この京だけでなく日の本中にたくさん開けられているという。

その穴を塞ぐのが、陰陽師の務めのひとつであると、晴明たちに以前教えてもらった。

生者の国につながる道に気づいた死者たちが、この世界に登ってこないように、そして、葦原の中つ国と黄泉の国のバランスを崩さないためにも。

――生者の国に還ろうとする死者は、間違いなくいる。

そして、現に道を渡り歩いている死者たちも多いだろう。

しかし、それはただ単に故郷に帰ろうとする者たちではないのだろうか? 死者の世界がどんな所か、一条にはまったく分からないが、死者が生者の国に戻ろうとするのは、もう一度生きたいという願望の現われではないのか。

だが、それのどこが、軍勢なのだろうか。そもそも黄泉の国に、軍隊でもあるのだろうかと、一条は疑問に思った。

「……その死者たちは、武装しているのか?」

首を捻って呟く一条に苛立ったように、山姫がかすかな苛立ちを滲ませた。

「違う、武装しているのは黄泉の醜女と呼ばれる、かつてイザナギノミコトを殺そうとした屍たちだ。やつらはイザナミノミコトの怨嗟によって生かされていて、ただ破壊衝動しか持たない。やつらは生者の国に足を踏み入れれば、イザナギと関わりのあるものを全て、破壊し尽くす。この世界に生きる人間や妖を、皆殺しにするんだよ」

「そん、な――」一条はことばを失った。

一条にとっては現実味を帯びない空想物語でしかない。だが、すでにこのムゲンで二日目の朝を迎えていて、さらに今まで見たこともない異形の化け物を眼にした以上、それが現実的な問題であると認識せざるを得なかった。

この世界は、平和のように見える。

だけど、別の世界の脅威に脅かされているのだ。

「でも、この世界が黄泉のシコメってやつに破壊されちゃったら――」

「間違いなくムゲンは崩壊する。そしてイザナミノミコトの望み通り、約束違えた憎き存在、イザナギノミコトがいる高天原を破壊することができる。確実に」

平然とした様子で、とんでもなく物騒なことを山姫は言ってのけた。

「――平安京など大層な名前はつけられているが、平安などこの地にはもはやない。」

一条は呆然とした。晴明と吉平と吉晶は、暗く険しく厳しい表情で沈黙している。

その沈黙が、胸に痛い。

多くの人は、一生懸命に生きているっていうのに、こんなにも世界は、壊れやすいなんて。

ふと、一条は顔を上げた。

「ねえ、山姫ってどんな妖怪?」

唐突に質問されて、山姫は感情に出すことなく戸惑ったように瞬きする。

「あー、一条。いまはそれどころじゃないと思うんだが……」咳払いしながら、吉平が遠慮がちに言った。「なんだその顔……どうしても、気になるのか?」

「知りたい。そうしないと、分からないだろう」

駄々っ子のように愚痴るように一条は言った。

吉平は密かに嘆息した。「山姫っていうのは、山に出没すると言い伝えられている妖怪だ。笑いかけられると生気を吸われて死んでしまうらしい。日ノ本中に出没しているし、神隠しの大半は山姫によるものだと考えられるほどだ。さらわれないように気をつけろよ」

さらりと、止めを刺すように吉平は忠告を付け加えた。

案の定見事予想通り、一条守は凍り付いていた。

「えっと――生気、吸い殺すってこと? で、神隠しってのは……人が突然いなくなって、帰ってこなくなるってことだよね……」口だけを動かして、一条が恐る恐る呟いた。

晴明と吉平と吉晶と山姫が傍目に見て分かるほど、山姫という改めて危険な存在に気づいて、自分がいつか餌食になるのではと恐れている。

「――安心しろ、『天竺』の一角となる妖は、人を喰わぬことを誓いとしている」

下らないものを見下ろすように、高圧的な態度で山姫が静かに言った。

「天狗の千木も水虎の藍染もまた然り。天狗のおかげで愛宕山の天狗一味が下界に降りては、以前のように暴動を起こすこともなくなったし、水虎のおかげで鴨川を中心に暴れていた河童の騒動も、もはや耳に捉えることはできなくなっただろうが。最高位の妖どもは、ただ名を飾るために『天竺』を名乗っているのではない」

「へ、へえ……」

実際のところ天狗騒動と河童騒動は耳にしたことがないが、新たに耳にした新情報に、一条は眼を丸くした。ただのヤクザや暴走族のような、組織的でないただの集まりだと思っていたが、統率に似た何かが『天竺』にはあるようだ。

「だいぶ話が脱線して時間を食ったな。陰陽師、そろそろ話すがいい」

晴明に対してもやはり高圧的な態度で、山姫が不敵に冷淡に告げる。

もう、構わんぞと言いたげに。

その態度に頭に来るものがあるのか吉平と吉晶は多少顔色を変えたが、晴明は顔色をまったく変える事無く、明らかに侮辱が込められている山姫の言葉が聞こえないように、穏やかな表情で口を開いた。

「申し訳ありません。昨日の時点にて話すべきだったのでしょうが……早速ですが明日、一条殿は私たちと一緒に比叡山延暦寺に赴いていただきます」開口一番、晴明が単刀直入に言った。

比叡山延暦寺。

当時のこの時代の日本でも指折りの最大規模を誇る大寺院の名前に、一条は驚いた。

あそこに、行くというのか。一千年以上も前の、延暦寺に。

「延暦寺にはいま、ひとりの賢者が住んでおられます。その方の名は『白拍子』と言われ、私など比べ物にならないほどの力を持つ、優れたお方です」

「はあ……」

一条はそれだけしか言えなかった。目の前に悠然と構えている大陰陽師を、はるかに超える力を持つというのか、その『白拍子』という人間は。明らかに女性のような響きがあって、いまいち、現実味が湧かないような気がする。

「ただ、話を聞くだけですか?」

賢者というからには、何か助言でも請うのだろう。なんだか長くなりそうだと、思う。

「いいえ、話を聞くだけではありません。比叡山にて簡素な修行を執り行います」

「修行?」一条が首を傾げると、

「――待て、一条の能力を発動させる修練ではあるまいな?」

山姫が怪訝な表情で鋭く問いかけた。

「ご安心を。九字護身法などといった、簡単な方術を一条殿に伝授してそれを習得していただきます。いくら悪名高き“修験落ち”であろうと一条殿の命を脅かす者も、我らに害を為そうとする者も、さすがに『鬼門封じ』の神域に禍々しき使い魔や魔物や呪詛を仕掛けることはできますまい」

「うむ、……妥当な判断だ」山姫が誰何するように呟く。

「ただし、その際には私も同行させてもらうぞ。それと、おまえが京を留守にしてよいのか? さすがにおまえたちの王たる者――御上に危険が及ぶのではあるまいな?」

聞きなれない単語が出てきた。

――御上って……?

怪訝な表情をする一条に、吉平が短く天皇だよと小さく教える。

「おそらく、“修験落ち”についで最も危険な敵――蘆屋道満は我が安倍一族に対する復讐で動いていると考えられますし、我々があえて『鬼門封じ』に赴くことによって京から引き離せるでしょう。それに、陰陽寮には数多の使い手たちがおります。ご心配は無用でしょう」

「その者たちが、使い物にならなくては話にならんぞ」

「重々承知」

あえて挑発気味の山姫に対して、穏やかに晴明は答えた。

「それと、最悪の事態にはあらかじめ私自身が備えておりますし、わが師であられた賀茂保憲様の力量を侮られては困りますな」

静かな口調だったが、重圧のようなものが込められている。

確かに、と口には出さず山姫は肯定した。

賀茂家の陰陽師と安倍家の陰陽師の力量は、妖すら脅威と感じるまでにあまりにも強大。

そこを侮るのは、愚かしいと言える。

「なるほど、手薄な場所が攻められた場合には、ちゃんと備えているわけか」

「いかにも」

「これは畏れ入る。妙計。なかなかの戦略家だな」

山姫がすんなりと褒め言葉を口にした。

罵詈雑言とまではいかないが、とにかく口と印象の悪い山姫の口からまさか褒め言葉が出てくるとは。一条だけでなく晴明と吉平と吉晶までもが驚きを隠せずに表情を変える。

「……なんだ、揃いも揃って気味の悪い」全員の顔を一瞥して山姫が呟いた。

「いえいえ、まさか褒め言葉が出るとは夢にも思わず……」

「私がそこまで世間知らずに見えるのか?」晴明の一言を、短く山姫がさえぎった。

山姫のわざとなのかわざとではないのか微妙に判断がつかない短い返答に、一条と吉平は揃って瞬きした。

――いいや、今までの会話で充分世間知らずだと露見しているのだが。

当の本人はどうやらそれに気づいていないらしい。

「失礼ながら、お尋ねしたいことがあります……」それまで沈黙を守っていた吉晶が、恐る恐るといった様子で挙手した。「比叡山延暦寺は、妖を寄せ付けることがありませんでした。『鬼門封じ』の結界がある故に。いくら妖最高位の『天竺』であろうが、あなたは入ることができるのですか?」

その問いかけに、誰もがハッとして山姫の顔を伺う。

明日赴くのは妖を寄せ付けることのできない聖域ともいえる場所。

――そんな所に、山姫は訪れることができるのか……

誰もが、そう思った疑問。

「結界など、私には効かないぞ」

――すぐさま思い切り呆気なく吹き飛ばされた。

「……なんとおっしゃいましたか?」吉平が低姿勢に尋ねた。

「結界とは本来、自分が立つ側と向こう側の場所を区切るために使われてきた。区切られた領域内の秩序を乱すことはないが、禍々しいものを完全に拒絶することはできない。大体、昨日と今日の時点で『天竺』の最高位がこの屋敷に張られた結界に入ってきて平然としているんだ。おまえらの眼は節穴か?」

「――ム……」

晴明と吉平と吉晶はいたくプライドを傷つけられたように、表情を歪めて沈黙している。

一条は、瞬きした。

「じゃあ、結界っていうのは……」

「ただ空間を区切る、境界線のようなものだ。禍々しい気などを自分の側に寄せ付けないのが本来の効果。妖を拒絶するような代物じゃないんだよ。頭に入る余地があるのならば、揃って入れておくんだな」

自分まで侮辱されたことに気づくのに、一条はしばらくかかった。

「おい……あんた……」

「なんだ?」

「さっきから……その失礼な物言いはないんじゃないのか?」

「だったら失礼な物言いをされないように気をつけるんだな」さらりと山姫は言った。

ああ言えば、こう言う。

「そうそう、忘れるところだったが、天狗からの伝言を預かってきている。比叡山延暦寺には必ず赴くように。そして、そこで出来る限りの修練を積むこと。ただし『能力』を発動させてはならない。今晩は諸事情で来れない、――以上だ」

振り返って、山姫が簡素に伝言を一条に預ける。

「はあ……」

はあ、そうですか。そう相槌をしようとした一条はちょっと待てよと首を傾げた。

――比叡山延暦寺には必ず赴くように? 天狗が?

「どういう意味だよ?」

「何がだ?」一条の問いかけに、山姫は怪訝そうな表情を浮かべた。

「いや、何がって、延暦寺に絶対行くようにって、なんで天狗がそれを勧めるんだよ? 意味が分からないだろう? あいつ、何を考えているんだ?」

なんで妖怪が、そんな所に行くことを勧めるんだ?

「悪いが、やつがそれを勧めた理由も目的も、私は知らないから答えることができない」

「……今晩来れないって……どういうことだ?」

「さあ、な。おまえが延暦寺に行った後でなければならない理由があるんだろうよ」

素っ気無く、面倒くさげに山姫が答えた。

その答え方に、一条は気になった。

「何か、知っているのか?」

「知っていることは確かに知っている。だが、話す段階でない場合にそれを話すのはいささか早計と言える」

天狗と同じように山姫も、肝心なところは何も話してくれない。一条は苛立ちを募らせた。

「おい、いい加減に――」

「一条殿、しばらく落ち着かれよ」

晴明がさすがに見ていれられなくなったかのように、声をかける。

「この程度のことに乱心するようなところであれば、この先が思いやられるな。おまえは私に用があってここに来たのではないだろう? この陰陽師に呼ばれてやってきたのだろうが。目的を間違えるな」山姫は静かに言った。

一条は、あごを引いた。そうだ、自分を忘れるところだった。

呼んだのは晴明さんで、話をしなければならないのは山姫ではない。明日、延暦寺に行く。それに山姫がついてくる。ただ、それだけのことだ。

「すみません――それで、延暦寺に行ったら、俺はどうすればいいんですか?」

「明日の予定は延暦寺に赴くだけですが、今後は日程が決まり次第、一条殿にはさらに陰陽寮に出世してもらわなければなりません。昨夕の“修験落ち”の襲撃に関しての重要参考人として、検非違使も含めて陰陽寮にて事情聴取などを行う予定が入るでしょう」

「はあ……それだけですか?」

「いいえ」晴明は短く答えた。

「あの……まだ、何か?」怪訝そうに問いかける一条に、晴明は重々しい表情で頷いた。



「――お聞きしなければならないことが、あります」



傍らの山姫が、怪訝そうに顔を動かすのが見ていないのに分かった。

晴明の言葉が、ひどく奇妙な響きを持っているように感じられる。実際、そう思っているのは一条だけではないようで、吉平と吉晶もふたりとも揃って、怪訝そうに奇妙な発言をした父親の顔を見ている。

その質問の意味を、問いかけるように。

「どういう意味だ?」一条が問いかけようとしたら、山姫が鋭くすばやく問いかけた。

「この世界はすでに壊れ始めています。傀儡師を始めとする影の勢力が、この京で暗躍している、それだけが原因ではありませんが……」晴明は奇妙な表情をして重苦しい口調で言った。「今朝方、あなたの存在に関する占いとを行いました……その結果、あなたが荒御魂……判りやすく言えば、この世界の破壊者たる資質を持つことが分かりました」

部屋の空気が変わったような気がした。

吉平と吉晶が怪訝な表情で父親を仰ぎ見て、山姫は思い当たる節があるような表情で、静かに眉根を寄せる。

「――は、破壊……?」一条は言われたことの意味が分からなかった。

――破壊者? この世界の?

「俺に……何が? ……いったい、何を……」

いったい、何を言っているんだ……この人は。一条は戸惑って晴明を見つめた。彼の表情に映っているのは、得体の知れないものを見るような、怯えが混じったような暗い表情。そう、まるで、疑われているような――……いや、疑われているのか?

「晴明……さん?」

硬直する一条の隣で、山姫は冷たく鼻で笑った。

「――陰陽師あろう者が、何を性質の悪い戯れ言をほざくのか」

「山姫!」吉平が顔色を変えて怒鳴る。

「おまえは黙っていろ。私が話しているのは安倍晴明ただ一人だ」山姫が冷淡に落ち着いて言い返す。そして、晴明に視線を戻す。「おまえは言霊を禍々しい方向へと働きかけていたぞ。陰陽師に有るまじき恥ずべき愚行。何故、近しい者を信じようとつとめている少年に、疑心暗鬼に陥らせるような罠を仕掛けようというのか」

晴明は、沈黙している。何の感情が分かりにくくて読みにくい眼で、山姫を見返す。

――まるで、死人のように。

「理由を尋ねているんだ。答えろ」

「……」

「――どうやら、悪いのは耳だけではないようだな」

今まで以上の最大限の侮辱を込めた、山姫の挑発。

吉平と吉晶は実力派の父親を侮辱されたことに顔色を変えたが、当の本人である晴明だけは、まるで造られた人形のように、表情をまったく変える事無く山姫を凝視している。

しばらく、沈黙が続いた。重苦しいものが一条の胸の内側で大きくなっていく。

唐突に、晴明が一条に視線を向けてきたので、一条はまるで怒鳴られたかのように体を強張らせた。実際、晴明の様子は穏やかで決して怒鳴っていないのだが。

――怖い、

どこの誰か分からない自分をこの屋敷に置いてくれて、そして世話をしてくれて、優しくしてくれた、この人が……怖いと、初めて思った。この人が言うことが、怖いと思った。

「……存在していないはずの一条殿の存在が、この世界に悪影響を及ぼしているのでは?」

――元凶は……まさに一条殿こそが元凶ではないのか?

冷水を浴びさせられたように、一条は体の温度が急激に下がるのを感じた。

それは、一条に向けられた問いかけではなかった。

一条を見据えたまま、晴明は表情を変える事無く、感情が込められていないような抑揚のない声で、静かに山姫に問いかける。

山姫は、何も答えなかった。どう答えるべきか考えているのか、それとも答えられないのか。

答えないのなら先に進めましょうか、と晴明は続けた。

「知らないからこそ答えられないのではなく、知っているからこそ答えないような印象ですが……さて話を戻しますが、一条殿がこの世界の森羅万象に介入できていないというのならば、この世界に存在できるはずがなく、そして存在していること自体がありえない。このことを考慮に入れて、一条殿の不可思議な能力について、ひとつの仮定を立てたのですが……」

晴明はことばを区切った。

まるで、山姫がどう出るかを見定めるかのように、彼女を静かに見つめる。

吉平と吉晶は緊張した表情で父親の横顔を見つめている。

聞いてはいけない話の予感がしていても、一条はその場から動くことができなかった。心臓が、狂ったように鼓動を打っている。

山姫だけが、平然とした表情で話を聞いている。

空気が、ピリピリしている。

「もちろん、ひとつの仮定の話ですが……魂魄そのものには計り知れない力が込められている。ひとつ失えば歪みが大きい。もし、一条殿の存在がこの世界の均衡を狂わせているとしましょう。それならば、“修験落ち”は一条殿の能力ではなく、一条殿という魂魄の存在そのものを用いて、この世界を破壊しようとしているのではありませんか?」

安倍家のふたりの陰陽師――吉平と吉晶は雷に打たれたように表情を激変させた。

「……驚いたな、そこまで読んでいるとは」冷たく、吐き捨てるように山姫が呟いた。「確かに、それも一理ある。そして、天狗たちもそのような仮説を立てている」

「……なんだと?」吉平が驚きと戸惑いを隠せずに、困惑して呟いた。

「ムゲンの完全破壊を目的とする“修験落ち”を含む『影の勢力』……奴らが一条を狙うのは、その能力が“修験落ち”らにとって計画の大きな危険要素となりうる可能性が高いとする仮定と、存在不適合たる一条という名の魂魄を用いての森羅万象の崩壊を狙っている可能性が高いとする仮定がある。当然、我々『天竺』は、そのふたつの可能性について考慮して、慎重に行動している。今も、そしてこれからも」

「……天狗か、その予測を立てたのは」

「そうだ。千木がこれを推測している」苦々しげな吉平の問いかけに、山姫は短く即答する。

「存在していること自体が有り得ないのに、一条はこの世界にどういう訳か存在している。存在自体が矛盾していて、その意義に矛盾あり。魂魄というものは非常に不安定な存在だ。森羅万象とつながることによって、世界の均衡は保たれているのだが、そこに森羅万象とのつながりがない一条が現れたことにより、ムゲンは崩壊し始めているのだ」

――俺の、せいで……ムゲンが壊れ始めている?

一条は頭が真っ白になった。もう何も分からない。まるで、自分が――生きていることを、非難されているみたいで――頭が、痛い……

「――なるほど、それは一理ありますね」

「ちょっと待て、天狗はどうやって一条の能力を手なずけさせるつもりだ? 天狗の修練の途中に、暴発や何らかの事故を起こせば、最悪な場合、一条が――……おい! どうしたんだ、一条?」

唐突に言葉を切って、吉平が慌てて一条に声をかけた。

山姫も晴明も吉晶も、話を中断させてすぐ近くに座る少年に眼を向ける。

一条は頭を抱えて、固く眼を閉ざしている。体は、小刻みに震えている。

もう何も聞きたくない、もう何も見たくない、もう何も知りたくない。まるで、そんなことを言っている表情で、そんなことを言っている様子で。

――変化は、何の前触れもなく、突然起きた。



一条の周囲に風が渦巻いたと思った途端に、空間が歪んだように、一同の眼には映った。それが何の予兆であるか、陰陽師には理解することが出来なかった。何故ならば、それは今まで見たことのない動きをしていたからだ。

霊力の波動に似たものが、室内と室内の空気を震わせる。

波動は殺気めいたものではないが、明らかに霊力と妖気のどちらにも属さない。

それを、陰陽師たちは理解することができなかった。ただ、呆然と変異し始めた空間を見つめる。

だが、山姫は違った。いち早く状況を理解した山姫が叫ぶ。「――まずい、発動するぞ!」

舌打ちした吉平が、その傍らを弾丸のように駆けていく。目指すは、一条。

まるで何もかも拒絶するような様子でそんな表情で、頭を両手で抱えて苦しげに唸っている一条に吉平は手を伸ばすが、突如として床を破って姿を現した、無数の鎖の壁に一気に阻まれる。衝撃と反動を受けて膝をついた吉平は、呆然として一条を見やる。

鎖は、まるで近づくものを阻むように、不気味に動いている。

一条を中心として、一条を守るように。風が、動き続ける。まさに、台風のように。

そしてそれは、何の前触れもなく始まった時と同じように、鎖は空気に溶け込むように消えていき、そして風の流れが安定するや、唐突に終わった。

「まさか発動するとは。不覚だな」舌打ちする山姫は、倒れかけた一条に近づく。

吉平は表情を強張らせたまま、一条の顔を覗きこむ。

「――おい、一条! 大丈夫か?」

まだ頭痛がするのか、まだ何かを拒絶しようとしているのか分からないが、一条は両手でしっかりと頭を抑えたまま、顔を見られないように埋めている。

「やれやれ、大変なことになりそうですな……」

晴明が立ち上がって、静かに呟く。

実際のところ、晴明の尋問めいた行為によってこの能力が誘発されたのであるが、当の本人はそのことにまったく意識が向いておらず、山姫が彼を凄まじい形相で睨みつけていることに気づかなかった。

晴明は嘆息する。見事に散らかった部屋の後片付けと、これからの思いやられる未来。そのふたつの意味を込めて。

そして、山姫は一条を見下ろして、驚きを隠せぬ声音で呟いた。

「――しかし、発動するとは……」



その喧騒を、音のみで捉えている者の姿が、塀の向こう側にあった。



「……」

「……」

「……見事に発動させたな」

「ええ、見事に……人選を間違えたのではありませんか? 千木殿」

水虎の藍染は同志に静かに問いかけた。だが、表には出していないがその声音には、面白がっている響きが明らかに込められている。

天狗の千木は顔を渋くした。

「――人選は、間違って、いない、はずだ……多分」

いささか不安げな響きだった。

山姫は『天竺』にふさわしい実力を持っている。もっとも、言動などには多少の不安があるのは否めないが、結果的には良しとして、天狗の千木は山姫に今回の件を任せることに、何らかの障害はないと判断していた。

だがその判断が、同志に即刻疑問視されてしまった。

あの馬鹿、何やってるんだと千木は額を押さえる。

「……まあ、一条が何者かに襲われた時は、あいつが何とかするだろう。陰陽師の回せないところまで、手を回してくれるはずだ」

やたら長い間を置いて、千木は不安げに多分、と付け加えた。

困り果てた同志の様子を見て、水虎の藍染は苦笑を隠すことが出来なかった。

「随分と自信無げなご様子で」

明らかなからかいに、千木は顔をしかめた。

「あれがあそこまで喧嘩っ早いことに気づかなかったんだよ」

「言い訳は通用しませんよ」

さらりと言ってのける藍染に、千木は苛立ちを募らせた。

「だったら、おまえは何で山姫をここに向かわせるのに反対しなかったんだよ?」

藍染はにっこりと微笑んだ。「どうせ言っても無駄でしょう。あなたは人の意見を聞くような人柄ではありませんからね」

「……すみませんでしたね」

苦々しげな表情で、感情のこもっていない声で千木が吐き捨てる。

「ところで、本当に疑問に思っていることなのですが……」青空を見上げて、藍染が呟く。

「――なんだよ?」

鬱陶しげに顔を向ける千木に、藍染は静かに問いかけた。「――どうして、千木殿は山姫を彼の許に遣わしたのですか?」

千木は瞬きした。どうやら、意外な質問だったらしい。

「……聞きたいの、それか?」

「ええ」藍染が静かに頷く。

「……」千木は答えに困ったように押し黙った。

「千木殿?」

「ううむ……単純に言えば、あいつだから……あいつでなければならないというか……ううん、久々に思い切り本気に悩んでしまったぞ」

「……とりあえず、考えなしに行動していないことは分かりました」

苦笑して藍染が呟いた。

実際、傍らでこの同志の日々の言動を見ているのは、一興ともいえる。何しろ型破り破天荒極まりないこの天狗は、いまは誰に見られても妖とは分からない、庶民と同じ格好をしていて、人の社会に完全に溶け込んでいるのだ。

完全に妖気を抑えていて、安倍晴明ほどの陰陽師でなければ、いったい誰が見抜くだろうか。

気づかれることはあるまい。これが、妖であると――

「考えがあって行動しているのが分かって、ひとまず安心しました」

天狗は水虎の言い方に引っかかった。首を回して彼の横顔を見やる。

「……はあ? どういう意味だよ?」

「そのまんまですよ。賭博に興ずるが如く考えなしに軽率に行動していた時期もありましたからね。何しろあなたは、まさに破天荒そのもの。実際、同志として動いている私の身になって行動を慎んでいただけませんかねぇ? ほんとうに、苦労ばかりの日々を送っていましたから」

「はいはい、悪うございました」

面倒くさげに手をひらひらさせながら、天狗の千木は軽く言った。

「おや、もう動きますか」藍染が千木の背中を追って、彼の背中に問いかける。

「当たり前だろう。この世界にあまり時間は残されていないんだ。休んでいる暇なんかないよ、藍染。今日の一条はどうせ潰れた状態から抜け出せないだろうから、俺たちは代わりに情報収集に出るとしようか」

「ずいぶん、ゆったりとした流れですね」

「仕方ないだろう。蘆屋道満を始めとする『影の勢力』は、この都で虎視眈々と機が熟す時を狙っている。そして、奴らは足跡を残す事無くこの京を暗躍している……何しろ、ならず者と野蛮人にとって、ここは最高の舞台だからね」

ニヤリと笑って、千木は続けた。「さあて、忙しくなるぞ。これから、間違いなくね」

そうですね、と藍染が相槌を打った直後だった。空を、風が鋭く吹き抜けていった。

通りを行き交う人々には気づくことが出来ぬものを感じ取って、天狗の千木と水虎の藍染は空を見上げる。ばさりと、羽音が聞こえて一羽の烏が舞い降りてくる。

「ほお……はやいお帰りですね」

「朗報かそれとも凶報か。俺は最初を望むけどね」

藍染と千木は、それぞれ満足げな表情で口を開いた。

「ご安心を主。朗報に御座います」烏が口を開いて、恭しく首を下げる。

それを聞くや千木と藍染は、ほとんど同時に土塀の上へと跳躍した。すでに、常人が認識することのできない妖の装束になっているため、通りを歩く人々はふたりの人間の姿をしていた者たちが消えたことに気づかず、変わりなく歩き続けている。

「――で?」続きを求めるように、千木がまず口を開いた。

「分かったことは何? 朗報って自信満々で言い切るには、それほどのものだろうね?」

確認する問いかけに、烏は自慢げに頷いた。

「左様に御座います。蘆屋道満とつながりのある人間を片っ端から探していると、不穏な気配が渦巻く場所と奇妙な噂を捉えました。どうやら蘆屋道満は桂川の付近で呪詛などの活動を行っている様子で、彼が使役する式神および化生を幾人かの人間と妖が目撃しております。おそらく、潜伏しているのは藤原顕光が元々有していた左京区の土地、その廃屋かと」

天狗と水虎は顔を見合わせた。

藤原顕光。いまや時の権力者と謳われる藤原道長の最大にして凶悪な政敵。かつて、蘆屋道満を雇いて道長に呪詛を仕掛けるように指示を出した張本人である。もっとも、この件は内裏の内部では緘口令が敷かれていて知る者はあまりにも少ない。そのため、この件は少数の陰陽師らの手によって秘密裏に処理されて、藤原道長と藤原顕光はどちらも内裏でいまも活動している。

蘆屋道満がふたたび行動を再開したから、予想はしていたが、まさか……

どうやら藤原顕光は、また蘆屋道満を雇っての、完全な権力掌握に動き出したのか。

――懲りない奴だなぁ……

呆れを隠せない天狗の千木は、思わず空を仰いだ。

人間というのは、妖から見ればあまりにも欲深い生き物だ。

今回、蘆屋道満の動きが確認されて以来、『天竺』だけでなく、陰陽寮の数名の選り抜きも藤原顕光の監視を抜かりなく行っていた。

ついに、尻尾が出たか。天狗は満足げに凄絶な笑みを浮かべる。

「予測したとおりだな。ところで不穏な気配ってのは、そこから感じ取れたか?」

天狗の問い掛けに、烏は頷いた。

「明らかな違和感ははっきりと感じ取れますが、問題があります。そこに、少々奇妙な結界が張られておるのです。並みの陰陽師が仕掛けるものとはあまりにも異質であり、さらに結界は廃屋の敷地全体ではなく、周辺の廃屋も含んでぐるりと」

藍染が顔を曇らせる。「奇襲を仕掛けるのは無理ですね」

「とはいえ、奇襲以外の戦術はない。地道にゆるりと行こうじゃないか。焦らずに」

天狗の千木はかすかに笑みを漏らした。

「それと、もうひとつ……傀儡師のほうは探れたか?」

「残念ながら、やつの潜伏先は割り出せませんでした。昨晩の人形もまた同じく左京区にて消失したのですが、手がかりはまるでつかめません。ですが、ここ最近、傀儡師が左京を中心に動きを活発にさせていることが確認されています……蘆屋道満とのつながりがあるかどうか、現在も追跡調査中です」

烏は天狗に報告を終えた。

「……ご苦労さん」天狗の千木は静かに言った。

途端に、烏は飛び立つと両翼を一杯に広げた。次の瞬間には変化する。小柄な天狗の姿へと。まるで、従者のように。

「新たな動きがあったら随時報告するように、烏天狗……」

天狗の千木の重々しい命令に、烏天狗は静かに頭を下げる。

「お任せください、主……」

そして、天狗の千木に比べて面積の小さい翼を広げて、烏天狗は静かに飛び立っていく。

「……さて、と」それは見送った後、千木は同胞を振り返った。

「俺たちも、そろそろ動くとしようか。本腰を入れて」

はい、と藍染は頷く。「手始めに、どこから動きますか?」

「そうだな……まずは一条の能力を開花させるための、道具をかき集めるべきだな。いろいろと準備が必要だから、それから始めよう。傀儡師と蘆屋道満の件に関しては、それから動けばいい……何としてでも、最優先であの『太極』を発動させないとな……」

天狗は行くぞ、と同胞に声をかけた。水虎の藍染は静かに頷く。

風がざわりと音をたて、天狗風は螺旋状に、まるで台風のように激しく動き始める。天狗と水虎は頭上に跳躍し、過ぎ去る暴風とともに姿を消した。

下の通りでは、突然の突風に誰もが驚いた様子だった。今日は風が強いな、と誰もが呟く。



――彼らは誰一人妖の存在に、最後まで気づくことができなかった。



縁側に一人立つ晴明は、静かに青空を見上げる。

痛恨な表情で、まるで青空に何かを求めるように。そして、そっと呟く。

「呪いは呪いを以ってして返し、そして破壊することができる……ならば、人を殺すのは殺されることを以ってして返すのだろうか……」

独り言のように聞こえるが、それは眼に見えないここにいない誰かへの問いかけのよう。

「蘆屋……道満」

彼は、ひとりの男の名を呼ぶ。かつて友と信じ、決して長くはなかったが短くもなかった時を過ごした、あの日々に思いを馳せる。

そして、哀しげに呟くように、問いかけるように、晴明は呟いた。

「おまえは、……おまえを殺した私を、憎んでおるのか……」



独り言のように聞こえるが、それは眼に見えないここにいない誰かへの問いかけのよう。

彼のひとりの名を呼び、友に問いかけるようにひとり寂しく呟く。

まるで、許しを請うように。


十三、



山姫は仏頂面でひとり縁側に立って、とある方向を眺めていた。

明らかに、『天竺』の同胞の気配と妖気を感じた。そして、激しい突風。間違いなく千木の天狗風だ。さらに、山姫は空に飛び立つふたりの姿を捉えている。常人には決して捉えることができない、特殊なふたりの人の形をした影を。

それを、山姫は静かに見送っていた。

「天狗め……」

姿が見えなくなるや、山姫は静かに低い声で呟く。

水虎の姿ももちろん視認していたが、山姫は悪意に満ちた呟きを天狗だけにしか向けなかった。

いまこの場で他人が聞けば、まるで憎い相手に怨嗟を吐き捨てるような言葉にしか聞こえなかっただろう。実際のところ、山姫はいまにも殺してしまいそうな表情で虚空を睨んでいるのである。なにやら自分を正当に評価せずに心配してこっそり様子を見に来た同胞に対して怒りを抱いているらしい。

――その様子を山姫の背後からそっと伺い、安倍吉平は山姫に気づかれないように嘆息した。

まるで鬼だと誰もが言うだろう。

だが、吉平の眼から見れば、こいつはまだまだ餓鬼のように見える。

それも、一条と同じような……

「――なんだ?」

気づけば、山姫がこちらを見ていた。

「……なんだって……なんにもないんだが……」

喋った覚えもない吉平は戸惑ってそう答えた。

「違う、何やら考え込むような顔つきをしていたからな。気になったから尋ねたまでだ」

「……どうしても、知りたいのか?」

内心本音を口にすれば何をされるか分からないから恐怖して、恐る恐る山姫に最終確認する吉平の様子を怪訝に思い、山姫は素っ気無く答えた。

「口にしたくなければ無理して口にしなくていい」

そして、山姫は開けた蔀の向こう側へ眼を向ける。つられて吉平も視線を動かす。

いま、一条は寝具に横たわっていた。

今のところ、安穏とした状態が続いている。しかし、安穏といっても、ただ単に何の問題も起きていないということだ。実際、一条の顔色はあまりにも悪く、薄い衣が一条の細身をはっきりとさせている。その年にして肩幅は狭く細く、病的な存在であることを強調させている。

吉平は溜息を吐いた。

まるで、皮と骨だけで体ができているように見える。

「あそこまで細いとさすがに薄気味悪いな……」山姫もかすかに人間らしく表情を曇らせる。

そう、薄気味悪い。

まるで捨てられた孤児のように、何日も食事を与えられていない子供のように、一条の体はあまりにも弱々しい印象を与える。

何か小さな出来事で、あの体が崩れてしまいそうな、そんな儚げな存在。

「屋敷に来てからも、無理してたんじゃないだろうな……」吉平が不安げに呟く。

「ところで、おまえたちは智徳法師に関して何かの動きをつかんだか?」

唐突に山姫が尋ねた。

「いいや……陰陽寮が確認したのはただ京に蘆屋道満と智徳法師が上京したというだけの情報だ。それ以外の情報はまだつかんでいない……智徳法師が、どうかしたのか?」

「いいや、晴明は奴を注意すべき敵と数えていない様子だったからな」

吉平は首を傾げた。

父の旧友であった蘆屋道満に同じく、智徳法師は播磨の国出身で活動していたヤミ(民間)陰陽師のひとりだ。実際、占いなどで違法な金を巻き上げて賄っていたと聞いている。父とかつて式神で対決したことがあったというが、その闘いを聞くところによると、父に式神を拍子抜けするほど容易く隠されてしまい、あっけないほどの幕引きだったという。

智徳法師は、相当な雑魚ではないのか。吉平はそんな意識を持っていた。

「……智徳法師は播磨の国で相当の弱輩だ。戦力外だろう」

「ただし、上京したのは確かなのだろう? いまだ何の動きがないというのが少々引っかかる……それに、智徳法師は権力欲におぼれすぎている……不穏なことが起こらねばいいが」

山姫が智徳法師による危険性を危惧する。

吉平は参ったように空を仰ぐ。

一昨日の“修験落ち”の攻撃で受けた怪我はまだ癒えていない。それなのに、一条を拾った晩の次の日の夕方、ふたたび“修験落ち”が襲撃してきた。今度は多くの、庶民を犠牲にして、巻き込んで。

“修験落ち”は攻撃の手を緩めないだろう。

ひょっとしたら、今日も攻め込まれるのかもしれない。

だが……“修験落ち”の動きに、吉平は引っかかるものを感じた。

何かが、妙だ……一条を危険視しているもしくは一条を利用しようとしている……それが目的ならば、早急に一条を掌握せんと動くのは当然としか考えられない。

しかし……五年間も“修験落ち”は表にも裏にも現れる事無く姿を消していた。

それなのに……一条が襲われた次の日の夕方に、ふたたび攻撃するとは……



すでに壊れ始めていたこの世界。

そして、壊れ始めている世界――ムゲンに一条殿がこの時期に訪れたのは、単なる偶然といえるのだろうか……

晴明は自室でひとり書物を広げて思案していた。

「――妙じゃな……」

ひとり呟く。そう、確かに妙なのだ。

一条殿の魂魄は、ムゲンの森羅万象に組み込まれることはない。何しろ、彼は『この世界に存在していない魂魄』なのだから。しかし、現に一条殿はこの世界に存在している。存在意義が矛盾しているのに……いいや、存在意義が矛盾しているからこそ、そういう訳なのだろう。

だからこそ、一条殿はいまだ前例なき能力を発動させることができる。

一条殿の能力。おそらく、それは神の領域に部類されるもの。陰陽師が使う術とはあまりにもかけ離れている。

だが強大な力ゆえに、またそれは脆い。まるで岩のように。

一条殿の魂魄を利用すれば、森羅万象に致命的な歪みを生じさせ、ムゲンを完全破壊することができる。魂魄という存在は、ひとつの世界を形成する土台たる存在なのだから。そして一条殿は、特殊な力を持つ魂魄。その影響力は普通の魂魄とは明らかに違う。

おそらく、“修験落ち”が執念深く一条殿を狙おうとする理由は、そこにあるのだろう。

だが……晴明の長年培ってきた直感が、警鐘を鳴らす。

一条殿がこの世界に来てから、ムゲンは何から何まで急激に変化している。

何故、“修験落ち”は五年間も姿を消していて、一条殿がムゲンに訪れた夜に、姿をふたたび現したのか? 時期が奇妙に引っかかって思えない。

かの“修験落ち”は間違いなく一条殿を利用してこの世界を破壊しようとするだろう。

しかし、一条殿の利用価値についての情報をいつ入手したのか、それが最大の謎だった。

あの“修験落ち”は、あらかじめ一条殿がこの世界に訪れることを予期していたのか。予期する方法があったのだろうか……もしそれが可能な場合と不可能な場合、どちらにおいても必ず次の疑問が残る。

一条殿がさまよう場所に、どうして鵺を連れて現れたのか。

“修験落ち”の目的は如何なるものか。あの時、ほんとうに一条殿を殺そうとしたのか。

あそこで一条殿が現れたのは、そして“修験落ち”が現れたのは偶然なのか、必然なのか。

それを、知る術はない。

さらに、『天竺』の天狗の千木……彼は何故、この世界……彼が『ムゲン』と名づけるこの世界に詳しいのだろうか……

あたかも、千木殿はこの世界の創造者のように物語る。彼は、いったい何者なのか。

そして最後に……仇敵、蘆屋道満と智徳法師……陰の陰陽師の再来。

間違いなく死んだもしくは行方不明となり、以来ふたたびその名を聞くことはないと誰もが思っていたはずだった。陰陽寮の誰もが、蘆屋道満の悪行を知る貴族もが、そして、彼らと縁浅からぬ安倍一族の誰もが。

それなのに、彼らはその名と姿をふたたび表舞台に現した。奇妙なことに、“修験落ち”と、ほとんど同じ時期に。

これを杞憂と即断するのは早計なり。

“修験落ち”も蘆屋道満も智徳法師も、そして妖の最高位『天竺』も……全員が、一条殿がこの世界――ムゲンに訪れることを予期して、まるで行動を準備していたようにしか思えないのだ。

誰も知らない所で、何かの歯車が動いている。

“修験落ち”、蘆屋道満、智徳法師……彼らの背後に、誰かがいるように思えてならない。

さらに、『天竺』の動きも不審。そう思えてならない。

「何やら……雲行きが怪しくなりそうですなあ……」晴明は、誰にともなく呟いた。



京の彼方にある密林。

まったく手入れされていない樹海のなか、小川は穏やかに流れていて、風の音と風に泳ぐ木の葉と小枝の音以外、聞こえる音は何もない。静謐な空間。まるで別世界のように、そこは静か過ぎる世界だった。誰も入ったことのないようなその樹海のなかに、古い時代の獣道のように細い道がある。ただし、その道には石畳が敷かれていて、緩やかな斜面の彼方へと伸びている。

その道の行き着く先は、小さな尼寺。

その縁側に腰掛けて、外の景色を静かに寂しげに眺める者の姿が、ひとりあった。

水干を着ていて、たたんだ扇をひざの上に置いていて、風流に景色を眺める。

「お待ちしておりますよ……」その女性は、ひとりの、少年の名前を静かに呟いた。



「“太虚の覇者”、一条守殿……」



比叡山延暦寺。その『鬼門封じ』の結界内。

その樹海のなかに孤島のように建てられた小さな尼寺。

そこに住んでいる賢者『白拍子』こと白露姫は、彼女以外誰もいないこの静かな世界で、まるで誰かが来るのを待ち望むように、風流に景色を眺め続けていた。

ひとり寂しく、そして静かに。

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