第一夜 万代の宮 ②
四、
「――かの“修験落ち”があれほど早く接触するとは……これは意外だね」
南方に広がる京の町並みを見渡せる、倒木が幾つか重なり開けた緩やかな斜面。そこに転がる倒木に腰を下ろして、奇妙な格好をした男は興味深そうにひとり呟いた。
実に……奇妙な服装だった。
長身痩躯で、まるで黒い布を体にただ巻きつけたような服装だ。印象的なのは、背中の部分が大きく開いていること。なだらかな斜面を流れ落ちる風は冷たいというのに、薄着をしている男は寒そうな身振りをまったく見せなかった。
「全部、あんたの読み通りだったな」
近くで、女の声がした。
男はゆっくりと頭を動かした。男の左手にある地震が来ても倒れないような頑丈な樹木。その枝に腰を下ろしている女の姿。茜色の水干を着ていて、長い黒髪が、こんなに明るくても妖しげに風に揺れる。
――よく、分かるもんだな。
無表情に淡々と紡ぎだされるそのことばに、男は冷たい笑みを浮かべた。「おまえだって、目を凝らせばおのずと分かるようになるさ。あの京で起きることなど実に読みやすい」
「どういう意味だ?」女は怪訝そうに尋ねる。
男は立ち上がり、京の町並みを見渡す。
まさに、それは碁盤を重ねてしまうほど整然としている。
「まるで神様が人間に造らせた、単純に大きな遊び道具そのものじゃないか」男は言った。「町並みはまさしく碁盤、神様が作った人形劇の舞台。怪異はまさしくあの京を中心にして起こる。何しろ、この京ほど陰気で美しい場所はないからな」
男は両手を広げた。嬉しがるように。
さあ、神が打つ次なる手を見定めようじゃないか。
神が黒い石を打つというのなら、我らは白い石を打とう。
いままで語られた物語を、全て白紙に戻すために。我らが新しく語るがために。
神が白い石を打つというのなら、我らは黒い石を打とう。
神がつくった物語を、黒く塗りつぶすために。誰も読めなくするために。
「さてさて、神が打つ次なる一手は如何なるものや?」歌うように男は口ずさむ。
神の一手――それが興味深いと同時に読みやすいというのは、時に残酷。
狂乱したように呟く男のそんな後姿を、女は冷たく見下ろした。
「――えらく上機嫌じゃないか、鞍馬天狗」
鞍馬天狗と呼ばれた男はニヤリと笑って振り返った。
「上機嫌、当たり前じゃあないか。確実に布石は揃いつつあるんだ。何しろこの世界に来て間もなく、あれはすぐさま覚醒させた。好ましい前兆だ。そして注目すべき点は、人間でありながら妖怪に傷ひとつつけることなく、身動きを封じてみせたこと!」
「それならば、早々にお迎えにあがらなければなりませんな」
鞍馬天狗の背後から、音もなく中国の詩人のような姿をした男が現れた。「いままでの人間とは違った見方をその者がするのなら、陰陽師どもに洗脳される前に、お迎えにあがらねば。我らの同胞として」
「その通り……まさしくその通りだ! 喜べ、水虎」旧友を迎え入れるように両手を挙げて、鞍馬天狗は満面の笑みで言った。「ついに時は満ちた。我らの悲願はついに果たされるぞ」
ざわりと、風が吹き抜ける。女は冷たく鞍馬天狗を見下ろす。
――さあ、諸手を上げて迎え入れようではないか。
鞍馬天狗は悦ばしげに言った。
――我ら『天竺』の一角として、この世界に選定された者である一条守を……
広げられた書物に視線を落としていた一条は、不意に顔を上げて外に眼を向けた。塀の向こうに広がる青空。外から聞こえてくる音。
「……どうかなされましたか、一条殿?」晴明が一条の視線を追って、外を見たまま尋ねた。「なにか気になることでも?」
「あ……いえ、なんか……なんでもないです」説明しようにも説明しにくいので、一条は首を振った。「すみません、自分でもよく分からなくって」
「はあ……」
晴明の戸惑うような呟き。一条はふたたび外を見やった。そう、自分でも分からないのだ。
すぐそばから、そして遠くから誰かに見つめられていたような気がする。どこからか誰かに名前を呼ばれたような気がする。
実際、誰もいないのに、自分の名前を呼ぶ声なんて、聞こえないのに。
何か、引っ張られているような感じがしただけだ……
「……では、一条殿」晴明は巻物を手にした。「説明に戻ってもよろしいですか?」
「あ、はい」一条は慌てて姿勢を正した。「お願いします」
――いま、一条はこの世界の基礎知識を簡単に教えてもらっていた。
中学校や高校の授業で平安京に関する基礎知識はかろうじて頭に記憶していたが、この時代では常識の範囲内である神話や陰陽道や神道や仏教や大陸やら、この時代の世界観に関することはまったく知らない。いま、一条が借りている部屋には巻物が乱雑に散らばっている。すべて、晴明が大量に自室から持参したものだ。
それにしても、ものすごい量だ。
この部屋に晴明が両腕に大量の巻物やら書物を抱えてやってきた時、思わず手伝いましょうかと心配してしまうほどの量だった。ほんの一抱えと言っているが、いったいこの屋敷にどれほどの書物が眠っているのか、驚きと疑念を抱かずにはいられなかった。
「……ほんと、すごい蔵書量ですよね」きちんと整理整頓すれば、小さな図書館がつくれそうなくらい山ほどある書物を眺めながら、一条が呟いた。
「確かに、蔵書量が多いのはちと困りますな」晴明が笑みを浮かべて言った。「何しろ、必要な書物を探すのに時間がかかりますからなぁ……私の部屋は散らかっておりますから、ほとんど毎日が発掘作業ですよ」
一条は先ほどの晴明の自室の光景を思い浮かべた。書物は整理整頓されていたかのように見えたが、晴明から見ればあれで散らかっているのか。
「さて、だいたい神代のことなどは説明が終わりましたから、次は陰陽道に移るとしますか」部屋の隅まで転がした巻物を巻き戻しながら、晴明は言った。「昨晩、あなたが鵺に襲われた際に、うちの息子たちが幾つか陰陽術を用いていたのを見られましたな? いまから、簡単な護身術を幾つか教えて差し上げましょう。九字護身法は基本的で最も広く使われる術ですから、まずはそこからとしましょうか」
晴明の説明に既に混乱していた。もう追いついていけない。
やたら難しい名称が出てきて、頭のなかで全く漢字が思い浮かばない。
「九字護身法って……どんなものなんですか?」難しそうだと思いながら、一条は質問した。
「ことばに宿る力――即ち強い言霊を用いて妖怪や穢れを退ける、攻撃にも防御にも用いる、そういった類の術です」晴明は巻物を幾つか抱えながら、分かりやすく言った。
そういえば、昨日の夜、吉晶さんが……と、一条はふと思い出して口を開いた。
「りょう……なんたらかんたらって、鵺に襲われていた時に叫んでいましたけど……」
「令白由旬内、無諸衰患――元々は病などの穢れを払うために用いられてきた言霊ですが、この京においては、それを病に類する穢れである、妖怪を退けるために用いられることもあるのです。妖怪を退治するときに専ら用いられるのは、臨兵闘者皆陣列在前――これですね」
「あ、それは聞いたことがあります」
よく、アニメとか映画とかで出てきたなと、一条は思い出した。
「臨める兵闘う者、皆陣列ねて前に在り。九つの文字を唱えながら、刀印の構えをした手で、横五本、縦四本の線を描くと、妖怪を退治することができ、また結界を作ることも出来ます」
散らばった書物を片付けるのを手伝いながら、一条は尋ねた。「そういえば、吉晶さんたち、出仕とか言っていましたけど、どこに出かけたんですか?」
「あれらは一応、陰陽師の端くれ。実際は下っ端ですが……陰陽寮と呼ばれる場所に出かけたんですよ」晴明が静かに言った。「陰陽寮とは陰陽師たちが働く朝廷の政府機関。この京の怪異を鎮め吉凶を占う場所でもあります」
内裏に近い場所に位置する陰陽寮。その建物の中にある、広い一室。
その部屋には、陰陽寮の幹部――陰陽寮の最高位陰陽師である陰陽頭、賀茂保憲。さらに天文博士や陰陽博士など陰陽寮における多数の幹部が敷物の上に腰を下ろしている。座する者たちの表情は固く、口を閉ざしている。
重苦しい空気だった。まるで彫像のように、誰一人身動きひとつしない。
沈黙。それを破ったのは、ふたりの陰陽師がその部屋に近づく足音。
「来たか……」まるで眠っていたような表情だった賀茂保憲は静かに呟いた。
その部屋に現れた陰陽師は、安倍吉平とその弟の吉晶。
「失礼します」ふたりは頭を下げて、礼儀正しく遅参の無礼を詫びた。
「遅れることは構わん。ふたりとも、座するがいい」陰陽頭は穏やかに言った。「昨晩の戦闘で怪我をしたと聞いていたが、大事無いようで何よりだ」
「はっ」吉平が頭を下げて、吉晶がそれに倣う。
安倍家のふたりの陰陽師は、指定された場所へと静かに向かう。
「さて……実に五年ぶりではあるが、昨晩、朝敵――かの“修験落ち”がふたたびこの京に現れた……すでに、皆の知っての通りであるが」安倍家の陰陽師が着座するのを確認して、賀茂保憲は一同を見渡しながら口を開いた。
「――急な招集に感謝する。これより、定例会を執り行う」
五、
率直なところ、こんな所には来たくはなかった。
安倍吉平は誰とも眼が合わないように謙虚に視線を下に向けたまま、内心、うんざりとしていた。陰陽寮における実力派。幹部たちと同席するのは、正直、疲れる。渦巻くように感じ取られる暗い感情。陰湿な空気。聞こえるはずのない声が聞こえる気がして、はやくも頭痛を感じていた。
――はやく、終わればいいのだが。
そんな、淡い願いを、一人寂しく抱く。
陰陽寮における定例会では、有事に関する対策などで地位的に上位の陰陽師が召集される。
度々陰陽寮内で開かれるこの会議に、よもや自分たちが加わることになろうとは、吉平と吉晶はまるで思っていなかった。
誰もが誉れに思うかもしれないが、息苦しい。ただそれだけだ。
部外者を見るような視線が鋭い。その視線に込められているのは、明らかな蔑み。
――何故、安倍家の者たちが?
――よもや狐の化生絡みではあるまい……
――昨晩、いったい如何様なことが起きたのか……
冷たい視線、鋭い言霊。そして、息苦しい沈黙。
「――失礼ながら、一言よろしいでしょうか」陰陽頭の隣に座している陰陽頭の補佐の任を負う陰陽助が口を開いた。「昨晩の変事に関してはすでに周知のとおり。検非違使からの報告も今朝方届いております。“修験落ち”が確認されたのは知っておりますが、いったい何故、ここに安倍家の者たちが?」
「それは追い追い話すとしよう。物事と話は順番というものを守らねばなるまい」賀茂保憲は静かに言った。「気づいた者は多くないと思うが……早速だが昨晩、星が揺れ動いた。それに気づいた者のなかで、それが意味するのを読み解いた者はいるか?」
――星が、揺れ動いた。
そのことばに一同は顔を見合わせる。
……揺れ動いた? 正しくは、星が流れ落ちた、ではないのか?
誰もがそう言いたげな表情で顔を見合わせ、再び視線を陰陽頭に戻す。
「誰も分からぬのか」残念そうに賀茂保憲は静かに呟いた。「そう、間違いなく、星が揺れ動いたのだ。落ちるかに見えたその星は、しばらくすれば元の位置に戻っていた。まるで、何事もなかったかのように」
しかし、何かが起きたことは明白。そして、その意味は読み解くことができない……
陰陽頭の一言に、居並ぶ陰陽寮の幹部は唖然とした面持ちになった。いまだかつて見られない星の動きだけに驚いたのではなく、陰陽道において占いにおいて相当なる実力を示したあの大陰陽師、賀茂保憲が意味を読み解けないことに驚いているのだ。
星の動きが読み解けぬ。
それは即ち、陰陽師としての力量不足を意味する。もしくは、力の枯渇を。
「そう、読むことが出来なかったのだ。その星の動きを」陰陽頭は静かに繰り返した。
それは、まさに揺れ動いた。
そのひとことが、まるで風が吹いて森がざわめくような音を招いた。
誰もが不安げに訝しげに呟きあっている。
同席していた吉平と吉晶は、初めて聞く星の動きの情報に、お互いの顔を見合わせた。星が揺れ動く……即ち、落ちるかに見えた星が元の位置に戻ったということは、本来、起こることがないことが起きたと考えるべきではないか。
……もしや。
安倍家の陰陽師は、陰陽寮に対して昨晩の変事を報告した内容に、保護した一条のことを含めていた。
今回の定例会には、陰陽寮の下っ端のなかの下っ端である吉平たちの身分では参加することは許されない。今回、“修験落ち”がふたたび京に現れた際の目撃者として、同席を求められたものと考えていたが、どうやら陰陽頭には別の考えがあるらしい。
吉平は嫌な予感がした。横目で見ると、吉晶も不安げな表情だ。
杞憂であればいいが……
「静まれ」賀茂保憲はかすかに威圧するように言った。「そこまで兢々とする必要はなかろう。揺れ動いた星に関しては、先が見えず、読むことができない。まず、分かっていることは、まだそれだけ」
――まず、分かっていること?
奇妙な言い方に、同席している陰陽師は怪訝そうな表情になる。
「陰陽頭。どういうことですか?」陰陽博士のひとりが怪訝そうに尋ねた。
“まず、分かっていること”とは、どういうことなのか。
その星が揺れ動いて、意味を読むことが出来ず、その先に何が起こるかを読むことができない。それならば、それ以外の如何なることが分かるのだろうか。
誰もが怪訝そうに顔を見合わせている。
陰陽頭の言い方に、吉平と吉晶は思い当たることがあり、表情を強張らせる。
どうやら、ふたりの予感は見事に的中したようだ。
「もしや……」陰陽師のひとりが、吉平たちに視線を向けた。「安倍家の直丁がこの席に招かれたのは、そのことに関与しているのではありますまい?」
ぴしゃりと、音が消える。陰陽師全員の視線が、安倍家の陰陽師に向けられる。
「いかにも」陰陽頭は静かに肯定した。「ふたりとも、昨晩に起きたことを詳細に話せ」
それは静かだが、促しではなく、紛れもない命令。
吉平は姿勢を正して、静かに陰陽頭の顔を見つめた。無情に見つめ返す賀茂保憲に、吉平は慎重にことばを選んだ。「失礼ながら、陰陽頭。星が揺れ動いたことに関しまして、あなたが予測なさっているのは、例の少年のことでしょうか」
「その通り」
吉平と陰陽頭の短いやり取りを、一同は緊張した面持ちで見守る。
「この場にてそれを持ち出すのは何故でしょうか。あの少年を如何なさるおつもりで?」
「案ずるな、命をとろうなどと、そんな野蛮な真似はしない」
「では、何故……!」
口調を荒げかけた吉平に対して、賀茂保憲は静かに片手を上げた。
「その者に関して我らは直接手を動かさぬ。まずは、昨晩何が起きたかを詳細に話せ」
かすかに苛立ちが滲む声。ハッとした吉平は、謝罪しながら頭を下げた。
「無礼をお許しください……昨晩は父上の命もありまして、見廻りは私と弟が急ぎ加わりました。その夜に凶が起こるとの父上の予測から、私たちはこの京で確認できた伊賦夜坂の穴に張った結界に、妖が近づこうとしているのではないかと考え、至急、幾つかを見廻りました。その際、鵺を従えた“修験落ち”を確認。“修験落ち”と鵺の攻撃を受けていた素性不明の少年一名を保護いたしました」
よく通る声で、吉平は説明した。途端に、怪訝そうに一同の陰陽師が視線を交わす。
「――あの“修験落ち”が悪戯に常人を襲うのか?」
「吉平殿、その少年はいったい何者だ?」
「この京の者なのか? それとも……」
呟き。そして問い質す声。伝えるべきかそれとも伏せるべきか。
一瞬迷ったが、意を決して吉平は答えた。
「その少年の名は、一条守――伊賦夜坂の穴をくぐった者です」
ざわり、とそんな音が、聞こえた気がした。
馬鹿な、と誰かが呟いたのを吉平は耳にした。
――黄泉国へつながるあの道を、少年が通ったというのか?
――我ら陰陽師でも近づけぬあの道を?
――いったい何者だ、その一条は。
吉平の爆弾発言に誰もが驚愕し、怪訝そうに不安げに囁きあう。しばらく一同はざわめいていたが、賀茂保憲が威嚇するように喉を鳴らすと、しんとざわめきが静まった。
「有り得ぬことだ、確かに有り得ぬこと」陰陽頭は静かに言った。「我ら陰陽師ですら、その穴より出てくる黄泉の瘴気は毒でしかない。それなのに、その少年は幼き齢にして、黄泉の瘴気をものともせずに、黄泉の穴をくぐった。生きている人間でありながら」
途端に、雨が急に激しく降り始めたように、騒がしくなった。
「お待ちを、その者は素性が明らかでないと言われましたな?」
「それならば、直ちに審問を行わなければなりますまい」
「黄泉の道をくぐるなど……死んでいる者ではないでしょうな?」
「どちらにせよ、調べなければなりますまい。その一条という者を」
途端に、陰陽師たちが喋り始めた。
「私は、その者が生きた人間であると信ずる。その者は安倍晴明の屋敷に体を休めているからな。晴明が死者であると気づけぬはずがあるまい」陰陽頭は静かに言った。
確かに、と誰もが呟き頷く。そして賀茂保憲は静かに続ける。
「今回、皆を招集した訳を話そうぞ。昨晩、揺れ動いた星が起こるはずがない事が起きたことを意味するのなら、ひとつの仮説を立てるしかない。この世界の人間でないものが現れたと仮定しよう。一条守という少年がこの世界に現れたなら、これから星がどう動き、道がどう変わるか。直ちに、全員で取り掛かってもらいたいのだ。火急の用件だ。もし一条殿がこの世界に居るはずのない人間でありながらこの世界にいるという事実が、いったいどのような影響を森羅万象に及ぼすのか。ただちに調べよ」
静かだが重いことば。その命令に、全員が頭を下げた。
「――吉平と吉晶は用がある。後ほど、私の部屋まで来るように」
安倍家の陰陽師に、陰陽頭は疲れたように言った。
「はっ」ふたりは頭を下げた。
陰陽頭は一同を見渡して静かに言った。「――それでは、各自通常業務に戻ってくれ。卜占等の結果が出たのなら、早急に私に知らせるように。以上だ」
そのことばに、同席していた陰陽師が頭を下げる。陰陽頭が無言で部屋から退出すると、ひとりずつ音もなく立ち上がって、縁側へと歩いていく。
こうして、定例会は、終わった。
「……まさか、あのような形で一条殿のことを口にされるとは思ってもいませんでしたね」
縁側に出て外の景色を眺めながら、吉晶は吐息した。「それにしても、一条殿をどうなさるつもりなのか、最初、陰陽頭の意図がまるで読めずに不安いっぱいでしたが……ところで、兄上……お顔色が優れませんが、ひょっとして気分でも悪いのですか?」
「いつも思うんだが……保憲様と親父は……似ているよな」
吉晶は一瞬何のことか分からずに瞬きしたが、くすりと笑みを漏らした。
確かに、と相槌を打ちながら吉晶は続けた。「確かに、保憲様と父上は似ていますね。それは元々、おふたりが師弟の関係だったからでしょう。この母にしてこの子ありならぬ、この師にしてこの弟子ありと言ったところでしょうか」
「師弟という上下関係は、絶対に悪いところを吸収してしまうよな」
「それは兄上が口にしてはいけない内容ですね。だいたい、兄上が言える台詞ですか」苦笑して吉晶が言った。「さっさと陰陽頭の許へとお伺いしましょう。何事も、はやめに済ませることに越したことはありません」
「そうだな」
吉平と吉晶は、陰陽頭の執務室へ向かった。
縁側を歩いている途中、吉晶は独り言のように呟いた。「それにしても……昨晩、星が揺れ動いたとは……まったく気づきませんでしたが」
「親父は今朝の時点で何もその事に関して言ってこなかった。ただ星の動きに気づかなかったのか、それともあえてなのかは分からないが……」吉平は思案顔で言った。「まあ、何も言ってこない時点で意味が読み解けていないと思うが……」
「確かに、父上の師匠である保憲様が分からないのなら、父上が分かるはずもありませんね」
「落ちるかに見えたその星が、元の位置に戻る……これが引っかかるな」
「……全て、一条殿が現れてから何から何まで複雑なことが起きていますね」吉晶が思い返すように呟く。
ふたたびこの京の表舞台に現れた、“修験落ち”と鵺の動きにせよ、星の動きにせよ。
不可解なことばかりだ。
そう、確かに、有り得ないことばかりが起きている。全て、一条がこの世界に現れた時点で。今まで起きていなかったことが起きて、静まっていたはずなのに、騒ぎ始めて不穏な空気が濃くなっている。
「何か、関係しているのでしょうか」
「間違いなく関係しているはずだ。でなければ俺たちが定例会の同席を認可されるはずがない」吉平が断言した。「父上も保憲様も、間違いなく悪いところだけ似ているんだよ。何しろ、何を考えているのかさっぱり分からないんだからな」
「兄上、声が大きすぎますよ」
「実際そうだろうが、実際」吉平が面倒くさげに言った。「保憲様も全部話し終えたとは思えない。俺たちが呼び出されているのがいい証拠だ。おそらく、面倒ごとを頼まれるんだろうよ……」
外に視線を向けながら、ふと、呟く。
「……読み解けない、か」
「何か仰いましたか、兄上?」
「陰陽頭あろう方が、星の動きが読み解けないのが、正直不思議でたまらん」吉平が暗い面持ちで呟いた。「保憲様も読めないなら、父上も読めないだろうが……率直なところ、星の動きを読み解けないことが、最悪の事態にしか思えん」
「……と、言いますと?」
「もはや陰陽寮は誰一人、これから先にどのようなことが起きるのか、吉凶を占うことも出来ず、先を読み解くこともできないのじゃないか?」
吉晶が顔色を変えた。「まさか、そのようなことは……」
「予測のひとつだ。可能性としては拭いきれまい」素っ気無く吉平が言う。
「しかし……」なお不安げに吉晶が呟く。「兄上、そのような悪しき結果を招きかねない発言は控えてください。もし、それが現実になると……」
吉晶は、口を閉ざした。
「――もし、すでにそのことが現実になりつつあるとしたら?」
吉平が、背中を向けたまま呟く。
「――いよいよ……不穏な空模様となりそうですね」吉晶が呟く。
「まったくだな」吉平は短く返答して、先を急いだ。「もし、先のことが読めないのなら、陰陽頭としての責任問題が問われる……どうせそこでほくそえんでおられるのでしょうが、保憲様はいったい私たちにどのような厄介ごとを押し付けるつもりなのですか?」
吉晶はさすがに慌てた。
いまの吉平の発言は、相手側に明らかな侮辱と受け取られても仕方がない。
「兄上!」さすがに慌てて吉晶が叫ぶ。
すでに場所は、陰陽頭が執務用に使う一室の近く。
部屋のなかに本人がいれば、間違いなく聞こえたはずだ。
「――構わんよ、吉晶。実際、私がおまえたちふたりに与える用事は、確かに厄介極まりないことだからな」
陰陽頭、賀茂保憲は音もなく縁側に姿を現した。
「聞こえておられましたか」吉晶が慌てて頭を下げる。
「聞こえるように言ったんだろう、吉平よ」ニヤリと笑いながら、陰陽頭は言った。「別に私は怒っていない。吉晶よ、おまえがそこまで兢々とする必要はない。正直、私のほうから頭を下げてお願いしたいのだからな」
ちなみに、と陰陽頭はほかの者に対しては聞こえぬようにやるようにと注意する。
「それほど……事態が切迫していると?」吉平が短く尋ねる。
「いかにも、なかへ入れ、ふたりとも」厳かに賀茂保憲はふたりをなかへ誘う。「この内裏にも不穏な気配が渦巻き始めた。安らかな場所はもうないと心得よ」
不吉さを滲ませる口調。
安倍家の陰陽師は顔を見合わせた。
「と言いますと?」今度は吉晶が尋ねる。
「今回の、昨晩、星が揺れ動くという不吉な予兆……吉平よ、確かにおまえが考えている通り、私はその意味を読み解くことが出来ず、全ての陰陽師がこの先の吉凶と道先に何が起こりうるかを知ることができなくなっているという怖れが、いまや確実に現実的なものに成りつつあるかも知れぬ」
陰陽頭の発言に、吉晶は息を呑み、吉平の表情は険しくなる。
賀茂保憲は静かに続けた。「星の動きとその意味すら読み解けなくなるという、それこそがそれ自体が不吉な予兆だ。おまえたち二人には、これより内密に裏で動いて貰いたい。この不吉な予兆が、人為的な原因によるものなのか、それとも森羅万象の定めによるものなのかを」
吉平は首を傾げた。
「その人為的な原因――とは?」
何者かがこの事態を仕組んだと言うのか?
吉晶も、神妙な表情で沈黙している。
「――何者かがこの事態を仕組んだと考えておられるようですが、もしや陰陽頭は……」吉平は鋭い視線を投げかけた。「……心当たりがあるのですか? 朝敵“修験落ち”以外の何者かに」
「ある、お前たちに、いや、お前たちの一族に縁ある者だ――」
……我らの、一族?
安倍家の兄弟は顔を見合わせる。陰陽頭が言わんとしている人物が、まるで分からない。
それは、いったい、何者なのか。
「失礼ですが、私たちは他人の恨みを買うような行いはしておりません」
吉平の発言に、賀茂保憲は苦笑した。「ところがおるのだよ、それが。おまえたち一族に呪いをもたらさんと画策する人間が。そう、おまえたちの行いに何の欠点もない。だいたい、陰陽寮において下っ端のおまえたちに、悪名高き蘆屋道満と智徳法師が何の恨みを抱こうか」
蘆屋道満。
――そして、智徳法師。
思いがけないふたりの人物の名を耳にして、吉平と吉晶は驚愕した。どちらも、聞き覚えのある人物で、もはやその名は聞くことがないだろうと思っていたのだから。確かにどちらも、吉平と吉晶に縁がある。安倍家の一族の者ならば、確かに縁はあるのだ。
正確に言うと、ふたりに直接縁があるのは吉平と吉晶のふたりではなく、彼らの父安倍晴明。
蘆屋道満と智徳法師。彼らふたりは、父上、安倍晴明の仇敵たる存在であるからこそ。
「――失礼ですが、何かの間違いではないのですか?」
吉平は、疑っていた。
蘆屋道満と智徳法師。どちらも播磨国で活動していた陰陽師である。
そして、蘆屋道満は死んだと噂されていて、智徳法師は山奥の樹海にて姿を消したとされている。どちらの陰陽師も、安倍晴明と接触して何らかの問題などを起こし、その後は京から姿を消して消息不明となり、その姿を最後に見た者はいないとされている。
――そう。
どちらも、死んだと噂されている人間だ。
「両名とも死んだとされている。本人であるとの確証は? その名を騙っている人間がいるだけではないのでしょうか?」吉平は、さらに尋ねる。疑い深く。
「名を騙るだけなら、おまえたちを呼ぶことはない」重々しく、保憲は断言する。
「では……」
「間違いなく、暗躍しているのは蘆屋道満。その人じゃ」
重大な宣告に、吉平と吉晶は顔を見合わせる。
「蘆屋道満も朝敵のひとりとして数え、そして私たちふたりに蘆屋道満および智徳法師の身柄を捕縛する――そう考えてよろしいのですか?」吉平が確認する。
「事態は火急。智徳法師は晴明との再戦しか頭に入っていないだろうが、蘆屋道満はかつて藤原道長様に呪詛を行った大逆人でもある。道長様の身に危険が及ばぬように、ふたりには直ちに動いてもらおう」保憲が静かに言った。「両名ともに、すでにこの京に潜伏しているはずだ。内裏内においては、敵方に情報が筒抜けであることを肝に銘ぜよ。“修験落ち”だけでなく、すでに蘆屋道満と智徳法師の手も、この内裏に伸びてきておるのじゃから」
「受け賜りまして候」吉平は静かに頭を下げる。吉晶もそれに倣う。
「道長様の警護に関しては、私たちはどう動けばよいのでしょうか?」頭を上げて、吉晶は聞いた。「蘆屋道満は道長様のお命をふたたび狙うでしょう。警護のために私たちが赴くべきでしょうか」
「そちらの方は心配無用。すでに光栄を向かわせている。最悪の事態に備えて待機してもらうようにあれには伝えてある。おまえたちふたりは道満法師と智徳法師の捕縛に専念してもらいたい」
陰陽頭は自分の長男――賀茂光栄の名前を口にした。
自分たちの父上、安倍晴明の同期にして相当の使い手。陰陽寮のなかでも一、二を争うほどの力量を持ち、父上と同じく道長様には重用されている。
「かしこまりました」吉晶が丁寧に頭を下げる。
しかし、吉平は頭を下げずに陰陽頭を無言で凝視する。
まだ、何かあるのでは、と問いかけるような表情で。
「――時に、保憲様」吉平は口を開いた。「用件はそれだけで?」
束の間の沈黙。
吉平は面を上げ、陰陽頭は吉平を凝視する。
「……ほんとうに、おまえは鋭い奴だの。私が何を言おうとしているか、おまえは大方分かっているのだろう」苦笑して陰陽頭は言った。「さて、もうひとつの用件だが……“修験落ち”と手を組んでいる人間が、この内裏の内壁にいる可能性が浮上した」
吉平は目を剥いた。
――まさか。
「有り得ません、朝敵と手を組むのは朝廷に対する大罪。死罪は免れません」吉晶は驚愕して言った。「たとえどれほど欲に溺れようが、間違っても――もしや……」
ふと、言葉を区切る。吉晶はある可能性に思い当たり、口を閉ざした。
そう、大逆人と手を組むことは朝廷に対する明らかな反乱行為。
危険分子は、この領域において抹殺される。
「考えられるのは、“修験落ち”本人がこの内裏の内壁にいるということ。そしてもうひとつが、“修験落ち”に命を脅かされ、従うことを余儀なくされている者がいるということ」陰陽頭は静かに言った。「さらに、蘆屋道満と智徳法師とつながりのある人間が、“修験落ち”と手を組んでいる可能性があるということ。私としては、最後のほうが大と考えるが……」
「貴族だけでなく、この陰陽寮の内部にも敵がいると……?」
吉平の問いに、保憲は重々しく頷いた。
「この事に関しては、私と幾人かで動くが、道満法師と智徳法師の捕縛が済み次第、おまえたちにも協力してもらおう」
陰陽頭はさらに続けた。
「もう一度言おう。もはやこの陰陽寮すら安全と言えなくなった。情報は全て敵側に筒抜けだと心得て、慎重に動くのだ。よいな、用心して動くのだ。すでにここは、見えざる敵の掌の上だぞ」
安倍晴明は縁側に出て、外を見上げた。
後ろのほうでは、一条が巻物を広げて熱心に文字を追っている。
空は、素晴らしく晴れ渡っているが、晴明の眼には好ましく映らない。
「――何事もなく平穏に、時が過ぎればよいが……」
ひとり呟き、目を閉じる。
――静かに寂しげに、風は吹き抜ける。
あまりにも不自然なまでに、冷たい風が。
まるで、晴明の願うような呟きを、小さな望みを否定するかのように。
六、
この世界に天色刻という、大まかな時間の数え方が存在しているからだろうか。
時間の経過は、あまりにもゆったりとしていて、そしてあまりにも早かった。一日中、書物に視線を落としていたから、体中が強張っている。片づけを手伝おうとして、幾つかの書物を持って縁側に出ると、景色がすっかり変わっているのに気づいた。
気づけばもう、空は茜色に染まりかけていた。
縁側を歩き出していた晴明は、ふと、振り返る。
あの小さな少年は、書物を抱えたまま景色に見惚れている。
静かに、視線を夕焼け空に向ける。
「見事な、茜色ですねえ……」感慨深げに晴明が呟く。
一条は、無言で頷いた。
確かに、見事な茜色だ。空だけでなく細く棚引く空も、見事な茜色だ。連なる山々は夕焼けに染まり、まるでいまが紅葉の季節と錯覚させるような、あざやかな色合いを帯びている。自分がいたあの世界では、滅多にこんなにきれいな景色は拝むことはできまい。
初めて見る景色、そう言っても過言ではないだろう。一条はそう思った。
「いつ見ても、惚れ惚れとするような美しさ」まるで呑み込まれるようだと、晴明は言った。「一日の終わりに、こんなに美しい眺めを拝めれば、自然と誰の心も必ず安らぐ……」
いつ見ても、か。
一条はふたたび景色を顧みた。確かに、見惚れてしまい、そして自分が呑み込まれてしまいそうに思えてしまう。
「――呑み込まれないように注意なさい、一条殿」唐突に、晴明は言った。
――え?
晴明の言葉に、一条は、振り返る。
呑み込まれる?
静かな表情で、晴明は諭すように言った。「この世界において、天色刻における『夕焼けの刻』は、昼と夜の境界線たる時刻。昼が人の領域とするならば、夜は百鬼夜行の領域。この『夕焼けの刻』において、『逢う魔が時』というものが存在します」
――『逢う魔が時』。
不吉な、響き。
どこかで聞いたことがあるな、と一条は思った。
「ご存じないかもしれませんが、『逢う魔が時』は夕暮れの薄暗い時間帯であり、百鬼夜行たちが動き始める時間帯でもあります。油断する者は百鬼に食われて変わり果ててしまいます。そういえば、百鬼夜行に出遭った時に唱えるまじないをご存知ですか?」
「いいえ……」そんなものがあるんだなと思いながら、一条は首を振った。
「カタシハヤ・エカセニクリニ・タメルサケ・テエヒ、アシエヒ・ワレシコニケリ――百鬼夜行に遭遇した際は、この呪文を唱えることにより、百鬼の害から逃れることができます」晴明が説明した。「まあ、さすがに夜間外出はさせませんから、実際、覚える必要がありませんが……」
「……カタシハヤ……なんかすごい難しそうな呪文ですね」
正直なところ、晴明の博識なところに驚きを隠せない。いったい、どうやったら何回も舌をかんでしまいそうな難しい呪文を楽々とそらんじることができるのだろうか。不思議でたまらない。
それを指摘すると、
「なあに、陰陽師は知識量がなければ存在価値がありませんからな。吉平と吉晶もこれくらいのことは知っていますし、私よりも記憶力は確かですぞ。この老いぼれと話すよりかは、歳が近い者と話すほうが楽しいでしょうし、何よりまじないなどを覚えやすいでしょうね」
とあっさりと言われた。
あの吉平も晴明に負けないくらいに博識なところに、一条はショックを受けた。正直、アイツのことはほとんど俺以下の馬鹿だと思っていたのに。
「そろそろ、息子たちが戻ってくるでしょう」
晴明の部屋に戻って、書物を丁寧に書棚の上に置きながら、晴明は言った。「それまでの間、さすがに暇でしょうから、部屋で幾つか書物を読まれますか? 好きなものを選んで構いませんぞ」
「ええっと……」
困ったなと、一条は思った。
一条としては、ご好意に甘えることができなかった。
何しろ、自分ひとりでは書物を読むことができないのだ。この時代の書物は全て知らない漢字で書かれていて、一文一文がものすごく高度な暗号に等しい。どう読むのか文章の意味を理解するのにかなりの時間をかけてしまう。
「それは……遠慮しときます」
「おや、帰ってきたようですな」晴明が唐突に顔を上げた。
ただいま帰りました、という声が小さく聞こえてきた。足音も聞こえる。しばらくすると、吉平と吉晶が縁側を通りかかって、一条と晴明に気づいた。
「一条殿、こちらにおられたのですか」吉晶が顔を覗かせた。
「お帰りなさい」
「ただいま、だな」吉平が言った。「どうする、今日これからなら散歩に付き合ってやってもいいぜ。俺たちはもう今日は時間が空いているからな。出かけるか?」
「ご一緒しましょう」吉晶が優しくうなずく。
「ありがとう……」一条は小さく礼を言った。
正直、恥ずかしいなと思いながら。
一緒に来てもらうなんて、なんだか自分が子供のように見える気がする。
「では、出かけてきますよ、父上。今日は鴨川辺りを歩いてきましょう。あの辺りだと、市がありますから」吉平が言った。「それと、陰陽頭よりの文です。口頭でお伝えしなければならないこともありますので、また後ほど」
「うむ、気をつけて」吉平の差し出した文を受け取りながら、晴明は言った。「では、楽しんできてください、一条殿――」
「ありがとうございます」
一条は、頭を下げた。
さすがにこの時代にシューズで外を歩くのは、かなり人目を集めてしまうので、一条は浅靴というものを借りることにした。漆塗りのサンダルのような黒い木製の履物だった。履き慣れない履物で靴のなかにある布のようなものに違和感があったが、ほとんど足を引きずるようにして一条は外をゆっくりと歩いていった。
「履き慣れないなあ……吉晶さん、いつもこれ履いているんですか?」
吉晶が頷いた。「ええ、出世の時などにはこの浅靴を使いますよ。水干などの衣装には、必ず浅靴を履きますから」
「カタカタする……動きにくくないんですか?」
「うーん、そうですねえ……動きにくいといえば動きにくいですが、あまり気にしませんね。慣れてしまえば、実際、そんなものは気になりませんから」
「なるほど……」
何事においても、慣れというのが肝心なのだろうな。
先頭を歩いていた吉平が振り返った。「着いたぞ、鴨川の市だ」
一条は右手に視線を向けた。
幾つかの簡単なつくりの屋台のようなものが造られていて、多くの人々が行き来している。にぎやか、というのが第一印象だ。昨晩、左京をさまよっていた時は、まったく人に会えなくて寂しい所だと思っていたが、京のこんな所に、こんなにたくさんの人がいるんだと、一条は驚いた。
「左京区は湿地でしたからね。いまや田園化している場所もありますし、平安遷都から間もなく、左京区は人が住めずに荒れ果てました」吉晶が説明する。「藤原氏を始めとする上流貴族の邸宅は、このように右京区に集中しました。そして、貧しい人々は鴨川周辺に市街地をつくって生活しています」
なかを、少し歩いてみましょうか。
ふたりに誘われて、一条は市のなかを歩いていった。行き交う人々。何かの道具や装飾品のような家具も置かれている。アクセサリーのようなものを売っているところもあれば、食べ物を売っているところもある。時折、小さな子供たちが楽しそうな笑顔と笑い声で、勢いよく人波のなかを巧みに走っていく。
テレビのなかにしかないような、こんな大昔の世界を、
まさか、こんなにも近くで見ることができるなんて。
一条はいまだ信じられなかった。
自分が、過去に来ているということが、いまだに。
吉晶が振り返る。
「どうかしましたか、一条殿?」
気づけば、一条は立ち止まっていた。
「何か欲しいものでもあったのか? いや、食い物でも探しているのか?」からかうように吉平が言った。「そんなに高くなかったら買ってやってもいいぜ」
「兄上……」まるで悪さばかりをする子供を見るような眼つきで、吉晶は兄を見つめた。
「……どうかしたのか?」吉平が眉をひそめて尋ねる。
安倍家の兄弟は、一条を見つめる。
一条は、周りの景色を奇妙な表情で眺めていた。
物珍しげに、物欲しげに、羨ましげに、そして、寂しげに。
いくつもの感情が、表情に滲み出て混じりあっている。ことばでは言い表せない表情。吉平と吉晶のふたりは心配げな顔つきになった。
「一条殿?」
一条は瞬きした。
まるで、雨がぽつりぽつりと降り始めるように、どんなことばで話せばいいのか分からないように、一条はひとつひとつゆっくりと話し始めた。
「……俺が居たあっちの世界とは全然違うな……あっちじゃ、毎日が味気ないって感じだった。起きたら食事して、学校行って、勉強して……毎日、同じことばかり繰り返している。全然楽しくないってわけじゃなかったけど、なんか物足りないような気がしていた」
毎日が、同じことの繰り返し。まさに無限ループ。
まるで自分が、人生という決められたレールの上を走る、ただの列車にしか見えない。そんなちっぽけで寂しげな存在にしか思えない。
自分の存在が、はっきりとしていない。そう思える。
生きる、ということが、あまりにも曖昧に思えたから。
どんなに仲の良い友達がいても、ひとりになる時間がある。だから、その時間はすごくひとり寂しくて、今日一日にあった楽しいことなんて、まったく思い出せないし、過ごしてきた今日一日が楽しかったかどうか、ただそれだけのことすら、もう自分ですら理解できなくて信じられない。
だけど、ここにいる人たちは、全員がそんな顔をしていない。
なんていうか……生き生きとしている。
物に満ちたあの世界。街中を行き交う人々は、皆が沈黙している。俺は、ずっとそんな所が大嫌いだった。すぐ横をすれ違う人が、自分の存在に気づいてくれない。そんな気がしていた。
だけど、ここは違う。
ほんとうに、生き生きとしていて、いまの自分からしたら、眩しくて眼をつむってしまいそうだ。
さっき、見知らぬ子供に、そして大人にあいさつされた。
話しかけられた。
「この世界……すごくきれいですよね」
一条は市から離れて、鴨川沿いを歩きながら、腰を降ろして呟く。吉平も近くに腰を下ろし、吉晶は一条の近くに立ったまま。
「……生きているっていう実感がなかった。あんな所じゃ」
でも、ここは。
誰もが、生きることに必死なんだ。
「生きているのに必死になれる人が、すごく……羨ましい」一条は、寂しげに呟いた。
そして、――眩しい。
しばらく、吉平も吉晶も何を言わなかった。一条は、夕焼けを反射している川のほうに視線を向けていたから、ふたりがどんな表情をしているのか分からなかった。だけど、この沈黙が、奇妙に嬉しかった。
唐突に、後ろから吉平が手を伸ばしてから、一条の頭を乱暴に叩いた。
「いってぇな」何するんだよと呟きながら、一条は上半身だけ振り返った。
「羨ましいのなら、それを手に入れようと努力して見せろよ」ニヤリと笑って吉平は言った。「人間は、所詮欲の塊なんだよ。良い意味でも、悪い意味でも。無茶苦茶なやり方でも、がむしゃらにやれば、生きているっていう実感が沸いてくる。自ずとな」
「兄上の言うとおりですよ」吉晶が肯定する。
一条は、吉平と吉晶の顔を交互に見やった。優しげな表情だった。こんなに近くからそんな表情をされて、親身に声をかけてもらえることが、すごく嬉しいと思っている自分が、ここに、いる。
「ありがとう」
一条の呟きに、吉平が意地悪な顔つきになる。
「え? 何か言ったか?」
「お礼言ったんだよ、吉晶さんに!」一条が真っ赤になって怒鳴った。
「おまえ……俺も一応慰めたんだけど……」やはりショックを受けた表情で、吉平が呟く。
「兄上、その態度をまずどうにかしないと、誰も兄上に感謝しませんよ。一条殿の行動はもっともです」さらりと止めを刺す吉晶。
「おまえらなあ、年上には敬意払えよ!」子供のように叫ぶ吉平。
だけど、その顔は、嬉しそうで楽しそうで。
吉平と吉晶は笑い声を上げた。気づけば、自分も笑っていた。ほほが、緩んでいる。
風がさらさらと吹き、夕焼け色に染まった草むらを揺らす。波打つ草むら。涼しい風。こんな所でこんな風に時間を過ごすなんて、初めてだよなと一条は思う。
一条は、小石を水面に向かって力一杯投げた。
水面が、揺れる。沈みゆく夕陽を写した水面が、唐突に不規則に波紋を広げる。
歪んだ景色。
それが戻ったとき、最初、異変に気づくことはできなかった。だけど、次の瞬間、一条は先ほどまでに写っていなかったものが、水面に映っているのに気づいた。
水面に映るは、向こう側の塀の上に立つ黒い人影。
それは見慣れた、影の形だった。
驚きと恐怖と困惑を同時に感じて、弾かれたように一条は顔を上げる。途端に体を冷たいものが、すばやく駆け巡ったのが感じられた。
体の内側にある何かが、引き裂かれたような……そんな気がした。
刹那――悲鳴が起きた。
「なんだ?」吉平が驚いて立ち上がる。吉晶も表情を険しくして辺りを見渡す。
ふたりとも、まだ、気づいていなかった。
一条が、眼を離すことができずに凝視し続ける光景に。
「どうして……おまえが居るんだよ」一条は真っ青になって呟いた。
視線は、川の向こう側へと釘付けになっている。
「一条、どうした?」一条の呟きを聞いて、吉平は振り返って怪訝そうに尋ねる。「……おまえ、顔色が悪いぞ」
「あ、あれ……」
震えながら、一条は片腕を上げて、岸辺の向こう側に並ぶ、ひとつの塀の上に不敵に佇む黒い人影。この距離からでも、それが誰なのか、はっきりと分かる。
一条の視線を指差す方向を追って――
ふたりが、顔色を変える。
「なんと……」吉晶が驚きのあまり呟く。
「早々にお出ましか……」険しい表情で、吉平が唸るように言った。
ふたたび彼らの前に姿を現したのは、朝敵――“修験落ち”であった。
――ジャラン、
昨晩も持っていたあの杖を振って、“修験落ち”は濁った音を発した。すると奇妙なことに、一回瞬きした途端に一条たちの視界から、“修験落ち”の姿が忽然と消えた。一条は驚いて立ち上がって、吉平と吉晶は用心深く警戒して辺りを見渡す。
「油断するなよ……」誰にともなく、吉平が呟く。
――ジャラン、
再び、音がした。
思ったより、近くからだ。
だから一条が驚いて音がした方向に眼をやると、すぐ向こう側の岸辺に“修験落ち”は佇んでいた。まるで、瞬間移動したかのように。顔面の部分に垂れる三つの目が描かれた布が、風に揺らぐ。奇妙に歪んだ三つ目は、ただ描かれているだけなのに、生きているように見えて、そしてまるで不気味に笑っているように見える。
気づけば、一条の体は震えていた。
恐怖による寒気から。
「吉晶、一条を連れて走れ。俺が時間稼ぎをする」吉平が油断なく身構えながら呟く。「何とか屋敷まで連れて行け。俺も後から行く」
しかし、吉平のことばが終わらないうちに、吉晶が緊迫した声で叫んだ。
「兄上、鵺です!」
「――何?」驚愕して、吉平が振り返る。
市にいた人々を薙ぎ払いながら、ヒョーヒョーという不吉な鳴き声を上げながら、建物を吹き飛ばしながら、三体の鵺が背後に扇状に広がる。背後を取られた。三体の鵺の背後で、人々が悲鳴を上げながら逃げ惑っていく。
先ほどの悲鳴は、あれが原因だったかと、吉平が舌打ちする。
「――いきなり三体もご登場ですか」吉平が表情を強張らせる。
「くそ、どうすれば……」焦りを募らせて、吉晶が呟く。
「――、危ない、ふたりとも!」一条が唐突に叫んだ。
――ジャラン、
刹那の瞬間だった。
瞬きした瞬間に“修験落ち”の姿は再び消えた。向こう側の岸辺に居たはずなのに、一瞬のうちに一条たちの目の前に姿を現した。ジャラン、と音がすると杖が吉平に鋭く突き付けられる。まるで剣道技の『突き』のように。
先端が、鋭利に尖っているのに一条は気づいた。
あれをまともに体に受ければ、間違いなく怪我してしまう。
「うお!」慌てて後ろに下がりながら、吉平は“修験落ち”の攻撃を回避した。
一条と吉晶はふたり同じ方向へと距離を取る。“修験落ち”が体勢を立て直した拍子にジャラン、その音がした途端、鵺たちが昨晩と同じように獰猛な動きで襲い掛かってきた。
「一条殿、逃げて!」吉晶がほとんど悲鳴のような叫び声を上げる。
「屋敷まで走れ!」吉平が怒鳴る。
安倍家の陰陽師のふたりが気づいていないことに、一条は気づいた。
景色が、変わり始めている。
まるで、白い呪い札のようなものが、ゆっくりときれいな円状に広がっている。何かが描かれているみたいだが、よく見えない。右手から、左手から、それはゆっくりと広がり、一条たちを広く取り囲んでいることに気づいた時には、夕焼け色の景色が、消えていた。
黒い、ドームのようなもので覆われた世界。
見知らぬ世界に、誰もが取り残される。昨晩と似た状況であり、一条は心臓を冷たい見えない手でつかまれた感覚に陥った。
肺が、痛い。呼吸がしづらい。
何とか体勢を整えようとしていた安倍家の陰陽師たちは、ようやく景色の異変に気づくことになった。
「――しまった、結界だ」唖然として吉平が呟く。
まるで魔術的なサークルのように配置されている白い札に、絵が描かれ始めた。
三つの眼、一番上は白くて、二番目の眼は人のような眼。そして最後は虹彩の周りが黒い眼。山のような形をした白い線に対照的に被さるのは、黒い山の形。“修験落ち”の頭巾にある模様とそっくりだ。
ぎょろりと全ての札に描かれた眼が動く。見下ろす。
一条を。
まるで、逃げ場がないと言いたげに。
逃げ切れないと、言いたげに。
――ともて、気持ち悪かった。
“修験落ち”と鵺と対峙する吉平と吉晶。ふたりの周りに奇妙な脈動する光の陣や矢のようなものが現れる。“修験落ち”の周囲に陣や円が描かれ、光の奔流が“修験落ち”めがけて爆走する。一瞬、それは“修験落ち”を捉えたかに見えたが、まるで実体がないかのように空しく外れる。
次の瞬間――、
獲物の背後に音も無く迫った鵺が吉平と吉晶をあっけなく薙ぎ払い、吹き飛ばす。
「一条、逃げろ」呻くように、呟く吉平の声が、その声が小さくて聞き取りにくいのに、聞こえた気がした。
「なんで……なんでなんだよ」一条は呟いた。
“修験落ち”の狙いは、明らかに一条自身。
それなのに、どうして吉平と吉晶が傷ついてしまうんだ。どうして、俺はこんなにも苦しい思いに駆られるのか。
無力な自分が、恨めしい。
「なんで……俺を狙う」問いかけではなく、一条のただの呟き。
だがそれを、“修験落ち”は問いかけと受け取ったらしく、面白がるように首を捻る。斜めに一条を見つめて、歪んだ三つ目で凝視する。甲高い返答が、返ってきた。
「――大人しくすれば、あの者たちに危害は加えぬ。小生の許に来るか?」
人間味を帯びていない、冷たくて甲高い声。
一条は、体を震わせた。
「一条、聞くな!」立ち上がろうとして、吉平が叫ぶ。「そいつの言うことは聞くな! 走って逃げろ!」
「一条殿、はやく!」札のような紙切れを取り出しながら、吉晶が叫ぶ。
しかし、立ち上がろうとしたふたりとも次の瞬間、二匹の鵺に前足で体を思い切り抑え付けられてしまう。
「ぐぁぁ……!」
ふたりが、苦しげな呻き声を上げる。
「やめろ!」真っ青になって一条が叫んだ。
「――ならば、小生の許に来い、一条守。そうすればこやつ等の命は見逃してやる」
“修験落ち”の無常な冷酷な宣告。
「断れば、この者たちは死ぬぞ。何もできない無力なおまえのせいでな」
止めを刺すかのように放たれる、一言。
一条は眼を閉じた。
嫌だ、俺のせいで誰かが死ぬのなんて、見たくもない。絶対に。
「さあ、来るのだ――」
ゆっくりとした動きで手を伸ばす、“修験落ち”――
何かを叫んでいる吉平と吉晶。けれども、何を言っているのか聞こえない。
全てが、おぼろげでかすんでいく。何もかもが曖昧になっていく。視覚と聴覚が、曖昧なものになっていく。
迫る、黒々とした掌。
異様に長く見える細い指が、獲物を捕らえようと動く。
「――こいつが、何もできない無力な人間だって? 笑わせてくれるよ」
唐突に、声がした。
いままで聞いたこともない、誰かの声が。
草むらが、かさかさと音を立てる。刹那、轟音と共に、体が吹き飛ばされそうなくらいに強い風が吹いた。まるで台風か竜巻のような強風だ。思わず腕を上げて体を丸めて眼を閉じてしまい、次の瞬間、体勢を整えながら眼を開けた途端、一条は驚いて辺りを見渡した。
気づけば“修験落ち”は、いつの間にか向こう岸へと避難している。
そして、吉平と吉晶を抑え付けていた鵺の二体は、目に見えない巨人に弾き飛ばされたように体を横たえている。
何が起こっているのか、全く分からなかった。
いまの風は、いったい何だ?
向こう岸に立つ“修験落ち”は、表情ははっきりとしないが、明らかに苛立ちと憤りを滲ませた口調で、無感情に冷たく言った。
視線を、一条の肩越しへと向けたまま。
「――また小生の邪魔をするのか、貴様は」
「ああ、邪魔をしてやるさ。何度だってな」
“修験落ち”の問いかけに、まるで挑発するように答える声。
一条は振り返った。黒い布のような薄着の服装をした、長身痩躯の男がひとり、のんびりとした様子で歩いてくる。不敵に微笑みながら、怖れることなく歩きながら、大胆不敵に体を斜めに構えながら。
まとう空気が、あまりにも威厳がある。
「俺は人の嫌がることをするのが趣味なんでね。だいたい、俺はおまえがやっていること全部が気に入らないんだよ、半端じゃない吐き気がするんだ」嘲るように冷たく言いながら、その男は一条を顎でしゃくった。「言っておくが、こいつはおまえが考えている以上に、強大な力を持っている。こいつの力が完全に覚醒するのは、おまえにとって最悪な事態でしかない。何しろ、おまえがやろうとしていることを、完全に妨害する力なんだからな」
意味不明なことを言われ続けているのに、一条はムッとした。
実際、状況が状況でパニックに陥っていた一条だが、これ……と、道具扱いされていることが、なんだか腹に立つ。
「あの……誰ですか?」
いきなりの登場に当然の如く“修験落ち”に大胆不敵に宣言する男を怪訝そうに見やって、一条が怪訝そうに尋ねた。
男は口を開いた。おそらく自己紹介をしようとしたのだろう。
だが、その前にこの男の正体を“修験落ち”が教えてくれた。
「――鞍馬天狗か、おとなしく山へ篭ればよいものを」
――天狗だって?
驚いて一条は眼を向いた。
そんな一条の様子を面白がるように見つめ、鞍馬天狗は静かに落ち着いた口調で言った。「安心しろ、俺はおまえの敵じゃない。あいつは俺の大嫌いな野郎だから、一発ぶん殴るのには喜んで全力で手を貸してやるぜ、一条守」
なんで俺の名前を……
一条は呆然と呟いた。
「――走狗が。侮るなよ、すでにこの結界に……」
“修験落ち”が言い終わらない内に、鞍馬天狗はすばやく右腕を天に突き上げた。
鞍馬天狗を中心に沸き起こる、凄まじい強風。螺旋を描くようにうごめきながら、まるで鞍馬天狗の合図で動き始めたかのようなその強風は、鞍馬天狗がニヤリと笑った瞬間に、爆発したように上空へと拡散した。
掻き集められた風が狙うは、上空に円状に広がる三つ目の描かれた呪い札。
次々に円状にきれいに配置されていた札は、あっけなく吹き飛ばされていった。強引に引き剥がされていき、あらゆる方向から押し寄せる風に引き裂かれて消えていく。
まるで鏡の世界のように、だが少し薄暗いこの世界に次々に亀裂が入っていき、ついには砕けた。
戻ってきたのは、静けさと鴨川のせせらぎ。
そして、茜色の夕焼け空。
“修験落ち”が仕掛けた結界は、大妖によりあっけなく破り捨てられた。
「戻った……」一条は呆然と呟いた。
「それで? 結界がどうかしたって?」悪戯っぽく笑いながら、鞍馬天狗は“修験落ち”に問いかけた。「あれれぇ? なんか結界が壊れていませんか?」
「侮るな、まだ貴様らは数において不利なのだ」
うんざりしたように“修験落ち”が言い放つや、ジャラン、と杖を振った。
それに気づいた鞍馬天狗は、呆れた表情を隠せずに首を振った。「錫杖だなんて……おまえ、昔は諸刃の太刀を使っていたのに、ころころと武器をよく変えるよな」
「――それは遺言か?」
ぞっとするほど冷たい声。
次の瞬間、“修験落ち”は鞍馬天狗との間合いを一瞬で詰める。
「ほざけ、天狗を侮るな」ニヤリと笑いながら、鞍馬天狗は単純な攻撃――頭突きを食らわす。
そして、すばやく腕を振るって、旋風を“修験落ち”に叩きつけて吹き飛ばす。
無様に転がる“修験落ち”は、片足を鴨川に沈めた。
安堵も束の間、しかし、背後から三体目の鵺が襲いかかる。
「後ろから来たよ!」一条が慌てて叫ぶ。
「分かってる。おまえは動かないでいいよ」鞍馬天狗は静かに注意する。
次の瞬間、突進してきた鵺は軽々と吹き飛ばされた。まるで、そこにないはずの見えない壁に衝突したかのように。
一条は、音の変化に気づいた。そして、自分たちの周りの草むらの動きが、変わっていることにも。
「これって……」一条は唖然として目の前を見つめた。「あんたの力なのか?」
一条と鞍馬天狗はいま、巨大な竜巻の中央にいる。
「その通り。これは天狗風といってね、天狗が好き勝手に起こすことができる旋風。今の状況は簡単に言えば、台風の目を応用して造ったのさ。風の動きを見えにくくしてね」ニヤリと笑って鞍馬天狗は答えた。そして、“修験落ち”に語りかける。「存外に単純浅はか軽率な行動だな、“修験落ち”。俺の得意技はもう理解しているんだろう? それとも、長生きしすぎて記憶力が弱くなったのかな?」
その侮辱が終わると、“修験落ち”はゆっくりと姿を起こす。油断なく、天狗風に守られた鞍馬天狗と一条守を、じいっと見つめる。
唐突に、“修験落ち”はことばを発した。
「……、一条守よ」
おや標的を変えたかと、残念そうに呟く鞍馬天狗を無視して、“修験落ち”は冷たく宣告する。
「おまえが小生の許に下らぬのならば、こちらのふたりを貴様の目前でなぶり殺してやろうぞ」
――殺す、
そのことばが冷たく響き、一条は真っ青になった。
「やめろ!」
激情に駆られて、一条が叫んだ。
倒れたまま動かない吉平と吉晶に、鵺の二体が再び近づく。頭に手を載せて、ゆっくりと重心をかける。人質のふたりが、ふたたび苦悶する。
「ならば、そこから出るのだ」“修験落ち”は冷たく言い放つ。
――どうすれば、いい。一条は呆然として、隣にいる鞍馬天狗に答えを求めるような視線を向けた。助けてと言いたげに、すがりつくように。
鞍馬天狗は神妙な表情で一条に言った。
傍観者のような淡々とした口調で。
「ここから出たら君も死ぬことになるよ。何しろ、やつの狙いはまさしく君を葬り去ることなんだからね。第一、やつが人質の命を見逃すとは思えん。君を殺したあとに、あのふたりを殺すつもりなのかもしれない。ここから出れば、おそらく両方の命はないだろう。もちろん、ここから出なかったら君は助かるがあのふたりの命は助からない。まあ、今のままじゃ、君自身分かっていると思うけど、いい結果にはならないね。絶対に」
“修験落ち”と同じく冷たい宣告に、一条は混乱した。
「何なんだよ、おまえは! いきなりやってきて言うことやること無茶苦茶すぎるだろう」
一条は怒鳴った。
ほんとうに、こいつは何なんだ。いきなり登場すれば、一条を助けるようにも動いているが、吉平と吉晶を助けようとはしない。目の前で、ほんとうに殺されかけているというのに。
「俺の敵じゃないとか言っているけど、あのふたりは俺の大事な人なんだ! 絶対に死なせたくないんだ! だからさぁ……」
語尾が、かすれる。
声が、弱々しくなる。
喉が、痛い。声がかすれる。
目頭が熱くなる。
「だから……助けてくれよ――」一条は、声を絞り出した。
――頼むよ……
そんな呟きが、伏せた顔から漏れるのを鞍馬天狗は確かに耳に捕らえた。
一条は、震えていた。
――いやだ。もう、自分の選択に、後悔なんかしたくない。
あのふたりに、死んで欲しくない。
“修験落ち”は、冷たく一条を見据えたまま動かない。草むらに転がって意識を失ったままの吉平と吉晶も動かない。そんなふたりに重々しく迫る二体の鵺。
『逢う魔が時』。
不吉で冷たい夕焼けに染まる鴨川。
三体目の鵺は、一条と鞍馬天狗の背後で油断なく身構えている。隙あらば、いまにも飛び掛らんとしている。
そして、鞍馬天狗は――、
静かに答えた。
「誰も死なずに全員を助けられる方法が、たった一つだけある」
淡々とした答えが、救いのように聞こえた。
一条は驚きで顔を上げる。鞍馬天狗は厳しい表情で静かに続ける。「たったひとつだけ、誰も死なせずに助けられる方法がある。君は昨晩に“修験落ち”と鵺に襲われただろう? 死んでもおかしくなかったあの夜を、君は生き延びている。そして、ほかの誰も持っていなくて君だけが使いこなせる術が、どんなまじないにも勝る術を、君だけが持っている」
天狗は、語りかける。
鞍馬天狗はまじないを唱えるように言った。
――さあ、思い出せ。
「君は昨晩、何をして生き延びたんだ?」
一条は瞬きした。「――俺は……俺が? 俺が何を持っているって? ……なんだよ、それ……訳が分かんないよ……俺は……昨日――ウッ」
突然、視界がぐらりと揺れ、頭痛がひどくなる。
目が、痛い。
眼を閉じているはずなのに、何も見ていないはずなのに、まぶたの裏側に、脳裏に映像がすばやく駆け巡っていく。冷たい夜、鵺、あの化け物、そして“修験落ち”、倒れた吉平に襲い掛かる鵺、そして――次の瞬間に起きたのが……
地中から躍り出る、数々の鎖。
捉えられた獲物。
映像が、フラッシュする。
「あれは……俺の力……?」一条が、無意識のうちに呟く。
「――さあ、掬い上げろ、使いこなせ、手放すな」鞍馬天狗は感情を抑えた声で言った。「頭のなかで思い描け、そうすれば、それはこの世に現れる――!」
足に力が入らなくなり、バランスが崩れる。
鞍馬天狗が、そっと一条の体を受け止める。
体が、空っぽになったような気がした。いや、水のなかに溶け込むような、そんな感じだ。
眼を開けていても、何を見ているのか認識できない。何かが聞こえてくるはずなのに、何も聞こえることができない。ほんとうに、この体が空っぽになったみたいで――。
次の瞬間、大地から鎖が飛び上がった。
昨晩起きた出来事と同じように、それは“修験落ち”と三体の鵺をすばやく拘束した。鵺は捕らえることができたが、“修験落ち”は造作なく錫杖を振るって鎖を打ち砕き、同じく鵺を拘束した鎖を消滅させる。
「……脆いか」
まあ、あれが遅れを取る真似はしないはず、と思いながら、鞍馬天狗は舌打ちした。
「若造、貴様ァァ!」
甲高く“修験落ち”が叫ぶ。
「そう動くのならば、こやつらを屠ってくれようぞ!」
「水虎、いまだ!」
鞍馬天狗が鋭く叫ぶ。
「――やれっ!」
激昂する“修験落ち”の背後で、鴨川の水が大きくうねり、波紋を広げながら突如、火山が噴火するように天高く水柱が幾つも突き上げられた。それらはまるで本物の大蛇のように不気味に動きながら、“修験落ち”と吉平と吉晶に襲いかかろうとしていた鵺二体に襲い掛かる。攻撃に気づいた“修験落ち”は軽々と飛び上がって攻撃を交わしたが、鵺は見事に捕まってしまい、思い切り突き飛ばされてしまった。
「この攻撃――、もしや貴様、『天竺』の……」
“修験落ち”が、苛立たしげに口にする。
まるで生きている獣のように、“修験落ち”をぐるりと囲むように動く水柱。“修験落ち”は、それのひとつに視線を向けている。
「いかにも、我こそは『天竺』の一角、琵琶の水虎だ!」
“修験落ち”が着地しようとする背後から、水柱を突き破って、まるで中国の詩人のような服装をした初老の男が、刀剣を手にして“修験落ち”に襲い掛かる。
「その首、頂くぞ!」
大層な音をたてて振り落とされる、大きな刀剣。
それは、見事に“修験落ち”を捕らえて両断する。
しかし、空しく“修験落ち”の姿は消滅してしまった。
鞍馬天狗が残念そうにその光景を見やって、舌打ちする。
「やれやれ、いったい幾つ潰せば本体に辿り着けるものやら」優雅に見事に着地しながら、琵琶の水虎と名乗る男は憂いを帯びた声で呟いた。「今度こそ、首は頂いたと思いましたが」
「“修験落ち”の別の呼び名を忘れたのか、水虎。あれの姿形をした人形はあまりにも数が多いのだ」鞍馬天狗が厳しい口調で言った。「この難関を突破できただけでも奇跡なのだよ。何しろ、またもや誰一人死せることなく“修験落ち”は退いたのだから」
「……う、ゥゥゥ……」一条は瞬きして呻いた。
立ち眩みがする。頭痛がして頭が割れそうなくらいに痛い。しかも、吐き気がする。「いったい……何が……起きたの?」
「“修験落ち”は消えたよ。おまえのおかげで、誰一人死ぬことはなかった」
鞍馬天狗のことばに、一条は良かったとぼんやりとした表情で呟いた。
「おや……これは意外ですね。あなたがそんなにも優しいことばを掛けられるほどの、心の広さを持っておられたとは」水虎は本気で驚いたように言った。「ここにくる途中に何かで頭をぶつけましたか?」
「――そんなわけないだろう……」鞍馬天狗は苦笑した。
冷たい風が、ふたりを吹きぬけていく。
鞍馬天狗は、唐突に顔色を変えて瞬きする。
刹那、第六感が警鐘を鳴らす。
「――何?」
目を見張り、鞍馬天狗は驚きの叫びを上げる。ほとんど同じ瞬間に、水虎も表情を鋭くして辺りを見渡す。
次の瞬間、一条と抱えたままの鞍馬天狗と水虎は、後ろへと飛び下がった。
「まだ……生きていたのか、しぶとい」面倒くさげに鞍馬天狗が呟く。
天狗風の結界を張っていて良かったと、鞍馬天狗は内心呟いた。“修験落ち”は強力な難敵でありながら、不死を誇る存在。故に、いつどこで彼奴と出くわすか分からない。どんな時に狙われても己の身を護るために、鞍馬天狗は普段から天狗風を周囲に巡らせて結界を張っていた。
「危ないところでしたね……実に」厳しい表情のまま、水虎が呟く。
ふたりは、いま、ある場所を強張った表情で見つめている。
先ほどまでふたりが居たところに、数え切れぬほどの矢が突き刺さっている。
大人数が獲物に対して矢を放ったかのように見えるが、ここにはそれほどの数の人が動いている気配はしない。考えられるとすれば、“修験落ち”くらいだろう。妖しげな術を用いて、大方、今のような攻撃を仕掛けたに違いない。
――ジャラン、
不吉な音色にふたりがハッとする。気づけば、“修験落ち”は崩壊した市の瓦礫の上に佇み、不動の姿勢で鞍馬天狗と水虎を見下ろしている。周辺の空気の流れはあまりにも冷たすぎて、明らかに紛れもない“修験落ち”の殺意と憤怒が込められている。
「……妖最高位の『天竺』であろうが、小生の邪魔は決して許さぬ。死を以って無礼を償うがいい」
死刑宣告との受け取れる、放たれし冷たいことば。
まずいな、鞍馬天狗は苦笑した。「あちゃー、怒らせてしまったか」
「ひとまず、一条殿を安全な所まで」
呑気なことを言っている場合ではありませんと呟きながら、水虎は緊張した面持ちで叫んだ。大きな刀剣を構えなおし、体の位置を調整する。
「ここは私が足止めさせましょう!」
「――、頼むぞ」短く言うと、鞍馬天狗は背中から黒い翼を広げた。
ばさり、と重い音がすると、鞍馬天狗の姿は素早く上昇する。
「――逃がしはさせぬ!」そう叫びながら、“修験落ち”が跳躍しようと姿勢を整えた途端、水柱が獲物めがけて飛び掛るように突っ込んだ。
水柱の攻撃を回避した“修験落ち”は鞍馬天狗を追跡しようとするが、水虎が油断なく刀剣を構えているのに気づいた。その背後に、いくつもの水柱が、ゆらゆらと踊る。
おそらく、この水虎を無視して天狗を追跡すれば、こいつは水柱を自分に叩きつけるだろう。
これを先に倒さなければならない……か。
「通させませんよ、ここは私がお相手しましょう」
“修験落ち”はしばらく値踏みするように水虎を見据えた後、錫杖を構えなおした。
「いかなる妖であろうが、所詮末路はいずれも同じよ……」
嘲るように、その一言を呟きながら。
「おい一条、起きろ」
鞍馬天狗は“修験落ち”が追ってこないのを確認して、肩にかついでいた一条の頬を思い切り叩いた。相手が体調的によろしくないのは承知だが、事態が事態なので天狗は少々乱暴に彼を起こすことにした。
ゆっくりと、一条は眼を開けた。顔色は悪く、今にも吐きそうな表情だ。
少年は、いまいち現状に理解できないように瞬きする。
一条は地上を見下ろして真っ青になった。
「……なんで、俺、こんなに高いところにいるの?」
「事情はあとで説明する。それより、洒落にならん最悪な事態が起こっちまった」焦りを抑えるように、鞍馬天狗は早口に言った。「“修験落ち”がいま俺の同胞を襲っている。正直、長くは持たないだろう。おまえに“修験落ち”を倒すために助力しよう。いいか? 俺の言うことを良く聞け。あの“修験落ち”を倒す方法をおまえに教えるが、その前におまえが知らなきゃいけないことが、ある。やつを倒すために重要な情報だ」
一条は、怪訝そうに鞍馬天狗に視線を向けた。
「――“修験落ち”の又の呼び名は、“傀儡師”という」
七、
傀儡師。
いままで、聞いたことの無い名前だった。
「――傀儡師?」一条は聞き返した。
「分かり易くいえば、人形使いだ。いや、人や妖怪を陰から操る策士と言ったところか」鞍馬天狗は説明した。「傀儡師という呼び名は、元々は、この国で狩猟と芸能を生業とする流浪の旅芸人たちのものだ。そのなかで、彼らは操り人形の劇を行いながら、その中には奇術や剣術を披露する奴もいる」
狩猟と芸能を生業とするって……
一条は戸惑ってしまった。
明らかに今の状況と無関係なことを聞いているような気がする。
「それで……“修験落ち”とどう関係が……?」
話の先が見えずに、一条は混乱した。
――この鞍馬天狗は、何を言おうとしているのだろうか?
鞍馬天狗は早口に言った。「“修験落ち”は強大な力を持ちながら不死と言われているが、正確に言うとそれは違う。俺たちがいままで戦ってきた“修験落ち”は、全て本体が遠隔地から操っている操り人形に過ぎないんだ」
言っていることを理解するのに、数秒かかった。
「……どういうことだよ」一条は、唖然とした。
つまり、あいつはただの人形だっていうのか?
「そうだ」一条の呟きに、鞍馬天狗は無言で頷いた。「あれはただの人形、本体を潰さない限り湧き出てくる蛆虫のような存在に過ぎん」
「傀儡って……傀儡ってまさか……そういうこと?」
「傀儡とはくぐつとも読むことができる。操り人形なんだよ、あれは」苦々しげに悔しげに、鞍馬天狗は地上を見下ろす。「これまで数え切れぬほど葬ってきたが……いまだ本体に巡り会えたことがないんだ」
天狗の悔しげなひとこと。
一条も、つられて下を見下ろす。
いま、中国人めいた男と“修験落ち”が、激しく刀剣と錫杖の打ち合いをしている。両者ともに一歩も引かず、打ち合っては下がり、間合いを維持したまま睨み合い、再び打ち合うといった流れを繰り返している。時折、あの水虎という男が動かしているのだろう。獲物に襲い掛かる竜のように、激しく“修験落ち”に襲い掛かっている。
「あのままでは水虎の力を無駄に浪費するだけだ、一条、“傀儡師”を倒せ」
鞍馬天狗のことばに、一条は仰天した。
こいつは今さっき、本体を倒さない限りは次々に湧き出てくるとか言っていなかったか?
「倒すって……あれは人形じゃないのかよ?」
「そう、あれは人形だ」鞍馬天狗は肯定した。「本体が別の場所から遠隔操作しているだけに過ぎない。つまり、その遠隔操作を止めればいいんだ」
一条は混乱した。つまり、本体をいまから探しに行くということだろうか。
「あの操り人形は本体と糸のようなものでつながっている。それを、一条……おまえが断ち切るんだ。そうすれば、あれは消滅する」鞍馬天狗はさらに理解不能な抽象的なことを言った。
――糸?
「糸って……どういうことだよ、見えるのか? それ」ようやく鞍馬天狗の言いたいことを理解した一条は、必死に眼を凝らした。激しく動き回る“修験落ち”。糸のようなものは全く見えない。とても操り人形には見えない。ひとりの人間としか見ることができない。
「やはり、見えないか」鞍馬天狗が呟く。「安心しろ、俺がおまえの力を、少しばかし掬い上げてやる。眼を、つぶれ……」
鞍馬天狗が、一条の顔に手を伸ばす。
正直、名前も知らない人間……いいや、妖にそんなことをされるのは怖かったが、一条は逆らわなかった。
大きな掌に視界を遮られ、一条は眼を閉じる。すると、冷たいものが眼に流れ込むような、そんな奇妙な感覚が感じられた。これで良いはずだと呟きながら、鞍馬天狗が手を退けたのに気づいて、一条は眼を開けてふたたび地上を見下ろした。
眼下に広がる景色のなかに、先ほどまでになかったものが、見える。
今度は、景色のなかにある歪なものが、はっきりと見えた。
「――見えるか?」希望を託すような口調で、鞍馬天狗は尋ねた。
一条は、無言で頷いた。
確かに、ある。糸のようなものが、確かに“修験落ち”とつながっている。所々途切れているように見えるが、糸は長く細く伸びていて、平安京に入り込んでいる。
「京のほうに伸びている。あれを辿れば……本体に辿り着くんだろう?」
肩越しに糸の行く先を捜しながら、一条が聞いた。
「いまは、そっちはいい。糸を切ることに専念しろ」
焦ったように鞍馬天狗が呟く。
「でも……」一条は戸惑った。どうやれば、あれは切れるのだろうか? 「どうやったら……どうやればいいの?」
「希い強く望み、そして信じろ」鞍馬天狗は、奇妙で謎めいた言い方をした。
「――どういうことだよ」
「いいから、糸が切れるように祈り続けろ」歯を食いしばって、鞍馬天狗が言った。「眼を閉じろ。何も見ようとするな、何も聞こうとするな。ただ、糸が切れることだけを、頭のなかで思い描いて見せろ」
一条は頷いた。とにかく、そうしてみよう。「……分かった」
とにかく、一条は言われたとおりにした。眼を閉じて、何も見ようとせずにして、何も聞こうとしないようにする。ただ糸が切れることを頭のなかでイメージし続け、他のことは、一切考えないようにする。
しばらくすると、体が奇妙な感覚に陥った。
鞍馬天狗に、奇妙なことばを囁かれた、あの時みたいに。
体が軽くなり、力が入らなくなり、体の中身が空っぽになったかのように軽くなる。まるで、麻酔を打たれたように。
プツンと、何かが切れる音が、聞こえたような気がした。
途端に吐き気に襲われて、一条は眼を開けた。
「よくやった」鞍馬天狗が短くそう言うのが聞こえて、一条は目線を下に向けた。
水虎と“修験落ち”の戦いは、いつの間にかあっけなく終わっていた。“修験落ち”はまるで水虎に斬り捨てられたようにうつ伏せに倒れているが、実際は違うと一条は気づいていた。“修験落ち”の近くで、透明っぽい糸が風に吹かれてゆらゆらと揺れている。ちぎれた部分を、探そうとするように。
「これで、何とか退けたな」
鞍馬天狗が安堵するように呟く。「改めて礼を言うよ、一条守。俺たちまで助けてもらって、ほんとうに申し訳ないよ」
鞍馬天狗は、一条を気遣ってか、ゆっくりと降下していった。
地上に降り立つと、水虎が荒い息をしたまま近づいてきた。「お見事でしたぞ、一条殿」
「え……ああ、いえ……その――」何を言えばいいのか分からず、一条は戸惑いながらもうろたえてしまった。「こっちこそ、ありがとうございました」
「ところで、あのふたりの陰陽師はご無事です。死に至るほどの重傷ではありませんよ」
水虎の指差す方向に目をやると、吉平と吉晶が草むらに横たえられている。どうやら水虎が手当てをしてくれたようで、傷痕の部分にべっとりとついていた血の塊はきれいに洗い流されている。
「手当てまでしてくださったんですか」一条は呟いた。
「ええ、あなたの大切な人ですからね」にっこりと、水虎は穏やかに言った。
「ありがとうございます! ほんとに、ありがとうございます!」本気で頭を下げて、一条は感謝した。
「礼は必要ありません。行ってあげなさい、ちょうど、眼を覚ましたようですよ」
水虎のことばに一条が顔を上げると、吉平と吉晶が額を抑えながら、上半身を起こすところだった。一条は無意識のうちにふたりの所へと駆け出していった。
水虎は、無言でその背中を見送る。
「いやはや……いきなり“修験落ち”が倒れたときは何が起きたのか、全く理解できませんでしたよ。驚きましたね。まさか、一条殿があれほどはやく“傀儡師”の糸を断ち切って見せるとは……天狗殿、何かなされましたか?」
疲れ果てたような表情で、鞍馬天狗は首を振った。
「俺はただ単にあいつに見えやすくしただけ。あいつは自分ひとりの力でさっさと断ち切って見せたよ」
「それは好ましいですな」嬉しそうな表情で、水虎は呟く。
「俺が予測したよりも、あいつの能力はすでに覚醒に近づき始めている。ああいった類の能力は、無意識のうちに発動するものだ。普段の意識に抑圧されているはずなのに、あいつは俺の予測をはるかに上回る速さで、難なくあの能力を発動させている……すでに今の時点で、かなり、奥底から掬いあがっている」
水虎とは違って対照的な暗い表情で、鞍馬天狗は静かに言った。
「それはなお好ましい兆候ですな」
満足げに呟く水虎。
――どうだろうか、と鞍馬天狗は思案する。
その能力は、水虎が考えている以上に扱いが容易ではなく、能力を発動させる本人にある影響を与える。実際、能力の完全な覚醒ではなく今はかろうじて能力の発動の状態。正直、これを好ましい兆候と言えるのかどうか、天狗には断言できなかった。
束の間沈黙した鞍馬天狗は行くぞ、と仲間を促して一条の所へと向かった。一条はまだ横になっていろよと言いながら、ふたりの傷を心配そうな頼りない情けない表情で見つめている。三人とも、自分の命を救った最高位の妖たちが近づいてくるのに気づいて、一条は不安げな表情になって、吉平と吉晶は体を起こした。
「まさか妖に命を助けられることになろうとはね……」傷ついた体をゆっくりと起こしながら、吉平は半ば自分を愚弄するように半ば相手を愚痴るように苦々しげに言った。「何が目的だ? 鞍馬天狗と水虎がいったい何用でここに来た? 純粋な善意で助けに来たわけではあるまい」
「おい、吉平……」一条が慌てて声を上げた。「その言い方って失礼じゃないか」
仮にもこのふたりは命の恩人だって言うのに。
「一条殿、下がってください」吉晶が今度は注意を促すように言った。
思った以上に吉晶の強い口調に、一条は驚いて振り返った。「でも……」
鞍馬天狗がうんざりしたように言った。「安心しろ、おまえたちを善意で助けるつもりなど微塵もないが、無駄な流血は好きじゃないんだよ。相手が陰陽師だから多少気が抜けたが、一条の大事な人間だから救ってやっただけだよ」
相手の命をあからさまに軽んじていることが伺える、相手の神経を逆撫でするような一言。
明らかな侮辱と受け取れるそのことばに、吉平と吉晶だけでなく、一条までもがまるで自分を侮辱されたように顔色を変えた。
「ちょっと待てよ……おまえも空気を読んで物言えよ!」一条が叫んだ。
いまの発言は、間違いなく相手に失礼じゃないか。
「申し訳ありません、一条殿」水虎が静かに言った。だが、表情は冷え切っていて、声に抑揚はない。さっきとは表情と口調と声がまったく違っている。「私たちは常日頃より偏見を抱く陰陽師どもに、長らく同胞を殺され続けております。正直、私たちはこのような人間と話などしたくはないのですよ」
――このような?
一条は、水虎の奇妙な言い方に気になった。
「どういう……」どういうことですかと一条は尋ねようとしたが、不意に押し黙ると天狗と水虎の方と見て、吉平と吉晶の顔を見やる。ふたたび、交互に視線を向ける。
不意に、ふたりの間に、冷たい空気の流れを一条は感じ取った。
ただ単に仲が悪い、という感じではない。
明らかに、相手を殺したい気持ちを無理やり抑えているような、そんな感じの空気。
両者のあいだにある眼に見えない冷たい壁を感じ取って、一条は不安になった。いつもと違う表情を見せる吉平と吉晶。一条に対しては穏やかに接していたが、吉平と吉晶に対しては何故か棘のある冷淡な態度で接する鞍馬天狗と水虎。
両者のあいだに、いったい何があったのか。
一条はどちらに対しても問いかけるように視線を向けたが、両者は共に一条のそれに気づかないまま睨み合っている。
どうせ、教えてくれとせがんでも、
どうせ、俺には教えてくれないんだろうな。
「とりあえず、一条。自己紹介といこうか。さすがに俺たちが何者かも分からないまま、これから話したりするのは少々きついからな」鞍馬天狗が、唐突に言った。「この姿と翼を見ての通り、俺は天狗だ。実際、天狗風で飛行することもできるから、正直翼は俺にとってお飾り的な存在だが……もう使う必要のない名前だが、与えられた名前は千木。よろしく」
「私は琵琶の水虎、字は藍染と申します」水虎は礼儀正しく頭を下げた。
「……水虎って?」一条が聞いた。
「水虎っていうのは、分かり易く言えば河童のなかで最も力ある妖怪。河童の総大将だよ」鞍馬天狗が説明した。「力ある妖だ。実際、ここ付近の河童どもはこいつの一声で、一瞬で集まってくるような相当の力の持ち主だぞ」
「いまは、訳あって人の姿を取っていますが」水虎が、付け足す。
「いかなる妖であろうが、変身することは出来ても人の姿を長く保つことができない」鞍馬天狗がふたたび説明する。「ただし、『天竺』をはじめとする最高位の妖は、まるで人間のように人間がそうしているかのように、長く人の姿を取ることができる。この姿こそが、彼が最強の部類に入る存在であることを意味する」
「すごい……」なんとか説明についていけた一条は、驚いて呟きを漏らす。
「――ところで、我々はこうやって礼儀正しく名乗ったんだぞ。君も自己紹介したらどうなんだ?」
「えっ?」一条は戸惑った。
「自己紹介だよ。自己紹介」
天狗の言葉に、一条は瞬きした。
しかし――
「でもさ、あんたたちふたりは俺のこと知っているんでしょう? 名前だけじゃなくて、俺がどういう人間であるか、ふたりとも知っているみたいだから……」
「まあ、確かに。おまえのことは噂程度で知っているよ」頭を掻いて、鞍馬天狗は言った。「だけど、俺たちはちゃんと自分の名前を名乗った。自分がどういう者なのかをちゃんと説明した。だから、おまえもそうしろよ。これ、単なる通過儀礼みたいなものだから」
一条は、怪訝そうに首を傾げた。
どういうことか、と尋ねようとしたら、自己紹介は必要ないと考え直したのか、鞍馬天狗はもういいよと片手を振った。
「とにかく、ここにいつまでも怪我人を放っておくわけにはいきませんね。さすがに、時刻が過ぎて冷えてきましたから」水虎の藍染は静かに言った。「はやくお屋敷に運ぶことにしましょうか。千木殿、天狗風をお願いします」
そのことばには、全くの感情も込められていなかったが、藍染の優しさだけが分かったような気がした。
相変わらず相手を油断無く見つめる吉平と吉晶。どちらも口は開こうとしない。
天狗の千木は、ちらりとそんなふたりを一瞬だけ見やった。「あい、よ」
天狗は短く答えると、片手を挙げた。
すると、それまでまったく風が吹いていなかったのに、冷たい空気がぐるぐると螺旋状に動き始めた。草むらが激しく揺れて、木の葉が渦を巻いて吹き上がる。
気づけば、見事な茜色の空は、あるところは黒く濁るように染まっていて、あるところはまるで漆を空に塗ったように、漆黒に染まっている。
『夕焼けの刻』から、『漆塗りの刻』へと、時刻は流れていく。
空の色も、塗り変えられていく。まるで、日常から非日常へと塗り変えられるように。
天狗風にわずかに混じる妖気に気づいたのか、それとも帰りが遅い一条たちを心配で外に出ていたのかどちらか分からないが、安倍晴明は縁側に立って外の情景を静かな面持ちで、ひとり寂しく眺めていた。
突然の轟音と共に降り立つ一条と吉平と吉晶のボロボロの有様。
晴明は、わずかに眼を瞠って驚きの表情をつくる。
さらに降り立つ、見知らぬ来客。黒い翼を持つ、天狗と見受けられる男と、大陸の服装をした唐の人間のような姿をした男。どちらも明らかに、妖気が零れ落ちている。
自分自身がはるか昔に屋敷にかけた結界が、何の抵抗も無く彼らの通過を許したことに驚きながらも、晴明は庭へと慌てて降り立つ。天狗と水虎に困惑と疑念の入り混じる用心深い視線を向けながらも、一条たち三人の許へと足を急がせる。
「――おまえたち、いったい何があった?」晴明は吉平と吉晶の容態を確認しながら、一切の感情を抑えた声で尋ねた。「鴨川あたりで騒ぎが起きているのは分かっていたが……まさか、また“修験落ち”が現れたのか?」
吉平と吉晶、自分のふたりの息子が揃って頷いたのを見て、驚きに晴明は顔を歪める。
なんということだ。いささか浅はかであった。
“修験落ち”が再来してくる可能性は、確かにあった。しかし、吉平と吉晶はこれでも相当な使い手であり、さすがに二度目の攻撃に関しては、昨晩とは異なって何らかの対策も打てるし、迅速に処理できると容易に考えていた。
だが、どうやらそれは間違っていたようだ。
「一条殿は、お怪我はありませんか?」晴明が顔を上げる。
ない、と一条は答えようとしたが、喉が潰れたように声が出ないことに気づいた。緊張しているからだろうか。とにかく、一条は無言で頷いた。
晴明は安心したような表情で安堵の息を吐く。しかし、その表情も、次の瞬間には鋭く変貌していた。
「――ところで、何故あなた方のような存在が?」
「安心していただきたい。我々は友好的な存在だ。無闇に人に害を為すことはない。『天竺』という名前に聞き覚えはあるだろう。我々は多少のおしゃべりをしにきただけだ」
吉平や吉晶に対する態度とは違って、天狗の千木の表情は、まったく険しくなかった。
水虎の藍染の態度も、天狗に同じく。
相手に一目置いていることが、一条にも分かり、そして伺える。
「……多少の、おしゃべりとは?」ゆっくりと、晴明は尋ねた。
「一条殿に対してですよ。もちろん、あなたが同席されるのは構いませんが」千木は静かに言った。「とりあえず、そちらのふたりは屋敷に運び入れたほうがよろしいのでは? 怪我の具合はひどいほうですから、なかで休ませたほうが体によろしいのでは?」
「――確かに」
晴明はそう呟くや、懐から二枚の人の形をした和紙のようなものを取り出した。鋭く腕を降ってからそれを放すや、一回瞬きした途端にそれは、まるで従者のような服装をした男女の姿へと変わった。
突然のことに、一条は驚いた。
「ふたりをなかへ。くれぐれも、若菜には気づかれぬように」
晴明の命令に、ふたりの従者は静かに頭を下げる。
ふたりの従者はまるで捧げ物を運ぶように、過度に丁寧な仕草で吉平と吉晶を持ち上げて運んでいった。ふたりとも、その運び方に顔をしかめている。ふたりの従者が縁側を歩く時、奇妙なことにまったく音がしなかった。
「一条殿、お体は大丈夫ですか?」晴明は振り返って問いかける。
「はい……、俺だけは、鵺に攻撃されなかったんで」一条は、苦しげに答えた。
違和感を覚えてか、晴明は瞬きする。そして、ああ、そうかと理解する。
多少の罪悪感と責任感で締め付けられているような一条の表情と口調に、晴明は半ば呆れたように半ば懐かしげに表情を緩めながら、一条の頭に手を置いた。「うちの息子も、かつてそのようなことを言っていた頃がありましたなぁ……一条殿、あなたが自分を責めることはありません」
一条は、息を止めた。今までの誰とも違って、こんなに近い距離からそんなに優しいことばを掛けられるなんて。
一条は頭を伏せた。
「――そろそろ、本題に入らせてもらおうか。一条守。そして安倍晴明よ」
静かで厳かな口調で、鞍馬天狗の千木はそれまでの沈黙を破った。
先ほどまでの口調とは明らかに違い、本性を現したかのような響き。
一条と安倍晴明は同時に顔を上げる。いつの間にか、天狗は塀の上へと体を移動させていて、こちらを見下ろしている。静かな面持ちを浮かべて。
そして水虎は、安倍邸の庭にある池のほとりに立って、水面に映える満月と浮雲に視線を落としている。深い表情で。
一条はそんなふたりを見て、奇妙な気持ちになった。
どうして、妖怪というのに、妖怪らしさというものをほとんど感じないのだろうか。
妖気は間違いなく肌に感じられる。だがしかし、このふたりの風体だけでなく、細部の行動にまで人間らしさが見られる。妖気さえ感じなければ、このふたりをただふたりの人間としか認識できないだろうと、一条は考える。
「……何なんだ、あんたたちは?」一条は水虎と天狗に交互に視線を向けて、尋ねた。
「たとえ自分たちの名を名乗ったとしても、得体の知れない妖怪に警戒するのはまあ無理も無いだろうな」正直、警戒するのが遅すぎるような気もするがと呟きながら、ニヤリと笑って鞍馬天狗の千木は続けた。
「さっきも言っただろう。俺たちは『天竺』の一角。最高位の妖。ただ悪戯に人に害を成すことを目的とせず、人を殺める事無く人と妖の関係をさらに悪化させないようにすることを目的とする、そちらの検非違使に似た自衛と自粛の集団さ」
つまりは、妖の世界における警察組織ってことだろうか。
一条は、天狗の千木を見上げる。
いまさらだけど、ほんとうにこいつが得体の知れない妖怪に見えてくる。
一条は用心深く尋ねた。「俺が知りたいのはそこじゃないよ。千木、おまえは俺の能力についてかなり詳しかったよな? どうやれば能力を発動できるかとか、要領よく使いこなすためにはどうすればいいのか……あの時、“修験落ち”を倒すことができたのは、おまえの助言があったから出来たんだ。いったい、どこからどこまで……何を知っているんだ?」
「おまえが知らないことを、全て」天狗の千木は静かに答える。「おまえが陰陽師に問いかけても、その答えが返ってくることがないと考えている疑問を、かなりの広範囲で俺は答えることができる」
奇妙な解答に、一条は驚いた。正直なところ、天狗の言葉は、疑わしかった。
だけど、こいつなら何かを知っているかもしれないという思いが、大きく膨らむ。
尋ねようと思った。俺が、前から知りたかったことを。
だけど、何から尋ねればいいか分からず、一条は束の間沈黙した。「なあ……“修験落ち”から助けてくれたのは感謝しているけど……なんで、俺たちをわざわざ助けてくれたんだ?」
“修験落ち”は、明らかに一条を獲物と定めていた。
だけど、天狗の千木と水虎の藍染は、最初の段階から“修験落ち”の狙いを阻もうとするように動いていた。一条と吉平と吉晶を助けて、“修験落ち”を退けるために、動いてくれた。
――でも、どうしてそこまでする?
ただ単に人助けした訳じゃないはずだ。何かの目的があってのこととしか思えない。
その目的が、一条にはものすごく気になった。
「何が……目的だ?」
恐る恐る尋ねる一条に対して、天狗の千木はニヤリと笑った。嘲笑ではなく、一条の様子を面白がるような、そんな笑み。「そんなに怖がるなって。俺たちは“修験落ち”みたいに、おまえに何かを強制させるつもりはないよ。俺たちはただ、勧誘しにきただけだ」
「勧誘?」それまで沈黙していた晴明が、怪訝そうに呟いた。
「そう、勧誘だ。これはおまえの自由意志で決定してもらいたい。俺たちは、おまえを強制する権限など、持っていないからな」
「私たちが“修験落ち”と異なるのは、あなたももう理解しておられるはずですよ」
一条の様子を観察していた水虎の藍染が、苦笑を浮かべて横から言った。警戒している一条が、藍染の眼には奇妙に映ったのだろう。
「あなた方の目的は、いったい何ですか?」礼儀正しく、しかし用心深く今度は晴明が尋ねた。視線は、鋭い。
「一条」晴明に対して何も答えず、天狗に呼びかけられて、一条は千木を見上げた。
千木は一条に静かに言った。
「――俺たち『天竺』の仲間に入らないか?」
思いがけないことばに、一条は驚いた。その隣で、驚愕を抑えきれずに、晴明は目を見開く。
「――なんと?」晴明は驚きを隠しきれず、信じられないように相手に真意を問いかけるように呟いた。
晴明は天竺の意味することを知っていた。
『天竺』とは、大陸の向こう、唐に並ぶ大国とされている。仏の国でもあり、険しい山々が連なるその国に、旅人は易々と辿り着くことはできないと言われている。そして、日ノ本において『天竺』とは、誰もが簡単に辿り着くことができない高みも意味する。
人と妖の世界において即ち、『天竺』は天才と最強に与えられる最高位の呼び名。
『天竺』という名を持つ妖の組織を、晴明は知っていた。
だが、そこに、一条殿を列ねるというのか?
ふたりの様子に気づいて、天狗の千木は苦笑した。
「安心しろ、ふたりとも」機先を制して、天狗の千木は言った。「俺たちは無理やり一条、おまえを仲間に入れたりはしない。全てはおまえの自由意志に委ねる。しばらく時間を与えるから、俺たちがふたたびこの屋敷に訪れるまでに、答えを出してもらいたいんだ」
「なんで……俺を?」
人間を、妖のグループに?
一条には、理解できなかった。
そんな一条を見て、水虎の藍染は説明した。「一条殿、昨晩あなたは鵺に襲われながらも、害意を持つ妖怪に対して害意を返しませんでした。これまでの人間は、私たち妖に対しては常に害意を抱いて接してきました。ですが、あなたという今までの価値観を持たない人間を、妖の大半が好意的に捉えています。人と妖の関係を新たに作り変えるためにも、あなたを妖のなかに迎え入れようとする動きが多数あります」
「ただし、お前みたいな人間に対して、必ず敵意を抱く同胞もいる。何しろ、近しい者を人間に殺されたんだ。妖の側に迎え入れることに、反対する奴もいる」天狗の千木は言った。「おまえを殺すかどうか、そこははっきりとしていないが、おまえを護衛する必要がある。そこで、俺ら『天竺』が護衛役に選ばれたのさ」
「我ら『天竺』の庇護下にあれば、一条殿の身の安全は保障できます」
水虎の藍染の補足説明。
「それって……」説明を聞いていた一条は、不安げに尋ねた。「なあ、それって……俺は加わらないといけないのか?」
「さっきも言っただろう。おまえの自由意志の決定に任せるって」千木が言った。
「一条殿、あなたが決めてください。『天竺』の庇護下に入るか入らないかは」藍染が言った。
そう、ふたりは、全く強制していない。ただ、淡々と要求を告げているだけ。
だけど、一条には強制されているような気がしてならない。
「一条殿、大丈夫ですか?」背後から晴明が気遣うように声を掛けた。「もしや、お体の具合がよろしくないのでは?」
「ああ、いえ……大丈夫です」
「ひとつ尋ねたいことがある。よろしいかな?」
晴明の問いかけに、千木は誰何するように頷いた。
それを確認して、晴明は続けた。「一条殿の自由意志に委ねると申されたが、もし一条殿がそちらの申し出を断った場合、そちらはどう動くのだ?」
一条は顔を上げた。
そうだ、あっちの申し出を断れば、このふたりはどうするのだ?
はいそうですかと、あっさりと引き上げるようには思えない。『天竺』の仲間に入れと勧誘しているが、俺が断れば、このふたりはこの後どう動くんだ?
少し、不安になった。
水虎の藍染は、表情ひとつ変える事無く、晴明を静かに見つめる。鞍馬天狗の千木も同じく。
誰も、何も喋らなかった。誰も、動くことはなかった。
やがて、千木が沈黙を破った。
「――断りきれないさ、一条はね」
予想しなかった返答に、一条と晴明だけでなく、水虎の藍染までもが驚愕の表情を浮かべる。
いま、何と言った? 断りきれない、だと?
千木の仲間である藍染までもが驚いている様子に不安を抱きながら、一条は千木を見上げた。見下ろす千木の表情は危険な妖のように、不気味な表情を浮かべている。あの“修験落ち”とは違う危険な雰囲気に、一条は恐怖した。目の前にいる天狗が、危険な敵にしか見えない。
「どういうことですか?」晴明が静かに尋ねる。「どうやら、仲間の勧誘だけではなさそうですね。あなたの目的とやらは」
「いいや、我々の当初の目的は仲間の勧誘さ。害を成そうとはこれっぽっちも考えていないよ。まったくね」
素っ気無いように聞こえる、千木の短い答え。
当初の、目的――つまり、目的はまだあるということか。晴明は警戒を募らせる。
「千木、どういう意味ですか?」突然の成り行きに怪訝そうに、困惑気味に水虎の藍染は静かに尋ねた。どうやら何も知らされていない様子だ。
「それほど深い意味はないよ。同胞にすら秘密にしておいたことは詫びなければいけないだろう。だけど、これはそう多くの者に話してはならない情報だ」天狗の千木は重々しく言った。そして、視線を一条に向ける。「一条、おまえは知りたいと疑問に思ったことに、満足のゆく解答を得られたかい?」
奇妙な問いかけに、一条は首を傾げた。口は、開かない。
「この世界がどういう所か、なんで自分はここに来てしまったのか、何故、自分は名前も顔も知らない“修験落ち”に命を狙われなければならないのか」天狗の千木はゆっくりと言った。「そこの陰陽師におまえは質問して、満足のゆく解答を得ることができたかい?」
一条は、少し戸惑って首を振った。
ここがどこなのか。その質問を一条は止めることにしていた。ここは平安時代の日本じゃないかと、予測していたから。
だけど、ほんとうに平安時代の日本だろうかと、少し疑問に思った。
ここがどこなのか、率直なところ、質問したかったが、晴明に質問してもこの世界の住人には言っていることの意味は分かってもらえないだろうと、一条は考えていた。
だから、質問など止めていた。
だけど、いまここに、その問いの答えを、知っているかもしれない人物が、現れた。
天狗の、千木。
「何を、知っているの?」一条は、掠れた声で尋ねた。
「――真実を、」天狗は、短く答える。
一条は、硬直して天狗を見上げていた。
どうやら天狗は、一条の何らかの問いかけを望んでいたようで、しばらく待っているような様子と表情で動かなかった。晴明は一条と天狗を交互に見やり、水虎の藍染は静かに天狗を見上げている。
しばらくして、天狗は動いた。頭を上げて、満月を見上げる。
「この世界がいったいどういう所なのか、これから何が起こるのか、おまえが何故この世界に来てしまったのか。俺はその疑問に対する答えを持っている」天狗は静かに言った。「利害抜きでおまえに情報提供をしてやろう。教えてやるよ、この世界について……」
「――そうすれば、おまえは選ばざるを得なくなる。『天竺』に入るか入らぬかを。そして俺は予言する。いや、断言する。おまえは我らの同胞となる」
天狗の千木の確信に満ちたその宣告は、一条にとっては不気味な響きでしかなかった。
「……これから、何が起こるのかすでにご存知のようですが……」晴明は不意に口を開いた。「かの“修験落ち”が何らかの怪異を引き起こすということですか?」
「それも答えのひとつとなろう。だが、小さなことばかりに眼を向けるなよ、安倍晴明」
天狗は重々しく言った。「陰で動いているのは“修験落ち”だけではない。おまえたちにとって縁の深い蘆屋道満と智徳法師はこの京に潜入して、内裏を掌握せんと画策しさらに動き続けている。確かに“修験落ち”も事を張り巡らせて動いているが、敵は奴だけではない。どんなに小さな流れに注意しなければ、気づくことはできない。いずれこの世界そのものの崩壊を招くことになるぞ」
千木の忠告に、晴明は顔を歪めた。驚きだけでなく、それは確信。
「蘆屋道満と智徳法師……久しく聞く名前だ」ひとり遠い眼になって、晴明は呟いた。
――もう、死んだばかりと思っていたが。
奇妙な表情を浮かべる晴明を、一条は怪訝そうに見やった。そして、天狗を見上げる。
「敵は“修験落ち”だけじゃないって……妖もってこと?」一条が尋ねた。
「妖の一部も敵に含まれるだろう。だが、命あるものだけが敵だと考えるのは、極めて浅はかな思考と言える」一条に肯定するように頷きながら、天狗の千木は謎めいた言い方をした。「おまえがこの世界に通ってきた道を、おまえは知らないのか? ――伊賦夜坂という名の道が、いったい、どこへつながっているのか」
一条は、瞬きした。それは……確か……
「――まさか、黄泉国の屍が、この世界に?」晴明は唖然とした表情を浮かべた。
「その通り」凄絶な笑みを浮かべて、天狗の千木は肯定した。
一条のすぐ近くの水虎の藍染ですら、驚きの色を隠せない様子だった。
一条にとって、もはや天狗の千木と陰陽師の安倍晴明の会話は、理解できないものになりつつあった。敵が“修験落ち”だけでなく、さらに多くの敵がこの京に潜んでいて、さらに大きな戦争が起こる可能性があることしか、分からない。
「争うのは人と妖だけではない。おそらく、この戦争には屍どもも加わるはずだ」
天狗の千木は、さらに一条を混乱させるようなことを言った。
もう、会話にはついていけない。
「だいぶ話がそれてしまったが、そろそろ本題に戻ることにしようか。一条も退屈そうな表情を浮かべているからな」鞍馬天狗は静かに言った。「おまえは知りたがっていたな。この世界がどういう所で、何故、自分がこういう所に来てしまったのか、そして、自分がこれからどういうことをしていくのか」
一条は、頷いた。
「ただし、この事を知ればおまえはもう後戻りすることは出来なくなる」
天狗の千木は、警告した。
「何も知らないままでいるか、自分が生きるために動くか。そのどちらかを選べ」
警告であり、問いかけであり、そして、確認。
一条は、天狗を見上げた。
答えは、もう、決まっている。俺は、知りたい。知りたいんだ。
なんで“修験落ち”が俺を狙っているのか、なんで俺がここに来なくちゃいけなかったのか。
俺は、知りたい。知らなくちゃ、いけないと思う。
「――知らないままだと、まったく動けないだろう?」
自然に、一条の口からそんなことばが出た。
肯定でもなく否定でもなく、ただ、千木の問いかけに問い返すように。だけど、そこに込められているものは、天狗の千木だけでなく水虎の藍染も陰陽師の安倍晴明も分かった。
「いい答えだ……」
天狗はにやりと笑った。そして千木は一気に、語り始めた。
「天地万物には陰陽というふたつの性質がある。それはどちらに対しても反対の意味や性質を持っているが、矛盾しているように見えて思えるものの、それはひとつの括りとして扱うことができる。そしてその陰陽には必ず、天地万物とその他諸々の現象において、“境界線”というものが存在する」
――“境界線”……
鞍馬天狗の説明に、一条は早速ついていけなくなりかけた。
情報の洪水を何とか整理しようと、一条は真剣に耳を傾けた。
「人と妖のどちらにも、陰陽という性質は存在し、そのふたつの性質をはっきりと区切る、境界線もまた確かに存在する」鞍馬天狗は片方の掌にあごを乗せて、説明を続ける。「命あるものは簡単にその境界線を超えてしまう。人は誰かを愛し、誰かを憎む。妖は人を助け、時には殺す。ほんとうに暗くて重苦しいことだけど、愛し合い憎み合い、そして助け合い殺し合うことは、命あるものの存在をひどく曖昧なものにさせているようにしか思えない」
天狗は、一区切り置いて、半ば哀しげに半ば素っ気無く呟いた。
「――この世界において、命というものはほんとうに尊いものなのだろうか」
誰にとも無く呟かれたそのことば。
まるで一条と晴明と藍染に向けられた問いかけのように聞こえるが、一条にはそれが天狗自身に対する問いかけのように聞こえた。
「――生きることとは、いったい何だ?」 「――死ぬとは、いったい何だ?」 「――人と妖は何故生きる?」 「――尊いものとは、いったい何だ?」
ぽつり、ぽつりと。まるで雨が降り始めるように鞍馬天狗は呟いた。
「全てが曖昧なんだ。生きることも死ぬことも、誰かを愛することも殺すことも。人のみならず妖におけるそれも全く同じ。全てが、曖昧なものになっている」鞍馬天狗は静かに語る。「この世界では、誰もが簡単に境界線を越えてしまう。何しろ、その境界線がはっきりとしたものではなくなっているからだ。激しい感情の揺らぎによって、人は簡単に鬼へと変わり果て、器のぐらつきによって、妖は簡単に魔物へと変わり果ててしまう」
人は、鬼へ。そして、妖は魔物へ。
一条は、耳を傾けた。
「……人と妖が簡単に鬼と魔物へと変わり果ててしまうこの世界を……俺は、全てが曖昧ではっきりとしない世界という意味を込めて、この世界を、夢と現が混じりあう世界――夢現な世と呼んでいる」
降り立つ沈黙。一同は、口を閉ざしたまま夜景のなかに佇んでいる。
夜風は冷たく、一同の傍らを吹き抜けていく。
風に仰がれて木々の枝葉は軋むように音を立て、かさかさと揺れる木の葉はひとつひらりと、またひとつと宙を泳いでいく。
「夢現な世――音読んで、“ムゲン”……」
この世界において、天地万物の形はひどく曖昧なもの。
人と妖は簡単に境界線を越えてしまい、鬼と魔物へと変貌してしまう。
誰が、気づくだろうか、この霧に包まれた世界で、すぐ目の前に迫る、境界線などに。
命あるものは、境界線を簡単に越えてしまう。
そして――底知れぬ奈落に落ちてしまえば、二度と這い上がることはできない。
八、
“ムゲン”――それが、天狗の千木が使うこの世界の呼び名。
奇妙なほどにその響きが似合っていると、不思議に自分でも思ってしまった。そして、夢と現が混じりあった世界であることを知ると、ああやはり、自分が来たのはただの過去ではないのだと、実感してしまう。
「ムゲン……」
天狗の千木が紡ぐその名を、一条は呟いてみた。
ムゲン。まったく知らない奇妙な響きをもつ、言霊。
顔を上げて、千木に問いかける。「それで? それで、俺はいったいどうしてここに来てしまったんだ? おまえなりには予測でもしているんだろう?」
鞍馬天狗は頷いた。「まず、おまえの能力について説明するが……さっきも言ったとおり、天地万物には境界線があり、人にも境界線は存在する。人間の場合は、認識している状態と、認識していない状態の狭間に、境界線が存在している。そしておまえの能力だが……それは恐らく、初期段階では境界線上にのみ発動する類のものだ。つまり、認識している状態と認識できない状態のどちらでもない条件下で、おまえの特殊な能力が発動している」
「……矛盾、していないか?」
認識している状態で発動する能力でなければ、認識していない状態で発動する能力でもない。
意識と無意識。それ以外の条件で発動するのだろうか?
「厳密には矛盾していない。たとえば、眼であるひとつの物体を認識しているとしたら、その周りにある物体や景色などは主に認識しているとは言えないだろう?」眉をひそめて、天狗の千木が反論した。「それと同じだ。体の内側の大部分が、分かりやすく例えるなら、空っぽになった状態でおまえの能力が発動しているんじゃないのか?」
一条は沈黙した。
確かに、夕暮れに“修験落ち”に襲われた時、あの時は認識しているはずなのに認識できないという奇妙な状態に陥っていた。よく考えてみれば、認識している条件と認識していない条件に当てはまらない。
つまり……あれこそが、
「――境界線なのか?」一条は確認した。
「おそらく」天狗の千木は、短く肯定する。
「おまえは認識している状態と認識していない状態が、常日頃からはっきりしていなかった可能性がある。仮説のひとつだが、この世界と同じような要素を持つおまえだからこそ、この世界に来ることができたのかもしれないな」
「……え?」
「同じ性質のものは、同じ性質のものを呼び寄せる働きがある。引力のようなものだ。おそらく、この世界と同じく全てにおいてはっきりとしない性質を持つおまえだからこそ、この世界に来ることができたのかもしれない」
一条は瞬きした。
「俺が、この世界に引き寄せられたっていうのか?」
「多分、ね……」歯切れ悪く、天狗は答えた。
さすがにこの事には確証がないため、確信がないらしい。
「じゃあ、この世界でいったい何が起きるんだ?」一条は、次の質問に移った。
その問いかけに対して天狗は、瞬きした。吐息しながら月夜を見上げて、しばらくは口を開こうとしなかった。
「千木?」一条は、天狗の名前を呼んだ。
「悪いね……何から話すべきか、少し迷ってしまって」天狗は呟いた。「昨晩の時点で、五年間、ずっと姿をくらましていたあの“修験落ち”が現れただけではなく、夜空に、ひとつの変化があったんだよ。星が揺れ動くという、有り得ない変化がね」
「――星?」
「そう……陰陽師は妖怪退治も生業とするが、実際日常的にやっているのは占いだ。彼らは星の動きでこの先に何が起こるか、読み解くこともできるんだ。だけど昨晩、陰陽師でもない俺にすら尋常でないと思わせる動きを、ひとつの星が見せた。落ちるかに見える星が、ふたたび元の位置に戻るという、いままで全くなかった、新しい動きを見せた。――まさに、星が揺れ動いたんだよ」
揺れ動いたというその奇妙な響きに、一条は首を傾げた。
「どういうことだ?」
「星の動きにはひとつひとつ意味があるという。陰陽師はその動きを慎重に読み解くことにより、これから先にある吉凶を知ることができた。だけど、揺れ動くという動きはいままで一度もなかった。おそらく、陰陽寮は大騒ぎだろうね。違うかな、安倍晴明殿?」
「違わぬ。実際、陰陽寮内では誰一人、星の動きが意味するものを知ることはできなかった……」
苦々しげに、晴明がすかさず答える。多少の矜持が傷つけられたような表情をしている。
「大陰陽師と怖れられる安倍殿は、意味を読み解くことはできたのか?」
天狗の問いに、晴明は首を横に振った。
これには、天狗の千木は驚いたような表情を浮かべた。「信じられないな、ひとつかふたつの仮説は立てていると考えていたぞ……実際、星の動きが意味するものとして考えられるものが、近くにいるというのに」
一瞬怪訝そうな表情を浮かべていたが、晴明は眼を瞠って、一条に視線を向ける。
「……もしや、一条殿か?」
「え? どういうことですか?」突然のことに、一条は困惑した。
晴明の考えを肯定するように頷きながら、鞍馬天狗の千木は塀から飛び降りて、音もなく地面に着地した。
「もう一度言うぞ、一条。昨晩、ひとつの星が落ちるかに見えたが、何事もなかったように元の位置に戻ったんだ。つまり、本来起こるはずがなかったことが、この世界で起きてしまったという仮説を立てることが出来る。本来ならば有り得ない事象がこの世界に介入して、それが森羅万象に少しの影響を与えなかったとすれば……考えられることは唯ひとつ。昨晩の星が意味するのは、一条がこの世界に訪れたということ」
「確かに……それなら一理ありますな」晴明が呟く。
次第に、天狗の考えがその推測が読めてきたと、晴明は情報を整理しながら内心呟く。
「もし千木殿の推察が的を射ているのなら、一条殿が使う常人離れした奇妙な能力も、一条殿が何故“修験落ち”に狙われるかという疑問も、納得の行く解答が得られますね」
それまで沈黙していた水虎の藍染が、静かに言った。
「え? それってどういうこと?」
唯一人、一条だけが訳が分からずに天狗の千木と水虎の藍染と陰陽師の安倍晴明に尋ねた。
答えたのは、やはり千木だった。
「おまえはこの世界にいるはずのない人間なんだ。つまり、いないはずの世界に存在するということは、本来いるはずの世界に存在することと明らかに違う。今まで前例がないから確かではないが、おまえは陰陽師のように、特別なことをすることができる特別の部類に入る。そして、おまえがこのいるはずのない世界で存在するということは、“修験落ち”の計画を唯一完全に阻む可能性を持っているんだよ」
「いるはずのないところに……俺がいるから、か?」
一条が確認するように尋ねると、天狗が頷く。
「つまり、“修験落ち”が俺の命を付け狙うのは……俺が、この世界にいるはずのない人間だから、か?」
天狗の千木は再度頷く。
「それで……それで、俺の能力はいったい何なんだ?」
一番疑問に思っていること、一番不気味に不思議に思っていることを、一条は天狗に尋ねた。
こいつなら、何か知っているかもしれないと思って。
「悪いが、それは今の段階で詳しく話すことはできない」
予想外の解答に、一条は驚いた。
どうやら、どういった能力か天狗の千木は知っているようだが、それなのに、どうして教えないのだ?
何か理由があるようだが、その理由が一条には気になり、そして不安になった。
何故、話そうとしないのだろうか。
「今の段階って、何だよ?」
「すまんが、ほんとうに今の段階で教えることはできないんだ。百鬼夜行が蠢いているこの時刻に、馬鹿に無用心に言霊を放てば、最悪な結果を招きかねない。悪いが、それを話すべき時が来たら教えることにしよう。それまでの間は、おまえの能力を手懐けるための手解きを手伝おう」
「手解きって……え? なんで?」一条は戸惑った。「俺の能力、そんなにやばい代物なのか?」
「やばいどころの話じゃないんだよ、おまえは境界線上において能力を発動させている。下手すればおまえは境界線の向こう側の奈落に落ちかねない。そうなってしまえば、おまえは力を悪戯に用いる鬼へと変わり果てる。成り果てたくないのなら、これ以上能力を発動させず、おとなしくしておけ。おまえひとりの命がどうなるかで済む話じゃなくなる」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「何度も言わせるな。おまえは能力をこれ以上使うな。実際、おまえが能力を発動させているのは境界線上だ。すでに邪な輩の幾つかはおまえに気づき始めている。俺たちが手解きしてやるが、それ以外は絶対に能力を発動させるなよ。おまえの体の内側にある陰陽の性質は、正直、均等につりあっていない状態だ。小さな衝撃を受ければ、おまえは境界線の向こう側へと転がり落ちる。鬼になりたくなければ、もう一度言うぞ。馬鹿な真似はするな」
晴明が一条の左肩に手を置いた。
「一条殿、ここは天狗殿の忠告に従ったほうがよろしいかと……」
「……はい、わかりました」
晴明の静かな助言に、一条は悔しげな表情で天狗に言った。自分が、ただの役立たずのように見えて、ものすごく惨めな気分になってしまう。
そんな一条を見やってくすりと笑い、晴明は天狗を見上げる。
「……どうやら、味方と信じてよいようですね」
「敵の敵は味方というではないか、晴明殿。それと俺は最初から、味方のつもりで接していたが」天狗の千木はニヤリと笑った。「決して、こいつを一人にさせないように注意してもらいたい。今後、俺たちは定期的にここを訪れるが、『天竺』以外の妖が来たら問答無用で追っ払って結構ですよ」
「心得た」高齢の陰陽師は、はっきりとした言霊を放った。
「それと、今日は連れてきていませんが、『天竺』の一角である山姫を明日、こちらに向かわせましょう。あれはあれでなかなか使えますので、面倒を見てやってくれませんか?」
「やれやれ、大忙しですな」陰陽師は静かに笑った。
その様子を見て、一条は怪訝そうに天狗と水虎に視線を向けた。
「なあ……吉平さんと吉晶さんに対しては、かなり冷たい態度だったけど、なんで晴明さんだけはそんなに打ち解けているって感じなんだ?」
「……どうやらあの馬鹿息子、問答無用で攻撃系の術を放ちましたか」
一条の話ですぐさま事情を理解したのか、晴明が溜息を吐いた。
「教育はちゃんと施されていると思いましたが……長男殿のほうは頭に入っていないのではありませんか?」天狗が笑みを含んで言った。「それと、次男殿も次男殿だ。我らに対する視線が刃物のように鋭かった。あれは間違いなく、妖相手に心を開くまい」
おやおやと晴明が呟く。
「一条殿、私の母親が狐の化生という話を、聞いたことがありませんか?」
晴明が唐突に尋ねてきた。
一条は首を横に振った。
「私のこの体には、妖の血が半分だけ流れております。それ故に、並ならぬ霊力を誇るのですが、妖と誰よりも近づくことができます。大抵の陰陽師と違って、私は妖に対してただ退治するだけとは違う別の道を取っておりますから」
「つまり、悪戯に妖怪を傷つけないってこと?」
鞍馬天狗は苦笑を浮かべた。「おまえと同じ類の人間だが、正直、こいつの長男が攻撃系しか使わないのが癪に障ってね。この親にしてこの長男ありかって感じで、正直、会話するのが面倒くさかったんだよ」
「言ったところで、悪い癖を直すようには見えませんからね」
水虎が一条と吉平に対する同じような価値観を口にする。
「どうやら、ご迷惑をかけたようですな。馬鹿息子に代わって、お詫び申し上げます」
晴明が丁寧に頭を下げた。
「じゃあ、さ」一条はある事に思い当たり、天狗と水虎を交互に見やった。「じゃあさ、あいつが攻撃系の術を使わないようになったら、おまえら仲良くなれるのか?」
途端に、天狗の千木と水虎の藍染が思い切り拒絶するような表情を浮かべる。
「あいつ、人の言うことを聞くほどの脳みそがあるのか?」
天狗の千木は、素っ気無く一条に確認した。
「ないな」
一条の即答に、全員が吹き出した。晴明さんに失礼だったかと、一条は数秒遅れてその事に気づいたが、気にすることはないと言われて、自分のほほが自然に緩むのを感じた。
「――じゃあ、俺たちはこれで帰るよ。もう話は済んだからな」
天狗の千木はそう言うと、水虎の藍染と一緒に塀の上に軽々と飛び上がった。「一条、注意は怠るんじゃないぞ。今日はもう遅いし、おまえも疲れているだろうから、何もかも明晩から始めることにしよう。ところで、『天竺』に入るか入らないかは決めたのか?」
千木の問いかけに、一条は瞬きした。
「俺は、ここに居たい。ここだと、すごく安心できるから」
一条の表情を見て、天狗と水虎は笑みを漏らした。
「分かった。だが『天竺』としておまえを警護しなければならないから、そこんとこは分かってくれよ。それと、我が鞍馬天狗一族の里からお招きの要請があった場合は、双方にとって良い答えを出してくれることを願おう」
「分かった」
「それと、おまえの力を使うのは、なんとしてでも避けろ。いいな? 手解きの際にも話すが、おまえが能力を勝手に発動させれば、取り返しのつかないことになりかねないからな。いいな、絶対に遣うんじゃないぞ」
「分かってるよ……」
少々不安げな表情になる一条に、
「それでは、安らかなる夜を」
天狗はそう言うと、天狗風を吹き起こして荒々しく飛び去っていった。
一条は、静かな面持ちで見送る。
「一条殿、もう中へ入りましょう」晴明が唐突に言った。「今晩はもう遅い。夜は冷えますからね。体に障りますよ」
あ、はいと言いながら、一条は振り返り、夜空を見上げる。
昨晩はまったく気づかなかったが、数え切れないほどの星が、夜空に散りばめられている。
ところで、上空に飛び去った天狗は、しばらく安倍邸を見下ろして水虎に静かに問いかけた。
「……気づいたか?」
「ええ」
水虎の藍染も、下方を見下ろして静かに答えた。
どちらも、沈黙する。
多少緊迫した空気を含みながら、天狗は呟いた。
「まさかあの人形師、会話を盗み聞きする趣味を持っていたなんてね」
おそらく、一条と晴明は気づかなかっただろう。
塀の上にいた天狗は、かろうじて気づくことができた。
そして水虎は塀に飛び上がった瞬間にようやくこの周囲に漂う奇妙な空気の正体に気づき、一条と晴明を悪戯に驚愕させず不安にさせないように、感情を抑えた表情で遠くを眺めていた。
その視線の先。とある貴族の屋敷の屋根に。
不敵に佇む“修験落ち”の姿。
天狗と水虎は全神経を“修験落ち”に集中させたが、攻撃してくる気配は、まるでない。
ただ、じっと安倍邸の方向を伺っている。
上昇した天狗と水虎の姿を視線で追っていた“修験落ち”は、ふたたび安倍邸に視線を向けると、誰にも気づかれることなく、ふわりと衣を広げて飛び上がり、音もなく屋根の上から塀の上へと飛び移る。
ジャラン、ジャラランと錫杖を鳴らしながら、闇夜に包まれた京を、ひとり寂しく歩いていく。
しばらくすれば、錫杖の音は消えた。
暗い京を歩く“修験落ち”は、何処ともなく姿を消した。まるで、闇夜に溶け込むように。