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夢現(ムゲン) 三部作  作者: 橘悠馬
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第一部 万代の宮 ①

すでに完成済みの作品です。星空文庫に【橘悠馬】名義で投稿したのをこちらでも投稿します。高校生のときに思いついた小説で、書くのに集中していたらものすごいページ数になってしまいました。順次投稿していくので読んで頂ければ幸いです。


主要登場人物紹介


一条守……本作主人公。高校生。ある日、異世界『ムゲン』へと迷い込んでしまう。


◆陰陽師

安倍晴明……大陰陽師

安倍吉平……晴明の長男。鴆(猛毒の羽を持つ妖怪)を使役する。

安倍吉晶……晴明の次男。十八歳。


◆妖怪

千木……鞍馬天狗。天竺を組織。一条守との接触を試みる。

藍染……水虎(河童の上級種)。中国の服装を好む。

山姫……千木の協力者(山姫とは神隠しなどに関与する妖怪)


『天竺』--天狗の千木が構築した妖怪組織。彼の計画を遂行するための同志が集められている。


◆敵

”修験落ち”……謎の呪術師。修験者の訓練に励んでいた者が堕落するとこの名称で呼ばれるようになる。鵺を従える。もっとも危険な朝敵として認識されており、大量虐殺などの前科がある。

蘆屋道満……安倍晴明と因縁のある呪術師。

智徳法師……     〃       。


一、



……ここは、どこだ……



いま、自分が立っている場所が分からなかった。

身体の芯から震えるほど、ひどく薄暗くて肌寒い場所だ。両側に高く並ぶ塀は、所々、壁の一部が風雨で傷んだのか崩れ落ちている。高い塀は暗い影を落として、差し込む月明かりは今にも消えてしまいそうなほど、あまりにも弱々しく、そしてはかない。

頭上に伸びる枝垂れ柳が夜風に吹かれ、木の葉が不気味な音色を奏でる。

心細さが、寂しさが、恐怖が、不意に込み上げてくる。

言い表せない感情に突き動かされるように、出口へと向かって駆け出した。細長い道の向こう側へ、塀が途切れるところへ。

「どこなんだよ、ここ……」

小さく呟いてみるが、小さく口笛を吹くような音を立てる夜風と、笑うようにカサカサと揺れ合う木の葉の音以外、何も聞こえてこない。

沈黙が、混乱にさらなる拍車をかける。冷たい空気が、肺に痛い。

壁が途切れる。不意に、視界が開けた。

飛び出して辺りを見渡しても、困惑はさらに大きくなるだけだった。

そこは大通りのような広い道だったが、塀が並んで屋敷のように大きな建物があっても、人が住んでいそうな気配はまったくなかった。右手にも左手にも、人影が見当たらない、光も見えない音も聞こえない、荒涼とした景色が広がっているだけだ。

途方に暮れて空を見上げると、ちょうど月が雲隠れする。音もなく迫る闇。

周りの景色が、まるで呑み込まれるように消えていく。

見ることも聞くことも出来ない世界。その時になって、ようやく音が聞こえた。いままで、聞いたことのない音が。

――ジャラン、ジャララン……

周りが、ほんのりと青く染まる。妖しげに。

――ジャラン、ジャララン……

間隔を置いて、音はまた聞こえてくる。しかし、ただ単に音が聞こえてくるだけでなく、少しずつ大きくなるように聞こえてくる。まるで、ゆっくりと近づいてくるように。

背後に、何かがいるような気がした。ゆっくりと首を動かして、振り返る。

夜風が頬を撫で、髪が小さく揺れる。

……今まで見たことのない化け物が、そこにいた。

暗い影のなかでも、目の前の化け物の姿ははっきりと見えた。

肉食動物のような隆々とした前足、頑丈そうな胴体、そして、血のように赤く光る両眼。青白い狐火のような炎が、ゆらりゆらりとその化け物の周りを泳いでいる。今まで見たことのない怪物の全容と鬼の形相を、不気味に浮かび上がらせる。

……ヒョー、ヒョー

どこかで、鳥のさえずりが聞こえた気がした。

今まで途切れていた音が、また、聞こえた。あの奇妙な音が。

……ジャラン、ジャラン……

刹那、化け物が音もなく攻撃してきた。



一条守はゆっくりと目を開けた。

頭痛がひどい。身体が熱い。こめかみの辺りを揉み解しながら、一条はゆっくりと身体を起こした。ゆっくりと辺りを見渡すと、教室に残っている生徒の数はかなり少ない。黒板の上に掛けてある時計を見ると、もう時刻は午後四時四十八分だった。

「お、お目覚めかよ、爆睡魔王」一条の後ろに座っている、クラスメイトのひとりが声をかけた。

丸めたプリントで、何度か一条の頭を叩く。

一条は乱れた髪を整えながら振り返った。「あのな、三門。爆睡魔王って呼ぶのはやめてくれねーか? そういや、もう説明会終わったのか?」

「先生、おまえのことなんか、完璧に無視してたぜ」三門は一条の頭をプリントで叩いた。「ほれ、プリントだ。今週中に提出しろだとさ。あ、そうそう。三組の奴らからさ、四丁目のファミレスに来ないかって誘われているけど、暇なら一緒に行くか?」

「いいよ、毎日暇だからさ」大あくびをしながら一条は立ち上がった。

「おまえ今日の昼休みもうなされていたよな」三門が鞄を肩にかけて言った。「まぁた悪い夢を見たのか? ここ最近、昼寝しているときはずっとうなされているもんな」

一条は瞬きした。「俺、そんなにうなされてたのか?」

「今日の昼休みもウンウン唸ってた。みんな注目してたぜ」三門がからかうように言った。「で、何の夢を見てたんだよ。自分が殺される夢とか?」

一条は首を傾げた。「なんか自分が殺されかけるような夢を見てた。あんまり覚えてないけど」

「マジかよ、それやべえんじゃねえの?」立ち上がりながら、からかうように三門が言った。

確かにやばいかもと一条は内心呟いた。

実はここ最近見る夢が全て、自分が殺されかける内容だからだ。

最初のころは、自分がいったい何の夢を見ているのかさっぱり分からなかった。何か嫌な悪い夢を見たことだけしか、分からなかった。だけど、最近になってからは気味が悪いほど鮮明なまでにはっきりとしてきた。まるで本当に、いま誰かに襲われかけたように。片手を胸に当てると、心臓が早鐘を打っている。

ああ、ほんとうに、気味が悪い。

「一条、はやく行こうぜ」三門が振り返って声をかけた。

「ん……ああ、いま行く」はっと顔を上げて、一条は加藤を追いかけた。「そういや、ファミレスには誰が来るんだ?」

「ほとんどの奴が部活だったよな。サッカー部は吉原たち、ブラスバンドの北川と、ギター部の渡辺……そんぐらいだろう。つうか、部活が終わるのがだいたい六時くらいだもんな。集合時間は六時過ぎになるけどいいよな?」

「問題ないよ、家は門限厳しくないから」

「あーあ、それ羨ましいぜ。前、七時まで遊んでいたら母さん、やべぇくらいに怒ってさ、ほんとうにおっかねえよ」三門が愚痴り始めた。

「あー、はいはい。おまえの愚痴は聞きたくないよ」ロッカーで靴を履き替えながら、一条は面倒くさげに言った。「四丁目のファミレスに行きゃあいいんだな。何時に集合するんだ?」

「五時半ぐらいに俺は家を出るよ、そうすりゃ時間に間に合うし」

「一応、変更とかあったらメールしてくれよ」

「オーケー、分かってるって。一条、おまえメルアドは変えてないよな」自転車の鍵を指でくるくる回しながら、三門が聞いた。

「変えてないよ、変えるんだったら事前に連絡してるぜ」一条は立ち上がった。「じゃあ、もう俺は行くぜ。バスがそろそろ来るだろうから」

「おう、じゃあな」

またなと手を振ってから、一条はバス停へ向かった。一人歩きながら、ふと、夢の景色を思い出す。あの夢の中でも、俺は一人ぼっちだったと。

最近、いつも同じ夢ばかり見る。ずっと、一人ぼっちの夢を……



三門と別れてから、一条はバスに揺られていた。

ゆっくりと通り過ぎていく窓越しの景色を、一条は呆けた表情で眺めていた。一条の家は、次のバス停を降りて、五分ほど歩いたところにある。整然と区画された、新築ばかりが建ち並ぶ、閑散とした住宅街。車だけが物寂しげに通り、まるで誰も住んでいないような印象と静けさが、ある。

夢の中の景色を思い出して、一条は気分が悪くなった。

一人ぼっちでさ迷っていたあの町と、重なるところがある。ますます、この街が嫌いになる。

家々の玄関が向かい合うように並んでいる小さな通りの、向こう側の各地。南欧風の住宅が、一条の家だった。目の前の車二台分のスペースがある駐車場には、車はなかった。消えている。もう出かけているのかと思い、一条は鍵を取り出した。どうせ、今日もまた夜が遅くなるから、おとなしくしておきなさいとか、そんなメモ紙が置かれているんだろうな。

玄関で靴を乱暴に脱ぎ捨てながら、一条は家に入った。物音しない、薄暗い家のなか。

キッチンには、ラップがかけられた夕飯が置かれていた。置き添えられたメモ紙には、今日も遅くなるから、いつもどおりに済ませておいてと書かれている。メモ紙を丸めてから、ゴミ箱に捨てる。こんなことは、もう日常茶飯事化している。

こんな家は、嫌いだ。とても。

ゆううつな気持ちになって、一条は自分の部屋に上がった。制服をハンガーにかけて、さっぱりとした服装に着替える。ファミレスに集合するまでにはまだ時間があるから、しばらくは外をぶらぶらしよこう。本屋にでも行って、時間を潰せばいい。

財布や携帯電話などを持って、一条は無言のまま家を出た。

――「行ってきます」なんて、「ただいま」なんて、「お帰り」なんて言わない。

言ったとしても、家には誰もいないから、誰も返してくれない。親が家にいる時間なんて、あまりにも短い。家では、いつも一人だ。挨拶する習慣なんて、この家にはない。俺は言わないから親は返さない。親が言わないから俺は返さない。

夕焼け空を見上げる。

……最後に親と話したのって、いつだったっけ?

そんな疑問を、久しぶりにひとり胸に抱いて。



ゆるやかな坂道を、たった一人で歩いていく。

気づけばいつの間にか、一条は古風な民家が建ち並ぶ通りに来ていた。白い壁とかわらが印象的な塀が並び、大きな屋敷が建っている。まるで江戸時代のような街並みを思わせる。整然と並ぶあの住宅街とは違って、桜の木などが無秩序に植えられていて、枝を思い切り伸ばしている。

車の往来も人の往来もまばら。嫌いなあの街みたいに、ここも静かだったけれど。

ここにあるものが、全部、夕焼け色に優しく染まっている。

しばらく、この辺りをぶらぶらしていこう。まだ、約束の時間までには時間があるから。

ふと、風が吹き、細い音色を奏でる。

刹那、チリィン……チリィン……

風に泳ぐような鈴の音色が、聞こえた気がした。風鈴とは違って、音の間隔があいていて、ゆっくりと聞こえる。小さくて、それではっきりと聞こえる澄んだ音色。いままで聞いたことのない鈴の音色だった。

一条は、周りを見渡した。

――チリィン……

まるで誘うように、音がまたひとつ。鈴の音色。

――チリィン……

音は右手から聞こえてきた。そこは、塀と塀の間にある、薄暗い細道だった。頭上に広がる樹木の木の葉が、いまは誰も通らないような狭い道に、暗い影を落としている。細道が伸びる先、向こう側はくねくねと曲がっているみたいで、どこに続いていくのか、どこまで伸びているのか分からない。

まるで、一条の背中を押すように、風が吹いた。

どこから鈴の音色が聞こえてくるのか気になって、一条は細道に足を踏み入れた。薄暗くて肌寒くて少し不気味だった。道に迷いそうになったら、一本道だから引き返せばいい。そうしたら、もとの道に戻ることが出来るから。

周りが、どんどん薄暗くなっていく。一条は後ろを振り返らずに進んでいった。

――チリィン……

さっきよりもはっきりと大きく、あの鈴の音色が聞こえた。湿った土を踏みながら、一条は細道を歩き続けた。この近くにあるんじゃないかなと、思いながら。

――チリィン、チリィン……

見つけた。あそこだ。

まるで女の人の髪のように、細道に流れ込むような枝垂れ柳の一本の枝に、誰かが結んでいったのだろう……青い紐で吊るされた銀色の鈴が、目の前にあった。一条は紐を持って揺らしてみた。すると、チリィン、ときれいな音色が響いた。鈴を揺らした拍子に、柳に結んであった紐が緩んで、はらりと一条の掌に落ちた。

一条は、指紋をつけないように注意深く鈴を持った。

きれいな鈴だった。買ったばかりの新品のように見える。

いったい誰が、こんな所に置いていったのだろうか。もう一度、鈴を揺らしてみる。

――チリィン……

冷たい風が吹いた。一条は鈴から眼を離して、辺りが異様に薄暗いことに気づいた。振り返ってあの大通りへと引き返そうとした瞬間、一条は何かがおかしいことに気づいた。つい今さっき通り過ぎてきた景色が、変わっている。

見下ろすような高い塀。薄暗くて肌寒い細道。

そして見上げれば、まるで穴が開いたように真っ黒な夜空。雲がゆっくりと流れている。

夜空に視線が釘付けになる。一条は瞬きした。どうして自分は今、夕焼け空じゃなくて夜空を見上げているんだろうか?

まだ、夕暮れのはずだ。なのに、なんで急に、夜になっているんだ? いつの間に?

「……うそ……だろう」一条は呆然と呟いた。

ここを、この薄暗い細道を、この景色を、一条は知っている。見たことがある。まるで誰もいないような静けさを、一条は聞いたことがある。

心臓が、早鐘を打つ。胸が苦しい。息がしづらい。

よろめくように、一歩前に出る。その拍子に、鈴が揺れた。

――チリィン、チリン

見覚えのあるこの景色に混乱して、聞き覚えのあるこの静けさに恐怖して、一条は駆け出した。鈴の音色は、笑うように凛として響く。

ここを、俺は知っている。



――いつも夢で見続けてきた、たった一人ぼっちの世界。



こうして、物語は、最悪な形で語られ始める。

悪夢は、静かに幕を開けた。



……何の冗談だよ、これ。

悪い夢を見ている気分だった。いや、悪い夢ならまだいい。夢ならいつか、目覚めるから。だけど、これが夢であればいいとどれほど強く願っても、この悪夢から抜け出せない、そんな気がした。これが冗談ではない気がしていた。

視界が開ける。細い小道を飛び出して、一条は周囲を見渡した。

目の前には右手から左手へと伸びる、幅の広い大通り。

それが、一条の困惑と混乱にさらなる拍車をかける。

夢で見た光景が、目の前に横たわる。そっくりそのまま、目の前に無常に広がっている。死んだように静かな町並み、整然と建ち並ぶ、大きな廃屋をぐるりと囲む塀、灯りも人影もまったく見当たらない、沈黙した世界。

どうして、ここには人がひとりもいないのだろうか。

一条は困惑して周囲をもう一度見渡した。

途方にくれた夜空を見上げたその時だった。夜空に浮かぶ満月が、雲隠れする。

目の前にある夢と同じ世界。そして、夢の世界で起こったことが、目の前で、もう一度起きている。

――月が、雲隠れする……

あの夢と同じた。夢の内容を思い出して、一条はあたりを見渡した。音もなく迫る闇、周りの景色が、まるで呑み込まれたように消えて、完全に見えなくなる。地面に立っているのは感覚でかろうじて分かる。だけど、いま、自分が真っ暗な世界で浮いているように感じられる。

何も見えない世界。何も聞こえない世界。

…………何もかもが、消えてしまった世界。

――音も光も視界も奪われた。そして、次に聞こえてくるのが、確か。

いままで聞いたことのない、濁った音。

一条は耳を澄ました。何も、聞こえてこない。

周りに変化が起きた。ほんのりと、周りが青い妖しげな色に染め上げられていく。まるで、狐火のような青白い炎で。

この妖しげな光が出てくるのなら……――振り返れば、化け物がいるはずだ。

背後で、何かが動く気配がした。あの夢に出てきた、奇妙な化け物の形相と姿を思い出して、一条はゆっくりと首だけを動かして振り返った。

周りの景色は、青白い狐火のような明かりで、かろうじて見える程度だった。

だから、化け物ははっきりと見ることは出来なかった。だけど、目の前に確かに、何か大きな物がいることは、分かった。間違いなく、あの夢に出てきた、獰猛そうな化け物だろう。残忍で凶暴そうなうなりが、ぞっとするほど近くから聞こえてくる。

どうしよう……どうすれば。

逃げたくても逃げることが出来なかった。まるで、自分の身体が見えない誰かの手で、押さえつけられているような……金縛りだろうか。動くことが出来ない。化け物も、動くことなく一条を油断なく睨んでいる。

ひょっとしたら、あいつは敵意がないのかもしれない。

このままじっとしていれば、あいつは消えるかもしれない。そう思った刹那、音が聞こえた。

――ジャラン、ジャラン、――ジャララン、ジャラン、

夢の中で、聞こえたあの音だ。

音を出しているものが、まるで近づいてくるように大きくなっていき、また、ジャラジャラと音をたてると、プツリと途切れた。

束の間の沈黙。化け物は動かない。

途切れた音が、ふたたび濁ったように聞こえてきたその時だった。

音もなく、何の前触れもなく化け物が攻撃してきた。



ひょっとしたら、これで悪い夢が終わるかもしれない。

――そんな薄っぺらの期待を抱いていたのが、次の瞬間、馬鹿だってことが分かった。



悪夢が終わりを告げることはなかった。

化け物は一気に間合いを詰めると、片方の前脚を振り上げて、まるでハエを払うような仕草で一条を容易く吹っ飛ばした。いったい何回転したのか分からないほど一条は地面を転がり、向かい側の塀の壁に、思い切り頭をぶつけた。頭痛と吐き気を同時に感じると、目の前がぼんやりとかすんできた。

近づいてくるのが、分かる。あの化け物が。

――ジャラン、ジャララン……

途切れていたあの音が、また聞こえた。

ぼんやりと視界でも、ゆっくりと一条を睨んでから距離を詰める化け物が、かろうじて見えた。また、攻撃しようとしているんだろう。

ヒョーヒョーと、鳥のさえずりが、どこからか聞こえたような気がする。

このまま、死んでしまうんだろうかと思った瞬間――

「――少年、そのまま動くなよ!」

人の、叫び声が聞こえた。

瞬きをすると、化け物が、身体の向きをくるりと変えて、威嚇するように身体を揺らして唸っている。一条の左手の方向を見て、しきりに唸っている。まるで怖がっているように、まるで脅えているように。

「――急々如律令!」

走ってきた男が腕を突き出して、大声で叫んだ。視界の片隅に閃光のようなものが炸裂したと思ったら、その途端に化け物は、悲鳴のような鳴き声をあげると、まるで猫が蹴られたみたいに後ろに吹っ飛んだ。化け物は体勢を立て直しながら、激しく唸りを漏らしている。明らかにダメージを受けている様子だったが、いったい何が起きたのか、一条にはまったく分からなかった。

「今のうちだ、少年、さっさと安全な所まで逃げていろ!」

その怒鳴り声が自分に向けられていることに気づくのに、一条は数秒かかった。のんびりするなと再度怒鳴られて、一条は慌てて立ち上がろうとしたが、身体に力が入らなかった。立つことが出来ない。

「無理はしないで下さい。あなたは怪我をしています。頭から血が出ていますよ」

「ああ、はい……」声をかけられて頭に手をやって、そして一条は飛び上がった。「って、うわぁ!」

びっくりするほど近くに、壁に背をあずけて、優雅にたたずんでいる男性がひとり。服装も靴も奇妙なものだった。いったいいつからそこにいたのか。物音はまったくしなかったのに。

「驚かせて申し訳ありません」その男性は丁寧な口調で謝った。「ここに長居は危険ですから、私が安全なところまでご案内しましょう。兄上が鵺を引き寄せているうちに、出来るだけ遠くに移動します。怪しい人間ではないので、ご安心を」

その男性の格好が自分の目には怪しいと写るのだが。

だが聞きなれない単語に、一条は首を傾げた。「え? ――ヌエ?」

「ええ、あの化け物の呼び名ですよ。得体の知れない妖怪のことです」

優雅に腕を上げて、方向を示す。

一条はその方向を見た。こちらの男性と同じく奇妙な格好をしている男性と向かい合うように対峙しているのは、一条を襲ってきた化け物だ。そして、その化け物はいま、月明かりに照らされて、異形な全容をさらけ出していた。

それを見て一条はぎょっとした。いびつでキテレツ極まりない化け物だった。

その化け物の頭と身体と両脚は、三種類の別々の動物の身体の一部分を、つなぎ合わせたようだ。明らかに自然に生まれた生き物とは思えない。まるで生物実験の失敗作を思わせる姿だ。尻尾は激しく揺れているが、胴体とは違って奇妙に滑らかに見える。

「頭はサル、胴はタヌキ、両足はトラ、尻尾は蛇。それが鵺です。鵺の鳴き声を聞くものは禍に見舞われると言い伝えられています。しかし、妙ですね、鵺が単体で人を襲うなど……」男性は一条を見つめた。「あなたが何かされましたか?」

一条は首を振った。「いきなり襲い掛かってきたんだよ、あれが」

「そうですか……」男性は怪訝そうに首を傾げた。

その時、怒鳴り声がした。「吉晶、いい加減にそのガキを連れて行け! すこし派手にぶちかますからな!」

「はいはい、兄上はいつも乱暴で身勝手で唯我独尊ですね」面倒くさげに吉晶と呼ばれた男は呟いた。「とにかく、妖が放つ瘴気は常人には危険ですので、ここは兄上に任せて行きましょう。立てますか?」

「ああ、はい……」

さっきよりも頭痛と吐き気がおさまって、視界がはっきりしてきた。一条がゆっくりと立ち上がった時だった。叫び声がした。

「――ぐあ!」

一条と吉晶はほとんど同時に声がした方向に顔を上げた。

鵺と呼ばれたあの化け物と対峙していた男が、向こう側の塀に吹っ飛んで壁に叩きつけられている。いったい何が起こったのか、一条にはまったく分からなかった。化け物は今さっきまでたったの一匹だったはずだ。それなのに、目の前には、あの化け物が二匹もいる。どうやらあの男は、突然背後に現れた鵺に攻撃されたようだ。

驚きのあまり、吉晶は目を剥いて硬直している。「鵺が、二体も……」と、茫然と、呟く。

ぎょろりと、化け物どもの首が動く。鵺の赤い眼が、一条たちを捉える。

「まずいことになりましたね」吉晶はどこから読みにくい文字が書かれた紙を取り出した。「ここは私が結界を張って、時間を稼ぎましょう。あなたはこの道を通って、向こう側に逃げてください。さすがに常人をかばいながら妖を退治するのはきついので」

「ちょっと、ちょっとあれ……」目の前で信じられないことが起きて、一条は叫んだ。

吉晶は視線を戻して、呆然とした。「ど、――どういうことだ……?」

鵺が、いったいどこからいつの間にどうやって現れたのか、もう一体あの化け物が出現している。三体とも、一条たちを捉えたまま動かない。

「とにかく――謹請奉山府君、急々――!」吉晶が呪文のようなことばを唱えた瞬間だった。

音が聞こえた。いままで、途切れていたあの不吉な音色が。

――ジャラン……

刹那、吉晶が持っていた紙切れが、いきなり燃え上がった。驚きの叫び声をあげて吉晶が紙から手を離す。次の瞬間、三体の鵺が同時に襲い掛かってきた。

「危ない!」吉晶が一条を突き飛ばす。

次の瞬間、先頭の鵺が吉晶を前脚で弾き飛ばした。吉晶の身体が一瞬で塀の向こうへあっけなく飛んでいき、すぐに見えなくなる。

一つ目の獲物を片付けた三体の鵺は、ぎょろりと一条に顔を向けた。

冷水を頭からぶっ掛けられた気分になった。

「何、座り込んでんだ!」くぐもった怒声が聞こえた。「少年、さっさと逃げろ、自分の身は自分で守れ!」

声がした方向に顔を向けると、さっき鵺と対峙していたあの男が、起き上がろうとしていた。

「はやく行け、逃げろ!」

刹那。

――ジャラン……

また、あの音だ。今度は、音がした方角が分かった。右手のほうだ。一条は視線を上げた。

鵺に襲われている男の近くの塀の上に、月を背景に不敵に佇むひとりの人間の姿があった。奇妙な格好をしている。服装は白を基調としていて、細長い帽子のようなものをかぶり、帽子から垂れる大きな布で顔をぐるりとひとまわりすっぽりと覆い隠している。顔面の部分には、三つの眼が並んだ白い布が垂れている。三つ目が描かれた布で顔を隠しているそいつは、右手に杖のようなものを握っている。

塀の上に立つ人影が、その、杖のようなものを振った。

夜風に翻る白衣。それが、一条の目には不気味な動きと映る。

――ジャラン、ジャララン……

「……誰だよ」一条は呟いた。

ふらりと、立ち上がる。さっきから聞こえてきた、あの音だ。

ならば、あれは味方なのか? それとも、敵?

――ジャラン、ジャラランと、また、音を立てる。

視界の片隅で、鵺が一体荒々しく動いた。鵺の一体が、あの起き上がった男に襲いかかろうとしていた。それを迎え撃とうと、あの男は腕を構えるような仕草を見せたが、塀の上に立つ杖を持つ人間が縄のようなものを素早く投げた。すると、あの男の身体に蛇のように巻きついて動きを封じた。

鵺は、身体を伸ばして襲い掛かった。尻尾の蛇が、くねくねと動く。

「やめろ!」一条は無意識のうちに叫んだ。

目の前で、誰かが死ぬなんて、そんなのは絶対に見たくもない。そんなの嫌だ。

あいつは俺を助けてくれたんだ、目の前で誰かが死ぬところなんて、目の前で誰かが殺されるところなんて、俺は死んでも見たくもない。

――やめろ……

心のなかで、無意識に小さく呟いた時だった。次の瞬間、信じられないことが起きた。

鵺の足元が揺れた。次の瞬間、砂塵を撒き散らしながら鈍い光を帯びた鎖が飛び出した。それはくるくると鵺の周りを回転しながら、顔に、胴体に、足に、尻尾に、あっという間に鵺の体に巻きついた。突然の束縛に驚いたように、鵺はヒョー、ヒョーと奇妙な鳴き声をあげて後ろ脚で立ち上がり、まるで見えない誰かに引っ張られたように、バランスを崩して仰向けに倒れた。鈍く響く衝撃。さらに二つ目、三つ目の衝撃に気づけば、ほかの二体の鵺も、同じように鎖で束縛されていた。

まるで首輪をつけられたことを抵抗する犬のように、鵺は激しく身動きしていた。

目の前の光景を理解するのに、しばらくかかった。

「……いったい、何が起きたんだ?」一条は呆然と呟いた。

鵺たちは孤独に鳴きながら、鎖から逃れようと身動きしている。



「――なるほど、これぞ珍妙な。お主がやってみせたのか」



突然、背後から不気味に甲高い声がした。

ぎくりと一条が振り返ると、先ほどまで塀の上に立っていたあの奇妙な格好をしていたあの人間が、いったいどうやって移動したのか、いつの間にか一条の背後に立っていて、一条の顔をよく見ようと顔を近づけ、背中を丸めている。

「――前例が未だに無きその能力、面白い、面白いぞ、少年」興奮したように杖をジャラジャラと動かして、それは甲高い声で続けた。「はやくも使いこなしかけているとは。お主に興味が沸いたぞ、少年よ。どれほうれ、調べさせてもらうとするか――」

それの顔が、ぐいと近づいてくる。

後ろに下がろうと思ったが、一条は金縛りにあったように動けなかった。動くことが出来ない。まるで鎖に縛られたように、指一本も。眼は正体不明のそれに釘付けになっている。奇妙な三つ目の布が、不自然に大きく近づく。その三つの目が、どれも生きているように見える。

――こわい……

「少年、伏せろ!」怒鳴り声が聞こえた。

怒鳴り声とほとんど同時に、羽音が聞こえた。何かが猛スピードで飛来して、不気味に手を広げた正体不明の人間の体を貫通した。まるで風船に穴があいて、そこから空気が漏れていくように、そいつの体は急速にしぼんでいくように形を失っていく。

そして、周囲の空気に溶け込むように、消えていった。

不意に、身体が動くようになった。足に力が入らず、一条は腰をついた。

「何なんだよ……」訳が分からず、一条は呟く。

目の前を、ひらひらと舞い落ちるものがあった。鳥の羽だ。いや、鳥の羽にしては奇妙だ。羽の色が緑色だ。ひらひらと舞い落ちるその羽は、土に触れると白い煙を吐き出した。落ち葉に触れると、まるで火をつけたように落ち葉に穴が開く。

その時、ばさりと、羽音が聞こえた。

顔を上げると、ワシのような鳥が塀の上に止まっていた。いや、それはワシに似ていたけど、全然ワシらしくない。身体全体の羽毛が緑色で、クチバシは銅のような奇妙な鈍い色だった。まるで威嚇するように翼を広げたまま、用心深いような赤い眼つきをしている。

「少年、鴆の羽には触れるなよ、下手したら死ぬからな」吉晶の兄が、やってきて厳しい口調で言った。「鴆の羽は毒殺にも使われるほどの猛毒だ。常人のおまえなんかが触れりゃあ、生涯寝たきりになるか下手すりゃ永眠だ」

「はい?」慌てて一条は飛び起きた。「俺を殺す気かよ!」

「無論、全身全霊で殺す気だったさ。おまえではなく、あいつを――」彼は苦々しげな表情と口調でそう言うと、静かに腕を上げて、人差し指である方向を示した。

つられて、一条はその方向に眼をやった。

音もなく一条の背後に立っていて、あの鴆というワシのような鳥が消したはずのあの杖使いは、いったいどうやったのか分からないが、いつの間にか、まるで初めからそこに居たように、まるでそこからまったく動いていないことを示すように、月を背後に塀の上に立っていた。

右手に、ジャラジャラと鳴るあの杖を持って。白衣を夜風に翻し。

瞬間移動でもしたのか。「いつの間に……」

「気をつけろ、あれは“修験落ち”だ」

「え? 修験?」一条は分からずに聞き返した。「誰だよ」

彼は苦々しげに補足説明する。「危険すぎるくらいに危険な野郎だってことだ。平気で人を殺して、しかもそれを楽しんでいるようなところがあるんだ」

――人殺しか。

ぞくりと、身体が震えた。

――ジャラン、ジャララン。

またあの音がして、一条たちは顔を上げて、“修験落ち”に視線を戻した。

「――常闇の世は程なく訪れよう。まもなく幕引き、新しい幕が開こうぞ」まるで“修験落ち”は、楽しむような口調で言った。「幕開けのその先が、旭日の常世となるか常闇の世となるか。いずれ訪れる分かれ道、お主はどちらを選ぶのじゃ?」

“修験落ち”が言い終わらないうちに、背後から、鋭い叫び声が上がった。

「令百由旬内 無諸衰患!」

轟音を立てて、矢のような形をした閃光が幾つも、頭上を飛来した。光の弾丸のようだ。それらは全てあの“修験落ち”に命中した。全てが直撃したが、奇妙なことに、貫通して穴が開いた“修験落ち”の体は、まるで崩れ落ちていくように、千切れていき、ボロボロになっていき、闇夜に溶け込むように消えた。

――ジャラン、ジャララン……

こうして、“修験落ち”は、姿を消した。最後に、不吉な濁った音を残して。

「はあ、何だよありゃ」驚きの叫び声を聞いて、一条は別の光景を目にした。

まるで首輪をつながれた犬のように、惨めに四肢を横たえていた三体の鵺の周りに、黒い霧が漂い始めた。それらは渦を描くように回り始め、地面があったはずの所に、ぱっくりと大きな黒い穴が開いた。気分が悪くなるような生暖かい風が、吹き出してくる。鵺はヒョー、ヒョーと悲しむような鳴き声を出して、黒い穴に呑み込まれるようにして消えていった。

暗い、口が閉じる。

戻ってきたのは、何事もなかったような、信じられないような静けさ。

「いったい……何がどうなっているんだよ」

目の前が、ぐらりと揺れた。一条は両目を押さえてから、両膝をついた。

――何が、どうなっているんだ。

たったいま、目の前で起き続けたことが、まだ、信じられない。現実を、受け入れることができない。見知らぬ世界。見知らぬ人たち。そして、見知らぬ化け物。

「……ふたりとも、どうやら怪我はないようですね」

後ろから声をかけられて、一条は振り返った。気づけば、一条をかばって鵺に攻撃された吉晶という男性が、服についた土ぼこりを払いながら、くたびれた様子でやってくる途中だった。「ご無事で何よりですよ。兄上も、あなたも」

「怪我とかは、大丈夫なんですか?」

「ええ、幸い、大事には至りませんでした。鵺と遭遇して生きて帰れる者はいまだかつていないとされてきましたが、どうやら、この言い伝えはただの迷信だったようですね」

「そんなことはどうでもいい」吉晶の兄はぶっきらぼうに、興味がない様子で呟いた。「そういえば、だいぶ速い詠唱だったが、まるで効果がなかったな」

「ええ、全身全霊全速の詠唱でしたが、なにしろ刀印破棄ですから」

「刀印を破棄すれば、当然、呪力の効力は弱まるばかり。九字護身法において刀印は省いていいものではない。焦りすぎだ」吉晶の兄はたしなめるように言った。「今後、気をつけろ」

「はい、兄上」

一条はふたりの会話に割り込んだ。「なあ、あんたたち二人はいったい誰なんだよ、それに、ここはいったいどこだ? さっき襲ってきたあの化け物は? あと、あの――」

「ああ、落ち着け少年、落ち着け」吉晶の兄が慌てて言った。「ちゃんと説明するから」

「ここは“万代の宮”と呼ばれる平安京。ここは京の左京と呼ばれる地区です」吉晶という男性が静かに説明した。「わたくしの名は安倍吉晶。こちらは、兄の吉平。私たちは陰陽師と呼ばれる者たちです。まずは、ここまで理解していただけましたか?」

「しかし興味深いな、少年」吉平は首をかしげた。「おまえはその格好からして、明らかにこの国の人間ではない。だが、大陸の人間にも見えない。おまえはいったい何者なんだ? あの“修験落ち”は明らかにおまえの命を狙っていたようだが……」

「兄上、それじゃあまるで尋問ですよ。この方はお疲れのようですから、お体に悪いです」吉晶が言った。「とにかく、いつまでもここに居るわけにはいきません。まずは、私たちの屋敷に案内しましょう。もう、夜も遅い」

「おい、少年。聞いているのか?」吉平が怪訝そうに言った。

目の前が、ぐらりと揺れる。何かを見続けることができなくなり、一条は眼を閉じた。

真っ暗な世界でも、自分の体がぐらりと揺れたことが分かる。



――平安京、左京、そして陰陽師。

それにあの化け物は、あの“修験落ち”って呼ばれていたあいつは……



体の内側を、冷たい水を含んだはけで撫でられたような、冷たい感覚に襲われた。急速に体温が下がっていく。

「じゃあ……この世界は……」



――平安時代? ここは、平安時代なのか?



自分が立っている位置が分からなくなる。足の力が抜けていく。感覚がなくなっていく。足元が崩れ、一条の意識はそこで途切れた。

ぷつりと、糸が切れたように。ふたりの会話が、姿が、遠くなり、そして視界が暗くなる。



「――まさか、気絶するとは……」

「それほど、気を張っていたのでしょうね」

意識を失って崩れ落ちた一条の体を支えて、吉平は眉根を寄せて首を傾げた。「見ろ、吉晶。まるで動物の皮のようなもので作られたしなやかな衣。大陸の者でもこんなものは着ていないよな? しかも、なんだ、この丈夫そうな衣は。まるで俺たちの水干のようだが、触り心地がかなり異なる」

「とにかく、兄上。いつまでもこんな所にいては、この方の体に苦です」吉晶は静かに言った。「急いで屋敷にまで運びましょう。検非違使には今晩の夜間見回りの命令が出されていたはずです。こんな所で捕まれば、あの石頭連中にどう説明するのですか? 下手すれば陰陽寮で懲戒処罰も受けることになるかもしれませんよ」

「はいはい、分かった。さっさと運ぶとするか」吉平は軽々と一条の体を肩に担いだ。

「それにしても、この方はいったい何者なんでしょうか」夜の寂しい道を歩きながら、吉晶は疑問を口にした。「鵺を三体も同時に束縛した、あの常人離れの神業。間違いなくこの方がやって見せたのでしょうが、土から物質を相生したかのように見えましたが、陰陽道に類するまじないではありません。あのような能力は、いまだ前例のない奇術」

「さらに気になるのは、この少年が“修験落ち”に攻撃されたという事実だな」吉平が言った。

「直ちに父上と陰陽寮に報告しなければ」吉晶が顔を曇らせた。「それにしても、あれもいったい何者なんでしょうか、あの“修験落ち”は。どうやらここ最近、京で起き続ける妖絡みの変事に関与しているのでしょうが……まさかあの大妖怪を三体も同時に使役していたとは」

「あれがこの少年を狙ったということは、この少年には、あれに対して効果のある力を持っているのかもしれないな」吉平があくびをして言った。「あの時、垣間見せたその片鱗。間違いなく通力の類に入らぬ能力」

「これは興味深い」意味深に吉晶が呟く。

「確かに」吉平は同意した。

ふたりは同時に立ち止まって、一条の横顔を見つめた。

いま、一条は眼を閉じたまま、苦しげに息をして、時には呻いていた。


「――願わくば、この方が葦原の中つ国の救い手とならんことを……」

祈るように、安倍吉晶が呟く。



――悪夢は終わらない。

まだ、終わらない。

…………悪夢は、まだ、始まったばかりだから。





二、



明晰夢――それは、夢だと意識して、見る夢。



まさに自分は、明晰夢を見ている気分だった。

見知らぬ荒廃した町、化け物、奇怪な人間。ぐるぐると視界が暗転する。悪夢のように。いや、これは悪夢だ。夢は、いつか終わる。長く続いた悪夢も、いずれは終わりを迎える。

だからこそ、この夢も、間もなく終わるはずだ。

明晰夢ならば、終わりを願えば願うだけ、早く目が覚めるはずだ。

夢だと願おう。だから、この悪夢がはやく終わることを、強く望もう。だから、いま、眼を開ければ、自分の部屋の見慣れた天井が。

――そこに、あるはずだ。

一条守は、ひんやりとした空気に目が覚めて、ゆっくりと眼を開けた。

自分の部屋の、見慣れた天井が……そこに、あるはずなのに。

だけど、そこにあるのは見慣れぬ天井。そして、自分が横たわっているのは、埃っぽい薄暗い部屋。奇妙な装飾が施された家具などが置かれている。一条は、布団を握り締めて、体を丸めた。

ああ、そうか……

――まだ、自分は悪夢から抜け出せていない。



悪い夢は、まだ続いていた。



冷たい朝だった。外は眩しいくらいに明るくて、風はひんやりと冷たくて。

縁側に出た一条は外の明るさに眼を細めた。裸足に伝わるひんやりとした冷たさに、一条は体を小さく震わせた。昨晩、どうやら自分は意識を失ったようで、自分はそのまま布団のなかに入れられたようだ。

迷惑を、かけたかな……いま気づけば、自分の服もだいぶ汚れている。所々擦り切れていて、土ぼこりがひどい。体中擦り傷だらけだ。

「そんな所にいると、引かなくていい風邪を引くぞ、少年」

声をかけられて顔を上げると、昨晩、自分の目の前にいたあのふたりの男性が歩いてくるところだった。昨晩と同じような格好をして。

「私たちのことは覚えていますか?」吉晶が心配げに聞いた。「実は昨晩、あなたは意識を失われて……」

「覚えてる。吉晶さんでしょう?」

「もう平気みたいだな? 昨晩、いきなりぶっ倒れてから、俺がここまで運んでやったんだぜ。苦労したんだ、感謝してもらいたいね」偉そうな態度で吉平が言った。

「そこまで苦労しているようには全然見えませんでしたけどね、兄上」吉晶が静かに言った。「具合はどうですか? まだお顔色が優れないようですが?」

「いえ、だいぶ良くなりました」一条は頭を下げた。「えっと、いろいろありがとうございます」

「いいんですよ、お礼は。堅苦しい挨拶など、自分は嫌いですから」吉晶は丁寧に折り畳んだ衣類を差し出した。「これは私が使っている水干ですが、まずはこれに着替えていただけませんか? その格好ではあまりにも目立ちますから」

「脱いだ服は遠慮せずにそこら辺に放っておけ。式神が片付けてくれる」吉平が言った。

どうも、と衣類を受け取りながら一条は首を傾げた。「……式神? 式神って何?」

「俺たち陰陽師が使う術のひとつだ」吉平が説明した。「ほとんど、式札と言う和紙を使う。用途に適した姿をとることができる。人によっては妖や動物を使役する。さまざまな種類があるんだが、おまえは無理に理解しなくていいぜ」

「そっか、分かった」

「朝食はあなたの部屋に運んでおきましょう。兄上とわたしはそろそろ陰陽寮に出仕するための支度に取りかからなければなりません。私たちはこれで失礼しますよ。それと、わたしの部屋はすぐ隣ですので、何か困ったことがあったら、遠慮せずに呼んでください」

「はい、ありがとうございます。吉晶さん」一条は頭を下げた。

そんな一条を見て、吉平は少し気にした様子で口を開いた。「……ところで少年、おまえはどうして弟にしか敬語を使わないんだ? おーい、少年、一応、俺も年上だぞー!」

「知ってるよ」一条は素っ気無く答えた。

「……昨晩は命を助けてやったというのに」わざとらしい溜息を吐いて、吉平が言った。

「兄上、そんなことを言うからますます嫌われるんですよ」吉晶が注意した。「嫌われるようなことをしているのは、兄上なんですから」

一条は吉平を見つめた。「そういや、昨日の夜におまえが出したあの鳥、チンって言ったよな。あれ、おまえの部屋に居るの?」

途端に吉平の表情が凍りついた。

吉晶がゆっくりと振り返った。「兄上、鴆、とはどういうことですか?」

空気がおかしい。ふたりの様子が、とてもおかしい。

何かまずいことを言ってしまったのだろうか。吉平の顔が、かなり引きつっているように見える。吉晶さんは背中を向けているから、どんな顔をしているか分からないが、怒ったような顔をしているのは、何となく分かった。

「兄上……この方にいったい何をなさったのですか?」かなり抑えたような低い声で吉晶が言った。「妙ですね、鴆の使役は五年前に父上が禁止にされたはず。兄上が所持していた鴆はその時に全て父上自らが処分したはずですよ。それなのに、昨夜……何故、鴆が?」

「吉晶よ、あの頼むから落ち着いて話を聞いてくれ。鴆を出したのはやむを得ずで、正当な目的があってだな」

落ち着かないような素振りを見せながら、吉平は必死で慌てて言い訳をしたが、次の瞬間、一条の目の前に雷が落ちた。吉晶が兄を怒鳴ったのだ。「問答無用!」

一条は瞬きした。どうやら兄と弟の立場が逆転したようだ。珍しい光景だな。

「いったい何を考えているんですか、兄上! 鴆はあまりにも危険すぎる妖なんですよ! 鴆が飛んだ後には大地は荒れ果て、人々は不治の病にかかり、最終的にはその土地に誰も住めなくなってしまう。それほど危険なんですよ! 兄上、命の恩人を救うためとはいえ、鴆を出すとは正気の沙汰とは思えません。こちらの方を殺す気ですか!」

「いやな、だからそれはしょうがなかったんだよ、あの時は“修験落ち”が――」

「何が、しょうがなかったんですか。だからと言って鴆を出しますか、鴆を!」吉晶が呆れたように叫んだ。「誰も死ななかったのが奇跡ですよ、だいたい五年前に、兄上が鴆を放ってから左京全域を荒廃させたことを忘れたのですか! 幸い責任追及はありませんでしたが、もしあのことが陰陽頭の耳に届いていれば、兄上は間違いなく京を永久追放されたんですよ。兄上のせいでいったいどれだけ多くの人が危険な目に遭ったか、罪悪感はないのですか!」

鬼の形相で説教を続ける吉晶の前で、吉平が小さくなっていくように見える。

あんなに穏やかで優しそうな吉晶さんが、ここまで激怒しているなんて。

頭痛と立ちくらみに襲われて、一条は頭に手をやった。それにしても、あいつはいったい何をやったんだろうか。一条がさ迷っていたあの地区が無人化した原因は、こいつだったのか。あの時、かなり怖い思いをしていたので、一条は吉平にますます感謝する気が失せた。

それにしても、広範囲に町を荒廃させた上で、多数の人間を危険な眼に遭わせるなんて。

……なんてヤツだ。

「まさかとは思いますが、鴆を処分する際に、一匹だけ隠し持っていたのではないでしょうね。それとも、大陸から行商人に頼んで運んでもらったのですか? それにしても、どうしてこの方を助けるために鴆を出したのですか! 別の式神を兄上は所持していらっしゃるはずでしょう。管狐を使って助ければ良かったじゃないですか!」

「管狐は弱すぎるだろう……」弱った口調で吉平が言った。

「数で物を言わせれば済む話ではないですか!」吉晶が怒鳴った。「鴆に比べればはるかに無害でおとなしい妖ですよ。鴆の猛毒の羽毛でこちらの方が死ななかったのが、とても不思議ですよ」

……生き残っているのが、ものすごい奇跡に思えてきた。

説教は、まだ続いている。延々と。弟の吉晶さんに説教され続けている吉平が、さすがに少しちょっとかわいそうに思えてきた。当のご本人も実に惨めな表情をして、説教を受けている。

「あの……吉晶さん。そろそろ……」

説教は止めてもらえないだろうか、と一条がそうお願いしようと言い出そうとしたとき、向こう側から優雅に歩いてくる老人に気づいた。半ば面白がるように半ば呆れるような笑顔を浮かべ、片目を瞑ったまま、扇を握った手を振り上げた。吉平は肩を叩かれて後ろを振り返り、吉晶は顔を上げて誰が来たかに気づいて説教を中止した。ふたりとも無言で立ち上がり、その老人に道を開けるように縁側の両側に立った。

「お客人の面前でよくもまあ、いつも通りに兄弟げんかを堂々とやってのけるとは。あちらのお顔を見るのだ。迷惑そうではないか」芝居するような口調で、その老人は静かに言った。「まったく、恥ずかしい息子たちだ……初めまして、お客人。自己紹介と行きましょうか。こちらの吉平と吉晶の父親で、この家の当主、陰陽師、安倍晴明と申すものです」

以後、お見知りおきを。

そう言って優雅に扇を広げると、安倍晴明は悠々とした仕草で一礼した。



安倍晴明の名前くらい、一条でも知っていた。

平安時代に活躍した大陰陽師。母親が葛の葉という名の狐であり、十二神将という名の強大な鬼神すらも従える。当時の最高権力者であった藤原道長に重用され、朝廷政権の内部で暗躍したといわれている。

安倍晴明のことなんか、知らない人はいないだろう。京都に住んでいた一条は、さすがに晴明伝説などを知っていた。小説や漫画の題材としても広く用いられているし、老若男女を問わずによく知られ、親しまれている。

まるで歌舞伎役者のような落ち着いた優雅な立ち振る舞い。手の動きや足の動き、体の動かし方ひとつひとつに見惚れるような古風な何かがある。

いま、一条は吉晶に手渡された水干に着替え、着慣れない感触に違和感を覚えながらも、先頭をゆく安倍晴明と吉平と吉晶のあとについて歩いていた。一条たちはいま、安倍晴明の自室に向かっていた。吉平と吉晶は父親と聞き取れない声で何かを話している。

「こちらです、お客人。少々、散らかっておりますが……」家具や寝具や書物がきちんと整理された部屋に誘われ、一条はお邪魔しますと頭を下げた。「お座りください。ああ、楽な姿勢で構いませんぞ。正座などしなくて結構です」

「あ、ハイ……」一条は姿勢を崩した。

「吉平、おまえは何あぐらをかいているのだ? おまえは当然正座だろうが。理由は言われなくても分かっているな?」

ぴしゃりと安倍晴明が言った。晴明の口調ががらりと変わったことに気づいた吉平は、ひやりとした表情で慌てて姿勢を正して正座で座りなおした。ちなみに、その横に腰掛けていた吉晶は礼儀正しく手を置いて正座していた。

「失礼、見苦しいところをお見せしましたな」表情を和ませて、晴明は笑いながら言った。「まあ、毎日毎日、私たちはこんな調子なので、あまり気になさらないでください。吉平は人の言うことを聞けない耳なしですし、吉晶はちと周りに厳しいところがありますから」

「ああ……確かに」

一条には何となく、分かるような気がする。

「いやはや、ほんとうに変わったお人ですな。昨晩、このふたりが運んできたときには驚きましたよ。不思議な格好をなされていましたからな。まるで大陸の者のような風変わりな身なりですが、大陸にはそんな服装はありませんし、私たちと容易く会話できるとなれば、あなたはこの国の人間でしょうが……」晴明は首をかしげた。「差し支えなければ、この老いぼれに、あなたの名前から教えてくれませんか?」

「老いぼれって……俺が口にしたら激怒する台詞なのに、なんで自分はあっさり言っているんだよ?」吉平が訝しげに呟いた。「おーい、親父、不公平だぞ」

「吉平、おまえは黙っていろ。必要な時以外喋らんでよい」晴明がぴしゃりと言った。

「……ひどすぎるだろう」

「兄上はいつも父上に失礼なことばかりしていたじゃないですか。まさかとは思いますが、お忘れになられたわけではありませんよね?」吉晶が笑顔で止めを刺すような口調で言った。「そんなに偉いことがいえる立場にいるのですか?」

「……分かりました、もう偉そうな発言は控えます」

「分かればよろしい」一条に向き直り、晴明が静かに言った。「失礼、話が違う方向に行ってしまいましたな。まず、あなたの名前を差し支えなければ教えてもらいたいのです。まず、あなたがどういう人間なのかを知らなければ、力にはなれませんから」

その言い方が気になり、一条は首を傾げた。「力に……なれないって?」

「その様子からして、あなたはこの京に迷い込んで、かなり混乱しているようですね。私たちはお力になりたいのですよ」晴明がやさしく言った。「息子たちを助けていただいたお礼として。出来る限りのことをさせて頂きたい。あなたが帰れるまで、お世話をさせて頂きたいのです」

一条は瞬きした。「……どうして……」

どうして、他人に対してそんなに親切になれるんだろう。顔を上げているのが、辛くなった。一条は自分の両手を見下ろした。どうしてだろうか。胸が、苦しい。息がし辛いように感じる。

「どうかなされましたか、お客人」晴明が気遣うように声をかける。

「あ……いえ――」一条は顔を上げて、視線を落とした。「俺が元々いた所は……」

そう、あっちの世界じゃ、必ず誰かがいたけど、どうしてか、物寂しさを感じていた。家ではいつも一人ぼっちだった。友達をつくっても、どれほど近くで会話したり笑い合ったりしても、心の奥深くの寂しさは消えることはなかった。

こんなにも近くにいるのに、両親が俺の存在に気づいていないような迫る孤独感。

こんなにも近くにいるのに、今にも友達が俺のことを忘れてしまう、冷たい恐れ。

どれほど距離を詰めても、あっちじゃ気づいてもらえないような、奇妙な違和感があった。

近すぎるから自分の姿が相手に見えなくて、遠すぎるから自分の姿が相手にはおぼろげに映る。

自分が立っている場所が、ひどく、不安定だった。

「すっごく、寂しいとこで……そんなに優しくされるのに、慣れてなくて……」

吉平と吉晶が無言で一条を見つめる。晴明も、また同じように。

自分を親切にしてくれる人、自分を気遣ってくれる人。あの三人のことなんか、自分はまったく何も知らない。なのに、あっちの世界の友達とは違って、すごく近くにいてくれるような、奇妙な安心感がある。

なんでだろう……温かい。

「……では、あなたのことは何と呼べばよいのでしょうか?」

晴明が再度、ゆっくりと訊ねた。

一条は顔を上げた。「一条です、俺の名前は一条守」

少し、緊張した声と表情で、一条は名前を口にした。

「それでは、よろしくじゃ、一条殿」嬉しそうに晴明が顔をほころばせる。「礼儀正しくする必要はありませんぞ。ここを自分の家と思ってくつろいで下さい」

「はい……」ありがとうございます、と口にしながら、一条は頭を下げた。



悪夢から、抜け出せた気がした。実際、抜け出せてはいないだろうが。

だけど、自分が変わったのは分かる。いままで自分がそこにいて、自分から動こうとしなかった、あの暗い場所から。暗くて寂しい、あの場所から、自分は離れた。



――ここなら、一歩先に進めるかもしれない。

  暗い場所から、歩き出せるかもしれない。



「さてさて、まずはどこから話し始めるべきでしょうなぁ……」困ったような口調で閉じた扇で片手を打ちながら、晴明が話し始めた。「昨晩、吉平と吉晶があなたを運んで帰ってきた際に、実に大変おおざっぱな説明を受けて何とか事情は呑み込めたものの、あなたがどこから来たのか、という疑問は大きくなるばかり。まずは、そこから話してくださらぬか?」

「あの、その前にいいですか……?」一条が言った。

「ご質問ですかな、分かる範囲内でお答えしましょう」

「じゃあ、遠慮なく……」(少しは遠慮しろよと呟く吉平を無視して)一条は質問した。「昨日の夜のことなんですが、鵺っていったいなんですか? それと、俺を襲ってきた“修験落ち”っていうのは、いったい誰なんですか? なんで俺を襲ってきたんですか?」

「おーい一条、最初と二番目の疑問は、一応俺たちが答えてやったはずだが?」吉平が怪訝そうに首を傾げた。「ひょっとして、昨日のことはきれいさっぱり忘れてしまったのか?」

「兄上とは違いますよ」すかさず吉晶がさらりと言った。「あの時の説明が不十分だっただけですよ」

「一条殿、残念ながら今答えられるのは最初と二番目の質問だけです」晴明が静かに言った。「残念ながら、“修験落ち”が何故一条殿個人を攻撃したのかは、皆目見当がつかない。昔から“修験落ち”の目的は分からない。予測を立てるしかないのじゃ。しかし、前半の質問には答えられますぞ」

大陰陽師は立ち上がると、積み上げている書物の山からひとつの古びた本を取り出した。

これは『山海経』と呼ばれる書物ですが……と、晴明はページをめくって説明を始めた。

「鵺の頭はサルに似ており胴体はタヌキ、さらに前後の足はまさにトラのそれ、そして尻尾はヘビというこの世の生き物とは思えない、歪んだ姿を取っている大妖怪。鵺の鳴き声はツグミという鳥の鳴き声に似ており、それを聞いたものは禍に見舞われてしまうと言われております。ツグミと同じヒョーヒョーという鳴き声が、あまりにも不吉めいているのです」

こちらが、鵺の絵ですと大陰陽師は開いたページを一条の前に広げた。

昨晩、一条を襲ってきた化け物と酷似した化け物が、そこに描かれていた。あまりにも歪で異形。自然に生まれてきた生物というよりかは、生物実験の末に造られた失敗作のような、そんな化け物にしか見えない。

「鵺は本来、人を無闇に襲うような好戦的な大妖怪ではありませんでした。しかし、ここ最近、鵺の出没により夜間の見回りを行っていた検非違使や陰陽師が、次々に負傷するという怪異が起こり続けました。その裏で糸を操っているのが、元修験者でありながら、詳しい経緯は知りませぬが外道に堕ちた“修験落ち”……あなたを昨晩、襲った正体不明の呪術師です」

「あの、修験者って……何ですか?」次から次へと、難しいことばが出てくる。

追いついていくのにも必死だ。

「……そこから必要だったか」吉平が苦笑した。

悪かったなと一条が呟くと、吉晶が分かりやすく説明してくれた。「修験者とは、修験道を修行する者の呼び名のことです。陰陽道が大陸由来のものであれば、修験道は日ノ本固有のものです。彼らは山中で修行を行い、修行の末に陰陽師と同じく神通力を得て、人を救うために活動することもあります。しかしながら、修行の途中に道を誤ってしまう者も少なくありません。昨晩、私たちを攻撃してきた“修験落ち”が、まさにそれです」

吉晶の説明が終わると、晴明が書物を片付けながら説明した。「約五年前……かの“修験落ち”は内裏の建物の屋上に、鵺を従えて現れたことがありました。その際に、駆けつけた検非違使を五十人以上も殺害して逃走したのです。以来、内裏の警備は強化され、鵺を従えた“修験落ち”を捕縛するがために、陰陽寮と検非違使庁は合同で夜間警らを行っています」

晴明の説明に、一条は寒気を覚えた――かつて、五十人もの人間を、殺した。

昨晩、一条が吉平に助けられたとき、“修験落ち”のことを聞いたときの答えを、ふと、思い出した。確かあいつは、ああ言っていた――“平気で人を殺して、しかもそれを楽しんでいるようなところがあるんだ……”

体が震えた……昨晩、よくかすり傷程度で生き残れたものだ。

……下手したら、自分は死んでいたのかもしれないのだ。あそこで。

「大丈夫ですか? 一条殿」心配げに一条の顔を覗きこみながら、晴明が訊ねた。「お顔色が優れないようですが、話を続けても構いませんか? もし無理なのならこの話は後日にして、お休みになられたほうが……」

「いえ、大丈夫です」かぶりを振って、一条は言った。「話を、続けてください」

「さて、三番目の質問ですが、これには予測をたてるしかありません。“修験落ち”は正体だけでなく行動目的すらつかめぬ。昨晩に起きたことを考えても、“修験落ち”があなたを狙った理由がひとつだけしか考えられません」晴明は静かに言った。「おそらく、あなたが有する特殊な能力を消すためでしょう」

「……どういうことですか?」

「このふたりから、昨晩あなたは鵺に襲われながらも、三体の鵺を同時に束縛させた神業をやってのけたと聞きます。何もないところで、鵺はまるで仕掛けられた罠にはまったかのように、突然、体の自由を奪われた。状況的に見て、鵺の体を縛ったのは、あなたを攻撃してきた“修験落ち”でもなく、吉平でも吉晶でもなく……その能力を行使できる人間は唯一人、あなただけなのです」

晴明のことばが重く響く。

一条は何を言われているのか分からなかった。「……どういうことですか? 昨日のあれは、俺がやったってことなんですか?」

「この推測が、正しければ」

「正しいわけなんかない!」一条は呆然と怒鳴った。「俺が……そんなこと、出来る筈なんかない……俺は、特別な人間じゃないから……」

晴明は瞬きした。「申し訳ない、混乱させるつもりはなかったのだが……」

「あ、いえ……こっちこそすみません。いきなり、いきなり怒鳴ったりして」一条は慌てて頭を下げた。「すみませんでした」

「それでは、この事はしばらく放っておきましょう」それはこちらに置いておいて、と両手を動かしながら、晴明があっさりと言った。「それでは、一条殿がこの京にどうやって来たのか話してくだされ。そうすれば、私らにも一条殿の帰り道を見つけることが出来るかもしれない」

「ああ、はい……」一条はこの世界にくる経緯を説明しようと、記憶をさかのぼったが、“修験落ち”が自分を狙って攻撃してきたことを思い出して、顔を上げた。「あの……俺、あいつ、“修験落ち”って奴に襲われてたから、また、俺、あいつに襲われるんでしょうか?」

「その可能性は、拭いきれませんなぁ」

「そんな……」一条は慌てた。「じゃあ、晴明さんたちに迷惑がかかっちゃう」

途端に、吉平が吹き出した。吉晶は苦笑してかぶりを振った。「一条殿、それは要らぬ心配というものです。ご安心を、この屋敷には父上が張られた特殊な結界がありますから」

聞き覚えのある単語を、一条は繰り返した。「結界?」

「左様、この屋敷の敷地に結界を張っております、何層にも」晴明は面白がるような口調で言った。「“修験落ち”の怪異がこの京に起き始めて以来、幾度もかなりの力を持つ妖の攻撃を阻んできました。たとえ“修験落ち”が妖怪の軍団を連れてこようとも、ここには陰陽寮選り抜きの陰陽師がおりますから、ご安心くだされ、一条殿」

「我ら陰陽師を侮るなよ、一条」吉平が言った。「まあともかく、おまえが俺たちに迷惑がかかるって前向きに考え始めたのはいい兆候だよな。だいぶ落ち着いてきたようだし」

「吉晶さんと晴明さんにこれ以上迷惑をかけられないからな」一条が素っ気無く答える。

「おいちょっと待て、一条。なんで俺は抜けているんだ?」

「あんたなんか正直どうでもいい」一条の即答。

今度は吉晶と晴明が吹き出した。ふたりとも堪えるように肩を震わせている。

吉平は溜息を吐いた。「おいおい、どうして俺は嫌われるんだ?」

「己の胸に問いかけるがよい、息子よ」からかうように晴明が言った。「まあ確かに、一条殿が落ち着いて周りのことを考え始めたのは、確かによい兆候だな。時にはいいことを言うではないか、吉平、父は嬉しいぞ」

「いま褒められたって、全く嬉しくありません」

「あなたは恐らくこれから“修験落ち”に命を狙われ続けるでしょう。ですが、この屋敷にいれば身の安全は保証できます。ご安心を」晴明は安心させるように、優しく言った。「外出時には吉平か吉晶のどちらかをお供させましょう。今日一日ほどは、屋敷内でくつろいでくだされ」

「ありがとうございます」一条は頭を下げた。

「礼儀正しいのう、一条殿は」扇を広げて、晴明はちらりと吉平を見やった。「どこかの馬鹿とは大違いじゃ」

「父上、あからさまに言うのは止めてください」吉平が苛立ちを滲ませて言った。

晴明はカラカラと笑った。「なんだ、気づいていたのか、これは意外……それでは一条殿、次の話に移りましょう。先ほども疑問は口にしましたが、あなたがいったいどこから来たのか……思い出せる限り正確に話してくださらぬか?」

どう話していいか悩んだ末、一条は話し始めた。「えっと……信じられないかもしれないけど、俺が来たのは、こことは違う、別の世界なんです」

「……別の、世界」興味深げに晴明が呟いた。「それは、高天原のようなところですか?」

「いいえ、全然違います」高天原が何のことか分からず、一条は即答した。「なんて言えばいいのかな……別の世界にある平安京から来たんです。でも、この京とそっくりっていうわけじゃなくて、時代が進んでいろいろと変わっているけど……」

なんて、言えば分かってもらえるだろうか。ここはどう言えばいいのだろうか。

いや、すでに別の世界という時点で晴明と吉平と吉晶は、訳が分からないと言いたげな表情で混乱している。

「フム、話を続けてください」まるで分かっていない様子だったが、晴明は先を促した。

「俺は一人で町中を歩いていたんです。夕暮れに」

――そして、聞こえたのが、あの鈴の音。

それを話している時、一条はふと、あの鈴はどこにいったんだろうかと、疑問に思った。昨晩があんなだったから、すっかり忘れていた。

一条は、暗い細い道に入って、枝垂れ柳の枝に青い紐で結ばれたきれいな鈴のことを話した。きれいな音色で紐を持って揺らしてみると、するりと簡単に解けた。そして、周りが一気に暗くなって、気づけば自分が元居た世界ではなく、別の世界に、この世界に入り込んでいたということを。

「――鈴?」晴明が呟いた。怪訝そうな表情で、首を傾げた。

一条は顔を上げた。晴明と吉平と吉晶が顔を合わせている。三人とも、驚いたような表情を浮かべている。吉平が一条に顔を向けた。

「一条、その枝垂れ柳ってのは、おまえが鵺に襲われたとこの近くだったか?」

一条は頷いた。「そうだけど……それがどうかしたのか?」

「何てことだ……」吉平は一条の問いに答えずに、驚いたように慌てたように呟くと、懐から和紙のような長方形の紙を取り出した。縁側に出て、横に腕を振る。吉平の背中を不安げに見つめていた一条は、吉平の背中越しに小さな白い鳥が羽音を立てて飛んでいくのが見えた。

「いまのって……?」

「式神だ。ああいう使い方もある」吉平が短く言う。

「吉平、吉晶、一条殿を保護したのはどの路に近い?」晴明が聞いた。

「道祖大路と二条大路が交差する地区です」吉晶が答える。「あそこに、アレがあります」

――アレ?

一条は、会話についていけなかった。いったい何を話しているんだろうか、この人たちは。「あの……何を話しているんですか?」

「蚊帳の外に置いて申し訳ない、一条殿」晴明がまず頭を下げた。「正直、別の世界から来たということを戯言と思っておりましたが、どうやら違うようですな。そして、あなたが常人にあらざることが、また、判ることになった」

一条は意味が分からなかった。「……はい?」

「あなたがどうやってここに来たのか、私たちにも理解できたのです」吉晶が静かに言った。「あなたは黄泉の国、すなわち死者の世界とこの世界がつながる道、双方の世界をつなぐ黄泉比良坂と呼ばれるその道を通ってきたのです」

まるで重大な事実を告げるような口調で話す大陰陽師。しかし、一条には晴明が言っていることが理解できなかった。

「ヨモツ……すみません、それ、何ですか?」

「死者たちの世界とつながっている道だ。聞いてなかったのか?」吉平が言った。「おまえはその道を通ったんだ。常人はおろか俺たち陰陽師ですらその道を歩くことができない道、神様しか通ることができない、黄泉の瘴気に包まれたその道を、おまえは通ってきたんだ」



三、



この世界の名前を、葦原の中つ国という。

そして、神々が住まう聖域を高天原と呼び、死者が向かう世界を黄泉の国、また根の堅州国と呼ぶ。

この世界には、神と人と妖と死者が住む、三つの世界がある。

かつて、死者の世界に足を踏み入れた神がいたという。

その神の名は、イザナギノミコト。

彼の神は死んだ妻、イザナミノミコトを連れ戻そうと死者の世界に向かう。その時にひとりの神が使った暗い道は、黄泉比良坂と呼ばれている。

死者の世界、黄泉の国に足を踏み入れたイザナギノミコト。

そこで、最愛の妻と再会は果たすものの、亡き妻の変わり果てた姿を眼にすることになる。

腐敗した妻の姿を見てイザナギノミコトは恐れ戦き、醜い姿を夫に見られたイザナミノミコトは恥ずかしさのあまりイザナギノミコトを殺そうと怒り狂う。

必死に死者の国から逃げる夫を、変わり果てた妻は殺そうとして追いかける。必死に逃げるイザナギノミコトを追いかけてくるのは、かつての妻、イザナミノミコトの怨嗟と憎悪と怒りの叫び声。

全力で逃げる神を追いかけるのは、黄泉に住まう異形のけだもの。

命からがら死者の国から逃げ帰ったイザナギノミコトは、黄泉比良坂の入り口を大きな巌で封印する。

それは後に、地返の大神と呼ばれるようになる。



太古から、この葦原の中つ国には日ノ本には、根の堅州国につながる道があるとされていた。ひとつの世界ともうひとつの世界をつなぐ、暗い道が。

黄泉国と葦原の中つ国をつなぐ道。それは、黄泉比良坂と呼ばれている。

――この世界に残る黄泉比良坂は、またの名、伊賦夜坂と呼ばれる。



「――ということが、神代という大昔にあったのですよ。ご理解いただけましたか?」

なんだかとても重苦しくて暗い話を、晴明が明るくて軽い口調で説明するので、どうコメントすればいいのか分からず、一条は曖昧に返事をした。「はあ……今度はなんとかついていけました」

長い絵巻を丁寧にゆっくりと戻しながら、晴明は静かに続けた。「日ノ本には、太古から死者の世界へとつながる道がありました。もちろん、黄泉比良坂は黄泉の国にもちゃんと続いておりました。ですが、いままでその道を通る者は誰一人いなかった。当然ですな、その道の存在をイザナギノミコト以外、誰一人知らなかったのですから……ただし、イザナギノミコトが禁忌を犯してしまい、黄泉の国の異形のものどもはこの日ノ本につながる道の存在に気づいてしまったのです」

「あのう……」晴明が言いたいことがまったく分からず、一条は言いにくそうに口を開いた。「俺はそんなに危ない道を通って、この世界にやってきたのですか?」

「一条殿、伊賦夜坂は世界と世界をつないでいるのですよ」吉晶が分かりやすく言った。

「世界と世界って……あ!」吉晶さんまで訳の分からないことを、と混乱していた一条はある事に気づいて叫んだ。「そういうことか」

「ようやく気づいたのか……。黄泉比良坂が死者の世界とこの世界をつなぐのなら、おまえが元々居た世界とつながっていると考えても、まったくおかしくないだろうが」面白がるように吉平が言った。「一条、おまえ、案外頭の回転が遅いんだな」

「うるさい!」一条は文句を言うと、晴明に向き直った。「もし俺がその道を通ってこの世界に来れたとしたら、その道を通れば、俺が元居た世界に戻れるっていうことですよね?」

思っていた以上にはやく、帰り道が見つかった。希望が、芽生えた。

けれども、晴明や吉平や吉晶は答えない。束の間の沈黙。一条の胸の内側で、何かがザワリと動いた気がした。

「……残念ながら」言いにくそうに、陰陽師は言った。「その道を通ることは薦めるわけには行きません。あなたの命のために」

一条は束の間沈黙して訊ねた。「どういうことですか?」

「暗い霧で覆い隠された黄泉比良坂に、いったいどのような危険性が潜むのか、私たち人間には計り知れぬこと。神であるからこそイザナギノミコトは難なくその道を通れたのでしょうか、黄泉の瘴気はあまりにも人に対して大きな効果を発動するでしょう。何しろ、いまや怒り狂い全てのものを壊そうとするイザナミノミコトの狂気にあてられますからな。人は簡単に奈落へと落ちる弱い生き物。あなたが一度通ったときは、ただ運が良かっただけでしょう。ですが、二度目も幸運なことになるとは限りません」

淡々としかし残念そうな表情で、晴明は静かに言った。

そんな……一条は肩を落とした。せっかく見つかった帰り道は、通ることができないのか。ならば、ほかに帰り道はあるのだろうか。「俺はどうやったら帰れるんですか?」

「残念ですが、手がかりをつかむことから始めなければなりません。何しろ、私たちだけでなくあなたにも、分からないことだらけですから」晴明は一条の向こう側に立つ吉平に、怪訝そうに視線を向けた。「どうした、吉平や? 先ほどから何をそんなに固まっているんだ?」

父親に問いかけられても、吉平は沈黙していた。まるで、答えられないように。

「……兄上?」吉晶が怪訝そうに兄を呼ぶ。

「結界が消えている」ぽつりと吉平は呟いた。まるで声の出し方を呼吸の仕方を忘れたように、小さくて震えている声で。「結界だけじゃない。“穴”も消えているんだ」

閉じている、吉平は呆然と呟いた。どういうことだ、と。

「穴?」一条は訳が分からず聞き返した。「穴って、何の穴だよ?」

「発見されたんだよ、黄泉比良坂につながる穴が、この平安京で。簡単に言えば空間の歪みだ」吉平が説明した。「父上が発見されたんだ。俺たちがふたりがかりで黄泉の瘴気の拡散を防ぐために結界を発動させた。すぐ近くにあった枝垂れ柳に青い紐の鈴を結び付けて、それを媒介にして……おまえはいったい何をしたんだ? あの鈴をおまえが取ったんなら、二重にして張った結界のひとつは消えていて、強度は弱まっているはずなんだ、それなのにどうして穴が閉じているんだ? おまえがしたのか?」

混乱したように吉平が矢継ぎ早に言って訊ねてくるが、一条には吉平が言っていることが全て分からないので、答えることができない。

「落ち着け、吉平。一条殿を混乱させるな」静かな声で重々しく晴明が言った。「とりあえず座れ。ところで、穴が閉じているということは、周辺に何の影響もないということでよいのか?」

「ええ、物理的な影響は皆無です」

「それは上々」安心したように晴明が言った。「申し訳ない、一条殿。簡単にご説明いたしましょう。あなたが迷っておられた左京は地盤が安定しておらず、京が造られてから早くも荒廃。盗賊と死霊と妖怪以外住まわぬ場所となり、最も濃い穢れが渦を巻く根源となりました。そういう所ですから、黄泉比良坂につながる道が穿たれやすいのです。最近、常人に悪影響が出るほど大きな穴が開き始め、穴から漏れる黄泉の瘴気の拡散を防ぐために、結界を張ることによって浄化しようとしていたのです、我ら陰陽師たちは」

理解したことを示すため、一条はこくりと頷いた。

それでは続けますぞと晴明は言った。「ここからは私の推測ですが、あなたが元々居た世界にも黄泉比良坂の穴があったと仮定しましょう。そうしたら、あなたが一方の黄泉比良坂の穴からもう一方の、すなわちこちらの世界の穴を通って入ってきたことになります。偶然なのか必然なのか分かりませんが、こちらの世界に入ったその際にあなたが意図したのか意図しなかったのかは定かではありませんが、どうやら穴は閉じられたようです」

「……じゃあ、晴明さんは俺がその穴を閉じたって考えているんですか?」

「予測のひとつとして。あり得ないことではありますまい」

いや自分にとっては、充分に有り得ないことなんだが。一条は喉に出かかったことばを必死で抑えた。「でも……俺はそんな能力とか、ありませんよ」

「ですが、昨晩起きた出来事を考慮すると、あなたに何らかの能力があることに相違ありません」発言したのは吉晶だった。「あなたが何らかの能力を有しているのならば、あなたが“修験落ち”と鵺に攻撃されたのも理解できますから」

一条は口を閉ざした。訳が分からない。俺に、いったい何の能力があるっていうんだ?

「一条殿……」束の間沈黙して、晴明は静かに問うた。「あなたはいったい何者なのだ?」

――“おまえはいったい何者だ?”

昨晩、問われたことばと重なる。視界が、ぐらりと揺れる。頭のなかが真っ白になって、見ているはずなのに見えなくなり、聞こえているはずなのに聞こえなくなる。認識、できなくなる。周りのものを。

まるで、自分という形が消えたような感覚だ。

「父上!」

「一条、やめろ!」

吉平と吉晶のふたりの叫び声が、ほとんど同時に聞こえた気がした。

一条は瞬きした。強くつかまれた肩が痛い。視界がだんだんはっきりしてくる。体が変な感じになっているあいだに、何かとんでもないことが起きていたということを理解するのに、しばらくかかった。

目の前に、鎖の壁が出現している。晴明と一条を隔てるように。

「これは……」呆然と呟く晴明。

吉晶が表情を強張らせて立ち上がった。「一条殿、いったい何のおつもりですか。いきなり奇術を発動させるなど……」

「え? 俺ですか?」一条は戸惑った。

なんのことだ?

「一条、おまえ何も覚えていないのか?」一条の様子を見て、吉平が確認した。

「吉平、吉晶……ふたりとも落ち着くのだ。一条殿には害意はなかった。おそらく、発動させた原因はこの私にあるようだな」晴明が自分に言い聞かせるように、静かに重々しく言った。「混乱させて申し訳ない、一条殿。あなたの能力を私がついうっかり発動させてしまったようじゃ」

一条は、鎖の壁を端から端へと見やってから、内心、物凄く不安に陥った。

……ついうっかり、ということで片付けていいのだろうか。

そんな疑問を抱きながら、一条は訊ねた。「俺の、能力、ですか?」

「いかにも、これはあなたが持つ能力じゃ。我ら陰陽師、確かにこの眼に刻みましたぞ」晴明が続ける。「信じられないでしょうが、これは紛れもない真実。“修験落ち”があなたを狙う理由も、おそらく、あなたが持っているその特別な力によるものでしょう」

「嘘だ……こんなの……」一条は震える手で、鎖にそっと触れた。

次の瞬間、鎖が形を失って空気に溶け込んだ。まるで、はじめから何もなかったように。

――消え、た。

「これがおまえの能力なら、おまえは自分の力をこれから手懐けないといけないな」吉平は立ち上がって、一条に言った。

「……なんでだよ?」

「なんでって、そりゃあおまえが自分の身くらい護れるようにするためだろう」それと自分の能力を暴走させないためだと付け加えながら、吉平が当然だろうと言いたげに言った。「おまえがこの世界に来たという時点で、“修験落ち”はおまえを殺そうとしていた。なんらかの目的があってのことだろうが……一度目は俺たちが阻止したが、奴がそれで諦めるとは思えん。おそらく、しつこくお前を狙い続けてくるだろう。俺たちも最大限の努力をして守ってはやるが、最後は自分だけでやるしかないって時もあるんだよ」

一条はあごを引いた――最後は自分だけで……やるしかない、か……

そのことばが、重く響く。まるで、この先に何か良くないことが、起きることを暗示するようなことばで、不気味で。

「そんな重いこと、言うなよ」一条は小さく言った。

「とにかく、まずはこちらの世界に落ち着かれたほうがよろしいでしょうな、あなたのためにも」晴明は静かに言った。「今後どうなさるかは、あなたが決めればいいのです。難しく考える必要はありませんよ」

「ゆっくりとしていけ」吉平が短く言う。「あんまり肩に力入れすぎると、後がきついぞ」

「おお、吉平や、お前にしてはえらく珍しい優しいことばじゃな」晴明が静かに言った。妖しげに眼を細め、口元を隠すように扇を広げている。

吉平がちらりと後ろを振り返った。

「父上、そのような危険な表情をつくるのは、やめていただきたいのですが……」

間違いなく恐怖している口調で、吉平がお願いした。

「それでは吉晶、一条殿のお部屋に朝餉を運びなさい。吉平や、さてさて、昨晩報告に上がっていなかったことについて、詳しく説明してもらおうかの、命の恩人である一条殿に対していったいどうして鴆を出したのか……」

ひんやりと空気が変わった気がした。

晴明さんの口調があまりにも冷えていて怖い。吉平も必死に目線を合わせないように、下を向いたまま恐怖している表情で凍り付いている。

吉晶はゆっくりと立ち上がった。「では、一条殿、朝食を取りましょうか」

「ああ……ハイ……」

次第に小さくなっていくように見える吉平と、冷たく息子を見下ろしている晴明。

まるで蛇に睨まれたカエルの構図だ。

一条は急かす吉晶に背中を押されて外に出た。縁側に出ても歩いても何一つ物音がしない。てっきり唾を撒き散らしながら怒鳴り散らすタイプの説教と思っていたが、どうやら晴明さんが使う説教ってやつは、相手を無言で威圧するタイプのようだ。初めて見るタイプだ。

……あの人だけは絶対に敵に回したくないな。

自分にされたら、自分が潰れてしまうほどの、相当な重圧を感じてしまうだろう。

心底、そう思った。

「……あのー、大丈夫なんですか? あの人……」一条は吉晶に質問した。

「ご安心を、そこまで心配することはありませんよ。何しろ毎日あれをされ続けていますし、兄上は兄上で鈍感ですから、翌朝になればケロッとしています」吉晶は笑顔でたいしたことではないと言った。「一条殿もすぐに慣れますよ」

一条は首を捻った。

……ようするに、慣れ、ということが重要なのか。

「えっと、いろいろよろしくお願いします」一条は頭を下げた。

「そんなに行儀良くしなくてもいいんですよ、父上も仰っていたじゃないですか。自分の家と思ってくつろいで結構だって」吉晶は苦笑した。「それに、そんなに敬語を使う必要はないかもしれませんね。私はこれでも齢十八。ひょっとしたら、あなたと一番近いかもしれませんね」

一条は眼を丸くした。こんなに大人びた風貌と言動なのに、まだこの人は未成年者なのか?

「十八?」

気づけば素っ頓狂な叫び声を出していた。



「――とまあ、冗談の説教はこれでさておき」

晴明はおもむろに扇を閉じると、吉平と向かい合うように姿勢を正した。「あのふたりも遠くに行ったようだし、そろそろ本題に入ってもあのふたりに話を聞かれる心配はないな。さてと……ん? 吉平や、どうした?」

「冗談の説教はさておき、じゃありませんよ、父上」肺が空になるほど空気を吐きながら、吉平は緊張した表情で言った。「冗談と仰っていましたが、本気で説教している時とまるで大差ありませんよ」

「本気半分、冗談半分だ」からかうように晴明が言った。

「……芝居が上手いのかそれともただ単に性格が悪いのか、どちらかまったく分かりませんね」皮肉るように吉平が言い返した。

「一条殿の前で仮面をつけていたお前が言える台詞か?」扇を広げて晴明は、静かに言った。

吉平は片目をつむる。「……その様子だと、どうやらお気づきのようですね」

「当たり前じゃ、私を誰だと心得る。おまえの父親じゃぞ」呆れたように晴明が言った。

「昨晩見回ったのも、一条殿をいち早く発見して保護できたのも、全部おまえが読んだことだとすぐに分かる……まだ、一条殿と吉晶に気づかれぬ訳にはいかないのだろう?」

「我侭に付き合って下さり、感謝します、父上」吉平は頭を下げた。

「……『白拍子』殿にはいつ文を出すつもりなのだ?」晴明がまるではばかるように声を低めて訊いた。「一条殿がどういう人間であり、そして如何なる能力を持っているのか……おまえに分からぬならば、あの賢者に助言を仰がねばなるまい」

「陰陽寮で職務を全うしている時に、文は出しましょう。明後日には返事が届くかと」

「面会は二日後となるか」晴明は静かに言った。「この二日間、何事も起こらずに、ただ平穏に過ぎればよいが……」

「杞憂ですよ、父上」吉平がさすがに苦笑して言った。

「そうだろうかの? あの“修験落ち”が一条殿を狙ったことを考えておるのだ。何しろ、あまりにも都合が良いような気がしていてな……まるで、一条殿がそこに現れるのを読んで、そこに待ち伏せていたかのように……」

吉平は束の間沈黙した。

「ご心配ならば、式神をお供につけましょう。護衛は式神に任せればいい」

それでは、失礼します。

先に陰陽寮に出仕するため、吉平は立ち上がり、縁側に出た。

吉平の後姿を見送りながら、晴明は静かな面持ちで一人呟いた。

「……さてさて、アレはどのように動くのやら」



――聞こえてくるのは、風の音だけ……

  まるで、この先起きる悲劇を予告するように、哀しげな細い音色を、奏でながら。



「信じられないなぁ、吉晶さん、全然十八に見えないよ」一条は朝餉を口に運びながら、呟いた。

何度目かの一条の呟きに、吉晶は苦笑した。「この世界では、十五歳には元服するのがならわし。この世界で齢十八となれば、もう立派な大人なんですよ。一条殿が元々居た世界は、どうやら違うようですね」

「こっちは十八だったら未成年者だからねぇ、大人っていったら二十歳ぐらいからかな」

「ずいぶん遅いんですね」驚いたように吉晶が感想を口にする。

「そっちが早すぎるだけじゃないの?」

「それもそうですね」

一条は粗茶を啜った。

――この世界は、少し、変わっている。

一条は少しずつ、ここが自分の知っている平安時代でないことに気づき始めた。

まず、時間というものが秒単位ではなく、あまりにも大まかなものだ。この世界において時間は朝、昼、夕、夜の四つに分けられる。空の色が変わるのを見て、この世界の人々はゆっくりゆったりと時間を過ごしているのだ。空の色で時の流れを知る、いわく――“天色刻”と呼ばれている。

「時間が四つって……大まかだよね」

そうですね、と相づちを打ちながら吉晶は頷いた。「これは大陸より伝わった四神という思想に基づいて造られたのです。一条殿、聞いたことはありませんか? 青龍、白虎、玄武、朱雀――この京の四方の守護神を」吉晶は説明した。「太陽は東から昇り西へ沈む。故に東の青龍が天色刻における『朝焼けの刻』の守護神、白虎が『漆塗りの刻』の守護神、南方守護神の朱雀は巨椋池の近くに住まい、その池の色が水鏡のごとく大空を映しているため、朱雀は『藍染めの刻』の守護神です」

赤い鳥が青い空を守護するのは、いささか奇妙に思えますが。

そんな独り言のようなことを呟いて、吉晶は説明を続けた。「そして残る玄武ですが、玄武は『夕焼けの刻』の守護神です。これは、船岡山がまるで紅葉のように茜色に染まっていることが由来とされています。実に大雑把で単純ですよね」

――たしかに、大雑把で単純な設定だな。

無意識のうちに、一条は頷いていた。

「……俺の世界とはまったく違いますね」一条はお茶を飲みながら言った。「一秒でも無駄にできないくらい時間は大事なのに……大違いだ」

「時間に縛られて生きるなど、息苦しいだけでしょうね」一条の話を聞いて、吉晶が呟いた。

一条は沈黙した。確かに、息苦しいだけだ。

あんなふうに細かく時間を刻んで生きていくのは。こんなにも、ゆっくりと過ごせるほうが、体がすごく楽だ。

「俺、外とか歩いてみたいな」一条は呟いた。「吉晶さん、外を散歩してもいいですか?」

吉晶は瞬きした。「散歩するのは構いませんが、さすがにあなた一人では道に迷ったりして危険でしょうね。出来れば、私たちが陰陽寮の仕事を片付けるまで待っていただけませんか? 『夕焼けの刻』までには仕事は片付きますから」

「いつでもいいですよ、俺は。すみません、我がまま言って」

「謝ることはありませんよ」

「確かに、謝ることはないがな」吉平がやって来て言った。「一条、言っておくが、一人で出歩くような真似はよせよ。一応、昨晩の“修験落ち”はおまえの無防備なとこを狙って攻撃してくるはずだ。外出するときは俺かこいつに一言言え。俺たちが不在のときは、父上に何か言え。いいな?」

「……ああ、分かった」

「陽が真上に昇るころに、一度俺たちは帰ってくる。それまでのあいだ、大人しくしていろよ。親父がいるからまあ、そんなに退屈しないだろうが……」

「大人しくしろなんて……兄上、一条殿に失礼ですよ」

「はいはい、吉晶、支度が出来たんなら急いで出るぞ」

「分かりました」立ち上がりながら、吉晶は一条に頭を下げた。「それでは、陰陽寮に出世しなければならないので、私たちはこれで。『藍染め』が半分過ぎたころには、戻ってきますから。失礼します」

「ああ、はい……気をつけて……」

吉平が吹き出した。「何が気をつけてだ。昼間に妖怪が出るとでも思っているのか? こういう時間帯で危ないことなんか何一つ起こらないぞ。こういう時の挨拶は行ってらっしゃいだろう。おまえ、そんな挨拶も出来ないのか」

「ですから、兄上、失礼ですってば」吉晶が注意する。

一条は瞬きした。そうか……ここは、行ってらっしゃいって言うんだ。

行ってらっしゃいなんて、すっかり忘れていた。ずっと、ずっと言っていなかったから。

「……一条殿?」吉晶が名前を呼んだ。

「行ってらっしゃいなんて、久しぶりだな」下を向いて、一条は呟いた。「何年も言ってなかったから、きれいに忘れてた。俺の親はいつも家にいなかったし、俺……一人ぼっちだったから……」

吉晶が兄に冷たい視線を向ける。「――兄上」

「……あー、悪いな。なんかマズイこと言っちまったか」バツが悪そうに吉平が言った。

「安心しろ、吉平はそういう人間だって分かっているから」一条がさらりと言った。「落ち込んでないし、傷ついてもないよ」

「おい、ちょっと待て、おまえそれどういう意味だ!」半分傷ついたように半分憤慨したように吉平が叫んだ。「おまえ、絶対俺のこと見下しているだろう! 言っておくが、俺はおまえより年上なんだぞ、年上には敬語を使え! 呼び捨て反対!」

「兄上、そんな人間に誰が敬語を使うと思いますか」疲れたように吉晶が呟いた。

「吉晶さん。行ってらっしゃい」吉平を完全無視して一条はあいさつした。

唐突なあいさつに吉晶が戸惑ったように、瞬きする。

自然にそのことばが出たことに、一条も正直、自分でも内心驚いていた。

ずうっと、することもなかった、忘れていたあいさつ。

こんなにも、さらりと口から出るものなんて。

吉晶はにっこりと笑った。「では、行ってきます、一条殿」

「おい、一条。俺にはないのか?」心底傷ついたような表情で吉平が言った。「俺にはないのか? 俺も出かけるんだぞ?」

「さてと、食事するか」聞こえよがしに一条は呟いた。

「兄上、さっさと行きますよ。遅刻すれば罰則ですから」

兄の背中を弟は押す。

吉平は小さな子供のように文句を言いながら、歩いていく。吉晶はまるでなかなか言うことを聞かない馬を押すように、困ったような表情で背中を押している。そんなふたりのあの後姿から、視線を外すことができない。

にぎやかだな。それに……――あいさつなんて、本当に久しぶりだ。

行ってらっしゃいなんて、いままで誰にも言わなかった台詞。

あのふたりに対しては、自然にことばが出る。

とんでもない所に迷い込んで、正直困り果てていたが、あのふたりが居ると、すごく落ち着けて肩の力が抜ける。なんかでこぼこな感じだから、素直になれるような気がする。

ここに来てから、初めて笑えた気がする。


橋を置いて、残りのお茶を飲み干しながら、一条は外を見た。

平安時代を思わせる建物、装飾、庭園、塀。そして京の町並み……それに吉平と吉晶の服装も晴明の服装も、間違いなく平安時代のものだった。だけど少しずつ時間が経てば、ここは平安時代なのだろうかと、少しずつだが疑問が沸いてくる。

自分が知っている平安京に、知らないものが幾つか混じりあっている。

――天色刻、そんなものは、この時代に存在していないはずだ。

太陰暦だったっけ。子の刻とか牛の刻とか、そういうのなら一条でも知っている。だけど、『朝焼け』や『藍染め』や『夕焼け』、そして『漆塗り』の刻など、空の色で時間を区分するという平安時代に本来、存在していないはずの時間の表し方が、この世界にはある。

この時代に在るはずのないものが、混じりあう世界。てっきり、過去の世界に飛ばされたなんて、最初は思っていた。

だけど、単純に過去の世界に飛ばされた、ということではないらしい。

自分の知っている平安時代とは、少し違うこの世界。いったい、どこなのだろうか。

――こんな世界を、俺は知らない……

外に広がる青空を見上げて、一条はひとり呟く。

「――俺……いったい、どこに来てしまったんだよ」


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