5
アウナの姿はすぐに見つかった。
どこを見るでもなく、腕を組んでぼんやりと立っている。真昼の光を摘み取ってきたような金色の長い髪がまっすぐ背中へ垂れていた。ロウのように白い肌がまぶしく目を射た。
ぼくは空中に浮いている異物をよけ、アウナに接近した。
不意に風が途切れた。
音のない空間にぼくは飛び出していた。いや、存在しないのは音だけじゃない。そこには空気がほとんどなかった。
息が詰まった。ヴァーチャルデバイスによって苦痛は瞬時に神経から遮断され、数値に換算されてサブウィンドウに出力される。
足がもつれる。呼吸を絶たれ、たちどころに動きにキレがなくなった。
失速し、ほとんど通常と変わりない程度にまで動きが鈍ってしまった。腰につるした剣が、岩を縛り付けたかのように重い。
よろめき歩くぼくへ、アウナの視線が向いた。
アウナは口の端を吊り上げ、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「ほう。最終的には、おぬし一人でお出ましか。見上げたものよのう」
子供そのものの甘い声音に、達観したような乾いた響きが混じっている。
ぼくは全力で声を絞り出した。
「君の強さはわかった。今からでも遅くはない。大将同士の一騎打ちを始めようじゃないか」
アウナはさげすむように鼻を鳴らした。
「結果が見えてから、あわててとりつくろっても遅いわ!」
「どの道、戦えるのはぼく一人だ。早く勝敗を決しよう」
「わしは構わんぞ。なんなとするがいい」
ぼくは剣を抜こうとする。だが、すでに指先の感覚は消失し、柄を握ることもままならない。足がしびれ、がっくりと膝をついた。
横目で僕の醜態を眺め、アウナは勝ち誇ったように言う。
「おぬしの能力はすでに知っておったのじゃ。いくら動きが素早かろうが、呼吸ができずしてなんとする? 近づくことさえできまいが。わしを中心とした半径100メートルの内部はほぼ真空状態よ。360度いずこにも死角はない。そして」
横殴りの突風がぼくをなぎ倒した。
「わしの能力はここ一帯の気体すべてに及ぶ。いや、龍脈の力を至近距離で受けておる今、この世界の端にまで手が届きそうじゃ」
まさに、化け物だった。
アウナを含む”モンスター”たちは、ぼくらキャラクターと違って魔法攻撃に長けていた。ことに、”最終戦争”終盤にまで生き残っているヒューマノイド型”モンスター”たちは超人的な魔法力をもち、その力は水素爆弾にもゆうに匹敵するとまで言われている。
一撃をまともに食らったぼくは、紙人形のように倒れた。
真空中の窒息を少しでも遅らせるために、ぼくは体を高速化の逆、つまり低速化した。
強烈な風の攻撃は、内部に複雑な気流をはらんでいたためか、頬がすっぱりと裂けておびただしく血を流している。ぼくの装備が無防備に近いので、一撃を食らった時のダメージは想像以上に大きい。
「他愛ないの。されば、おぬしの部下たちも一人残らず大竜巻の餌食にしてやろうぞ。そこで黙って見ておるがいい」
アウナは汚いものを見るような視線を僕に投げた。
「ま……待ってくれ」
ぼくは言うことを聞かない肉体にムチ打って、なんとかその場に起き上がった。とはいえ、まだ走るどころか立ち上がることすら難しい。
「なんじゃ、往生際の悪い」
アウナから、軽蔑しきった声音が飛んできた。
つい反発して、ぼくは思ってもいない強がりを口にする。
「まだ、ぼくは終わっちゃいない。部下を殺す前に、まずぼくを殺してくれ」
剣を杖に、ぼくはよろめきつつも立ち上がった。しかし、走ることなど到底かなわない。
「甘えるでない。軍団長のおぬしが愚かゆえ、部下たちは犬死するのじゃ。その事実をよおく噛みしめてから、死ぬがよい」
「なら、まだだ。ぼくはまだ本気を出していない」
「本気だと? 呼吸困難で立つのもやっとの半病人が何をほざくか。おぬしなど本気だろうと冗談だろうと変わりはせぬ。要するに、虫けらはムシなりのことしかできぬということよ」
苛立ったようにアウナの声が高くなった。眉根を寄せて、額にしわができた顔をこちらに向ける。つぶらな灰色の双眸が、まっすぐにぼくを貫くような光を浮かべている。
外見とは裏腹の迫力に、ぼくは後じさりしそうになった。しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。ここからは個人の心情などは一切関係なく、ただ状況だけが言葉を作ってしまう流れでしかない。
「だったら、虫じゃないことを証明してあげるよ」
内心、恐怖で縮み上がりながら、ありきたりな文句を並べたぼくはアウナに目を据えた。
アウナは白皙を怒りに紅潮させ、険悪な笑みで丸い頬をゆがめた。
「それ以上無益な減らず口をたたくこともできぬよう、両手足をもいでやろうぞ。幼子にもてあそばれる虫のようにな」
「できるかい?」
いい終わらないうちに、再び刃のような突風がぼくを地面にたたきつけた。
風に吹かれる枯葉のように、ぼくは地面をはねながら、転がった。
体が止まる暇もなく、次の突風に殴りつけられる。
風といっても、スピードが速ければ、それはコンクリートくらいにはなる。ぼくは致命傷寸前の打撲をうけ、また真空によって無数の裂傷を負った。攻撃の合間に自分の手を見て驚いた。真っ赤に染まっている。ぼくの体は、血まみれだった。
サブウィンドウの痛覚値は、危険値を越え、ぼくの体と同じく真っ赤に染まっている。ヴァーチャルデバイスの痛覚遮断がなければどれほど苦しんだことか、ぼくは死地にあって奇妙に安堵していた。
いらだったアウナの声が聞こえた。
「弱すぎる! 見損なったぞ、おぬし、それでも”四戦士”のひとりか? 虫唾が走るわ!」
周囲が暗くなってきた。
いや、ぼくの目が見えなくなってきているようだ。酸欠か、出血多量か、もうぼくのからだは手遅れかもしれない。手塩にかけたこのキャラも、今日でお別れか……。
まだだ。感傷に浸るのは、もう少し後でいい。
ぼくはふたたび体を高速化した。
濡れそぼった布団でも頭からかぶっているかのように、ずっしりと体に負荷がかかる。しかし、真空中では空気抵抗がないので移動は意外に楽だった。
一瞬で、アウナに肉薄する。
アウナは呆然と僕を見上げていた。
”死の種子”を振りかざす。
「おおッ!!!」
旋風とともにアウナの矮躯が飛んだ。
ふわふわとした子供服のような衣類の端が、ざっくりと裂けていた。
アウナは、地面にしりもちをついた。
「驚いたぞ! おぬしが青く見えたわ。これがドップラー効果というものか」
ぼくの斬撃はかわされてしまった。アウナの反応速度も尋常ではないらしい。
剣を構え、ぼくはじりじりとアウナににじりよる。一刻の猶予もない。しかし、無駄に攻撃をかける体力もない。
アウナの攻撃を受けながら、武器となっていた風そのものを呼吸して、回復した体力も早々に切れかけている。
はしゃいだ子供のように喜色満面のアウナは、ばねがはじけるように立ち上がった。
「しぶといの。しかし、持つかな、そのけがで。出血がひどいぞ?」
「意外に動きが素早いんだね。芸達者だな」
「おぬしが使う魔法を真似するなど、たやすいことじゃ。しかし、わしはこれ以上、おぬしに呼吸させてしもうてはいかぬゆえ、攻撃は控えねばならんな……ゆっくり朽ちてゆくのを待つとしようかの」
なぶるようなアウナの笑みに、ぼくは怒りを覚えた。
「もっともらしく一騎打ちを申し込んできながら、自分が有利になると逃げに入るのかい? 君だって卑怯者じゃないか? 本当はぼくたち全員を相手にするのが怖かったんだろう」
アウナの顔がひきつった。つかの間見せた笑顔が、電光のように怒りの形相へとってかわった。
「口だけは達者よの。今更おぬしごときに何ができると言うか!」
アウナの周囲で風がうなる。視界がゆがむほどの猛烈な大気のうねりが僕の周辺を駆け巡った。
ぼくはさらに動作を高速化した。
が、アウナもほぼ同速度で身をかわす。
猛然と踏み込み、剣を振るうものの、アウナの服に切れ込みを入れるだけにとどまった。
不意に足がもつれて、アウナの眼前で無様にうずくまってしまった。
景色の中に、黒い雪のような黒点が空中を舞い踊っている。
アウナは肩で息をしながら、ぼくをらんらんと光る眼でにらみつけた。
「それで終わりか」
ぼくは答えることすらできなかった。
強烈な怒鳴り声が、アウナからほとばしった。
「その程度で、おぬしはわしを、われらを滅ぼそうとしていたのか? この世界と共に生まれた我らを、このようなちっぽけな弱者の手で無に帰そうとしていたのか! 愚か者、度し難い愚か者どもめが!」
ぼくの目は、アウナの顔にくぎ付けになった。
怒りに眉を逆立て、歯をむき出したアウナの目には、涙が光っているように見えたのだ。
アウナは怒り狂っているのではない。嘆いているのだ。
「違う……」
ぼくはとっさに答えていた。
「ぼくは、滅ぼそうなんてつもりはない」
アウナの固い声が尋ねる。
「ならば、闘いをやめるのか? 和解するというのか?」
ぼくは無力感と恥辱にうちひしがれながら、うなだれた。弱々しく頭を振る。
「それは、ぼくの一存ではどうにもならない……」
「なら、どうするというのだ? 滅ぼすでもない、和解するでもない……いっそ、救うなどとでも言うのか?」
「……わからない」
声を絞り出す。ぼくには、どうすればいいのかわからない。
アウナは静かに言った。
「哀れよの」
音の乏しかった真空の世界に、突如として耳をつんざく轟音が響き渡った。
ぼくは空中に放り出される。
四肢をうねる風が絞り上げた。強烈なちからで体が捻じ曲げられてゆく。
ぼくはさらなる高速化を試みた。
これ以上スピードが上がった場合、ぼくは周囲の状況を把握できなくなる。盲目で林の中を走り回るようなものだ。だが、瀕死の今、躊躇する理由はどこにもなかった。
うすぼんやりした白い闇に、世界は包まれた。