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60-3

 かつてアウナを裏切った時、ぼくは懸命に走った。

 だけど、時遅くアウナは獣の餌食になり果てていた。

 過去に戻る能力を得た時、ぼくは必死に過去へと飛び込んでいった。

 しかし、アウナはぼくと生きることを拒否した。

 ぼくは彼女を愛しているがために、なんども淡い希望を追い続けてきた。だが、ぼくはもしかしたら勘違いをしていたのかもしれない。真に求めていたのは愛ではなく、アウナの許しではなかったか?

 彼女より自分のささやかな安寧を優先してしまった過ちへの、アウナの許しをこそ、ぼくが求めていたのだとしたら……それはなんという自分勝手なんだろう!

 自分が犯した過ちを、その被害者に許してもらいたいと願うなんて……。

 でも、どうしようもなくアウナにとらわれている以上、この汚点をぬぐうことなしに、ぼくの慚愧は決して消えない。

 そのためには、二人の関係を続けようとするならば、まず、アウナがぼくの醜さをも受け入れることが絶対に必要だ。

 だから……ぼくはアウナの記憶を取り戻さねばならない。

 たとえ彼女が、ふたたび苦悶することになろうとも、ぼくの、ひいてはぼくを愛する彼女のためなんだ。

 だがもし、アウナがぼくを許さないなら?

 その時は、ぼくはどんな裁きでも受ける。それがぼくにとってどんな残酷な仕打ちとなろうとも、アウナの記憶をよみがえらせることに対する、絶対に背負わねばならない義務だから。

 

 

 

 アウナの記憶を取り戻すには、ぼくの体内に充満している微小機械を彼女の体内に注入するという作業が必要だ。

 微小機械の必要量を満たすのは、難しくない。体内を巡る微小機械を”魔力”で操作し、特定の個所に集中させるだけだ。

 問題は、微小機械を含んだ体液(!)をどのようにアウナの体に送り込むか、だが……。

 「なんじゃ、おぬしは。人の話を聞いておるのか?」

 アウナを注視しつつも、方法を探しあぐねて、困惑するぼくを、胡散臭そうにアウナは睨み付けた。ぼくの挙動から、不穏な何かを察したのか、後ろにさがる。

 「アっ、アウナっ! ぼっぼぼぼくはキミを……!」

 上ずった声とともに、アウナに迫る。力任せに細い肩に手をかけた。

 驚いたように目を丸くしていたアウナは、形のいい眉をひそめた。

 「無礼者!」

 目の中に白い火花が飛び散った。強烈な一撃がぼくのアゴをとらえたようだ。きっとアウナの頭突きだ。口の中に鉄の味が溢れる。舌を少し噛んでしまったようだ。すごく痛い。

 ぼくは他愛無くしりもちをついた。勢い余ったアウナがぼくに覆いかぶさるように倒れる。

 直後、突然の爆発がぼくとアウナを襲った。

 状況が呑み込めないまま、ぼくたちはくんずほぐれつ、地面に転がる。

 いつの間にかぼくがアウナを組み敷いている格好になっていた。

 突然、名案を思いついた。

 口を大きく開く。流れ出した血液が、アウナの顔に雨滴のように滴った。煤で汚れたアウナの顔に、丸い紅色が穴をうがつように付着していく。

 顔をしかめ、アウナは暴れ狂う。心底、気持ち悪そうにしているアウナが気の毒だったが、ぼくは心を鬼にして、何とかアウナを押さえつけた。

 「汚ならしい! 止さぬか、貴様! 気でも狂っておるのか! すぐにわしを離さぬと、後悔するぞ!」

 喚き散らすアウナの口に、いくつか血の粒が落ちたようだった。それだけではなく、目や鼻孔にもぼくの血液が接触しているはず。

 辛抱強く待つぼくの腕の中で、アウナの抵抗は次第に弱まっていった。

 疲れ切ったようなうつろな表情で、アウナはぼくを見た。

 「……アーツェルか? わしは、まだ、生きておるのじゃな」

 ぽつりとつぶやいたアウナの両目から、涙がこぼれ落ちる。

 「ごめん。ぼくは、まだあきらめきれなくて……」

 「愚かな奴じゃ、おぬしは。わしを生き返らせてなんとする。あれほど言ったのに、おぬしはわしの気持ちを、とうとうわかってくれなんだのじゃな。死を願うのは、おぬしが消えてしまうことが恐ろしかったからなのに、なぜわしをさらにその恐怖にさらそうとするのじゃ? おぬしは、あまりにも残酷じゃ!」

 「返す言葉もないよ、アウナ……。キミの批判はもっともだ。ぼくは、弱くて、残酷な人間だ。でも、そんなぼくだから、こうするしかなかった。キミがもう一度、死を望むのなら、ぼくはそれを妨げることは二度としない。しかし、その前にぼくの話を聞いてほしい。ぼくたちは一緒にいなければならないんだ。だって、キミがいないとぼくは……」

 おもわずぼくは口ごもってしまった。彼女がいないときは、何度も脳裏をよぎって離れなかったことが、いま再生したアウナを前にすると、妙な虚栄心が膨れ上がり、言葉をせき止めてしまう。

 アウナは怒りの形相で、ぼくを問い詰める。

 「おぬしは、なんなのじゃ? さあ、己の口でハッキリと言うがよい!」

 ぼくは半ば自分自身の心を、アウナの前に投げ捨てるかのような気分で、言った。

 「ぼくも、もう、生きていけないよ……」

 ぼくはアウナの上に崩れ落散るように横たわる。頭の後ろに、アウナの手のひらが柔らかく覆いかぶさった。

 「お願いだ、ぼくを置いていかないでくれ」

 気づけば、ぼくも涙を流しているのだった。

 アウナは穏やかにささやいた。

 「わかった、わかったぞ、わしのアーツェルよ。おぬしも苦しいというのじゃな。わしがいなくば、おぬしも死んでしまうというのじゃな」

 胸の底から、温かい泉がわき出るかのようだった。

 優しい子守唄のようなアウナの声音に耳を澄まし、ぼくは眠るように目を閉じた。

 アウナは言葉を続ける。

 「……知っておったよ。わしが死んだ後、おぬしがいかに自分自身を失ってしもうたのか、見えたのじゃ。つらい思いをしたのじゃな、おぬしも」

 どうやら、微小機械はアウナが死んだ後の、ぼくの行動も伝達してしまったようだ。

 ……ぼくの迷子のような茫然自失のありさまが、アウナに知られると思うと、いまさら恥ずかしいような気もするけど……気にしても仕方がないか。こうやって、互いに見せたくなかった部分も分かち合うということが、一緒に生きるということなのかもしれない。

 なら、ぼくは一番せねばならないことをすべきだろう。

 「アウナ、ぼくが裏切ったことを許してほしい。ぼくはあの時、キミに苦しい思いをさせてでも、自分だけは安楽に生き延びたかったんだ」

 口に出した瞬間、背筋が冷えるような感触が走った。いざ言葉にすると、卑劣そのものでしかない行為に、一体どんな人間が許容してくれるというのか、という恐怖を感じたのだった。

 アウナの手のひらがぼくの頬をはさみ、ゆっくりと持ち上げる。真下にあるアウナの顔が、真面目な顔つきでぼくを見ていた。

 「全くおぬしは……卑怯者じゃのう。こうしてわしに謝ることそのものが、やはり卑怯だとは考えたことはなかったか? つまりおぬしは、自分で罪悪感を引き受けることを拒み、わしに寛大な心を抱け、と強制しておるのだと」

 ぐさりと、胸に突き刺さる言葉だった。ぼくはまたも失敗してしまったのだろうか?

 苦い言葉がこぼれた。

 「わかっているんだ。でも、ぼくは自分で自分をどうしようもない。キミだけだ、ぼくを別のところへと導くことができるのは」

 アウナはにんまりと笑う。

 「どうじゃ、少しはこたえたかの? じゃが、わしとて同罪じゃ。おぬしを捨てて、ひとり死の静謐へと逃げ込もうとしたのじゃから。わしこそ、許してくれるか?」

 「そんなこと、当たり前じゃないか。キミがぼくに対して何か罪を犯したなんて、少しも考えちゃいない。でも、キミが許せと言うなら、ぼくはなにもかも許す。それくらいなら卑怯者のぼくにだって、できる」

 「わしも同様じゃ。水臭いのう。何をわしに遠慮することがある? わしらは、二人で一つ、それでよいのじゃろう?」

 「そうだ。でも、キミはそれでもいいのかい? キミには本当は、”虹の門”以外での生活があるんだ」

 ためらうぼくを見て、アウナは苦笑した。

 「しっかりせい! その程度のことは覚えておるわ。これまでのわしの記憶は封印されてはおらぬ。それも当然よの。おぬしの体内に飼っておる”インセクト”は記憶の封印を解除する働きがあるわけだからして、記憶の追加はするが、旧来の記憶に新しいものを上書きしているわけではない。安心せい、わしはこれまでの人生を捨てても、おぬしと共に生きることを選んだのじゃ。おぬしが”虹の門”に来る前の生活を捨ててきたようにな……今こそ、わしはおぬしを許してやろう」

 ぼくはアウナを力の限り抱きしめた。

 「二人で生きよう。これから、どんなに苦しいことがあっても」

 「そうじゃ、わしら二人ならできぬことはない」

 かつて、二人の心が結ばれた同じ場所で、ぼくとアウナはついに一つになったのだった。

 

 

 

 

 あれから、数年……。

 アウナに”虹の門”の記憶を注入した後、ぼくとアウナは塔から身を隠して逃げ去った。

 そして正体を隠し、身分を偽って、地球側の社会に潜り込んだ。”他球”では身分の高いアウナの顔は知れ渡っているため、隠れることは容易ではないが、地球ではぼくもアウナも全くの異邦人だったから、正体がばれるという心配は無用だ。

 ”融合”によって社会が極度に混乱していることもあり、ぼくとアウナは難なく地球人の一員に成りすますことができた。

 アウナにとっては駆け落ちしているも同然だから、ぼくたちはなるべく世の中とのかかわりを避けて、隠れるように暮らしていた。

 しかし、市井の一員として暮らす限り、世の中を揺るがしている戦乱の影響を避けることはできない。

 ”融合”によって、地球と”他球”の領土は互いに入り乱れ、さらに互いの人間さえ混じり合ってしまったことが原因となり、戦局は混迷を極めることとなった。

 ありとあらゆる場所で戦闘が発生し、犠牲者は膨大な数に上った。分散した領土は占領するには容易だったが、守備するのは困難で、両者の支配地域は毎日、変化した。

 ぼくとアウナは流浪の末、要塞都市、東京に居を定めていたが、そこもついに戦火に包まれることになった。

 破壊され、炎を上げる居住区にアウナは立ち尽くしていた。

 周囲には、つつましやかな生活の中で、わずかにできた社会との接点である、顔見知りの人たちが倒れていた。みんな死んでいる。一目見ればわかるくらいに、体が破壊されていた。

 この区画では、ぼくとアウナだけが、助かったようだ。

 アウナは死んだ人たちを眺めながら、言った。

 「やはり、わしは見過ごすわけにはゆかぬ。力を持ちながら、それを世の中を正すことに使わないのは、力に伴う義務を放棄していることに他なるまい。その無為、卑劣にはもはや、わしは耐えることはできぬ」

 戦争の影響で各地を転々とするごとに、ぼくとアウナは仲たがいをするようになった。

 混沌とした世界に対して、どのような態度をとるかで意見が異なっていたのだ。ぼくは可能な限り距離を置くべきだと信じており、アウナは逆に力の及ぶ限り介入すべきだと主張していた。

 もう、数えきれないほどの諍いの果てに、今やぼくとアウナの心は完全に離れてしまっていた。

 ぼくはすでにこれまで何度も繰り返してきた反論を、もう一度繰り返した。

 しかし、それはアウナを引き留めるのではなく、二人の違いを際立たせるため、つまりもうぼくたちの仲は修復できないと、伝えるためだった。

 「力を持つものが、社会に積極的に入り込むことこそ、悪徳だとぼくは思う。なぜなら、政治的な権力を得ることで、いっそうその影響力は増すからだ。そして、完璧な人間はいるはずがないのだから、独りよがりによって犠牲になるものは必ずでてくるだろう。一人でも自分の犠牲にしたくなければ、なるべく孤独に暮らすのがいいんだ」

 アウナはぼくを冷たい目で見やった。

 「それとて、一種の義務であろうよ。おぬしは、人を超える力の持ち主は逼塞すべきじゃと言う。では聞くが、この惨状を見て、おぬしは何とも思わぬのか? わしが力を発揮しておれば、わしらの隣人たちは命を失わずに済んだのではないか?」

 「同意はするよ。けど、見えないところでそれ以上の死人を出している可能性だってある。いや、戦場で自分が殺す以上の命を、別の場所で救っていると、どう判断するんだ? 何かを殺している以上、それは決してやってはいけないことのはずだ。みんなが殺さなければ、犠牲者など存在するはずもないんだから」

 「しかし現実に殺すものがいる以上、殺されないためには殺すしかない。そして、それができるのは力のある者だけなのじゃ」

 ぼくは”虹の門”の力を失っていた。体内の”魔力”は徐々に薄れ、今ではぼくはごく普通の人間と同じだった。しかし、アウナは違う。彼女は地球人よりはるかに強靭な肉体の持ち主だった。”虹の門”でのように、強大な”魔法”が使えるわけではなかったが、重火器が容易に通用しないことは、戦場では圧倒的な利点になるだろう。

 無言のぼくに、アウナはついに宣告した。

 「わしはおぬしと同じ道を歩むことはできぬ」

 こうなることは、予想できていたのに、いざ終わりの時が来ると、ぼくは奇妙な感傷を覚えていた。

 「わかった。ぼくもそう思っていたよ」

 ふと、アウナはさみしげにぼくを見た。

 「別れるとなると、なにやら急にこれまでのことが切なく思い出されるのう。おぬしは、わしと過ごした時間をどう思う?」

 「幸せだったよ。キミといてよかった」

 アウナは久々に見せる明るい笑顔を浮かべた。

 「そうか。わしもそうじゃ。だが、たもとを分かつことも仕方のないことなのじゃな。そう思わぬか?」

 ぼくは少しばかり皮肉を言いたい気分だったが、そんなことをしても現状が変わるわけでもない。有終の美だ。それを飾ってしまうことで、アウナのことはきっと、キレイな思い出に昇華されてしまうだろう。ぼくはそう願う。

 「キミと同じ意見だよ。ぼくとキミはもう限界だ。ここらで離れるのも、自然な結末だよ」

 「そうじゃな。……ぐずぐずしておっても詮無いこと。わしは行く。達者でな、アーツェル」

 「ああ。戦争が終わったら、また会おう。それまで元気でね」

 「そうじゃな! 再会を期して、さよならじゃ!」

 アウナは至極あっさりとぼくのもとから去っていった。

 彼女が、ぼくの従属物に成り下がることを恐れていたのは、杞憂だったな。むしろうつろな心を抱いたまま佇んで彼女の背中を眺めているぼくのほうが、まるでアウナの脱ぎ捨てた古い衣装のようだ。

 破壊された街を逍遥する。炎がまたたき、黒煙がうねりながら立ち上る。

 時がたって、頭上を黒い天蓋が覆い、無数の星が宝石のようにまき散らされていた。

 その中でひときわまばゆく輝く美しい星がある。

 あれは、アウナとぼくの星だったが……今はどう呼ぶべきだろうか?

 吹きすぎる涼しげな夜風が髪をはためかせる。外灯の消えた路上は、想像以上に暗かった。

 これまでどうやって歩いてきたのだろうと戸惑うぼくは、ぼんやりと冷たい路上に立ち尽くしていた。

 

 (完)

 

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