41
満天にきらめく星々に励まされているかのような高揚に包まれて、ぼくは先を急いだ。
アウナ! アウナ! すぐに追いつくから、頼む、待っていてくれ!
はやる心に不安の影が差す。
会うのはいい、だが、アウナはぼくを受け入れてくれるだろうか?
きっと心ならずもアウナを罵倒してしまったラランニャの言い分に、こともあろうにアウナの眼前で流されてしまった意気地なしのぼくのことを……?
苦い後悔といたたまれない恥辱に脳みそが焼けてしまいそうだ。
いまさらだけど、ぼくは本当に情けない奴だったんだ、と思った。重い鋼鉄の棒を飲み下すかのように、己がいじましい卑屈な存在だという認識を呑み下す。
もっと自分は毅然とした、立派なものだと思い込んでいた。
しかしそんな架空のプライドは、自分がやらかしてしまった醜態の前では、取り繕いようがない。ガラスのように木端微塵に砕け散り、ぼくの心はいっぱいに浴びた破片で血まみれだ。
だが、その傷さえもが、ぼくにはきっと得難い祝福なんだろう。
今胸に巣食っているこの何とも言えない不快感、惨めな気分は、アウナを侮辱した罰なんだ。
ぼくは罰を受けている。だから、苦痛は甘んじて浴びないと。むしろ苦悶を喜ばないと。
でも、でも……もしアウナに許されなかったら……?
ぼくの謝罪が、懇願がすべてはねつけられてしまったら?
この急ぎ歩きの小旅行はすべて水泡に帰す。とち狂った愚か者の奇行で終わってしまう。
……いや、もうやめろ!
自業自得だ。すべて自分のやったことだ。その償いに過ぎないんだ。
いっそ、アウナがぼくを断罪することこそ、望めばいい!
自分勝手な希望は捨てるんだ、ぼくはアウナのささやかな願いを最も無残な形で打ち砕いてしまったのだから……。
けれど……自分勝手なことはわかっているけど……ぼくは、アウナに許してもらいたい!
もう一度、今度こそ絶対に最後までアウナと一緒にいたいんだ!
アウナはぼくをどうするつもりなんだろう? こんなに悩みながらも、ぼくには一縷の希望が根強く残っている。アウナが快活に笑って、ぼくの失敗を水に流してくれることを夢見ている。
一刻も早く会いたい!
……いや、結果にこだわるのはよそう。ぼくのことはどうでもいいじゃないか。
ただ、ただ、もう一度、アウナに会いたい。
彼女の本当の笑顔が見たい。最後に見たのが、ぼくを責めないための、偽物の笑顔なんて、悲しすぎるじゃないか。
いや、またぼくは自分勝手になっているようだ。
せめて、一度だけでも、見ることができたら、声を聴くことができたらそれで十分だ!
焦燥に駆り立てる不安が、色濃くなった。
かすかな音が聞こえる。
闇の中から、何かの呼吸音が聞こえたような気がした。
アウナのことで頭がいっぱいになっていたせいか、うっかり周囲の様子に気を付けるのを怠っていた。
ぼくはせわしなく動かしていた足を止めた。
ここは、どのあたりだ? もうずいぶん進んできた。とうにアウナと別れた場所は通り過ぎている。アウナが姿を消した方向へだ。
辺りは静まり返って、星明りにほの白く浮かぶ平野に、人がいる気配はない。
もしアウナがいるなら、キャンプなりしているのではないだろうか……いや、普通に地べたに寝そべっているのかな?
耳を澄ますと、確かになにか動物の呼吸音が聞こえる。
確かに、何かがいる!
鼻先を、生臭い獣の匂いがかすめた。
ぼくは、背後に背負った”死の種子”を手に取った。刀身を包んだ厚い布をほどく。
地平線に沿って、蛍のような緑色の光が明滅した。その数、およそ七つか、八つほど。
間違いない……”モンスター”だ。
”モンスター”の輪郭が影となって、おぼろげに見える。”狼人間”だ。群れを作る厄介な相手だ。そういえば、アウナと会った時も、こいつらに追い掛け回されたっけ。
ぼくはいつのまにか、連中に包囲されていたようだ。狩りの獲物として、追い詰められていたんだ。
窮地かもしれない。しかし、ぼくの中には敢然と立ち向かう意思だけが燃え上がっていた。
「来るなら来てみろ。絶対にやられたりしないからな……」
自らを励ますために、つぶやいた。
戦闘態勢を取るぼくを、しかし獣たちは遠巻きに眺めているだけだ。
こちらがにじりよると、それだけ遠くへと距離を取る。
どうしたんだ? 餌としてはぼくは魅力的ではないってことか? あれだけ、ぼくの配下が意識を失った時は大喜びでむさぼっていたくせに、どういう風の吹き回しなんだろう?
まさか……ぼくを取り巻く獣たちは、誰かの指示に従っているのか?
もしかすると、その主は……アウナ?
思い当たった途端、ぼくの自制心はたちどころにふきとんだ。
「アウナ! いるのか? 君か?」
無謀にもぼくは群れの真ん中に突っ込んでいった。武器を構えることすらせず。
「アーツェルだ! 君に会いに来たんだ!」
突然の大声に、獣たちはたじろいだようだった。群れの環を乱し、ぼくを遠巻きにうかがいながら、離れてゆく。
どうしたんだ? ようすがおかしい。
ぼくはなおも追い縋ろうとする。
が、その場に無様に転んでしまった。何か棒のようなものを踏みつけて、バランスを崩してしまった。
しまった、襲われる!
恐怖に襲われるぼくをしりめに、獣たちは素早く逃げ散っていった。
なんだったんだ、一体……?
狐につままれたように、呆然と彼らを見送る。
緊張が解けると同時に、鼻をつく臭気にむせかえった。
この強烈な悪臭は、これまで死んだ者たちがまとっていた禍々しい臭いだ。死の匂い、そのものだった。
足元を見る。
全身に電撃を食らったような衝撃が走った。
ぼくが見下ろしていたのは、人間の足だった。
水を浴びたように体が冷えた。早くなった心臓の鼓動が激震のようにぼくの体を震わせる。
ほっそりした片足だけが、くの字になって冷たい地面に横たわっていた。
青白い皮膚が、淡い星の光を照り返している。足の付け根には、黒いシミがこびりつき……その断面はぎざぎざにささくれ立っていた。
吐き気をこらえ、ぼくはこぶしを口元に押し当てた。
まさか!
まさか……そんな。そんなことが……。
ぞっと悪寒が体中を虫のように這いまわる。体が猛烈に震えて、歯がカチカチと音を立てた。
……あるはずが……ない。
そんなことが……。
それ以上の思考が進まない。なんだ? ここで何があったんだ?
わからない。だめだ、考えがまとまらない。
圧倒的な恐怖にがんじがらめにされ、のろのろと視線を周囲に這わせた。
夜目に、いくつもの白っぽい影が、濡れて黒い地面を背景に浮かび上がった。
なんだ? これは一体なんなんだ?
熱に浮かされたように、ぼくは目に映る何かをたどっていった。
よろめく足にかろうじて導かれ、たどり着いたのは、今度は腕だった。
さみしげに、あるいは恨みをのんだように、何かをつかもうと曲がった指が、爪で空を指している。
腕の皮膚には、いくつもの傷が刻み込まれていた。生命のともす熱を失い、凍てついた血液が黒ぐろとまだら模様を描いている。
もはや早鐘と化した心臓の鼓動と、激しい呼吸にあえぎながら、ぼくはうめき声を上げた。
これ以上進みたくない。
恐怖が強烈にぼくの肉体を抑圧している。
同時に、同じ恐怖が、にわかにさびついた四肢を前へと駆り立てる。
「違う、違うはずだ。これは……」
もう一つの腕、そして激しく引きちぎられた何かの……きっと内臓の破片……が、心無くもけちらされたように、散布され……さらに足が転がり……そして。
たまらずぼくはその場に嘔吐した。
強烈な胃の痛みがぼくの肉体を、何度も何度も刃物のように貫き、えぐり、かき回した。
際限なくあふれる涙にゆがんで、それはいやでもぼくの目に飛び込んできた。
長い金糸がもつれあったような塊が、星から光を受けて、静かにしみいるような明かりを浮かべている。
やわらかい曲線の下に、丸みを帯びた異物がのぞいていた。
突如として、体を貫いた衝動に突き動かされた。
地面に手を差し伸べ、がくがくと揺れる手で金色の覆いをそっとかきわける。
息が止まる。
体中の骨にまで響くようなすさまじい衝撃がぼくを一撃した。
冷たい土の上に落ちていたものは、アウナの頭部だった。




