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 地面に倒れこんだノトゥからは、カナと同じ生臭い悪臭が漂ってきた。

 地面に輪を広げてゆく血だまりは、地上の暗雲のようだ。

 ぐったりと膝をつくぼくは、すでにヴェルメーリを倒した時よりも衝撃が薄らいでいることに嫌悪感を覚える。

 ノトゥの胸板には、”暗黒星”が突き立っている。突き出た剣を書き抱くように、ノトゥは横向きに体を横たえていた。その体が身じろぎした。

 嫌な味が口に湧いた。おなかが重苦しくなる。

 まだノトゥは生きている。助けられるだろうか。でも、助けたら僕はまた命を狙われかねない。

 どうしよう。

 とどめを刺すことも、応急処置をすることもできず、ぼくは身動きできないままにしゃがみ込んだ。

 くっきりと明暗が分かれ、青色に染まっていた景色が元の様子を取り戻していた。

 「アーツェル! そなた無事か!」

 大声と共に走ってきたのは、アウナだった。血だらけのぼくを見て、蒼白になる。おろおろとぼくの周りを回る。

 「血が出ておるぞ! 痛かろうに、よくぞ我慢したな。安心せい、わしがなんとかしてやるぞ、しばし待つがよい……」

 ぼくはアウナの細い腕をとった。自分のほうへ引き寄せ、抱きしめる。

 すっぽりと腕の中に納まったアウナは、何か言おうとしたが、口をつぐんだ。おとなしくなすがままにぼくの胸に頭を預けた。

 「すごく疲れた……でもきみが無事でよかった」

 「わしのことはどうでもよい。そなたはケガをしておるのだぞ、養生せねば」

 「いいんだ。こんなきず、かすり傷さ」

 「口惜しいのう。わしに力があれば」

 「力なんてキミには必要ない」

 体の重みが何倍にも増えたようだ。もう二度と立ち上がることなんかできそうにない。

 このまま死んでしまっても、でも、何となく後悔はしないような気がする。この時だけは。

 不意に、カナのことを思い出した。

 隠しておいた死体のような陰鬱な気分が、起き上がる。

 「カナは……?」

 アウナが申し訳なさそうに答えた。

 「おぬしの仲間が、調べておるようじゃ」

 のんびり座っている場合じゃないよね。立ち上がらなければと思うけど、足に力が入らない。

 よろめくぼくに、アウナが不安げに寄り添った。ぼくは微笑みを作った。

 「手を貸して……なんて言えないな」

 「わしはつくづく……おぬしの役には立てんのじゃな」

 悲しげなアウナの表情を見て、ぼくは胸が痛んだ。

 「いいんだよ、キミはそのままでさ……ぼくは、指揮官としての義務を果たさなきゃ」

 アウナは不満げに鼻を鳴らした。

 「愚かしいのう。すでにおぬしは自身の属しておった集団に反抗しておるのに、その集団の規律を守るのか?」

 確かにもっともだ……率直な意見は、もっと体力がある時なら、ぐさりと胸に突き刺さっただろうけど、今は冷静に聞くことができた。疲れ切ってて、あまり感情が湧いてこない。

 「でも、気が済まないんだ」

 ぼくはしびれたように動かない足を叱咤して、のろのろとカナのもとへ進んだ。

 神妙な面持ちのラランニャと、退屈そうなエンカラがカナのそばにしゃがんでいる。

 エンカラはぼくを見て、目を輝かせた。

 「おっ、動けるんすか? やっぱ軍団長はガチっすね!」

 「やあ。ぼくはそんなんじゃない」

 ラランニャはカナの体を子細に観察している。

 ぼくはなかなか出てこない言葉を、やっとのことで押し出した。

 「カナは、どうなってる?」

 ラランニャは頭を上げた。深刻そうに眉をひそめ、重々しく答える。

 「死んでいます」

 何も言うことができなかった。

 もしかしたら死んでいたのはカナではなくぼくだったかもしれない。それだけノトゥは手ごわい相手だった。生きるか死ぬかの分かれ目なんて、ほんのちょっとしたことでしかないんだな、実際は。

 それに、なんてあっけないんだ。ついさっきまで、カナは自分で動いて、話していたじゃないか。なのに、それまでカナとして動いていた体の部分はすべて残っているのに、今は、もう動かなくなっているなんて、死っていうのが、ぼくには、よくわからなくなってきた。

 「生き返らないの?」

 ラランニャはかぶりを振った。ぼくにちらりと送った視線が、冷たい憐れみと怒りを帯びているように見えた。

 「残念ながら、蘇生は不可能です。この傷口ですが、”暗黒星”の能力で、腐敗しています」

 「腐敗だって? くさってるってこと? どうしてそんなことになってるんだ」

 「”暗黒星”は重力を操る魔剣ですが、重力の有無によって、時間の流れも影響を受けるのです。剣の自重を軽くしていたことの付加効果で、刀身に触れた部分は時間の流れが加速されたのでしょう」

 「じゃあ、もうカナは助からないのか」

 エンカラが口をはさんだ。

 「残念っすね。せっかく美人なのに、死ぬ前にもうちょっとからんどきゃよかったな~」

 のんきなエンカラのコメントを無視して、ぼくはラランニャに尋ねる。

 「ぼくたちはリアルのバックアップなんだろう? どうにかして記憶を保存とかできないのかい?」

 「ムリですね。バックアップというのはあくまで比喩ですよ。わたしたちはこの世界で生存している生物でしかありません。機械のような芸当はできませんね。ましてわたしたちは医療用の設備はほとんど持っていないんですから。たしか、アウナの守っていた塔へ行ったときには、簡易医療キットを持っていましたが……」

 「そうか……」

 機械的に返事をする。伏せていた目を、カナのほうへ向けた。

 カナの体は二つに分断されていた。わかってはいたけど、その様子を目にすると、胸に殴られたような痛みが生じた。

 苦悶の表情をまざまざと残し、カナは大きく目を開いて宙をにらんでいた。わずかに開いた口から、食いしばった歯がのぞいている。最後は苦しんだのだろうか。苦悶が刻みつけられている。

 ラランニャはおもむろに腰を上げた。

 「そろそろ次の行動に移りましょう。とりあえずノトゥは倒しましたが、うかうかしてはいられません」

 厳しい表情で言った。

 カナをここに残していくのか。罪悪感が肩にのしかかる。

 確かにぼくは喜怒哀楽が極端すぎるカナが苦手だったし、ほとんどまともに話したこともない。たいてい、適当に相槌を打って、話を短く切り上げるとか、カナが一方的に話すことを聞いているだけだった気がする。

 生きている間に、粗雑に扱ってきた、という苦々しい思いが残ってしまった。

 気休めかもしれないけど、何かしてあげられればと思ったんだが、それも結局、生きている者の自己満足でしかないんだよな。

 頭では分かっているのに、苦しさが消えない。

 ぼくの周りを透明な壁が取り囲んでいるようだ。周囲の音が遠ざかり、ぼくは蒸し焼きにされているかのように脂汗を垂れ流す。自分で自分がよくわからない。勝利のあとに、こんな虚しい、苦痛が、そして罪悪感だけが残るなんて、話が違うじゃないか!

 視界が左右に大きく揺れる。

 「いきなりどうしたのじゃ? 危ないぞ、足がもつれておるではないか」

 「ノトゥも助かりませんよ、もう死んでいるのではないでしょうか。わたしが確認しますから、じっとしていてください」

 ぼくはよろめいているようだ。しかし、前には進んでいるようだ。アウナとラランニャの言葉が飛び交っているようだが、ぼくにはその内容が分からない。

 ただ、このつじつまの合わない苦しさを解消しようと、ノトゥの”暗黒星”だけを視線の中央にとらえていた。

 勝ったぼくがつらいのも、きっと戦利品がないからだ。忘れていたんだよ、ノトゥの”暗黒星”を、戦利品としてもらってしまえばいい。血にまみれていればよけいに、それは価値が高まるんだ。

 微動だにしないノトゥのそばに膝をつく。えびのように体を丸め、たわんだ腹部から黒い柄が飛び出していた。地面に染みた血液は早くも黒変し、異臭を放っていた。

 ノトゥは何かを注視しているようだった。半開きの唇は、赤い血にぬれている。

 黒い瞳が、ゆっくりと動いてぼくを見上げた。

 「やられたな……信じられんが、おれが負けてしまったようだな。お前の勝ちだ」

 全然勝った気はしない。今のこんな陰鬱な気分が、勝利の高揚であるわけがない。

 「ぼくは、勝ち負けにはこだわってない。きみは本当に嫌いだけど、でも、ぼくは負けてもよかった。きみがアウナや”虹の門”をそっとしておいてくれるなら」

 「それはないな。でもそーゆーことなら、嘘でもついてやればよかったな。バカ正直に真っ向勝負した挙句、このざまだ。すっかり目論見が狂っちまったよ」

 自嘲するようにノトゥは唇をゆがめる。

 「嘘つけばよかったのに」

 「お前が言うなよ。でも結果は同じだ……そう、必ず夜は明けるように、必然だ……」

 ノトゥの様子が変わった。油じみた目の光から生臭さが消え、明るく冴えた色に支配されたように見えた。

 「このおれ自身が、お前と同じだ。それは夜じゃないか? 夢は夜見るモノだろう」

 これは、茫洋ノトゥだ。死に瀕して最後に現れたのが、彼だった。これがノトゥの本質だということだろうか。

 「難しい話は分からないよ。言いたいことだけ言ってほしい。時間はあまりないだろう?」

 「すでに曙光が俺を満たしているさ。”虹の門”とおれは同時に夜が明けるんだ。何度も何度も”虹の門”のスピードを置き去りにしたつもりでも、最後には追いつかれてしまった」

 ノトゥは言葉を切り、血を吐いた。

 「おれは霊媒だ。神に作られた天使なんだ。複数の神がおれには降りてくる。しかし今神はすべて消えた。一人だけで誰かと話すのは初めてだな」

 「なにかしてほしいことはあるかい?」

 「ない。だが、もう少し話を聞いてほしい……」

 「続けてくれ、聞いてるから。ついでに、ずっと覚えておくから」

 だが、ノトゥはもう何も言わなかった。命が尽きたのだった。

 背後から、ラランニャの声が聞こえた。

 「ノトゥは、”虹の門”をメンテナンスするためにシステム管理者の権限を持った技術者がログインするための特殊なキャラクターだったんです」

 ぼくはもう、頭がぼんやりしていた。ラランニャがせっかく説明してくれている言葉も耳を素通りしてしまう。

 「管理者権限を持つキャラクターは、一般ユーザーがログインできなくなっても高レベルで接続が保護されるのでしょう。だから、複数人が同時にノトゥにログインできていたんでしょうね」

 そんなキャラクターが存在するのか。天使の霊媒ってどんな感じだったんだろう。神が降りてくる……冗談じゃない、あんなゲスな神があるもんか! 自分は安全圏で好きなようにキャラを操って……。でもそれは、ぼくも昔は同じことをしていたんだよな。気づいてなかっただけで。

 遠くで潮騒が聞こえる。

 潮騒? ここに海なんかあったか?

 疑問を覚える間にも、轟々と耳の底から唸りが押し寄せ、ぼくを重苦しいざらついた音に閉じ込めてしまった。

 いつの間にかあたりが夕闇押し包まれている。

 潮騒の次は夜か。どうなってるんだ今日は一体。

 そしてにわかに寒気が体を脅かす。

 手探りで、地面を探した。まるで、宙に浮いているような気分になったからだ。

 

 突然、視界が闇に閉ざされた。

 

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