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「仕切り直しだ」
押さえつけた怒りをたたえた、ノトゥがつぶやく。
ぼくは立ち上がろうとする。しかし、そのまましりもちをついた。足が頼りなく震えていた。
気づけば、ぼくは普通の速度に戻っていた。心底おびえた時、身に着けた付け焼刃の技術は吹き飛んでしまっていた。
帰りたい、帰りたい、元の世界へ、のんびりとした平和な暮らしに戻りたい!
いや、これってもしかして夢なんじゃないのか? だって。
……そう、現実的に考えて、スピードが速くなるとか、手も使わずにモノを動かすとか、中年オヤジが分身とかって、ありえなくない? こんなの完全にマンガだよ。しかもありがち設定てんこ盛りで、十週打ち切りレベルの。
だから、そう、このZ級マンガ世界から抜け出すには、ぼくが死ぬしかない。きっとそうだ、いや、それしか考えられない。
つまり、ぼくの置かれたこの危機は歓迎すべき好機なんだ。
恐れなくていい、喜ぶんだ。ここは幸福に浸る場面だ。
「何をしておる! ぼさっとするな!」
ぼくは待っているんだ。頼むから、邪魔をしないでほしい。
「アーツェル様! 立ってください、後は私が何とかしますから!」
アーツェルって誰だ? ぼくじゃない。
「いきなりどうなっちまったんだよ? ガチでわかんねー」
そうだね。わからないね。だから考えるだけ無駄ってことさ。
「あたしを、早く元の世界に戻してよ!」
抜け駆けは許さないぞ。
「他のうるさいのを黙らせろ。こいつは腰を抜かしちまった。一人で十分だ」
腰を抜かしているだって? リラックスしてるだけ。
「元に戻せって女よー、どーすんだよ。ぶち殺しちまったほうがいーのかよ」
「どっちでもかまわん。しょせんザコだ」
「……わかったよ。いまおれのいる時代が……」
「は?」
「ほっとけ。そいつはアレだ」
「なんで出すのよぉ! 意味ないじゃないのぉ」
「俺がそいつと組む。だったら文句ないだろ?」
「とっととしようよ~。あぶない奴から潰しゃいいんだよね~」
「もっともだなー。じゃーいくか」
ノトゥの各人が散ろうとする。が、カナは自らノトゥたちへ、つまりこちらへ走ってきた。
「お願い! 話を聞いてよ! 見捨てないで」
カナはノトゥの一人にすがりつこうとする。
いきなり、空気が冷えたように感じた。
見えないフラッシュがたかれたようだ。苦しげに身をよじりつつよろめき歩く、カナの姿が白々とぼくの網膜に焼き付けられた。
思わず、ぼくの口をついて言葉がまろびでる。
「よせ」
わずかにカナの視線がぼくに向いた。
そのそばを黒い影がよぎる。
カナの体が上半身と下半身に分裂した。
二つになった肉体は丸太のように横倒しになった。カナの顔は空を向いていたが、足のつま先が地面に食い込んでいた。
突如として、カナの姿は人間性を喪失した。静かに横たわるようすは、壊れたマネキン人形のようにしか見えない。
あふれるように流れ出す赤黒い血液が、地面に黒いシミを広げてゆく。
生臭い臭気がむっと押し寄せてきた。
おなかに不快感が膨れ上がる。なんともいえない苦しさに、ぼくは困惑した。ものすごい勢いで、のどにつきあげてきた塊を渾身の力で吐き出した。体が裏返るかのような、強烈な動きだった。自分はそうしようと思っていないのに、勝手に体が反応した。あたたかい液体が口から噴水のようにほとばしる。
ノトゥたちの会話が遠ざかってゆく。
「なんで斬ったんだ?」
「急に近づいてくるからだっつーの! どーせかまやしねーだろ、生きてても死んでてもどっちでもいい奴なんだから、こいつはよー」
「それはそうだが、フリーが一人でも多いほうがいいのは確かだ」
「……なんだよ、なんか文句あるってのかよー」
「まあいい。今更言っても仕方がないことだし、そもそも議論に値するようなキャラじゃないことも確かだしな」
「そーゆーこと」
激しい怒り、というよりも切迫した衝動がさく裂した。全身が炎そのものとなったようだった。
ぼくは立ち上がり、カナを斬り捨てたノトゥに飛びつく。
がっちりと”暗黒星”の柄を握りしめる。
「なんだーあ! 離せよ!」
ノトゥたちが色めきたった。が、ぼくがあまりに一人のノトゥに絡みついているために手がなかなか出せないようだ。なにより、武器をもぎ取ろうとするぼくを振り払おうとするたびに、”暗黒星”が激しく空を切る。危なくて近寄れないのだろう。
「おめー! もうぶっ殺すからな!」
ついに凶暴ノトゥの堪忍袋の緒が切れた。
余分な贅肉のついた顔面を朱に染め、粘っこい光を放つ目がぼくを射ぬいた。
ノトゥの体が、硬化した。
これは、さっきと同じだ。ノトゥが高速化していた時も同じ感触がした。
とっさに、ぼくも自らの速度を急上昇させていた。
だが、ノトゥのスピードに追い付かない。徐々に遅れていくのがわかる。
ノトゥとの速度差が広がるにつれて、ノトゥの体が一層、固さを増してゆく。いや、固さと言うよりも、この世界と隔絶する薄い膜が堅固に形成されてゆくかのようだ。
そして、ノトゥの表面はわずかに赤みを帯びてゆく。
ヴェルメーリとの戦いで、空間にも時間の流れがわずかに差があることをぼくは知った。
青が流れの遅い部分、赤が速い場所だ。
自分の居場所を、次々と速い場所に移動していけば、世界の時間が最も進んでいる空間に位置することになる。つまり、速い時間の流れに存在することになる。
自分自身が最も早い時間の流れに乗ることで、世界全体の時間が遅くなるように感じることができる。
ヴェルメーリはそれを自分自身で行っていたのだ。
そして、今ノトゥも同様の事象を発生させている。しかし、世界の最速時間と同調していたヴェルメーリと異なるのは、ノトゥは自分そのものがもっともはやい時間の流れとなり、さらに加速していることだ。
ノトゥだけが、世界の時間から抜け出ている。
しかし、理屈は後付けでもいい。
要は、どうやってその現象を起こしているか?
つまり、世界に流れる時間だけを見ていてはだめだ、ということなんだろう、きっと。自分自身の時間を、最も速い流れに同調させなければならないんだ!
どうやって?
体内を意識するしかない。その中で、一番進んでいる時間の感覚を掬い取り、底に他の体の部分を押し込むようにする……のか?
どういうふうに? 目で見ているだけでは無理だ。感覚で時間の速い遅いを知覚しなければ。
ぼくは赤い領域に踏み込んだ時の感覚を想起しようとした。
……確かに、ふつうに暮らしているのとは少し違ってた。でも何が?
それはもはや感覚として存在するかどうかギリギリの微細な振動だ。わずかな皮膚の感触だった。
わかるか、そんなの!
でも、やらなければどうしようもない。結局あてずっぽうのいきあたりばったりだ。一番ぼくが嫌な、無計画だ。
くそっ、どうとでもなれ!
体の中を手でまさぐるように意識を凝らす。
ここか?
ぼくは死に物狂いで探り当てた違和感に、飛び込むように意識を集中させた。
全身の細胞を収縮させるように、かすかなおののきにしがみついた。
そして、世界中が目の覚めるような青に包まれ……ぼくはノトゥの時間に追いついた。




