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空気が変質した。
皮膚をなでる羽毛のような感触から、ねっとりとまとわりつくような粘液へ変貌する。
臨界速度を超えた。通常時にはわずかな抵抗が、速度があがるにしたがって、劇的に増す。
目を凝らすと、均質に思われていた空間にまだらの模様が浮かび上がった。
ほのかに赤や青に染まった場所が、煙のように揺れながら漂っている。
赤い空間に進むと、時間を遅らせることができる。
ぼくの体を押さえつけていた身の丈ほどもある岩から、強引に下半身を引っ張った。
虫のように地面をはいずり、手に渾身の力を込めて前進する。
岩にひっかかれ、脚にいくつもキズが刻まれた。
が、なんとか体を抜くことに成功する。アウナのおかげだ。
これで、ノトゥが何人いようが対抗できる。
ノトゥはまるで人形のように呆然と突っ立っている。
魔剣、”死の種子”の刀身を逆に持ち替えた。柄の先が握った手から多少はみ出ている。
こいつでノトゥを殴りつけてやる。
急所を狙えば、大した力でなくとも倒すことは可能。もはや超臨界速のルーチンワークとなっている。
ぼくは水の中を泳ぐようにノトゥへと接近した。
拳をわきに引き寄せ、パンチするように突き出した。
が、ぼくの拳は空中で停止する。
凍り付いていたノトゥの体が、わずかに動いたように見えたのだ。不気味な擬態の気配を察知したぼくは、はやる心をねじ伏せ、後退した。
すると、ぼくの目の前を黒い刃が猛然と通り過ぎた。
ほんの少し逃げるのが遅れていたら、きっとぼくの頭はぱっくりと二つに割れ、割れたスイカのようになっていたことだろう。
「うまくよけたな。完全にとらえたと思ってたのにな」
意外に屈託のない声で、ノトゥは言った。
「動けないふりをしていたのか。油断も隙もないな」
「それはこっちのセリフだ!」
ノトゥは”暗黒星”を縦横に振るう。ぼくは攻撃をかわすので精いっぱいだった。
もともと治癒していないケガをいくつもかかえており、体力的に追い詰められているぼくは、早々に息が上がってしまった。
「どうしてぼくのスピードについてこれるんだよ! ヴェルメーリみたいに世界の時間を遅らせることができるのかい?」
「ついていくだけじゃない」
不意に、”暗黒星”の速度が増した。
ぼくは剣を合わせることもできず、全身で跳びはね、逃げるしかなかった。これでは反撃もできそうにないうえに、体力の消費が大きすぎる。
にもかかわらず、ノトゥの動きはいっそう早まっているようなのだ。
ぼくはほどなくへばってしまった。
半ば自暴自棄に、半ば時間稼ぎに質問を投げる。
ノトゥは自分の有利を確信しているのか、こちらの問いに答えた。
「違うな。おれはただ単に自分の速度を早くしているだけだ」
「それならぼくだって同じさ」
にやりとノトゥは唇をゆがめた。
高々と”暗黒星”を差し上げ、一息に振り下ろす。
渾身の力を込めてぼくは、後方へ飛び下がった。
ノトゥから多少の距離を取ったものの、最後に温存していた体力を使い切ってしまった。その場に崩れ落ちる。
背後に足音がする。
もう一人のノトゥだった。
数人のノトゥがぼくを囲んでいる。
せわしなく息を継ぎながら、周りを囲む連中に目を走らせた。
みんな全く同じ格好でありながら、立ち姿は異なっている。単純な幻影とか錯覚ではないような感じだ。
全部で四人いた。ちょうど、ぼくたちの人数と同じだ。人数までも自由に調整できそうな様子だ。もともとノトゥのそっくりさんが複数いたのではなさそうだ。ただの偶然かもしれないけど。
彼らは、全く同じ服装に加えて、同じ武装の”暗黒星”を携えている。
せめて誰か一人にでも、相打ちにできないだろうか……。
ぼくは近寄ってくるノトゥたちを待った。
が、彼らは慎重だった。わざわざぼくに接近するなどという愚は犯さなかった。
ぼくの体が四方八方からひっぱられる。足が宙に浮いた。
”暗黒星”の特殊機能、重力操作だ。
体がきしんだ。
ぼくの肉体は、渦巻く引力に翻弄され、ばらばらにひきちぎられそうだった。
手足が引っ張られるだけでなく、内臓までかき回されているような感覚だった。当然、数値化された痛覚はサブウィンドウに大量に流れている。
体が空中に浮かんでいるために、ぼくの高速も発揮できない。
手も足も出せないままに、やられてしまうのか。何もできずにただ死ぬだけ……。
ぼくは、今はじめて、自分の置かれた状況を完全に理解した。
そう、ぼくは、死ぬ。
キャラクターであるぼくは、ここで負けたら死ぬんだ。
ただゲームが強制終了させられるだけではない。ぼく自身が死んでしまう、消えてしまう。
死ぬって、一体どんな風になるんだ? ぼくはどうなってしまうんだろう?
わからない……だが……怖い!!!
ぼくの全身から冷や汗が噴き出た。同時に体が熱くなる。
視界に白い光がよぎり、周囲が明るくなったように見えた。
暴風のような音が耳を圧する。轟音は脈動しながら強く、弱く、強く、弱く、と高低を繰り返している。
甲高い奇声が、脅迫的な不気味さを伴って鼓膜に突き刺さった。
突如として、全身をからめ捕る力がバランスを失った。
前後左右にメチャクチャに振り回される。均衡を無くした重力の拘束が崩壊し、ぼくは放り出された。
感覚が高速化しているため、風船が地面に落ちていくかのような緩慢さだった。
原因は何だ? いきなりノトゥたちの重力拘束が破綻した理由は?
ぼくは恐怖に突き動かされて素早くノトゥたちを観察する。
ノトゥの一人、いや二人が腕の同じ個所を手で押さえていた。奇声は彼らから発していた。
「やりやがった! こいつ、ふざけんなよぉおおお! びゃあああああああ!」
激高するノトゥの一人に比べ、もう一方は悲痛に顔をゆがませている。涙を指先でそっと拭っている。
「こんなところにヤケドしたら、しばらくサウナになんか恥ずかしくて行けないわっ、イヤッイヤよっ!」
唇をとがらせて文句をせわしなくつぶやいていた。
一見、腕に異常は見受けられない。なんとなく赤くなっているだけのようだ。
はじめにぼくを相手していたノトゥが仲間に言う。
「落ち着け! 大したケガじゃない!」
無事なもう一人が声をかける。
「おめーらさー、いちいち騒ぎ過ぎくな~い? ガチでダセーんですけど?」
なんか、見た目はそっくりだけどずいぶん印象が違うな。結局、四人とも別人なのか。いっそ忍者みたいに分身できるのかと思っていたけど、それは違うようだ。
ぼくは周囲になにかぼくの助けになるものはないかと目を凝らした。
ノトゥがぼくにむかって散々投げつけてきた巨大な岩、塔のがれきの陰から、金色の光がのぞいている。そして、赤みを帯びた剣がまっすぐ突き出されていた。
障害物に身を隠しているつもりのアウナだった。”絶対燃度”の遠隔攻撃能力、切っ先の直線状に存在する物体の発火点まで温度を上昇させる機能を使用している。
なるほど、ノトゥの仲間は”絶対燃度”の力でやけどを負ったようだ。
それにしても二人同時はおかしい。基本的に、”絶対燃度”の有効範囲はレーザー光線のようなもので、光のように直進して進行方向を遮断する障害物に対して効果を表す。
なのに、ほぼ同時に二人が傷を負うのは、不可解だ。それも、ほぼ同じ部位になんて。
アウナがなんらかの工夫によって、同時攻撃を実現させたのだろうか。だが、ごく普通に空中に切っ先を突き出している様子を見るに、特殊な方法がとられている形跡は全くない。
だとすると、一か所への攻撃によって、二人のノトゥがなぜか傷ついたという、道理に反した結果が生じたことになる。
自分の知っている理屈と、目の前で起こっている結果がチグハグで、まるでぼくと世界が噛み合わずにきしみを立てているようだ。頭がおかしくなりそうだ。
とにかく、ノトゥに囲まれるのはまずい。もう少しで着地できる。そうすれば超高速でどうにかできるかもしれない。
が、寸前で再びぼくは宙にさらわれる。
「奴を自由を与えるな。なにもさせないままで、ばらばらにするんだ」
一番まともそうなノトゥが命令する。
乱暴な口調のノトゥが反抗した。
「あのガキを先にぶっ殺してーんだがよ! あいつのせいでこっちは大やけどさせられてんだからよ」
「後にしろ。いつでも殺せる。それよりわずかであっても脅威を先に取り除く」
「そんな死に体のバカのどこが脅威だよ! それよりまずあのガキをぶっ潰す、文字通りな」
「いい加減にしろ! やけどをしたのは、そもそもお前がぼーっと立ってたからだろうが! 自分で射程に入ってケガをしといて、よく言うぜ。”モンスター”を見ろ! こちこちに固まってるのが見えないか? あいつには俺たちの姿は全く見ていない。こっちのスピードを認識できてねえんだよ。そんなでくの棒のほうが先だって言うのか」
「だが、お前だってむかつくだろ。だから先に殺して冷静になってから脅威ってのを確実に葬るべきだ」
「適当なことを言いやがる。いずれお前のけがは俺のものになるんだぞ。だが、ちょっとのやけどでカッカするか! ”モンスター”が生きてようが死んでようが、常に冷静だ」
重力線に捕縛され、ぼくは空中に固定されたまま恐怖と怒りに震えた。
なんとか脱出しなければ、ここで本当に終わってしまう。
乱暴者風のノトゥは、あっさりと折れた。
「わかったよ。デザートは最後に食べるもんだしな」
複数の”暗黒星”から発する重力線がこちらに投射される。
またしても、四方から引っ張ってばらばらにしようとしているんだろう。
しかし、今度こそなんとか自力で免れなければならない。しかしどうすれば?
そうだ! このまま成り行きに流されては確実に死だ。だが、一か八かの賭けでもやらないよりはまし……いや、やらなけらばただしぬだけじゃないか!
失敗すれば、ぼくは間違いなく殺されるだろう。だが、躊躇するヒマすら残されていないんだ。
辛うじて保持していた”死の種子”を構える。ぼくに残されたたった一つの武器だ。こいつをなくしたら、丸腰になってしまう。
奥歯を固く硬くかみしめた。
ぼくは、”死の種子”を放り出した。




