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 一瞬、赤い霧が目の前にたなびく。

 またしても、ヴェルメーリがぼくの感覚をすり抜けた。

 背後に違和感が発生する。

 とっさに振り向き、剣を掲げる。

 がちりと刀身が噛み合った。

 互いに押し合い、みしみしと剣の柄が音を立てる。いつ折れるのかと想像すると、背筋を悪寒が走った。さすが、物理的に存在する世界だけある。嫌なところが実にリアルだ。

 間近に迫ったヴェルメーリの兜から、押し殺した声が漂ってきた。

 「な……このへんでやめにしないか?」

 ぼくは答えようもない。今は目の前の剣を押し戻すことで必死だ。だが、ヴェルメーリは鎧に包まれている分、余裕があるのだろう。つばぜり合いでかすり傷を負う心配はない。一方でぼくの腕はすでに切り傷だらけだ。

 「これ以上戦っても、お互い何の利益もねーだろ。もういい加減仲直りしようぜ」

 低いささやきは、穏やかとも言っていいくらいだった。

 ぼくは歯噛みする。

 ヴェルメーリの言葉は、今の僕には甘く響いていたのだ。

 そうだ。もうこれ以上続けて何になる? ぼくが敗北するのは目に見えてるじゃないか?

 相手の能力に圧倒されている、相手は無傷なのにこちらは傷だらけ……そしてなにより、今はぼくは自分の選択が果たして正しいのか否か、自信を持って判断することができない。

 いや、理屈では正しいんだ。それは間違いない。

 しかし、この選択を行うことは、ぼくを悲惨へと導くのではないだろうか? 理屈の正しさや誤り、メリットデメリットは関係ない。

 ぼくが自分の意志で行うことが、ぼく自身を破滅させるのではないか?

 これがぼくの消しがたい根本的な恐怖なのだ。

 人の意志に沿っているうちは、こんな気持ちにはならない。だからぼくはいままで”組合”の言葉を何一つ疑わず言いなりになった。ラランニャの指示にも文句ひとつ、疑問ひとつ提示せずに、黙々と従った。

 だが今、ぼくが塔の閉鎖を妨げているのは、僕の思惑に過ぎない。

 アウナやこの世界を消したくないぼくのわがままに過ぎない。

 さして優秀でもない、平凡な人間の頭で導き出した、俗な倫理観にまみれた陳腐な答えに過ぎない。

 いまだ何者でもないぼくに比べたら、ヴェルメーリの中の人のほうがよほど、知識も豊富で世間知にも長けた立派な人間に違いない。

 そのヴェルメーリがつぶやくぼくへの降伏勧告は、抗い難い誘惑となってぼくの不安定にゆらぐ心をわしづかみにしてしまったのだった。

 おびえるぼくに、さらにヴェルメーリは続ける。

 「だいたいさ、ここで俺と多少やりあったところで、またすぐに次の奴が来るぞ。考えてもみろ。俺の他にまだ、お前に匹敵する連中はいるだろう」

 誘惑を振り払うように、ぼくは答える。

 「ぼくより強い奴なんか、いくらでもいるさ」

 「そうかもしれないな。それに、一対一ならともかく、束でかかってこられるとさすがに限界があるだろうしな」

 確かにそうだ。嫌な奴だ、的確にこちらの自信を突き崩してくる。

 多少スピードが速くても、数が多かったら、どうしようもない。それはこの塔に入った時、敵の”モンスター”が多すぎた時に太刀打ちできないと絶望しそうになったことからもはっきりしてる。その時はヴェルメーリが連れてきた軍勢によって助かったが……。

 ふと、何かが心に引っ掛かった。

 そうだ、ラランニャたちはどうなったんだろう。そして、たった一人、敵の中にいることを強いられているアウナは。

 ぼくがこのままくじけてしまったら、もはや彼女の居場所はなくなってしまう。

 ……が、それでも、ぼくはもはやこれ以上闘いを続ける意義を見出すことができなくなっていた。

 ぼくはすでに半ば抵抗を放棄した負け犬の目でヴェルメーリの無機質な兜を見上げた。

 「おれたちに刃向って、これからどうするつもりだ? たとえ今勝っても、そのあとも闘いは続くぞ、お前が負けるまでな。どうせ最後には敗北するなら、目先のたった一回の勝利がいったいなんになる?」

 「それは、結果論じゃないか。結果が分からない時点でそれを持ち出すなんて、不合理だよ」

 ぼくはなおも反論する。しかし、それはヴェルメーリに抵抗しているのではない。

 敗北を受け入れる理由を求めているのだった。

 「この場合の結果は明らかだ。お前が最終的に打ち負かされるのは間違いないだろう。だから無益な争いを起こすのはやめろと言っているのさ」

 「だが、結果が同じなら途中経過は何をしてもいいだろう。だったらぼくの好きにしたほうがいいじゃないか?」

 「そこだよ。結果が同じなら、途中経過をよりよくするしかないんだ。よりよくってのは、やはり周囲の人々の称賛を浴びるだの、安楽に過ごせるだの、苦労を避けるだの、人間として当たり前の生き方をするってことなんだ。俺が言ってるのは、結果論じゃないんだよ。結果はどうしようもなく決まっているんだから、過程こそが大事って言いたいわけ」

 「過程の良しあしなんか誰が決めるんだ? そんなの人それぞれの価値観で違うじゃないか」

 「素直になれよ。それは自分自身が決めるのさ」

 くそ。嫌な流れだ。今のぼくは、今のぼくを否定せざるを得ない。

 ヴェルメーリは一方的に言葉を継いだ。

 「お前は、自分の置かれている現状に満足しているのか? この際、抽象的な話はなしにしよう。要するに、お前はいい気分で充実いるのかってことさ。よく考えてみろ、やせ我慢しているんじゃないのか?」

 「やせ我慢だろうが、それが満足なら、いい気分で充実って言えるんじゃないか?」

 「ちがうね。我慢している時点でそいつは自分をごまかしている、プライドだのなんだのを守るためにな。それは欺瞞だ」

 「だったら、キミはなんなんだ。充実してるってのか? 自分が楽するために他の何かを壊して、それが満足なのか」

 「当然だ。そして、その理由はお前の考えているのと違う。俺が充実しているのは、自分自身の出自である社会の意志にしたがっているからさ。しょせん人は一人で生きられない。だったら、自分の属する社会の利益を代表することがもっとも自然な生き方なんだ。そしてその自然が、集団の一員の物質的、精神的な安楽を保証する」

 「それができない者はどうなるんだ?」

 「できない者がいるはずはない。純粋にそうならば、それは社会から排除されるべき異常者でしかない」

 「ぼくは異常かも」

 「考え直せ、としか言いようがないな。そんなのは周囲のまともな人間からすれば、恥ずかしいだけだぞ。だが、悲観することはない。ちゃんと考え直して、自分を矯正すればいいんだ。はじめからまともな奴より、自分の間違いを認めるほうがよほど勇気も必要だから、そっちのほうが人として立派だと思うよ、おれはね」

 「いまさら……」

 「遅いも早いもない。思い立ったが吉日と言うだろう。間違ってたと思ったら、すぐに反省すればいい。それを拒否する社会なんてありえないさ。少なくとも、おれはお前がこの無駄な戦いをやめてくれるなら、お前をすぐにでも仲間だと認めるよ」

 「仲間か。”組合”が認める都合のいいユーザーってことだろ?」

 「そうさ。それの何が問題だ? この世界で、”組合”の世話にならずにいられるはずはない。少しでも世話になっているんだから、その一員として協力し合うのは当然さ。だろ? もう、わがままで周りを振り回すのはよすんだな」

 ぼくは押し黙った。

 わがまま、か。

 それを貫き通す奴もいれば、それができない者もいる。結局、ずうずうしい奴がのさばる、それだけだ。

 そしてそれをわかっていながら、ぼくはふてぶてしく居直ることは出来ない。生まれながらの、その他大勢ってやつだ。

 ぼくの剣が徐々に押し下げられてゆく。

 腕に力が入らなくなっているのだ。

 額に熱を感じた。

 ”絶対燃度”の刃先が、ぼくの体を焼く。

 もはや抵抗する気力を失ったぼくは、すでに勝負を投げていた。

 胸の底に穴が開いたように、体内が空漠とした無力感へ支配されてゆく。

 生きながら死んでいくような気分だ。

 と、突然、大音響が麻痺しかけていたぼくの頭を殴りつけた。

 複数の声が交錯する。その中で、ひときわ鮮烈な声が耳を射た。

 「アーツェルどの! ご無事か?」

 アウナの声だった。

 

 「わしが加勢しよう! この命に代えても、おぬしを死なせはせん!」


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