第一部 − 斉藤千晴 −
森水優生は、その名のとおり優しい子だった。
あたしみたいな、ちょっといっちゃった女子高生にも。
優生は死んだ。
何事もなかったような顔をして、2学期は始まった。
初日は始業式とHRだけ、昼前に校舎に人影は少なかった。
あたしは、窓際の自分の席に座ったまま、教室に残っていた。
「・・・」
優生の席は、もう片付けられていて、担任は「事故で死んだ」と説明した。
影の薄い子だったから、あったはずの机を見ただけの子もたくさんいたけど、中には知っている子もいたんだろう。
事故は事故でも本当は、なんて声もした。
時計を見ると11時半になろうとしていた。
そろそろ出たら、ちょうどいい。
化粧道具だけ入れた軽いカバンを持って、あたしはトイレに向かった。
トイレの鏡の前に立つ。
「・・・」
なんだかぼやけたように見える。
優生が死んで1ヶ月。
ポーチからいろいろ取り出して塗ってはみるが、鏡のあたしはぼやけたまま。
ムカついて、最後には全部落としてしまった。
もう一度、鏡を見る。
「・・・」
こんな顔を、精彩がない、というのだろうか。
思いなおして、ファンデーションを塗って、薄いリップを塗ってみる。
この程度で我慢しよう。
後から女子二人が固まって入ってきた。
あたしは道具を手早く放り込む。
「ねぇねぇ斉藤さん。森水さんと友達だったの?」
一人が、笑いながら話しかけてくる。
「びっくりしちゃった。お葬式に行ったら、斉藤さんがいたんだもん。ねぇ」
と、隣の女子を見て、そっちがうなずく。
「近所のおばさんが言ってたけど、自殺したって本当?」
「あたしも聞いたの。電車に飛び込んだのに、遺書はなかったって」
笑いながら優生の話をする女どもをにらんで、あたしはカバンを持った。
「斉藤さん。援交してるって本当?森水さんもしてたの?」
「素人じゃなくて、ヤクザがやってる本格的なヤツよね?森水さんにはキツいよ」
「あんたらがテレクラで安売りしたって、同じコトになるよ」
言い捨てて出た。
「そんなドジ踏まないよ!」
後ろから聞こえた。
学校から歩いて30分で、市立図書館に着く。
始業式の日、12時の待ち合わせ。
ドアを開けると、いきなりクーラーの冷気に包まれる。
まだ夏休みの大学生や、宿題の終わってない学生がうろうろしている。
奥へ奥へと歩いていく。
コインロッカーにカバンを入れて、リファレンスコーナーに入る。
ここは、いつも人が少ない。
2列×3つあるテーブルの、一番奥の窓もないテーブル。
適当な新聞を取って、音を立てないように椅子を出して座る。
うるさくしなければ、みんな黙って本を読んでいる。
行き場所のない親父が大半だと聞いた。
早足の、いかにもサラリーマン、といったスーツの男が入ってくる。
あたしの前に折った紙を置いて、出て行った。
入って出て行く道順は、人のいないトコばかり歩いていた。
開くと、ホテルの名前とルームナンバーだけ書かれている。
「・・・」
こんなとこに出入りしてるから、あんなコト言われるんだ。
5分待ってから、図書館を出て、ホテルに向かう。
まだ夏ななんだ。
汗がにじんできて、ハンカチで押さえる。
「・・・」
優生は最終電車に飛び込んだ。
怖がりで、いつも自分の服の裾をにぎりしめてた優生が、どんな顔でそんな恐ろしいことを。
小学生の集団が、なにかわめきながらあたしを追い越していく。
なに食べてれば、あんなに動けるのか。
もう若くないのかも、なんて、思ったりした。
今日のホテルは、前の前に会った時と同じホテル。
明るいロビーからエレベーターホールへ行く。
制服のままだから、固まったおばさんが横目を細めてあたしを見ている。
高校生でもおばさんでも、ああいう女は、きっと生まれた時からあんなババアなんだ。
エレベーターを降りると、明るい廊下に人は居なかった。
ルームナンバーを見て、チャイムを鳴らす。
ため息ひとつ分の後、ドアがほんの少しだけ開けられる。
誰かに見られる危険があるから、ギリギリだけ開けて、すばやく部屋に入る。
眼が合う。
男は、昔から顔だけは知っていた、森水優生の父親である。
スーツの上着を脱いで、ネクタイも外して、テーブルにあるサンドイッチを食べていた。
おなかは空いてたけど、食べたくなかった。
食欲なんて、いまだけは、ない。
「ケーキ食べたいの。メニュー見せて」
差し出されたメニューを見る。
ケーキやパフェやフルーツの盛り合わせ、サンドイッチやランチセットがいくつかに、和食のセットも。
「やっぱりいらない」
メニューを突き帰す。
「食べたいものを言っていい」
「だから、ソレにないの。いらない」
テーブルにメニューを放り出した。
いつものやりとり。
食欲なんてないのにメニューを見て、ほしいものがないからいらない、と言う。
「・・・優生の形見分けをする。なにかあるか?」
「形見分けって、なんなの?あの子のもの、人にあげちゃうの?」
「近しい人に渡して、優生を偲んでもらうんだ。なにかないのか?」
壁にある絵のほうを見る。
電気のついてない部屋には、大きな窓から光が差し込む。
クーラーは弱。
あたしは、強いのはすきじゃない。
ノースリーブに長袖のシャツを着てたから、夏じゃなかったけど、そう言った。
5月7日、初めてホテルに行った。
「・・・優生のハンカチ。オレンジとグリーンのセット。
あれ、あたしが誕生日にあげたの。
あの子のことだから、もしかしたら使ってないかもしれないけど。
あれがいい」
「見ておこう」
「話、それだけ?」
男はあたしと眼を合わせて、それからベッドを見た。
「優生の話した後、父親と?冗談やめてよ」
「・・・」
ソーサーからカップを持って、飲んでいる。
今日は、コーヒー?紅茶?砂糖は入ってるのかな。
「・・・シャワー使うから、入ってこないでよ」
乱暴に歩いて、バスルームに入る。
カギをしめて、うずくまって声を殺した。
肌を滑っていく。
指、唇、あつい息。
みっともないくらい、あたし、生きてるって実感する・・・
重みが消えて、時間をかけて火照りが遠のいていく時、優生を思い出す。
はじめて、あの子から話しかけてきた、あの時のこと。
「さいとうちはるちゃん?ちーちゃんてよんでいい?」
小学校1年、同じクラスだったけど、苗字順に並んでいたから、離れていた。
あたし斉藤、あの子は森水。
なのに、あの子、まっすぐにあたしの前に来て、そう、言った。
ちいさな手が、真っ白になるまで力込めて、服の裾を握ってた。
あたし、忘れない。
交代でシャワーして、最後にお茶を飲む。
この時飲むのは、いつも紅茶。
「・・・優生の日記を見つけた。ずいぶん、苦しんでいたようだ・・・」
「あたりまえじゃない。バカな男にだまされて、妊娠したんだから」
「その、そんなに評判悪いのか?その男は」
言いにくそうに言う。
自分がやっていることを考えたら、ひょっとして、言えないこと?
「優生が知ってたかどうか。あの子、そういうのうといから。でも、ワリと有名よ」
「どうしてそんな男が教師を・・・?」
「・・・妊娠までしたのは、優生だけ、だと思う。生徒のほうが熱上げて、ってのなら、山ほどあるだろうけど」
「まさか、教師、とはな」
優生の相手は、妊娠した子供の父親は、うちの学校の教師だ。
教師との恋愛で、誰にも、あたしにも言えなかった優生は、そいつとつきあいはじめてから、新しい日記帳を用意して、毎日の小さなことを書き残していた。
それは、少女趣味な装丁とは無縁な、授業に使うようなシンプルなノートだった。
毎日、持ち歩いては、恋愛を書き残していた。
「校長とか教育委員会とか、出るとこ出れば、一発でしょ」
「・・・優生をこれ以上、辱めたくない」
「・・・」
「殺してやりたい、が、優生の一生がさらに無意味になるようで・・・」
あんな男にひっかかっていたなんて。
あんな男の子供ができたからって、死んでしまうなんて。
優生。
優生。
どうして?