【三題噺】あの放課後を忘れない。
放課後、忘れ物を取りに教室に向かう。
教室のドアを開ければ、そこにはまだ人がいた。
振り返った人影は私の姿を見止めて驚いたように名前を呼ぶ。
「香川……?」
「気にしないでいーよ。古典のノート、忘れたから取り来ただけ」
ひらりと手を振って答える。
彼、駒沢は高校2年で始めて同じクラスになったクラスメイト。
比較的に寡黙で言葉を交わしたことは少ない。
なんで放課後に教室にいるかは知らないが気まずくなるのも嫌なので、早く出て行こうと机からノートを手早く取り出す。
と、
「俺、放課後が好きだ」
不意になんの前置きもなく駒沢が言った。
ひとりごとに似た声音だった。
思わず振り返れば、夕日色に染まる横顔が目に入る。
「放課後があるなんて普通なのに?」
気がつけば零れた問いに、駒沢が笑う。
「普通は好きになったら駄目か?」
「駄目ではないけど……」
笑いながら問う駒沢に、言葉を詰まらせる。
駒沢の笑顔なんて始めて見た。
「だって、普通は言わないよ。当たり前のことだし」
「当たり前。当たり前か」
反芻した言葉を飴玉のように転がして、駒沢は窓に視線を移す。
グラウンドから聞こえる掛け声と吹奏楽部の演奏。
放課後の教室は静かだ。
淋しい気持ちになるぐらいに。
「さしずめ小宇宙だな」
また唐突な台詞。
「小宇宙?」
「クラスのこと」
「訳わかんないし」
眉をひそめる。
駒沢はこんな奴だっただろうか、少し不安になる。
「全体の一部なのに、まとまって国みたいだろ」
「なんでそれで小宇宙に例えるかな」
ため息を零して、腕組みする。
さっきから駒沢はやっぱり変だ。
理系だからな――――よくわからない言い訳をして駒沢は窓を閉めた。
さらに静けさが増して、私はなんだか怖くなる。
沈黙が恐ろしくて口を開く。
「理系なら何か豆知識ないの?文系の私が知らなそうなことっ」
「レアアースとは、17元素の総称で超伝導物質のこと」
駒沢は淀みなくそう呟き、鞄を掴み手を挙げた。
その顔はいつの間にか、普段見る仏頂面になっている。
「じゃあな」
「え、あ、またね」
躊躇いなく去っていくその背中に慌てて、言葉を投げる。
駒沢は一度も振り返らなかった。
次の日、駒沢が学校を止めたのを知った。
先生は詳しい理由は何一つ教えてくれなかった。
ただ自主退学だと言っただけで。
その話題で盛り上がるクラスの中で私は一人俯く。
だから昨日、惜しむように教室にいたのだと知って、なんだか泣きたくなった。
放課後が好きだと言ったあの時。
当たり前かと繰り返したあの時。
クラスを小宇宙に例えたあの時。
理系の知識を披露したあの時。
駒沢は放課後が、学校が、クラスが、勉強が好きだったのだと、私だけがあの時に知った。
もしかしたら、駒沢は知って欲しかったのかもしれない。
誰かに、たった一人にでもいいから、自分はこの場所が確かに好きだと。
これは私の想像で根拠なんてひとつもないことだ。
ただ、それでも私はきっとあの放課後を忘れない。
三題噺として書きました。
放課後、小宇宙、レアアース。