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高由を寝かしつけてから、夏江は高継の正面に正座をした。
小さな机に置かれた細いろうそくの炎が揺れた。明かりは弱弱しく、また橙の色をしていた。うつむく夏江の表情が陰気に見える。
「どうした」
真剣な表情の彼女に、高継は苦笑する。
外の空気は湿気を帯びてきた。これから未明にかけて降るのだろうか。
虫の音が小さく聞こえてくる。その張りつめた冷たい空気の中に、夏江は背筋をしゃんと伸ばして対峙していた。
「今日はすまなかった」
それ以上の詮索はよしてくれ、高継は自ら口を開くことで夏江の心情を察知して制した。
夏江はしばらく唇をかみしめ、堪えるように膝の上でこぶしを震わせる。
「まだ引きずってらっしゃるのですか」
「?」
「三十年前、ひとりの下働きが首を刎ねられたと聞きます」
「!」
高継ははっとして夏江を見た。
彼女は目に涙をためている。
知っていたのか、高継はあきらめに似た声でつぶやいた。では、簡単だ。彼女の質問には是と答えればよい。
「家人があれほど陰で言っています。あなたがのらりくらりと生きているのは、性格からではないと。私では、未だ癒せませんか」
悔しさをにじませた声に、高継は慰めの言葉を思いつかなかった。
「首を刎ねられる夢を見るのは、過去の出来事が関係しているからでしょう?」
「もう、いいんだ」
「よくありません。私はあと何回、ほかの女の名をあなたから聞けばよいでしょうか」
「夏江」
「人でも鬼になるのですよ」
「夏江……、忘れろと言って忘れられるものではないのだ」
「ひどい人」
一言すまないと言えば、どれほど夏江は救われたであろう。この時ばかりは、愚直な夫が憎たらしいと思った。
けれども夏江は気丈にもその場にうずくまることも、また泣き崩れることもしない。目元をぬぐい、まっすぐに夫に向き直った。
高継は夏江の真摯な視線を受け止めきれなかった。
「私の奥底で常に後悔が付きまとう。夏江、私は懺悔の中で生きているのかもしれない。これ以上いじめてくれるな」
「弱い人。勝手でずるくって、女々しくって」
「……」
そうかもしれない、夏江の言葉にただただ高継は頷くしかできないのだ。
やがて雨音が聞こえてきた。雨は強く、庇や窓にたたきつけて砕け散る。一気に室内の空気が湿り気を帯び、ふたりを冷やす。
雷鳴が遠くで聞こえた。高継は首をもたげ、ぼんやりと遠くを見つめる。
と、夏江が懐に飛び込んできた。
華奢でふんわりと香の匂いが漂ってくる。香は最近売れ行きが良い、欧州から仕入れた薔薇の香である。液体そのものに香りがあり、手首や首元につけるのだそうだ。客に売るには、まずつけてみないことにはその良さを知らせることはできない。女である夏江は、その役割を充分に果たしていた。
「それでも私はあなたを支えますから。どうぞ、私を頼ってくださいまし」
「夏江」
「そういうときはありがとうと、ただ一言言えばよいのですよ」
夏江の背に腕をそろそろと回し、高継は小さく礼を言った。