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傷負い桜  作者: 鷹臣えり
第二章
8/24

1

 毎日決まってこうだ。忘れようとしても忘れられないほど強い感情が沸きあがる。同時にふっとどこからともなく現れる女。己と同じ年頃の少女といっても差し支えなく、たすきをかけた着物に薄汚れた前掛けは、どこかの下働きだと容易に想像ができるほど。乱れた髪は整うことがなく、大木の根にうずくまってずっと祈り続けるのだ。

さららは必ず祈る少女に声をかけ、手をそっと肩に置いた。

「なぜ泣いている」

 理由をわかっていて尚、毎日同じことを問わずにはいられない。祈る女は思念そのものであり、生身の女ではないからだ。

「あのかたと別れさせてください」

 聞き飽きた願いにため息を吐くわけでもなく、さららは抑揚なくこたえる。

「別れるがいい」

 そういった途端、祈る女はさららの膝元に顔を覆って泣き崩れる。さららはそれを歓喜に満ちているのだと思っていた。

「本当ですか、別れられますか?」

 少女の背を撫でてやると、彼女はその手を振り払うように飛び起きて叫ぶ。

 さららは動じまいとひとつ深く息を吐き出した。

「毎日祈っています」

 よほどひどい目に遭わされたのだね、憐憫の情をかけてやれば少女初はさららをにらみつけた。口には出さなかったが少女の受けた苦しみを思うと、自分と重なって見えて口元がわずかにほころんだ。同じ気持ちを共有する女がいる――それは一種の安堵である。


 これは私だ。

 そして私だけではない。

 

 かつて、さららも男に手ひどく裏切られた。男とは少女と同じように身分違いの恋であった。

 しかし今日、いつもと違うのはここからだった。過去を思い出し、さららは身体を震わせた。故に口をついて出た。

「男もおまえの存在を疎んじている」

 きっとそうだろうよ、言外にそう付け加え、さららはうずくまる少女を見下ろした。

 滑り出た言葉は、果たして自分の愛する男のことか、それとも初の愛する男のことか。

 さららは目を閉じ、昼間に出会った若者――本当は五十過ぎの男だが――を思い出していた。自分を初と呼び、やさしげに触れてきた。けれどもさららが自分を初と呼ばれて違和感を感じたのと同じに、呼んだ男も違和感を感じたようだ。互いに相手に不信を抱きながらも、それでも都合のいいように相手を理想の通りに仕立てあげる。

 自分の首を刎ねたのは、本当にあの男だったのだろうか。

「本当ですか」

 少女は弱弱しくつぶやいた。

「私と別れたいと、そうあの方はおっしゃったのですか」

 少女は一変して、目をむき出し叫んだ。

 さららは答えることはできない。そうであってほしいと願っているのかもしれない。自分と同じ境遇に、この少女を引きずり込んでやりたいのだ。

「決意をすればいいのだ。あの男と別れると、言えばいいのだ」

「私は」

 だが少女の言葉を遮るようにして、一陣の風が花吹雪と共に舞った。風は意志を持っているようで、少女が口を開こうとするたび吹き荒れる。

 薄紅の花びらが桜の木の丸ごと一本分散ったのではないかと思うほどの量だった。目の前が薄紅に色づく。

「なんと」

 よもや枯れた桜の木が再び花を咲かせるとは。

 さららは驚きに目を見開き、水辺にひっそりと立つ大木を見上げた。しかし、枯れた木は枯れた木であり、花びらひとつどころか、細くしなやかな枝さえなかった。大木はさららの知っている姿でいつまでも立ちつづけている。白く乾ききった大木は、無残にも途中でへし折れ、中身の空洞をさらけ出していた。これでは花を咲かせるどころか、新芽さえ出せまい。おそらく土中も、細くしなびた根がお飾りのようについているだけだ。

 ならばどこから桜の花――とそこでさららは口元に手をやった。着物の袖を広げれば、自分もその幻のような桜の花びらを受け止めることができる。なにも不思議なことではない。ここでは当然の出来事なのだ。現に、今もなお少女の肩にだけ桜の花びらは舞い落ちている。地面には一枚たりとも落ちてはいない。これは少女と同じく、現実には存在しないのだとさららは悟った。

「おまえ」

 声をかけようと彼女の正面に回りこみ、同じように腰を屈めて顔を覗く。少女はなにかにたえるようにして拳を握り締め、唇を引き結んで一点を強く見つめていた。

「そう、それでいいのです。桜様」

 少女はこぼし、涙の出ていない目元を拭った。彼女は立ち上がり、さららに背を向けたかと思うと、すっと音もなく霧の中に消えてしまった。

 さららは少女が消えた方向をしばらく見つめていた。

 桜の木に身を預ける。乾きすぎた幹はささくれ立ち、さららの肌に爪を立てた。

 湖を見下ろすように立っている、しかし花の咲かない木は、男女の縁を引き裂くという。根元には殺された女の遺体が埋まり、根が怨念を吸い上げ、自身を枯らしたという噂はあながち間違いではあるまい。

 別れの木と呼ばれるようになったのはいつ頃か。行く末のない木には似合いの通り名である。が、来訪する男女の別れを祈り続けているのは、桜の木ではなくさららであった。

 なぜ私だけが。

 そう思わずにはいられない。はしゃぐ男女が恨めしかった。男がさららを裏切った、けれどそれがどんな男だったかはっきりと顔を思いだせずにいる。思い出せるのは、自分を傷つけた相手が男だったということと、あの焼け付くような胸の痛み。己の悲鳴。

 顔が思い出せない分、良心の呵責など微塵にも感じられなかった。見かける男のすべてを呪えばいい。枯れた桜の木より遠く離れることはついぞ叶わなかったが、老若男女問わず美しい湖を見に訪れる人間は後を絶たなかった。だが桜の木はその頃より急速に生気を失い、枝をなくして幹を傷つけた。もしかしたら埋められた遺体の主は自分であるかもしれない、きっとそうだ。故に自分はこの桜の木を拠り所として離れることができない。

 次第に噂は広まり、今度は自らの意志で別れを願う者たちが訪れるようになった。その中のひとりがあの少女なのである。

 少女が生身の人間でなかったからか、それとも境遇がさららと同じだったからか。さららは少女たちの別れを祈りながら同時に哀れんでもいた。



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