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傷負い桜  作者: 鷹臣えり
第一章
7/24

6

「喜市さん、主人はどこに行かれたかご存じないですか」

 不安を抑えた声が、開かれた障子の向こうから聞こえてきた。

 喜市は声の方を反射的に振り返る。そこには障子に手をかけ、もう一方の手は幼子の小さな手を握る着物姿の女がいた。彼は太陽の光を背に受けて立つ女に、一瞬はっとして息を飲み込む。

 ここから中庭が見える。先代が生きていた頃はまめに手入れされていたが、今は平たんな地面に草が生え、花壇の残りの岩には苔がびっしりとついているだけにとどまる。中央には堂々と物干しが置かれ、白い洗濯物が風にはためいていた。

「どうしました」

 答えない喜市に夏江は首を傾げた。

「いやあ、あんまりにもべっぴんさんなもんで、花の精かと思ったんですよ」

「まあ」

 いつものことだが、言われるとうれしい。夏江は顔をほころばせ、口元に手をやった。

「旦那ですか?」

 喜市はわざとらしくとぼけてみせ、奥の座敷に目配せした。

 背後にはふすまが固く閉ざされている。奥からは物音ひとつ聞こえない。

 齢四十を過ぎてから急に老け込み始めた主人は、よく奥の座敷で昼寝をする。一時間後にはのろのろと起きだし、店の帳簿を確認するなど、その仕事ぶりは裏方専門である。客の相手は専ら女主人である夏江の仕事だ。幼子を連れての接客はなにかと不便で手間のかかることだろうと思いきや、周囲の心配をよそに、夏江は楽しそうに世間話から入る接客はとても楽しいのだと言う。

 今日も午前中の接客を終え、下働きの作った昼食を食べようと高継をさがしている最中だった。しかし、いつもの時間になっても店の主人は起きて来ず、そのため夏江が高由を連れて母屋を訪ねてきたのだ。

 覇気がない、先代は高継をよく罵った。だが喜市から言わせればその原因を作ったのは先代である。高継の想い人と縁を切らせ、後継ぎとしての自覚を促そうとしたのだが逆効果だろう。

 なぜ手にかけた?

「喜市さん」

 よほど深刻そうな表情を浮かべていたのか。

 いつのまにか正面に座り、おそるおそる見上げてくる夏江の顔があった。

「気分でも悪いのですか」

「今日はいい夢の真っただ中かもしれませんな。ところで昼飯はわしがご一緒しましょう。夏江さんはもっとふとらにゃならん。それでは胸もちいそうなってしまう」

「まあ失礼な」

「遠回しにほめとるんじゃ、細おて、折ってしまいそうじゃけんな。胸はわしはもうちっとある方がええ」

「喜市さん」

「はいはい。旦那あ、夏江さんが――」

 のんきな喜市の声が、ふすまの向こうに向けられた時だ。

「うぅぅうぐぅうっ」

 激しいうめき声が聞こえてきた。それはとてつもなく低く、ただならぬことが中で起きているのだとすぐさまわかるほど。

 夏江はすぐさま駆け出しふすまを開けた。

「いかん」

 中で強盗でもいたら大変だと、喜市が夏江の背に声を張り上げたが遅かった。開かれた奥の座敷には、中央に布団が敷かれその中で高継が身体を左右によじって暴れていた。

「あなた」

 駆け寄り近くに膝を折る夏江とは対照に、喜市はゆっくりと周囲を見渡しながら足を踏み入れる。なにも変わったことはないし、主以外の人の気配は感じられない。

 ようやく彼は声のする方を見た。

 そこには我が首を両手で締め上げ、そのために顔を真っ赤にして布団の上でのたうちまわる五条家の当主がいた。自分の手とは思えぬほど容赦のない力の入れようで、それは別の意思がるように、憎しみを込めて首を締め上げる。高継は苦しさのあまり餌付くこともできず、喉奥からヒューヒューと空気が洩れる音がしていた。

 夏江は高継の手を首から離そうと力いっぱい掴んで引っ張ったが、動き回るそれに思うように力が入らず、逆に振り回される始末だ。

 喜市はようやく自分の役割を見つけ、夏江を突き飛ばすようにしてどかしてから、高継の腕に手をかけた。

「う」

 高継は一瞬意識を取り戻したのか、はっきりと喜市と視線を合わせた。しかしすぐさま白目をむくと、再び己の首を締め上げはじめる。どうにも尋常な力の入りようではない。

「憑き物か」

 背後では高由が指をくわえて両親のただならぬ表情に恐れをなしている。もはや泣くことすらできないほどおびえていた。

 高継はえびのように反り返り、何度も脚を畳に打ち付けた。獣のような唸り声はだんだんと小さくなっていく。

「医者じゃ、夏江さん。はよう」

 高継の腕を押さえつけ、喜市が叫んだ。

 夏江は泣きそうになりながらもこくりと頷いて膝を立てた。

「まてっ」

 はっとして夏江は振り返る。

「夏江」

 肩で荒い息を繰り返し、ようやく正気に戻ったのか夏江の腕を力強く引き留める高継が必死の形相で見上げていた。

「あなた」

 夏江はこみ上げる涙を拭きもせず、汗にまみれた主人の背に手を差し伸べ上体を抱き起す。彼の体重は軽く、服を通してでもわかるほど骨が浮き出ていた。

 高継の顔は老いていた。今朝がた挨拶をかわした寝起きの顔よりも幾分。

「旦那あ」

 はあ、高継は状況を確認するかのように周囲をゆっくりと見まわした。母屋の自室であると時間をかけて思い出し、夏江をはじめ三人の顔が一様にこわばり泣き出しそうなところをみると、高継は困惑するどころか苦笑した。

「夢だったようだ」

「夢、ですか」

 夏江が恐る恐る尋ねる。夢ならばよい、と笑いあうには衝撃的過ぎた。

 彼はいまだ荒い呼吸の中、次の言葉を思案している。眉間にしわを寄せ、何かを言いかけて口をつぐむ行為を何度繰り返したか。ややあって高継はすがるような目を喜市に向けた。

「喜市、鬼になろうとしている女はどうやったら救える?」

「はあ?」

 突拍子もない質問に、喜市はぽかんと口を開けた。いったいどんな夢を見ればそんな台詞が出てくるのやら。

「私はただ首を差し出すことしか思いつかなかったよ」

「首?」

 途端、夏江や喜市が怪訝な表情をする。

「いや、昔のことだ」

 高継は白髪の混じり始めた髪をかきあげ、深いため息を落とす。

「旦那?」

「わからない、私は裏山にいたはずだ」

「旦那、今日は朝から家を出とらせん」

 そうか、高継はつぶやいたきり口をつぐんだ。布団の中に入り直し、しかし汗でべとついたそれは居心地が悪く、すぐに這い出て胡坐をかいた。

 周囲をもう一度見まわし、夏江の背後でおびえたようにこちらをうかがっている息子に目がとまった。垂れた目が自分に似ていて、また父親を思い出す。まだその手に抱くことができない。

「高由、お父さんは悪い夢を見たんだって」

 夏江が小さな手を引っ張り、こちらに向かせようとしている。だが普段構ってくれない父親に背を向け、高由はすぐさま母親の胸に飛び込んだ。

 高由は父親に嫌われていると思っているのか、または家の中にいる男との認識程度しか持ちあわせていないのか。世話ならば喜市がよくしている。父親は彼だと思っていても不思議はないだろう。

「今日はもう店じまいにしよう」

 桜のせいだ、あの薄紅は人を酔わせる。

 呼吸をするたび、やけつくように喉奥が痛んだ。なぜか手もこわばり、しばらく自由に曲げ伸ばしができない。しわだらけの手だ。

「ひとりにしてくれ」

 ごろりと寝転がり、天上を仰ぐ。

 妻の、喜市の無言の抗議に視線を合わすことなく、高継は目を閉じた。鮮明に思い出される初の顔。その顔は歪んで、犬歯をむき出しにした。

 あれは初だったのだろうか。

 ならば、見たのは夢だったからだ。

 高継の頬に生暖かい筋ができる。夏江は息を飲み込み、そっとふたりを連れだって部屋を出た。

 ふすまが閉まる音を遠くで聞きながら、高継は嗚咽がこみ上げてきた。



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