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傷負い桜  作者: 鷹臣えり
第一章
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4

 霧が立ち込め視界が狭まる。知っていて高継はここに数度しか足を運んだことがない。

 実家の裏手にある山の頂に、大きな湖がある。毎年見事な桜の花を咲かせる木が一本あり、隠れた名所となっていたのだが、いつの頃からかなにが原因なのか花芽をつけることがなくなった。同時に湖全体を覆う霧が、立ち寄る者をことごとく拒否する。その霧は高継の前でも晴れることがなく悲しかった。

 枯れた桜の木の下には、初の遺体が埋っている。

 行こうにも視界が遮られては、どこに木があるのかさえわからない。一歩間違えば、底の深い湖に落ちて死んでしまう。自然、高継の足は遠のいた。

 だが今日は、軋み始めた手足を引きずって、身内の誰にも行き先を告げずに来た。真っ白な世界に自ら足を踏み込む恐怖を、しかし今は初に会いたい気持ちが払拭する。

 汗が滴り落ちる。

 息も上がり、ひとつ呼吸するたびに喉がひりつく。

 枯葉を踏みしめるたびに響く乾いた音は、絶え間なく続く。身内の者が高継の姿を見たならば、その必死の形相におそれをなしたかもしれない。だが止めに入ったはずだ。とても山を歩くような装備でもないし、年齢的にも体力的にも無謀である。

「こちらだ」

 どこからか冷たい声が聞こえた。

「お初」

「こちらだ、私は」

 抑揚のない呟きとも取れる声に、高継は必死で耳を傾けた。あの花見に逢った初の声とは明らかに違う。

「うらんでおるとも。桜の木の下に来い。私と同じ目に遭わせてやろう。私は知っているぞ、この首に焼け付いて取れない憎しみをっ」

 高継は絶句して立ち止まった。

「お初」

 喜市に言われた台詞が脳裏をよぎる。

 高継は唾を飲み込み、覚悟を決める。それは一種の怖いもの見たさだったかもしれない。

 ようやく頂上までたどり着く。

 肩で荒い息を繰り返し、両手をひざで支えて顔だけを上げる。前方などほとんど見えない霧の中で、その大木だけが泰然と現れた。

「おまえのせいで私は首を失ったというのに、どの面提げてやってくることができるのだ。私はお前が憎くてたまらないよ」

「っ」

 その一言で高継は言葉を失い、身体を硬直させた。だが彼は言葉をうけて考えることができた。初の死から三十年という年月が、そうせざるを得なかった。

「鬼ではないのか」

 息と共に吐き出した声は、今までのどんな言葉よりも不出来だった。だが他の言葉など言えたところでなにも変わりはしないことをどこかで気付いている。

 不意に生暖かい風が吹いた。

 霧がわずかばかり晴れ、その中心にひとりの少女が現れる。白い着物を着て、髪を緩やかに縛ってたらし、目を細めてこちらを見ている。

 高継は感嘆のため息を吐き出した。

 初の姿と寸分たがわぬ。これをどうして花の精、もしくは鬼と思えるのだ。

「また逢えた」

 すぐさま少女が失笑する。

「私はまだお前に触れることができるかい」

「触れるがいい、すぐさまお前の首を刎ねてやろう」

 唸るような低い声に、高継はたじろぐ。

「それでお前が満足するならばいくらでも」

「愚かな」

 だが初は近付いて頬に触れる高継から逃げようとしなかった。手を振り払うことも。

 高継は初の頬を確かめるように優しく何度もさすった。

 申し訳ないという気持ちがあふれながら、それでも彼女に触れることがうれしくてたまらない。

 いつの間にか初に触れる己の手が、皺がなく若い頃の手に戻っていることに気がつく。背もすこし伸び、身体も軽くなったように思えた。どうにも初と対面するときは、都合の良いように若返るらしい。

「私の首を刎ねないのか」

「ふん、すれば私の気持ちがわかろうか。ひとりさみしく、自身の正体を長らく思い出すこともできず、ただ存在し続けるという苦痛を。思い出せば、お前に対する憎しみがあふれて止まらぬ。すぐさま首を刎ねてやりたいところだが、それでは腹の虫が治まらぬ。いっそこの世界に閉じ込め、私の憎しみだけを浴びて生きるがいい。気が狂うだろう」

「憎しみしか与えてくれなくとも、私はお前が好きだよ」

 初に後ろ髪を乱暴に掴みあげられ、高継は痛みに顔を歪めた。彼女は愉悦に満ちた表情で見つめていたが、やがて飽いたのかため息を吐き出し視線を落とした。

「どうした」

「判然とせぬ」

「なにが」

 髪を掴みあげていた細い手は離れ、もう一方の手で胸を押される。瞬間、高継はさながら幼子が親から手を振り払われたときのような表情になり、縋りつくように初の名を呼んだ。彼女は手で顔を覆い、緩やかに首を振った。

「思い出せぬのだ」

 初はうめくように呟き、枯れた桜の木に寄りかかる。高継はすぐさま駆け寄ろうとしたができなかった。

 心ではすぐにでも抱きしめ、不安を拭ってやりたかった。だが身体が動かなかった。高継も、

――判然としなかったのだ。



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