3
初が消える。
高継は手を伸ばした。着物の袖が触れるか触れないかのところで、身体ががくんとまるで溝に落ちる時のように傾ぐ。
「あなた?」
はっはっと荒い呼吸を繰り返し、高継は声のする方を振り返ってみた。目を丸くした夏江が、扇子を片手に覗き込んでいる。隣には喜市にあやされている高由の姿があった。
「お目覚めですか。ずいぶん、うなされていましたよ」
そこが夏江の膝の上だとわかるまで、しばらく周囲を見渡す。桜の大木の下、敷物を敷いて夏江たちが花見のために座っていた。周囲にも家族連れの花見客がいて、酒を煽って騒いでいる。
高継は動悸が治まらない胸を押さえて、上体を起こした。
「は、つ」
「あなた?」
様子のおかしい高継に、夏江は心配そうに背をさすってくれた。そのやわらかい女の手に、高継は一瞬おびえ、そしてがっと掴んで胸元に引き寄せた。体勢を崩した夏江が懐に転がり込んでくる。
「おやあ、旦那。夜にはまだ早い」
喜市が茶化し、高由が両親を物珍しげに覗き込む。
「……」
引き寄せた夏江の手は、歳相応の水仕事で荒れた手をしていた。またその手を掴む己の手も、しみがある浅黒い見慣れた手だった。
「ゆめ」
「どんな夢だったんです、桜の精に見初められやしたか」
「あなた、汗が」
夢か現か。だが丈のある草を掻き分けた感触は、初の姿を追いかけた足は、それが現実だったと悲痛に訴えている。だが草に傷つけられた手足の傷は、ない。
高継は大きな息を吐き出した。
「桜の精だったかもな」
「さぞ美しいかったでしょうな。いや、夏江さんの美しさにはかないませんよ、ぼっちゃんのかわいさにも。けれど花の精は気に入った人間の生気を吸うためならなんにでも化けるようで。己が分身の木の下に、人間が死んで埋るよう仕向けるけん」
「喜市さん、怖いこと言わないでください」
「私は死なんよ」
くすりと笑ってそれ以上の戯言を封じた。
風にあたってくると、高継は立ち上がりぞうりを履いて三人に背を向けた。満開の桜の中を走った時の高揚感はない。今はただ、くたびれた身体が仕方なく意志によって動かされているような、なんともぎこちない歩き方しかできなかった。
いつから視線はまっすぐ前を見ることなく、うつむきがちになったのか。地面には無数の汚れた花びらがあふれている。見上げれば、まだ土のつかない艶やかな薄紅が広がっているというのに。
「旦那ぁ」
「どうした」
喜市がへらへら笑いながら後をついてきた。彼は酒の入ったひょうたんをあおり、口についた酒を袖で拭った。
「気をつけたほうがいいで。旦那、昔の恋人の名前、言いよったけん」
「!」
初の存在について、夏江はまったく知らない。そもそも夏江と知り合ったのは初の死後一五年経ってからである。だがそれが女の名前だということは気がつくだろう。いらぬ心配を今更かけるわけにはいかない。
「そうだな」
あれからずいぶんと経っているというのに、未だ自分は彼女のことが忘れられない。苦い思い出だからだろうか。
「それにな、あんたがお初っちゃんの名前をいとおしく呼ぶ資格なんてありゃせんけん」
「っ」
高継は身体をのけぞらせ、喜市の発言に目を見開いた。
「というより、お初っちゃんが旦那のことを笑って迎えてくれると思うかい? そんなわけねぇだろう。全て桜の精の所為よ、取り殺されんように気をつけないかん」
口の端だけ笑って、喜市は言い放つ。高継は言い返す言葉が見当たらなかった。
確かに、拒む初を無理やり組み敷き、彼女の立場を危うくしたのは自分なのだ。恨み言のひとつやふたつあってもいいはずだ。だがそれを言わぬからこそ初らしいのである。
桜のせいだ。
花に酔って過去を思い出したに過ぎないのだろう。
「旦那、花の精とは聞こえがいいが鬼ともいう。つまりは人外の化け物だわな。鬼は人型を真似るけん」
「鬼? 真似る?」
訝しんで振り返ると、楽しむようににやつた喜市の顔が見えた。
「だから言っただろうに。栄養には人間の血肉が一番じゃ」
「……」
取り込むためなら何でもする。言外に含ませた喜市の言葉に、高継はぞくりと背筋が粟立った。