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傷負い桜  作者: 鷹臣えり
第一章
3/24

2

 それはそれは見事な桜である。道の両端に等間隔に植えられた桜の木は、しかし頭上では枝が折り重なり、空が薄紅で塗りつぶされている。

 喜市の言うような女の香りなど、とんと見当がつかないが確かに桜のかすかな芳香が漂っているには間違いはない。それを高継が良いと思うかは別である。

 木々に囲まれ、その中心にいることで否が応でも彼女の笑みを思い出してしまうからだ。

 今から三十年以上も前の事件だ。年月は心の傷を癒すというけれども、たしかに彼女の痕跡はどこにもない。記憶だけなのだ。故になおさら傷口が広がる。

「高継さま」

 不意に夏江に呼ばれた気がして振り返る。

 けれども歩いてきた道はなく、枝がせり出し花が視界を塞ぐ。

 高継は首を傾げ、立ち止まった。周囲をぐるりと見回して、景色にわずかな違和感。

 花見の見物客はおらず、道と呼べるものも消えていた。ひとりぽつねんと桜の木々に取り囲まれ、ざわめきは人の声ではなく風に枝が揺すられ花がこすれあう音であった。

 むせる。

 息が詰まる。

 薄紅色は警鐘だった。

「夏江、高由。喜市」

 呼んでも応える声はなく、己の声がこだますばかり。

「高継さま」

 今度ははっきりと妻ではない女の声がした。頬が瞬時に緩む。

 そうではないと理性が押し留めるのに、記憶はそうだと言ってきかなかった。

「お初っ」

 高継は声を張り上げた。

 闇雲に走り出す。行ってはいけないと、遮るように桜の枝が行く手を遮ったが、そのまま突っ切ればたやすく折れた。無数の引っかき傷が身体のあちこちにでき、血が流れる。傷みはなかったが、身体が熱くなっていた。

「お初っ」

 過去の出来事は嘘だったのか、ではなぜ今頃になって現れる。ああ――そうか。彼女は父が死ぬのをじっと待っていたのだ。

 走り出している自分は、もう五十四になるというのにまるで若者のように早く走ることができた。足を踏み出すことが窮屈ではなく、身体も軽い。

「どこだ、出てきておくれっ」

 枝を掻き分け前に進む。汗が噴出し息も興奮のためか上がっていた。すると突如目の前が開けた。そこは丈の短い草が敷き詰められ、中央には背を向けた少女がいた。桜の木はどこにも見当たらず、また見覚えのない場所だった。

 そろそろと足を踏みだせば、草を踏みしめる小さな音がした。

 気配に気付いたのか、少女はゆっくりと振り返る。

 白い着物を着ていた。ゆるく髪を結んで左肩に垂らし、手を前に楚々として合わせこちらを伺っている。

 高継は一歩、一歩慎重に近付いていく。視線は少女に釘付けだった。

 心臓が痛いくらい強く脈打つ。

 そして彼は途中で止まった。

 そんなはずはないのだと、理性がようやく押し留めたのだ。

 初であるはずがない。生きているならば四十半ばだ。

 高継は深呼吸をして、周囲に視線を巡らせた。先ほど走ってきた桜の回廊はない。だだっ広い草原の中心に、取り残された感のある少女と――青年がひとり。

 我が手を見た。皺のない、骨ばった手だ。

 身体全体が力強く、生気に満ちている。筋肉は隆々で、関節を動かしても軋みもしない。

 憂いを含む笑みをこぼしながら、そっと記憶そのままの声を発する少女はまさしく初である。小さなえくぼができる顔も細く小さな身体も。

 高継の身体がわなわなと震えた。

 背を押されたようにつんのめり、それをきっかけとして走り出す。次第に足を踏み出す速度が速くなる。

 けれど少女に近付くにつれ、草丈は侵入を拒むように、また少女を護るように高くなり、高継は掻き分けながら進まなければならなかった。鋭い葉が次々と襲いかかる。高継は切り傷がまた増えていた。

 ようやく最後の砦を抜け、息を切らして少女の元へと行くことができた。

 背の高さは高継の肩ほどで、しなやかで色気を感じる肢体だった。

「お初、こんなところにいたのか」

 妙な後ろめたさと照れがないまぜになり、高継は次の言葉が続けられない。

「お初、なのだな」

 高継は乱暴に己の髪をかきあげた。

 未だに現状を把握できない。なぜ初は歳をとっていない。

「離してください、高継様。一時のお遊びはもうおしまいになって」

 少女は視線を逸らし、高継に捕まれた両手首を振り払おうとする。しかし高継は抵抗されればそれだけ力を込め、逃げられぬよう腕に抱きとめ力を込めた。

「離してください、高継さま」

 懇願する女の顔は、なぜこんなにも痛々しく哀切に満ち、苦しいほどに歪み泣き続けているのだろう。

 高継ははっとして手を離した。途端、少女は大きく一歩後ろに下がる。

「なぜ」

「もう、私のことなど放っておいてくださいまし」

「いやだ」

 どこかで聞いたやりとりだ。

 高継は手を伸ばすことも近寄ることもためらわれた。

 ああ、これは。

 高継はめまいがした。

 初が死ぬ前に交わした最後の会話だ。

 そしてあの時、初がなぜ初が自分を拒絶するのか理由を考えもせず、ただ意にならない彼女の行動を責め続けていた。だが今は、踏み出すことができない。ここで踏み出せば、本当に過去の出来事と同じになってしまう。

 一歩、初は後ろに下がる。たったそれだけの行為に、高継は愕然とした思いで立ち尽くした。追い討ちをかけるように、どこからか冷たい風と共に桜の花びらが舞いながらふたりの間に壁として現れた。

 ひらひらと落ちていく花弁はやがて数を増やし、しまいには初の姿を隠すほどに乱舞した。

「離してください、高継さま」

 かすれた初の声が桜吹雪の中から聞こえる。

 語尾は震えながら小さく、初が遠ざかっていくのがわかった。

「い、行かないでくれっ。まだ、お初っ」

 桜吹雪の中に入っていこうとする高継を、しかしそれは脅威の力で押し戻す。彼は吹き飛ばされ、身体をしたたか打ち付けた。

 高継はしびれる身体に鞭をうち、四つんばいで這うようにして再度挑む。だが強固な桜吹雪の壁は、男の侵入を拒み続けた。彼は途方に暮れた。このことは現実なのだろうか。高継はそれが治まるまで無様に見つめるしかなかった。


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