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まだ綿入れが必要な二月半ば。五条家の庭師・十蔵が連れ立ってきたのは七尾家の下男だという佐和喜市であった。
夕暮れ時、掃いても掃いてもなくならない落ち葉をわずかな苛立ちと共にかき集めている時だ。初の視界に落ちるのは長い影と短い影。初は顔を上げて確認した。
十蔵とは対照に、へらへらと薄っぺらい笑みを浮かべる男だった。歳は二十代前半に見え、ぺらぺらの着物から覗く白い腕がなんとも気持ち悪い。
何の目的か、と言えば結婚の世話をするという。普段無口で他人との交流もない男の突然の提案に、初は薄気味の悪さを感じていた。しかし無下に断ることもできず、好きな男がいるとも言えず、言ったところで問い詰められ、笑われるのは必至。適当に受け流してみようか。しかし本当にその話を受ければ身分違いの恋を諦め、若旦那もあきらめて二十歳違いの娘を嫁にもらうかもしれない。
喜市は適当に挨拶をすると、今度はなめまわすようなしつこさで、初を上から下まで観察する。それで彼なりに納得したのか、一度頷いた。
「いい女だ」
いったいなんだろうか。礼は欠くし、品もない。これは絶対ない、初は十蔵のおせっかいを苦笑いでやり過ごすしかないと思った。
「いい天気ですね」
差しさわりのない天気の挨拶を返し、十蔵たちに背を向ける。十蔵はうつむいてなにもいわなかった。まったく誰が仕組んだのか、彼に仲人は無理というものだ。
しかし佐和喜市は箒を持った初の手を上から握りしめ、強引に自分の方に向かせた。
なるほど、十蔵は飾りでも充分だ。
「あんたがお初っちゃんかい? かわいいなあ、目が真ん丸で小さい口」
それから首筋に顔をうずめ、くんくんと鼻を鳴らす。彼の手は乾いて冷たかった。
「ええ匂いじゃ。西洋のえげつない香水の匂いは苦手じゃが、仏壇の香の匂いは落ち着くけん」
思わず振り上げた初の手は、しかし空をむなしく切ってがんじがらめに捕らわれる。
「ええやろ、これから夫婦になるんじゃけん」
まだ初の歳で嫌悪を隠しきることはできない。しかしその表情がさらに喜市を喜ばせた。
「あんたんとこの主人とな、俺んとこの主人がな、お前と仲ようせいというんじゃ。なるほど、褒美にはちょうどいい女だ。しかも若い。俺と同じか年上はいかん。歳をくいはじめたら老いるのは早いけんな。おっと、これは決まり事じゃ。俺かて選ぶ権利はあるが、なにしろ、ひひひ、主人の命令じゃけんな」
「十蔵さんっ」
非難を込めて十蔵をどやしつけたが、彼は初と視線を合わさないよう視線を落としている。期待したところで無駄であろう。初は十蔵が庭木の手入れ以外で口をきくところを見たことがない。ましてや人間相手に積極的な行動を起こす性格でもない。相手は動かずしゃべらずの花でなければならないのだ。
「おや、まだ肌寒いけんな。十蔵さん、もうええ。旦那によろしく伝えてつかあさい」
「十蔵さんっ」
十蔵は逡巡のち、きびすを返す。初の頭は真っ白になった。
なんということだ、下卑た男の腕は強く初を抱き寄せる。箒を奪い取られ、背後に投げ捨てせっかくかき集めた落ち葉を足で踏み散らされた。
「あ」
小石に蹴つまづき、足首ががくんと折れる。その瞬間を逃さず、佐和喜市は初を懐に抱き、さながら赤子をあやすように初の後頭部を上下に撫でた。
男の大きな手は、それだけで誰かを思い起こさせる。かっと身体の芯が熱くなり、目の前の男の正体を思い出し、一瞬にして冷水を浴びせかけられたような心境になった。
「ほそっこいな、男の楽しみのような女子じゃ」
もう一度振り上げた手は、やすやすと軽い音を立てる。
「気の強い女じゃ」
叩かれた頬を、しかし喜市は一撫でするだけだった。
「十蔵さんが連れてきたならば、あなたのお話は真実でしょう。ですが」
「お初っちゃん、自由に恋愛なんぞ、下働きにできようか。選択肢なぞ最初からありゃせん」
剃り残しのある頬を摺り寄せられ、痛みと嫌悪で視界がかすむ。初はありったけの力を込めて抵抗したが、体格差と男女の力の違い、喜市にとっては取るに足りないこどもの抵抗だった。
言うが早いが喜市は初の首を絞めるような形で腕を回し、強引に五条家から連れ出した。
口をふさがれれば、声など届かない。脚をもつれさせながら、自分の身に起こることに恐怖で初はすくんでしまった。
佐和喜市の家は、竹林の奥まった場所にあった。外観は古く、雨のしみこんだ木造の家は傾いていた。
入口は狭く低い。土と肥料の匂いが充満し、土間の壁には農具がいくつかぶら下がっている。三和土をあがれば、すぐに六畳一間の部屋。喜市はそこに初を押し込み倒した。
周囲に家もなく、聞こえるのは笹の葉のざわつき、鳥の甲高い声、虫の音、そして喜市の息遣い。初が悲鳴を上げたところで、少しばかり虫が驚く程度。
隔離されたと表現するにふさわしい家だった。内装は外観よりひどくはなく、畳もきれいだが、生活感がなく、煮炊きをする台所も使った跡が見られない。
よくよく考えれば、佐和喜市は七尾家で住み込みの下働きと聞く。
「余裕やな、お初っちゃん。人ん家、観察するよりももっと抵抗してくれた方が、俺が楽しめるんじゃが」
「抵抗して逃げ出せるならいくらでも」
「それじゃあ、これから身に起こることも覚悟の上ってわけかい」
初は眉根を寄せた。それよりも気がかりなことがある。
「この家、なんだか甘い匂いがします」
がっ。
骨がきしむほどの衝撃。
不意打ちで殴られた頬は、すぐさま赤くはれ上がった。
初はそれ以上の追及を諦めた。後はどうなるか覚悟を要する。
喜市が舌なめずりをして襟元に手をかける。どうして自分はこんなにも冷静でいられるのだろう。目を細めて男を見れば、何のことはない。ただの男だ。決められたのなら、この先は決められたものになるのだろう。
喉奥にこみ上げる嗚咽は、とうとう外には出なかった。それは早急に始まる。
そして今までの冷静な思考は一気に消し飛び、恐怖のためか手足を無茶苦茶に振り回し、身体の自由がきく限りひねった。けれどもそのすべてをこの男は封じ、それがさらに初に恐怖心を植え付ける。
行為は同じであるのに、高継のときにはなかった嫌悪と憎悪がある。布の上からでも無骨な手が行き来すれば鳥肌が立つ。早く終われ、終われっ。
初は意識を手放すほど、朝まで嬲られた。
白い肌は、あちこちに黒ずんだ赤を散らされ、意識はぼんやりと霞がかかっている。
こんなものがずっと続くのか。
無意識に両腕を顔の上で交差する。
「へぇ、このかんざし、お高いんやろな。下働きの娘が買うもんじゃない」
「……」
汚れた着物にそろそろと腕を通している時、はじけ飛んだかんざしを喜市が拾い上げて天井にかざしている。
「おっと」
反射的に取り返そうと飛びついたが、難なくかわされ抱きこまれる。おもわずえづいた。
いや、思わずではない。一度えづくと、次々と胃の底からひっくりかえるような強烈な嘔吐に襲われた。
口に手を当て、家を飛び出し丈の長い草の根元に吐き出す。昨夜からの暴行の跡と、黄色く透明な液体が混ざり合っている。
中身をすべて吐き出し、なにも出て来なくなっても嘔吐は止まらなかった。無理やり指を口の中に突っ込んで吐く時の比ではない。あれは自分で多少なりとも調節できた。今は容赦がない。
喜市は背後で情事のあとの倦怠感に包まれている。
しかし初にはこれがなにを示すものなのかわかっていた。すると自然に口元には笑みが広がる。精神的にも肉体的にも損傷を受けて苦しいはずなのに、その痛みさえ素直にうれしいと感じてしまう。
「お初っちゃん、処女やなかったな。慣れとった感じや。誰なん、相手は? 名前は初やのにな」
どこまでこの男は人の感情に割り込もうとするのか。
黙ってやり過ごす。口元をぬぐって背をただした。
「言えねぇ相手ね……。さしずめ五条家の旦那かい? ああ、あの優男の若旦那……。う~ん、旦那じゃあ力づくで、若旦那にゃあ恋愛というところかの。へへ、けんどどちらも報われねぇな」
その通りだ。
けれども、という淡い期待がないわけではない。しかしそのけれどもは、やはり五条家の家柄によって簡単につぶされているのだ。彼は中津家の娘と見合いをすることになっている。聞けば幼子というではないか。
初には高継の隣に居る資格などなにひとつ持ってはいない。右も左もわからぬ幼女にはあるのに。
「相手が旦那じゃあ、お初っちゃんは用済みやな。あの性格からして、共有はありえんけんな。若旦那は繊細そうやけん、お初っちゃんが黙って身を引くかいな。黙ってほしかったら俺の言うことを聞いた方が得策やと思うぞ? まあ俺は強制はせんけどもな」
音がしそうなほど初は奥歯をこすり合わせた。
例え結ばれなくとも、綺麗に終わりたい。捨てられてもいい、ただ自分を誤解しないでくれたらそれだけでいい。
初は喜市に気づかれぬよう、背を向けたままで腹をさする。
愛し合った証はここにある、確かに。それだけで充分だ。あとはそっと五条家を去ればいい。
初の頭の中で、これほど早く簡単に先の行動を計画するなど自分でも驚いている。
「黙る? おかしなこと。喜市さん、あなたこそ黙っていた方がよろしいですよ? この家……」
ぐるりと家の中を見渡し、初はわざとらしく鼻をくんくんと匂いを嗅いでやった。効果はてきめんで、さっと喜市の顔が蒼くなる。
互いにおろかではなかった。故にこれ以上の脅しも必要ない――と思い込んでいたのは、初だけだったのかもしれぬ。