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傷負い桜  作者: 鷹臣えり
第六章
20/24

1

 身体が軽く起き上がる。例の状態だとわかった。ただ今までと違うことは、己の身体がすぐ近くにあって、それが腐葉土にうずもれるようにうつ伏せで倒れているということだった。

 太陽は地平線に半分沈んでいた。あれからずいぶん気を失っていたらしい。高継は起き上がり、周囲の景色を見渡した。深い霧に囲まれているにもかかわらず、背後には光を反射する湖面が広がっていた。五条家の裏山であることが容易にわかる。そこで彼は足元に視線を落とした。

 死んだように横たわる己の身体に、少なからず焦りを感じたが、ふと視線を逸らすと白い着物を着た髪210

の長い女がじっとこちらを見ている。顔の中は、ぱさつた黒い髪の影に隠れて明瞭にはわからなかったが、深いしわなどの陰影から、そう若くはないと判断した。

 もう一度見ると、老婆の頭には乳白色の角が生えていた。それはねじれ、歪み、先は鋭くとがっている。高継の心臓がはね上がり、同時に表情にも表れた。だが老婆は臆することなく、高継とまっすぐ視線を合わせる。

 無言で微動だにせず、その沈黙を奇妙で不気味かとは思ったが、それも一瞬のことで、老婆から漂うかすかな香りが高継を引き寄せた。

「あの」

 気分でも悪いのだろうか、高継少しかがみ老婆の肩に手をかけた。すると老婆は予想以上に肩をびくつかせ後ずさる。その拍子に髪が背に流れ、同時に老婆の顔がさらされた。

 ぎょっと高継は目を見開く。とっさに逃げ腰になり、後ろへよろめいた。

 なんと醜悪な老婆だろうか。いや鬼だ。

 角だけではない、ぎょろっとした大きな目に、深く刻まれた目の下のしわ。皮膚は乾燥して白い粉が浮いている。口は半開きで、覗くとがった犬歯は明らかに常人のそれとはかけ離れており、己の頬を貫くのではないかと思うほど。

 にもかかわらず、老婆の纏う香はこの上なく上品で、妻の夏江がつけたならば即座にほめるべき香りであろう。

「さらら」

 口からすべり出た名に疑問を抱くことはない。これは目の前の女の名だ、まさしく。

「ふっ」

 さららと呼ばれた老婆は、驚きにさらに目を見開いたが、やがて口元を歪ませた。

「お前の血は、私を浄化するのか?」

 すっと伸ばされた貧弱な手が、若い高継の首を締め上げる。一瞬ぐっと力が入り、呼吸のつらさに高継はあえいだが、すぐに力が緩んだ。

 血が欲しいならば、生身を傷つけたらどうだ、そんな言葉が息苦しさをかいくぐって出てこない。視線だけで投げかけるのも不可能だ。

「試す価値はある。取り戻したかった記憶だ」

「血? そんなもので記憶を取り戻せるわけがないだろうに」

「いいや、真実だ。事実……事実、自身の正体を知れた」

「それは本当に手に入れたかった記憶なのか?」

「……そうだ」

「そんなことのために」

 高継は奥歯をこすり合わせた。さららがせせら笑う。にちゃりと粘着質な音が彼女の口の中でした。

「人間がたかだか十人死のうが」

「いいや、そんなことのために己が姿をなくしたのかと聞きたいのだ」

「っ」

 途中で遮り、語気荒く言い放てば、予想外のことだったかさららは瞠目する。鬼の――さららの嘲りを帯びた口元は、開いたまま硬直した。

「後には引けんのだ」

「取り戻したと思うていても、なにひとつ取り戻していない。お前が初ではないのならば、私に対する憎しみはいったいどこから湧き上がるのだ。私はお前を殺してなどいない。だれもお前の首なぞ、刎ねようがないではないかっ」

「っ」

「後に引けぬわけがなかろう。結局お前はまだ納得していないのだ。故に私の血を求め、さらなる記憶を取り戻したいと願っている。自身の姿を捨ててまで、だ」

 ひっ、さららの喉奥が鳴る。

 耐え難いほどのまっすぐな目は、やすやすとさららの気迫を萎えさせた。

 縦筋の入った唇がわななく。

 高継は覗き込むようにしてさららをじっと見た。

「鮮明に思い出すのだ」

 高継の首を絞めていた手は力が抜け、だらりと垂れさがる。

「狂いそうになる。あの時の恐怖を、抵抗できぬ己を、振り払うこともできぬ。何度もだ、何度も何度も。何度も私は殺される。だがここにいる。私は桜の精だ。なのにっ」

 さららの脳裏に浮かぶのは、やはり高継が長刀を振り上げる場面なのだ。彼はやはり高継の顔で、女の抵抗に眉ひとつ動かさぬ非道な男だった。鈍い光を放つそれは、一度空に高く掲げられ、死の覚悟をせよという宣告に等しい。声など上げられぬ。そんな暇すら与えずに、銀は軌跡を描くのだから。

「お前がやはり私の首を刎ねたのだ」

 高継は静かに口を噤む。彼女の怒りを哀れに思った。彼女が抱いているのは恐怖か、憎しみか?

 深く高継は溜息を吐き出す。鬼になりかける女が哀れでたまらない。

「私は断じてお前の首を刎ねたりしない」

 彼が言えるのは、たったそれだけしかないのだ。

「くそやかましいっ。懇願したのだ、私は。おやめください、助けてくださいと何度も懇願した」

「旦那様、もうすでに事切れております。そう、申したのでござます」

 一陣の風が吹き抜ける。

 割って入ったはかなげな声に、ふたりは驚きの声をあげた。枯葉をかき分ける足音がゆっくりと近づく。それは少し離れた場所で止まった。

 振り向くと手を前で組み、うるんだ瞳の初が立っている。

 木々が風にざわめく。その時、初の首元を隠していた長い髪が風によって舞い上がった。

「!」

 髪に隠された真実を目の当たりにして、ふたりはさらに目を見開き、声を失う。

 そこは甘い桜色をし、滑らかでしわひとつとない悪意ある古傷跡が首を一周している。「あ」

 泣き出しそうな声を上げたのは高継。しかし初は動揺した様子もなく、彼の反応を受け入れた。

 今まで傷が見えなかったのは、故意に初が隠したのか、それとも見たくないという高継の心理に脳がないと認識したのか。いずれにせよ、直視するには恐ろしすぎる。当時の初の恐怖はどれほどのものだったか。

 高継の身体は小刻みに震えはじめた。そんな彼の様子を、初は安心させるようににこりと微笑み返す。誠に不思議なことで、それより高継の動悸はぴたりとおさまり、ほっと息を吐き出すことができた。

 嫌悪の目を持って初の傷を凝視したのはさららだった。己の首にもないかどうか、ひきつった顔で両の手でせわしなく動かし首をさする。初は首を振って否定した。そして憐れみを込めて見つめる。

「桜様には憎しみしかない、もっともでございます」

 静かに落ちる水のように、初の声は明瞭だった。流れはせき止めることができない。

「なに」

 震えるしゃがれたさららの声。眉間にしわを寄せて警戒を表そうとも、同情の視線を向けられてはその効果がない。

 さららは体勢を低くして身構えた。そうすることで己の身に起こっている事柄から身を守るように。

「桜様、たとえ高継様の血を吸ったとしても、その憎しみの原因はわかりはしないでしょう。桜様が取り戻せる記憶とは、せいぜいが自身のことのみなのですから」

 すっと高継をかばうように初は立った。

「お初……」

 高継にも疑問があった。喜市との仲を引き裂く自分であるのに、さも付き合っていたかのような言動はどういうことだ。別れたかった、あの言葉の意味を改めて知りたい。

 少女は鬼の正面に立ちはだかった。しかし彼女の行為は高継に対してではないように見えて、実のところ高継につながっている。こうして鬼から隠すように高継の前に立ち、かばっている。

 だが手を伸ばしてよいのか。彼女の行為がどんな思惑に基づいているのかわからない以上、自身に再び傷をつけることは怖い。拒否の言葉はもう聞きたくない。

「桜様のその憎しみは植え付けられたもの。意思とは関係がない故に、思い出すことも不可能でございます」

 どこまでも初の言動はさららのみに向かっている。彼女の背は高継を無視しているようで切なかった。

「植え付けられたもの? 不可能?」

 わかるはずもない、言外に含めたさららの言葉は、それこそ初にとっては笑い飛ばす種のものである。わかっていないのはさららの方だと。

 鬼となったさららと初は互いを見つめあい対峙する。傍で見ている高継が張りつめた空気に息をひそめる。

 とがった空気はますます鋭利な刃物となって双方の身にまとわりつく。容易に身じろぎできないほど。

 初はその空気を振り払うように、強くかぶりを振った。

「桜様の過去に、そんな恐ろしいことなどなにひとつないのでございます」

 泣くかもしれない。だが傷はたしかに小さくなっている。いや、傷を背負うことができる器を持ち、取り乱すことはない。

 初は息を大きく吐き出した。

 自身の周囲を覆う霧と、それに飲まれた灰色の木々。青と緑と茶、そして白。世界は単純な色でのっぺりと出来上がっていた。

「今私には、桜様と対極の感情を抱いております」

 ちらりと高継を振り返り、すぐさまさららに向き直る。

「それはどういう……」

 高継は声をかけ、途中でやめた。

 細くか弱い背は、全力で高継の介入を拒否していたからだ。

「ふん、それはどんなものだ」

「……桜様、人を犠牲にして自身を取り戻すなど、いったいいつからそのようなお考えになったのです。人を慰め、人を魅了し、人と共に歌を歌う。人を愛し、人に愛され、人に与え、人から与えられ、それを知っている桜様ならば、なぜ奪うことしか考えられないのでしょう。

 いいえ、いいえ。桜様から私はたくさんのものを奪いました。奪ったものはいずれ返さねばなりません」

「はっ、わけがわからんわっ」

 全くその通りだと、高継も小さく頷く。

「お前が私の記憶を奪ったというのか」

「違います。私は桜様の桜様として生きる時間を奪ったのでございます」

 鬼の目が吊り上る。興味は引けたようだ。

 初は複雑な笑みを浮かべる。我が身を抱きしめ、過去のことを脳裏にめぐらせ自身を落ち着かせる。

 ややあって初は口を開いた。少女特有の無邪気さと愛らしさはそこになく、ただ高い声が静かに暗く響いていく。

「あの時の恐怖、痛み、なにより佐和喜市への深い憎しみ、それらすべてを受け取っていただいたのは、桜様なのです」



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