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傷負い桜  作者: 鷹臣えり
間章
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間章

 まさしく皮と骨。名すらついていたのか、十蔵という。

 五条家の先代の当主・高徳より庭師として仕えて久しい。足腰も弱り、歯がすべて抜け落ち、しゃべることもなくなった。もともと寡黙な男で、仕事以外に口を開いたことがないほどである。

 その男、寡黙ではあるが仕事は熱心であった。すでに五条家から暇を出され、給付金もありはしなかったが、自らの意思で五条家の庭の手入れをしている。本来なら手入れも十分に行き届かず、荒れに荒れる庭がこうして見れる程度を保っていられるのは、この男の判断のおかげである。また夏江はこれをよく理解しており、世話を焼いた。すでに独り身で金の使い道などない年寄りの方も、金より人情を求めた。

 先代から勤め上げる家人はこの男ひとりで、なれ合いをよしとせず、他の家人からは評価が分かれている。他者との距離を築く一方、十蔵にはひとつの秘密があった。


 おうおう、今日も別嬪さんだのぅ。縁日はもうすぐだで。着飾ってええ女子おなごのふりしときゃ、普段のお転婆も目をつぶるでよ。


 口に出してしまえば、それこそ狂人。故に彼は口を堅く閉ざすことを選んだのかもしれぬ。声にならない声が、喉奥でひそかにつぶやかれ、頬を緩ませる。

 その目は落ちくぼみながらも穏やかで、花の美しさに感動して目を潤ますほど。

 彼には常人には見えぬものが見えていた。その正体がなんであるかや、言葉に当てはめて呼ぶことは煩わしかった。ただそこにいる存在、それだけで充分なのではないか。

「夏江さん」

 当主の妻の名を口にして、自分はこんな声だったかとちらりと思う。

 突然母屋の崩壊。おそらく小さな竜巻であろう。被害は夫婦の寝室に使う和室から渡り廊下にかけてであるが、突き抜けた跡の被害はおよそ最少に留められていた。

 彼はがれきの撤去作業に加わることができず、遠くから眺めているときだった。ふと吸い寄せられるようにして夏江の方を向くと、そこには信じがたいものが見えたのだ。

 主人の妻・夏江は中津家の令嬢で、夫婦の歳は二十以上も離れている。十蔵は嫁いできたばかりの夏江に、花の精たちが色めき立ち群がるのを見ていた。その時夏江は、彼らをまったく見ることも感じることもなく過ごしていたはずだ。つまりは常人である。なのに今彼女は、肉体を持たないあの世とこの世のはざまに住む住人と向かい合って話をしている。

 十蔵は不安定な住人をよくよく見つめて息を飲みこんだ。

 思わず声に出そうな名をようやくのことで押しとどめ、身を乗り出そうとする我が身を必死なほど堪えた。

 初は三十年前に死んだはずだ。

 当主の愛人について、名だけならば家人の間にも広まっている。だが姿を知っているのは、十蔵ひとりだ。

 十蔵は全身が震えた。

――あれは、初だね。

 庭に植えられたツツジの精が、十蔵の耳元でささやく。

 花と同じにあでやかな桃色をした小さな精である。植えた当初は小さな葉が青々しかったが、最近は手入れも滞り、木の一部が枯れ、いびつな形になっている。それでも生きているところは必死で毎年花を咲かせていた。

ツツジの精がささやくと、木蓮や金木犀、南天の木々がざわつく。次々とそれらの精が出てきて、初の姿をじっと観察した。

 皆五条家の庭に古くから植えられていた木で、十蔵の家が代々庭師として仕事を任されていたことから精たちはよくなついている。

 彼らは人型をとってはいるが、その姿は人間の肩にとまれるほど小さい。

――初は、やっぱり成仏していないのかしら。

 傍からはどのように見られていただろう。あまりにもの熱心な夏江への視線に、他の家人たちは目をそむけたかもしれない。

 十蔵は金木犀の精の声を耳にとめながら、わずかに唸った。

――何を話しているのかしら。

――あの女って、幽霊は見えるのね。

――えっ、ちょっと待ってよ。今。

――ええ。私も聞いたわ。

――桜が鬼になるって。

 十蔵の肩の場所とりに、三人の精たちが互いをひっぱり押しのけあう。その中で金木犀の精だけはひとり考え込むように腕を組んでいた。

――桜って。

――桜が、鬼に?

――へぇ。

 精たちのざわめきに、十蔵は必死に記憶をたどる。桜の木は五条家の庭にはない。あるとしたら、裏山の山頂の木である。すでに老齢の自分では、とても山頂まで登ることはできず、世話ができなかった。その所為ではないが、今はもう枯れたと聞く。あれほど見事に大地に根を下ろす木が、やすやすと枯れることはない、だが枯れたのは事実だ。

 けれども枯れた木になぜ精が宿る。

――馬鹿ね、十蔵。枯れちゃったら私たちは消滅するしかないのよ。

 ツツジの精が憤慨し、他の精たちも早口でまくしたてる。

――桜はね、たしかに格が違うわ。

――あのはぐれ者の柊だって、桜を前にしたら……。

 ツツジの最後の台詞に、十蔵はああ、と深く息を吐き出した。

 柊――葉がぎざぎざになっている常緑低木の一種である。

 思い出されるのは雄の柊の精。人見知りが激しく、挙動不審な態度で十蔵を困らせたものだ。精は容姿について自信がないようで、常に物陰に隠れて周囲をうかがっていた。他者との交流がない故に、少しの冗談も通じぬところがある。思い込みが激しく、自分と異なる意見にまったく耳を貸さない頑固な面もあった。彼は周囲の花の精に混じり、ひとりだけぽつんと浮いていた。明らかに場違いであり、他の花の精もそう思っていただろう。

 だがその中で桜の精だけは違った。彼を上にも下にもおかず、ただ柊の精として扱った。桜の余裕であろう。次第に柊の精は、桜の精の美しさを絶対視した。

 桜の精が彼の中では頂点なのだ。故に他の花の精の個々の美しさはどうでもよい。ただ桜の精を神聖化し、それを崇める自分に陶酔することで自身の容姿の醜さに目をつぶった。

 彼は桜の精に従うことで己の存在価値を見出したのかもしれない。

 しかしなんと脆弱な。

 生きとし生けるものに例外はなく、盛衰はある。桜の精がその存在を消滅させてしまえば、柊にはもう存在価値がなくなる――そう思い込んでしまうほどもろい。

 そうではない、十蔵は心の奥底で溜息と共に吐き出した。

人間が花の精と関われる部分は存外に少ない。彼らのすみかである花の手入れをすることでようやく接点が生まれる。柊の木を世話しない十蔵には、彼にはあまり興味がなかったが柊のその存在の仕方には賛同しかねていた。

――十蔵?

 金木犀の精が目を細めて訝しむ。

 十蔵は思案して肩をすくめる。

「いや、柊のことを思い出しておったんじゃ。そういえば、最近五条家の家に出入りが激しかったとな」

 佐和喜市という男の人型を真似て、人寂しさから五条家の当主と懇意になったのだと思っていた。当主にあの男は正体が花の精だと告げる勇気はなく、告げたところでなにか問題が起こるとでも思えたか?

 いや、柊の目はずっと虚ろであった。頬は緩み顔が笑みをこぼしているにもかかわらず、当主を見る目つきは、どこか冷ややかで視線を合わせているようで合わせていない。ああ、桜の木が枯れた頃からだった。

――初が言っていたわよ、桜の木が枯れそうになったのも、鬼になりそうなのも、すべて柊のせいだと。

――でも柊は高継がすべての原因だとも言ったわ。

 我が身には関係ないとでもいうように、金木犀の精は吐き捨てた。

「不憫じゃな」

――飢えているから?

 くすり、小ばかにしたように金木犀の精が笑う。

――桜が鬼になりそうなのは、柊がからんでいそうね。柊は……庭木になる運命さだめとして芽吹き育てられ、それを自慢にしていたお子だったからね。山中に捨てられたときは、よっぽど悔しかったでしょうとも。けれども私たちには関係ないわ。あの子の生い立ちなんて。

「山が泣いておるでよ。若い男女があれだけ山で死んで、霧が皆のべべを白くしてな。なげーこと山を明るく染めた桜も今は瀕死の状態じゃ」

――十蔵、お前のお迎えはいつだろうか。お前が死んでしまえば、五条家に庭師はいない。素人の水やりで私たちが美しく咲くことなど二度とないだろう。けれどもそれが運命なのさ。なじめなかった柊がいけないのよ。

――柊の社交性ってものがないからいけないのよ。

 ツツジがすかさず横槍を入れる。

「そうかもなあ」

――人間のすることにいちいち腹を立ててたんじゃねえ。

――きんちゃん、それは人間の世話になっているあたしらの理屈。そうじゃない柊は、人間に原因を探すの。

――ねえ。桜が鬼になればどうなるの?

 若い仙水の精がようやく会話の切れ目を見つけて割り込んでくる。

――一撫ででお前のような花は枯れるわねぇ。

――……。

 言われた水仙は、くすくす笑う金木犀の精を睨みつけた。

――白ではなくて灰になるわ、一面。

 それは仕方がないのだと。抗う術もなく、すべて運命なのだ。

――なら、私は柊を応援するわ。

「よいよい。どがいかするのが庭師の仕事じゃ。肥料が足りなんだら肥料を足すし、水が欲しけりゃ水を与える。なあ、きんよ、山に登れば柊に会えるかの」

――……。

 まがった腰に手をあて、十蔵は金木犀を上目づかいに見上げた。精は答えない。じっと十蔵の目を見つめ、彼の意図をくみ取ろうとしている。

「身が朽ちるほどの仕事をせないかんということは、ここがちょうどわしの死に時なんじゃろうて。なに、そんなことを強いて気負う必要もありゃせん。言わんだけじゃろ、きん?」

 やはり金木犀の精はこたえない。目を細め、十蔵の決意を伺う。やがて目を閉じた。

 十蔵は彼女の反応を受け取ると、背を向ける。肩に止まっていたそれぞれの精たちは、振り払われるように飛び上がった。

「長い付き合いじゃったな」

 十蔵。

 金木犀の清らかな声は震えていた。彼の小さな背には届かない。呼び止めたいのか、送り出したいのか。そんなことはわからない。ただ名を呼びたいだけ。大切に大切に。

 記憶と呼んでいいのか、若い十蔵は先代の庭師に連れられて五条家の当主の前に跪いている姿が脳裏に浮かぶ。

 彼の目は輝いていた。

「誠心誠意を込めてお仕えいたします」

 声には芯がある。これから込められる期待を一身に受け、それを誉とした堂々たる姿だ。

 けれど知っている。 

誓ったのは五条家に対してではなく、彼が唯一真摯に向き合う花の精たちであることを。




 おまえはいつも上を見上げておるな、なにかあるのか?

 旦那様。い、いえ、なにも。

 わしに隠し立てをするとはいい度胸だな。

 めっそうもございません。

 ふん、お前の興味あるものなどわしにとってはどうでもいいわい。ところで、高継が最近下働きの女に入れ込んでおる。

 は、はあ。

 女に男を世話してやれ。ちょうどよい男がいる。七尾家の下働きでな、どうも使えそうにもない男と聞く。不祥事でもなんでもでっち上げてふたりとも首にしろ。

 ……あの。

 お前はしたがっておればよい。大体、庭師など誰でもできる仕事を与えてやっているだけでも感謝しろ。木を形よく切るだけが能であろう? わしでもできる。花木なんぞ植えたところで商売繁盛でもなかろうて。頼んだぞ。

 ……はあ……。


 ふん、とうとう鳥どもが木に巣をつくったぞ。朝からぴーちくぱーちくうるさいわい。ところで十蔵、先日中津家の令嬢と、はっ、ただの幼子だがな。高継を見合いさせた。

 はあ。

 あの女もしばらく見ん。なかなかの手がらよ。その中津家の両親を交えてな、花見をしようと思うとる。裏山の桜の木が見栄えがするて。ふん、ぼんくらどもは花木を愛でて、優雅さを気取っとる。金の勘定もろくにできん、名だけたいそうな家だ。だがその名こそ、五条家の商売を発展させるのに重要なのだ。十蔵、今から山へ行き、具合を見てこい。

 

 だ、旦那様。その血はいったい。

 目ざといな、十蔵。なに、花見には間に合うように支度をする。……なんだ、その目は。

 い、いえ。ですが……、旦那様。あの……。

 なんだ。

 その血は……。

 なんだ、言ってみろ。どうせわかりはすまい。

 旦那様、なんということを。

 ん?

 い、いえ。なんでも。

 ふん、無駄な詮索だな。ところで高継が使い物にならなくなった。同時に桜の花が散った。これでは花見どころではなくなる。急きょ場所を変える。十蔵、このあたりで見事桜が咲いているところを知っているか?

 桜が散った、でございますか?

 ふふん、そうだ一斉に花が落ちたのだ。

 そこで初が死んだのですね。

 !

 花の精が、騒いでおります。


……

 …………


 ああ、ほんにほんに。

 樹齢百年は超えておるのかの?

 散れば風に乗って美しかろうに。


 耳を澄ませば、先日言われたことのように鮮明に声が思い出される。

 これはさららが過去に聞いた人間たちの声だ。誰もが桜の大木の下で足をとめ、称賛する。いや、この桜を見るために、毎年わざわざ人が集まるのだ。酒や弁当が持ち込まれ、多少の芸事を披露し、ほめそやし、浮かれ、共に踊り調子っぱずれな歌がこだます。

 さららは見ていた。彼らの中に混じることはなかったが、彼らの笑顔がさららを笑顔にさせた。

 彼らの歌を口ずさみ、酒に酔った男女を心配し、芸事に驚いた。一度や二度ではなかった。人は変われど、何年も何回も繰り返されたことだ。

 さららはこの大木と共に生きてきた。

 手繰り寄せたのは、記憶ではない。狂おしいほどの切ない感情だ。

 さららは幹に手を置き、そっと頭上を見上げた。あの日より、桜は咲かなくなった。一気に散ったのだ、涙の如く。けれども枝は外見こそ干からびてはいるが、瑞々しく生きていたその頃と同じに力強く天に向かって伸びている。

 花を咲かせればどんなに美しいだろう。散ればどんなに幻想的であろう。広範囲に枝葉を広げ、空を覆ってしまうほどに密集した薄紅は、強風にあおられ、跡形もなく風にさらわれ吹雪となって別の光景を生むはずだ。

 これは私だ。

 ようやく思い出したのは、自分が桜の精だという事実。

 それだけで充分なように思えた。

 高継を根拠なく恨んでいたことも、佐和喜市という男を憎んだことも、その事実を前にしてはあまりにももろい。

――なのにこの姿。

 さららの目の前には、気絶した高継が転がっていた。気づく気配はない。だれかがこの男を打ち捨てたというならば、その犯人はひとりしか思い浮かばない。姿を現さないのは、やはり鬼のさららが怖いからだろうか。

「高継」

 さららは腰をかがめ、そっとつぶやく。この男はどうだろう。

「私だよ、高継」

 ざらついた声だった。

「――私だ」

 名を出さなかったのは、何に対する抵抗か。さららはうつむいて、しかし高継の反応を逃すまいと神経をとがらせた。

 周囲の木々が騒ぐ。

 さららは高継の頬をゆっくりとなぞる――真似をした。実際は触れることはなかったが、彼の体温を感じた。

 彼は二度と自分に触れぬだろう。だから今のうちにと思った。

 かつて彼の想い人と同じ容姿が、もうないのだから。




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