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山頂は思った以上に遠かった。
予想以上に身体が動かない。店番や子育てで忙しく立ち回ってみたところで、山登りに必要な体力はないに等しい。
粘土質の土は、雨も降っていないのに水気を含み、重なった枯葉も手伝って夏江の足を滑らせる。いくら鍬の柄を杖がわりにしたとしても限界があった。
まだ三十代前半だというのに、息がすぐに上がる自分が情けなくなる。夫のためでなければ、苦行にも値する山登りをだれがするだろうか。
「私は」
出かかった言葉に覆いかぶさるようにして、苦くすっぱいものがこみ上げる。
日は地平線まで下っている。濃霧も手伝って、山は不気味な鳥の声が響く暗闇であった。
小さな葉がこすれあう音にも、いちいち反応を返していたが、やがてそれもできなくなるほど疲労の色合いは強くなる。
汗は吹きだし、背と脚の内側がじっとりと着物に張りついてくる。
夏江は脚を動かしながら、想いは過去へと馳せていた。
五にも満たないうちに親の勧めた見合いの相手は自分より二十も上の五条家の長男だった。もちろん、当時の夏江にとって見合いはいとこの兄にでも会うような感覚だ。喜市が初の死の直前、同時に高継は見合いをしていたと言った。睦言を囁くなど四歳のこどもとできるはずがない。中津家の令嬢とはまさしく自分ではないか。喜市の脚色だ、すぐに悟った夏江は彼の言葉を信じることはなかった。
彼は高継の昔からの飲み仲間だったはずなのに、細やかなところは曖昧に語る。高由――信じていいのかさえもわからない。高由の中にある先代の高徳はしかし喜市が初を殺し、すでに死人だという。では今まで夏江に話しかけていた男はだれだというのだ。高継もあれほど取り乱したではないか。考えれば考えるほどわからなくなる。
そもそも初の幽霊の存在さえ疑わしい。自身の遺体を掘り起こせなど。なのに足は休もうとしない。
荒い呼吸を繰り返しながら、夫の顔が脳裏に浮かぶ。
優しげな面立ちの男は、四歳の夏江にやさしく接してくれた。夏江は遊んでくれることがうれしくて、同じことを何度も高継に頼んだ。嫌な顔ひとつせず、遊びに付き合ってくれたのは両親や祖父母と高継だけではなかったか。
そうだ、こんなにやさしい人と暮らせるなら、両親と離れても怖くない。全部守ってもらえる。
実際に高継の嫁になったのは、それから十五年以上後のことだ。すでに行き遅れの年齢に達していたが、あこがれの男に嫁ぐことを頑として譲らなかった。その頃には結婚がどういうものかもわかっていた。所詮家と家の結びつき。自分を見ようとしない男にそれでも尽くさなければならない。手に入れたのに、心まで手に入れることができない。そういうものだと。
「ああ」
とうとう夏江の身体が限界を超えた。
節々が悲鳴をあげ、もうどうにもならないほど弱りきっている。夏江は土まみれになるのも構わずその場に座り込んだ。
膝を抱え、幼子のように顔をうずめる。
周囲は暗闇で、物陰がすべて得体のしれない化け物に見える。それが風で揺らめくと、まるで夏江をあざ笑っているかのようだ。
疲れきった夏江には、それが怖いなど思う余裕はない。暗闇が睡魔を呼び込み、とろとろとした眠気が襲ってくる。木々が風でざわめくは、耳障りな子守唄。
「堕ち方もわからず、たださまよっているだけにございます」
耳に届く少女の声。抑揚はなく、風のように過ぎ去っていく。けれども夏江は顔をあげ、声の主を探した。
生きていれば四十代半ばであろう初は、三十年前の姿を保っている。先ほど夏江が口にしてしまいそうな言葉を予想して現れたのであろうか。
「それは言い訳ですか」
普段の夏江なら、相手の真意をくみ取り障らずにいるだろうが、今は極限の疲労にて考えることが億劫になる。きつく言い返してしまったという意識もない。
耳にあたる風が冷たい。投げやりになりそうな気持ちを少し冷静にしてくれる。
「ご容赦くださいませ」
「私はただ主人と……静かに幸せに過ごしたいだけなのに」
「……はい。存じております。あなたが高継様を本当に慕われていることは、よく存じております」
「嘘つき」
「……」
襲ってくる眠気は恐ろしいほど強烈である。
「そうかも……そうですね。私は本当に嘘つきです。嘘を吐くことでしか……高継様の前に現れることはできないのです」
初は困ったように笑う。夏江は言葉を失う。
思わず膝を抱える腕に力が入った。死んでいてよかったなど、それだけは口が裂けても言えない、はずなのに。
「嫌だわ」
初を前にすると、醜い自分に気づく。死んだ人間にまで八つ当たりをするのか。そもそも初の素直さが、逆に卑屈に感じかるからいけないのだ。ああ、いやだ。全部他人のせいにして、自分は被害者を装っている。
瞼がゆっくりと落ちてくる。闇と瞼の裏の黒の区別がつかない。肌を撫でる夜風は生ぬるい。頬にむずがゆく落ちる滴はきっと涙だ。