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傷負い桜  作者: 鷹臣えり
第五章
17/24

2

 夫は庭を向いて横になり、すやすやと寝息を立てていた。

 日は暮れ始めている。日中の気温は高いとはいえ、夕刻は肌寒くなる。麻の入った着物一枚では寒かろう、夏江は薄い掛布団を取り出そうと高継の足元を横切ってふと立ち止まる。

 彼の足元に、ほんのりと色づく小さなかけらが落ちていたのだ。普段なら見過ごすぐらいの小ささであるが、畳の緑に映える紅は存在感を自ら強調している。かがんで拾い、目の前でかざしてみると、ふと玄関掃除をしていたときも、たった数枚どこから紛れたのか不思議な花びらが落ちていたことを思い出した。

 あの時は葉桜になりかける時期ではあるが、まだ咲き誇っている木もある時期だった。だが今は明らかに季節が違う。今にも散ったように鮮やかで瑞々しいそれは、夏江の手の中でまるで溶けるようになくなってしまった。

 驚きに目を見開く。すると夫の方で、なにかの気配を感じた。目をやると、白い着物を着た少女が高継の背に向かって正座をし、見下ろしていた。

「――」

 少女の姿は奥の襖が見えるほどに透けていた。この世のものでないものがあるとしたら、まさしくそれがそうであろう。

 その奇妙な光景に、夏江は恐怖からではなく、純粋に声をかけることができなかった。

 少女の目はとても穏やかで、いとしいものを愛でるようなものなのだ。

夏江は静かに息を殺して少女を見守っている。少女の膝に置いた手はそわそわと落ち着きがない。けれども決して手は膝から動かさなかった。なにか決意のようなものが垣間見えた気がして、夏江はますます声を上げることができなくなる。

 そうこうしているうちに、少女の方が夏江の気配に気づいて振り返った。

 瞬間、夏江の鼓動が早くなる。

 小さな顔に愛らしく大きな黒目。化粧はしていないにも関わらず、頬はほんのり色づいて、少女独特の色香が漂ってくる。なるほど、愛される顔だ。いや、奪いたくなるような。

 少女は夏江の反応を伺い、しかし興味がないとでもいうようにふいっと視線を逸らした。少女の視線は再び高継に注がれる。

「あなたが」

 思わず夏江は声をかけてしまった。

 少女はびくりと肩を震わせる。

「お初さんですか」

 先日の高由の件といい、五条家の山での出来事といい、なにかと不思議なことが起こっている。けれど不思議と目の前の少女に対しては不快感など微塵にもなく、むしろ彼女の周りにあるふんわりとした空気が夏江にも伝わって心が落ち着くのだ。

 少女は夏江を振り返らず、ためらいがちに首を縦に振った。

「そう」

 夏江は安堵の溜息を洩らし、胸元を抑えた。息が詰まるほどの緊張感に、それ以上の声をかけることをためらわれたのだ。

 ややあって初の小さな口が動く。

「鬼に……」

 弱弱しく可憐な声が吐息のように洩れる。

「え」

 初はこちらに向き直り、その場に手をついた。

「どうか桜様をお助けくださいませ」

「なんですって」

 わずかに感情的な声を上げる夏江に対して、初は堪えるようにうつむいたままだ。

「どうか、どうか。桜様は私を救っていただいた恩のある方でございます。私の力ではもう引き戻すこともできず」

「……」

「方法もわからず、ただただ見ているだけでございます」

 深く深く初は頭を下げる。

 高継が身じろぎをする。起きた様子はない。

「どうぞお救いくださいまし」

 先日喜市から聞いたような、気丈さはかけらも見当たらない。彼女はただただ弱弱しいと表現できるような少女だった。これでは先代の高徳に刃向う気力もあるまい。

 彼女を前にして、嫉妬などこみ上げてこない。故に夏江は膝をついて、そっと伺う。

「誰を救うのですか」

「桜様を」

「桜様?」

「はい。お願いいたします」

「それは、誰?」

「五条家の裏山にお住まいです。山頂に枯れた桜の大木がありますが、その桜の木の精でございます」

 およそ現実的な話ではない。

「……あの? それが主人とどう関係が」

 主人、との発言に初の肩がびくりと動いたのを見過ごさず、けれど追及せずに続ける。

「どうぞお助けくださいませ。私のせいで、鬼になりそうな桜様です」

 畳に頭をこすり付けて、初は顔を上げない。

「あなたの、せい?」

 困惑する夏江は、自然に手が伸びる。

「どうやってなのだ」

「あなた」

「たかつぐさま」

 突然割って入った低い声に、女ふたりは驚きの声を上げる。初はゆっくりとその名をもう一度口の中で復唱した。

 高継は起き上がる。寝ぼけた様子ではなく、どうやらしばらくふたりの様子を伺っていたらしい。

 高継は初と見つめあった。互いに表情を変えることはなかったが、どこか通じるものがあるかのように、視線はまっすぐである。

「……」

夏江は視線を伏せ、席を立とうとすると、しかし遮るように高継が手を握って引いた。

「あなた」

 驚きに目を見開く。

「ここにいてくれ」

 頼りなげではなく、しっかりとした意思表示だった。それだけで夏江は胸が切なく締め付けられる。すっと衣擦れの音をさせながら高継の隣に座る。以前よりずっと距離が近い。

「お初……なのだな」

「……はい」

 高継の夏江を握りしめる手に力が込められた。ややあって口をひらく。視線は伏せられている。

「――すまない」

 確認ではなく、素直に高継は頭を下げた。そこで初はようやく顔をあげ、白髪の生えた高継のつむじを見下ろす。

 初はなんのことを言われたかわからず、きょとんと目を丸くしていた。

「ずいぶん私は勝手だったようだ」

 気配を察して高継も顔を上げ苦笑する。過去はもうどうすることもできない。初の死も、初への無理やりな行為もすべてだ。けれども今、生身ではないにしても、穏やかではないにしても向かい合うことができている。本当はもっと話すことはあったはずだ。なのに口からはついぞ出てこなかった。思いつきもしない。おそらく己の中で最も言いたかったことがそれなのだろう。

「私は……、私は……」

 両手で口を押え、畳にうずくまる。口をつぐむことで嗚咽も、想いもすべて封印する。肩を震わせ縮こまり、冷静さを取り戻そうとした。その間、彼女の細い身体に桜の花びらが帯状になってまとわりつく。それはいったいどこから出現したのか不思議であるが、初を守ろうとするかのようにやさしく包み込んだのだ。

 ほのかに漂うのは桜の香。

 薄紅は高継にとって警鐘だったはずだ。香りもしかり。今は不快を感じさせない。はかなく、触れてはすぐに消えてしまう幻のような色。

 思わずか弱い肩を抱き寄せてしまいそうになる。手が伸びるのを、夏江が止めた。高継は驚いて妻を振り返る。妻の顔はすがりつく女の表情だった。

思わずため息が出る。

自分はいろいろなものを見落としていたようだ。

「本当にすまない。いくらでもなじってくれ」

 いろいろと、その詳細は語ることはできないが、初ならばわかるはずだ。

 高継は胡坐をかいたその中で両手を弄ぶ。

「いいえ、いいえ。あなたが私に謝ることなど、なにひとつ」

 顔を上げた初は、澄んだ目をしていた。

 言葉をくぎり、真正面に高継を捉える。

 ただの下働きとしての言葉はない。あるのは――。

「お初……」

「なにひとつないのでございます」

 なぐさめのことばでも、偽りでもない。目を逸らさず、芯のある声。

 高継は息を飲みこむ。

 目の前にいる少女は、もはや女である。あどけなさや無邪気さがすべてを許す幼子ではなく、自らの意思でそこに存在し、己の言動に責任をもつ強き女の姿だった。

 では高継は意見を唱えることはできない。

「お急ぎくださいませ。お願いしたいのはたくさんございます。

 ひとつ、桜様によって生気を吸い取られた男女五組、この方々の冥福を祈ってくださりますようお願いいたします。彼らのご両親を探し出し、家に帰してあげていただきたいのです」

「努力しよう」

「ひとつ、山頂に一株さびしげに植わる柊を、庭木にしてやって欲しいのです。」

「柊?」

 なぜここに樹木の名が出てくるのだ。

「はい。華やかな色を纏う桜にあこがれて、決してひとつの季節に相まみえることのない木でありました。柊はひたすら桜を愛したのです。自身の棘は何者にも触れさせず、故に人避けのため植えられることはあっても愛でられるために植えられることはないので。桜は憧れであり、届かぬ自身の夢の姿でした。だから何としてもその美しさを守らなければならなかったのでございます。たった一株の柊を、庭木に迎えて頂きたいのです。すれば彼も嫉妬などせず、他の木に自身の夢を託すこともありませんでしょう?」

 高継たちは困惑の表情を浮かべる。

 初は一度深く呼吸をし、苦笑した。

「そして最後に。これは私のためではなく、桜様のために。私の遺体を……」

「お前の血じゃあっ」

 突如一陣の風が部屋に吹き込む。同時にしゃがれた怒号が、雷のように響いた。

「なにっ」

「柊です」

 小さな竜巻が部屋の四隅にぶつかって、煙のように消えた。過ぎた後は散々なもので、部屋の土壁はほとんどを失い、天上も砕け梁が見えている。

「柊? いいや、花の話ではない」

「柊なのです」

 天井が崩れそうなのをみて、高継は夏江を引き寄せ懐に抱き込む。初はしかし、何も起こっていないかのごとく、部屋の中央に坐していた。

「っ」

 痛みを覚えて袖をまくってみれば、高継にも夏江にもそこかしこに切り傷ができていた。「お前の血をよこせぇっ」

 と、高継の喉元になにか大きな木のように固いものがぶつかり、そのまま身体をさらった。

「ぐっ」

 喉元と背にかかる衝撃に、胃の中身を強制的に排出させられる。高継は喉に圧力をかけるなにかを掴もうとして必死になったが、地につかない脚のせいで思うように力が入らない。脚を必死に動かせ反動をつけて逃れようとしたが無理だった。首は今もなお見えない鉄のような固いもので、壁に固定されている。呼吸をするのも一苦労だった。

 ひゅうと喉奥が鳴いた。

「あなたっ」

 夏江が放心状態から立ち上がり、宙ぶらりの夫を下そうとしがみついた。しかしさらに高継の首が重みによってさらに締め付けるだけで、なんの助けにもなっていない。

 夏江は泣きそうに顔を歪める。

「相も変わらずよい匂いをさせておるなあ、夏江さん」

「その声は」

 久しぶりに聞く佐和喜市の声だった。しかしひょうひょうとした男は、今は切羽詰まった声で夏江を脅す。

「き、いち」

 苦しく歪んだ声で高継は喜市の姿を探すが、気配はおろか姿も見えない。

「柊、桜様は」

「ほう、わしがわかるんかい。元凶はこの男じゃ。やけん、桜様を元に戻すためにはこの男の血が必要なんじゃ」

「それは違います」

「お初っちゃん、桜が枯れかかったのはお前さんのせいでもあるんじゃで」

「……それは」

「あんたの血はもろうた。お前さんかて、高継と共に眠りたかろう」

 しかし初はその場でじっと耳を傾け、どこからか聞こえる喜市の声にこたえている。

 初の表情は変わらない。じっと何者もいない前を見つめている。

「桜様をそれ以上、苦しめないでください」

「お前になにができる。わしなら、わしなら桜を元に戻せるんじゃで」

 強く吐き捨てたかと思うと、再び一陣の風が一同の目の前で吹く。それはぐるんと部屋を駆け巡り、高継の身体をやすやすとさらって外へと流れた。

「あなたっ」

 夏江が窓枠に寄りかかって声を上げる。一瞬の間に高継の身体は空へ舞いあがり、小さくなっていた。彼女の声は届かない。

「あぶないっ」

 追いかけようと身体が前に動いたとき、はじめて初が声を荒げ夏江の身体を背後から抱きしめた。

 きしみから一気に崩れ砕ける。背後では瓦が割れる鈍い音と、柱が折れる低い音がないまぜになり、重量感を伴って耳に響いた。地面を這う振動は、そのまま足元を伝う。

空が揺らいだのではない、夏江がふらついたのだ。

振り返ってみると、寝室にしていた和室は全壊している。あたりには埃と木くずが舞い上がり、喉と鼻を刺激する。物音を聞いて駆け付けた家人が、その惨状を見て立ち止まる。

幸い、渡り廊下を隔てた離れだったため、母屋に大した被害はない。

 どこかで高由が大声で泣きわめいている。今すぐに行って抱きしめてやらねば。思うのに、身体は意思に反して硬直している。

「おかみさん」

 次々周囲に集まってくる家人たちに支えられ、夏江はようやく立っていることができた。

 距離を取って立つ初に、家人の誰も気が付かない。中には初の身体の中を通る者もいる。多少の違和感はあっただろうが、見えないものを不思議に思うことはない。

 だがなぜ先ほど、実体を伴ったのか。いや、触れた感触は幻だったのかもしれない。傾いた自身の身体は、しかししっかりと地面を踏みつけている。

「お初さん……」

 家人には耳を傾けず、夏江は震える声で首をめぐらす。当然彼らは聞きなれない名前に首を傾げ、夏江の視線の先を追うが結局なにも見えない。それよりも主人の姿が見えない。彼らは呼んでも返事がない夏江を置き、自主的にがれきの撤去を始める。

 怒声を含む掛け声が飛び交う。がれきは次々とその場から運び出されていた。だが肉体労働を専門にしていたわけではない。要領の悪いところが目立ち、作業が終わるのは明日以降になりそうだ。

 正気を失っている夏江の元へ、初はすり足で来た。陰鬱な表情で、確かにこれは死人だと言えるかもしれない。改めて夏江は思い出し、この異常な事態の収束に努めるべく意識を取り戻した。

 初は背後で働く五条家の家人を横目でちらりと見た。懐かしい顔でも見つけたのか、老齢の庭師を目で追い、視線を地面に移す。やがて少女は小さく身体を震わせた。

「夏江様」

 すがるように見上げてくる初を、しかし夏はきつく睨みつける。

「聞きたいことがたくさんあります。言いたいこともたくさん。でも主人を助けることの方が大事です」

声が震えていた。怒りはもちろん、けれども高継を失う怖さと不安の方が大きい。彼は頼りないかもしれない。しかしやっとなのだ。夫婦として踏み出したのは。

「お願いがございます。私の朽ちた死体を掘り起こしてくださいませ」

 夏江の気丈さに負けぬよう初も背を伸ばす。ふたりの女の視線がぶつかり合う。遠巻きに見ている家人たちは、さぞ夏江の独り言を気味悪く感じていることだろう。

「遺体……」

「肉も腐り堕ち、骨になっております。私の面影などなにひとつ見いだせぬ骸でございます」

「引き上げてあなたを供養して、何になるというのです」

「お急ぎくださいませ。高継様は桜様の脅しにやすやすと首を差し出したお方です。あの方の血が流れれば、桜様は本当に鬼になってしまいます。私の遺体を掘り起し、桜様が受け入れてくれたあの時の……――私も私を取り戻さねばならないのです」

 それはいったいどういう意味であろう、声をかける前に横風に流れる桜吹雪が初の姿を覆い隠す。

「おい、桜だぞ」

 家の片づけをしていた家人がざわめく。季節外れの薄紅は、気味の悪いものに映っただろうか。

 夏江はしかし、その薄紅の向こうで初が深く頭を下げた気がした。

 少女の意図することがわからない。それで高継が救えるのかどうかもだ。

 夏江は踵を返す。家のことは家人に任せればよい。大まかな指示をだし、己は壊されていない部屋で山登りの身支度を整えた。

たすき掛けは簡単にできても、鍬の持ち方ひとつ満足にできない。柄の方を持ちすぎて、鍬の部分の重みに手首が痛む。土を掘り起こすのに必要なものはほかにないだろうか。夏江は山歩きにふさわしい靴選びが重要など念頭になかった。まさに中途半端な格好である。

それでも夏江は気持ちを奮い立たせた。それが高継を救うことになるならば


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