3
己の手をつくづく見てほっと息を吐き出したのは、妖艶な容姿をした女だった。
彼女は白地の着物を着て、長く艶やかな髪を背に垂らしていた。顔は面長で、目は細く鋭い。おしろいを肌にのせなくとも、透き通るように滑らかな頬は、ほんのり桜色に染まる。眉を刷いて、紅は鮮やかに色濃く、襟の合わせ目を控えめに持ち、しなやかに立つ。「桜」
さららは視線を落とし、ぽつりとつぶやいた。少し離れたところには、佐和喜市が小さな石に腰かけ、さららの姿に見惚れていた。
枯れた大木は、美しい自分が寄りかかるものではない、傲慢な考えがふとよぎる。
「ところでまだ思い出せんのか?」
若い男女の血を吸えば、元の状態に戻ると喜市は言った。その通り、流した血の分だけ自分の姿は美しく変貌した。けれどもどうしても記憶を取り戻せずにいる。故に、さららは誰を愛して、誰を憎み、誰に裏切られたかがいまだにわからずにいる。この気持ちの悪さが、さららを無口にさせた。
喜市はすべてを語ってやることもできたが、それもつまらないと思い、それよりも血を集めることの方が重要であると思った。
「頭が痛いな……」
さららは眉間にしわを寄せる。身体が本来の姿を取り戻す一方で、額より少し上のあたりに軽い頭痛を感じるようになった。
それは日増しに強くなり、時々発作のようなものが起きてその場に座り込むこともある。触ってみると、さながらたんこぶのようにわずかに盛り上がっていることが分かった。それも左右に一つずつ。
喜市に相談する気は毛頭なかった。たとえどんなに世話を焼いてくれようとも、生理的に彼のすべてを受け入れられなかった。
拒絶は相手にも伝わる。喜市は無理に距離を詰めようともしなかったし、それが当たり前のようにふるまった。さららを守り抜くためなら強気で強引であるのに、傷つくのを恐れて近寄ろうとしない。若者のような青臭い態度に、さららは鼻で笑う。
お前を元の姿に戻してやるけん、ことあるごとに喜市は真剣に言った。人間の血を吸えば――では己は人間ではないのだ――本来の姿を取り戻せる。しかしながら、記憶は完全だとは言い難い。いや、記憶の欠如ではなく、違和感だ。高継が己を初と勘違いしたときのような、息苦しさと不整合による苛立ち。
ここまで来て、肉体面での満足と精神面での不愉快さの隔たりがさらに広がった感がある。だが後戻りはできない。
「記憶なんかなくてもええ。わしは美しいお前の姿を見れればそれでええけん」
「美しい? 美しければそれでよいのか」
わずかなひずみ。さららの片眉が上がる。
「ええ。おまえの美しさを取り戻すためじゃ」
「狂信的な台詞だな」
「なんぼでも言え。わしはお前の美しい姿がすべてじゃけん」
それは――さららの欲しいものとかけ離れていた。
「お前、人を憎いと思ったことがあるか」
さららは声を押し殺し、喜市に向き直った。
喜市はへらっと笑う。
「ないかもしれんし、あるかもしれん。お前が昔、美しすぎるときは憎いと思うとったかもしれん」
さららは取り合わず、抑揚なくつぶやく。
「理由なき憎悪のありかを探している。今持っている、感じている記憶や感情は、私のものなのか。私は何者だ? 己の正体が知れんことは、どうしようもなく不安なのだ」
喜市では、この不安を埋めてくれるはずがない。
「もしや、取り返しのつかないことをしたのではあるまいな」
多くの血が流れた。皆将来ある若者たちだ。
「後悔なんぞ似合わん。お前は高嶺の花がええ。皆が近寄りがたいほど美しく、孤高の存在で。わしらは崇める側だ。いわばお前は女神っちゅうとこやな」
言ってから喜市はきししっと笑う。歯の隙間から風が漏れ出るような笑い声だ。
さららは冷たく無表情にただ見下ろしていた。
こぶしを握る。この奥底から渦巻いている感情は、まさしく憎悪だ。これだけは原因がわかる。
「わかった。今、私にお前は必要ない」
どんな表情をするのだ、喜市を観察したが、しかし予想は見事に裏切られた。絶えず笑みをこぼし、彼は動揺したそぶりも反応も返さない。
「去れっ」
さららは片手で空気を薙ぎ払った。すると銀の風が鋭く喜市を吹き飛ばす。
「ぐっわあっ」
「なっ」
一瞬にして喜市の身体は小さな小石ほどの大きさになった。さららは軽く手を振り払っただけだが、信じられないほどの力が込められている。
目を疑い、己の手をじっと見た。
爪が伸びて先がとがっている。色はやや薄紫。
これが元の姿だというのか。唇がわななけば、歯で唇が切れてしまった。口に手をやると犬歯が伸びている。さららは思わず頭に手をやった。つい先ほどまで、盛り上がっただけのそこは、固くざらざらした棒のようなものがあった。
急いで湖の水鏡に己の姿を映す。
絶句した。
「こんな姿が」
身体が震えはじめる。
「元の姿だと……」
全身の力が抜け、さららは四つん這いになって呆然とする。そこに映し出された姿は、鬼そのものであった。
口は裂け、目は吊り上って飛び出しぎょろぎょろと動く。全体的に青白く、ふっくらとした手触りだった頬は、かさかさに乾いてこけていた。少し動くたびに間接がきしむ。また全身に不快なもやが巡回し、気分が悪い。
喜市を吹き飛ばすその寸前までは、違和感などさほどなかった。では、力を使ったことにより、変貌したことにはなりはしないだろうか。
喜市がよろよろと木に頼りながらこちらに歩いてくるが、途中でさららを見て立ち止まる。彼は大きく目を見開き、浅い呼吸を何度も繰り返した。
「これが私の姿なのか」
さららは萎えそうになる気力を奮い立たせ、
枯葉をかき混ぜるように大股で喜市に近寄る。
「なっ」
だが、予想に反して喜市は後ずさった。彼の口の中で小さな悲鳴がした。顔は青ざめ、全身をがたがたと震わる。脚は使い物にならなくなっている。
望まれる姿ではないと、一瞬で理解できる。
「貴様」
押し殺した声は、木々を揺らし風をおこし、あたり一面に響く。喜市はすくみ上った。歯の根も合わないほど歯を鳴らす。
「お、お、鬼っ」
最後まで言わせずに、さららはもう一度袖を払う。先ほどより大きな一陣の風が巻き上がり、喜市を宙に浮かせ、地面に叩き付けた。
潰れた蛙のような声がしたかと思うと、喜市はたちまち煙の如く消えてしまった。
「許しはせぬ」
さららは、足を覆うほど伸びた草木をかき分け大股で喜市の消えた地点まで歩いた。しかし、彼が落ちた場所は、土がめくれ折れた枝が重なっているだけで、人影はおろか気配すらしなかった。
さららは怒りで再び身体がわななく。
「許さぬ、許さぬっ。絶対だっ、見つけて首を刎ねてやるっ」
女の甲高いかに思われた声は、しゃがれていて低かった。さららは耳に届く己の声に、はっとする。こだまする声にさらに顔が歪んだ。
喜市は逃げた。
冷たい風が、高揚したさららの身体を震え上がらせる。
視界は濃い霧で閉ざされている。
「……」
さららは怒りとは別の感情があることを最近知っていた。いや、もともとあった感情だ。だがそれは自分の首を刎ねた者に対しての怒りに隠れて姿を見せなかった。
「また私は……」
喜市に対しては怒りの部分が大きい。けれどもさららの世界は、誰ひとり近づく者はおらず、声をかける者もいない。そもそもさららのことなど見えてはいないのだ。拒絶だけがそこにあるという世界。
初は干からびて皮がめくれ上がった大木に爪を立てた。ひっかき、生した苔を剥ぎ取り突っ伏す。
涙さえ出ない。
もう必要以上に構いたがるしわだらけの男はいない。