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五条家の裏山で木乃伊が発見されたという情報は、すぐさま高継の耳に入った。
夏江に言われて、初の遺体を供養しに出かける準備をしている最中の情報である。
高継は帯を結ぶ手を休め、夏江と顔を見合わせた。情報の元は佐和喜市だという。あの飲んだくれは、咲きもしない桜の大木を愛でるために、裏山へちょくちょく登っているらしい。
すぐに行こう、高継は家人に返事をしてから夏江の表情を伺う。彼女も不安を隠せないようで、頼りなげに高継の袖を掴む。
初の遺体だろうか、高継はよぎった考えに身体が震えた。
「はっ」
息が次第に荒くなり、心の臓が飛び出しそうな勢いで早鐘を打つ。あまりの苦しさと、身体が示す異常に高継は胸を押さえてその場に座り込んでしまった。
「あなたっ」
夏江はすぐさま高継の背をさすり、次いで台所へ走って行った。人を使うよりも己が動いた方が早いと思ったのだろうか。すぐさま奥から水が流れる音がする。
「夏江っ、なつえっ」
今彼が頼るべきは夏江以外いない。
呼吸が重い。
涙と汗と鼻水と、あらゆる体液が高継の顔をぐしゃぐしゃに濡らし始めた。
「あなた、ここにいますよ」
夏江がその場を離れた短い間に、高継は無残な男に成り果てていた。それでも夏江は湯呑を高継の口に押し当てる。彼女は必至で高継の名を呼んだ。
「ああ、高由」
ふと気配に気づいた夏江がとがった声を上げる。高継の背を、まっすぐ見下ろす幼子の姿があった。父が苦しんでいる、母が焦っている、そんな状況の中、高由は奇妙なほど静かにたたずんでいた。夫婦の光景を、ただ風景を見るかのように。
「たかよし?」
もう一度夏江は子の名を呼ぼうとして、不意に口を閉ざした。あまりの異質な存在感に、夏江は背に冷たいものを感じたのだ。
高由は目を細めて、口を歪ませる。愛されて育った幼子には到底出来ぬ表情だった。
「これから死人が増えようぞ」
あまりにも低くおぞましい声は確かに高由から発せられ、高継も夏江もわが耳を疑った。
「お前はまだ、惑いの中か?」
言い捨て、高由はさっと背を向けた。
「たか」
名を呼ぶより早く、高由の姿は消えている。
取り残されたふたりはまだ呆然と三歳の息子の去ったところを見つめていた。
「あれは、高由なのか?」
「え、ええ」
「あの声……」
「――ああ、そうですね」
生前の高徳に似ていた、声には出さずとも
ふたりは目で頷きあった。
これは安堵なのだろうか。遺体を前にして不謹慎ではあるが、初ではないことに笑みがこぼれたのは事実だ。
「この遺体……」
腕の長さの距離ほどしか視界が開けない世界で、そのふたつの遺体は抱き合い丸くなり倒れていた。
異臭がするのか、高継には全くわからなかったが夏江は始終鼻を袖で覆っている。
陽は長くあたたかくなって来たが、まだ日が沈む時刻は肌寒い風が吹く。
山の中では一層空気が冷やされていて、高継は普段より多く下着を重ねて着ていた。
身体は温かいはずなのだが、それをみると急に怖気が走る。
遺体はまさしく木乃伊だった。爪でこすればたやすく剥がれ落ちていきそうなほど。色は明るい茶色。骨と皮だけになったふたつの遺体は、なぜか互いを抱きしめるような体勢でそこに転がっている。しかし木乃伊化するまでに相当の年月が必要にもかかわらず、衣服はそれほど傷んではおらず。ただ錆色に変色して乾いた血糊が全体に染みわたっていた。
落ちくぼんだ目と、絶叫したかのように口を大きく開けた木乃伊の痛ましい状態は、高継も家人たちも一同に目をそむける。
「なぜこんなところに」
高継は五条家の山に登った不審な人物を探そうとしたが、なにせ人気のない山である。以前ならまだしも、現在の状況で目撃者を探すのは困難である。
高継はふたつの遺体の傍に座り込み、両手を合わせて目を閉じた。
警察を呼んで遺体の始末をつけるようにと、家人に命令してほっと息を吐き出す。夏江は高継の袖に掴まり、幼子のように顔をうずめた。蒼白で、今にも倒れてしまいそうな妻を高継はそっと懐に抱き寄せる。所詮、己に関係のない遺体に対してだ。他人を気遣う余裕はある。
五条家の山には神さんはおらん。生気を吸い取る鬼が住みついとるでな、そんな噂があの日より巷で流れた。高継たちには噂の半分も耳に届かなかったが、彼らもそう思うようになるほど遺体は次々に発見された。発見するのは早朝で、しかも発見者は喜市である。
遺体は常に一対の抱き合った男女。なにかを搾り取られたかのような木乃伊は、どれも阿鼻驚嘆の名残を残し苦痛に顔が歪んでいる。
山の入口に見張りを置いたが、不審な人物――というよりふらふらと仲の良さげな男女が虚ろな目をして入っていき、翌日変わり果てた姿で発見されるという。山に入った男女が木乃伊だと断定できたのは、彼らが着ていた衣服が遺体と同じであるという見張りの証言からだ。たった数刻の間に木乃伊などできるはずがない、高継は家人の意見を退けようとして喜市が不敵な笑みを浮かべるのを見た。
他の人間が山に入った形跡はない。ではやはり山になにかがいるのだ。
喜市はさも楽しげに遺体の生前を想像して語る。彼はさながらきのこ狩りを楽しむように毎朝山に登るのだ。だれもが喜市を疑ったがそれも一時のことだ。木乃伊を作る工程、運ぶ手順を考えれば喜市ではありえないことにたどり着く。
警察も五条家に疑惑の目を向け始めた。だが全員に現場にいなかった証明があり、また同じような疑問が多数あることから不可思議なことして片付けられようとしている。
あの山は不気味だ。
別世界のように、山全体を霧が立ち込める。視界は不良で、そもそも山の入口を目の前にして気が滅入る。
木乃伊騒ぎによって、初の遺体を探すことは適わなかった。高継は内心ホッとしてる。夏江もこれ以上無理強いはすまい。現実に見たくはなかった。では夢の世界ならば? 考えて高継はごくりと唾を飲み込む。冷たい言葉を吐こうとも傷一つない初がいる。
けれども今手を握ることができるのは、夏江だけなのだ。
「桜が血を欲しておる」
家人は夕餉の支度にとりかかり、夏江も高継の着替えを手伝い、台所に戻るときだった。
背後で抑揚のない声がして振り返ると、高由が目を細めて仁王立ちでこちらを見ていた。
光を背に立つ高由の表情は陰になり見えない。だが声は幼子の甲高く無邪気な声ではなかった。
高継と夏江は自分たちの子どもだというのに、一歩も近づくことができなかった。それは幼子から発せられる異様な雰囲気のせいかもしれない。
「あの桜が元に戻るには、あと何人の犠牲がさてでるやら」
高継は意を決して幼子と向かい合った。それは誰が見ても正気の振る舞いではない。
「父上」
だが幼子はくっと口の端を吊り上げ肯定したのだ。
ああ、そうなのだ。高継は妙に納得できてしまった。どうして自分の子どもであるにもかかわらず、自ら存在を遠ざけたのか。
似ているのではない。高由は父・高徳の生まれ変わりなのだ。そんな非科学的なことを、自分も他人も信じないだろう。だが高継にはわかるのだ。
庭は初夏の匂いが漂ってくる。新緑鮮やかに、日中の気温も蒸し暑くなってきた。夕方はまだ肌寒さを残すが、周囲の色が季節の巡りを実感させる。
ゆっくりと、しかし確実に高継は歩を進めた。
まだ腰のあたりにも届かない幼子を見下ろす。同じ目線では本能的に負けるとでも思ったのか。そうだ、父には敵わない。
風に揺れる木々の不協和音が耳に届く。
「あれは桜のせいなのですか」
「まさしく」
高継は黙った。質問をして、当然の如く返答がある。物言いは明らかに三歳児のものではない。
唇をかみしめた。
「あなた」
それでも信じられないと、夏江は声を上げる。
「桜は弱っておった。故に初の血が吸われた」
「あなたはっ」
握ったこぶしが震える。奥歯がぎりぎりと鳴った。
「それは言い訳ですかっ。桜の木を救うために? 正気の沙汰じゃない」
「こんな状況を受け入れるお前もな。くっ、だがひとつだけ事実が違う。わしは初を殺してはおらん」
「っ」
頬が一気に紅潮する。全身の毛が逆立った。
そんな彼を見て、高徳の魂が宿った高由は鼻で笑う。
「血のついた長刀を振り上げていたのは父上だっ」
「初を殺したのは、はて、すでにこの世にはおらん下男だ。名を――」
言われてがくんと力が抜ける。
言い残して立ち去る高由の後ろ姿を、高継は膝をつき、虚ろなまなざしで見送った。
夏江の高い声が耳を通り過ぎる。黙っていてくれ、今、なにも考えたくないのだ。なのに、夏江は高継の身体を揺さぶり続ける。
「はははっ」
片手で顔を覆い、高継はこみ上げる哄笑を止めることができない。そこに感情はない。意味もないのだ。
「落ち着いてくださいませ」
「馬鹿馬鹿しいっ。高由が父だと? すべてを鵜呑みにしろというのか?」
手に触れたものを振りまわして投げつける。湯呑、急須、筆入れや硯。響く耳障りな音が家中に響いた。投げるものがなくなると壁を殴りつけ、とうとう血で壁を塗りたくる。
見たこともない鬼の形相に、夏江は身体を震わせ数歩退く。声をかけることも、その場を立ち去ることもできない。つまり動くことができないのだ。呼吸ひとつでさえ、慎重になる。足元には高継ががむしゃらに投げた数々のものが散乱していた。
だがもっともだ。
息子の高由が父親で、初を殺したのが今は亡きどこかの下男。
「死んだと?」
どこからどこまでが嘘の世界なのだ。自分はどちらにいる?
壁に両のこぶしを打ちうけ、顔をうずめる。
「でたらめだっ!」
「あなた……」
「佐和喜市など!」
初を殺した下男、その名を佐和喜市という。