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男は五条家の山について無知な女の手を引いて歩いていた。女の手には竹で編んだ大きなかごが提げられ、中には朝から詰めたであろう弁当が入っている。
濃い霧の中では似つかわしくない行為に、さららは目を細めた。彼らにとって世界にふたりとなれる雰囲気なのだろうか。
若いふたりはさららの視線には一向に気づく様子もない。見えないのだ、彼らには。故にさららは近くに人を感じながら、いつも孤独を感じていた。
かごを持った女は、始終楽しそうに笑顔を振りまき、男の腕に手を回す。しかし男はと言うと、苦笑いをかみ殺し、必死に女の会話に頷いていた。
彼らは手探りで、時に木々にぶつかり躓きながら進んでいった。少し考えれば、ふたりの様子は傍から見れば首を傾げられてもおかしくはない
「にくらしや」
さららの口は本人の意思とは関係なしに開かれる。だがどうしてか、男を憎む具体的な理由が思いつかない。もはやそれは口癖の域でもある。誰が憎いのか、どうして憎いのか。
臓腑に落ちる、吐き気を伴う重苦しい闇。もはやさららには積載していくだけの感情を吐き出すことができず、それは汚泥となって固まっていく。やがて容量を超え今にも爆発してしまいそうだ。
もう一度男女を見た。
女は愛くるしい表情で、男にしきりに話しかけている。その女の感情を初は言葉で表すことができなかったが、こちらまで同じように頬が緩むのはなぜか。
だが同時に、女は男の機嫌をとるため必死であるようにも見えた。返答を待つ女の顔に一瞬の陰り。男はやがて目を閉じ、女を疎んじた。
さららは胸をわしづかみにされたように息苦しさを覚える。男の表情をまともに見ることができない。男に手を伸ばす。女の方を向いて、ちゃんと返答をさせるために。
しかし、その細き白い手は男の頭を素通りした。さららは己の手を見てこぶしを作る。
同じ場所に居ながらにして、世界は全くの別物だった。
胸を抑えた。心臓が大きく動き、浅い呼吸がまともな思考力を奪う。
彼らは枯れた桜の大木を背にして向かい合った。さららの目の前でそれは行われる。
男が女の腕を払いのけ見据えた。女は目を見開き、男の予測できなかった行動に立ち尽くす。
さららは大きく息を吸い込んだ。先ほどより心臓の音がうるさい。自分は首を刎ねられ死んだはずではなかったか? ではなぜ首はつながっている。否、今はそんなことではなく。
男の行動ひとつひとつがさららの身体を縛り付ける。
「許さぬ、絶対だ」
出てきた言葉は絶望的だ。男女になんの恨みもない。なのに。
「ううっ」
さららが身を震わせ唸ると、地面がざわつき始めた。枯葉や草たちが地面で足踏みをし、土埃が舞い上がる。
「別れてくれ」
男はさららの怒りなど微塵にも気づいた様子はなく、目の前の女に告げる。
女はうつむいた。声を殺し、しかし涙を見せなかった。
ああ、霧はこのふたりにふさわしいものだった。
「知っていました」
女は素直に顔を上げ、罪悪感を植え付けるに充分な柔らかい笑みを浮かべた。女の目は充血し、すでに覚悟ができているかのごとく、男に詰め寄ることはしない。
さららはその光景がどこかで見た気がした。
そして同時にこの男が女の首を斬るであろうと予想した。そうだ、男は首を斬るものなのだ。
不意に桜の花びらが数枚、ものすごい勢いで男の頬をかすめる。
「っ」
男は顔をしかめ、すぐさま痛みの走った頬に手をやる。
「かまいたちか?」
男は間の抜けた声で周囲を見渡す。
「許さぬ」
いつの間にか、さららは身体のまわりを無数の花びらが高速で回り始める。花びら一愛一枚が刃となり、風を切って舞っていた。そのせいか、さららの耳元はひゅんひゅんととがった音がする。
「桜様」
不意に物悲しげな声が背後からした。けれどもさららがどれくらい聞き取り、認識したか。
「桜様」
もう一度その声は聞こえた。
「違うのです、あなたの憎しみは」
「いいや、違わんよ。桜は血を欲しがっとるけん」
もうひとつの声が突如割り込んできた。その正体がわからず、しかし己を肯定する声に耳をそばだてた。気配はすぐ後ろでした。さららが見えるということは、同じ存在なのだろう。
声の主はさららの手に沿うようにさららの脇下から腕を差し出した。
「あんたの美しさを奪った人間を、わしは許さん」
さららは背に男の息遣いと温かさを感じてぞっとした。しゃがれた声からして、歳は若くない。声は押し殺し、さららにではないが殺気を含み若い男女に向けられている。
「血を流し、贖ってもらわにゃならん」
さもさららを醜く貶めたのは、目の前の男女だとでも言いたげだ。違う、と否定しようにも背にぴたりとついた気配は、あまりにも獰猛でさららは息を飲みこむしかできなかった。
さららはそろそろと己の手を握る男の手を見た。しわがれていて、肌は浅黒い。着物の生地は厚く、それほど貧しい暮らしをしている男ではないだろう。なにより背後からかすかによい香りがする。さららはそれを以前どこかで鼻に吸い込んだはずだ。
「やめ……」
「いや、血を流さなければあんたが闇に飲み込まれるけんな」
「――」
はっとしてさららは振り返った。
歳は五十代後半の禿げ上がった男だ。両の目は二重で大きく、丸顔だ。見知らぬ男だった。
「おやめください、桜様っ」
さららの思考を遮るように、甲高い女の声が聞こえる。ああ、あれこそ初の声だとさららは気づく。
「――わからんのだ。どうして私はここにいるのか」
それ故に、男の誘惑に抗いきれない。
「あの首を刎ねる瞬間、高継の顔がちらつく。あの男が私の首を刎ねたのではないのか? もう嫌だ、考えると吐いてしまう。ならば不快だと思ったすべてに報復を」
「桜様」
「お初、お前はなぜ私を桜と呼ぶ?」
あふれるのは生まれて初めての涙だった。ささらの視界はうるみ、輪郭が溶ける。
けれどふっと一瞬さららが見たものは、己と同じ容姿の女――初が、同じように泣き出しそうな表情で宙を舞い、霧の中から助け出そうと手を差し伸べていた。
さららは息を詰まらせた。反射的にその手に掴まろうと――。
「あんたを救うのは、わしじゃ」
引き戻される、しゃがれた声に。
同時に男はさららの手を掴み、前に突き出した。
「ぐっ」
前方に身体を持って行かれるかのような強い力が背に働いた。
指先からひらひらと桜の花弁が流れ舞う。さながら桜の帯であり、太陽の光を受けて艶やかな色を帯びていた。
その帯は、するすると若い男女に巻きつき、瞬間締め付ける。
「なんっ」
男は自分たちを引き寄せ縛り付ける正体に、目を見開き、声を上げた。
「見えるのか」
さららはひとりごちる。
「なに?」
女は恐怖におののき、男にしがみつく。男も無意識に女を抱き寄せた。
帯は細く小刀のような鋭利さで、締め上げふたりの肉を容赦なく切り刻む。
「いやあああっ、いたいいたいいたいっ」
女はわめきちらし、男は歯を食いしばる。
血はらせんに流れていく。
その光景に、さららはわずかに唇をかみしめた。
絶叫はあたりにこだました。見守るさららの手はさらに冷たく、目は虚ろだ。
身体を容赦なく縛り付け、もはや身体をちぎらんばかりの力を与える桜の帯に、女は息も絶え絶えになっていく。男の方も力む力に思うほどの強さがなく、次第に抗うことをやめ、無力感を味わっていた。
彼らにとって、これ以上の恐怖はないだろう。
突然理由もなく身体を締め付けられ、もはや呼吸も困難だ。なにが起こっているのかわかるまい。もう一つの世界で彼らを見ていたさららがふたりを締め付けているなど、だれが思いつくだろうか。
ふたりの足元には粘つく血だまりができていた。帯の中の人形は、初めからそうであったようにピクリとも動くことはなくなった。手足に力はなく、今はただ帯の力によってようやく立っているように見える。
惨劇に見切りをつけ、帯はするするとさららの手元に戻り、袖や見頃を通り過ぎて消えた。
さららは眼前での出来事に身体を震わせている。
「なにを」
「あんたを救うためやけん」
問えば、即答。
「私の?」
「血が欲しかった、そうやろ?」
「違う」
「恨みの籠った血じゃのうて」
「違う」
「幸せな男女の血が」
「違う違うっ」
「欲しげな目をしとったがな」
「違う――!」
大地はうまそうに血を飲み込み始める。そこはまさしく枯れた大木の、ちょうど根が広がっている場所である。搾りかすになった男女の遺体は骨と皮だけになり、枯れ木のようになっていた。
「まだ足りんか? もうすぐ新たな血が届くけん。そうじゃ、三十年前、幼子同然の女の血と混ざりあうための男の血じゃ。欲しかろう?」
背にぴったりと寄り添う男の手が、さららの手をすべすべと撫でる。心なしか自分の手の甲がふっくらと滑らかになっていくのは気のせいだろうか。また、先ほどまでの理由のない憎悪は、どこかに息をひそめ、言いようのない快感が湧き上がる。
「愛の血じゃ、名付ければな。うまかろうて」
さららは恐る恐る後ろを振り返る。男はいとおしそうにさららの手を撫でている。害する気はなさそうだが、行為はおぞましいものがある。
「もとの姿に戻してやるけん」
「元の……?」
今までのとがった態度がゆるゆると溶けていく。男の魔法の言葉は、さららをゆっくりと包み込む。
わかるだろうか、今まで抱いていた意味も理由もない憎悪の原因を。自分自身を取り戻すことが可能なのか。
「桜様っ、違います」
なおもしつこく初の声が聞こえる。
「やかましいわいっ。小娘がっ」
びゅん、耳のすぐそばを力強い風が一瞬で通る。同時に初の小さな悲鳴が聞こえて気配が消えた。
「お前はいったい」
男の奇妙な力に恐れ、さららは途中で口をつぐむ。警戒心をあらわにする彼女とは対照に、男は歯が覗くほどの満面の笑みを浮かべた。
「なに、わしはあんたを愛しとる」